道徳的動物日記

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「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターについての雑感

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 先ほどの記事の続き的な内容。先ほどの記事ではオープンレターが持つ「効果」や「意図」について論じたが、こちらでは、オープンレターに書かれている内容自体について思うところを書いてみる。

 

このような呼びかけに対しては、発言の萎縮を招き言論の自由を脅かすものであるいう懸念を持つ方もいるかもしれません。近年では、そうした懸念は「キャンセル・カルチャー」なるものへの警鐘という形で表明されることがあります。すなわち、問題ある発言をした人物が「進歩的な」人びとによる「過度な」批判に曝され責任を追及されることが、非寛容と分断を促進するという懸念です。

 しかしながら、こうした懸念が表明される際にしばしば忘れられているのは、「問題ある発言」が生じてくる背景に差別的な社会の現実があるということです。差別を受ける側のマイノリティにとっては、多くの言論空間はそもそも自分にとって敵対的な、安心して発言できない場所であり、いわば最初から「キャンセル」されているような不均衡な状況があります。

 

「キャンセル・カルチャー」批判派であるわたしとしては、やはり、上記の部分にいちばん反応してしまう。たとえば、"「キャンセル・カルチャー」なるもの"という書き振りからは、言外に「キャンセル・カルチャーなんてものは存在しないか、あってもたいしたことがないものであるし、それについて警鐘を鳴らしていたり懸念していたりするやつは的外れであったりロクでもなかったりするんだ」というメッセージを感じなくもない。穿ち過ぎかもしれないけれど。

 いずれにせよ、「差別を受ける側であるマイノリティは、最初からキャンセルされている状況にある」と主張する、後段の部分のほうが問題だ。

「差別的な文化」の存在によって女性をはじめとするマイノリティは不当な非難や中傷を受けやすく、そのためにメディアやSNSなどでも発言を委縮させられやすくて、学問的議論に参加するためのハードルも上げられている、というのは、その通りだと思う。とはいえ、それは、公的な場で発言することや学問的な議論へ参入することについての障壁がマジョリティよりも(不当に)高くされているということであって、発言の場が奪われていたり議論に参入することが不可能になっていたりしているということではない。

 一方で、キャンセル・カルチャー(やノー・プラットフォーミング)の目的は、キャンセル行為によって対象の発言の場を奪うこと、すくなくとも公的な場や権威を持つ場において発言する機会をなくそうとすることにある。究極的には、「問題ある発言」をする人物を議論の場から排除することが、キャンセル・カルチャーの目指すところだ。

 もちろん、マイノリティの発言障壁が高くされていることも、「問題ある発言」をする人物がキャンセルされそうになることも、どちらも問題だ。しかし、問題の性質はかなり異なる。だから、「差別を受ける側であるマイノリティは、最初からキャンセルされている状況にある」というのは、本質からズレた、不用意なレトリックでしかない。

 そして、「問題ある発言」をする人物をキャンセルすればマイノリティの発言障壁が低くなるということでも、もちろんない。しかし、上記に引用した部分は、「マイノリティの発言障壁を低くすること」と「問題ある発言をする人物に発言の場が与えられること」がまるでゼロサムゲームであるかのような印象を与える文章になっているように思える。

 

 ちなみに、「マイノリティは最初からキャンセルされている」的な問題意識については、わたしも現代ビジネスに掲載した下記の文章のなかで触れている(4ページ目と5ページ目)。それでも言論の自由や自由な討論は重要であり保障されるべきだ、というのがわたしの主張だけれど。

 

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日本語圏では以前から、ツイッターを中心にSNSやブログにおいて、性差別に反対する女性の発言を戯画化し揶揄すると同時に、男性のほうこそ被害者であると反発するためのコミュニケーション様式が見られました。たとえば性差別的な表現に対する女性たちからの批判を「お気持ち」と揶揄するのはその典型です。今回明らかになった呉座氏の発言も、大なり小なりそうしたコミュニケーション様式の影響を受けていたと考えられます。そこでは、差別をめぐる問題提起や議論が容易にからかいの対象となるばかりでなく、場合によっては特定の女性個人に対する攻撃までおこなわれる一方で、自分たちこそが被害者であるという認識によってそうした振る舞いが正当化され、そうした問題点を認識することが難しくなります。これにより、差別的な言動へのハードルが極めて低くなってしまうという特徴があるのです。

 

要するに、ネット上のコミュニケーション様式と、アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化が結びつき、それによって差別的言動への抵抗感が麻痺させられる仕組みがあったことが、今回の一件をうんだと私たちは考えています。呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう。

 

 これらの段落で想定されているのは、いわゆる「弱者男性論者」たちのことであろう。すくなくとも、呉座氏と直接に絡んでいた御田寺圭(@terakei07)のことが想定されているのは、確実だ。ほかにも、小山晃弘(@akihiro_koyama)や永観堂雁琳(@ganrim_)のことも想定しているのかもしれない。

「弱者男性論」についてはわたしも常々問題であると思っており、折に触れて批判してきた*1。とはいえ、批判のなかで個々の「弱者男性論者」を名指しして取り上げてはいなかったこともたしかである。

 しかし、自分のことは棚に置いてしまうけれど、オープンレターに関しては、はっきりと御田寺たちの名前を出すべきだったと思う。呉座氏については名前を出しているんだし、背景の事情を多少なりとも知っている人なら「あいつらのことだ」とすぐにわかる内容だし、実際に本人たちもオープンレターで自分たちが非難の対象となっていることに気が付いてやいのやいのと反論しているのだから。

 もちろん、相手の名前を明示することは相手との「論争」が本格的に始まってしまうということであり、オープンレターの発起人たちは負担やリスクを負うことになる。でも、約20名の連名(+約1300名による賛同署名)による公開書簡という強力な手段を用いて人を批判するなら、それくらいの負担やリスクは覚悟すべきだと思う。なにより、本気で「女性差別的な文化」をなんとかする気があるなら、インターネット上で女性に対する「からかい」や女性をダシにした「遊び」を煽動している本丸である、弱者男性論者たちと対峙することは避けられないだろう。

 だから、「ネット上のコミュニケーション様式」と「アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化」の両方が問題であるとしながらも、呼びかけの対象を「研究・教育・言論・メディアにかかわる者として、同じ営みにかかわるすべての人」に限定して、「中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない」や「距離を取る」などの内輪における間接的な制裁を提言しているところは、陰湿であると同時に逃げ腰でもある。

 わたしが見たところ、事件の原因の大部分は「アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化」ではなく「ネット上のコミュニケーション様式」のほうにある。呉座氏はたまたまアカデミシャンであったが、ほかの業界の男性であっても、パーソナリティの欠陥や思慮の浅さが原因となって「ネット上のコミュニケーション様式」に疑問を抱くことができずに「からかい」や「遊び」のつもりで差別的言動や誹謗中傷を繰り返す、というのはいくらでも起こり得る(起こっている)事態だ。だから、解決すべきは「ネット上のコミュニケーション様式」のほうであるし、そのためにはもっと堂々としていて表立った議論などの手段が必要であるように思えるのだ。

 

 ……とはいえ、現実問題として、弱者男性論者たちはアカデミシャンではなく、コンプレックスや差別を煽ったうえでnoteやYouTubeで言動を売って稼ぐ「商人」だ。だから、彼らのことを名指ししたり表立って議論したりすることで結果的に彼らの注目度を上げて「商売」に加担することになってしまう、という危惧は理解できる。

 しかし、その代わりとして、商人ではなくアカデミシャンであるがゆえに言動に責任や誠実さが求められる、つまり逆説的に地位や立場が弱い状況にあった呉座氏だけがオープンレターにおいて明示的に批判されてしまう(その結果として職が奪われかねない状況に陥っている)という、いわば「生贄」にされるという顛末になってしまったことも否定できない。これはこれで、不公平さや不誠実さが存在するように思える。

 

「犬笛」としてのオープンレター

 

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女性差別的な文化を脱するため」のオープンレターはもう半年以上前に発表されたものだけれど、このオープンレターで取り上げられている呉座勇一氏が日文研から「停職一か月」や「準教授取り消し」の処分を受けたこと、そしてその処置が不当であるとして呉座氏が日文研を提訴したことを受けて、ふたたび話題となっている。

 

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 わたしは、「キャンセル・カルチャー」の問題については、このブログだけでなく講談社現代ビジネスにも記事を書きながら、何度も取り上げてきた*1。だから、発表された当初からこのオープンレターやその背景にある事件には関心を抱いてきた。しかし、このブログでは取り上げてこなかった。まず背景にある事件がかなりややこしい構造となっているうえに事実関係を把握するのも困難であること(散発的な誹謗中傷が鍵付きのTwitterアカウントでなされていたことが一因だ)、そして、このオープンレターには問題点や批判されるべき点があると思いながらも理解できる点や共感できる点も多々あるという、曖昧で両義的な感情を抱いてきたからだ。

 しかしまあ最近の流れを受けて以前よりもさらにモヤモヤするところが出てきたので、思うところを書き出しておこう。

 

