道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

著書『21世紀の道徳』が出版されます

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 初の著書が出版されます。帯文は東浩紀さんからいただきました(現代哲学を「政治的正しさ」の呪縛から解放する快著、とのことです)。

 このブログにいままで書いてきたことをブラッシュアップして、本格的な論考にして、本として読みやすくおもしろいものに仕上げた内容になっています。

 

【目次】

■第1部 現代における学問的知見のあり方

第1章 リベラルだからこそ「進化論」から目を逸らしてはいけない
第2章 人文学は何の役に立つのか?
第3章 なぜ動物を傷つけることは「差別」であるのか?

 

■第2部 功利主義

第4章 「権利」という言葉は使わないほうがいいかもしれない
第5章 「トロッコ問題」について考えなければいけない理由
第6章 マザー・テレサの「名言」と効果的な利他主義

 

■第3部 ジェンダー

第7章 フェミニズムは「男性問題」を語れるか?
第8章 「ケア」や「共感」を道徳の基盤とすることはできるのか?
第9章 ロマンティック・ラブを擁護する

 

■第4部 幸福論

第10章 ストア哲学の幸福論は現代にも通じるのか?
第11章 快楽だけでは幸福にたどりつけない理由
第12章 仕事は禍いの根源なのか、それとも幸福の源泉なのか?

 

終章 黄金律と「輪の拡大」、道徳的フリン効果と物語的想像力

 

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現代だからこそパターナリズムが正当化される理由(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑨)

 

 

 

 先日の記事でも述べたように、現代社会は、わたしたちの報酬系認知バイアスの欠陥をついて健康と時間(とお金)を奪うような商品やシステムで溢れており、そういう点ではわたしたちの生きる環境は有害なものとなっている*1

 現代社会、とくに都市におけるもうひとつの問題が、見ず知らずの他人しかいないことだ。外を出歩いたり車を運転したりするとき、周りの人たちは自分とは縁もゆかりもなく、互いに顔も覚えないような状況では、人は向社会的な行動をとらなくなり、衝動的な行動を取りやすくなる。たとえば、小さな町であれば車種やナンバープレートで「あれは〇〇さんの車だ」と他の住民に伝わってしまうから、そういう町に住む人の運転は丁寧なものとなる。危険運転をしているところをみんなに見られて、後ろ指をさされたり評価を下げたりすることを避けたくなるからだ。

 狩猟採集民の暮らしていた集団は多くて数十人から百人前後の小さなものであり、構成員は互いの顔や名前を覚えていて、集団の利益に反したり集団に害を及ぼすような行動をする構成員がいたらその評判はあっという間に伝わって、制裁や処罰が下されていた。人間の道徳感情は、周囲の評判がサンクションとして機能する小さな社会に適応して進化してきたものだ。わたしたちが行動や生き方に抑制や調整をはたらかす際には、自己完結的なセルフコントロールだけでなく社会的コントロールのシステムが存在することが前提となっている。

 現代社会の都市という環境は、社会的コントロールを奪い、自己完結的なセルフコントロールだけで行動や生き方を抑制・調整するような試練をわたしたちに課しているのだ。そして、『啓蒙思想2.0』では、人間の理性とは個人の内側だけに存在するものではなく、外側にある環境とセットになることでようやく十全に機能するものである、ということが繰り返し強調されている。社会的コントロールが奪われた状況とは、セルフコントロール能力に機能不全が起こっている状態だということなのだ。

 昔ながらの田舎の環境とは不自由で抑圧的なものであるように思えて、それを嫌がる若者の多くが、田舎から都市へと脱出する。しかし、社会的コントロールを奪われた都市での生活で、わたしたちがほんとうの意味で「自分の意志」で行動して「自分らしい生き方」をできているとは限らない。もしかしたら、人の網の目のなかで周りに気を使いながら自分の行動をあれこれ抑制したり調節したりしてはじめて、「人間らしい生き方」というものが実現できるのかもしれないのだ(人間とはずっとそういう生き物として進化してきたので)。

 

この点で、薬物依存、不倫、離婚、長期の失業といった、さまざまな形の破綻で個人に烙印を押すまいとするリベラルのやり方に、保守派が不満を表明しているのも一理ある。リベラルのいつもの主張は、こうしたことは当人の罪でないこともよくあるから、社会がつらい思いをさせて踏んだり蹴ったりの目に遭わせるべきでないということだ。もちろん、これにもっともなところはある。遺伝的にアルコールや薬物依存になりやすい人もいるし、子供の父親に捨てられる女性もいるし、経済危機で自分に責任のない数百万人が失業することもありうる、などなど。けれども、これらのどの問題にもセルフコントロールの側面が存在する。遺伝的にアルコール依存になりやすくても実際ならない人は大勢いる。相手の男は信頼できないと頭の片隅でわかっていて、子どもを作るのを控える女性は大勢いる。皮肉なのは、リベラルはこうした破綻に伴う社会的烙印を弱めることで、そうとは知らずに、成果をあげるのに必要なセルフコントロールをできにくくしている。それこそこうした烙印が重要な足場の役割をする理由である。烙印があるからこそ依存症に陥るのを、不倫に走るのを、親の責任を果たさない親になるのを、失業するのを避ける、もう一つの動機が与えられる。

(p.367、強調は引用者による)

 

 また、現代社会では個人の自由の範囲が拡大しており、それと同時にセルフコントロールを損なわせる構造があちこちで出来上がっている。たとえば、アメリカでも日本でも、国民の睡眠時間は年々減り続けている。その原因は労働時間や通勤時間の増加とも限らず、むしろテレビやゲームやインターネットなどの娯楽の発展により、夜更かしをする人が増えていることにある。また、商店や飲食店の営業時間は遅くなり、終電の時間も遅くなったことで、夜遅くまで外で遊ぶこともう容易になってしまった。これらの変化はたしかにわたしたちの生活を楽しいものにはしているが、寝る時間を奪うことでしんどいものにしていることも否めない。一方で、一昔前はゲームもインターネットもなく、テレビは深夜になったら放送終了していた。「もう寝る時間ですよ」というメッセージを、社会環境が個人に対して発していたのだ。

 

 先日の記事でも論じた逆適応が生じることで、諸々のお菓子や飲み物は異常なカロリーや塩分や糖分を含むように進化した。また、アメリカではいつの間にか「キングサイズ」のチョコレートバーが標準化して、自販機や小売店では普通サイズのチョコレートバーを買うことのほうが難しくなっている。このような状況を放置していたら、国民がどんどん肥満や生活習慣病になっていくことを止められない。しかし、食品のサイズやカロリーに対する法規制はパターナリズムとして批判される。

 パターナリズムへの反論でもっともの有名なものが、J・S・ミルが『自由論』のなかでおこなっている議論だ。ミルは、「ある人の気持ちや立場を最も理解しているのは、その本人である」「なにが自分のためになって、なにがそうでないかは、本人がもっともよく判断できる」と論じて、個人の選択肢や判断を法や国家がコントロールすることは不当であると論じた。

 

しかし現代の認知バイアスの研究は、ミルの主張に課題を突きつける。もしも私たちの犯す誤りがランダムで予測しがたければ、国家は個人の判断にとやかく言うことに苦労するだろう。役人が一度か二度、正しく推測する一方で半ダースは間違えてしまい、最終結果はマイナスとなる。しかし認知バイアスという概念に従えば、人は論理的に思考するなかで系統立った誤りを犯すのであり、そのため誤りはきわめて予測しやすい。つまり不合理に対処するときに、法的パターナリズムは最終的に利益を生み出せる可能性がある。

