道徳的動物日記

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近況報告(ネットに文章を書くことについての雑感)

・単著の準備をすすめており、11月か12月には出版できそうだ。

 昨年の夏に現代ビジネスに初めて署名記事を発表した時点から「批評家」を肩書きにしており、すでに「自分は作家だ」という意識はあるんだけれど、単著があるとないとでは気の持ちようがだいぶ変わってくる。

 

・署名記事を発表して、著作も出版するとなると、文章を書くときの意識や目的も変わってくる。

 このブログは金儲けを目的としておらず*1、読んだ本を紹介したり海外の議論を紹介したり自分の意見を展開することを通じて読者に知識や洞察を提供して啓蒙することを第一の目的とはしているのだが、まあ好き勝手に書いたり雑感やイライラを吐き出したりするだけなこともある。

 署名記事や本となると、そういうわけにはいかない。そこには金銭が発生しているし、出版社のWEBサイトや書店の棚や流通などの公共的なものの力を借りることになる。そうなると、責任というものを意識せざるをえない。だから、「読者に価値を提供する」という目標も明確になる。

 

・ブログ記事なら、気に入らない本や言論を紹介した挙句に批判したり揚げ足を取ったりするだけで済ますことができる。それが無意味だというわけでもない(「間違っている」「有害である」と自分が本気で思っているなら、それが世の中に浸透することを防ぐために、反対の言論を発信することには意義があるだろう)。

 しかし、それだけでは読者に価値を提供しているとは言い難い。なにかを批判する際には、対案を提示したり生産的な方向に進むための道筋を提示したりすることをセットにしないと、価値のある文章にすることは困難だろう。

 

・とはいえ、わたしもあまり他人のことをとやかく言えるわけでもないんだけれど、学問や社会に関する難しい話題に関してブログやSNSに文章を書くタイプの人のなかには、他人に対する批判や揚げ足取りに終始している人が多い。

 そして、そういう人の多くは、自分以外の人たちも他人について批判や揚げ足取りに終始することを望むのである。

 

・たとえばわたしに対してもそのような期待(批判や揚げ足取りをしつづけること)を抱いている人がいるようであり、わたしがその期待を裏切ると、勝手に心外して文句を書き込んだりする。

 

・ネットには、「自分と他人は違った問題意識を抱いている」ということや「自分と他人には違った目標がある」ということを理解したり想像したりする能力に欠けている人がかなり多い。

 とくにわたしの場合は複数のテーマについて文章を書いているので、たとえば動物倫理の話題についてなにかを書けば「そんなことよりフェミニズムを批判してくれ」と言われたり、ポリティカル・コレクトネスについてなにかを書けば「そんなものより哲学についての文章を書いてほしい」と言われたりするのだ。希望されるだけなら別にいいんだけれど、わたしがその希望を満たさないと勝手に失望して、「変節した」「日和った」と決めつけて文句や悪口を書き込む、というのはさすがに勘弁してほしい。

 

・諸々のトピックについて、わたしは自分なりに共通するテーマを見出している場合もあるし、複数のテーマについて同時に考えて別々の場所でそれぞれに文章を書くこともある。いずれにせよそれはわたしのプロジェクトなのであり、「他人には他人のプロジェクトがある」ということくらい、まともな大人なら理解しておいてほしいものだ。

 

・この問題は、知名度の低い一般人的なアカウントに限らず、いわゆる「ネット論客」の人たちにも生じがちだ。

 アカデミックな世界に属さないアマチュアであるネット論客(や読書人)の問題点のひとつは、自分が抱いている問題意識や自分が重要だと思っているテーマや分析枠組みについて外部から意見を受けて相対化される機会がなく、自分のプロジェクトが絶対的なものだと思ってしまうことだ。そのため、自分の問題意識に反していたり自分とは異なる視点や方法から物事を分析している人に対して、過剰に批判的になったり攻撃的になったりしがちである。

 ……もちろんわたしも「ネット論客」のひとりなので、こうなるリスクは常にある。もって他山の石として気を付けていきたいものだなと思う(「もう手遅れだ」と言ってくる人もいるかもしれないけど)。

 

・上述したようなことがあり、そしてオリンピックの開会式を皮切りにしてますます激化しているキャンセル・カルチャーにもうんざりさせられて、わたしはTwitterというものにとことん嫌気が差してしまった。

 

・とはいえ、自分の書いた記事や著作を宣伝するためには、Twitterは不可欠に等しい(とくにわたしが書くような文章はTwitterのようなところでウケるやつだから)。それに、嫌気が差して辞めたくなっても辞められないのが、Twitterというものである。

 たとえば会社の出勤時や昼休みや退勤時、あるいは食事したりネットフリックスを見たりしている最中になにかふとつぶやきたくなったらそれを止めるには意志力が必要とされる。

 

・現時点では、作家としての宣伝や他の人が書いたものの紹介、自分の意見や価値観や人間性にはっきり関わっていて「これは今後も残しておきたいな」というツイートは作家としてのアカウントでつぶやいて、ふとした思いつきや冗談などはプライベートのアカウントで消して24時間以内に消す、という運用にしている。

 これはかなり不自然で二度手間な運用なんだけれど、Twitterというものがわたしたちの自然な心理機能や報酬回路をハックしてロクでもない方向に導くものだから、これくらい不自然にしてようやくまともに運営できるものだと思うようになってきた。

 

・ところで数カ月前から恋人ができていて、それはめでたいことなんだけれど*2、平日に会社に出勤して休日に恋人と会って合間に執筆作業もすすめるとなれば、読書をすることはなかなか困難だ。特にここ二カ月はほとんど読書ができておらず、なんとかしたいなと思いつつ、なんとかできずに日々を過ごしている。なんとかしたい。本が売れたらいいな。

 

*1:とはいえ、ほしいものリストからなにか買ってくれるのは大歓迎だ。

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*2:めでたいのでなにか買ってほしい。https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/2QDYPAMP3K2WJ?ref_=wl_share

「男性のセルフケア」論についての雑感

 

gendai.ismedia.jp

 

 なんとなく上記の記事を眺めていたら色々とひっかかるところがあり、以前からのわたしの問題意識や関心とも関連している内容でもあるので、思うところをメモしていく*1

 

現代社会における「男らしさ」は多様化していますが、それでも「男は仕事」という価値観はいまだ根強くあります。

私が最初にそれを実感したのは、就職活動で苦労していたときです。内定がないときは自分が一人前ではないように感じていました。何も悪いことをしていないのに、平日にぶらついていて他人の目が気になったこともあります。働き始めてからも、有給休暇を取るのは気まずいし、ちょっとした体調不良で休むのは気が引けるし、「売り上げを上げるのが格好いいのかな」と感じたこともあります。

これに適応しすぎると「休むのが下手で、遊び方を知らない」大人になるのでしょう。真面目な男性ほどセルフケアが下手なのは、一生懸命周囲に合わせようとするからだと思います。つまり、男らしさと資本主義は結びついているのですね。

 

 わたしは男性だけれど、有給休暇もガンガン取るし、ちょっとした体調不良ですぐに休んでいる。それができるのは、「どうせいつか専業の物書きだか翻訳家だかになってやるし」と願望しながら、会社員として出世することを最初から諦めているからだ。