 呉座氏による提訴は先日になされたばかりであり、言うまでもなくその結果はまだ出ていないのだが、提訴されたことを受けて「呉座氏になされた処分はやはり不当だったのではないか」という声が高まっている。そして、オープンレターが出されたことが処分の一因(や根本的な要因)になっていると考えている人たちが、オープンレターの発起人たちや賛同者たちに対する批判をおこないはじめている。

 その批判に対して、オープンレターの発起人たちのなかには「オープンレターのなかでは呉座氏に対する処分は求めておらず、日文研が呉座氏に対して不当な処分を下したとしてもそれはオープンレターによる批判とは何ら関係がないし、オープンレターの発起人や賛同者が責任をもつことではない」といった反論をおこなっている人たちがいる。

 

 わたしとしては、どちらの意見にも共感できるところがある。

 まず、原則論として、「だれかを批判することと、批判された人が所属する組織からどんな処分を下されるかは関係がなく、批判者が処分に関する責任をとる必要はない」というのはその通りだ。「お前が批判したアイツが会社からクビにされたから、お前が責任をとれ」という理屈が通じるなら、「批判」という行為のリスクが高まり過ぎて、だれかにどんな問題があったりだれかがどんな悪いことをしていたりしても、だれもそれを批判することができなくなってしまう。そんな社会はあまりに不健全だし、危うい。

 

 しかし、個人による批判ではなく、約20名の発起人と約1300名もの賛同者によるオープンレターともなると、話は異なってくるようにも思える。20名や1300名という「数」は、「批判」以外の性質をオープンレターに与えるはずだ。「こんなに数多くの人間が呉座氏の言動を問題だと思っているんだぞ」「”研究・教育・言論・メディアにかかわる多くの方”が、呉座氏のことを批判しているんだぞ」という「空気」が生成されることは避けられない。

 オープンレターのなかでは、「呉座氏はアカデミアから排除されるべきだ」「呉座氏にアカデミックな地位を与えるべきでないし、教職の立場につけるべきでもない」といったことは主張されていない。しかし、Twitterを見てみると、研究・教育・言論・メディアにかかわる人たちの一部には、単に呉座氏の言動を批判するにとどまらず呉座氏がアカデミアにとどまることを疑問視したり教職につくべきでないと主張したりしている人もいた(呉座氏の名前や該当の事件が直接言及されることもあれば、間接的に示されることもあった)。そのなかにはオープンレターの賛同者もいた。

 呉座氏に対する批判が勢いづいて、苛烈な処分を求める声が出るようになった背景には、オープンレターが発表されたことが確実に関わっているだろう。そして、「約1300人が賛同しているオープンレターに書かれている、呉座氏に対する批判」と「オープンレターの外側における、呉座氏に対する苛烈な処分を求める声」は一緒くたになって、「研究・教育・言論・メディアにかかわる大量の人間が呉座氏に対する処分を求めている」という、ひとつの「空気」を作っていったように思える。そして、その「空気」が、日文研による呉座氏に対する処分に影響していた可能性はかなり高そうだ。

 

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 考えてみれば、このSNS社会で「大量の”業界”人による賛同の署名が付与された公開声明」がどのように機能して、どのような効果をもたらすかということは、ほとんど自明であるかもしれない。

 とくに、オープンレターのなかでは「キャンセル・カルチャー」という単語が(否定的な文脈で)登場していることは重要だ。アメリ言語学会でスティーブン・ピンカーに対してオープンレターが提出されたことに代表されるように、海外のキャンセル・カルチャーではオープンレターを用いることは定番になっている(ピンカーに対するオープンレターでは彼をアカデミック・フェローの立場から除名することが明示的に要求されていた、というポイントはあるけれど)。そして、オープンレターの発起人のなかには、海外のキャンセル・カルチャーの状況について知っている人もいるだろう。つまり、「海外ではオープンレターがどのように用いられてきて、どのような効果を持ってきたか」という知識をもったうえで、あえて呉座氏に対するオープンレターを作成したとも考えられる。

 そうだとすれば、オープンレターはいわゆる「犬笛」として機能してしまったかもしれない。オープンレターのなかでは「呉座氏に対する苛烈な処分」は要求されていないが、大量の署名付きのオープンレターを公開することによって「呉座氏に対しては強く批判してもいい」とみんなに思わせて、苛烈な処分という結果につながる。そして、その結果は、オープンレターの発起人たちが多かれ少なかれ予測していたことであるかもしれない。

 

 オープンレターのなかでなされている、『フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」』や「からかい」のもつ問題や差別性の指摘は優れているし、オープンレターで示されている問題意識にはわたしにもいろいろと賛同したり共感したりできるところはある。だからこそ、オープンレターが含んでいる(かもしれない)問題には、わたしとしてはかなり気持ち悪い感触を抱いている。

 そもそも論として、約20人による共同作成ではなくて、個人としての意見を書けばよかったのではないだろうか。

 また、オープンレターの賛同者たちも、研究・教育・言論・メディアにかかわる人間であるなら、自分の肩書で自分の意見を表明する機会や立場にも自分の意見を文章にする能力にも、ふつうの人たち以上に恵まれているはずだ。Twitterとかではなく雑誌や  Webメディアや個人のブログなどで、個人が自分の責任でそれぞれに、呉座氏に対する批判なりアカデミアにおける「女性差別的な文化」なりへの批判を展開すればよかったと思う。なにかを批判するなら、自分の名前と自分の意見を明示して自分で責任をもつくらいのことは、最低限求められるのではないだろうか?「批判」が「処分」につながってしまうおそれがあるような事態ならなおさらだ。

 

反合理主義としてのフェミニズム(『啓蒙思想2.0』読書メモ③)

 

 

 ジョセフ・ヒースはカナダ人であるけれど、『啓蒙思想2.0』における彼の問題意識は、ティーパーティーに代表されるように近年のアメリカで不合理で反動的な右派の運動が盛んになっていることだ(原著は2014年なのでトランプの当選以前である。そのため、『啓蒙思想2.0』ではまず「保守」と対峙したうえで、伝統的な保守思想の利点も認めつつ現代における問題点を指摘しながら、「理性」の必要性を改めて提唱する、という流れで議論がすすむ。つまり、『啓蒙思想2.0』では、最終的には左派的・リベラリズム的な主張が支持されることになるのだ。

 とはいえ、ヒースは左派の反合理主義に対しても容赦がない。第8章「ワインと血を滴らせて」で行われている議論は数年前にもこのブログでちょっと取り上げたが、改めて紹介しよう*1

 

 この章の冒頭では、まず、保守派の女性であるサラ・ペイリンによるリベラルに対する難癖が紹介される。そして、ヒースはペイリンを批判したうえで、返す刀で左派の問題点も指摘するのだ。

 

その一方で、アメリカの左派がこの種のテクニックを批判しはじめ、論理の一貫性と合理的な議論を求めているのは、ちょっとおかしなことだ。なにせ二〇世紀で最も容赦ない「理性」批判は、進歩派とされる人たちから出ていたのだから。反合理主義は一九六〇年代カウンターカルチャーのとてつもなく強力な潮流であったし、今日に至るまで左派に、特にフェミニズム環境保護運動に、強大な影響を及ぼしつづけている。いろいろな意味で現在の右派の非合理主義は、左派の戦略を盗んだ結果にすぎない。右派に「真実っぽさ」ができるより前に、左派には「正気じゃなさ(flakiness)」があった。六〇年代の特徴となった独特の知的スタイルだ。どちらも、何が真実なのかを判定するために証拠や影響を吟味するのでなく、真実と感じられることを信じるものである。

(p.245)

 

 思想としては、合理性に対する批判者は右派でありつづけた(ヒューム、バーク、ニーチェ ニーチェ*2ハイデガー)。その一方で、啓蒙思想から共産主義まで、左派は理性と進歩は調和するものと考えていた。この構図が崩れたのは、ナチスの台頭、第二次世界大戦、そして核爆弾を背景とした冷戦の経験によるものだ。組織的で効率的なホロコーストは「理性」が原因であるように思えるし、火炎放射器化学兵器原子爆弾などの殺戮兵器は科学技術の賜物だ。

 

これら二つの害悪に共通していたことは、それが振り向けられるもっと大きな目的には明らかに注意が払われないまま、本質的に技術上の問題を解決するため莫大な量の人類の創意が注がれたことだ。非人道的行為に奉仕する科学という構図は、啓蒙思想と、理性の進歩は人類の改良と切り離せないという啓蒙思想の見方の威信にとって大きな打撃だった。これらの新しい害悪は、理性と科学が世界の善と悪の闘争のなかでせいぜいがところ中立の立場であることを示したようだ*3。そして理性が元来、進歩の力というわけではないことを示したのは確かだった。合理性はもっと道具のように、いい目的でも悪い目的でも利用されうる手段と見なされるようになった。

