道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

本日発売の『USO 3』にわたしのエッセイが掲載されています

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 11月11日発売の、文庫サイズの小さな文芸誌、「USO」3号にわたしのエッセイ『ウソと「めんどくささ」と道徳』が掲載されています。

 4000字弱の短いエッセイであり、「執筆を引き受けたはいいもののちゃんとしたエッセイなんて書いたことがないからどうしようかなあ……」と嫌がって後回しにしていたところを締め切りが過ぎちゃって慌てて書いてしまって、「どうしたもんかなあ」と思っていたけれど製本された内容を読んでみたら「意外と悪くないじゃん」と思ったので、胸を張って宣伝します(もちろんわたしのエッセイのほかにも他のひとのエッセイとか詩とか写真とか漫画とかが載っています)。

 

 在日アメリカ人としてのわたしのアイデンティティに触れつつ、「ウソをつくこと」についてのちょっとした倫理学的洞察も含まれたエッセイとなっているので、興味のある方はぜひ購入してください。

 

 

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※版元の希望により、できれば本屋やAmazon以外のオンラインストアで買ってください。

保守の道徳はリベラルより「広い」のか?(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』読書メモ①)

 

 

 ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか:対立を越えるための道徳心理学』は、大学院生のころに原著の The Righteous Mind のほうを英語で読んでかなり感銘を受けたものだ。それからハイトのことが気に入って、『しあわせ仮説』も読んでみるとかなり面白くて参考になった*1。同じくハイトが書いたや『アメリカン・マインドの甘やかし』も面白いし、このブログや経済学101でもハイトの記事を何度か訳している*2。……しかし、その後にさらに進化心理学倫理学社会学の本を読んだあとになって改めて『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を読み返してみたところ、残念ながら、「うーむ…」となるところが多い。

 ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』は再読しても9回に分けて読書メモを取れるくらいに内容が充実していて「再発見」も多い本であったのだが、それに比べると、ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』は「再発見」ができるポイントがどうにも少ない本であるのだ。

 

 おそらくほとんどの読者にとって最も印象が強く、この本の最大のウリでもあるのが、「道徳基盤理論」であるだろう。

 ハイトは、人間が道徳に対して持っている感覚を「味覚」のように例える。味覚には甘味・酸味・塩味・苦味・うま味(・辛味)などの基本となる味が存在しており、味覚障害を持たない限りほとんど全ての人はいずれの味も感じ取れる味蕾を持っている一方で、甘いケーキをとりわけ好む人もいればしょっぱいスナックにやみつきになる人もいるように、どんな味を好きになるかには個人差がある。それと同じように、道徳的な感覚は普遍性のある六つの基盤から成り立っているが、そのなかでどの感覚がとくに重視されるかは人によって異なる、というのが「道徳基盤理論」のポイントだ。

 

「ケア/危害」…苦痛を受けている人に対する思いやり。

「公正/欺瞞」…詐欺師や嘘つき、フリーライダーに対する怒り。

「忠誠/背信」…集団への帰属意識、裏切り者に対する怒り。

「権威/転覆」…階層性における上位の存在に対する尊敬や怖れ。

「神聖/堕落」…穢れや不敬に対する嫌悪感。

「自由/抑圧」…力を持つものによる横暴に対する反発心。

 

 そして、味覚に個人差があるとはいえ、甘いものしか食べない人やしょっぱい料理しか作らない人はどこか歪んでいるように思えるだろう。ハイトは、リベラルは「ケア」と「自由」と場合によっては「公正」という二つ〜三つの道徳基盤しか重視していないのに対して、保守はそれら三つに加えて、「忠誠」「権威」「神聖」の残りの道徳基盤も考慮した判断をしている、と論じる。つまり、道徳についてリベラルの人たちが持っている感覚は「狭い」のに対して、保守の人たちが持っている感覚は「広い」と主張するのだ。

 だから保守のほうが優れている…とまではハイトは言わないが、すくなくとも保守政治家のレトリックは六つの基盤のすべてにアプローチできるという点で、少数の基盤を狙い撃ちすることしかできないリベラルのレトリックよりも優れたものである、とは論じられている。また、実際のところ、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を初読した人は「保守って意外と寛容なんだな」「リベラルって実は偏狭なんだな」と思うようになるだろう。全体として、保守に対して好意的なメッセージが発せられている本であることは否定できない。

 

 ハイトの主張は、リベラルに自省を促すための議論としてとらえるなら、なかなかよいものだと思う。

 先日の衆議院選挙で自民党や維新が多数の議席を獲得したあとには、リベラルな学者やジャーナリストの多くはショックを受けて、「日本人はいつになったら人権という考え方を理解できるのか」「差別的な政策を疑問にも思わない人たちに囲まれて暮らしているなんて苦痛だ」といった種類の嘆きや愚痴をTwitterに投稿して、それを保守派の論客やツイッタラーがあげつらってやいのやいのと騒ぎ立ててバカにする、という光景が繰り広げられていた。これは今回に限らず、選挙のたびに繰り返される事態ではある。そして、選挙結果について嘆くリベラルが、自分とは違う投票行動をした人たちは「人権に配慮しない」「ジェンダー平等や環境問題を気にしない」などと自分たちよりも狭い見方に基づいて投票した、と決めつけがちであることはたしかに問題だ。

 よく指摘されるように、人が投票する際には差別や平等などの道徳に関わる事柄だけでなく、経済をはじめとした自己利益に関する様々な事柄を総合的に考慮して判断しているはずだ。むしろ、選挙というシステムでは、他者に対する道徳的な配慮よりも自己の利益に基づいた投票をおこなうことのほうが一般的であり、それは民主主義の前提ともなっているだろう。

 その一方で、道徳は人権や平等だけではない、という見方も重要だ。ハイトによれば、少数派や弱者が被る苦痛に対する配慮(ケア)や平等と公正を求める気持ちと同じように、権威に対する尊重や愛国心も、「労働者が収める税金に寄生しながら楽して暮らす公務員や生活保護受給者」に対する怒りや制裁願望も、道徳感情であることには変わりない。だとすれば、ケアも平等も愛国心も制裁願望も、どれかが優れていてどれかが劣っているわけではなく、いずれも等価なものと見なせるのだ。

