道徳的動物日記

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デュルーケム流功利主義とダーウィン左翼(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』読書メモ②)

 

 

 

 前回の記事ではジョナサン・ハイトによる「道徳基盤理論」をかなりディスって、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』という本自体についても辛めの評価をしてしまっていたけれど、読み返していて「再発見」したところも、もちろんある。

 この本の中盤からでは、社会学者のエミール・デュルケームの名前がたびたび出てくる。『社会はなぜ左と右にわかれるのか』は三部構成となっており、第一部では「理性は直感を正当化するために使われる」ということ、第二部では「道徳の感覚は多様である」ということ、第三部では「人間には集団主義的な本能がある」ということが、それぞれ論じられる。そして、ハイトは、第二部と第三部のどちらでもデュルケームの議論を持ち出すのだ。

 

 まず、「ケア」と「公正」(と「自由」)しか重視しないリベラルによる「狭い」道徳観をJ・S・ミルに、六つの道徳基盤のすべてに目を配る保守の「広い」道徳観との対比をデュルケームに代表させることで、ハイトは二つの道徳観を対比させて描く。

 

まず社会を、相互利益のために結ばれた社会契約として考えてみよう。社会のすべての構成員は平等であり、誰もが可能な限り自由に移動し、才能を開花させ、望み通りの人間関係を築けなければならない。契約社会の守護聖人とも言える人物はジョン・スチュアート・ミルで、彼は(『自由論』で)「文明社会のいかなる構成員に対しても、彼の意思に反して権力を行使しても正当と見なせる唯一の目的は、他の構成員に及ぶ危害の防止である」と述べている。ミルの見方は、多くのリベラルとリバタリアンに訴える。ミルの理想とする社会は、さまざまな人々が、互いの権利を尊重し、(オバマの求める「統合」のように)自由意志に従って協力関係を結びながら、助けの必要な人を支援し、社会の利益のために法を改善する、平和で創造的な開かれた場所なのである。

(p.262 - 263)

 

さて今度は、社会を、構成員間の同意としてではなく、人々が共に暮らし、協力関係を結び、互いの私利私欲を抑え、また、グループの協力関係を破壊し続ける異常者やフリーライダーを罰するための手段を発見するにつれ、時間の経過に従って組織的に形成されていくものと考えてみよう。この場合、個人ではなく、階層的に構造化された家族が社会の基礎単位をなし、他の制度のモデルになる。このような社会では、各人は、自立を根本から制限する、強力で制約的な関係の網の目のなかに生まれてくる。結束を重視する、この道徳システムの守護聖人とでも言うべき社会学エミール・デュルケームは、アノミー(無規律な状態)の危険について警告し、一八九七年に「自らが所属すべき上位の実体を何ら認めない人は、高い目標を持つことも、規則に服することもできない。すべての社会的な圧力からわが身を解放することは、自己の責任を放棄し、道徳的に堕落することに等しい」と書いている。デュルケームが理想とする社会は、自由に振る舞わせると浅はかな肉体的快楽に溺れてしまいがちな個人を社会化し、作り変え、ケアする、互いに包含したり一部が重なったりする多数の集団から構成される、安定したネットワークを築き上げる。また、自己表現より自制を、権利より義務を、そして外部の人間に対する関心より自集団への忠誠を重視する。

(p. 263 - 264)

 

 ハイトは、デュルケーム的な社会は階層的・懲罰的・宗教的であり、男女の役割を含めて伝統的な考え方を擁護する、とも論じている。要するに、かなり保守的な社会だということだ。当然のことながら、リベラルはこのような社会を嫌悪する(わたしだってイヤだ)。

 とはいえ、ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』や諸々の進化心理学の議論を読んだ後では、ミル的な社会が想定している人間像はあまりにも理性的で自律的であり、現実とかけ離れている、ということも理解できる。ヒースが述べるように、人間とは外部の環境が整ってはじめて理性を行使できる存在であり、パターナリズムや諸々の保守的で抑圧的な社会制度は、人間が人間らしく生きるためにはむしろ欠かせないものだ*1。人々の間に起こるトラブルを防ぎながら、人々が積極的自由を経験して幸福感や充足が得られる社会とするためには、「危害原則」だけでは不充分である。多少(あるいは、かなり)の抑圧を受けたり自由を侵害されたり義務を負わされたりすることは、ある意味では、人間の条件とも言えるのだ。

 そして、デュルケームといえばマックス・ウェーバーとともに「社会学の開祖」と言われる存在であり、社会学者のロバート・ベラーが『善い社会』でおこなった議論や同じくロバート・パットナムが諸々の本で展開している社会関係資本についての議論も、多かれ少なかれデュルケーム的なものだ(最近だと忘れられがちだけれど、社会学って、けっこう保守的な議論を展開することもある学問なのである)。ミルの議論がいまでも尊重されており権威を持っているのと同じように、デュルケームの議論にも権威がある。そして、リベラルな人たちの価値観がミルと共鳴するのと同じように、保守の人たちの価値観がデュルケームと共鳴するのであれば、保守の人たちを「病理」として扱って切り捨てるのは間違っているのだ。

 

 話がややずれるが、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のなかで、ハイトは自身が学生であったときには大学教授や大学院生はリベラルな価値観を身に付けていることが当たり前に過ぎて、道徳心理学においても、道徳の発達に関する研究は「子どもはどのようにして正しい道徳観(=リベラリズム、カント的な理性に基づく義務論)を発達させるか」という観点からしか、そして保守の道徳観については「なぜ保守の人々は誤った道徳観を身に付けてしまったのか(変化に対する恐れ、自己の存在に対する不安、単純な世界観への固執、両親の厳格な教育などが原因とされる)」という観点からしか言及されていなかった。自分たちのリベラルな価値観を普遍的なスタンダードと見なしていたために、リベラルな志向を保守的な思考と並置して研究する発想や、リベラリズム以外のかたちで道徳感が発達していく可能性について考えていなかったのである。

 現在でも、TwitterなどのSNSでリベラルな学者たちからポロッと漏れる「本音」では、彼や彼女が保守的な価値観や志向を「病理」や「欠落」と見なしたがっていることが露呈している場合が多い(とはいえ、保守の人たちにも、リベラリズムに対して「病理」や「欠落」のレッテルを積極的に貼りに行っている傾向は見受けられるのだけれど)。このような偏りやバイアスに対して果敢に反論している点は、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の明確な美徳である。

 

 さて、デュルケーム「ホモ・デュプレックス」という考え方を提唱しており、ハイトは「ミツバチスイッチ」仮説を論じる第三部でデュルケームのことを強調している。

 

デュルケームは、個人の事実には還元できない「社会的な事実」が存在すると主張している。愛国主義や自殺率などの社会的な事実は、人々の交わりを通して生じる。それは(心理学の対象たる)個人の心理と同様に現実的なものであり、(社会学の)研究対象として大きな意味を有する。マルチレベル選択と「主要な移行」の理論はデュルケームには知るよしもなかったが、彼の社会学はこれらの理論に不思議なくらい一致する。

