道徳的動物日記

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公正価格の誤謬、「ホモ・エコノミクス」批判批判(読書メモ:『資本主義が嫌いな人のための経済学』③)

 

 

 

● 第7章「公正価格の誤謬」から。

 

あえて私の考えを言えば、左派または人類の味方とすら辞任する御仁にとって、豊かな工業化社会で食住をあがえない人がいるのはいるのは許しがたいことだ。それだけなら問題ない。だが、ここで二つの大きく異なる見方がある。食中をあがえない人がいるなら、問題はこれらが高すぎるか、お金が足りない人がいるかのどちらかだ。同様に、問題の解決法は二つある。一つ目は価格を変えること、二つ目は国民の収入を補うことだ。だが、なぜか二番目の選択肢は見過ごされる傾向がある。そのため「公正価格の誤謬」とでも呼ぶべき論考パターンができあがる。再分配の様式に生じる不公正の直接の原因は価格だからと、給付金の効果を無視するものである。

 

(p.175)

 

 この章でヒースが指摘するのが、左派による「公正価格の誤謬」は電気料金や賃貸住宅などの生活に欠かせないものが貧困層に人々にとって高すぎるという消費者側の視点と、発展途上国が先進国向けに輸出する値段が安すぎるという生産者側の視点の両方で生じている、ということだ。前者については、電気料金の切り下げや家賃統制などの価格操作的な政策が取られ、後者についてはフェアトレード運動に結びつく。しかし、これらのどちらもが、意図しているものとは異なる効果や逆の結果をもたらしてしまう。   

 電気料金を切り下げることは過剰な消費を招くだけでなく、貧困層の人々以上に富裕層の人々を得させてしまう。生活費に占める電気料金の割合は貧困層のほうが高いとはいえ、電気を消費する絶対量は富裕層のほうが大きいために、「貧しい人に一ドル届けるごとに金持ちに二ドル与えることが必要となる社会政策」(p.178)になっていて、非常に非効率的なのだ。

 家賃統制は賃貸物件の条件を借主側にとって有利で魅力的にするために、本来なら持ち家を買っていたような層の人たちまでもが賃貸をしたがる。そのために、貧困層は部屋をめぐって中間層や富裕層と競争することになってしまい、結果として、都市部に引っ越したくても空いている部屋がないという状況になってしまう。価格操作は供給と需要のバランスに不自然な影響を与えて歪めてしまうことになる。

 フェアトレードに関する指摘は以下の通り。

 

フェアトレードの文献には、地主や、焙煎業者、ブローカー、多国籍企業から破廉恥に搾取されるコーヒー生産者の胸のつぶれるような話があふれている。だが変えようのない事実がいくつかある。世界のニーズより一〇〇〇万袋も多くコーヒーを生産しているなら、適切な解決法はそんなに多く生産するのをやめることだ(存在しない西洋の消費者向けのコーヒー豆栽培に使われた土地と労働力は、本当に必要とされているもの、例えば食糧の生産に使うこともできたのだ。それは重要なことなので忘れずにいたい)。ところが、苗木を植えたり身が熟すまで世話したりといった「埋没費用」ゆえに、あまりに多くのコーヒー生産者が、他人が自分より先に市場から離脱するのを望みながら粘っていた。

原因療法ならぬ対処療法に走る見本のごとくに、オックスファムその他のフェアトレード信者は、西洋の消費者がこの供給過剰に対し、コーヒーにもっと高値を払うべきだと示唆した。悲惨なほどばかげた提案だ。これでは(問題を解決しないという意味で)間違っているだけでなく、(解決すべき問題をまさしく悪化させるという意味で)とるべき行動の正反対ですらある。

 

(p.195)

 

「希少性価値形成」に関連する、「社会的費用」の説明もなかなか(難しくて)興味深い。

 

「社会的費用」は、各人の消費が社会に課した放棄の度合い、または控えさせた消費を表している。これはかなり抽象的な概念だ。というのも、ほかの誰かに消費されたであろうその財だけではなく、その財を作るのに注がれた労働力と資源をほかの何かに支えて、ほかの誰かに消費されえたのだ、ということも含めるからである(だから一杯のコーヒーを飲むとき、それを飲みたかったかもしれない人から、その一杯のコーヒーを取り上げているだけではなく、その土地を使って育てて欲しかったであろう人から野菜を、その農民を裁縫工場で雇ってほしかったであろう人から服を……以下続く……取り上げているのだ)。