 ……とはいえ、ハイトの議論を批判するジョシュア・グリーンやジョセフ・ヒースが論じるように、リベラルが「ケア」や「自由」を重視して他の道徳基盤を軽視しているのは、彼らがたまたま「ケア」や「自由」を好む感性をしているからではなく、理性を行使したり教育を受けたりした結果として「集団に対する忠誠や権威に対する服従、穢れたものに対する嫌悪感は、道徳判断の指標としては不適切である」という意識を身に付けたからであるだろう*3。六つの指標から二つや三つに絞って判断することは不自然で人為的なものであるが、多様な集団がひとつの共同体に存在しており複雑な経済や政治制度やテクノロジーが発展した現代社会というものがそもそもは不自然で人為的な環境であり、「集団主義的な判断や嫌悪感に基づく判断をしないこと」は、現代社会で生きるわたしたちに条件として課せられている。環境がまったく違う狩猟採集民で暮らしているときに身に付いた道徳感情を野放しにしていると、個人間でも集団間でも悲惨なトラブルが生じてしまい、経済も政治もまともに機能しなくなってしまうからだ。また、進化心理学に基づいたグリーンやヒースのみならず、『感情と法』で法律と道徳の感情的な起源を探ったマーサ・ヌスバウムも、嫌悪感に基づいた判断はすべきでないと論じているのである。

 すくなくとも高等教育を受けたリベラルであれば、彼や彼女の価値観は、教育や陶冶の結果として身に付いたものである可能性が高い。問題があるとすれば、リベラルの人たち自身が、そのことをすぐに忘れてしまって、自分たちの価値観を「人間として当然持っているはずの価値観」と思い込んでしまうことだろう。人権感覚は身に付いていないことがデフォルトであるが、それと同時に、現代社会で生きる人間には人権感覚を身に付けることが(道義的に)要請されるのだ。

 

……もっとも、ハイトによると、倫理や政治に関する規範的な主張とは、当人が持っている道徳感覚に、もっともらしく聞こえるための理屈を与えたものに過ぎない。理性という「乗り手」は感情という「象」に振り回される無力な存在であり、理屈とは感情という犬を正当化するために振り回される尻尾のようなものに過ぎない、というのがハイトの主張の根幹にあるものだ。

 したがって、客観的な倫理とか、より正当な政治的立場といったものは存在しない、というのが彼の見方である。だから、「(現代社会という環境のことを考慮すれば)人はリベラルな価値観を身に付けなければいけない」という反論にハイトが同意することはまずない。

 ハイトのスタンスは、メタ倫理学的にいえば情動主義非認知主義に属するものであり、倫理学者のなかにはハイトに賛同する人も多いだろう。……とはいえ、やはり彼の主張は極端であり、間違っているように思われる。

 

 道徳基盤理論には、他にも様々な問題がある。

 まず、実際のところ、「六つ」という数は道徳に関する感情を分別するには少な過ぎる。

 この批判についてはハイトも承知であり、道徳基盤の分類はあくまで便宜的なものとされている。

 しかし、たとえば「公正/欺瞞」基盤に関しては、実際には「自分よりも多くのものを得ている人に対する嫉妬心」や「咎のあるひとをみんなで一緒になって弾劾することを楽しむ制裁願望」もあれば、「自分が騙されて害を被ることを許せない自尊心」もあれば「他人が騙されて害を被ることを許せない義憤」もあるはずだ。これらの感情はいずれも「公正/欺瞞」として表出され得るが、「ケア/危害」や「自由/抑圧」として表出されることもあるだろうし、まったく別のかたちの道徳として表出されることもあるかもしれない。……そして、そもそも、道徳に関する感情と道徳に関しない感情との境目なんて、曖昧なものだ。

 また、「集団淘汰」の理論を支持するハイトは、道徳感情が進化してきた理由を「個人の利益と集団の利益の調和」や「集団間の競争で優位になる」ことに求めている。そのために、彼が提唱する道徳基盤理論も、社会的な要素や集団志向性がかなり強調される。その一方で、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のなかで「性淘汰」に関する議論がほとんどなされない点は見逃すべきでない。……性淘汰は、多かれ少なかれ、わたしたちが身に付けている感情に影響しているはずだ*4。それらの感情のなかには道徳として表出されるものもあるだろうが、その起源も機能も、ハイトが論じているものとはまったく異なる可能性が高いのだ。

 

 味覚と例えられながら六つの道徳基盤が並列されることには、その六つの基盤はどれも同じような重要性を持っていたり同じような頻度で発生したりする、というミスリーディングの危険がある。

 ハイトは、進化的な環境のなかで道徳基盤が対応してきた「オリジナル・トリガー」と、現代社会における「カレント・トリガー」のそれぞれを挙げている。自分の子どもや親族が感じる苦痛に対する反応である「ケア」は身内に関するものであり、腐ったものや不潔なものを回避する反応である「神聖」は自然環境に関するものだ。「公正」と「権威」は他者との協力関係のなかで相手が犯すかもしれない裏切りや横暴に対する反応、そして「忠誠」は自分を含む集団に向けられた脅威に対する反応である。

 こうして並べると、それぞれの道徳基盤の対応範囲や射程は全く異なるし、トリガーが発火する頻度にもかなりの差があることがわかる(子どものいる家庭や未開社会で暮らす人は「ケア」や「神聖」のトリガーが毎日のように発火しているだろうし、他集団がほとんどいない環境では「忠誠」のトリガーが発火する機会はきわめて少ない)。たまたま「道徳」という名前で括ることができるだけで、これらは、まったく異なる性質を持つものであるはずなのだ。

 

 そして、コロナウイルスとワクチンをめぐる騒動は、道徳基盤理論のアテにならなさを露呈してしまった。

「神聖」基盤における穢れの感覚が病気を回避するための反応として進化してきたことは明白であり、コロナウイルスを恐れるのは、リベラルと異なり「神聖」も重視する保守のほうでなくてはおかしい。しかし、実際には、「感染対策のために経済を犠牲にするな」と主張したりノーガード戦略を唱えたりしていたのは、保守のほうであったのだ。

 ロックダウンや緊急事態宣言は人の自由を制限するという点で「自由」の道徳基盤とも関係があるが、それは、リベラルが反応するとされる数少ない基盤のうちのひとつだ。

 さらに、コロナという「穢れ」に対しては他人と比べてまったく恐れていない人が、ワクチンについては過剰に「穢れ」を見出して恐れたりしている。あるいは、リベラルは、ウイルスという「穢れ」そのものではなくて、コロナに罹患することや身体的苦痛に対する「ケア」のトリガーが発火しているのかもしれない。ワクチン反対派も、副反応による身体的苦痛に対する「ケア」をしているのかもしれない。