(p.371)

 

 たとえば、保健所の検査官がレストランに定期的な衛生検査を行って、衛生状態に問題があったら営業停止することは、レストランの経営側だけでなく「多少は衛生状態に問題があるとしても、そのお店で食べたい」という客側の自由も奪うという点で、パターナリズムである。この処置が正当化されるのは、厨房の状態がどうであれ出てくる料理が一見するとまともであったらその料理の危険性を判断する能力が個人にはないこと、「自分は食中毒になんからない」という楽観バイアスが存在すること、またレストランに着いた客はたいていは空腹であるために「この店は衛生状態に問題があります」という警告を掲げられていても関係なしにいますぐ食事をしたがること、などなどが背景にある。

 わたしたちは、空腹であるときには「衛生状態よりもいますぐ食事できることのほうが重要だ」と考えるかもしれないが、そうでないときには「レストランの料理のせいで食中毒になるなんて最悪だから、営業状態に問題があるレストランは閉まってくれていたほうがありがたい」と判断するかもしれない。わたしたちの判断は、状況やコンディションによって変わる。ミルは「なにが自分のためになって、なにがそうでないかは、本人がもっともよく判断できる」と主張したが、空腹であるようなタイミングでおこなった判断はあとから「あんな判断は自分自身のためにもならない」と後悔する可能性が高い。空腹という特殊な状態において下した判断が、自分自身の長期的な利益を考慮した判断となる可能性は低いのだ。……ならば、そのような判断をしてしまう機会がそもそも排除されるのは、自由は奪われるかもしれないがわたしたちにとっては利益となるかもしれない。

 そして、先述したように、わたしたちが生きる環境は認知バイアスヒューリスティックの弱みや欠陥につけ込み、セルフコントロール能力を奪う、敵対的なものとなっている。そのまま放置したら、わたしたちは短期的な衝動や誘惑に負けて、後から振り返ったら後悔するような行動を、どんどんしてしまう。だからこそ、現代では、パターナリズムの必要性は増しているのである。

 

 キャス・サンスティーンとリチャード・セイラーによる「ナッジ・パターナリズム」に関するヒースの評価はこちら。

 

 

アメリカの年金制度について、「加入したい人が書類を作成する」という既存のオプトイン方式から「原則として自動加入で、脱退したい人は書類を作成する」というオプトアウト方式に変更すべきだ、というサンスティーンとセイラーの主張に関して:)

 

ここでの重要な考えは、ナッジは人々の経済的インセンティブを「大きく」変えないということだ。あるいはむしろ「客観的には」と言ってもいい。なぜなら意思決定の時点でインセンティブは大きく変わるからだ。それは行動を変えるのだ。書類の作成はある種のコストである。必ずしも経済的なものではないが、コストはコストである。時間がかかるし、精神的な負担になる。だからオプトイン方式は、書類作成を求めることで、基本的に加入を妨げている。オプトアウト方式へ切り替えれば、コストは加入しない手続きのほうへ転換される。掛けられている年金額と比べたらわずかなものだから、たいしたことではないように思える。にもかかわらず、それが本当に負担でないならば、その転換が人々の決定に影響を及ぼすことはないはずである。

そうしてサンスティーンとセイラーが本当に奨めているのは、私たちの不合理が(ヒュームの言を借りれば)「自らを治療」するように外部の選択環境を整えることだ。私たちは目先に囚われすぎて自分の退職後を心配しないうえに怠け者すぎて書類作成もしない。退職後の蓄えを減らすために書類作成が必要になるようにすることで、不合理の一つを、もう一つと相殺するように利用できる。怠惰さが近視眼的な視点の治療薬になる。

(p.374 - 375)

 

「独学」がダメな理由(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑧)

 

 

 

どうやって正気を取り戻すかを考えるとき、合理的思考の根本的な特徴をおさらいしておくことは役に立つ。時間がかかる。注意力が求められる。言葉に基づいている。意識的。非常に明示的。またワーキングメモリに依存しているせいで活動が妨げられやすい。したがって、論理的思考の中間段階をメモ書きするといった外部化から恩恵を受ける。どうしてこの思考様式がすっかり環境に支配されてしまっているのかは分かりやすい。スピードという単純な問題だ。理性の遅さについて考えてみよう。ある考えや主張はかなり簡単なものでも、説明するのに優に一〇分から一五分はかかる。しかも教室という恵まれた環境の外で、きちんと座って、何かを説明する人に耳を傾けるよう強いられること(リモコンでチャンネルを変えたり、フェイスブックをチェックしたり、話の腰を折ったりはしないで)は驚くほどめったにない。宗教上の説教が大切な例外だ、という人もいる。ただし、話題の範囲はとても限られがちだ。つまり、人は学校教育を終えると、断片的には伝えることのできない新しいものごとを学ぶ機会はほんのわずかしかない、ということだ

(p.355,強調は引用者による)

 

 ヒースが具体例として挙げるのが「自由貿易のメリット」である。「比較優位」などの概念を前提とするデヴィッド・リカードのモデルを理解すれば、国際貿易がなぜ(原則として)二国間のどちらをも豊かにするかということが理解できる。しかし、「賃金水準が大きく異なる二国間の貿易でも、豊かな国の賃金に下げ圧力が生じない」という状況はきわめて直感に反する。そして、リカードのモデルはさほど複雑でないとしても、ある人が「リカードのモデルを理解しよう」という意志を持ったうえで理解可能な状態になることは、かなり不自然なことである。具体的な物事を脱文脈化して、ある程度の過程を受け入れたうえで、「二つの財を交換する、二人の関係」について抽象的に考えなければならないからだ。このような行為には、抽象的に考えることのみならず、「片方の人の取り分が増えたら、片方の人の取り分は減るはずだ」というゼロサムゲームを前提とした「基本的演算バイアス」という日常的な直感に反して考えることも必要とされる。

 リカードのモデルに限らず、「議論」を理解して「学習」することには、日常的な会話ではありえないような「前提」や「条件」を理解したうえで自分の直感に反する思考をおこなう、という不自然(で苦痛)な行為が要請される。また、このような行為には、かなりの量のセルフコントロールが必要とされる。そして、学校の「教室」とは、学習に伴う負担を減らすために設計された環境であるのだ。

 

教室の重要な特徴の一つが、学生は授業の邪魔をしてはならないとことだ。質問があれば手を挙げさせられ、なおかつ教師には「あとで。このポイントを説明してから」と言える特権がある。これは議論の持続という点では、実は非常に重要なことだが、およそほかの社会的状況ではひどく不自然で落ちつかない。リカードでも、ほかのなんとなく込み入った議論でもそうだが、たとえばディナーパーティーの席で説明しようとしたら、いくつかの社会慣習を破らずにするのは不可能だとわかるだろう。そもそも、なにしろそれだと長い時間しゃべりすぎて「退屈な人」にならざるをえない。それに、口を挟んでくる人というのは必ずいて、たいていは勇み足で異論を述べたり、冗談を言ったり、議論から脱線した問題を提起したりする。あいにく、間が悪くならずに一〇分間でも話しつづけられる「自然な」社会環境などはほとんどない。認識すべき重要なポイントは、こうしてそれがこの環境で伝えることのできる種類の考えかどうか、ふるいにかけられているということだ。