 一方で、女性であっても、会社員としてキャリアを積んで出世することを志向している若い人たちはそう簡単には休まない。安易に休んだら自分の持ち分の仕事が滞るし、査定にも響く可能性があるためだ。わたしの知り合いにはバリキャリの女性もいたが、彼女は常に一生懸命周囲に合わせようとしていて、それゆえに自分の体調を考慮せずに無理をしてしまっていた。休日もよく仕事のことを考えていたし、遊びに専心することもできていなかったように思える。

 他方、パートや派遣社員として働いている既婚女性たちは、自分の体調不良にせよ家庭内の事情にせよ、さまざまな理由から気軽に休む。それは彼女たちにとってキャリアが最優先ではないからであるし(家庭のほうが優先順位が高いのだろう)、会社のほうもそのことを承知したうえで、そういうポジションとして彼女たちを採用しているからである。そして、数は少ないけれど、同様のポジションの男性もいる。

 

 また、わたしは男性であるが、内定がなかったときに平日にぶらついていても他人の目が気になることはなかった。

 そして、わたしの周りの幾人かの女性の話を聞くと、彼女たちは、就職活動で苦労して内定がとれなかった時期にはコンプレックスやプレッシャーに苛まれていたようである。

 これは当たり前のはなしだ。ふつう、現代の大学生にとって、内定がとれないまま大学を卒業してしまうのはヤバいことだからである。新卒採用を逃すとキャリアの選択肢はぐっと狭まるし、大学を出たのに正職にも就けないと親に対して申し訳が立たない。内定が取れないあいだは将来への不安は甚大なものとなるし、周りの学生たちが自分よりも先に就職していったら、コンプレックスも強くなる。

 それは、男子学生であろうが女子学生であろうが、まったく変わりない。例外は、就職しなくてもなにも問題にならないほど家が裕福な学生か、自暴自棄になって開き直っている学生だけであろう。

 さらにいうと、体調不良で休むことや有給休暇を取ることに対する申し訳なさにせよ、内定が取れなかった時期のプレッシャーとコンプレックスにせよ、わたしの周りでは男性よりも女性のほうが強かった。単に、わたしの周りの男性には不真面目な人が多くて、女性には真面目なひとのほうが多い、というだけであるかもしれないが(しかし、男性は女性よりも不真面目であり、女性は男性よりも真面目であるというのは、ごく一般的な傾向でもある)。

 

 要点は、「男らしさと資本主義は結びついている」かどうかはまったく定かではない、ということだ。

 キャリアを志向する人は自分の社会的な立ち位置や評価を気にするだろうし、出世のためにセルフケアを犠牲にする傾向があるだろう。そして、この社会に性役割分業の規範が根強いことは事実であるし、キャリアを志向する男性の割合はキャリアを志向する女性の割合よりも高いことは確実である。

 だが、キャリアを志向しない男性もいれば、キャリアを志向する女性もごまんといる。結局のところ、ここで言えるのは、「会社員らしさと資本主義は結びついている」ということでしかないはずだ(しかしこれはほとんど自明なことだ)。

 

管見の限り、男性のセルフケアで多いのは「サウナ・筋トレ・禁酒」。一言で言うと「痛気持ちいい」ものが好き。鈍くてかたい、男性的身体をぶっ壊すもの。サウナはやっぱり交互浴。筋トレなんて文字通り筋肉破壊です。禁酒・禁煙もまたある種の修行めいています。

まず第一に、スキンケアは気持ちいい。化粧水を肌に含ませると、自分の肌がいかに乾燥していたかを実感します。

第二に、これまで美容なんてしたことがなかったので、効果が出るのが早い。私の場合、肌荒れが激減しました。。第三に、普段から美容をしている人たちが色んなことを教えてくれるので、コミュニケーションが豊かになる。妻はもちろん、同僚と化粧品の話題で盛り上がることさえあり、「おすすめアイテム」の情報がどんどん入ってきます。

 

 わたしはエクササイズと筋トレの中間にある運動を頻繁に行っている。ステッパーを踏みながら4kgの軽いダンベルを両手に持って腕を上下させるという運動だ。それなりに汗はかくし、腿や腕に多少の筋肉はつくが、シックスパックになったりすることはまずない。プロテインも摂取していないし。

 化粧水は数ヶ月前に恋人に勧められて使うようになった。たしかに、肌に水分を含ませることは気持ちいい。また、わたしの友人も同じように恋人ができてからその勧めで化粧水を使用するようになったので、たしかに男性というジェンダーにとって化粧水(や乳液)を使用したスキンケアは「盲点」ではあるとはいえるだろう。

 とはいえ、「サウナ・筋トレ・禁酒」によるセルフケアを「非」として化粧水などによるセルフケアを「是」とするのは、かなりご都合主義的でミスリーディングだ。サウナに関してはわたしは苦手なのでやっていないが、先述したように筋トレに類するエクササイズはしているし、禁酒も定期的に実行している。そして、これらを実行する際に、「痛気持ちいい」と思ったり「男性的身体をぶっ壊す」という感覚を得ることは、まったくない。

 エクササイズをして汗をかいたり痩せたりすれば顔のむくみが取れるし、禁酒を続けて睡眠時間を改善すれば肌の調子は劇的によくなる。化粧水という短期的な対処療法よりも、その効果は強い。筋トレをして酒も飲まずにぐっすり長時間睡眠をとった日の朝は、化粧水なんかメじゃないくらいにお肌がピチピチになる。

 つまり、目的が一緒で、手段が異なるというだけなのだ。とはいえ、「どんな手段を選択するか」ということについては興味関心や知識と情報量の問題もあるし、時間と費用などのコストとそれに対するパフォーマンスの評価に関する個人差の問題もあるだろう。そして、知識や情報量にはジェンダー差があることは、たしかに認めざるをえない。

 ただし、、ひとりの貧乏人として言わせてもらうと、別の箇所で「資本主義」を批判する風の文言を入れておきながら、化粧水や乳液などはコストのかかる「商品」であることが無視されているのは不誠実である。「おすすめアイテム」の情報を交換することも、様々な商品を購入して試すということが前提されているだろう。それってめちゃくちゃ資本主義的な営みじゃない?単なるスキンケアを超えた「メイク」となれば、その資本主義性はなおさら増すことだろう。なにしろ化粧品ってお金がかかるものだから*2

 

もちろん、男社会の構造そのものは、まだまだ強いです。個人レベルで「男は仕事」という価値観に抵抗しようとしても限界があります。始まりは「デキるビジネスマンのバレない時短メイク」でもいいと思うのです。いまだ強力な男社会の建前に「こう言えば通るかな」という方便も駆使しつつ、ちゃっかり自分の世話もする。その積み重ねの先に、セルフケア上手な男が増えていけば、男性だけではなく、あらゆる人にとってもう少し生きるのが楽な世の中になるのではないでしょうか

 

 さて、セルフケアをするなら、もちろんタバコは絶対に吸わないほうがいいだろう。タバコはお肌の天敵であり、健康にもまったくよくない。同様に、できるだけダイエットを継続して、肥満は避けるべきだ。肥満の健康リスクは甚大なものであるし、もちろん見た目も悪くなる(美容を語るならルッキズムを避けることは欺瞞というものだ)。

 でも、こうなると、「喫煙者とデブは自己管理能力がないとされて、アメリカでは出世できない」というクリシェに一直線である。よく考えてみると、自己管理とセルフケアの区別を付けることは困難だ。しかし、自己管理と表現したとたんに、「あらゆる人にとってもう少し生きるのが楽な世の中」とは真逆のイメージになる。フーコーとかなんとかの現代思想家を持ち出さなくても、自己管理と現代資本主義が切っても離せないものであることは、いまでは常識になっている。