デュルケームは、個人の心理と二者間の関係のみに基づいて、道徳や宗教を説明しようとするフロイトらの同時代人をたびたび批判している(「神は単なる理想の父親像だ」とフロイトは言った)。それに対して彼は「ホモ・サピエンスはホモ・デュプレックス、つまり個人と、より大きな社会の一部という二つのレベルで存在する生き物だ」と主張する。そして宗教の研究を通して、人は、これら二つのレベルのそれぞれに関して、まったく別の「社会感情」のセットを備えていると結論する。第一のセットは、「個人を仲間の市民に結びつけるもので、共同体における日常の関係のなかで発言する。それには、互いに対して感じる名誉、尊敬、愛情、恐れの感情などがある」。これらの感情は個人レベルで作用する自然選択によって簡単に説明できる。ダーウィンが述べるように、人はそれらを欠く者をパートナーに選ぼうとはしない。

しかしデュルケームは、「人々は、それとは別の一連の情動を経験する能力を持っている」とも言う。

 

第二のセットは、自己を社会全体に結びつけるもので、社会同士の関係のなかで発現し、ゆえに「社会間のもの」と呼べる。第一のセットは、個人の自立と人格にほとんど影響を及ぼさない。それは確かに自己を他者に結びつけるが、自己は独立性を大して失うわけではない。しかし第二のセットに影響を受けて行動する場合には、自己はまったく全体の一部になり、その行動に従い、その影響に身を委ねる。

 

(現実世界の)集団が「社会間の関係」に対処することを手助けする、新たな一連の社会感情が存在すると示唆し、マルチレベル選択の論理に訴えるデュルケームには驚嘆の念を禁じ得ない。これら第二レベルの感情は、ミツバチスイッチをオンにして自己をシャットダウンし、集団志向性を活性化する。かくしてその人は「まったく全体の一部」になるのだ。

(p.349 - 350)

 

 デュルケームが言うところの「第二レベルの感情」のなかでもハイトが特に重要とみなすのが、集団的な儀式によって引き起こされる「集合的沸騰」だ。また、熱狂的な踊り・自然に対する畏敬・メキシコの先住民が使用していた幻覚剤・ロックコンサートにおける「レイブ」などである。これらはいずれも「一から全につながる」的な感覚を生じさせる、とハイトは述べる。……とはいえ、自然に対する畏敬は社会的な感情とは別のものであるような気がするし、幻覚や興奮の感覚が個人と社会との結びつきにどれだけ貢献しているかも怪しいもので、ハイトによる「ミツバチスイッチ」論には全体的に「ほんまかいな」という疑いがつきまとう。集団への帰属の感覚にせよ部族主義にせよ、もっとじわじわしたものだとわたしは思うのだ。

 また、ミツバチスイッチの適応的な役割や起源についてミラーニューロンや集団淘汰の理論を持ち出して説明しているところもじつに胡散臭くて、このあたりはハイトがほかの進化心理学者から批判されたり軽んじられたりする原因にもなっている。以下の箇所だって、「集団間の競争」を抜きにしても説明できるものじゃないかと思う。

 

人間が有する二重の本性には集団志向性が含まれるということをひとたび理解できたなら、なぜ幸福はあいだからやってくるのかがわかるはずだ。私たちは集団を形成して生きるように進化してきた。私たちの心は、集団内ばかりでなく、集団間の競争に勝つために、自グループの他のメンバーと団結できるように設計されているのだ。

(p.378)

 

 そして、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の終盤でハイトが展開するのが、「デュルーケム流功利主義だ。

 

…ジェレミーベンサム以来、功利主義者は意図的に個人に焦点を絞り、各人の欲するものを提供することで社会福祉の改善に努めてきた。それに対し、デュルケーム流の功利主義は、人類の繁栄には、社会秩序と帰属が必要とされるという点を認めている。それは「社会秩序は途方もなく貴重であり、その達成は困難である」という前提から出発し、「健全な社会では、人々を結びつける道徳基盤、すなわち<忠誠><権威><神聖>の三つの基盤が大きな役割を果たす」という可能性を受け入れる。

個人の生活に適用するには、規範倫理のどの理論が最適かという点については、私には何とも言えない。だが、民族的、道徳的な多様性をある程度抱えた欧米の民主社会における法の制定や公共政策の実施を考えるにあたっては、功利主義以外に説得的な見方はないと思う。法や公共政策は、最大の善の実現をおおよその目標にすべき、と主張するジェレミーベンサムは正しい。とはいえ、私たち皆に、そして立法者に最大の善を実現する方法を講釈する前に、まずベンサムデュルケームを読んで、私たちがホモ・デュプレックスであることを認識しておくべきだった〔デュルケームベンサムの死後に生まれており、著者の空想的な願望である〕。

(p.419)

 

 言わせてもらうと、ハイトは「デュルケーム功利主義」を論じる前にピーター・シンガーの「ダーウィン左翼論」について目を通すべきだった*2。ハイトに言われずとも、功利主義者であれば、進化心理学社会学などの知見が蓄積されて「人間の幸福には社会秩序や集団への帰属が影響する」と判明したら、その知見に基づきながら「最大多数の最大幸福」を実現するための諸々の方策を検討することだろう。まず「最大多数の最大幸福」というゴールが明確に決まっているがゆえに、「幸福」に関する知見がどう変わったところで柔軟に対応できること、つまり手段にとらわれず目的に目を向けつづけられることこそが、ほかの倫理学理論にはない功利主義の強みであるからだ。実際、ヒースが『啓蒙思想2.0』で展開している議論も「ダーウィン左翼」論や「デュルケーム功利主義」論の具体的な実践バージョンであるといえる。

 その一方で、ハイトが『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の前半でちらっと触れているように、「忠誠」「権威」「神聖」を重視するような伝統的・権威主義的・保守的(でデュルケーム的)な社会では、マイノリティに対する差別や抑圧が恒常的に発生する、ということもやはり見逃してはならない。グリーンやシンガーをはじめとして功利主義者たちが結局は「社会はリベラルであるべきだ」という主張をするのは、デュルケーム的な社会はマジョリティに対してそれなりの幸福を提供する一方で少数者に対してはかなりの苦痛を生じさせることになるからだ(多くの場合、苦痛の回避は幸福の獲得以上に重要なことである)。

 そして、いまよりもマイノリティに対する抑圧がさらに深刻であった時代に生きていたミルやベンサムなら、仮にデュルケームの議論を読んだとしても、やはりリベラルな社会を追い求めたことだろう。伝統的な社会で生じるマイノリティに対する苦痛を発見して、だれよりも先に女性や動物の「権利」を擁護したことこそが、功利主義の大いなる歴史的意義の一つであることを失念してはいけないのだ*3