(p.357)

 

 教室に限らず、「書き言葉」、つまり「本」も学習を可能にすることができる例外的な装置である。理解するのに一〇分や二〇分では済まないような議論については、本が必要とされる。たとえば、ヒースによると、「進化論」を理解するには最低でも一時間はかかる。進化論は「数十億年」という時間のスケールが大前提となっているが、わたしたちが時間について持っている時間の長さの「感覚」は、「十年とはどんな長さか」や「百年とはどんな長さか」ということくらいまでなら判断できるが、それ以上は「すごく長い」ということしかわからない。したがって、万年や億年かかることが当たり前である自然選択のメカニズムを理解するためには、理論とともに数々の証拠が掲載された本を参考にしながら、「心」ではなく「頭」で受け入れるしかないのだ。

 テレビでは草創期から数々の自然ドキュメンタリー番組を放映してきたが、そこでは進化論が正しいことは前提とされているが、進化論の考え方についての説明は一切ない。尺が足りないだけでなく、動画で視聴したところで理解できるような考え方ではないためだ。その一方で、学校に通った人たちは、教科書という本の助力を得ながら、国際貿易や進化論についての理解を得ることができる。「学校」とはカリキュラムだけではなく、社会環境でもあるからだ。

 

このため、社会で合理性を育むという点では、伝統的な正規学校教育に代わるものはない。旧式な教育環境に関して権威主義だと批判されたことの多くーー教師による教室管理、整然と並べられた机、読書課題、問題集、しめきり、テスト、そして最後に成績評価ーーは、同時に集中力、計画性、目標達成についてセルフコントロールの不足を補うように作られた、外的な足場と見なすことができる。当然のことながら、特権を濫用する教師もいる。けれど教室での学習の利点を知るには、独学の人としばらく会話してみるだけでいい。独学者に最もよく見られる特徴は、規律のなさーーとかくよい考えと悪い考えを区別できないのに加えて、落ちつきのない認知スタイルである。確証バイアスはとりわけ深刻な落とし穴だ。伝統的な教室とカリキュラムの利点の一つは、自分以外の人が系統立てたとおりに教材を学ばされ、最初から共感できることだけでなく抵抗のある考えをも理解できるようになることだ。自学自習には選り好みしたくなる誘惑があるから、そのせいで独学者はとりわけ確証バイアスと陰謀論に陥りやすいようだ

(p.359、強調は引用者による)

 

 わたし自身、大学院の後半から現在に至るまでほとんど「独学」のみでやってきた人間であるので、ヒースの指摘はじつに耳に痛い。自分のことは棚に置いてほかの独学者の人を観察してみても、たしかに、確証バイアスの餌食になっている人は多そうだ。

 ちなみに、独学者にありがちな特徴のひとつが、自分にとっての「スター」や「カリスマ」となる学者や思想家を発見して信奉するあまり、教科書による体系的な知識ではなく、スターやカリスマの価値観やイデオロギーや好き嫌いに振りまわされることである。カリスマ学者自身は体系的な知識を前提としたうえで自分の思想を打ち立てているはずだが、前提となる体系的な知識を持っていない独学者は、カリスマの言っていることを場当たり的で表面的にコピーした劣化版にならざるを得ない。

 

 とはいえ、独学者にとっては幸運なことに(?)、近年のアメリカの人文学や社会科学では「カリキュラムの破壊」が取り沙汰されるようになっている*1

 また、教師を招かずに学生同士が対等な立場で参加して発言する「読書会」は日本の大学に独特な文化であるが、教師の代わりに「よく知っている詳しい上級生」がファシリテーターになるとしても、読書会からは「教室」が持つような種類のメリット(バイアスを抑え込む「不自然」な思考を強制して、自分が興味のないことまでをも学ばさせられること)が失われることは明白であるように思える。

 見方によれば、読書会とは、「独学」を十数人で一緒におこなうことに過ぎない。レジュメを作成してきて議論をおこなう必要があるために独学よりも知識は定着しやすいだろうし、他人が参加することで自分の思いこみやバイアスや間違いが指摘されるというメリットもあるが、参加者の問題意識や価値観が共通していると、知識の選り好みや確証バイアスはむしろ悪化する可能性も高い(エコーチャンバーなりフィルターバブルなりサイバーカスケードなりは、ネット環境だけで起こるとは限らないのだ)。「読書会文化」が日本の(人文系)知識人にもたらしている負の影響についても、どこかのだれかに調査や分析をしてもらいたいものだ。

インターネットで「言論」は成立するか?(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑦)

 

 

 

政治的言説の質にインターネットが与える長期的な影響はまだはっきりとわからない。これはテクノロジーが急速に変化しているからでもあり、伝統的なメディアーー特に新聞ーーに対する影響がまだ定まっていないからもである。当然ながら、ツイッターには字数の制限があるため、合理的な討論には不都合だ。それは言葉による平手打ちのけんかを助長している。ツイッターが課す驚くべき「スピード欲求」もまた、合理性の立場から見ると破滅的である。だからジャーナリストや専門家がいまや毎日何時間もつぶやいたり、つぶやきを読んだりに費やしているのが、よいことであるはずはない。

ブログにはもっと大きな可能性があって、明らかに政治文化の重要な要素になった。しかし興味深いことに、合理的な討論をつづけたいと考えているブログやメディアのサイトは、「荒らし」という他人を怒らせることだけが目的でコメントを投稿する連中を積極的に検閲しなければやっていけない。

(……中略……)

そのうえ、インターネットが復活させた文字主体のコミュニケーションはつまるところ回線容量の制限の結果にすぎないのかもしれない。どんどん大量のデータが送りやすくなるにつれて、ビデオの重要性が着実に高まっている(だから、いまやただブログに記事やコメントを投稿するよりビデオをアップロードして、周りに「お返し」ビデオのアップを求めるような状況だ)。視覚メディアの多用への移行は、まさしく期待される言説の質に影響を与える。いずれ過去一〇年間を振り返ったとき、それこそ技術的制約のせいで長文メッセージを打って送りあい、ブログに文字コメントを残すしかなかったゆえに、公的な言説の「黄金時代」として懐かしむ、というのは充分ありうる話だ。

(p.398 - 399)

 

啓蒙思想2.0』の原著が刊行されたのは2014年だが、この頃からTwitterが言論に与える影響の問題点は認識されていたわけだ。そして、YouTube花盛りな現在の惨状をふまえると、動画メディアへのアクセスが容易になることで言論の質がさらに低下することを危惧するヒースの意見は、まさに正鵠を射ていたのである。

 私見を述べると、インターネットが言論の質を低下させるのと同じように、マーケティングも言論の質を低下させる。「消費者にリーチして、金を稼ぐ」ことを目的にした時点で、虚偽や誇張を含まずに事実に基づくことに対して負のインセンティブがはたらいしてしまい(虚偽であろうと消費者にウケることを言ったほうが儲かるからだ)、間違いを指摘されたらそれを受け入れて意見を変えたり反対陣営の言うことに耳を傾けたりすることもしづらくなる(党派性に阿った極端な意見を毎度同じように言い続けるほうが、固定客をつかまえて商売になりやすい)。そして、インターネットとマーケティングがあわさってしまうと、もう最悪だ。