一杯のコーヒーを飲むとき人が他人にどれだけ不便をかけるかは、二つのことで決まる。第一に、ほかの人がどれほどコーヒーを必要としているか、第二に、もっと生産するのにどれだけ手間がかかるか(もっと経済学的にいうと、コーヒーの需要供給曲線はどうなっているか)。コーヒーの価格が需要と供給の変化をたどるなら、この困難さの程度を反映したものになりがちだろう。ほかの誰もがコーヒーを本当に必要とするなら、もっと払う覚悟をするだろう。コーヒーは、それを飲む人間がほかのみんなに本当に必要なものを与えないという事実を反映して、もっと割高なものになる。だからコーヒーを飲む人は、他人に与えないことを正当化するために、心底から必要としているほうがいい。上昇した価格を払うのにやぶさかでないことこそ、その人にとってそれが本当に必要であることの証左となる。

同じように、もしコーヒーが豊富でわりと生産が簡単ならば、おかわりをしてもさほど問題ではないが、もしコーヒーの生産にもっと多くの材料が必要になってきたり、ほかの部門でその材料の需要が高まったら、コーヒーの生産を縮小して、労力をよそへ注ぎたくなるかもしれない。この場合にもコーヒーは、消費者が求めるほかのものの生産に材料を使うほうがいいかもしれないという事実を反映して、もっと割高になる。そこで支払いの意思が見られるなら、コーヒーの生産は必要とされる時間と労力に見合う価値がまだあるということだ。もし見られないなら、紅茶に切り替える人が出てきてしかるべきだ。

ここでの原則はごく単純である。個人の消費行動が社会へどんな損失を与えるにしろ、消費した商品から個人が得る満足によって正当化されねばならない。紅茶を飲んでもコーヒーと同じくらい満足する消費者は、もしコーヒーに伴う社会的費用のほうが大きいなら、コーヒーを飲むべきではない。これを達成する一つの方法としては、消費者の頭のなかを覗きこんで本当はどれぐらいコーヒーと紅茶が好きかを割り出してから、その生産に何が関係しているかチェックすることだ。もっとずっと現実的な方法は、それぞれの財を人が買いたいと思う総量と売りたいと思う総量が一致するときの価格水準を割り出すことだ。これが「市場精算価格」と呼ばれるものである(競争市場はこの価格を決するものだが、その一手段に過ぎない)。

 

(p.180 - 182)

 

 なんにせよ、ヒースがこの章や『資本主義が嫌いな人のための経済学』全編で主張しているのが、「私たちは道徳的直観に区切りをつけるのを学ばねばならない」(p.184)ということである。私たちは分配的正義に関する直感を持っているだろうし、社会や市場の状況がその直観に反するものとなっていることは多いだろうが、そこで所得の分配を「公正」なものにしようとすることは間違っていないけれど、価格を「公正」なものにしようとするのはやめるべきだ。システムやメカニズムを直観に基づいていじろうとすることは黄信号なのである。

 

● ついでに、第9章の「資本主義は消えゆく運命」の内容についてもちょっと紹介しておこう。

 この章では、「資本主義はいつか克服されてなくなるものだ」という左派の基本的な信念が批判されている。そして、この左派の信念は「過剰生産の誤謬」に基づくことが指摘されたり、不況や恐慌に関するケインズ主義の説明(と多くの左派がそれを誤解していること)が紹介されたりするのだが、なにしろ難しくてきちんとまとめるのが難しいので省略*1。いずれにせよ、資本主義の「矛盾」に見えた諸々のこと……不況、消費主義による勤労意欲の喪失、グローバリーゼーション、環境危機など……は、資本主義の「不調」を」をあらわすものではあるかもしれないが「矛盾」を示すものではないし、資本主義を根本から揺るがすものでもなければ資本主義システムの「構造的特徴」ですらない、ということだ。たとえば環境の問題については、経済が成長したからといって自然が破壊されたり資源が掘り尽くされたりするとは限らない。むしろ、経済が成長して豊かになればなるほど、物質を基本としないサービス業が経済に占める割合は増えていく。ソフトウェア、音楽、ヨガのレッスン、哲学の講義などはいずれも豊かな国でこそ商売として成り立つが、それらは環境にほとんど影響を与えないのだ。

 とはいえ、一部の資本主義全面肯定派や合理的楽観主義者とは違って、ヒースは「…環境に優しい成長もあれば、優しくない成長もあるのだ」(p.255)とは認めている。経済が環境への影響という外部性やコストを伴うこともたしかなのであり、それを無視して経済成長を最優先の政策目標とすることは「便益計上、費用無視」という(右派にありがちな)誤謬なのである。

 最後に、9章の結びの部分を引用。

 