*1:

 

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

s-scrap.com

数年前にTwitterでハイトがシンガーの「ダーウィン左翼論」を目にして「これなら同意できる」と呟いているのを目にしたことがあるから、遡及的に、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の執筆時点では「ダーウィン左翼論」の存在を知らなかったことがうかがえる

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

本日発売の『USO 3』にわたしのエッセイが掲載されています

rnpress.jp

 

 11月11日発売の、文庫サイズの小さな文芸誌、「USO」3号にわたしのエッセイ『ウソと「めんどくささ」と道徳』が掲載されています。

 4000字弱の短いエッセイであり、「執筆を引き受けたはいいもののちゃんとしたエッセイなんて書いたことがないからどうしようかなあ……」と嫌がって後回しにしていたところを締め切りが過ぎちゃって慌てて書いてしまって、「どうしたもんかなあ」と思っていたけれど製本された内容を読んでみたら「意外と悪くないじゃん」と思ったので、胸を張って宣伝します(もちろんわたしのエッセイのほかにも他のひとのエッセイとか詩とか写真とか漫画とかが載っています)。

 

 在日アメリカ人としてのわたしのアイデンティティに触れつつ、「ウソをつくこと」についてのちょっとした倫理学的洞察も含まれたエッセイとなっているので、興味のある方はぜひ購入してください。

 

 

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保守の道徳はリベラルより「広い」のか?(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』読書メモ①)

 

 

 ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか:対立を越えるための道徳心理学』は、大学院生のころに原著の The Righteous Mind のほうを英語で読んでかなり感銘を受けたものだ。それからハイトのことが気に入って、『しあわせ仮説』も読んでみるとかなり面白くて参考になった*1。同じくハイトが書いたや『アメリカン・マインドの甘やかし』も面白いし、このブログや経済学101でもハイトの記事を何度か訳している*2。……しかし、その後にさらに進化心理学倫理学社会学の本を読んだあとになって改めて『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を読み返してみたところ、残念ながら、「うーむ…」となるところが多い。

 ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』は再読しても9回に分けて読書メモを取れるくらいに内容が充実していて「再発見」も多い本であったのだが、それに比べると、ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』は「再発見」ができるポイントがどうにも少ない本であるのだ。

 

 おそらくほとんどの読者にとって最も印象が強く、この本の最大のウリでもあるのが、「道徳基盤理論」であるだろう。

 ハイトは、人間が道徳に対して持っている感覚を「味覚」のように例える。味覚には甘味・酸味・塩味・苦味・うま味(・辛味)などの基本となる味が存在しており、味覚障害を持たない限りほとんど全ての人はいずれの味も感じ取れる味蕾を持っている一方で、甘いケーキをとりわけ好む人もいればしょっぱいスナックにやみつきになる人もいるように、どんな味を好きになるかには個人差がある。それと同じように、道徳的な感覚は普遍性のある六つの基盤から成り立っているが、そのなかでどの感覚がとくに重視されるかは人によって異なる、というのが「道徳基盤理論」のポイントだ。

 

「ケア/危害」…苦痛を受けている人に対する思いやり。

「公正/欺瞞」…詐欺師や嘘つき、フリーライダーに対する怒り。

「忠誠/背信」…集団への帰属意識、裏切り者に対する怒り。

「権威/転覆」…階層性における上位の存在に対する尊敬や怖れ。

「神聖/堕落」…穢れや不敬に対する嫌悪感。

「自由/抑圧」…力を持つものによる横暴に対する反発心。

 

 そして、味覚に個人差があるとはいえ、甘いものしか食べない人やしょっぱい料理しか作らない人はどこか歪んでいるように思えるだろう。ハイトは、リベラルは「ケア」と「自由」と場合によっては「公正」という二つ〜三つの道徳基盤しか重視していないのに対して、保守はそれら三つに加えて、「忠誠」「権威」「神聖」の残りの道徳基盤も考慮した判断をしている、と論じる。つまり、道徳についてリベラルの人たちが持っている感覚は「狭い」のに対して、保守の人たちが持っている感覚は「広い」と主張するのだ。

 だから保守のほうが優れている…とまではハイトは言わないが、すくなくとも保守政治家のレトリックは六つの基盤のすべてにアプローチできるという点で、少数の基盤を狙い撃ちすることしかできないリベラルのレトリックよりも優れたものである、とは論じられている。また、実際のところ、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を初読した人は「保守って意外と寛容なんだな」「リベラルって実は偏狭なんだな」と思うようになるだろう。全体として、保守に対して好意的なメッセージが発せられている本であることは否定できない。

 

 ハイトの主張は、リベラルに自省を促すための議論としてとらえるなら、なかなかよいものだと思う。

 先日の衆議院選挙で自民党や維新が多数の議席を獲得したあとには、リベラルな学者やジャーナリストの多くはショックを受けて、「日本人はいつになったら人権という考え方を理解できるのか」「差別的な政策を疑問にも思わない人たちに囲まれて暮らしているなんて苦痛だ」といった種類の嘆きや愚痴をTwitterに投稿して、それを保守派の論客やツイッタラーがあげつらってやいのやいのと騒ぎ立ててバカにする、という光景が繰り広げられていた。これは今回に限らず、選挙のたびに繰り返される事態ではある。そして、選挙結果について嘆くリベラルが、自分とは違う投票行動をした人たちは「人権に配慮しない」「ジェンダー平等や環境問題を気にしない」などと自分たちよりも狭い見方に基づいて投票した、と決めつけがちであることはたしかに問題だ。

 よく指摘されるように、人が投票する際には差別や平等などの道徳に関わる事柄だけでなく、経済をはじめとした自己利益に関する様々な事柄を総合的に考慮して判断しているはずだ。むしろ、選挙というシステムでは、他者に対する道徳的な配慮よりも自己の利益に基づいた投票をおこなうことのほうが一般的であり、それは民主主義の前提ともなっているだろう。

 その一方で、道徳は人権や平等だけではない、という見方も重要だ。ハイトによれば、少数派や弱者が被る苦痛に対する配慮(ケア)や平等と公正を求める気持ちと同じように、権威に対する尊重や愛国心も、「労働者が収める税金に寄生しながら楽して暮らす公務員や生活保護受給者」に対する怒りや制裁願望も、道徳感情であることには変わりない。だとすれば、ケアも平等も愛国心も制裁願望も、どれかが優れていてどれかが劣っているわけではなく、いずれも等価なものと見なせるのだ。