 

 noteのような「定期購読」システムは、ふわふわしたエッセイやマニアックで罪のない趣味に関する文章ならともかく、政治や社会問題に関わる文章については、アフィリエイトブログよりもさらに有害なものとなりやすい。そもそも、大学やマスメディア会社などに所属しておらず組織のリソースも使えないひとりの個人が、政治や社会問題について党派性に左右されない有益でオリジナルな知識や知見を定期的に提供することは、ほぼ不可能に近い。それよりも、特定の立場に偏った意見を言ったほうが「読者」を獲得しやすい。だが、途中から意見を変えたり指摘を受けて反省したりすると、せっかく獲得した読者が失われてしまう。読者は、同じような意見をこれからも言い続けることを期待したからこそ、「定期購読」を開始したからだ。さらに、マガジンをハイスペースで定期的に更新しなければ、やはり読者が定期購読をやめてしまうおそれがある。だから、noteのマガジンで書かれる文章は、必然的に粗製濫造なものにならざるを得ない。

 さらに、新規読者をマガジンに流入させて購読させるためにはTwitterでの「宣伝」活動や、マガジンの無料部分での「釣り」をするなどの努力や工夫が必要とされる。政治や社会に関する話題であれば、批判対象となる「敵」をつくって戯画的に表現したりバカにしたりすることで、同じ「敵」を持つ人たちを同調させて党派心や部族主義を煽ることが、もっとも手軽で効果的な宣伝手段となる。そして、noteを購読するまでには至らない人たちも、「宣伝」や「釣り」は目にするので多かれ少なかれ部族主義を煽られて、そして攻撃の対象となっている「敵」の側も黙ったままではいられないから、結果として言論の質は共倒れ的に大幅に低下することとなる。……既存のブログメディアや「買い切り」形のweb記事、新聞や雑誌やテレビなどの旧来のマスメディアにも同様の問題は存在するだろうが、個人の記事を「定期購読」で売るシステムではその問題を激化させやすいということだ。

 

 よく、Twitterに漫画を掲載している人が「出版社の編集者がついたけれど、フォロワーが30,000人を超えないと商業出版はできないと言われた」という嘆きを投稿することがある。漫画というフィクションや料理のレシピなどの他愛のない情報ですらバズることに特化した「底辺の競争」が起こっており、その結果として漫画やレシピ自体の質が低下したりバリエーションが乏しくなったり扇情的な内容や極端な味付けになったりする、という問題が指摘されている。

 ……そして、政治・社会・道徳などの話題について論じる学者・ジャーナリスト・批評家までもが「フォロワーが30,000人を超えないと商業出版はできません」と言われるようになったとすれば、どれだけ悲惨な事態が待ち受けているかは目に見えている。誰も彼もが、フォロワーを増やして維持するために、左か右か自称中立かのどれかの極に触れながら、本人も信じていないような怪しい意見を連呼するようになるはずだ。

 逆に言うと、政治や道徳に関する問題について事実を追求したうえで誠実な主張を(論文などのかたちで)発表するという行為に、「読まれるかどうか」「売れるかどうか」「ウケるかどうか」ということに関わらず、(実績や地位などの)見返りを与えるシステムが(一応は)担保されているアカデミアという制度は、やはり必要であるのだ。

  

 ついでに書いておくと、昨今では文筆家や編集者、読書家や学問ファンまでもがこぞってYouTubeやラジオをはじめている。しかし、学問的な本に書かれているような知識や議論とは、さまざまな情報や理論を前提としたうえで多かれ少なかれ込み入った論理を展開したうえで成立するものであり、それを理解するためには、結局のところ本を読んで論理の展開を追うしかない。アカデミックな学術書だけでなく、ポピュラー・サイエンスの本ですらそうだ。『啓蒙思想2.0』では、テレビの草創期にはテレビが学校の代わりになることが期待されたこと、そして実際にいくつものドキュメンタリー番組が作られたにも関わらず、その期待が完全な失望に終わったことが指摘されている。同じように、YouTube(やラジオ)が本の代わりになるということは、絶対にないだろう。

 メディアの変化によって最近の若者が本から遠ざかって動画ばかり観るようになっているとしても、若者に知識や議論を伝えたいと思うなら、必要なのは送り手たちが本の「劣化版」である動画メディアに手を出すことではなくて、受け手である若者たちに本を読ませることであるのだ。

ファストフードとゲームは依存を悪化させて健康と時間を奪う(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑥)

 

 

啓蒙思想2.0』の主なテーマは「非合理化する政治」であるが、現代社会では、政治に限らずわたしたちの「生活」全般が、非合理なものとなっている。

 

 これまでの記事でも述べてきた通り、わたしたちには様々な非合理的なバイアスや心理的な傾向と衝動が備わっていることを前提としたうえで、それらのバイアスや衝動が原因で起きる可能性のある問題を事前に回避してわたしたちの生活の質を向上させるためにこそ、「文明」が存在する。人間そのものは非合理であるかもしれないが、様々な制度や取り決まりのおかげで、長期的な観点からみて自分にとって得になる合理的な選択へと促されるように、わたしたちが生活する環境が整えられているのだ。

 通常、生物にとって「環境」とはどうしようもないものであり、生存と繁殖を左右するプレッシャーを一方的に与えてくるものだ。しかし、人間は、まず集団的に環境をコントロールすることで、個人にとって環境を友好的なものへと改造する力を持つのである。

 しかし、資本主義的な消費社会では、もはや環境はわたしたちにとって友好的なものであるとは限らない。むしろ、文明は、ある点では自然状態よりもさらに個人にとって敵対的な環境を生み出してしまう。

 

現代社会の不自然な特徴の多くはーー私たちの自然な問題解決ヒューリスティックを混乱させ、まずい決定へと導く特徴はーーまさにそれが私たちを誤った方向へ進ませる傾向のために開発され、普及してきている。ここから生じる認知の失敗は、偶然の産物ではなく主目的なのだ。

(p.195)

 

 ヒースが具体例としてあげるのは、「洗濯洗剤」のキャップだ。洗剤のキャップは、一回の洗濯に必要なぶんよりもずっと多くの洗剤が入るようになっており、適量を示す目盛りはわざと見づらくされて、さらに液体の量に関する錯覚を起こさせるために幅を伸ばして高さを低くした形状に作られている。これにより、洗濯をするときには、よっぽど注意深い人でないと、ほぼ必然的に必要以上の量の洗剤を投入してしまうことになるのだ。ではなぜ洗剤を作る会社が消費者に対してそんな仕打ちをしてくるかというと、もちろん、洗剤の消費量を増やして利益を稼ぐためである。

 ……これはアメリカやカナダの話であり、もしかしたら日本の洗剤のキャップはそんな悪意のある設計にはなっていないかもしれない。しかし、どこぞのコンビニの弁当とか、どこぞのコンビニのサンドイッチとか、どこぞのお菓子とか、実際よりも多くの量が入っているかのようにわたしたちを「錯覚」させることを意図して開発されている商品は日本にもごまんとある。

 ヒースは、このような商品は「人を愚かにするという課題に絶妙に適合した人工物」であるとして、ディセプラー(欺くもの)と表現している。

 

こうしたディセプターのすべてに共通するのは、直感的な問題解決ヒューリスティックを失敗させることだが、そのことは本来の目的から外れてはいない。これらはまさしく意思決定力を損なう手だてだからこそ成功したデザインとなっている。

(p.197 - 198)

 

 現代社会では、環境の「逆適応」が人為的に引き起こされているともいえる。

 

 