いっそう厄介なのは、理性は中立ではなく、実はこれら大きな害悪の原因だったのだと主張する声だった。第二次世界大戦での破壊は、人間の生命と価値への根本的な敵意をもって科学技術の進歩が到達した絶頂であるとされた。このことは想像に難くない。科学的方法には客観性と、研究者が感情を排すことが求められるのは、よく知られている。科学実験もまた、徹底した条件の操作を伴う。自然を扱うときには、それもけっこうだが、人間が相手となると問題をはらんでくる。「客観的になること」は「人をモノ扱いすること」だととられやすいし、感情の排除は人間の苦しみへの無関心になりかねないし、操作は支配と管理という形をとりがちだ。

(p.249-250)

 

 科学の「客観性」が含む問題に対する懐疑は、科学の「客観性」そのものに対する懐疑に直結した。かくして、左派は、科学・技術・官僚制・資本主義などの諸々を害悪だとみなしたうえで、その害悪は西洋的な合理性によってもたらされている、と主張するようになったのである。テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』を嚆矢として、セオドア・ローザックはテクノクラシーを批判して、ヘルベルト・マルクーゼは「解放と自由」を重視した方向づけによりまったく新しいタイプの科学と知識を生み出すことを主張したのである。

 定番のパターンは、まず科学的で経済的で工場的っぽい「技術的合理性」を批判したうえで、愛情に満ちていて美しい「ナントカ合理性」を称える、というのが定番のパターンだ。しかし、ヒースによると、「ナントカ合理性」はいずれも直感的でヒューリスティックな思考に基づくものであり、形を変えた反合理主義に過ぎない。

 そして、ナントカ合理性という名の反合理主義がとりわけ多く影響した分野が、一旧六〇年代以降の現代的なフェミニズム運動なのである。 

 

…客観化し、感情に動かされず、技術的合理性はもともと男性的なものであると考えて、内包的で、相互に影響しあい、思いやり深い、もう一つの女性的な合理性とつい対比させたくなることは確かだ。言うまでもなく、この特徴づけは性差によるいくつもの伝統的な固定観念に織りこまれている。女性はどうしてか男性より合理性に欠け、感情的であるという示唆は、何世紀にもわたって女性を教育、雇用、公的生活全般から排除するための大義名分として確立されていた。初期のフェミニストはこの特徴づけに抵抗することで、女性の抑圧と闘おうとした。彼女たちはおおむね正統な啓蒙合理主義を奉じていた。

(…中略…)

この旧式のフェミニズムの中心をなす特徴は、女性を男性と隔たらせたのは生物学上の性質ならぬ文化だと主張することで、性差による固定観念を打ち破ろうとしたことだ。もちろん、(メアリ・)ウルストンクラフトがこれ(『女性の権利の擁護』)を書いていた時代には、人類の「獣」への優位は偉大なことで、「理性」はめざすべき理想だと誰もが信じていた。女性はただゲームに参加したかっただけだ。けれども、理性という理想が、だんだん勇気を吹きこむものでなくなるにつれ、理性と直感の類型的な対比を維持しつつ、直感のほうを持ち上げたくなる誘惑が強まった。男には男の考え方があり、女の考え方は違うということではなかろうか。男の流儀がわけもなく重んじられてきたのは、男がことを取り仕切っていたからにすぎない。女は男の流儀をまねていては、対等な相手としてゲームに参加することは決してできない。対等になるためには、女性自身の流儀を有効と認めるよう要求するしかない。そのうえ、男の流儀は「技術的合理性」に伴って、さんざんくり返されてきた苦しみーーその最たるものは戦争だがーーの元凶なのだから、女の流儀が有効となれば世界はもっとよくなるかもしれない。

(p.253 - 255)

 

 

「女性的な考え方」を重視するタイプのフェミニズムとしてヒースが挙げているのは、神学者であり哲学者でもあるメアリ・デイリーだ。他方でわたしが思い出すのは、このブログでも散々に批判してきた、「ケアの倫理」を提唱するフェミニスト倫理学者たちである*4

 デイリーの思想にせよケアの倫理にせよ、明示的な言語を介した合理的な問題解決システム(理性)よりも、直感とヒューリスティックによる問題解決を重視することになってしまう。これは、解決しようとする問題が複雑であればあるほど、惨憺たる結果をもたらすことになる。感情だけでは複雑な問題を解決することができなかったからこそ、理性は進化してきたからだ。

 また、フェミニズム思想では、だれの意見が正しかったりより優れていたりするかを議論を戦わせることによって判断する、学問における「対抗主義」が「男性的」なモノだとして否定されることがある。その結果、フェミニストは自分たちの確証バイアスを抑止することが難しくなってしまった。自分の意見に含まれる問題を発見する最も有効な手段とは「他のひとに問題を探させて、反証させる」ことであり、これは古代ギリシアの時代から学問の根本にある営みなのだが、フェミニズムはそれを否定してしまったわけだ。

 

社会批判にはつねに陰謀論に堕す危険がある。脳の奥で「なぜこんなことを信じなきゃいけない?」と疑う声なしには、一線を越えるのはほとんど防ぎようがない。そうして、フェミニストは「男中心の社会」の隠された権力と、それが女性の体を支配し、心をプログラム化する能力について論じることに途方もない時間を費やすはめに陥ってしまった。あとから振り返ってみれば、こうしたことはほとんど純然たる陰謀論の理論立てだとすんなり分類することができる。たとえば、ポルノグラフィーを女性への抑圧の土台として論じることに費やした時間とエネルギーを思うと、仰天ものである。インターネットの対等によって一般男性が飛躍的にポルノフラフィーを手に入れやすくなったとはいえ、女性への抑圧の増大は実証されていない(それと同時にレイプ発生は減少してた)ことで、これらの時間と労力はすべて無意味になってしまった。

(p.257)

 

 現代でも、「女性が哲学を専攻しない理由」として「哲学の戦闘的・競争的な議論の風習が女性には受け入れられないのではないか」と言われることが多い。概念工学とフェミニスト哲学で有名なサリー・ハスランガーも、哲学という分野は闘争的(combative)で判断的(judgmental)で超-男性的(hyper-masculine)であると論じており、(英語圏の代表的な哲学分野である)分析哲学では「penetrating」や「seminal」や「rigorous」といった男性的な単語が用いられやすいと指摘していたそうだ*5。また、「ミソジニー」という単語を概念工学したことで有名なフェミニスト哲学者のケイト・マンも、その議論は諸々の紹介を読む限りかなり陰謀論的な風味があるようだ*6

 

 反合理主義に傾倒したフェミニズムに生じたもうひとつの問題が急進化である。フェミニストが改革しようとする対象は法律や法規制などの公的なものに限らず、個人の私的な洗濯や行動も含まれる(男性に家事をやらせる、結婚している女性が夫に経済的に依存しないようにさせる、理系・技術職に進む女性の数を増やす、など)。私的で個人的な領域に変化を起こすことは、公的な制度の領域で変化を起こすことよりもずっと難しく、できるとしても時間がかかる。とくに家庭や家族に関することでラディカルな変革を起こすのは難しいし、逆戻りも生じてしまう。

 

批判者のなかには、これに対しプラグマティズムに舵を切って、法律より文化を変えるほうが難しいとか、昔ながらの男女間の取り決めには真価を認められていなかった利点があったなどと結論づける向きもあった。ところが、正反対の方向に進んだ批判者たちもいた。「急進的な」社会批判を展開しながら社会を大きく変革できなかったことで、もともとの批判に急進性が足りなかったと結論づけたのだ。合理性批判に関しては、自らの誤りは、技術的理性を批判できると考えながら、同時にテクノクラシーで使われているその同じ概念を存続させてしまったことにあった、と多くの人が結論した。本当にものごとを変えるには、人々の意識を根本から改革するには、抑圧された人間の理想と抱負を表明する新しい概念を、つまり新しい言葉を生み出すことが必要なのだ。

(p.257)

 

 「新しい概念や言葉を生み出せば、社会も変わる」といったポストモダニズム的な考えを主張するフェミニストの例としてヒースが挙げるのは、またしてもメアリ・デイリーである。とはいえ、デイリーが活躍したのは1960年代〜1970年代であるが、「言葉が変われば世界も変わる」的な考え方はいまでも現役であるだろう*7

 また、問題の改善が難航していたり時間がかかったりして埒が明かないのを見てヤキモキしたり我慢できなくなったりした学者が、「いつまで経っても問題が解決しないのは背景にある理論が間違っているからで、既存の理論を考え直して正しい理論を打ち立てたら問題も解決されるはずだ」と言わんばかりになるのは、フェミニズム以外の場面でも起こることだ。しかし、実際の政治や経済や社会で起こっている問題の大概は、理論がなんであろうと改善には時間がかかってしまうものなのである。

 

 勘違いされがちなので確認しておくと、この章でヒースが論じているのは、「女性やフェミニストは(男性と比べて)感情的だからダメなのだ」という主張ではない。むしろ、男女には視覚や記憶に関する認知には差があっても、論理的思考能力に男女の差はない、とヒースは強調している。論理的思考とは言語という公的なものを媒介にしているうえ、道具や環境など脳の外側で存続するものであるため、男女で脳に性差があったとしてもそれは論理的思考とは関係ないのである。それなのに女性の感情性を強調してしまう(非合理主義的なタイプの)フェミニズムの問題点を、ヒースは指摘しているわけである。