 ……でも、こんなことを言い出したら、どんな事例におけるどんな立場のどんな反応にだって、好き勝手に理屈をつけることができてしまう。

『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のなかでは、リベラルでも保守でもない例外的な存在としてリバタリアンが取り上げられている。リバタリアンは「自由」基盤をなによりも重視して、「公正」基盤もそれなりに気をかけるが、「忠誠」「権威」「神聖」にあわせて「ケア」基盤も同じように軽視しているという点で、リベラルとは全く異なるのだ。

 しかし、実際のところは、リベラル・保守・リバタリアンの三つに限らず、もっと多様な立場が存在していて、重視している基盤もそれぞれに異なるのだろう。そして、結局のところ、それぞれの立場の判断は道徳基盤ではなく信念主義主張によってのほうがもっとうまく説明できる。コロナに対するリベラルの反応は、道徳基盤理論では説明が難しいかもしれないが、福祉を重視するロールズ的な現代リベラリズムの観点からすれば筋の通るものであったかもしれない。保守が経済活動を重視したことは、福田恆存による「保守とは横丁の蕎麦屋を守ること」の定義とは矛盾していない。リバタリアンであれば、行動を制限されることとワクチンを強制されることのどちらにも反発するのは当たり前だ。

 重要なのは、信念や主義主張とは感情ではなく理屈であるということだ。結局のところ、わたしたちは生来の感情だけで動く生き物ではないのだし、「乗り手」は「象」に振り回されることなく、きちんと自分の意思によって「象」を動かせているのかもしれないのだ。

*1:拙著『21世紀の道徳』の「幸福論」の部でも、『しあわせ仮説』の議論を参照している。

honto.jp

*2:

gendai.ismedia.jp

davitrice.hatenadiary.jp

econ101.jp

*3:

econ101.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

著書『21世紀の道徳』が出版されます

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 初の著書が出版されます。帯文は東浩紀さんからいただきました(現代哲学を「政治的正しさ」の呪縛から解放する快著、とのことです)。

 このブログにいままで書いてきたことをブラッシュアップして、本格的な論考にして、本として読みやすくおもしろいものに仕上げた内容になっています。

 

【目次】

■第1部 現代における学問的知見のあり方

第1章 リベラルだからこそ「進化論」から目を逸らしてはいけない
第2章 人文学は何の役に立つのか?
第3章 なぜ動物を傷つけることは「差別」であるのか?

 

■第2部 功利主義

第4章 「権利」という言葉は使わないほうがいいかもしれない
第5章 「トロッコ問題」について考えなければいけない理由
第6章 マザー・テレサの「名言」と効果的な利他主義

 

■第3部 ジェンダー

第7章 フェミニズムは「男性問題」を語れるか?
第8章 「ケア」や「共感」を道徳の基盤とすることはできるのか?
第9章 ロマンティック・ラブを擁護する

 

■第4部 幸福論

第10章 ストア哲学の幸福論は現代にも通じるのか?
第11章 快楽だけでは幸福にたどりつけない理由
第12章 仕事は禍いの根源なのか、それとも幸福の源泉なのか?

 

終章 黄金律と「輪の拡大」、道徳的フリン効果と物語的想像力

 

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現代だからこそパターナリズムが正当化される理由(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑨)

 

 

 

 先日の記事でも述べたように、現代社会は、わたしたちの報酬系認知バイアスの欠陥をついて健康と時間(とお金)を奪うような商品やシステムで溢れており、そういう点ではわたしたちの生きる環境は有害なものとなっている*1

 現代社会、とくに都市におけるもうひとつの問題が、見ず知らずの他人しかいないことだ。外を出歩いたり車を運転したりするとき、周りの人たちは自分とは縁もゆかりもなく、互いに顔も覚えないような状況では、人は向社会的な行動をとらなくなり、衝動的な行動を取りやすくなる。たとえば、小さな町であれば車種やナンバープレートで「あれは〇〇さんの車だ」と他の住民に伝わってしまうから、そういう町に住む人の運転は丁寧なものとなる。危険運転をしているところをみんなに見られて、後ろ指をさされたり評価を下げたりすることを避けたくなるからだ。

 狩猟採集民の暮らしていた集団は多くて数十人から百人前後の小さなものであり、構成員は互いの顔や名前を覚えていて、集団の利益に反したり集団に害を及ぼすような行動をする構成員がいたらその評判はあっという間に伝わって、制裁や処罰が下されていた。人間の道徳感情は、周囲の評判がサンクションとして機能する小さな社会に適応して進化してきたものだ。わたしたちが行動や生き方に抑制や調整をはたらかす際には、自己完結的なセルフコントロールだけでなく社会的コントロールのシステムが存在することが前提となっている。

 現代社会の都市という環境は、社会的コントロールを奪い、自己完結的なセルフコントロールだけで行動や生き方を抑制・調整するような試練をわたしたちに課しているのだ。そして、『啓蒙思想2.0』では、人間の理性とは個人の内側だけに存在するものではなく、外側にある環境とセットになることでようやく十全に機能するものである、ということが繰り返し強調されている。社会的コントロールが奪われた状況とは、セルフコントロール能力に機能不全が起こっている状態だということなのだ。

 昔ながらの田舎の環境とは不自由で抑圧的なものであるように思えて、それを嫌がる若者の多くが、田舎から都市へと脱出する。しかし、社会的コントロールを奪われた都市での生活で、わたしたちがほんとうの意味で「自分の意志」で行動して「自分らしい生き方」をできているとは限らない。もしかしたら、人の網の目のなかで周りに気を使いながら自分の行動をあれこれ抑制したり調節したりしてはじめて、「人間らしい生き方」というものが実現できるのかもしれないのだ(人間とはずっとそういう生き物として進化してきたので)。

 

この点で、薬物依存、不倫、離婚、長期の失業といった、さまざまな形の破綻で個人に烙印を押すまいとするリベラルのやり方に、保守派が不満を表明しているのも一理ある。リベラルのいつもの主張は、こうしたことは当人の罪でないこともよくあるから、社会がつらい思いをさせて踏んだり蹴ったりの目に遭わせるべきでないということだ。もちろん、これにもっともなところはある。遺伝的にアルコールや薬物依存になりやすい人もいるし、子供の父親に捨てられる女性もいるし、経済危機で自分に責任のない数百万人が失業することもありうる、などなど。けれども、これらのどの問題にもセルフコントロールの側面が存在する。遺伝的にアルコール依存になりやすくても実際ならない人は大勢いる。相手の男は信頼できないと頭の片隅でわかっていて、子どもを作るのを控える女性は大勢いる。皮肉なのは、リベラルはこうした破綻に伴う社会的烙印を弱めることで、そうとは知らずに、成果をあげるのに必要なセルフコントロールをできにくくしている。それこそこうした烙印が重要な足場の役割をする理由である。烙印があるからこそ依存症に陥るのを、不倫に走るのを、親の責任を果たさない親になるのを、失業するのを避ける、もう一つの動機が与えられる。