 ……とはいえ、ハイトの議論を批判するジョシュア・グリーンやジョセフ・ヒースが論じるように、リベラルが「ケア」や「自由」を重視して他の道徳基盤を軽視しているのは、彼らがたまたま「ケア」や「自由」を好む感性をしているからではなく、理性を行使したり教育を受けたりした結果として「集団に対する忠誠や権威に対する服従、穢れたものに対する嫌悪感は、道徳判断の指標としては不適切である」という意識を身に付けたからであるだろう*3。六つの指標から二つや三つに絞って判断することは不自然で人為的なものであるが、多様な集団がひとつの共同体に存在しており複雑な経済や政治制度やテクノロジーが発展した現代社会というものがそもそもは不自然で人為的な環境であり、「集団主義的な判断や嫌悪感に基づく判断をしないこと」は、現代社会で生きるわたしたちに条件として課せられている。環境がまったく違う狩猟採集民で暮らしているときに身に付いた道徳感情を野放しにしていると、個人間でも集団間でも悲惨なトラブルが生じてしまい、経済も政治もまともに機能しなくなってしまうからだ。また、進化心理学に基づいたグリーンやヒースのみならず、『感情と法』で法律と道徳の感情的な起源を探ったマーサ・ヌスバウムも、嫌悪感に基づいた判断はすべきでないと論じているのである。

 すくなくとも高等教育を受けたリベラルであれば、彼や彼女の価値観は、教育や陶冶の結果として身に付いたものである可能性が高い。問題があるとすれば、リベラルの人たち自身が、そのことをすぐに忘れてしまって、自分たちの価値観を「人間として当然持っているはずの価値観」と思い込んでしまうことだろう。人権感覚は身に付いていないことがデフォルトであるが、それと同時に、現代社会で生きる人間には人権感覚を身に付けることが(道義的に)要請されるのだ。

 

……もっとも、ハイトによると、倫理や政治に関する規範的な主張とは、当人が持っている道徳感覚に、もっともらしく聞こえるための理屈を与えたものに過ぎない。理性という「乗り手」は感情という「象」に振り回される無力な存在であり、理屈とは感情という犬を正当化するために振り回される尻尾のようなものに過ぎない、というのがハイトの主張の根幹にあるものだ。

 したがって、客観的な倫理とか、より正当な政治的立場といったものは存在しない、というのが彼の見方である。だから、「(現代社会という環境のことを考慮すれば)人はリベラルな価値観を身に付けなければいけない」という反論にハイトが同意することはまずない。

 ハイトのスタンスは、メタ倫理学的にいえば情動主義非認知主義に属するものであり、倫理学者のなかにはハイトに賛同する人も多いだろう。……とはいえ、やはり彼の主張は極端であり、間違っているように思われる。

 

 道徳基盤理論には、他にも様々な問題がある。

 まず、実際のところ、「六つ」という数は道徳に関する感情を分別するには少な過ぎる。

 この批判についてはハイトも承知であり、道徳基盤の分類はあくまで便宜的なものとされている。

 しかし、たとえば「公正/欺瞞」基盤に関しては、実際には「自分よりも多くのものを得ている人に対する嫉妬心」や「咎のあるひとをみんなで一緒になって弾劾することを楽しむ制裁願望」もあれば、「自分が騙されて害を被ることを許せない自尊心」もあれば「他人が騙されて害を被ることを許せない義憤」もあるはずだ。これらの感情はいずれも「公正/欺瞞」として表出され得るが、「ケア/危害」や「自由/抑圧」として表出されることもあるだろうし、まったく別のかたちの道徳として表出されることもあるかもしれない。……そして、そもそも、道徳に関する感情と道徳に関しない感情との境目なんて、曖昧なものだ。

 また、「集団淘汰」の理論を支持するハイトは、道徳感情が進化してきた理由を「個人の利益と集団の利益の調和」や「集団間の競争で優位になる」ことに求めている。そのために、彼が提唱する道徳基盤理論も、社会的な要素や集団志向性がかなり強調される。その一方で、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のなかで「性淘汰」に関する議論がほとんどなされない点は見逃すべきでない。……性淘汰は、多かれ少なかれ、わたしたちが身に付けている感情に影響しているはずだ*4。それらの感情のなかには道徳として表出されるものもあるだろうが、その起源も機能も、ハイトが論じているものとはまったく異なる可能性が高いのだ。

 

 味覚と例えられながら六つの道徳基盤が並列されることには、その六つの基盤はどれも同じような重要性を持っていたり同じような頻度で発生したりする、というミスリーディングの危険がある。

 ハイトは、進化的な環境のなかで道徳基盤が対応してきた「オリジナル・トリガー」と、現代社会における「カレント・トリガー」のそれぞれを挙げている。自分の子どもや親族が感じる苦痛に対する反応である「ケア」は身内に関するものであり、腐ったものや不潔なものを回避する反応である「神聖」は自然環境に関するものだ。「公正」と「権威」は他者との協力関係のなかで相手が犯すかもしれない裏切りや横暴に対する反応、そして「忠誠」は自分を含む集団に向けられた脅威に対する反応である。

 こうして並べると、それぞれの道徳基盤の対応範囲や射程は全く異なるし、トリガーが発火する頻度にもかなりの差があることがわかる(子どものいる家庭や未開社会で暮らす人は「ケア」や「神聖」のトリガーが毎日のように発火しているだろうし、他集団がほとんどいない環境では「忠誠」のトリガーが発火する機会はきわめて少ない)。たまたま「道徳」という名前で括ることができるだけで、これらは、まったく異なる性質を持つものであるはずなのだ。

 

 そして、コロナウイルスとワクチンをめぐる騒動は、道徳基盤理論のアテにならなさを露呈してしまった。

「神聖」基盤における穢れの感覚が病気を回避するための反応として進化してきたことは明白であり、コロナウイルスを恐れるのは、リベラルと異なり「神聖」も重視する保守のほうでなくてはおかしい。しかし、実際には、「感染対策のために経済を犠牲にするな」と主張したりノーガード戦略を唱えたりしていたのは、保守のほうであったのだ。

 ロックダウンや緊急事態宣言は人の自由を制限するという点で「自由」の道徳基盤とも関係があるが、それは、リベラルが反応するとされる数少ない基盤のうちのひとつだ。

 さらに、コロナという「穢れ」に対しては他人と比べてまったく恐れていない人が、ワクチンについては過剰に「穢れ」を見出して恐れたりしている。あるいは、リベラルは、ウイルスという「穢れ」そのものではなくて、コロナに罹患することや身体的苦痛に対する「ケア」のトリガーが発火しているのかもしれない。ワクチン反対派も、副反応による身体的苦痛に対する「ケア」をしているのかもしれない。

 ……でも、こんなことを言い出したら、どんな事例におけるどんな立場のどんな反応にだって、好き勝手に理屈をつけることができてしまう。

『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のなかでは、リベラルでも保守でもない例外的な存在としてリバタリアンが取り上げられている。リバタリアンは「自由」基盤をなによりも重視して、「公正」基盤もそれなりに気をかけるが、「忠誠」「権威」「神聖」にあわせて「ケア」基盤も同じように軽視しているという点で、リベラルとは全く異なるのだ。