 

 第8章では、環境保護運動や反ワクチン運動、オープンスクールでおこなわれる「進歩的教育」などの反合理主義の問題も指摘されている。

 この章におけるヒースの結論は以下の通り。

 

もはや明らかなのは、私たちの文化はなりゆきに任せていたら、どんどん合理性から離れていってしまうことだ。合理性を保つには意識的な自覚、介入、指導が必要になる。しかし、これを達成する可能性が最も高い支持者たち、すなわち精神の力で人類を向上させることに関心を持つ進歩的左派たちは、比類ない深さの自己喪失の危機に陥っていた。…

(p.270)

 

とはいえ、左派の反合理主義がこれまで害をなしてきたが、そろそろ終息を迎えそうである。なぜなら左派はどのような形にせよ、つねに進歩という考えにコミットしてきたのであり、進歩は必ずや理性の行使にかかっているのだから。現代の社会経済問題のほとんどは、解決のためには創意も集団行動も求められる複雑なものだ。自分の勘に従っているだけでは、何も起こらない。集合行為問題を解決するには、合理的な洞察が求められる。もっと言えば、このような問題を解決する段になれば、最も重要な制度は国家である。だから、左派の政治と、政府への支持と、理性を用いて人間の条件を改善するという約束のあいだには、必然とも言うべき繋がりが存在する。

(p.270 - 271)

 

*1:

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*2:ブコメでイヤミ書かれたから修正

*3:スティーブン・ピンカーマイケル・シャーマーとちがい、ヒースはあくまで理性や科学を「中立」としているところは重要だ。たとえば、「それが振り向けられるもっと大きな目的には明らかに注意が払われないまま、本質的に技術上の問題を解決するため莫大な量の人類の創意が注がれたこと」は、現代でも工場式畜産にはいまだ当てはまっている。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

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*5:

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*6:

gendai.ismedia.jp

 

flipoutcircuits.blogspot.com

*7:

davitrice.hatenadiary.jp

「批判理論の問題点は、昨今に行われているようなアイデンティティ・ポリティックスを補強してしまい、検閲を行うことに知的な正当化を与えてしまう政治的傾向をもたらすということです。批判理論は、全ての知識は本質的に政治的であり権力関係に還元することができる、と教えます。そうすると、学生たちとっては、自分自身のアイデンティティ・グループの外からもたらされる知識を学ぶ意味は非常に少なくなります。また、言葉とイメージが現実を構築する力の全てを担っており、言葉とイメージを変えることは世界の実際の有り様にも影響を与える、と批判理論は教えます。このことは、ある特定の言葉や画像を禁止することで世の中を良くすることができる、という反民主主義的で非現実的な考えを学生たちに教えることになります。」

 

対等願望、優越願望、承認欲求、民主主義

 

 

 フランシス・フクヤマの『IDENTITY:尊厳の欲求と憤りの政治』はこのブログでも何度か扱ったが、あまり高く評価してきたわけではなかった*1。しかし、ポリティカル・コレクトネスを考えるうえではアイデンティティ・ポリティクスの問題は避けて通れないので、改めて真面目に読み直すことにした。

 読みはじめて、とくに惹かれたのは以下の箇所だ。

 

(引用註:『歴史の終わり』に対する批判に対して)こうした批判のほとんどは、単純な誤解に基づいたものだった。わたしは「歴史」という言葉をヘーゲルマルクス主義的な意味で用いていたーーすなわち「発展」や「近代化」とも呼ばれる過程、人間の制度の長期的な進化の物語を指す言葉として使っていたのである。「終わり(end)」という言葉も、「終焉」という意味ではなく、「目標」や「目的」という意味で使っていた。カール・マルクス共産主義ユートピアが歴史の終わり(目的地)になると示唆したが、わたしが論じたのは、そのヘーゲル版、つまり発展が行き着く先は市場経済と結びついた自由主義国家だという考えがより妥当と思われるということだったのだ。

(…中略…)

ただ、わたしを批判する人たちの論点には、ほかにもずれている点があった。彼らは、はじめの論文のタイトルにクエスチョンマークがあるのに気づいておらず、書籍『歴史の終わり』の終盤、ニーチェの「最後の人間」に焦点を当てた数章を読んでもいなかったからだ。

論文と本のどちらでも、わたしはナショナリズムも宗教も世界政治の精力として姿を消すことはないと書いた。どちらもすぐに消えないのは、現代の自由民主主義諸国が「テューモス(thymos)」の問題を完全には解決していないからだというのが、当時のわたしの主張だった。テューモスとは、尊厳の承認を渇望する心の働きである。「アイソサミア(isothymia=対等願望)」はほかと平等な存在として尊敬されたいという要求(=demand)を、また「メガロサミア(megalothymia=優越願望)」はほかより優れた存在と認められたいという欲求(=desire)を意味する。現代の自由民主主義諸国は、最低限の尊厳を平等に認めると約束し、おおむねその約束に従って行動しており、それは個人の権利、法の支配、参政権として具体化されている。しかし、民主主義国に暮らす人が実際に平等な尊敬を得られる保証はない。とりわけ、社会の周縁に追いやられてきた歴史を持つ集団の人々は、尊敬を得るのがむずかしい。国全体が尊敬されていないと感じて人々が攻撃的なナショナリズムへ向かうこともあれば、信仰を持つ人たちが自分たちの宗教が軽んじられていると感じることもある。したがって、アイソアミアは今後も平等な承認への要求を駆り立てるだろう。この要求が完全に満たされるときが来るとは考えにくい。

もうひとつの大きな問題がメガロサミアである。自由民主主義諸国は、かなり首尾よく平和と繁栄をもたらしてきた(最近は以前ほどではなくなってきたが)。これらの豊かで安全な社会に暮らすのは、ニーチェの言う「最後の人間」、「胸郭のない人間」であり、こういった人間はものを消費することで得られる満足感を飽くことなく追い続けるが、自分の核に何かがあるわけではなく、自分が目指したり、そのために自分を犠牲にしたりする高い次元の目標や理想を持たない。そしてこのような生き方は、すべての人間を満足させはしない。メガロサミアはほかから抜きん出ることを目指す。大きなリスクを冒し、とてつもない闘いに加わって、目覚ましい成果をあげることを求める。そうすることで、ほかの人よりも自分のほうが優れていると周囲から認められるからだ。これは、リンカーンチャーチルネルソン・マンデラのようなヒーローを生むこともあるが、カエサルヒトラー毛沢東のように、国を独裁と不幸へ導く圧政者を生むこともある。

(p.12-14、強調は引用者によるもの)

 

ヘーゲルによると、人間の歴史は承認をめぐる闘争によって動かされてきた。ヘーゲルが論じたのは、承認欲求に対する唯一の合理的な解決策は、すべての人の尊厳を認める普遍的な承認だということである。普遍的な承認はこれまで、国、宗教、セクト、人種、民族、ジェンダーに基づいた不完全な承認や、ほかより優れた存在として認められたい個人によって実現を阻まれてきた。いま民主主義諸国では「アイデンティティの政治」が盛り上がりを見せており、普遍的な承認がおおいに脅かされている。すべての人間があまねく尊厳を持つと理解する道をふたたび模索しなければ、人間同士の争いが終わることはないだろう。

(p.17)

 

 フクヤマの主張は、(アメリカ)社会の"分断"を嘆いたり、大衆の"尊厳"を重視するものであるという点では、マイケル・サンデルに近いところがある。実際、コミュニタリアンであるサンデルも「アイデンティティの政治」はよく思っていないようだ。

 しかし、人間には対等願望や承認欲求だけでなく優越願望も存在している、ということを重視している点で、フクヤマはサンデルの一歩先を行っているように思える。サンデルによるメリトクラシー批判がおおむね正しいものだと認めても、勝者に「謙虚さ」を身に付けることを求めたり「共通善」によって問題を解決しようとする彼の提案が現実味のない綺麗事であったのは、サンデルは人間に備わる欲求や願望やインセンティブを軽視しているからだ*2。わたしはサンデルの主張を「ルサンチマン道徳」と評したけれど、おそらく彼に足りないのは、ニーチェ的な視点である。

 

 フクヤマが『歴史の終わり』の頃から心理的な要素を重視していたことはかなり重要だ*3。そして、『政治の起源』と『政治の衰退』では、人類学や進化心理学の知見も取り入れられることになるし、経済学的な視点もさらに重要視される*4。『アイデンティティ』においても、たとえばサンデルが無視している「誇り」という感情の存在が、生物学を経由して論じられている*5サンデルの議論はメリトクラシーなどの「社会規範」が人々の動機や意識を形成していることを前提としているトップダウンなものであったのだが、フクヤマの議論はボトムアップなものであるのだ。

 