(p.367、強調は引用者による)

 

 また、現代社会では個人の自由の範囲が拡大しており、それと同時にセルフコントロールを損なわせる構造があちこちで出来上がっている。たとえば、アメリカでも日本でも、国民の睡眠時間は年々減り続けている。その原因は労働時間や通勤時間の増加とも限らず、むしろテレビやゲームやインターネットなどの娯楽の発展により、夜更かしをする人が増えていることにある。また、商店や飲食店の営業時間は遅くなり、終電の時間も遅くなったことで、夜遅くまで外で遊ぶこともう容易になってしまった。これらの変化はたしかにわたしたちの生活を楽しいものにはしているが、寝る時間を奪うことでしんどいものにしていることも否めない。一方で、一昔前はゲームもインターネットもなく、テレビは深夜になったら放送終了していた。「もう寝る時間ですよ」というメッセージを、社会環境が個人に対して発していたのだ。

 

 先日の記事でも論じた逆適応が生じることで、諸々のお菓子や飲み物は異常なカロリーや塩分や糖分を含むように進化した。また、アメリカではいつの間にか「キングサイズ」のチョコレートバーが標準化して、自販機や小売店では普通サイズのチョコレートバーを買うことのほうが難しくなっている。このような状況を放置していたら、国民がどんどん肥満や生活習慣病になっていくことを止められない。しかし、食品のサイズやカロリーに対する法規制はパターナリズムとして批判される。

 パターナリズムへの反論でもっともの有名なものが、J・S・ミルが『自由論』のなかでおこなっている議論だ。ミルは、「ある人の気持ちや立場を最も理解しているのは、その本人である」「なにが自分のためになって、なにがそうでないかは、本人がもっともよく判断できる」と論じて、個人の選択肢や判断を法や国家がコントロールすることは不当であると論じた。

 

しかし現代の認知バイアスの研究は、ミルの主張に課題を突きつける。もしも私たちの犯す誤りがランダムで予測しがたければ、国家は個人の判断にとやかく言うことに苦労するだろう。役人が一度か二度、正しく推測する一方で半ダースは間違えてしまい、最終結果はマイナスとなる。しかし認知バイアスという概念に従えば、人は論理的に思考するなかで系統立った誤りを犯すのであり、そのため誤りはきわめて予測しやすい。つまり不合理に対処するときに、法的パターナリズムは最終的に利益を生み出せる可能性がある。

(p.371)

 

 たとえば、保健所の検査官がレストランに定期的な衛生検査を行って、衛生状態に問題があったら営業停止することは、レストランの経営側だけでなく「多少は衛生状態に問題があるとしても、そのお店で食べたい」という客側の自由も奪うという点で、パターナリズムである。この処置が正当化されるのは、厨房の状態がどうであれ出てくる料理が一見するとまともであったらその料理の危険性を判断する能力が個人にはないこと、「自分は食中毒になんからない」という楽観バイアスが存在すること、またレストランに着いた客はたいていは空腹であるために「この店は衛生状態に問題があります」という警告を掲げられていても関係なしにいますぐ食事をしたがること、などなどが背景にある。

 わたしたちは、空腹であるときには「衛生状態よりもいますぐ食事できることのほうが重要だ」と考えるかもしれないが、そうでないときには「レストランの料理のせいで食中毒になるなんて最悪だから、営業状態に問題があるレストランは閉まってくれていたほうがありがたい」と判断するかもしれない。わたしたちの判断は、状況やコンディションによって変わる。ミルは「なにが自分のためになって、なにがそうでないかは、本人がもっともよく判断できる」と主張したが、空腹であるようなタイミングでおこなった判断はあとから「あんな判断は自分自身のためにもならない」と後悔する可能性が高い。空腹という特殊な状態において下した判断が、自分自身の長期的な利益を考慮した判断となる可能性は低いのだ。……ならば、そのような判断をしてしまう機会がそもそも排除されるのは、自由は奪われるかもしれないがわたしたちにとっては利益となるかもしれない。

 そして、先述したように、わたしたちが生きる環境は認知バイアスヒューリスティックの弱みや欠陥につけ込み、セルフコントロール能力を奪う、敵対的なものとなっている。そのまま放置したら、わたしたちは短期的な衝動や誘惑に負けて、後から振り返ったら後悔するような行動を、どんどんしてしまう。だからこそ、現代では、パターナリズムの必要性は増しているのである。

 

 キャス・サンスティーンとリチャード・セイラーによる「ナッジ・パターナリズム」に関するヒースの評価はこちら。

 

 

アメリカの年金制度について、「加入したい人が書類を作成する」という既存のオプトイン方式から「原則として自動加入で、脱退したい人は書類を作成する」というオプトアウト方式に変更すべきだ、というサンスティーンとセイラーの主張に関して:)

 

ここでの重要な考えは、ナッジは人々の経済的インセンティブを「大きく」変えないということだ。あるいはむしろ「客観的には」と言ってもいい。なぜなら意思決定の時点でインセンティブは大きく変わるからだ。それは行動を変えるのだ。書類の作成はある種のコストである。必ずしも経済的なものではないが、コストはコストである。時間がかかるし、精神的な負担になる。だからオプトイン方式は、書類作成を求めることで、基本的に加入を妨げている。オプトアウト方式へ切り替えれば、コストは加入しない手続きのほうへ転換される。掛けられている年金額と比べたらわずかなものだから、たいしたことではないように思える。にもかかわらず、それが本当に負担でないならば、その転換が人々の決定に影響を及ぼすことはないはずである。

そうしてサンスティーンとセイラーが本当に奨めているのは、私たちの不合理が(ヒュームの言を借りれば)「自らを治療」するように外部の選択環境を整えることだ。私たちは目先に囚われすぎて自分の退職後を心配しないうえに怠け者すぎて書類作成もしない。退職後の蓄えを減らすために書類作成が必要になるようにすることで、不合理の一つを、もう一つと相殺するように利用できる。怠惰さが近視眼的な視点の治療薬になる。

(p.374 - 375)

 

「独学」がダメな理由(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑧)

 

 

 