(アンディ・)クラークはこのように、私たちの性質や行動習性に反応して周囲のものが進化する過程を表現するのに、逆適応という言葉を使っている。私たちが自己複製するために環境の要素に依存しているのと同様に、環境の要素のなかには自己複製するために私たちに依存しているものもある。このように、いつしか環境に対処するように体と脳が適応するのみならず、環境のほうでも人間に対処するよう、さまざまにーー全体としても細かな面でもーー適応しているのだ。この種の逆適応は人間のためになるものもあるが、そうでないものが多い。

(p.200)

 

 自然界で起こる逆適応の代表的な例は、「人間に食べられやすくなるために、果実がどんどん甘く、無毒で、色鮮やかになっていく」というものだ。そうしなければ、他の果実との競争に負けて、人間に食べられなくなって種を撒くことができなくなってしまうからだ。

 人間の文化のなかでは、言語や物語や歌などにも逆適応がはたらいている。ある言語は他の言語に比べて使用されやすくなるように、ある物語は他の物語に比べて記憶されて語られやすくなるように、人間の性質にあわせて「進化」する。果実のあいだで競争がはたらいているのと同じように、言語や物語や歌のあいだでも競争がはたらいてきた。そして、マクドナルドのハンバーガーやケンタッキーのフライドチキンも、他の料理との競争のなかでわたしたちの普遍的な味覚を適切に刺激するように「進化」してきたからこそ、生き延びてきた。ファストフードやチェーン店の食事は逆適応の産物であるのだ。

 Twitterの「バズるレシピ」ではごま油やチーズやめんつゆが過剰に使われがちであり、ほかの食材を使った繊細な味付けの料理はなかなかバズらないのも、Twitterのレシピがバズるかどうかはまさに「競争」の産物であるからだろう。ネット民は「サイゼリアが成功した理由」をあれこれと語りたがるが、「安くて味が濃い料理は、競争で有利になる」という大前提を忘れてはならない。

 

だから周囲の世界を、特に構築された環境の諸要素を見るとき、もとからこうなのだと、私たちの生活の背景にすぎないと思ってはならない。それは逆に私たちに合わせて絶えず変化し適応している。このことは重要な問題を提起する。文化のなかで作動する逆適応の過程は、人間の意思決定の質にとって、より有益な環境か、より有害な環境か、どちらを生み出しそうであろうか?

(p.203)

 

 現代社会の問題のひとつは、大量の「依存性物質」に対処しなければならないことだ。歴史上、たいていの社会は、対処する必要のある依存性物質はひとつかふたつであった(ヨーロッパにはタバコがなく、アメリカ大陸にはアルコールがなくて、アジアの人は主にアヘンを吸っていた)。しかし、近代以降の国際貿易によって、どこの国でもタバコとアルコールの両方(とアヘンやコカインなどの麻薬)がお店に並ぶようになった。技術の発展は、メタンフェタミンを用いた覚醒剤アルカロイドを用いたオピオイド鎮痛剤などの新たな依存物質を量産することを可能にした。

 食べ物やギャンブルも、わたしたちを「依存」へと向かわせるように進化している。スナック菓子は、その味付けだけでなく形状までもが、ひとくち食べたときの辛味や甘味などの刺激を最大化する代わりに後味を味気なくすることで「もっと食べたい」と思わせることを目的として創造されている。そして、コンビニやスーパーでレジの前にミニサイズのお菓子が並べられていることも、ほんとうは欲しくもないものに対してつい「買ってもいいかな」とわたしたちの思わせるための環境的な戦略だ。

 ギャンブルでも、パチンコやスロットマシンを見ればわかるように、ギャンブラーの射幸心を煽るためにありとあらゆるテクノロジーが費やされている。さらに、カジノやパチンコ店では、照明や音楽や絨毯を工夫して、無料の飲食物を提供して、窓や時計を店内に置かないことで、環境そのものが「ギャンブルを止める」という選択を妨害するように設計されている。

 インターネットで表示される広告には性的な画像や生理的不快感を催す画像、下品な文字列や低俗なストーリーが溢れているが、それだって、そういう広告のほうがそうでない広告よりクリックされてきたという「自然淘汰」の産物である。また、電子メールやFacebookのメッセージ機能には中毒性があることは以前から指摘されてきたのであり、携帯電話でネットが使えるようになってから人々のメッセージ依存はさらに悪化した。Twitterのプラットフォームはメッセージ依存を最大化させることに特化している。ビデオゲームは「進化」をつづけてきたが、それが意味するところは、わたしたちのゲーム依存が悪化させられつづけて時間が奪われつづけてきたということである。そして、スマホでゲームができるようになったことにより、電車のなかでもトイレのなかでも人は本や漫画を読んだりする代わりにゲームをするようになってしまった。そして、インターネット依存やゲーム依存は、睡眠時間を奪うことで、わたしたちの健康を直接的に害しているのだ。

 

分けて考えれば、これらの流行はどれも害のない楽しみだと主張することはたやすい。しかし事実上すべてが罠であり、人間心理の弱みにつけ入るように設計された環境を組み立てることが個人に与える、グローバルな影響を認識することは必要だ。私たちは自分の創造する環境がしだいに身体的に心地よくなるのは当然だと思いがちだが、こうした環境は絶えず心理的有害になりつつあることに充分な懸念を呼び起こせていない。世界が正気をなくしたーーいや、もっと控えめに言えば、現代社会全般で理性が低下したーーと考える理由を探っているならば、理論の要素は手元にそろっている。私たち人間は正しい論理思考をするために環境に大きく依存しているが、環境はつねに進化し、人間の不合理性につけ込むような文化遺物に味方する逆適応の過程を経ている。だから時とともに、私たちはますます努力しなければならない。直感的な問題解決策はだんだん不適切になっていくからだ。そして失敗するヒューリスティックを抑えるのに必要な認知資源は元来不足しているから、私たちはいよいよ遅れをとることになる。

(p.211 - 212)

 

  いちおう、依存にはセルフコントロールという対抗策がある。しかし、依存性物質の数がますます増えていき、依存させるテクニックがどんどん巧妙になっていく現代社会では、個人のセルフコントロールはあまりに無力だ。どう考ても、現状に責任があるのは個人を依存させようとしてくる諸々の商品の環境の側にあり、標的にされている個人の側ではない。

 

anond.hatelabo.jp

 

togetter.com

 

 ソーシャルゲームにおける「ガチャ」のシステムは、射幸心を煽って依存させて不必要な高額の消費を誘導するという点で、パチンコやギャンブルと同等の悪質さを持つものだ。しかし、パチンカーが「パチンコ道」を語りたがったりギャンブラーがギャンブルを「文化」だと言い張りたがったりするのと同じように、オタクやゲーマーはゲームというものが「人を依存させて、時間を奪う」ことに特化して設計されていることをなかなか認めたがらず、自分たちが金と時間を浪費している物事は「価値」のあるものだと思い込もうとする。そのために、「ガチャ」で自己破産してしまった人が出るような事例でも、「問題なのはゲームの側ではなく、自己破産してしまった個人の側にある」と自己責任論を唱えて、ゲームを擁護しようとするのだ。

 ……わたしからすれば、「ガチャ」なんて百害あって一利なしなものに決まっているし、「ガチャ」に手を出したことのない良識のある大人たちの大半もわたしに同意するだろう。逆に言えば、いちどでも「ガチャ」に手を出してしまったことのある人は、自分が有害で悪質な環境に操作されて愚かな行為をしてしまったことを認めたくないから、認知的不協和を避けてアイデンティティを維持するために、「ガチャ」を擁護せざるを得なくなる。