 実のところ、会社や上司のほうだって、求めているのは「有給を取ったり体調不良で休んだりしない男性社員」ではなく「適度な頻度とタイミングで有給を取ってくれて、壊れたり倒れたりすることのないように自己管理できる、男性社員か女性社員」であるはずだ。どれくらいの頻度で休まれるのが望ましいかは業種や職種によって異なってくるだろう(営業なら頑丈なほうがいいし、WEB部門なら定期的に休む代わりに出社時にパフォーマンスを発揮することのほうが重要である、などなど)。資本主義の上澄みにいる「デキるビジネスマン」であればあるほど、男性であっても女性であっても、セルフケアという名の自己管理能力に長けているはずである。

 べつにそれは悪いことでもなんでもない。わたしは貧乏人だけれど資本主義が悪いものだと思っていない。しかし、たとえば資本主義と性別役割分業とか家父長制社会とかを結び付けてまとめて打倒したいタイプの論者にとっては、不都合な事態となるかもしれない*3

 

 ……というわけで、これはこの記事に限らないジェンダー論全般に対する一般的な批判だけれど、「男らしさ」やジェンダー規範を持ち出す前にいろいろと考えることはあるはずだ。

 たとえば、すべてではなくともかなり多くの事象が、「個人と組織にとってのそれぞれの合理性」という観点から分析して論じることができるのである(これこそが、「経済学的思考」の基本だ)。

 

 

 

*1:とはいえ、今回のブログの意図は、該当の記事を叩いたり批判したりすることではない。わたしも同じ媒体に寄稿した経験があるからわかるのだが、基本的にネット雑誌媒体というものは字数制限が厳しく、言いたいことを正確に伝えたり、複雑な議論を展開したりするのが難しいものだ。だから、あまりに厳密な内容を求めることは「ないものねだり」であるし、それを理解しておきながら強く批判するのはフェアではない。

*2:その点、ダンベルはいちど買えば半永久的に使えるし、ステッパーだって安物であっても一年から数年は持ってくれる。また、禁酒をして、酒の代わりにハーブティーを飲むことは、リラックス効果のみならず出費の節約という観点でも優れている。

*3:この記事の著者がそういうタイプの論者である、とはは思わない。

ネットリンチと「非難」の問題

 

 

 

『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』から引用する*1

 

最初に何人かが「ジャスティン・サッコは悪人だ」と意見を述べた。その何人かに対して即座に称賛の声があがった。かのローザ・パークス(訳註:バスに白人席と黒人席があった時代に、運転手に注意されても白人に席を譲らなかった黒人女性)のように、差別に敢然と立ち向かった人として扱われたのだ。すぐに「称賛」というフィードバックがあったことで、称賛された側はそのままの行動を継続する決断を下した。

(p.480)

 

「称賛」というキーワードは、ネットリンチやキャンセル・カルチャーが起こる理由を理解するうえで重要なポイントになるように思える。

 

 インターネットの世界では忘れがちだが、わたしたちが生きる日常の世界では、「非難」とは必ずしも褒められる行為ではない。

 どんな集団であっても、手や足を動かして何かをしている人や、グループやチームのリーダとなってみんなをまとめる人のほうが、他人を非難ばかりしている人よりも価値があるとされる。非難という行為は何かを生み出せることもできなければ、物事を前に進められることもないからだ。

 ここにおいては、非難者のクレームの内容が正確であったり、非難される人が実際に非難に値する行為や言動をしたかどうかということは別問題だ。日常世界の道徳とは法律ではない。原因や理由があったとしても、ただちに告発や制裁が行われるようには運営されていないのである。

 ひとつの理由は、些細なことによる非難がいちいち認められて制裁がくだされていたら、生産性や効率性といったものが全く失われてしまうからである。

 もうひとつの理由は、「万人の万人による闘争」という状況を防ぐために、「お互いさま」という観点が必要とされることだ。人間とは実に独善的な存在だ。「他人の目のなかのおが屑は見えても、自分の目のなかの丸太は見えない」という状態こそが、道徳心理のデフォルトである。大概の場合、非難をする人は、相手の罪や問題を実際よりも過大に評価している。そして、自分の側にもなにかしらの欠点や落ち度があったり、別の場面や将来の場面では自分も非難されるような行為や言動をしている可能性について、考えをめぐらせない。したがって、非難する人の告発をそのまま認めずに、なあなあに済ませたり「手打ち」が行なわれたりされることは、非難する人のためでもあるのだ。

 また、非難によって相手に制裁を与えようとすることは、手段は間接的であれど「加害行為」であることには違いない。だから、非難行為に暗黙のリスクが課されているのは、正しいことだ。たとえば、日常世界では、非難の内容が間違っていたり勘違いであったり過剰であったりした場合には、非難された側ではなく非難した側が評判を下げて白い目で見られることになるだろう。その事態を避けるために、非難をしようとしている人は、非難の内容が正当であるかどうかについて冷静に考えることになる。考えた結果「やっぱり自分にも落ち度があるかもしれない」「これくらいのことで非難するのは時間や労力の無駄だ」と判断して非難を取り下げるのならそれでもよいし、覚悟を決めて非難を実行するならそれでもよい。

 覚悟を決めたうえで、その非難の内容が客観的にみても正当であった場合には、それは称賛に値する行為と認められるかもしれない。

 

 しかし、言うまでもなく、SNSでだれかを非難するときには「覚悟」は必要とされない。そもそも、SNSにおける非難は身内に対してではなく縁もゆかりもない人に対しておこなわれることが大半だ。そして、その非難の様子を眺めているオーディエンスたちのほうも、非難している人とも非難されている人とも関係のない部外者である。

 このような状況では、日常世界の道徳におけるバランス機能は消失してしまうようだ。

 おそらく、大概の場合において、オーディエンスの大半は非難者に対して「文句ばっかりつければいいってもんじゃねえだろ」「そう言うお前のほうは他人を非難できるほど立派な人間なのかよ」などなどとネガティブな心証を抱いている。しかし、そのネガティブな心証をわざわざ表明して本人に伝える人はごくわずかだ。ふつうの人々は、自分と関係ない人たち同士の揉め事についていちいち口を出したりコメントをしたりしないものなのである。

 だけれど、ふつうでない人々が、口を出したりコメントをしたりする。したがって、SNSで非難をした人は、自分と同じ属性やイデオロギーを持つ人の非難行為や"弱者"による非難行為を目にしたらほぼ自動的に賛同するタイプの人々による「称賛」を受けとれることになるのだ。

「称賛」という報酬に酔ってしまったせいか、だれかを非難することでしか自分の価値や徳を示せなくなっていて、非難を通じてしか社会にコミットメントできなくなっている人は、SNSの至るところにあらわれている。

 でも、だれかの発言や行動をあげつらって批判する文章を140字以内で書き込むことは、どう考えても、ローザ・パークスの行動とはまったく別物だ。そこにはリスクがなく、覚悟も必要とされない。信念だってほとんど存在しないだろう。

 

 まとめてしまうと、インターネットやSNSでは、「非難」という行為に対するコストが少な過ぎて、報酬が多過ぎる。これが、ネットリンチやキャンセル・カルチャーがいつまで経ってもなくならず、今後も増加し続ける理由だ。