 しかし、実際のところは、リベラル・保守・リバタリアンの三つに限らず、もっと多様な立場が存在していて、重視している基盤もそれぞれに異なるのだろう。そして、結局のところ、それぞれの立場の判断は道徳基盤ではなく信念主義主張によってのほうがもっとうまく説明できる。コロナに対するリベラルの反応は、道徳基盤理論では説明が難しいかもしれないが、福祉を重視するロールズ的な現代リベラリズムの観点からすれば筋の通るものであったかもしれない。保守が経済活動を重視したことは、福田恆存による「保守とは横丁の蕎麦屋を守ること」の定義とは矛盾していない。リバタリアンであれば、行動を制限されることとワクチンを強制されることのどちらにも反発するのは当たり前だ。

 重要なのは、信念や主義主張とは感情ではなく理屈であるということだ。結局のところ、わたしたちは生来の感情だけで動く生き物ではないのだし、「乗り手」は「象」に振り回されることなく、きちんと自分の意思によって「象」を動かせているのかもしれないのだ。

*1:拙著『21世紀の道徳』の「幸福論」の部でも、『しあわせ仮説』の議論を参照している。

honto.jp

*2:

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*3:

econ101.jp

*4:

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著書『21世紀の道徳』が出版されます

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 初の著書が出版されます。帯文は東浩紀さんからいただきました(現代哲学を「政治的正しさ」の呪縛から解放する快著、とのことです)。

 このブログにいままで書いてきたことをブラッシュアップして、本格的な論考にして、本として読みやすくおもしろいものに仕上げた内容になっています。

 

【目次】

■第1部 現代における学問的知見のあり方

第1章 リベラルだからこそ「進化論」から目を逸らしてはいけない
第2章 人文学は何の役に立つのか?
第3章 なぜ動物を傷つけることは「差別」であるのか?

 

■第2部 功利主義

第4章 「権利」という言葉は使わないほうがいいかもしれない
第5章 「トロッコ問題」について考えなければいけない理由
第6章 マザー・テレサの「名言」と効果的な利他主義

 

■第3部 ジェンダー

第7章 フェミニズムは「男性問題」を語れるか?
第8章 「ケア」や「共感」を道徳の基盤とすることはできるのか?
第9章 ロマンティック・ラブを擁護する

 

■第4部 幸福論

第10章 ストア哲学の幸福論は現代にも通じるのか?
第11章 快楽だけでは幸福にたどりつけない理由
第12章 仕事は禍いの根源なのか、それとも幸福の源泉なのか?

 

終章 黄金律と「輪の拡大」、道徳的フリン効果と物語的想像力

 

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現代だからこそパターナリズムが正当化される理由(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑨)

 

 

 

 先日の記事でも述べたように、現代社会は、わたしたちの報酬系認知バイアスの欠陥をついて健康と時間(とお金)を奪うような商品やシステムで溢れており、そういう点ではわたしたちの生きる環境は有害なものとなっている*1

 現代社会、とくに都市におけるもうひとつの問題が、見ず知らずの他人しかいないことだ。外を出歩いたり車を運転したりするとき、周りの人たちは自分とは縁もゆかりもなく、互いに顔も覚えないような状況では、人は向社会的な行動をとらなくなり、衝動的な行動を取りやすくなる。たとえば、小さな町であれば車種やナンバープレートで「あれは〇〇さんの車だ」と他の住民に伝わってしまうから、そういう町に住む人の運転は丁寧なものとなる。危険運転をしているところをみんなに見られて、後ろ指をさされたり評価を下げたりすることを避けたくなるからだ。

 狩猟採集民の暮らしていた集団は多くて数十人から百人前後の小さなものであり、構成員は互いの顔や名前を覚えていて、集団の利益に反したり集団に害を及ぼすような行動をする構成員がいたらその評判はあっという間に伝わって、制裁や処罰が下されていた。人間の道徳感情は、周囲の評判がサンクションとして機能する小さな社会に適応して進化してきたものだ。わたしたちが行動や生き方に抑制や調整をはたらかす際には、自己完結的なセルフコントロールだけでなく社会的コントロールのシステムが存在することが前提となっている。

 現代社会の都市という環境は、社会的コントロールを奪い、自己完結的なセルフコントロールだけで行動や生き方を抑制・調整するような試練をわたしたちに課しているのだ。そして、『啓蒙思想2.0』では、人間の理性とは個人の内側だけに存在するものではなく、外側にある環境とセットになることでようやく十全に機能するものである、ということが繰り返し強調されている。社会的コントロールが奪われた状況とは、セルフコントロール能力に機能不全が起こっている状態だということなのだ。

 昔ながらの田舎の環境とは不自由で抑圧的なものであるように思えて、それを嫌がる若者の多くが、田舎から都市へと脱出する。しかし、社会的コントロールを奪われた都市での生活で、わたしたちがほんとうの意味で「自分の意志」で行動して「自分らしい生き方」をできているとは限らない。もしかしたら、人の網の目のなかで周りに気を使いながら自分の行動をあれこれ抑制したり調節したりしてはじめて、「人間らしい生き方」というものが実現できるのかもしれないのだ(人間とはずっとそういう生き物として進化してきたので)。

 

この点で、薬物依存、不倫、離婚、長期の失業といった、さまざまな形の破綻で個人に烙印を押すまいとするリベラルのやり方に、保守派が不満を表明しているのも一理ある。リベラルのいつもの主張は、こうしたことは当人の罪でないこともよくあるから、社会がつらい思いをさせて踏んだり蹴ったりの目に遭わせるべきでないということだ。もちろん、これにもっともなところはある。遺伝的にアルコールや薬物依存になりやすい人もいるし、子供の父親に捨てられる女性もいるし、経済危機で自分に責任のない数百万人が失業することもありうる、などなど。けれども、これらのどの問題にもセルフコントロールの側面が存在する。遺伝的にアルコール依存になりやすくても実際ならない人は大勢いる。相手の男は信頼できないと頭の片隅でわかっていて、子どもを作るのを控える女性は大勢いる。皮肉なのは、リベラルはこうした破綻に伴う社会的烙印を弱めることで、そうとは知らずに、成果をあげるのに必要なセルフコントロールをできにくくしている。それこそこうした烙印が重要な足場の役割をする理由である。烙印があるからこそ依存症に陥るのを、不倫に走るのを、親の責任を果たさない親になるのを、失業するのを避ける、もう一つの動機が与えられる。

(p.367、強調は引用者による)

 

 また、現代社会では個人の自由の範囲が拡大しており、それと同時にセルフコントロールを損なわせる構造があちこちで出来上がっている。たとえば、アメリカでも日本でも、国民の睡眠時間は年々減り続けている。その原因は労働時間や通勤時間の増加とも限らず、むしろテレビやゲームやインターネットなどの娯楽の発展により、夜更かしをする人が増えていることにある。また、商店や飲食店の営業時間は遅くなり、終電の時間も遅くなったことで、夜遅くまで外で遊ぶこともう容易になってしまった。これらの変化はたしかにわたしたちの生活を楽しいものにはしているが、寝る時間を奪うことでしんどいものにしていることも否めない。一方で、一昔前はゲームもインターネットもなく、テレビは深夜になったら放送終了していた。「もう寝る時間ですよ」というメッセージを、社会環境が個人に対して発していたのだ。