 フクヤマによると、中世以前の貴族制の社会が民主主義に移行したことは、アイソアミアがメガロサミアミアに取って代わったことを示している。とはいえ、民主主義の社会でもメガロサミアが消えてなくなることはない。さまざまな属性の集団は、平等な承認を要求するだけでは飽き足らず、自集団の優越性をも認めさせようとする。また、民主主義社会であっても、ある種の活動はほかの活動よりも必然的に大きな尊敬の対象となる。公共の利益のために奉仕する警察官や兵士、卓越した芸術家は尊敬されるものであり、彼らが何らかの意味で他の人よりも優れているということは否定しようがないのだ。

 

 ところで、自由民主主義の普遍性を主張するフクヤマの議論といえば、「いつまで経っても民主主義は欧米諸国とアジアの一部にしか根付いていない」とか「中東などでの民主化運動は失敗して権威主義体制に戻ってしまった」とか「民主主義国家の住民ですら中国のような非民主主義国家に憧れるようになっている」とかいった諸々の事実や風潮が「反証」となって論破されてオワコンになった、という風に扱われることが多い。

 しかし、人間にはテューモスとアイソサミアが普遍的に備わっているために、どこの国であっても民主主義(とそれを通じた"対等な扱い")を希求する人は多かれ少なかれ存在する、という観点はやはり重要だ。最近の事例でいえば、アフガニスタンからアメリカが撤退してタリバンが支配するようになっても、現地の人々の多く…とくに女性たちがタリバンの撤退と民主主義の復活を求めている*6。言うまでもなく、テューモスもアイソサミアも、男性だけでなく女性にも備わっているからだ。

 フクヤマによると、「アイデンティティの政治」は、経済的利益ではなく尊厳をめぐる政治である。同性婚を求める運動にせよ、#MeToo運動にせよ、それは経済や生存に関する利益も絡んでいるが、根本的には尊厳の問題である。

 日本においては、一部の保守主義者・イスラム主義者・アンチフェミニストなどは、タリバンによるアフガン支配を、手を叩いて喜びながら歓迎しているようである。しかし、フクヤマの議論はある種の反動主義だけでなく文化相対主義ポストモダニズムに対する処方箋にもなるのだ。

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

そして、「大文字の歴史」に関するフクヤマヘーゲル主義的な主張が妥当であるかどうかはさておいて、『歴史の終わり』ではまた別の注目すべき議論がされていたことをSagarは指摘している。『歴史の終わり』は、政治体制に関する議論のみならず、「優越願望(プライド、気概)」と「対等願望」という人間の心理についての議論も行っている本であった。自分は他人よりも優れているということを証明して他人よりも良い待遇や尊敬を持って扱われたいという「優越願望」と、人は皆が差別なく平等に扱われるべきであり特定の立場にいる人が他の人よりも良い扱いを受けることは許せず、また自分も他人と同じくらいの待遇を受けて人として承認をされたいという「対等願望」という二つの心理は人間に普遍的に備わっているのであり、この二つの心理は歴史を通じて様々な社会においてイデオロギーや政治体制として表れてきたのであって、「優越願望」と「対等願望」はこれまでも抗争を続けており前者が優勢であったのだが最終的には「対等願望」を反映する自由民主主義が勝利することになった、というのがフクヤマの議論である。

だが、人間の普遍的な心理である「優越願望」は自由民主義体制においても結局は消えることはないのであり、スポーツや芸術などの形によって発散することはできるがそれにも限度はある。民主主義社会の内側で溜まった「優越願望」のエネルギーが、誰もが対等に扱われる民主主義を退屈で間違ったものであるとして自己否定を行うことで、せっかく辿り着いた「大文字の歴史」の流れは逆流する危険性がある、とフクヤマは指摘していたのだ。特に厄介なのは、それまでは他の人々よりも良い待遇を受けていたのが平等主義が広まることによって相対的に地位が転落していた人々であり、そのような人々は自分が当然のものとして見なしていた承認も奪われて騙されしまったように感じて、民主主義の否定に走るだろう。平和と繁栄を特徴とする自由民主主義社会に生きる人々が、まさにその平和と繁栄を否定し始めるのである。ソビエトが崩壊した以上はもはや共産主義の説得力は失われているので、民主主義を否定する人々はファシスト的な右翼を支持せざるをえない。…そして、先の大統領選でドナルド・トランプに投票したアメリカの白人たちの行動原理はまさにコレなのである、トランプ当選に代表されるようなポピュリズムファシズムがやがてアメリカに登場することをフクヤマは25年前の時点で予見していたのだ、というのがSagarの主張だ。

『歴史の終わり』はトランプの出現を予期していた? - 道徳的動物日記

 

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

…ルソーはいくつかの重要な点で間違っていた。まず、初期の人間は根本的に個人主義的だったという考えは正しくない。これが間違っていたといえるのは、第一に、社会化される前の人間がいたという考古学的・人類学的な証拠がないからであり、第二に、現生人類の先祖にあたる霊長類もきわめて社会的だったことが、ほぼ確実にわかっているからである。現存する霊長類は、複雑な社会構造とそれを支えるのに必要な感情機能を、はっきりと備えている。社会の進化のどこかの段階で誇りが現れたというルソーの考えは奇妙だと言わざるをえない。というのも、人間に内在するそうした感情が、外からの刺激に反応して自然に現れるのはどのような仕組みによってなのかという疑問が生じるからだ。もし誇りが社会的に構築されたものであれば、幼い子どもはそれを経験するよう何らかのかたちで訓練されなければならないはずだが、われわれの子どもたちはそんな訓練を受けてはいない。現在では、誇りと自尊心は脳内の神経伝達物質セロトニンのレベルと関係していることが知られており、チンパンジーはボスの地位につくとセロトニンのレベルが上がることもわかっている。どうやら、現生人類が互いに比較しなかったり、社会的承認を得たときに誇りを感じなかったりした時期はなさそうだ。この点において、プラトンのほうがルソーよりも人間の本性をよく理解していたといえる。

(p.58-59)

*6:

news.yahoo.co.jp

伝統を守ればいいというものではない(『啓蒙思想2.0』読書メモ②)

 

 

 前回の記事で書いた通り、理性とは不自然なものであり、せいぜいが適応の副産物に過ぎず、その力は限られている。

 たとえば、野球でボールがフライとなったとき、外野手は空を見上げながらボールを追っているうちに直感やヒューリスティックによってボールがどこに落ちるかがおおむねわかって、大体の場合にボールをキャッチしてアウトにすることができる(人間や動物には、さまざまな物理現象に関して考えなかったり仕組みがわかっていなかったりしても対応できるヒューリスティックが存在しているからだ)。一方で、「ボールがどこに落ちるかをまず割り出して、そこに向かって全速力でダッシュすれば、取りこぼしなく確実にボールがゲットできる」という考えは、机上の空論であり現実には確実にうまくいかない。バットで打たれたボールがどこに落ちるかを即座に計算できるほど、わたしたちの理性は高度ではないためである。

 また、植民地経営や開発援助の歴史では、現地人が伝統的に行ってきた農業や慣習について西洋人が善意から「そのやり方は非合理的だから、こうやったほうがうまくいく」とアドバイスした結果、状況がめちゃくちゃになる、という事例に事足りない。たとえば、ヨーロッパでは土壌浸食を防ぐために畝を作ることは有効だが、アフリカのマラウイの土壌で畝を作るとシロアリが侵食したり雨季には逆に土壌浸食がひどくなってしまった、など。ある地域や共同体に(畝を作らない、特定の作物を栽培しない、などの)「伝統」が残っている場合には、「理由」があるものと考えられる。日本でも、地名には災害の記録が残っているとか神社の鳥居は災害から安全な場所の目印となるとかいったことはよく言われている*1

 

…まったくのよそ者が複雑な生態系に入り込んでいき、どのように事態をまとめるのが最善かを基本的原則から考え出せる可能性は、ほとんどない。ところが、これこそ合理主義者が性懲りもなくなくくり返してきたことなのだ。

近代の保守主義はこうした啓蒙思想の傲慢への反動として誕生した。そのことはG・W・F・ヘーゲルの力強いがあいまいな「現実的なものは合理的」という命題に、見事に要約されている。つまり理にかなわないように思える場合にも、よく見れば、ものごとがそうなっている理由はたいがいあることがわかる、ということだ。人々はそれがどういう理由かを説明できないかもしれず、結局それは最大の理由ではないかもしれないが、現状をいじくる前に、ましてや解体し再建しようとする前に、その理由が何なのかを理解することが必要だ。こうして保守主義の気質は、どうすれば元に戻せるか、いわんや改善できるかを知らずに事物を分解する啓蒙思想の合理主義的傾向に対する、伝統の擁護として生まれたのである。

(p.97)

 