…資本主義はたしかに脆弱な部門もあり、きちんと管理統制しなければならないが、人類が考案した最も非集権的な協同システムである(中央管理機構をもたないインターネットと多くの点で比較可能)。資本主義の「廃止」にいかに骨が折れるかの感触をつかむには、さまざまな薬物のマーケットをつぶすために用いられた時間、エネルギー、あからさまな弾圧の程度について考えてみるといい。違法薬物市場は、スタンダードな経済理論のほぼ予測どおりに動くことを覚えておこう。価格は例によって需給圧力に反応し、高度な分業が発達し、定期的に技術革新や商品開発が起こり、法規制強化のような外圧に予想可能な方法で対処する。中心となる契約は法的な強制力をもたないばかりか法律で禁じられているのに、こうしたことは起こる。地球上の隅々で買い手と売り手は互いを探しあっている。「薬物との戦い」が不毛と考える向きは「資本主義との戦い」も等しく不毛だと思うーーまったく同じ理由で。問題は市場があるか否かではない。魔人がいったん瓶から出てしまった以上、もう後戻りはできないのだ。問題は、市場がいかに管理され、いかに包括的で人間的なシステムにされるべきか、協力による便益と負担をどのように配分するかである。

 

(p.256 - 257)

 

● 資本主義批判は昔から大流行りだが、最近によく見られるものとして、「"人間は自分の利益を合理的に最大化する存在だ"というホモ・エコノミクス的な人間観こそが、人間の思想に影響を与えて、利益の追求を正当化して、人間の連帯の破壊や環境破壊や女性差別などなどを引き起こした」というタイプの議論がある。

 この種類の批判については、経済学が想定する「合理性」や「利益」の範囲を不当に狭く定義した藁人形論法であることが多い。そもそもホモ・エコノミクスはあくまで「モデル」であることを差し置いても、実際のところ、行動経済学が発達して心理学や進化論の考え方も取り入れるようになった現代の経済学では、ホモ・エコノミクス的とは異なるモデルも使うようになっているだろう。

 また、「経済学のイデオロギーや規範を内面化した個人がホモ・エコノミクス的に振る舞うようになる」という(ポストモダン的な?)想定も実に疑わしいものだ。ヒースが資本主義制度とそこにおける個人の振る舞いのアナロジーとして「薬物のマーケット」を持ち出していることは示唆的である。クスリの売人もヤク中もホモ・エコノミクス的に振る舞うけれど、アダム・スミスハイエクフリードマンを読んでいている売人やヤク中はそうそういないだろう。……これは極端な例だけれど、生活者としての実感からしても、「経済学のイデオロギー」が巷で言われるほど大手を振っているという印象はない。本でもWebや雑誌の記事でも大学の授業でも入試問題でも、「経済学のイデオロギー」が紹介されるのは批判的な文脈がほとんどだ。「ホモ・エコノミクス的な人間観を批判する人」は腐るほど見つけられる一方で、「ホモ・エコノミクス的な人間観を持っている人」を探すことは難しい。

 とはいえ、『資本主義が嫌いな人のための経済学』やほかの経済学の本を読んでいると、自分が生きていくなかでとってきた選択や行動がまさに経済学のロジックで説明できたことに気付かされる場面が多々ある。やはり、経済学は、ある面での人間の行動を適切に説明できる学問であるし、行動の予測に基づいて適切な対策をとることに貢献する学問でもあるのだ。

 わたしには、「ホモ・エコノミクス」批判をするタイプの議論の大半は、公正や正義(やケアや同情や共感など)に関する自分の道徳的直観を大事にしたいがあまり、その直観に冷や水を浴びせる経済学的思考を無視することを正当化するための、まわりくどい方便でしかないように思える。それか、資本主義の「不調」を直しながら、現代の社会で生じている問題を漸進的に解決していくというめんどくさい作業から逃避するために、「言葉を変えれば世界も変える」「世界を見る目が変われば世界のほうも変わる」式の考え方を採用しているかだ。でも、資本主義と世界の現実から目を背けて逃げて、言葉と思弁の世界に閉じこもったところで、実際には何も変わらないのである*2

 

*1:「過剰生産の誤謬」に関してはミラノヴィッチの『資本主義だけ残った』でも「塊の誤謬」に関連して指摘されていたような気がする。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

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賃金と「社会の認識」は関係あるのか?(読書メモ:『資本主義が嫌いな人のための経済学』②)

 

 

『資本主義が嫌いな人のための経済学』の第10章のテーマは「同一賃金」であり、「貧困に対策するためには最低賃金を上げなければいけない」や「男女の賃金格差を是正するためには、女性が多い仕事の賃金を上げなければいけない」といった、左派が提唱しがちな主張が批判されている。

 また、この本から10年以上後に出版されたデビッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』やマイケル・サンデルの『実力も運のうち』、それらの著者が論じているような「エッセンシャル・ワーカーの賃金を上げよ」論に対する批判としても成立する議論とみなせるだろう。

 