「キャンセル・カルチャーには弊害があるかもしれないが、これまではいじめやセクハラの被害者は黙って耐え忍んでいて加害者がのうのうと生きていた状況が不正なのであり、キャンセル・カルチャーによってその状況が是正されるのならそれはよいことだ」と言った種類の擁護意見はよく目にする。わたしもちょっと前までは「たしかにそういう面もあるな」と思っていたが、いまではほとんど賛同できなくなっている。

 まず、キャンセル・カルチャーやネットリンチが発生した時点で、対立の構図は「被害者:加害者」から「集団:個人」に移行する点は看過されるべきではない。そこで弱者となるのは、いじめをしていたりセクハラをしていたりした人である。さらに、社会的制裁とは法廷でないから弁護士がつかないし、そもそも裁判官も存在しない。いるのは検察官だけだ。先述したように、日常道徳というバランサーや調節弁も失われている。…この状況の不正さはちょっと異常なものだ。

 そして、「非難」に覚悟が必要とされなくなって、だれもがお手軽に他人を非難できて、他人を非難したらチヤホヤされて気分が良くなれるような世の中は、あまりにみっともなさすぎる。結局のところ、非難はおこなわないほうがよい行為であり、どうしてもという場合に仕方なくしかおこなうべきでない、というくらいに位置付けられているがちょうどいいのだ。わたしたちが自分の徳を示して人から認められようと思うなら、他人を非難するのではなく、自分で価値を創造したり、他人を支援したりするべきなのである。

 

 余談だけど、先の引用部分の引き続き。

 

ジャスティン・サッコの「事件」が起きてからすぐ後、私は友人のジャーナリストと話をした。その人は、ジョーク好きで、際どい、少しわいせつなことをよく言う人だ、その考え方は「穏当」という言葉からはほど遠い。彼は「もうインターネットに何かを書くことはしない」と言っていた。

SNSって何だか、とても用心して歩かなくちゃいけない場所になっちょね。いつ、何の理由で怒り出すかわからない。心の平衡を失った親にいつも見張られているみたいで、とにかく、何が原因で攻撃されるかわからないから、怖いよ」彼はそう言う。

名前を出さないでほしいと言われたので、ここに彼の名前は書かない。名前が出て、また何か騒ぎの原因になるのが嫌だという。

彼も私も協調性がない方の人間である。そう認めざるを得ない。だが今は、協調性があり、体制に順応する人にばかり居心地の良い、極端に保守的な世界ができつつあるように思う。「私は普通ですよ」「これが普通なんですよ」と皆が終始言っている。

普通とそうでないものの間に境界線を引き、普通の外にいる人たちを除外して、世界を分断するーーそんな時代になりつつあるのではないだろうか。

(p.481 - 482)

 

 ここで提示されている問題は、ジェフリー・ミラーによる「ニューロダイバーシティ」論とも関係しているだろう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

文芸時評って意味あるの?

 

 わざわざブログ記事にするほどの内容でもないんだけれど、しばらくTwitterに書き込むことはお休みすることにしたので、こっちに書く。

 

togetter.com

 

 この件が話題なので、朝日新聞にログインして、問題の文芸時評を読んでみた。

 

www.asahi.com

 

 読んでみて思ったのだが、こんな文章から読者が何かしらの知見なり洞察なりが得られるとはとうてい思えない。


 たまたま今月に発売されることになった小川公代の『ケアの倫理とエンパワメント』にかこつけて、たまたま今月に雑誌とかに掲載された作品群のなかから「ケア」について関りがあったりなかったりする作品を連想ゲーム的にいくつか取り上げて紹介しているだけ。それも数本の作品を取り上げているうえに枕や結びの文章も含まれているので、「ケアの倫理」やその背景にあるフェミニズム的発想にかこつけながら1800字強という字数のなかで個々の作品についてあらすじも紹介しつつ批評を行う、というのはどう考えても無理がある。

 今回に限ったことではなく、同じ評者の過去の文芸時評も、「有害な男らしさ」論とかサンデルのメリトクラシー論とかのフェミニズムに関連があったりリベラルっぽかったりする流行りのキーワードにかこつけつつ複数の作品について浅く紹介する、というのが基本になっているようだ。

 

book.asahi.com

 

 こんなもので、作品についての新しい見方を提示したり価値づけをおこなったりする"批評"が成立しているとはとてもいえない。

 

theeigadiary.hatenablog.com

 

 

 とはいえ、この問題は評者が批評家としてとりわけ浅薄であったり無能であったりするということではなく、文芸時評というフォーマットのほうに起因しているように思える。


 ほかの新聞社の文芸時評もついでに確認したところ、いずれも、1000字~2000字の字数のなかで、流行りのキーワードなり昨今の社会情勢と絡ませながら、(多くの場合に)複数の作品について評する、という形式になっているようだ。……こんなの、どう考えても無理がある。作品について"批評"するどころか、"紹介"することだって満足にできやしない。こんな条件のなかで無理に"批評"っぽいことをしようとしたら、作品に対する客観的でフェアな姿勢が失われて、冒頭のTogetterのような問題が起こることもむべなるかなという感じだ。かといって"紹介"に徹するとしても、この字数だと読者に「面白そうだ、読んでみよう」と思わせることすら難しいだろう。

 

 Twitterでは作家側に対する同情の声が多く、評者に対しては批判的な声が多い。しかし、文芸界に関わっているらしい「業界人」の人たちのなかには評者を擁護している声のほうが目立つ。
 ……だが、わたしには、そもそも「文芸時評」というフォーマット自体が、擁護に値しないように思える。「業界人」たちの思惑をなんとなく察すると、「そもそも文学が目立たなくなったり売れなくなったりする昨今では、たとえ字数が足りないとしても全国紙に文芸時評の欄が存在するだけで御の字だ」ということかもしれない。しかし、こんなクオリティの文章が全国紙に掲載されることで、読者たちに「批評ってこんな程度のものなんだな」とか「文学とかフィクションとかについて語るときってこういう風にしとけばいいんだな」と思わせるようになるという点では、無意味であるどころか有害ですらあるはずだ。

 

 

「進化政治学」はそんなにおかしいのか?

www.asahi.com

 

note.com

 

 広島大学伊藤隆太氏の発言が差別的であるとして問題視されており、それにあわせて、彼の研究分野である「進化政治学」も批判の対象となっている。

 わたしの目から見ても伊藤氏の発言のうちのいくつかは差別的であり、解雇まで求めることが妥当であるかどうかはともかくとして、批判は免れないものだと思う*1

 しかし、Twitterなどでは、伊藤氏の差別発言が問題であるからと言って、彼の研究している学問分野までもが安直にレッテルを貼られて否定される、という風潮が散見される。それも、ほかの分野の学者たちがレッテル貼りや否定の先鋒に立っているようで、かなり嘆かわしい事態だ。

 

 たとえば、シノドスに掲載されたオピニオン記事と、それに対する反応のひとつが、下記のようなものである。

 

synodos.jp

 

 

 

  わたしの目から見ても、Twitter上での伊藤氏の発言はたしかに「俗流進化論」っぽいものではある*2。しかし、上述のオピニオン記事を読む限り、「進化政治学」の考え方自体はさほどおかしなものではないように思える。

 

進化政治学には三つの前提がある。第一に、人間の遺伝子は突然変異を通じた進化の所産であり、政策決定者の意思決定に影響を与えている。第二に、生存と繁殖が人間の究極的目的であり、これらの目的にかかわる問題を解決するために、自然淘汰(natural selection)と性淘汰(sexual selection)を通じて脳が進化した。第三に、現代の人間の遺伝子は最後の氷河期を経験した遺伝子から事実上変わらないため、今日の政治現象は進化的適応環境(environment of evolutionary adaptedness)――人間の心理メカニズムが形成された時代・場所、実質的には狩猟採集時代を意味する――の行動様式から説明される必要がある。