 第三章「文明の基本:保守主義がうまくいく場合」でヒースが取り上げるのは、『フランス革命省察』を著したことで有名なイギリスの思想家、エドマンド・バークだ。

 バークは革命に反対して伝統を擁護したが、その主たる論拠は、伝統的に存在する制度や慣習というものは長年にわたってなされてきた多くの微調整の産物であり、その制度や慣習が存在する理由をはっきりと述べることはできない場合でも、実際には存在するに至るなにかしらの理由が存在すると見なすべきである、というものだ。「こういう制度を作ったらみんなが幸せになるだろう」と頭で考えてイチから制度を作ろうとすると、思わぬところで非効率や不均衡などが出てきて、うまく行かない可能性が高い(というか、歴史上、理性でイチから社会を建設しようとしてうまくいった事例は存在しない)。それよりも、うまくいかないところの改善や問題への対策が蓄積されている、現状の社会と伝統を守ればいい、というのがバークの主張だ。

 ヒースによると、バークは伝統に従うことを支持するための合理的な議論を提出している。バークの主張は根っからの反合理主義というわけではなく、一種の新伝統主義であるのだ。

 

 理性がうまくいかない場面は多々ある。たとえば、因果関係を見つけにくいような物事や、介入から結果が出るまでに長時間かかるような物事は、理性よりも伝統や監修にしたがったほうがいい。インプットとアウトプットの相関が不明な物事においては、アウトプットを理性によってコントロールすることはほぼ不可能だ。子育てはこの最たる事例であり、大半の人が子育てに関しては保守的になる(また、子育ての経験によってその気質も保守的になる)。自分が親に育てられた方法を自分の子どもに実践しつつ、自分が嫌いだった部分や明らかに逆効果だった部分だけは取り除いたり変更したりする、という新伝統主義を子育て中の親たちは実践しているのだ。また、プラトンの時代から合理主義者やユートピア主義者は「家族」という制度を嫌っていたが、家族制度を廃止して集団的な子育てシステムを生み出そうとする試みは常に失敗してきたのである。

 社会を効率的に機能させるためには人々の協力が不可欠になるが、狩猟採集民の小規模な社会に適応して進化してきたわたしたちは、一定の人数を超える見知らぬ人たちが関わるなかで協力行動を行うようには進化してきていない。そのため、社会が機能するためには、集合行為のジレンマ報復感情フリーライダーの問題に対処しなければいけない。そして、諸々の制度や慣習は、人に自己利益や抜け駆けを諦めさせて協力へと誘導するために存在するのだ。たとえば、学校でのクラス分けやナショナリズムや宗教とは、部族主義バイアスを社会のために利用するクルージである。そして、家族という制度を廃止できないのと同じように、ナショナリズムを廃止しようとする試みも失敗してきた。

 裁判制度も、報復感情に基づく行動を禁じさせて、フリーライダーに対する処罰の権限を国家に独占させることで、社会を機能させるものだ。

 

もし文明の根本原理と呼ぶにふさわしいものがあるとすれば、それはこれ(引用注:裁判制度)だろう。実際、社会が乗り越えるべき大きなハードルの一つが、部族社会から階級社会への移行である。部族社会でとても高度な強力システムが組織されたとしても、そこで達成できる複雑さのレベルには明らかな限界がある。あらゆる主要な世界文明は、部族への忠誠を、広く階層的に組織され、実力行使の独占を要求する国家に従属させてはじめて発展したのだ。

(p.175)

 

 啓蒙思想家のなかにはベンサムやカントのように「道徳とは理性的なものだ」と主張する人もいればヒュームのように「道徳とは感情的なものである」と主張する人もいただ。が、そのどちらにせよ、道徳とは個人の内側に見出されるものだという考えを持っていた。しかし、ヒースによると、道徳も外的な環境を抜きには機能しないのである。

 

…周知のとおり、人々は伝統のくびきから解き放たれたら、おのずともっと大きな自由や平等に惹かれるわけではない。道徳的に行動するよう自分を動機づけるため多様な環境的クルージを駆使するのは、さほど驚くことではないだろう。ショッキングな発見は、道徳的な問題の判断までも環境に依存しきっていることだ。もっと協力的に行動すべきだと合理的に洞察している場合でも、実際にそのようにする意欲は、他者はどうするかの予想にあまりに大きく依存している。ほかのみんなが賄賂を受け取っているなら、収賄は「たいしたことじゃない」し、そのうえで個人が差し控えるのは無駄なことだと思う。そしてほかのみんなが囚人を拷問し民間人を殺害しているなら、やはり囚人を拷問し民間人を殺害することは「たいしたことじゃない」と考えがちなのだ。

したがって、道徳は私たちの心や頭のうちに存するではなく、複雑な文化的人工物であり、時間をかけて再生産・修正され、もともと個人間の相互作用のなかに「生きている」ものであると考えるほうがいい。これをはぎとったら、人々は本当に錯乱する恐れがある。

(p.122 - 123)

 

 しかし、伝統は「知恵」の積み重ねであるかもしれないが、見方を変えれば「偏見」の積み重ねでもある*2。たとえば、現代では女性に対する伝統的な態度は改められているし、その改変は失敗ではなく成功として判断できるだろう。伝統だからといって、何もかもを変えずに守ればいいというわけでもないのだ。

 さらに、現代の保守主義者たちはもはやバークのように伝統を擁護してはいない。代わりに彼らが擁護するようになったのは直感だ。直感は伝統と同様に理性と対立するものではあるが、理性とも伝統とも比べても、直感には欠陥が多い。そして、直感でも伝統でも不十分であって、理性が必要とされる場面というものは、やはり存在するのだ。

 

 第四章「直感が間違うとき:そして、なぜまだ理性が必要か」と第五章「理路整然と考えるのは難しい:新しい啓蒙思想の落とし穴と課題」で、ヒースは直感に備わる様々な欠点を挙げる。

 たとえば、信念の持続という現象により、わたしたちは一度抱いた印象やバイアスをそれが間違っていると途中でわかっても修正するのがこんなになる。また、わたしたちには様々なかたちで社会性が生まれつき備わっているが、上述したとおりそれは狩猟採集民の小規模な社会に最適化されたものであり、社会性や道徳に関して私たちに備わっている生身の感覚は、現代社会ではむしろトラブルの種になる。

 また、わたしたちは短期的な利益は考慮できるが長期的な利益は考慮できない将来の利益を割り引いて考えてしまう(双曲割引)、誘惑に弱い。確証バイアスによって自分の仮説にとって都合のいい証拠ばかりを集めてしまうし、逆に信念バイアスによって自分が間違っていると思った仮説については都合の悪いところばかりを目にしてしまうので、陰謀論疑似科学にコロリと騙されてしまう。

 そして、これらの問題に対処するうえでは、理性と制度、どちらもが必要となるのだ。

 

さて問題は、私たちが扱っているものをどのように区別すべきかだ。この場合には、瞬時の認識が見事に予知するか、それとも厄介きわまりない認知バイアスの元凶になるのか。実のところ、答えがどちらかも重要ではない。重要なのは、どのように答えを決めるかだ。なぜなら、この問いに答える唯一の方法は、それを合理的に考えることだから。そこにこそ理性と直感の決定的な違いがある。どちらの能力にも限界も強みもあるとはいえ、理性には自身の限界を対照実験などによって反省し認識できるが、直感にはできない。私たちは己の直感の限界を直感的に把握できないし、それどころか直感の信頼性の判断に用いているヒューリスティックには明らかに欠陥がある

(実際、直感は「正しくても正しくなくても、自分が正しいと告げる奇妙な本能」と評されてきた)。そのうえ、直感は自己補正できない。有効かどうかなど関知せずに同じ手を使いつづけるだけだ。

(p.128 - 129)

 

もちろん、限界の見きわめや欠点の修正に関して、理性は偉大だと言いたいのではない。それどころか、理性の歴史はほとんど過信と無理の連続であった。啓蒙思想1・0の欠陥のおおよそは理性の限界の認識不足から生じており、エドマンド・バークに代表される保守主義の反動はこの点の修正に役立った。自分の欠点と向き合うのは、いついかなるときにも困難な仕事である。理性の欠点はさておいて、大事なのは、この仕事をいくらかでもできる機能は理性だけということだ。だから限界を認識したあとでも、理性は直感よりよいという結論にとどまる。

(p.129)

 

だから結局、理性が最上位とされなければならない。すべての問題を片づけるのではなく、片づけ方を決めるという意味で。理性は、私たちがいつ直感に耳を傾けるか、いつ直感的反応を静止したり抑制したりするかの究極の決定者であるべきだ。無意識の働きがいかに目覚ましく印象深いものでも、私たちの乏しい論理思考がいかに不活発で偏向していても、人間の文化および社会の進歩の可能性は、まさしく理性の働きにかかっている。だから人類の幸福が多くの意味で論理的思考の能力によっていることは銘記すべきである。

(p.130)

 

 このあたりは、倫理学における「二層功利主義」の議論を思い出すところだ*3

 

 また、ヒースは伝統や制度が「袋小路」にはまり込む事例についても紹介している。

 たとえば、いったん警官たちが賄賂を受け取り出す状態になると、制度の細かい修正や漸進的な対策でこの状態を是正することは非常に困難だ。どんなルールを新たに制定してもそのルールの執行者は警官たち自身であること(強制力の問題)と、副収入が生まれることで警察の給料そのものの賃下げが起こってしまいそれまで賄賂を受け取っていなかった警官たちも賄賂を受け取るようになるということである(インセンティブの問題)。このような状況では、現状の警察制度の解体や総取っ替えなど、ラディカルで抜本的な対策が必要になる(実際に、2005年のグルジアでは交通警察隊の腐敗を一掃するために、30,000人の警察官全員を解雇するという手立てがとられた)。