どうやって正気を取り戻すかを考えるとき、合理的思考の根本的な特徴をおさらいしておくことは役に立つ。時間がかかる。注意力が求められる。言葉に基づいている。意識的。非常に明示的。またワーキングメモリに依存しているせいで活動が妨げられやすい。したがって、論理的思考の中間段階をメモ書きするといった外部化から恩恵を受ける。どうしてこの思考様式がすっかり環境に支配されてしまっているのかは分かりやすい。スピードという単純な問題だ。理性の遅さについて考えてみよう。ある考えや主張はかなり簡単なものでも、説明するのに優に一〇分から一五分はかかる。しかも教室という恵まれた環境の外で、きちんと座って、何かを説明する人に耳を傾けるよう強いられること(リモコンでチャンネルを変えたり、フェイスブックをチェックしたり、話の腰を折ったりはしないで)は驚くほどめったにない。宗教上の説教が大切な例外だ、という人もいる。ただし、話題の範囲はとても限られがちだ。つまり、人は学校教育を終えると、断片的には伝えることのできない新しいものごとを学ぶ機会はほんのわずかしかない、ということだ

(p.355,強調は引用者による)

 

 ヒースが具体例として挙げるのが「自由貿易のメリット」である。「比較優位」などの概念を前提とするデヴィッド・リカードのモデルを理解すれば、国際貿易がなぜ(原則として)二国間のどちらをも豊かにするかということが理解できる。しかし、「賃金水準が大きく異なる二国間の貿易でも、豊かな国の賃金に下げ圧力が生じない」という状況はきわめて直感に反する。そして、リカードのモデルはさほど複雑でないとしても、ある人が「リカードのモデルを理解しよう」という意志を持ったうえで理解可能な状態になることは、かなり不自然なことである。具体的な物事を脱文脈化して、ある程度の過程を受け入れたうえで、「二つの財を交換する、二人の関係」について抽象的に考えなければならないからだ。このような行為には、抽象的に考えることのみならず、「片方の人の取り分が増えたら、片方の人の取り分は減るはずだ」というゼロサムゲームを前提とした「基本的演算バイアス」という日常的な直感に反して考えることも必要とされる。

 リカードのモデルに限らず、「議論」を理解して「学習」することには、日常的な会話ではありえないような「前提」や「条件」を理解したうえで自分の直感に反する思考をおこなう、という不自然(で苦痛)な行為が要請される。また、このような行為には、かなりの量のセルフコントロールが必要とされる。そして、学校の「教室」とは、学習に伴う負担を減らすために設計された環境であるのだ。

 

教室の重要な特徴の一つが、学生は授業の邪魔をしてはならないとことだ。質問があれば手を挙げさせられ、なおかつ教師には「あとで。このポイントを説明してから」と言える特権がある。これは議論の持続という点では、実は非常に重要なことだが、およそほかの社会的状況ではひどく不自然で落ちつかない。リカードでも、ほかのなんとなく込み入った議論でもそうだが、たとえばディナーパーティーの席で説明しようとしたら、いくつかの社会慣習を破らずにするのは不可能だとわかるだろう。そもそも、なにしろそれだと長い時間しゃべりすぎて「退屈な人」にならざるをえない。それに、口を挟んでくる人というのは必ずいて、たいていは勇み足で異論を述べたり、冗談を言ったり、議論から脱線した問題を提起したりする。あいにく、間が悪くならずに一〇分間でも話しつづけられる「自然な」社会環境などはほとんどない。認識すべき重要なポイントは、こうしてそれがこの環境で伝えることのできる種類の考えかどうか、ふるいにかけられているということだ。

(p.357)

 

 教室に限らず、「書き言葉」、つまり「本」も学習を可能にすることができる例外的な装置である。理解するのに一〇分や二〇分では済まないような議論については、本が必要とされる。たとえば、ヒースによると、「進化論」を理解するには最低でも一時間はかかる。進化論は「数十億年」という時間のスケールが大前提となっているが、わたしたちが時間について持っている時間の長さの「感覚」は、「十年とはどんな長さか」や「百年とはどんな長さか」ということくらいまでなら判断できるが、それ以上は「すごく長い」ということしかわからない。したがって、万年や億年かかることが当たり前である自然選択のメカニズムを理解するためには、理論とともに数々の証拠が掲載された本を参考にしながら、「心」ではなく「頭」で受け入れるしかないのだ。

 テレビでは草創期から数々の自然ドキュメンタリー番組を放映してきたが、そこでは進化論が正しいことは前提とされているが、進化論の考え方についての説明は一切ない。尺が足りないだけでなく、動画で視聴したところで理解できるような考え方ではないためだ。その一方で、学校に通った人たちは、教科書という本の助力を得ながら、国際貿易や進化論についての理解を得ることができる。「学校」とはカリキュラムだけではなく、社会環境でもあるからだ。

 

このため、社会で合理性を育むという点では、伝統的な正規学校教育に代わるものはない。旧式な教育環境に関して権威主義だと批判されたことの多くーー教師による教室管理、整然と並べられた机、読書課題、問題集、しめきり、テスト、そして最後に成績評価ーーは、同時に集中力、計画性、目標達成についてセルフコントロールの不足を補うように作られた、外的な足場と見なすことができる。当然のことながら、特権を濫用する教師もいる。けれど教室での学習の利点を知るには、独学の人としばらく会話してみるだけでいい。独学者に最もよく見られる特徴は、規律のなさーーとかくよい考えと悪い考えを区別できないのに加えて、落ちつきのない認知スタイルである。確証バイアスはとりわけ深刻な落とし穴だ。伝統的な教室とカリキュラムの利点の一つは、自分以外の人が系統立てたとおりに教材を学ばされ、最初から共感できることだけでなく抵抗のある考えをも理解できるようになることだ。自学自習には選り好みしたくなる誘惑があるから、そのせいで独学者はとりわけ確証バイアスと陰謀論に陥りやすいようだ

(p.359、強調は引用者による)

 

 わたし自身、大学院の後半から現在に至るまでほとんど「独学」のみでやってきた人間であるので、ヒースの指摘はじつに耳に痛い。自分のことは棚に置いてほかの独学者の人を観察してみても、たしかに、確証バイアスの餌食になっている人は多そうだ。

 ちなみに、独学者にありがちな特徴のひとつが、自分にとっての「スター」や「カリスマ」となる学者や思想家を発見して信奉するあまり、教科書による体系的な知識ではなく、スターやカリスマの価値観やイデオロギーや好き嫌いに振りまわされることである。カリスマ学者自身は体系的な知識を前提としたうえで自分の思想を打ち立てているはずだが、前提となる体系的な知識を持っていない独学者は、カリスマの言っていることを場当たり的で表面的にコピーした劣化版にならざるを得ない。

 