 

 要するに、人間の意思決定や心理や行動の特徴や傾向や認知バイアスなどなどには、狩猟採集民時代の環境に適応するための性淘汰や自然淘汰に適応するための進化的な経緯が、現代になっても影響している。そして、「人間の意思決定や行動や認知とはどのようなものであるか」とうことは、政治にも関連している。だから、政治について進化の観点から説明をしたり、進化的に備わった人間の諸々の特徴や傾向を前提として政策を考案することには意義がある、……という主張である。

 オピニオン記事のなかでは、スティーブン・ピンカーの「暴力の衰退」説が参照されており、「戦争とは人間の本性(human nature)に根差したものである」というトマス・ホッブズ的な人間観・戦争観が支持されている。この人間観については進化心理学者や文化人類学者の間でも異論があることは留意されるべきだろう……とはいえ、有力な見解であることも間違いないとは思うが*3

 重要なのは、このオピニオン記事のなかでは「自然主義的誤謬」は犯されていないということだ。つまり、「人間の本性はこうであるから、その本性に基づいて、このような政策を実現するべきだ」とは論じられていない。むしろ、人間の本性を抑制するために「教育や国際制度といった環境の整備が不可欠」であることや「負の因果効果を環境的要因で相殺する必要がある」ことが主張されている。ここでは、「人間の本性」には規範的な意味は与えられていない。あくまで、より望ましい政策を考慮するための「変数」のひとつとして扱われているだけだ。

 そして、人間の意思決定や心理や行動の特徴や傾向や認知バイアスなどなどを具体的な政策提言に結びつける議論は、進化政治学に限らない。たとえば行動経済学の本でも、「なぜ人間は損得や利益について合理的な判断ができないのか?」ということをそもそもから説明する場合には進化論が持ち出されることが多い。そして、人間の認知バイアスなどを分析したうえで、それに対処する方法としての「ナッジ」が提案されて、個人や家庭内での習慣や企業でのキャンペーンのみならず公的なもののデザイン設計などの政策レベルでも「ナッジ」を導入することが提案されるのだ。

 では、行動経済学は、社会ダーウィニズムや、あるいは優生思想につながるのか?わたしはつながらないと思う。同様に、進化政治学も、社会ダーウィニズムや優生思想にはつながらないだろう。最適者生存の理論が"規範的に"正しいとする自然主義的誤謬もなければ、「特定の人種や特定の遺伝的特徴を持った人は、そうでない人よりも望ましい」という主張も含まれていないからだ。人間一般に自然的に備わっている傾向に関する議論と、人種や遺伝的特徴の優劣に関する議論には、かなりの乖離がある。

 

 今回の件では、進化政治学のみならず進化心理学一般に対しても、「社会ダーウィニズム」や「優生思想」などのレッテルを貼っている人たちが散見される。学者も含めて、こういう人たちのほとんどは、おそらくなにも考えていない。ただ、進化論っぽいことを批判する際には社会ダーウィニズムや優生思想を持ち出すのが「定番」になっているから、今回もいつも通り社会ダーウィニズムや優生思想を持ち出しているだけなのだ。

 

 また、この種の議論で毎回出てくるのは、「でも、進化論は実際に悪用されてきた歴史があるのだから、進化論に基づいた主張をする人は(ほかの理論に基づいた主張をする人に比べて)悪用されたり誤解されたりしないように、とりわけ気を付けるべきだ」という主張だ。この主張には一理あるかもしれないが、とはいえ、どんな主張も誤解されて悪用される危険性をはらむところ進化論だけがことさらに槍玉にあげられるのはおかしい、とは言いたくなる。

 また、わたし自身がこれまでブログや他のところで書いてきた記事でも、自然主義的誤謬に関する注意や「統計的な平均値の話である」という但し書きをこまめに入れてきたが、それを丸々無視されて、優生思想だとか生物学的決定論だとかなんとか批判されてきた経緯がある。実際のところ、そのような批判をしている人にとっては、「進化論の悪用」に対する危惧は方便に過ぎず、とにかく進化論や生物学に基づいた議論そのものを否定することが目的であるのだろう。だから、「進化論の悪用」を問題視している人の批判を毎回受け入れていると、ゴールポストがどんどん移動させられて最終的に何も言えなくなる可能性が高いのだ。

 

 

*1:署名キャンペーンの記事のなかで引用されているものについては、たとえば「道徳的に劣っている中国人をまともに相手にする必要はない」という文章は、差別的であると判断して差支えがないように思える。apjという方がnote記事でこの発言を擁護しているが、この擁護にはやや無理があって苦しい。

note.com

一方で、書名キャンペーンで「セクシズム」だと批判されているフェミニズム批判発言は、apj氏が書かれている通り「フェミニズムに対する単なる異論あるいは反論に過ぎない」。他の多くの発言も、不用意で雑であるとは思うが、差別であるとは断定できない、あるいは、きわめて狭い範囲での社会学や社会運動界隈での用法でしか「差別」と判断されない発言であるだろう。

*2:「社会ダーウィニズム」とまで言えるかどうかは微妙なところだ。

*3:

econ101.jp

davitrice.hatenadiary.jp

資本主義から逃れることはできるか?(できません) - 読書メモ:『資本主義だけ残った』

 

 

『資本主義だけ残った』では、アメリカを代表とする「リベラル能力資本主義」と中国を代表とする「政治資本主義」、現代の社会に存在するふたつの形の資本主義を比較しながら、それぞれの成り立ちや特徴や未来予想図が論じられたりする。

 

 先日に紹介した『自由の命運』や、あるいはフランシス・フクヤマの一連の著作など、英語圏で出版される経済史や文明論では「リベラルで民主主義的な社会は、抑圧的な社会や権威主義的な社会より正しくて望ましい」という規範論が前提とされてしまいがちだ*1。そのために中国のような非民主主義的な国家の経済成長やその他の方面での躍進が予測できなかったり、「一過性のものであって、リベラルな民主主義に移行しない限りは崩壊するに決まっている」と願望込みの予測が述べられたりするようになってしまう。

 この『資本主義だけ残った』の最大の特徴は、中国の資本主義をアメリカの資本主義に並び立つものとして論じて、どちらが善くてどちらが悪いかという規範的判断を行わずに、リベラルでも民主主義でもない中国がそれでも資本主義を成り立たせていて経済成長もしていて「うまくいっている」様子を描いて、その理由を分析したところにあるだろう。

 

政治的目的による資本主義についてのマックス・ヴェーバーの定義は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、「経済的利益を得るために政治的な力を使用すること」である。

(……中略……)

今日、政治的資本主義を実践する諸国家、とくに中国、ヴェトナム、マレーシア、シンガポールは、きわめて効率的でテクノクラート的なやり手の官僚にこのシステムを任せることで、このモデルを修正してきた。これはこのシステムの第一に重要な特徴である。すなわち官僚(明らかにこのシステムの主たる受任者)が、高い経済成長を実現し、この目標を達成できるような政策を実行することを主たる義務とすることだ。そしてその支配を納得させるには成長が求められる。官僚が成功するにはテクノクラートであることと、その構成員が成果主義をもとに選ばれることが必要だが、理由は何より法の支配が欠如しているからだ。法の縛りのないことが、このシステムの第二の重要な特徴である。