 そして、「ガチャ」やゲームに限らず、有害であったり無益であったりするはずの物事を高尚で有益な文化であるかのように装ってそれらを正当化することは、様々な場面で見かける。おもしろサイトやエンタメ系のブログでしょうもないWebライターやブロガーがゲームやファストフードの提灯記事をせっせと書くこともこの有害な環境を構築するのに一役買っているし、もしかしたら、ゲーム会社やファストフード会社は全て見越したうえで「文化」を人工的に作り上げているのかもしれない。でも、それは有害なのであり、わたしたちの貴重な時間と健康(とお金)を奪っていることを、見逃してはならないのだ。

 

左派が「共感」に訴えられない理由(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑤)

 

 

啓蒙思想2.0』では、政治や言論をめぐるアメリカの状況がとにかく「不合理」なものとなっていることが、繰り返し指摘されている。ヒースは、現在における「不合理」を招いた責任は基本的に右派の側にあることを、繰り返し指摘している。右派は大衆の「常識」と「感情」にばかり訴えて、「理性」や「議論」をあからさまに軽視するようになった。このために、右派は「文明」の基本が人間の感情的な本能やバイアスを制度によって抑制したり調整したりすることにある点も忘れてしまい、アメリカの社会に破壊的な影響を与え続けている。

 このような右派の「戦略」に対抗するため、左派の側からも、大衆の感情に訴えるための「戦略」を実施すべきだという意見が出るようになっている。しかし、『啓蒙思想2.0』の第10章「放火には放火を」では、左派が右派と同じ土俵に乗って大衆の「感情」に訴えても効果は期待できないことが論じられている。

 根本的に、左派的な考え方とは「理性」を前提とするものであり、それはどうごまかしても「感情」とは矛盾するものであるからだ。

 

 たとえば、認知言語学者のジョージ・レイコフは、左派も右派と同じように大衆の「共感」に訴えるために、なにかの問題について議論する際にはフレーミングを工夫すればいい、と主張する。しかし、その戦術は成功しない、というのがヒースの見立てだ。

 たとえば、銃規制という問題に対して、銃を持つ権利を支持する右派は「もし銃が違法なら、銃を持つのは犯罪者だけ」というスローガンを用いることで、大衆の感情を効果的に操作してきた。このスローガンは、まず銃を持つ人を「犯罪者」と「そうでない人」に区別したうえで、大多数である後者の部族意識や報復衝動を煽っている。

 これに対して、銃規制を主張する側には、訴えられる対象となる「感情」がほとんどない。「子供が誤って自分を撃ってしまう事件」や「強盗が家の主人を当人の銃で打つ事件」などの特殊な事例を持ち出すことはできるが、特殊な事例であるためにその効果は限られている。銃乱射事件による大量の犠牲者のことを想起させても、銃が規制されていないドイツやノルウェーの事件のことを指摘されて、「銃を規制していてもいなくても乱射事件は起こるのだから、自衛のために銃を所有する権利を認めたほうがいい」と反論される*1。つまり、エピソードに対して別のエピソードを持ってこられて相殺されるのだ。ドイツやノルウェーの殺人率はアメリカに比べてきわめて低いし、銃乱射事件の発生頻度も全く異なるはずだが、エピソードによって感情に訴えようとしているときに「確率」は無力だ。同じく、「銃を所持する人が少なくなることで、警官が危険を感じで市民に発砲する事件が起きる可能性が少なくなる」ことを説得しようとしても、感情的にはピンとこない「確率」が登場することになる。

 

共感は、不随意で、自然に引き起こされ、視覚刺激によって最も強烈に呼び覚まされることからも明らかなように、直感的で不合理な反応だ。なぜ人間がこの反応をするかには明快な進化的理由がある。親の子孫への投資を動機づけるためだ。しかし、このために共感は、悪名高くも範囲が限られている。だから子供、家族、友達、たまに見知らぬ人の順に、その苦しみが強く感じられる。これまた悪名高い特徴だが、共感は、対象を自己と同一化することによってのみ、引き起こされる。だからこそ映画には感情移入できる主役が必要だし、人は大量殺人の統計よりも個人的な苦しみの物語に対してずっと感情的に反応するのである。

(p.319)

 

 銃社会の問題は、「あちらが銃を持って悪いことをしようとするなら、こちらも銃を持って身を守る」という選択が連鎖して、市民の間で「軍拡競争」の事態が起こってしまうことだ。この問題を解決するためには、市民が①自己の利益ばかりを考えるの抑制して、②「自分が銃を捨てたら相手も銃を捨てる」ということが実現すると信じられて、③捨てた後にもし暴力の被害にあったり重犯罪が起こったりしたとしても報復や自衛のために銃を買い戻すことをしない、という三段階の条件を満たすことが求められる。市民間の自発的な合意だけで、そんな事態が成立する見込みは皆無である。だから、市民よりも上位の存在が「相互武装解除」を強制すること、つまり政府による銃規制が不可欠になるのだ。……銃規制を支持する議論の背景には、市民たちに生じるインセンティブや利害の対立を分析したうえで政府の必要性を認識する、このような理路がある。しかし、この理路を、「共感を抱かせるエピソード」のかたちにして表現することはほぼ不可能だ。

 そして、銃規制の問題に限らず、左派の主張とは、個人が持っているインセンティブや感情から生じる問題を解決するために、自己利益の追求や感情にしたがった行動を規制や制度によって抑制させたりコントロールしたりする、というものだ。これは「文明」の基本ともなる考え方であるが、感情には反している。左派の主張は、心で感じるのではなく、頭で納得してしもらうしかない。

 

このような限界を考えると、進歩派がその政治課題を共感に訴えることで実行できるというのは、どれくらい現実的なことなのだろう。リベラルな考えに共感がそれほど大きな役割を果たすというのも明白なことではない。人身保護のような個人の権利まで含めたリベラリズムの基本原理は、共感をよりどころとしている、とレイコフは主張する。よりによって、まずい例を選んだものだ。アメリカで犯罪を告発された個人の権利は、それこそ国民の大多数の直感に反するという理由で、しじゅう攻撃にあっているからだ。この法的保護にはたしかに合理的な基礎があるが、共感に基づいているかどうかは明らかでない。告発された犯罪者の権利を納得できるものにする唯一の方法は、その人物が有罪か無罪かわからないこと、そして実際に罪を犯していたとしても、それはまだ知りえないということを理解することだ。これは理性だけに築くことができる仮説構成体である。多くの人が、レイプ魔や人殺しを弁護するなんてと被告側弁護士を軽蔑する。これを正すには、ちょっと微妙な言い回しを使って、実際にはレイプや殺人の告発を受けた人の弁護をしているだけであることを指摘するしかない。当然、レイプや殺人の告発を受けた人を弁護すれば、結果的に、現実にレイプや殺人を犯した者を弁護することにもなりうる。だが肝心なのは、その人物が有罪だとは事前にはわからないことだ。レイプ犯や殺人犯が誰なのかわかっているなら、裁判をする必要はないのだから。