 

 先日の記事でも論じた逆適応が生じることで、諸々のお菓子や飲み物は異常なカロリーや塩分や糖分を含むように進化した。また、アメリカではいつの間にか「キングサイズ」のチョコレートバーが標準化して、自販機や小売店では普通サイズのチョコレートバーを買うことのほうが難しくなっている。このような状況を放置していたら、国民がどんどん肥満や生活習慣病になっていくことを止められない。しかし、食品のサイズやカロリーに対する法規制はパターナリズムとして批判される。

 パターナリズムへの反論でもっともの有名なものが、J・S・ミルが『自由論』のなかでおこなっている議論だ。ミルは、「ある人の気持ちや立場を最も理解しているのは、その本人である」「なにが自分のためになって、なにがそうでないかは、本人がもっともよく判断できる」と論じて、個人の選択肢や判断を法や国家がコントロールすることは不当であると論じた。

 

しかし現代の認知バイアスの研究は、ミルの主張に課題を突きつける。もしも私たちの犯す誤りがランダムで予測しがたければ、国家は個人の判断にとやかく言うことに苦労するだろう。役人が一度か二度、正しく推測する一方で半ダースは間違えてしまい、最終結果はマイナスとなる。しかし認知バイアスという概念に従えば、人は論理的に思考するなかで系統立った誤りを犯すのであり、そのため誤りはきわめて予測しやすい。つまり不合理に対処するときに、法的パターナリズムは最終的に利益を生み出せる可能性がある。

(p.371)

 

 たとえば、保健所の検査官がレストランに定期的な衛生検査を行って、衛生状態に問題があったら営業停止することは、レストランの経営側だけでなく「多少は衛生状態に問題があるとしても、そのお店で食べたい」という客側の自由も奪うという点で、パターナリズムである。この処置が正当化されるのは、厨房の状態がどうであれ出てくる料理が一見するとまともであったらその料理の危険性を判断する能力が個人にはないこと、「自分は食中毒になんからない」という楽観バイアスが存在すること、またレストランに着いた客はたいていは空腹であるために「この店は衛生状態に問題があります」という警告を掲げられていても関係なしにいますぐ食事をしたがること、などなどが背景にある。

 わたしたちは、空腹であるときには「衛生状態よりもいますぐ食事できることのほうが重要だ」と考えるかもしれないが、そうでないときには「レストランの料理のせいで食中毒になるなんて最悪だから、営業状態に問題があるレストランは閉まってくれていたほうがありがたい」と判断するかもしれない。わたしたちの判断は、状況やコンディションによって変わる。ミルは「なにが自分のためになって、なにがそうでないかは、本人がもっともよく判断できる」と主張したが、空腹であるようなタイミングでおこなった判断はあとから「あんな判断は自分自身のためにもならない」と後悔する可能性が高い。空腹という特殊な状態において下した判断が、自分自身の長期的な利益を考慮した判断となる可能性は低いのだ。……ならば、そのような判断をしてしまう機会がそもそも排除されるのは、自由は奪われるかもしれないがわたしたちにとっては利益となるかもしれない。

 そして、先述したように、わたしたちが生きる環境は認知バイアスヒューリスティックの弱みや欠陥につけ込み、セルフコントロール能力を奪う、敵対的なものとなっている。そのまま放置したら、わたしたちは短期的な衝動や誘惑に負けて、後から振り返ったら後悔するような行動を、どんどんしてしまう。だからこそ、現代では、パターナリズムの必要性は増しているのである。

 

 キャス・サンスティーンとリチャード・セイラーによる「ナッジ・パターナリズム」に関するヒースの評価はこちら。

 

 

アメリカの年金制度について、「加入したい人が書類を作成する」という既存のオプトイン方式から「原則として自動加入で、脱退したい人は書類を作成する」というオプトアウト方式に変更すべきだ、というサンスティーンとセイラーの主張に関して:)

 

ここでの重要な考えは、ナッジは人々の経済的インセンティブを「大きく」変えないということだ。あるいはむしろ「客観的には」と言ってもいい。なぜなら意思決定の時点でインセンティブは大きく変わるからだ。それは行動を変えるのだ。書類の作成はある種のコストである。必ずしも経済的なものではないが、コストはコストである。時間がかかるし、精神的な負担になる。だからオプトイン方式は、書類作成を求めることで、基本的に加入を妨げている。オプトアウト方式へ切り替えれば、コストは加入しない手続きのほうへ転換される。掛けられている年金額と比べたらわずかなものだから、たいしたことではないように思える。にもかかわらず、それが本当に負担でないならば、その転換が人々の決定に影響を及ぼすことはないはずである。

そうしてサンスティーンとセイラーが本当に奨めているのは、私たちの不合理が(ヒュームの言を借りれば)「自らを治療」するように外部の選択環境を整えることだ。私たちは目先に囚われすぎて自分の退職後を心配しないうえに怠け者すぎて書類作成もしない。退職後の蓄えを減らすために書類作成が必要になるようにすることで、不合理の一つを、もう一つと相殺するように利用できる。怠惰さが近視眼的な視点の治療薬になる。

(p.374 - 375)

 

「独学」がダメな理由(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑧)

 

 

 

どうやって正気を取り戻すかを考えるとき、合理的思考の根本的な特徴をおさらいしておくことは役に立つ。時間がかかる。注意力が求められる。言葉に基づいている。意識的。非常に明示的。またワーキングメモリに依存しているせいで活動が妨げられやすい。したがって、論理的思考の中間段階をメモ書きするといった外部化から恩恵を受ける。どうしてこの思考様式がすっかり環境に支配されてしまっているのかは分かりやすい。スピードという単純な問題だ。理性の遅さについて考えてみよう。ある考えや主張はかなり簡単なものでも、説明するのに優に一〇分から一五分はかかる。しかも教室という恵まれた環境の外で、きちんと座って、何かを説明する人に耳を傾けるよう強いられること(リモコンでチャンネルを変えたり、フェイスブックをチェックしたり、話の腰を折ったりはしないで)は驚くほどめったにない。宗教上の説教が大切な例外だ、という人もいる。ただし、話題の範囲はとても限られがちだ。つまり、人は学校教育を終えると、断片的には伝えることのできない新しいものごとを学ぶ機会はほんのわずかしかない、ということだ

(p.355,強調は引用者による)

 