 とはいえ、独学者にとっては幸運なことに(?)、近年のアメリカの人文学や社会科学では「カリキュラムの破壊」が取り沙汰されるようになっている*1

 また、教師を招かずに学生同士が対等な立場で参加して発言する「読書会」は日本の大学に独特な文化であるが、教師の代わりに「よく知っている詳しい上級生」がファシリテーターになるとしても、読書会からは「教室」が持つような種類のメリット(バイアスを抑え込む「不自然」な思考を強制して、自分が興味のないことまでをも学ばさせられること)が失われることは明白であるように思える。

 見方によれば、読書会とは、「独学」を十数人で一緒におこなうことに過ぎない。レジュメを作成してきて議論をおこなう必要があるために独学よりも知識は定着しやすいだろうし、他人が参加することで自分の思いこみやバイアスや間違いが指摘されるというメリットもあるが、参加者の問題意識や価値観が共通していると、知識の選り好みや確証バイアスはむしろ悪化する可能性も高い(エコーチャンバーなりフィルターバブルなりサイバーカスケードなりは、ネット環境だけで起こるとは限らないのだ)。「読書会文化」が日本の(人文系)知識人にもたらしている負の影響についても、どこかのだれかに調査や分析をしてもらいたいものだ。

インターネットで「言論」は成立するか?(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑦)

 

 

 

政治的言説の質にインターネットが与える長期的な影響はまだはっきりとわからない。これはテクノロジーが急速に変化しているからでもあり、伝統的なメディアーー特に新聞ーーに対する影響がまだ定まっていないからもである。当然ながら、ツイッターには字数の制限があるため、合理的な討論には不都合だ。それは言葉による平手打ちのけんかを助長している。ツイッターが課す驚くべき「スピード欲求」もまた、合理性の立場から見ると破滅的である。だからジャーナリストや専門家がいまや毎日何時間もつぶやいたり、つぶやきを読んだりに費やしているのが、よいことであるはずはない。

ブログにはもっと大きな可能性があって、明らかに政治文化の重要な要素になった。しかし興味深いことに、合理的な討論をつづけたいと考えているブログやメディアのサイトは、「荒らし」という他人を怒らせることだけが目的でコメントを投稿する連中を積極的に検閲しなければやっていけない。

(……中略……)

そのうえ、インターネットが復活させた文字主体のコミュニケーションはつまるところ回線容量の制限の結果にすぎないのかもしれない。どんどん大量のデータが送りやすくなるにつれて、ビデオの重要性が着実に高まっている(だから、いまやただブログに記事やコメントを投稿するよりビデオをアップロードして、周りに「お返し」ビデオのアップを求めるような状況だ)。視覚メディアの多用への移行は、まさしく期待される言説の質に影響を与える。いずれ過去一〇年間を振り返ったとき、それこそ技術的制約のせいで長文メッセージを打って送りあい、ブログに文字コメントを残すしかなかったゆえに、公的な言説の「黄金時代」として懐かしむ、というのは充分ありうる話だ。

(p.398 - 399)

 

啓蒙思想2.0』の原著が刊行されたのは2014年だが、この頃からTwitterが言論に与える影響の問題点は認識されていたわけだ。そして、YouTube花盛りな現在の惨状をふまえると、動画メディアへのアクセスが容易になることで言論の質がさらに低下することを危惧するヒースの意見は、まさに正鵠を射ていたのである。

 私見を述べると、インターネットが言論の質を低下させるのと同じように、マーケティングも言論の質を低下させる。「消費者にリーチして、金を稼ぐ」ことを目的にした時点で、虚偽や誇張を含まずに事実に基づくことに対して負のインセンティブがはたらいしてしまい(虚偽であろうと消費者にウケることを言ったほうが儲かるからだ)、間違いを指摘されたらそれを受け入れて意見を変えたり反対陣営の言うことに耳を傾けたりすることもしづらくなる(党派性に阿った極端な意見を毎度同じように言い続けるほうが、固定客をつかまえて商売になりやすい)。そして、インターネットとマーケティングがあわさってしまうと、もう最悪だ。

 

 noteのような「定期購読」システムは、ふわふわしたエッセイやマニアックで罪のない趣味に関する文章ならともかく、政治や社会問題に関わる文章については、アフィリエイトブログよりもさらに有害なものとなりやすい。そもそも、大学やマスメディア会社などに所属しておらず組織のリソースも使えないひとりの個人が、政治や社会問題について党派性に左右されない有益でオリジナルな知識や知見を定期的に提供することは、ほぼ不可能に近い。それよりも、特定の立場に偏った意見を言ったほうが「読者」を獲得しやすい。だが、途中から意見を変えたり指摘を受けて反省したりすると、せっかく獲得した読者が失われてしまう。読者は、同じような意見をこれからも言い続けることを期待したからこそ、「定期購読」を開始したからだ。さらに、マガジンをハイスペースで定期的に更新しなければ、やはり読者が定期購読をやめてしまうおそれがある。だから、noteのマガジンで書かれる文章は、必然的に粗製濫造なものにならざるを得ない。

 さらに、新規読者をマガジンに流入させて購読させるためにはTwitterでの「宣伝」活動や、マガジンの無料部分での「釣り」をするなどの努力や工夫が必要とされる。政治や社会に関する話題であれば、批判対象となる「敵」をつくって戯画的に表現したりバカにしたりすることで、同じ「敵」を持つ人たちを同調させて党派心や部族主義を煽ることが、もっとも手軽で効果的な宣伝手段となる。そして、noteを購読するまでには至らない人たちも、「宣伝」や「釣り」は目にするので多かれ少なかれ部族主義を煽られて、そして攻撃の対象となっている「敵」の側も黙ったままではいられないから、結果として言論の質は共倒れ的に大幅に低下することとなる。……既存のブログメディアや「買い切り」形のweb記事、新聞や雑誌やテレビなどの旧来のマスメディアにも同様の問題は存在するだろうが、個人の記事を「定期購読」で売るシステムではその問題を激化させやすいということだ。

 

 よく、Twitterに漫画を掲載している人が「出版社の編集者がついたけれど、フォロワーが30,000人を超えないと商業出版はできないと言われた」という嘆きを投稿することがある。漫画というフィクションや料理のレシピなどの他愛のない情報ですらバズることに特化した「底辺の競争」が起こっており、その結果として漫画やレシピ自体の質が低下したりバリエーションが乏しくなったり扇情的な内容や極端な味付けになったりする、という問題が指摘されている。

 ……そして、政治・社会・道徳などの話題について論じる学者・ジャーナリスト・批評家までもが「フォロワーが30,000人を超えないと商業出版はできません」と言われるようになったとすれば、どれだけ悲惨な事態が待ち受けているかは目に見えている。誰も彼もが、フォロワーを増やして維持するために、左か右か自称中立かのどれかの極に触れながら、本人も信じていないような怪しい意見を連呼するようになるはずだ。