 

したがって、社会変革はどのように起こるべきかという疑問への万能の解決法はない。バーク式の伝統への信頼とともに漸進的社会改革の効力がぴたりとはまるときもある。しかしまた、啓蒙思想の合理主義と急進的な改革が求められるときもある。例を挙げると、アメリカの警察制度は大きな権力の集中が生じないよう設計されている。その結果として、漸進的改革以外のことは非常に達成しがたくなってしまった。しかも漸進主義から生じる非効率は、時間が経つほどに蓄積されていくものだ。

(…略…)…アメリカの政治制度ではどうしても、何に対しても「オーバーホール」を行うことができない。

アメリカ人の多くはこれが自国のシステムの長所であると自分に言い聞かせているが、世界のどの国も模倣していないという事実が多くを物語っている。大きな問題には思い切った解決が要求されるときもある。これは経営者が理解に達したことだ。組織によって改革すればよいものもあるが、いったん解体して、まったく異なる原則に沿って組み立て直すべきものもある。「ボトムアップ」の解決法の力を尊重する必要はあるが、お互いの敵対心を自己拘束するシステムにすっかりはまって抜け出せない場合に備え、革新的で包括的な改革の余地も残しておかなければならない。だから理性の力を誇張しないことが大切である一方で、複雑なシステムの理解という点では、、ときに状況を進展させる唯一の方法は大きく野心的な改革計画であると心得ておくこともまた重要だ。しかし大きな計画は、合理的な能力を働かすことによってのみ、策定され実行されうるものである。

(p.178)

 

 ところで、「現実的なものは合理的」というヘーゲル - バーク式の「新伝統主義」は、現代のSNSの世界でも、ちょっとばかし知恵のついた保守主義者や差別主義者が好んで用いる論法であることには注意したほうがいいだろう。

 

企業や職場の様々に残る様々な旧弊的な制度、就活や飲み会などにおける謎のマナー、学校における部活や行事、地域共同体の慣習や因習…などなど、世の中には「非合理」に見える物事がありふれている。そして、往々にして、非合理な物事は誰かに負担をかけたり苦痛を与えたりなどの「危害」を生じさせるものだ。そのため、非合理的な物事は非倫理的であると批判されることが多い。

だが、誰かが物事の非合理性を批判したときには、必ずといっていいほど、別の「合理性」を持ち出すことでその物事を擁護する人があらわれる。「個人の観点からすれば非合理であるが、組織や規律の維持という観点では合理的だ」とか「短期的に見れば非合理だが、長期的に見れば合理的だ」などなどだ。

こういう議論について私はちょっとうんざりしているところがある。いかにも「理屈と軟膏はどこにでも付けられる」といった感じで、まったく説得力が感じられないことが大半であるからだ。

また、多くの場合には、対象の物事について最初に問題提起された「非合理性」から別の軸の「合理性」へと話をすり替えることで、その物事が誰かに危害を与えているという「非倫理性」についての告発が無効化されてしまうことになる、という点も気になるところだ。

「一見非合理的に見えるものにも実は合理的な理由がある」論について - 道徳的動物日記

 

 ヒースが、間違っていたものであり結果的に改められるにいたった伝統の例として「女性に対する伝統的な態度」を挙げているのは、やはり重要だ。

 たとえば昨今では夫婦別姓制度の導入に関する議論において、「合理的には理由は説明できなくても夫婦同姓の制度やイエ制度は長年守られてきた伝統だから、なにかの役に立っている可能性が高いから破壊すべきではないんだ」ということを主張する人が多々いる。しかし、ほぼ例外なく、彼らの主張においては(別姓を選択したいと思っている)女性の利益や幸福ということがまったく考慮されておらず、ふわふわした抽象的なものとしての「社会」や「国家」の利益しか考えられていない。実際のところは、「女の声によって物事や制度が変わるのがイヤだ」という反動的・差別的な感覚や意識を肯定するために「新伝統主義」の理屈を後付けで用いているに過ぎないのだろう。

 また、ヒース自身も、(部族主義バイアスを現代社会でうまく機能させるクルージとしての)ナショナリズムには好意的であるようだし、また、『反逆の神話』などでは「制服」という制度に対しての好意的な言及をしている。しかし、以前にも書いたように、ナショナリズムであろうが制服であろうが弊害は存在する*4。そして、ネットにおいて「制服必要論」を唱えたり賛同したりしているタイプの人々って、だいたいにおいて本人がおしゃれに関心がなく自由や自律も重視していなくて、「服装の自由」とそれに伴う利益が自分にとって無縁であるからその自由を制限するほうの考え方に手っ取りばやく飛びついているだけ、という風にしか見えない。「どの伝統や制度を守るべきか、どの伝統や制度を改善するべきか」という問題について考えるうえでは、それぞれの論者の気質やパーソナリティや関心や趣味嗜好とそれに由来するバイアスという点にも注意するべきだろう。

 …他人事みたいに書いているけれど、同様の問題は、わたしがよくやっている進化心理学の議論でも起こりがちなことであることには留意しなければいけない。

 

*1:

gendai.ismedia.jp

togetter.com

*2:ヒースは言及していないが、バーク自身は「偏見」という態度を好意的な意味で使っていたはずだ。

*3:

 

この問題に対して著者が提示する解決方法は「二層理論」だ。日々の生活や現場における直観レベルの道徳は偏っていて限定的であるくらいの方がうまく機能するので、その観点からすれば「ケア」のように偏りや不公平を含む倫理も認められる(自分の家族を他の人よりも優先すべき、など)。しかし、複雑な問題に時間をかけて対処したり制度設計をしたりなどの批判的思考が必要となるレベルにおける道徳は公平なものであらねばならない。そして、直観レベルにおけるケアの実践のあり方も、批判的のレベルの道徳(つまり、正義の倫理)による精査の対象とされなければならない。

ケアの倫理と二層理論/「アイデンティティ哲学」がつまらない理由 - 道徳的動物日記

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

中学や高校で学ランを着せられていたわたしとしては、実はを言うとヒースのような論者による「制服必要論」にはあまり賛同しない。学ランは暑いし重苦しいし不潔だし、女子の学校制服には痴漢などの性犯罪を誘発する側面がやはりあるだろう。また、「制服がないことで学校の規律が乱れたり過度なファッション競争が繰り広げられたりすることよりも、制服によって個人の自由や自律が抑圧されることの方がよっぽど深刻な問題だ」という主張はそれはそれでもっともなものであると思っている。

現実の問題を解決することから遠ざかるラディカリズム(『反逆の神話』読書メモ:後半) - 道徳的動物日記

理性は自然に反している(『啓蒙思想2.0』読書メモ①)

 

 

ポリティカル・コレクトネス」をテーマとした本の執筆をそろそろ本格化したいので、参考文献のひとつとしてジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』を数年ぶりに読み返しはじめた。

 

 冒頭で気付かされたのは、ヒースによる理性の議論はピーター・シンガーが『話の拡大』で行っていた議論とかなり似たところがある、ということ*1

啓蒙思想2.0』の第一章における、「理性が私たちに備わっている理由」や「合理的思考の特徴」に関する議論は、以下のようなものだ。

 

私たちの理性の能力は、他の目的を達成することを意図した適応の副産物であるに違いない。すなわち、われわれ霊長類の脳は合理的思考用にデザインされてはいない

(p.61 - 62)

 

このことは、啓蒙思想の理想をアップデートするとなったときに非常に重要だ。理性は自然のものではない。きわめて自然に反したものだ。同時にそれは、私たちを動物の心の束縛から抜け出させることができる唯一のものである。となれば、理性には私たちを自然状態から解放する可能性がある一方で、そのプロセスが簡単だと期待できる理由はまったくない。

(p.62)

 

 ヒースによると、理性は言語を通じて機能する。言語とは他人とのコミュニケーションを用意にするために進化したものであり、その最も基本的な用法の一つが、他人に対して指図することだ。また、指図を自分自身に向けて計画を立てれば、自己を管理することにも使える。そして、言葉の文法とは「再帰」などの複雑で抽象的な処理を可能にして、自然の状態ではできない考え方を可能にするものでもあるのだ。

 言語によって成り立つ合理的な思考には、ふたつの大きな特徴がある。まず、合理的な思考は明示的である。合理的な思考は言語によって組み立てられているからこそ、結論に達するにいたる過程を、順序立てて表現して、明確に再現することができるのだ(これは「直感」には不可能なことである)。つぎに、言語とは普遍的だ。言語は公的であるからこそ機能するものであるために、言語のルールは、すべての人にとってだいたい同一である。そのため、その言語によって成り立つ合理的な思考も、公的なものとなる。結果として、自分が「説得力がある」と思うような議論や主張は、多くの場合、他者にとっても「説得力がある」と思えるようなものになるのだ(同じルールに従っているため)。