 ヒースが具体例として挙げるのが「自由貿易のメリット」である。「比較優位」などの概念を前提とするデヴィッド・リカードのモデルを理解すれば、国際貿易がなぜ(原則として)二国間のどちらをも豊かにするかということが理解できる。しかし、「賃金水準が大きく異なる二国間の貿易でも、豊かな国の賃金に下げ圧力が生じない」という状況はきわめて直感に反する。そして、リカードのモデルはさほど複雑でないとしても、ある人が「リカードのモデルを理解しよう」という意志を持ったうえで理解可能な状態になることは、かなり不自然なことである。具体的な物事を脱文脈化して、ある程度の過程を受け入れたうえで、「二つの財を交換する、二人の関係」について抽象的に考えなければならないからだ。このような行為には、抽象的に考えることのみならず、「片方の人の取り分が増えたら、片方の人の取り分は減るはずだ」というゼロサムゲームを前提とした「基本的演算バイアス」という日常的な直感に反して考えることも必要とされる。

 リカードのモデルに限らず、「議論」を理解して「学習」することには、日常的な会話ではありえないような「前提」や「条件」を理解したうえで自分の直感に反する思考をおこなう、という不自然(で苦痛)な行為が要請される。また、このような行為には、かなりの量のセルフコントロールが必要とされる。そして、学校の「教室」とは、学習に伴う負担を減らすために設計された環境であるのだ。

 

教室の重要な特徴の一つが、学生は授業の邪魔をしてはならないとことだ。質問があれば手を挙げさせられ、なおかつ教師には「あとで。このポイントを説明してから」と言える特権がある。これは議論の持続という点では、実は非常に重要なことだが、およそほかの社会的状況ではひどく不自然で落ちつかない。リカードでも、ほかのなんとなく込み入った議論でもそうだが、たとえばディナーパーティーの席で説明しようとしたら、いくつかの社会慣習を破らずにするのは不可能だとわかるだろう。そもそも、なにしろそれだと長い時間しゃべりすぎて「退屈な人」にならざるをえない。それに、口を挟んでくる人というのは必ずいて、たいていは勇み足で異論を述べたり、冗談を言ったり、議論から脱線した問題を提起したりする。あいにく、間が悪くならずに一〇分間でも話しつづけられる「自然な」社会環境などはほとんどない。認識すべき重要なポイントは、こうしてそれがこの環境で伝えることのできる種類の考えかどうか、ふるいにかけられているということだ。

(p.357)

 

 教室に限らず、「書き言葉」、つまり「本」も学習を可能にすることができる例外的な装置である。理解するのに一〇分や二〇分では済まないような議論については、本が必要とされる。たとえば、ヒースによると、「進化論」を理解するには最低でも一時間はかかる。進化論は「数十億年」という時間のスケールが大前提となっているが、わたしたちが時間について持っている時間の長さの「感覚」は、「十年とはどんな長さか」や「百年とはどんな長さか」ということくらいまでなら判断できるが、それ以上は「すごく長い」ということしかわからない。したがって、万年や億年かかることが当たり前である自然選択のメカニズムを理解するためには、理論とともに数々の証拠が掲載された本を参考にしながら、「心」ではなく「頭」で受け入れるしかないのだ。

 テレビでは草創期から数々の自然ドキュメンタリー番組を放映してきたが、そこでは進化論が正しいことは前提とされているが、進化論の考え方についての説明は一切ない。尺が足りないだけでなく、動画で視聴したところで理解できるような考え方ではないためだ。その一方で、学校に通った人たちは、教科書という本の助力を得ながら、国際貿易や進化論についての理解を得ることができる。「学校」とはカリキュラムだけではなく、社会環境でもあるからだ。

 

このため、社会で合理性を育むという点では、伝統的な正規学校教育に代わるものはない。旧式な教育環境に関して権威主義だと批判されたことの多くーー教師による教室管理、整然と並べられた机、読書課題、問題集、しめきり、テスト、そして最後に成績評価ーーは、同時に集中力、計画性、目標達成についてセルフコントロールの不足を補うように作られた、外的な足場と見なすことができる。当然のことながら、特権を濫用する教師もいる。けれど教室での学習の利点を知るには、独学の人としばらく会話してみるだけでいい。独学者に最もよく見られる特徴は、規律のなさーーとかくよい考えと悪い考えを区別できないのに加えて、落ちつきのない認知スタイルである。確証バイアスはとりわけ深刻な落とし穴だ。伝統的な教室とカリキュラムの利点の一つは、自分以外の人が系統立てたとおりに教材を学ばされ、最初から共感できることだけでなく抵抗のある考えをも理解できるようになることだ。自学自習には選り好みしたくなる誘惑があるから、そのせいで独学者はとりわけ確証バイアスと陰謀論に陥りやすいようだ

(p.359、強調は引用者による)

 

 わたし自身、大学院の後半から現在に至るまでほとんど「独学」のみでやってきた人間であるので、ヒースの指摘はじつに耳に痛い。自分のことは棚に置いてほかの独学者の人を観察してみても、たしかに、確証バイアスの餌食になっている人は多そうだ。

 ちなみに、独学者にありがちな特徴のひとつが、自分にとっての「スター」や「カリスマ」となる学者や思想家を発見して信奉するあまり、教科書による体系的な知識ではなく、スターやカリスマの価値観やイデオロギーや好き嫌いに振りまわされることである。カリスマ学者自身は体系的な知識を前提としたうえで自分の思想を打ち立てているはずだが、前提となる体系的な知識を持っていない独学者は、カリスマの言っていることを場当たり的で表面的にコピーした劣化版にならざるを得ない。

 

 とはいえ、独学者にとっては幸運なことに(?)、近年のアメリカの人文学や社会科学では「カリキュラムの破壊」が取り沙汰されるようになっている*1

 また、教師を招かずに学生同士が対等な立場で参加して発言する「読書会」は日本の大学に独特な文化であるが、教師の代わりに「よく知っている詳しい上級生」がファシリテーターになるとしても、読書会からは「教室」が持つような種類のメリット(バイアスを抑え込む「不自然」な思考を強制して、自分が興味のないことまでをも学ばさせられること)が失われることは明白であるように思える。

 見方によれば、読書会とは、「独学」を十数人で一緒におこなうことに過ぎない。レジュメを作成してきて議論をおこなう必要があるために独学よりも知識は定着しやすいだろうし、他人が参加することで自分の思いこみやバイアスや間違いが指摘されるというメリットもあるが、参加者の問題意識や価値観が共通していると、知識の選り好みや確証バイアスはむしろ悪化する可能性も高い(エコーチャンバーなりフィルターバブルなりサイバーカスケードなりは、ネット環境だけで起こるとは限らないのだ)。「読書会文化」が日本の(人文系)知識人にもたらしている負の影響についても、どこかのだれかに調査や分析をしてもらいたいものだ。

インターネットで「言論」は成立するか?(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑦)

 

 

 