(p.107)

 

 たとえばフランシス・フクヤマの『政治の起源』や『政治の衰退』では、どんな社会であっても政治が有効に機能するためには「国家」と「法の支配」と「政府の説明責任」のいずれもが成立していて均衡を保っていることが重要である、と論じられていた。そうでない社会は人々にとって魅力がなく、他の社会に対するロールモデルともならない。リベラルな民主主義は自由や尊厳に対して人々が根源的に抱くニーズを充たすから、非民主主義的な社会に暮らす人々も民主主義に憧れて渇望するようになる、というのがフクヤマの主張である。

 ……しかし、『資本主義だけ残った』によると、「法の支配」はさして重要ではない。政治的資本主義では、テクノクラートなエリートたちには、政治的な目的や私利私欲のために、ときに法を破ったり法を付け加えたりする自由裁量が認められているのだ。当然のごとく汚職や癒着をはじめとする「腐敗」が起こることになり、ときとして役人たちを一斉に調査して摘発する腐敗撲滅運動が行われることもあるが、それはあくまで一時的な対処療法であり、根本的にシステムを変えて腐敗を根絶することは目指されない。

 むしろ、中国と同様の状態であったロシアや中央アジアは「法の支配」を導入する試みをおこなったことは、それらの国々にさらに深刻な腐敗をも当たらしたり国内の分裂や内戦をもたらした、と著者は指摘する。中国のほかにも「法の支配」が成り立っておらず腐敗が横行している国は多々あるが、それはそれで効率性や柔軟性があって経済的なメリットがある。「法の支配」は必ずしもすべての社会でプラスに機能するわけではない、と著者は主張するのだ。

 とはいえ、法を尊重しない官僚や権力者の横暴が蔓延していて、自分の権利や財産がいつ脅かされるかわからず、当然のごとく民主主義が存在しない社会に、人々が「住みたい」と思えるかどうか、という問題はあるだろう。これについての著者の答えは、「政治的資本主義がうまくいっており、経済成長という"果実"を人々に与える限りは、人々は抑圧や自由のなさもある程度は許容する」といったものだ。

 ちょっと長くなるけど、リベラル資本主義と政治的資本主義についてのイデオロギー的な対立に関する議論のコアとなる部分を引用しよう。

 

……まずリベラル資本主義の利点は、民主主義というその政治システムにある。多くの人(ただし、すべてではないが)が民主主義を「基本善」とみなしているーーそれ自体が好ましいことだから、経済成長や平均余命といったそれがもたらす影響によってあえて正当化するまでもない、と。これはたしかにひとつの利点だ。だがほかにも民主主義には役に立つ強みがある。民主主義ではつねに国民に相談する必要があるので、大衆の福祉に害を及ぼしかねない経済や社会の傾向に対し、強力な是正措置を提供できる。ときに人びとの決断が、経済成長立を下げ、公害を悪化させ、あるいは平均余命を縮める政策をもたらす場合でも、民主主義的な意思決定がさほど時間をかけずにそれらを逆転させるはずだ。有害な発展の抑止に民主主義が役に立たないと考えるなら、過半数の国民が長期にわたってつねに間違った(あるいは不条理な)決断を下していると言わざるをえない。だがそれは見たところ、ありそうにないことだ。

 

リベラル資本主義のこうした利点に対し、かたや政治的資本主義は、それよりはるかに有効な経済の管理と高い成長率を約束する。これは瑣末な利点ではないし、高い所得や富が最終目標として掲げられる場合はなおさらだ。この価値基準は、まさにグローバル資本主義の発想の根底にあるものだし、そればかりか経済のグローバリゼーションに参加するほぼ全員(実際には地球全体を意味する)の行動にも日々あらわれている。ロールズは、基本財(基本的自由ならびに所得)は辞書的順序を持つと主張した。すなわち、人びとは富や所得よりも基本的自由を絶対的に優先し、したがってその交換は受け入れない。とはいえ日頃の様子を見れば、多くの人が民主主義的な意思決定の一部を所得の伸びと進んで交換したがっているかのようだ。

(……中略……)

所得が上がるのなら、他の民主主義的な権利は放棄できる(そしてそうしてきた)。こうしたことを根拠に、政治的資本主義はその優越性を主張する。

だが問題は、その優越性を証明し、リベラルの挑戦をかわすために(すなわちリベラル資本主義に優先して人びとに選ばれるには)、政治的資本主義はたえず高い成長率を記録しつづけなければならないことだ。よってリベラル資本主義の利点は、それが「自然」なもの、言葉を換えればシステムに組み込まれているものだが、政治的資本主義の利点は、それが役に立つものであることで、たえずその利点を見せつづけることが必要になる。だから政治的資本主義には最初からハンディキャップがある。その優越性を実感させ、証明してみせる必要があるからだ。加えて政治的資本主義には問題がさらに二つある。1 民主主義的な抑制がきかないことから、いったん間違った方向を選んだら進路の切り替えが困難なこと。そして2 法の支配が欠如していることから、腐敗に向かう特有の傾向があること。……

(p.247 - 248)

 

 上記の主張だけを参照したら、リベラル資本主義は政治的資本主義の「自滅」を待っていれば自ずと勝利する、と考えてしまうこともできるかもしれない。たしかに政治的資本主義には経済成長という利点があるかもしれないが、欠点も多数抱えており、経済成長が鈍化してしまった時点で人々は腐敗や抑圧や自由のなさに耐えられなくなって、民主主義とそれに伴うリベラル資本主義を求めるようになるはずだ……と予測することはできる。実際のところ、フクヤマや、『自由の命運』の著者であるアセモグルとロビンソンのおこなっている主張もこんな感じだ。わたし自身も、「"法の支配"は必ずしも不可欠というわけではないんだよ、"法の支配"がなくて腐敗していてもうまくやっている国はあるんだよ」という著者の主張にはイマイチ信用できないところがある。なんか場当たり的というか、現状を後付けで肯定している雰囲気がある。

 ……とはいえ、それはそれとして、現状のリベラル資本主義は政治的資本主義と比べて相対的に経済成長立が鈍いこと以外にも、深刻な欠点を抱えている。リベラル資本主義は自由で流動性が高いことがウリなはずなのに、実際には不平等を拡大して、格差を固定化させているのだ。

 

 リベラル資本主義が不平等を拡大している要因は様々である。国民所得における労働所得の割合が下がって資本所得の割合が上がったうえに資本が一部の金持ちに集約していること、その一方で現在の富裕層は過去とはちがい資本所得だけでなく労働所得も大量に得ていること(現在の金持ちは有閑階級ではなくバリバリ働くエリートであるということだ)から、所得に対する税金を適切な割合で課することも難しくなっている。

 また、女性が高学歴したことにより、学歴や所得の水準が似通った男女が結婚する「同類婚」が増加していることも、不平等の拡大の一因だ。夫婦ともにハイソな家庭に生まれた子どもは資産も文化資本も受け継げる一方で、夫婦ともにそうじゃない家庭の子供はどっちももらえない。さらに、先進国における相続税は、限界税率が下がったり控除の範囲が拡がっていることで弱体化しているのだ。

 より深刻なのは、リベラル能力資本主義社会では政党や選挙活動への資金提供が許されているために、政治に対して金持ちたちが発揮できる影響力が増しているということだ。これにより、上位層は自分たちにとって有利な経済政策が実施できるようにコントロールできて、自分たちの立場を永続的なものとできる。