これは微妙な点なので、レイコフは代わりに、リベラルは共感をかき立ててこの主張にもっと感情的な訴えを加えるべきだと示唆している。当然の反応として、共感って誰に対して?犯罪者?となる。たとえその非難をかわして、誤って告発された人への共感だと言い張っても、なおも単純明快で痛烈な保守のお決まりの非難が待っている。リベラルは犯罪被害者より被告のほうに多分に共感を抱いているというのだ。そのうえ不当に告発された当人も、たとえば軽犯罪者だったりして同情しがたい人物であることがしばしばだ。事件の捜査で警察を結論に飛びつかせ、捜査対象者を犯人と思い込ませるのとまったく同じ習性が、国民に、被告の窮状に同情させないようにしがちである。だから、レイコフの提言はたとえ理にかなっていても、有効な戦略になるかどうかは定かでない。

実際、犯罪を告発された人の法的保護をそれだけ入念にすべき理由の一つは、私たちを不正な有罪判決へ向かわせる認知バイアスがとても強いことだ。つまり、こうした保護を定める必要があるのは、まさに私たちの処罰に対する過度の熱意ゆえである。いろいろな犯罪で有罪にされた無実の人の例を見ると、検察官の動機は概してあれこれ入り混じっている。信念への固執(結論に飛びついて、その後はすべての事実を仮説に合わせにかかる)、確証バイアス(否定的要素を考えないせいで、自説の誤りを立証する証拠をわざわざ探すことをしない)、懲罰への熱意(しかるべき人物が罰を受けることを確実にすることより、犯罪で「誰かが罰を受ける」ことを確実にしたいと強く願う)。そのため私たちは、極度に人為的な「無罪推定」をはじめとして、これらのバイアスに対抗するための精緻な機構を備えている。

犯罪被告人の法的保護を直感的に了解できるような「フレーミング」をすることを不可能にしているのは、まさしくこれらのバイアスである。この法的保護の機能は、ともすると報復的、熱意過剰になりがちな犯罪への直感的反応に対抗し、抑制することだ。だから、この制度は本質的に、合理的な視点からしか説明して正当化することができない。この制度の唯一の機能は、司法制度が現実には正義まがいのものを与えるようになる可能性を抑えるために、直感を抑制することだ。同じことが銃規制にも当てはまる。結局のところ規制の支持は、重犯罪で生じた被害への本能的反応ではなく、集合行為問題の構造に対する認知的洞察に基づいていなければならない。

(p.320 - 322)

 

 レイコフが「フレーミング」でナントカできると思っているは、彼がそもそも「合理的」な思考というものを軽視しており、左派も右派のどちらとも直感に根ざしていると考えているからだ。これはレイコフに限らず、ジョナサン・ハイトなど、とくに心理学者の一部が抱きがちな考え方である。ハイトやレイコフは、合理的な推測から左派的な考え方が生まれるとは信じていない。しかし、ヒースは、ほとんどの問題において、合理的に考えることや左派的な立場を支持することにつながる、とみなしている。

 国家システム、市場経済、近代的な法秩序、道徳の「黄金率」(「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」)のいずれもが、理性に由来している。「自分と相手のどちらもが、互いに合意したルールに従うなら、互いの状況は良くなる」という合理的洞察に基づくものであるからだ。

 

 現代では、一般人ですら、「自分は妊娠中絶は不道徳だと思うけれど、しかし妊娠中絶は合法であるべきだ」といった風に法律と道徳を分離させた考え方ができるようになっている。だが、「常識」を主張する昨今の保守は、法律と道徳を一致させて社会のレベルを近代以前の原始的なものにまで退行させようとしている。

 そして、冒頭で述べたように、右派は「理性」に基づく民主主義的な制度を軽視して、「感情に訴えられるなら真実であるかどうかは関係ない」「論理的にまったくスジが通っていなくても、感情を刺激できたら勝ちだ」と言わんばかりにめちゃくちゃしてしまって、「議論」の土壌すらも破壊してしまった。そのために、左派は理性的な議論によって論敵やオーディエンスに訴えかける機会を奪われている。そして、左派の主張は右派のように「感情」に訴えかけられるものではない。つまり、左派は不利なゲームを強いられているのだ。

 この事態を解決する手段として、ヒースは『啓蒙思想2.0』の最終章で「スロー・ポリティクス」という概念を提示している。……とはいえ、それも理想論的なものだけれど。

 

 上述の議論はすべてアメリカを前提としたものだが、多かれ少なかれ、日本にも当てはまることだろう。具体的に書くとあれこれ言い訳や正当化をしてくる人が出てくるので書かないけれど。

 

 この記事で扱ったポイント(「合理的な考え」は「左派的な立場」を支持することに直結するということ)に関わるヒースの記事は、こちら。

 

econ101.jp

 

人種差別は「本能」ではない(『啓蒙思想2.0』読書メモ④)

 

 

 

 心理学者のジョナサン・ハイトは、『社会はなぜ右と左にわかれるか』などの著作や諸々の記事などで、人間には「部族主義」の本能(バイアス)が備わっていることを何度も強調している*1。他の点ではハイトの主張を批判している哲学者のジョセフ・ヒースや心理学者兼哲学者のジョシュア・グリーンですら、人間に「部族主義」の本能が備わっていることは認めている。

 そして、部族主義は、しばしば人種差別主義の原因となる。ただし、部族主義は必ずしも人種差別主義を引き起こすわけではない。部族主義それ自体は本能に根差したものであるが、部族主義が人種差別主義として表出されるかどうかは、状況や環境による。これが、『啓蒙思想2.0』の13章の前半でヒースが行っている議論のポイントだ。

 

 一部の心理学者は、実験の結果を用いながら、「わたしたちは他の人種に対する偏見を抱いている」ことを、ことさらに強調する。よく話題になるのが、「黒人の顔によるプライミング刺激」を示す「潜在連合テスト(IAT)」を用いた実験だ。

 

www.bbc.com

www.natureasia.com

 

 実際、わたしたちが他人と関わるときには、人種や性や年齢や身体的特徴に関して反射的で無意識的な「パターン認識」や「ステレオタイプ化」を行って相手のことをカテゴライズする、という点はヒースも認めている。ただし、ステレオタイプ化やカテゴライズ化自体は、ネガティブなものであるとは限らないとも指摘している。

 

「人種差別」という問題についてのヒースの主張の要旨は、以下のようなものだ。

 

…人種差別は生まれつきか教えこまれるものかという古くからの議論がある。疑いなく証明されてきたのは、人々が集団に分かれて内では連帯感を高め、外の人には敵対心を抱くのは、ほとんど生まれつきで、非常に変えにくい性質であることだ。たとえ互いにそっくりな人たちや、通常は地位やアイデンティティを示している標識を取り去った人たちを集めても、何らかの差異が認められ、競争に基づく比較がなされていく。そして理性は、このような分類には根拠がないと告げているかもしれないが、本能はこれに強い感情的な意味を付与することができる。このことは、人はたとえ生まれつきの人種差別主義者ではないとしても、生まれつきの自集団中心主義ではあるという見方を裏づけている。

これは悪い知らせだ。しかしよい知らせもある。内集団バイアスは生得的かつ心理的に強力である一方で、人が内集団と外集団を区別するときに注目する特徴は固定されていないらしいということだ。心理学者がくり返し発見してきたことだが、人間の集団成員性は非常に操作されやすく、当人たちも重要ではないと承知している特徴に呼び起こされがちである。「X」とか「W」とグループ名をつけるだけでも有効だ。集団的アイデンティティと区別を決定づけるのは、絶対的な意味で「重要」な特徴ではなく、どんな特徴であれ判断の時点で最も際立った特徴のようだ。