 

このため人々の脳はとても違っているのに、また分野ごとに能力が大きく異なるのに、誰もがほぼ同じように合理的思考を行う。このたとえはいささか誤解を招きかねないが、人間の理性による思考は、異なるハード環境でも同じように動作するアプリケーションソフトに(またはどのブラウザでも見られるウェブサイトに)似ている、という言い方には一理ある。例として、男と女とでは脳の化学作用、生理機能、発達に大きな隔たりがある。それでも認知の明確な性差が現れるのは、周辺のモジュール式のシステム(たとえば空間回転とか、環境のわずかな変化を探知する能力とか)だけである。男女の脳の違いが騒がれるわりには、男と女が論理的に考えるしかたには意外なほど違いがない。

合理的思考は言語に依存しており、その逆ではないという発見は、相対主義的な帰結をもつと長く考えられていた。実際、ポストモダニズムの大部分とそれに伴う理性への攻撃は、この発見に対する初期の過剰な反応にほかならない。騒ぎが収まってみると、相対主義を裏づける証拠になるどころか、事実はその逆だったことが判明した。世界には数多くの異なる言語があり、つまり多くのさまざまな趣の考えが存在する。それでいて、こうした諸言語に顕著な特徴は、すべて基本的に翻訳可能であるということだ。必要な時間とエネルギーを費やすにやぶさかでない人が学びえない言語というものに、私たちはまだ出くわしたことがない。したがって、理性は言語に依存しているという考えと、理性は普遍的な構造を有するという考えとは何ら対立するものではない。

(p.68)

 

 

 一方で、シンガーが『輪の拡大』でどんなことを主張していたかについては、要約して紹介しているスティーブン・ピンカーの文章を引用しよう(ややこしいな)。

 

私たちの認知機能は、特に必要があってこの方向に進化してきたのではない。だが、ひとたび制限のない推論システムが獲得されると、たとえそれが食料調達や同盟確保といった日常的な問題のために進化したのであっても、その推論システムは必然的に、別の命題の帰結である命題まで受け入れるようになる。あなたが自分の母語を獲得して、「これはネズミを殺したネコです」を理解できるようになると、あなたは必然的に「これは麦芽を食べたネズミです」を理解することになる。「37+24」の足し算の仕方を覚えると、必然的に「32+47」の輪を導くようになる。この芸当を、認知科学者は体系性(システマティシティ)と呼び、言語と推論の基礎にある神経系の複合的な力によるものと見なしている。したがって、種のメンバー同士が互いを理で説く力を持っていて、その力を発揮する機会を十分にもてれば、遅かれ早かれ、彼らは非暴力をはじめとする相互配慮による互恵に気づくことになり、それをさらに広く適用しようとするようになる。

これこそピーター・シンガーが最初に明確化した「輪の拡大」の理論である。私はこのシンガーの比喩的表現を、視点取得の機会が増大したことによって同情の範囲がさらに多様な人間集団に広がったという歴史的プロセスの名称として使わせてもらってきたが、シンガー自身の念頭にあったのは、むしろ感情よりも知性だった。

(『暴力の人類史』下巻、495ぺージ)*2

 

啓蒙思想2.0』では「倫理」や「道徳」が直接的に取り扱われているわけではないが、文明の基本は部族主義や身内びいきなどの自然的なバイアスを理性の力によって乗り越えることである、と主張されている。第二部「不合理の時代」でヒースが論難しているのが保守主義・右翼・ポストモダニスト・(ケアの倫理や差異派フェミニズムを主張しているようなタイプの)フェミニストであるが、多かれ少なかれ、彼らはシンガーのような功利主義者にとっての論敵でもある。

 まあ要するに、心理学や進化論における「感情」に関する議論をふまえたうえで「理性」の優位を主張する、という点ではヒースもシンガーもピンカーも軌を一にしているということだ。

 

 第二章「クルージの技法」では、ダニエル・デネットの議論が下敷きとなっている。

 

人間の理性は、自動車部品で作られたヘリコプターと多くの共通点がある。ダニエル・デネットの所見はこうだ。「(理性の)最も奇妙な特徴の多くと、とりわけその限界とは、クルージの副産物だからということで説明することもできる。クルージとは既存の器官を、奇妙であっても効果的なかたちで新しい目的のために再利用することを可能にしてくれる解決策だ」。デネットがここでクルージという言葉を強調しているのは、これが重要な概念だからだ。この言葉は一般にエンジニア、修理工、コンピュータプログラマーが、根底にある問題を本当には解決しないで何かを機能させるという問題解決法を説明するために用いられている。

(p.74)

 

 第二章で強調されるのは、わたしたちの理性が機能するためには道具をはじめとす流外的な環境が必要とされる、ということだ(拡張された心論とも呼ばれる)。たとえば、ほとんどの人は二桁の掛け算を行うことができるが、そのためには紙と鉛筆を用意してもらって筆算をしなければいけない。だからといってわたしたちの脳がとりわけ不完全な器官だということにはならない。消化器官が機能するためにはもろもろの大腸菌が必須であるのと同じように、脳が機能するためには適切な道具と環境が必要である、ということだ。

 脳にせよ思考にせよ、進化的には生存と繁殖のために進化してきたものである。それとは別の目的のために脳を使用するためには、余計な刺激がなく思考が阻害されない環境が必要となる(静かで音楽も騒音もなく、馴染み深くて、新しいものや注意を弾くようなものがなく、セックスを連想させるものもない環境であり、なおかつ体のどこも傷んでおらず、健康体で、空腹が満たされていて、休息がとれている状況が望ましい)。

 ヒースは、人間とは認知の外温動物であると表現している。トカゲが体温調節のために日光浴をしたり日陰にこもったりして外的環境を利用するのと同じように、わたしたちも認知の能力を(生存と繁殖以外の目的で)機能させるために、外的環境を整えるのだ。

読書メモ:『きみの脳はなぜ「愚かな選択」をしてしまうのか:意思決定の進化論』

 

 

 

 同じ著者のダグラス・ケンリックが書いている『野蛮な進化心理学』は名著なんだけれど*1、こちらはなぜだかやたらとつまらない。ヘンな嫌味が多いのがダメなんだと思う。

 

『野蛮な進化心理学』のときと較べて、「七人の下位自己」という「心のモジュール性」を強調した内容となっている。わたしたちのなかには自己防衛・病気回避・協力関係・地位・配偶者獲得・配偶者保持・親族養育をそれぞれの目的とする下位自己が存在しており、異なる場面で異なる下位自己が顔を出すため、ついつい言行不一致になったり矛盾した行動をとっちゃったりする、というお話。しかし、「心のモジュール性」やそれから生じる自己欺瞞の話題については、ロバート・クルツバンの『だれもが偽善者になる本当の理由』のほうがずっと面白い*2。『野蛮な進化心理学』で打ち出された「ケンリックのピラミッド」はこの本でも出てくるが、やっぱりこっちの話をメインにしたほうがいい。

 また、この本では「経済学的には不合理に見える行動が、実は、進化的には深い合理性に裏打ちされた行動なのだ」ということが何度も主張されている。この主張自体はかなり興味深く、深掘りしたら哲学的にも相当面白い内容になりそうなのだが、有名人とか実際に起きた事件のどうでもいいエピソードとしょうもない皮肉が連続するためになんだか全然のめり込めない。たとえば、「政治的な投票は経済的な利益ではないもっと複雑で多様な利益を反映したものだ」というポイントを実証的な政治学研究で示した、またもやロバート・クルツバンの The Hidden Agenda of the Political Mind: How Self-Interest Shapes Our Opinions and Why We Won't Admit It のほうがずっとよいです*3

 

…深くのぞけばのぞくほど、人の決定は、表面上ばかげていて不合理な場合があっても、たいていは深い進化レベルで理にかなった無意識のプログラムが導き出したものであることが見えてくる。たとえ意思決定をしている人が決定の背後にある進化上の理屈を説明できないとしても、人は進化上の利害にだいたいは都合の都合のいい決定をくだすよう進化してきた。だから、自分が全知の経済人だとは考えないほうがいいし、ほかの人が自滅的な愚か者だと思わないほうが身のためだ。

(p.295)

 

↑ 本書のコアとなる主張。

 

(「ザ・バチェラー」とは)対照的に、「ザ・バチェロレッテ」では、二五人の男性がひとりの幸運な女性のプロポーズするために競い合う。男性たちは、彼女にしたい女性の前では礼儀正しく気品があり、いかに自分が身を固めて子どもをもちたがっているかを女性に力説する。その一方で、女性がまわりにいないと、男性たちはけだもののように素手で殴り合いをはじめる。男女比が暴力におよぼす影響は笑いごとではすまない。インドでは地域によって男女比が大きく異なり、男女比が一パーセント変化すると、殺人率が五パーセント変化する。殺人は、女性が希少だと劇的に増加する。

(p.255)

 

 ここらへんはやっぱり「男性の暴力性」を考えるうえでのカギとなるだろう。