 また、大学などにかかる教育費を吊り上げて、よい教育は金持ちしか受けられないようにすることで、知的シグナリングや教育プレミアムを独占できる。それでも、貴族性の社会と違い、ごく一部のきわめて有能な人々は下位層から成り上がって上位層の一員となることはできる。しかしそれも全体から見ればごく僅かな事例であるし、優秀な人間が上位層の一員として取り込まれたうえで「機会の平等は誰にでも与えられている」といったイデオロギーを補強することにもなって、むしろ上位層の地位をさらに盤石なものとするのだ。

 要するに、リベラル資本主義でも、政治の正当性は損なわれる。政治的資本主義ではその犯人が官僚であったのが、リベラル資本主義では金持ちが犯人となる、ということだ。その結果として、リベラル資本主義のウリであったはずの「民主主義」や「社会の流動性」といった要素も失われしまうのである。

 

 

あるいはリベラル資本主義と政治的資本主義がひとつに収束するのだろうか。

(……中略……)

……リベラル資本主義のもとで経済的な力と政治的な力が結びつけば、リベラル資本主義がますます金権主義的なものになり、政治的資本主義に似通ったものになってくる。後者の資本主義においては、政治的な支配こそが経済的な利益を獲得する道である。もともとはリベラルなものだった金権的な資本主義では、経済力は政治を牛耳るために使われる。この二つのシステムの終着点は同じものになる。エリート層がひとつに結束し、居座りつづけるのだ。

(p.258 - 259) 

 

 なんだか黙示録的な結論であるが、著者は、資本所得の集中を少なくして所得の不平等をより減少させて世代間の所得の移動性をより高くした「民衆資本主義」に移行することもできるかもしれない、という可能性についても論じている。そして、民衆資本主義に移行するためには、以下の四種類の政策を実行する必要がある、と主張するのだ。

 

1・中間層への税制上の優遇措置と富裕層への増税相続税率の引き上げ

2・公教育への予算の増加と、公教育の質の改善(金持ちの子供が教育面で有利になるのを防ぐ)

3・「軽い市民権」の制度を導入したうえで移民を増やす(著者は、移民は基本的に経済にメリットをもたらす存在であると論じている。ただし、本国人と同じだけの市民権を移民に認めると移民反対運動が起きて移民が入れられくなるから「軽い市民権」を与えるに留めるべきだ、と論じている)

4・政治運動への資金提供の制限

 

 ……上記の提言は、「3」を除けば、どこかで聞いたことがあるというか左派やリベラルの人が散々言っているものであり、目新しくはない。そして、これらの政策を実行したくても政治の金権主義化のために困難になっている、というのがそもそもの問題であるのだろう。

 

 リベラル資本主義に関する著者の分析を読んでいてわたしの頭に浮かんだ疑問は、「それって"リベラル資本主義"そのものではなくアメリカという国に特有の問題じゃないの?」ということ。アメリカで公教育の質が悪かったり金持ちから税金を取れなかったりすることは、政治の金権主義化だけでなく、そもそもどんな階層であってもアメリカ人たちがアメリカン・ドリームだかなんだかを盲信して税金や再分配や福祉などを嫌っていることが一因であるだろう。

 逆に言うと、アメリカ以外の先進国なら、「民衆資本主義」も実現しやすいんじゃないかという気がする。よく知らないけれど、カナダとか、北欧のどこかとか。というか、すでに存在している福祉国家ロールモデルにすればよいのではないか?

 ……しかしながら、著者によると、「福祉国家」はグローバリーゼーション時代には破綻する運命にある。福祉国家が機能するためには、国民や労働人口の全員か大半が社会保険に参加する必要がある。しかし、グローバル化した貿易は所得の二極化をもたらし、所得が二極化すると金持ちたちは社会保険ではなく自分たち専用の民間システムを作りたがるし、他の国民のために高い税金を払うことを嫌がるようになる。

 さらに、移民の存在も福祉国家にとっては向かい風だ。福祉国家を機能させるためには国民同士の同質性や親近感が必要とされるが、移民はそれを損なう(アメリカで福祉制度が支持されない理由のひとつは、アメリカが多様性の高い…つまり同質性の低い社会であることだ)。また、自分の能力やスキルに自信を持つ移民は不平等な国を好む一方で、自信がなくて悲観的な移民は福祉の発達した国を好む。前者は自分の才覚を活かしてギャンブルをしたくなる一方で、後者は福祉を享受しながらぬくぬくと暮らすことを好むからだ。つまり、競争の激しい国家と福祉国家が並列しているあいだは、「移民の質」という点に関しては、福祉国家はワリを食いつづけるのである。

 ……などなど。この本における福祉国家に関する議論についても、わたしはイマイチ納得がいっていない。経済学者に特有の福祉国家嫌いを正当化しているだけという疑惑が払拭できないのだ。

 

 では、どのタイプの資本主義もダメなら、いっそ共産主義にすればいいのか?そうはいかない。著者によると、共産主義とは「後進の非植民地国が封建制を廃止して政治的資本主義を築くことを可能にした社会システム」ではあるが、あくまで封建制から資本主義に移行するための足掛かりとしての価値しかなく、持続性のあるシステムではないのだ。

 資本主義のほかに、代わりはない。

 

……この状況は、この社会経済システムが変化を求めているしるしではないのか。もしそうなら、超商業化資本主義社会を捨てて、何か代わりになるシステムに移行すべきではないか。この一見理にかなっていそうな主張の問題点は、超商業化資本主義の代わりになりそうなものが何もないことだ。この世界がすでに試した選択肢はどれもうまくいかなったし、なかにはもっとひどいものもあった。それに何より資本主義に組み込まれた競争的かつ物質欲的精神を捨て去れば、結局は所得が減り、貧困が拡大し、技術進歩が減速ないし逆転し、超商業化資本主義社会がもたらす他の利点(私たちの生活に今や欠かせないモノやサービスなど)を失うことになるだろう。物質欲的精神を捨て、富を成功の唯一の指標にするのをやめても、こうした利点をあいかわらず享受できるなどと思うのは無理な話だ。それらはセットになっているのだから。これはひょっとしたら、人間の条件の重要な特徴のひとつでもあるかもしれない。つまり私たちは、自らの最も不愉快な性質のいくつかを存分に発揮しないかぎり、自らの物質的な生活を向上することができないのだ。これはバーナード・マンデヴィルが300年以上前に探りあてた真実である。

(p.218)

 

 上記の引用文には、「経済学的思考」のエッセンスが濃縮されている。著者の分析や見解には賛成できないものがところどころにあるが、とはいえ、このような「経済学的思考」の鋭さや魅力は否定できない。すくなくとも、わたしたちの気分を良くしたり願望を肯定したりするために根拠のない楽観論や理想主義を無責任に提唱するタイプの議論よりかは、ずっといい。

 

 長くなってしまったから、以下では印象に残ったところを箇条書きで記しておく。

 

・「あくせく働かずに、余暇を増やそう」的な発想は、人間には「自分の状態を他者と比較する」という性質があるから現実味がない、という理由から否定されている。金をたっぷりと稼いだエリートであっても、周りのエリートたちが稼ぎつづけているうちにリタイアしてしまうと子どもが惨めな目にあってしまうので、自分も稼ぎつづけざるを得ない。そして、グローバル社会では、あくせくと働かずにのんびり生きている人たちばかりの国の土地や不動産は勤勉な外国人に買い占められることになり、そして本国人たちは金を持った外国人たちが贅沢に金を使うのを目の当たりにさせられることになる。