 逆に言うと、政治や道徳に関する問題について事実を追求したうえで誠実な主張を(論文などのかたちで)発表するという行為に、「読まれるかどうか」「売れるかどうか」「ウケるかどうか」ということに関わらず、(実績や地位などの)見返りを与えるシステムが(一応は)担保されているアカデミアという制度は、やはり必要であるのだ。

  

 ついでに書いておくと、昨今では文筆家や編集者、読書家や学問ファンまでもがこぞってYouTubeやラジオをはじめている。しかし、学問的な本に書かれているような知識や議論とは、さまざまな情報や理論を前提としたうえで多かれ少なかれ込み入った論理を展開したうえで成立するものであり、それを理解するためには、結局のところ本を読んで論理の展開を追うしかない。アカデミックな学術書だけでなく、ポピュラー・サイエンスの本ですらそうだ。『啓蒙思想2.0』では、テレビの草創期にはテレビが学校の代わりになることが期待されたこと、そして実際にいくつものドキュメンタリー番組が作られたにも関わらず、その期待が完全な失望に終わったことが指摘されている。同じように、YouTube(やラジオ)が本の代わりになるということは、絶対にないだろう。

 メディアの変化によって最近の若者が本から遠ざかって動画ばかり観るようになっているとしても、若者に知識や議論を伝えたいと思うなら、必要なのは送り手たちが本の「劣化版」である動画メディアに手を出すことではなくて、受け手である若者たちに本を読ませることであるのだ。

ファストフードとゲームは依存を悪化させて健康と時間を奪う(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑥)

 

 

啓蒙思想2.0』の主なテーマは「非合理化する政治」であるが、現代社会では、政治に限らずわたしたちの「生活」全般が、非合理なものとなっている。

 

 これまでの記事でも述べてきた通り、わたしたちには様々な非合理的なバイアスや心理的な傾向と衝動が備わっていることを前提としたうえで、それらのバイアスや衝動が原因で起きる可能性のある問題を事前に回避してわたしたちの生活の質を向上させるためにこそ、「文明」が存在する。人間そのものは非合理であるかもしれないが、様々な制度や取り決まりのおかげで、長期的な観点からみて自分にとって得になる合理的な選択へと促されるように、わたしたちが生活する環境が整えられているのだ。

 通常、生物にとって「環境」とはどうしようもないものであり、生存と繁殖を左右するプレッシャーを一方的に与えてくるものだ。しかし、人間は、まず集団的に環境をコントロールすることで、個人にとって環境を友好的なものへと改造する力を持つのである。

 しかし、資本主義的な消費社会では、もはや環境はわたしたちにとって友好的なものであるとは限らない。むしろ、文明は、ある点では自然状態よりもさらに個人にとって敵対的な環境を生み出してしまう。

 

現代社会の不自然な特徴の多くはーー私たちの自然な問題解決ヒューリスティックを混乱させ、まずい決定へと導く特徴はーーまさにそれが私たちを誤った方向へ進ませる傾向のために開発され、普及してきている。ここから生じる認知の失敗は、偶然の産物ではなく主目的なのだ。

(p.195)

 

 ヒースが具体例としてあげるのは、「洗濯洗剤」のキャップだ。洗剤のキャップは、一回の洗濯に必要なぶんよりもずっと多くの洗剤が入るようになっており、適量を示す目盛りはわざと見づらくされて、さらに液体の量に関する錯覚を起こさせるために幅を伸ばして高さを低くした形状に作られている。これにより、洗濯をするときには、よっぽど注意深い人でないと、ほぼ必然的に必要以上の量の洗剤を投入してしまうことになるのだ。ではなぜ洗剤を作る会社が消費者に対してそんな仕打ちをしてくるかというと、もちろん、洗剤の消費量を増やして利益を稼ぐためである。

 ……これはアメリカやカナダの話であり、もしかしたら日本の洗剤のキャップはそんな悪意のある設計にはなっていないかもしれない。しかし、どこぞのコンビニの弁当とか、どこぞのコンビニのサンドイッチとか、どこぞのお菓子とか、実際よりも多くの量が入っているかのようにわたしたちを「錯覚」させることを意図して開発されている商品は日本にもごまんとある。

 ヒースは、このような商品は「人を愚かにするという課題に絶妙に適合した人工物」であるとして、ディセプラー(欺くもの)と表現している。

 

こうしたディセプターのすべてに共通するのは、直感的な問題解決ヒューリスティックを失敗させることだが、そのことは本来の目的から外れてはいない。これらはまさしく意思決定力を損なう手だてだからこそ成功したデザインとなっている。

(p.197 - 198)

 

 現代社会では、環境の「逆適応」が人為的に引き起こされているともいえる。

 

 

(アンディ・)クラークはこのように、私たちの性質や行動習性に反応して周囲のものが進化する過程を表現するのに、逆適応という言葉を使っている。私たちが自己複製するために環境の要素に依存しているのと同様に、環境の要素のなかには自己複製するために私たちに依存しているものもある。このように、いつしか環境に対処するように体と脳が適応するのみならず、環境のほうでも人間に対処するよう、さまざまにーー全体としても細かな面でもーー適応しているのだ。この種の逆適応は人間のためになるものもあるが、そうでないものが多い。

(p.200)

 

 自然界で起こる逆適応の代表的な例は、「人間に食べられやすくなるために、果実がどんどん甘く、無毒で、色鮮やかになっていく」というものだ。そうしなければ、他の果実との競争に負けて、人間に食べられなくなって種を撒くことができなくなってしまうからだ。

 人間の文化のなかでは、言語や物語や歌などにも逆適応がはたらいている。ある言語は他の言語に比べて使用されやすくなるように、ある物語は他の物語に比べて記憶されて語られやすくなるように、人間の性質にあわせて「進化」する。果実のあいだで競争がはたらいているのと同じように、言語や物語や歌のあいだでも競争がはたらいてきた。そして、マクドナルドのハンバーガーやケンタッキーのフライドチキンも、他の料理との競争のなかでわたしたちの普遍的な味覚を適切に刺激するように「進化」してきたからこそ、生き延びてきた。ファストフードやチェーン店の食事は逆適応の産物であるのだ。

 Twitterの「バズるレシピ」ではごま油やチーズやめんつゆが過剰に使われがちであり、ほかの食材を使った繊細な味付けの料理はなかなかバズらないのも、Twitterのレシピがバズるかどうかはまさに「競争」の産物であるからだろう。ネット民は「サイゼリアが成功した理由」をあれこれと語りたがるが、「安くて味が濃い料理は、競争で有利になる」という大前提を忘れてはならない。

 

だから周囲の世界を、特に構築された環境の諸要素を見るとき、もとからこうなのだと、私たちの生活の背景にすぎないと思ってはならない。それは逆に私たちに合わせて絶えず変化し適応している。このことは重要な問題を提起する。文化のなかで作動する逆適応の過程は、人間の意思決定の質にとって、より有益な環境か、より有害な環境か、どちらを生み出しそうであろうか?