政治的言説の質にインターネットが与える長期的な影響はまだはっきりとわからない。これはテクノロジーが急速に変化しているからでもあり、伝統的なメディアーー特に新聞ーーに対する影響がまだ定まっていないからもである。当然ながら、ツイッターには字数の制限があるため、合理的な討論には不都合だ。それは言葉による平手打ちのけんかを助長している。ツイッターが課す驚くべき「スピード欲求」もまた、合理性の立場から見ると破滅的である。だからジャーナリストや専門家がいまや毎日何時間もつぶやいたり、つぶやきを読んだりに費やしているのが、よいことであるはずはない。

ブログにはもっと大きな可能性があって、明らかに政治文化の重要な要素になった。しかし興味深いことに、合理的な討論をつづけたいと考えているブログやメディアのサイトは、「荒らし」という他人を怒らせることだけが目的でコメントを投稿する連中を積極的に検閲しなければやっていけない。

(……中略……)

そのうえ、インターネットが復活させた文字主体のコミュニケーションはつまるところ回線容量の制限の結果にすぎないのかもしれない。どんどん大量のデータが送りやすくなるにつれて、ビデオの重要性が着実に高まっている(だから、いまやただブログに記事やコメントを投稿するよりビデオをアップロードして、周りに「お返し」ビデオのアップを求めるような状況だ)。視覚メディアの多用への移行は、まさしく期待される言説の質に影響を与える。いずれ過去一〇年間を振り返ったとき、それこそ技術的制約のせいで長文メッセージを打って送りあい、ブログに文字コメントを残すしかなかったゆえに、公的な言説の「黄金時代」として懐かしむ、というのは充分ありうる話だ。

(p.398 - 399)

 

啓蒙思想2.0』の原著が刊行されたのは2014年だが、この頃からTwitterが言論に与える影響の問題点は認識されていたわけだ。そして、YouTube花盛りな現在の惨状をふまえると、動画メディアへのアクセスが容易になることで言論の質がさらに低下することを危惧するヒースの意見は、まさに正鵠を射ていたのである。

 私見を述べると、インターネットが言論の質を低下させるのと同じように、マーケティングも言論の質を低下させる。「消費者にリーチして、金を稼ぐ」ことを目的にした時点で、虚偽や誇張を含まずに事実に基づくことに対して負のインセンティブがはたらいしてしまい(虚偽であろうと消費者にウケることを言ったほうが儲かるからだ)、間違いを指摘されたらそれを受け入れて意見を変えたり反対陣営の言うことに耳を傾けたりすることもしづらくなる(党派性に阿った極端な意見を毎度同じように言い続けるほうが、固定客をつかまえて商売になりやすい)。そして、インターネットとマーケティングがあわさってしまうと、もう最悪だ。

 

 noteのような「定期購読」システムは、ふわふわしたエッセイやマニアックで罪のない趣味に関する文章ならともかく、政治や社会問題に関わる文章については、アフィリエイトブログよりもさらに有害なものとなりやすい。そもそも、大学やマスメディア会社などに所属しておらず組織のリソースも使えないひとりの個人が、政治や社会問題について党派性に左右されない有益でオリジナルな知識や知見を定期的に提供することは、ほぼ不可能に近い。それよりも、特定の立場に偏った意見を言ったほうが「読者」を獲得しやすい。だが、途中から意見を変えたり指摘を受けて反省したりすると、せっかく獲得した読者が失われてしまう。読者は、同じような意見をこれからも言い続けることを期待したからこそ、「定期購読」を開始したからだ。さらに、マガジンをハイスペースで定期的に更新しなければ、やはり読者が定期購読をやめてしまうおそれがある。だから、noteのマガジンで書かれる文章は、必然的に粗製濫造なものにならざるを得ない。

 さらに、新規読者をマガジンに流入させて購読させるためにはTwitterでの「宣伝」活動や、マガジンの無料部分での「釣り」をするなどの努力や工夫が必要とされる。政治や社会に関する話題であれば、批判対象となる「敵」をつくって戯画的に表現したりバカにしたりすることで、同じ「敵」を持つ人たちを同調させて党派心や部族主義を煽ることが、もっとも手軽で効果的な宣伝手段となる。そして、noteを購読するまでには至らない人たちも、「宣伝」や「釣り」は目にするので多かれ少なかれ部族主義を煽られて、そして攻撃の対象となっている「敵」の側も黙ったままではいられないから、結果として言論の質は共倒れ的に大幅に低下することとなる。……既存のブログメディアや「買い切り」形のweb記事、新聞や雑誌やテレビなどの旧来のマスメディアにも同様の問題は存在するだろうが、個人の記事を「定期購読」で売るシステムではその問題を激化させやすいということだ。

 

 よく、Twitterに漫画を掲載している人が「出版社の編集者がついたけれど、フォロワーが30,000人を超えないと商業出版はできないと言われた」という嘆きを投稿することがある。漫画というフィクションや料理のレシピなどの他愛のない情報ですらバズることに特化した「底辺の競争」が起こっており、その結果として漫画やレシピ自体の質が低下したりバリエーションが乏しくなったり扇情的な内容や極端な味付けになったりする、という問題が指摘されている。

 ……そして、政治・社会・道徳などの話題について論じる学者・ジャーナリスト・批評家までもが「フォロワーが30,000人を超えないと商業出版はできません」と言われるようになったとすれば、どれだけ悲惨な事態が待ち受けているかは目に見えている。誰も彼もが、フォロワーを増やして維持するために、左か右か自称中立かのどれかの極に触れながら、本人も信じていないような怪しい意見を連呼するようになるはずだ。

 逆に言うと、政治や道徳に関する問題について事実を追求したうえで誠実な主張を(論文などのかたちで)発表するという行為に、「読まれるかどうか」「売れるかどうか」「ウケるかどうか」ということに関わらず、(実績や地位などの)見返りを与えるシステムが(一応は)担保されているアカデミアという制度は、やはり必要であるのだ。

  

 ついでに書いておくと、昨今では文筆家や編集者、読書家や学問ファンまでもがこぞってYouTubeやラジオをはじめている。しかし、学問的な本に書かれているような知識や議論とは、さまざまな情報や理論を前提としたうえで多かれ少なかれ込み入った論理を展開したうえで成立するものであり、それを理解するためには、結局のところ本を読んで論理の展開を追うしかない。アカデミックな学術書だけでなく、ポピュラー・サイエンスの本ですらそうだ。『啓蒙思想2.0』では、テレビの草創期にはテレビが学校の代わりになることが期待されたこと、そして実際にいくつものドキュメンタリー番組が作られたにも関わらず、その期待が完全な失望に終わったことが指摘されている。同じように、YouTube(やラジオ)が本の代わりになるということは、絶対にないだろう。

 メディアの変化によって最近の若者が本から遠ざかって動画ばかり観るようになっているとしても、若者に知識や議論を伝えたいと思うなら、必要なのは送り手たちが本の「劣化版」である動画メディアに手を出すことではなくて、受け手である若者たちに本を読ませることであるのだ。