 

・資本主義社会ではすべての営みに値段が付けられて商品化されるので、家族や地域共同体が担っていた役割もアウトソースされて、社会はどんどん原子化して個人主義化していくだろう、という(よく耳にするような)予測が語られている。また、人々はいままで無償で行っていた自分の活動で金を取れることに気がついて、自由時間も商品化するようになる(ウーバーがその典型)。最終的には「個人」としてのわたしたち全員が資本主義の生産拠点となって、私的領域はすべて商品となる。さらに、富や金が人間の成功や価値の唯一の指標となることで、道徳や行動規範は私利私欲や利己心にとって代わる……などなどといった、月並みなホモ・エコノミクス観に基づくディストピア風未来予測が語られる。

 ここらへんの議論にはぜんぜん説得力がない。たしかに富や金だけを指標として生きているっぽい人はいまでもいるがそうでない人もいっぱいいるし、私生活を商品化している人もいればそうでない人もいる、というだけの話にしか思えないのだ(ニューヨークや東京などの都会にこのテのタイプの人が惹きつけられて集まり、各種のサービス売買アプリの技術進歩に伴い都会のディストピア化がどんどん進行する、というのならまだ納得できる)。

 

・AI悲観論や環境破壊への不安論については、労働・ニーズ・原材料のそれぞれに関する「塊の誤謬」に基づくものである、として否定されている。ここの議論は経済学的思考としても基礎的なものではあるが、直感的な主張の問題点をうまく解体していておもしろい。

 

・中国に対する評価は全体的に甘くて、「アメリカとちがって中国は諸外国に価値観や倫理観を押し付けず、あくまで経済的な観点からしか貿易や外交をしないだろう」といったことも主張されているのだが、ここはいくらなんでも信用できない。

 

・先述したとおり、著者は移民の経済的メリットを強調する一方で、移民の権利は制限する必要があることも強く主張する。本国人と全く同じ市民権を移民に求めると、本国人が現時点で市民権から得られている利益が損なわれるし(社会保障投票権などはそれを得るための資格に制限がかけられていること自体にメリットが存在するからだ)、受け入れを拒否する声が強くなって結果的に移民を入れることが困難になるためである。そして、権利を制限しても移民がやってくるのなら、移民たち本人はあくまで「元の国にとどまるよりもこの国に移ったほうが望ましい」と考えているわけなので、問題はない。とはいえあまりに権利を制限し過ぎたらやってくる移民の数が減ってしまうから、あとは、制限をどれくらいにするかという調整の問題となる。

 ……この議論も、まさに「経済学」という感じだ。エスノセントリックな移民受け入れ反対論を合理的な観点から論駁している点では、有益でもあるだろう。しかし、技能実習生や入国管理局の問題が日々取り沙汰されている日本に住んでいる身からすれば、「経済的利益や政策的目的のために移民の権利を制限しよう」と堂々と主張する議論は、いかにも危なっかしく思える。もちろん、現時点の世界各国でも移民の権利は多かれ少なかれ制限されているわけではあるのだが、権利について論じるうえでは経済学だけでなく倫理学政治学の観点が必要になることは明白であるはずだ。

 

まじめな人ほど、選挙で投票しない?

 

 

 

 

 この本を読んだのはもう数年前であるし現在は手元にもないのだが、最近の情勢と見ていてちょっと思うところがあるので、この本について紹介している記事と過去の記憶を頼りに軽く紹介してみよう。

 

 タイトル通り、人々の「投票をするか/しないか」「デモをするか/しないか」といった政治行動や「リベラル/保守」といった政治的傾向について、心理学における「パーソナリティ」の観点から分析した本である。

 とくに、「経験への開放性」「誠実性(真面目さ)」「外向性」「協調性」「神経症的傾向(精神的安定)」からなる「ビッグファイブ」という性格特性の指標に基づいて、政治的行動が分析されている。つまり、「このようなパーソナリティ特徴がある人は、(統計的・平均値的には)このような政治的行動をしやすく、政治的傾向はこのようなものになりがちである」ということがいろいろと論じられているのだ。

 

ja.wikipedia.org

 

 とはいえ、この本で指摘されている事象の大半は、パーソナリティやビッグファイブについて多少なりとも本を読んだことがあるなら予想が付くものではあった。

 たとえば、「外向性」のポイントが高い人はデモ行進や抗議運動や戸別訪問など、人と関わるタイプの政治的行動をしやすい。「経験への開放性」のポイントが高くて「誠実性」のポイントが低い人はリベラルになりやすく、「経験への開放性」のポイントが低くて「誠実性」のポイントが高い人は保守になりやすい。

 

 

 

ja.wikipedia.org

 

 この本のなかでもっとも意外な指摘は、「誠実性」のポイントが高い人たちは選挙の際に投票をすることが少なくなる、ということだ。 

 ここで言う「誠実性」とは英語の「Conscientiousness」の訳語であり、あくまで性格特性の一種であって、日本語の日常語における「誠実」とは必ずしも意味が100%一致しているわけではないことは記しておくべきだろう。……とはいえ、誠実性の高い人とはふつうの意味で「まじめ」な人である、と考えてもほとんど間違っていないはずだ。

 つまり、ルールを守る・遅刻しない・仕事をサボらない、そういう人たちのことである。

 

 (著者の)モンダックによると、責任感や誠実性が高い人たちは、陪審員に選ばれたときにその務めを果たす可能性は高い。だが、実のところ、そのような人たちが選挙で投票をおこなう可能性は低い。もしかしたら、責任感や誠実性が高い人たちは投票について慎重に考えたうえで、「自分が投票をしたところで何かが変わるということはほとんどなく、だから政治は自分の時間を割くに値するものではない」と判断したのかもしれない……とモンダックは言う。

https://news.illinois.edu/view/6367/205571

 

 

 この本のなかでは、選挙での投票とはそもそも期待通りの結果が得られることが保証されていない不安定なものであること、そして誠実性の高い人にとっては家族への義務を果たしたり仕事をすることの優先度が高いからこそ、不安定な「投票」という行為の優先度が低くなる、ということも指摘されていた。

 ある意味では、選挙とはギャンブルのようなものである。まじめな人は、ギャンブルに時間を割くくらいなら他のことをする、ということだ。

 

 もちろん、パーソナリティに関するトピックについて「こういうパーソナリティを持っている人のほうがエラい」という価値判断をしたり「こういう傾向や行動をしているならこんなパーソナリティであるにちがいない」と決めつけたりすることはご法度であるだろう。

 とはいえ、とくにネットでは批判されがちな「投票をしない」という行動は「まじめさ」から生じているかもしれない、という観点はなかなか有益であると思う。

 わたし自身の経験を思い出しても、学生時代から、政治の話で盛り上がれて投票にも行っているらしいやつほど授業をサボったり会合に遅刻していたりして、きちんと授業に出席して学業を淡々とこなしている人ほど非政治的である、という傾向はあった。

 もっと風呂敷をひろげれば、優秀なアスリートほど非政治的になりやすかったり(厳しい練習を毎日こなすことと誠実性のポイントには関係がありそうだ)、仕事中にネットで遊んでいる人ほど政治的なコメントをしやすかったりする(誠実性が低い人ほどサボりやすいから)……などなどとも言えるかもしれない。もちろん、これは与太話に過ぎないのだけれども(紹介した本のほうはきちんとした研究や調査に基づいたお堅い本であり、議論の内容も慎重である)。