(p.203)

 

 現代社会の問題のひとつは、大量の「依存性物質」に対処しなければならないことだ。歴史上、たいていの社会は、対処する必要のある依存性物質はひとつかふたつであった(ヨーロッパにはタバコがなく、アメリカ大陸にはアルコールがなくて、アジアの人は主にアヘンを吸っていた)。しかし、近代以降の国際貿易によって、どこの国でもタバコとアルコールの両方(とアヘンやコカインなどの麻薬)がお店に並ぶようになった。技術の発展は、メタンフェタミンを用いた覚醒剤アルカロイドを用いたオピオイド鎮痛剤などの新たな依存物質を量産することを可能にした。

 食べ物やギャンブルも、わたしたちを「依存」へと向かわせるように進化している。スナック菓子は、その味付けだけでなく形状までもが、ひとくち食べたときの辛味や甘味などの刺激を最大化する代わりに後味を味気なくすることで「もっと食べたい」と思わせることを目的として創造されている。そして、コンビニやスーパーでレジの前にミニサイズのお菓子が並べられていることも、ほんとうは欲しくもないものに対してつい「買ってもいいかな」とわたしたちの思わせるための環境的な戦略だ。

 ギャンブルでも、パチンコやスロットマシンを見ればわかるように、ギャンブラーの射幸心を煽るためにありとあらゆるテクノロジーが費やされている。さらに、カジノやパチンコ店では、照明や音楽や絨毯を工夫して、無料の飲食物を提供して、窓や時計を店内に置かないことで、環境そのものが「ギャンブルを止める」という選択を妨害するように設計されている。

 インターネットで表示される広告には性的な画像や生理的不快感を催す画像、下品な文字列や低俗なストーリーが溢れているが、それだって、そういう広告のほうがそうでない広告よりクリックされてきたという「自然淘汰」の産物である。また、電子メールやFacebookのメッセージ機能には中毒性があることは以前から指摘されてきたのであり、携帯電話でネットが使えるようになってから人々のメッセージ依存はさらに悪化した。Twitterのプラットフォームはメッセージ依存を最大化させることに特化している。ビデオゲームは「進化」をつづけてきたが、それが意味するところは、わたしたちのゲーム依存が悪化させられつづけて時間が奪われつづけてきたということである。そして、スマホでゲームができるようになったことにより、電車のなかでもトイレのなかでも人は本や漫画を読んだりする代わりにゲームをするようになってしまった。そして、インターネット依存やゲーム依存は、睡眠時間を奪うことで、わたしたちの健康を直接的に害しているのだ。

 

分けて考えれば、これらの流行はどれも害のない楽しみだと主張することはたやすい。しかし事実上すべてが罠であり、人間心理の弱みにつけ入るように設計された環境を組み立てることが個人に与える、グローバルな影響を認識することは必要だ。私たちは自分の創造する環境がしだいに身体的に心地よくなるのは当然だと思いがちだが、こうした環境は絶えず心理的有害になりつつあることに充分な懸念を呼び起こせていない。世界が正気をなくしたーーいや、もっと控えめに言えば、現代社会全般で理性が低下したーーと考える理由を探っているならば、理論の要素は手元にそろっている。私たち人間は正しい論理思考をするために環境に大きく依存しているが、環境はつねに進化し、人間の不合理性につけ込むような文化遺物に味方する逆適応の過程を経ている。だから時とともに、私たちはますます努力しなければならない。直感的な問題解決策はだんだん不適切になっていくからだ。そして失敗するヒューリスティックを抑えるのに必要な認知資源は元来不足しているから、私たちはいよいよ遅れをとることになる。

(p.211 - 212)

 

  いちおう、依存にはセルフコントロールという対抗策がある。しかし、依存性物質の数がますます増えていき、依存させるテクニックがどんどん巧妙になっていく現代社会では、個人のセルフコントロールはあまりに無力だ。どう考ても、現状に責任があるのは個人を依存させようとしてくる諸々の商品の環境の側にあり、標的にされている個人の側ではない。

 

anond.hatelabo.jp

 

togetter.com

 

 ソーシャルゲームにおける「ガチャ」のシステムは、射幸心を煽って依存させて不必要な高額の消費を誘導するという点で、パチンコやギャンブルと同等の悪質さを持つものだ。しかし、パチンカーが「パチンコ道」を語りたがったりギャンブラーがギャンブルを「文化」だと言い張りたがったりするのと同じように、オタクやゲーマーはゲームというものが「人を依存させて、時間を奪う」ことに特化して設計されていることをなかなか認めたがらず、自分たちが金と時間を浪費している物事は「価値」のあるものだと思い込もうとする。そのために、「ガチャ」で自己破産してしまった人が出るような事例でも、「問題なのはゲームの側ではなく、自己破産してしまった個人の側にある」と自己責任論を唱えて、ゲームを擁護しようとするのだ。

 ……わたしからすれば、「ガチャ」なんて百害あって一利なしなものに決まっているし、「ガチャ」に手を出したことのない良識のある大人たちの大半もわたしに同意するだろう。逆に言えば、いちどでも「ガチャ」に手を出してしまったことのある人は、自分が有害で悪質な環境に操作されて愚かな行為をしてしまったことを認めたくないから、認知的不協和を避けてアイデンティティを維持するために、「ガチャ」を擁護せざるを得なくなる。

 そして、「ガチャ」やゲームに限らず、有害であったり無益であったりするはずの物事を高尚で有益な文化であるかのように装ってそれらを正当化することは、様々な場面で見かける。おもしろサイトやエンタメ系のブログでしょうもないWebライターやブロガーがゲームやファストフードの提灯記事をせっせと書くこともこの有害な環境を構築するのに一役買っているし、もしかしたら、ゲーム会社やファストフード会社は全て見越したうえで「文化」を人工的に作り上げているのかもしれない。でも、それは有害なのであり、わたしたちの貴重な時間と健康(とお金)を奪っていることを、見逃してはならないのだ。