このことは、内集団バイアスの強さにもかかわらず、人は生まれつき人種差別主義ではないと示唆している。進化論の視点から見れば当然のことだ。地理的に遠くに住む人々との交流はなかったから、進化的適応の環境には異人種というものは存在しなかった。人が人種差別に陥るのは、集団が形成されて人種が際立つことによってである。ほかのアイデンティティの基準が与えられたならば(例・カブズのファンか、ホワイトソックスのファンか)、もはや人種差別主義ではなくなるだろう。話す言葉が違うなど、どんな場合にも無視しがたい際は、もとより際立っている。しかし人種の違いはこの種のことではない。だから人種の違いから転じて、ほかの区別を与えてやるだけで、内集団の連帯システムをだますことは可能になる。

(p.382 - 383)

 

ここの人種の心理学に関する非常に鋭い洞察がある。重視されるのは個人間の差異より、私たちが意味を与えるために選ぶ差異なのだ。これは人種についてのよい知らせである。問題を克服するための最良の方法は、ひたすら人種から気をそらすことかもしれない。人の気を引くものがほかになければ、人種を区別する身体的特徴が重視されるが、これは、そうした特徴から顕著性(salience)を除くことによって抑えられる。他者をグループ分けして、外集団に属する人たちに反感を抱くのをやめることは、おそらくどうしてもできない。だが、たとえこの人間心理の基本的特徴は変えられなくても、人々が互いに分類しあう方法が社会的にさほど有害ではなくなるように環境を操作することで、有効な回避策をとることができる。たとえば、肌の色のような遺伝的特質には目を向けさせずに、髪型のように自由に決められて象徴的な特徴に集中するよう促せばよい。髪型の利点は、たやすく変えられるので個人の区別にとって永続的な不利益にならないことである。

(p.385)

 

 ヒースによると、アメリカで「人種の統合」に成功している二つの組織が、「軍隊」と「スポーツチーム」である。これらの組織は、組織に対する排他的な忠誠心を構成員に要請することで、組織の内部では同じ集団の仲間であるという連帯感を醸成しているからだ。

 また、別の箇所では、ナショナリズムとは部族主義バイアスを狩猟採集民時代の小さな部族よりも大きな集団で機能させるための「トリック」や「装置」のようなものであるとヒースは論じている。ナショナリズムでは排他性が前提とされるが、それゆえに数百万人や数千万人や数億人もの国民が「一つの集団」にまとめられて連帯感を抱き、協力しあって、経済や諸々の社会制度が機能するようになる。狩猟採集民の集団の規模はせいぜい数十人から数百人であったことを考えると、これは驚くべきトリックであるのだ。

 

 人種や肌の色は決定的な差異ではないこと、それよりも「話す言葉」のほうがカテゴライズの指標とされやすいことは、日本で暮らす白人としての経験からも、実感をもって理解できる。日本における外資系の企業や外国人の集まるバーでは、白人・黒人・アジア人であっても英語が母語なら「外国人組」となり、「日本人組」から分離されやすい。そして、母語が日本語であり英語のスピーキングがヘタクソなわたしは、「日本人組」に入れられることになる。

 また、欧米人はしばしば日本の「部落差別」を不思議に思う。人種も国籍も一緒なのに、生まれた地域によって差別されるということは、欧米人には理解しがたいのだ。同様に、黄色人種として人種が共通しているはずの東アジアの国々がいずこ同士も仲が悪いことについても、不思議だと思われることが多い。しかし、人種が差別の「指標」となるのは普遍的な現象ではなく、逆に言えば欧米での黒人差別も日本における部落差別や在日コリアン差別も、根本にある「原因」や「性質」は同じものであると考えることができるのだ(もちろん、それらの差別が成立していった具体的な歴史的経緯や、差別のあらわれ方や制度のされ方はまったく違うのだろうけれど)。

 ちなみに、進化心理学者のジェリー・コインは、「人種」というカテゴリは社会構築的なものではなく生物学的に実在するカテゴリであると指摘しながらも、「人類の下位グループの分離はあまりにも最近に起こったことであるので、 "身体的な" 差異が進化するには明らかに充分な時間だったとしても、それよりも広大な遺伝的差異が進化するほどの時間はなかっただろう」と論じている*2。「反・ポリコレ」な議論を唱える人は隙あらば「人種差別という本能」や「(知的能力などに関する)人種間の生物学的な差異」などを主張しようとするが、「そもそも人類は"異人種"と出会うことがない環境に適応してきた」という距離的な事実と、「人種間で大きな遺伝的差異が生じるほどには、人種差の歴史は古いものではない」という時間的な事実を忘れるべきではないのだ*3

 

この視点から見ると、アメリカの真の問題はむしろ人種差別主義というより人種意識である(実際、他国人にとって、アメリカの異文化間関係で最も抑圧的な特徴は、国民性が人種差別的というのではなく、人種についてひっきりなしに考えたり話したりすることだ。階級についてひっきりなしに考えたり話したりするイギリス人の性癖よりずっとひどい)。しかも、このアメリカ文化の特徴は、白人も黒人も、保守もリベラルも、誰もが関与して関与して関与して維持強化されていく巨大な陰謀の様相を呈している。これは、この問題について進歩的な立場をとるアメリカ人のほとんどが、人種差別は直接に克服されねばならないと、それは人種的差異に対する感受性と意識を高めることでしか達成できないと考えているからだ。進歩的な黒人の政治運動の多くは、旧来の「肌の色で違いのない」社会という理想を拒絶し、ポジティブな黒人のアイデンティティを認識し支持するように強く求めて、同じことをした。これでは意図せずして人種差別を再生産するはめになる。たとえ本来の意図が、ポジティブな集団アイデンティティの創出であったとしても、最大の影響は、集団アイデンティティの基準として人種を際立たせていることで、これがまた人種のネガティブな評価の元になるのである。

(p.386)

 

  上記の箇所は、2016年のトランプの当選以降にすっかり盛んとなった「アイデンティティ・ポリティクス批判」の先駆け的な議論といえるだろう*4

 そして、これは以前にも指摘したが、現在の日本のインターネットでは「オタク」と「フェミニスト」によるアイデンティティ対立が見受けられる。……というより、「オタク」の側が「オタクという集団フェミニストという集団に戦争をしかけられている」というストーリーを構築することで、一方的に対立の構図を作っているというところが実情に近いだろう*5。あるいは、「理系」対「文系」というアイデンティティ闘争の構図も、くだらなくて他愛もないであると思いきや、けっこうな怒りや憎しみを煽っているようだ(これも、「理系」の側からほとんど一方的に対立の構図を描いているフシがある)。アメリカにおける人種のアイデンティティ・ポリティクスのような「善意」や「大義」もなければ、ナショナリズムのような「実益」もないという点で、この種類のアイデンティティ対立は不毛なものであるとしか言いようがないだろう。

 

 今回まとめた論点ついて、ヒースがより掘り下げて論じている記事はこちら。

 

econ101.jp

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:「人種というカテゴリは社会的構築物である」という「ポリコレ」側の主張が「反・ポリコレ」を刺激している、というところもあるだろうけれど

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:わたしが見たところ、フェミニスト表現規制などについて賛成したり要請したりすることはあるし、「男性という集団に対する、女性という集団」というアイデンティティ対立の構図をフェミニストが描くこともあるが、「オタク集団に対する、フェミニスト集団」という構図をフェミニストの側が描くことはほとんどない。