 まず、ヒースは、右派の人々は市場は「自然的正義」という見方をとっていたことを指摘する。「競争市場でならば、稼ぎ手が組織にもたらす価値とまったく同等な賃金を各労働者に振り当てられると期待できた」(p.260)。しかし、実際には、賃金を決定する最大の要因とは、ある人が生み出す価値ではなく、その人が他の人とどれくらい交換可能か(=交換することが難しい希少性がその人にあるか)である。そのために、市場では人の価値や能力の差が賃金にそのまま反映される、ということにはならない。

 

それに対して、左派は「社会の認識」の誤謬とでも呼ぶべきものーー賃金率は「社会」が特定の労働に与える価値で決まるという考えーーの餌食となることがしばしばだった。現実には、賃金率は雇用主が労働者の仕事に与える価値で決まるのですらない。ましてや社会全体のそれでは決まらない。残念なことに、社会の認識の誤謬から多くの人たちが「ワーキングプア(働く貧困層)」問題は労働者の社会に対する貢献の認識を変えれば直せると考えるようになった。バーバラ・エーレンライクの著書『ニッケル・アンド・ダイムド』は、ジャーナリストが低賃金労働に潜入して発見を報告するという零細産業を生み出した。話の教訓はどの例でもほぼ同じだった。善良で勤勉な人たちが骨の折れる仕事をしていて、屈辱に耐えることを強いられながら悲惨なほど薄給ということだ。まったくそのとおり、肝に銘じておきたい。しかし、どうしたらいいのか?あからさまにも、暗黙のうちにも、一般に勧められるのは以下の二つ。その一、そういう人たちには親切に。これには異論はないと思う。その二、賃金を上げる。ここで議論が(たいしたことではないが)ややこしくなる。

勤勉で善良な人はかなりいい給料をもらうのが自然な考えのように思えるのに、資本主義ではそうはいかないのが純然たる事実だ。国内的にも国際的にもそうならない。結果としての所得の分配には控えめに言っても道徳的に問題がある。肝心なのはそれをどうしたいかだ。総合的な問題は、市場経済における賃金は他の価格と同様に、報酬というだけでなくインセンティブでもあることだ。分配の公正を理由に慈善的な価格方針をとれば、負のインセンティブ効果を招きかねない。要するに、いつもながら市場には、国民の支援を意図した発案をかえって前より困窮させるものに変える苛立たしい傾向があるのだ。このため貧困撲滅の構想は、単に賃金を上げるよりもっとずっと高度なものでなければならない。支払われる賃金を操作するよりは、いっそ労働者に(税制などを介して)金銭を与えるほうがましなことが多い。

(p.260 - 261)

 

 賃金について論じるときに「不公平」の問題にこだわることは誤っている、とヒースは指摘する。ここで言われるのは、経済学や文明論の本などでよく見かける、「分配よりも経済成長や労働生産性の向上が重要である」という主張だ*1。たとえば発展途上国では労働者はたしかに生活も大変なくらいに苦しんでおり、その一方で上流階級は富をため込んでいるように見えるが、実際には、上流階級から富を押収して労働者に配れたとしても、労働者の生活はほとんど向上しないだろう。そもそも絶対的な「富」の量が発展途上国では充分ではなく、上流階級も見かけほどには富をため込んでいないからだ。

 そして、「なぜしたくもない仕事をする人がいるのか」問題については、以下のように述べられる。

 

最後に、市場経済での個人の雇用割り当ては計画されていないことを覚えておきたい。社会を順調に動かすため、一定数の人たちが医者やパイロット、小学校の先生、料理人、修理工、ごみ収集人、コンピュータのプログラマーなどになると同意しないといけない、しかし大人になったら何になりたいかを高校生にアンケート調査すると、人はただ自然に適切な職業グループに分かれるわけではないことは明らかだ(言うまでもなく、社会の半数がラッパーや女優やアート系映画監督の経済はうまくいくわけがない)。だから、志望者が殺到している職業から方向転換させて、人材不足の職業へと流しこむメカニズムが必要になる。このプロセスはおのずと強制的である。ほとんどの人は自分がしたいこと(芸術家、俳優、音楽家)をあきらめるよう要求されるのだ。「社会」が求めること(ウェイター、データ入力事務員、管理スタッフ、販売員)をするために。

この強制はさまざまな方法で実行可能である。卒業する学生全員が適性検査を受け、全員の進路を把握する巨大コンピュータで仕事が振り当てられる、そんな計画経済が思い浮かぶ。いかにも無味乾燥でつまらない方法だ。市場経済でこれに代わる解決法が、ずばり競争的労働市場をもつことである。すべて順調にいけば、超満員の部門の賃金は競り下げる一方で、供給不足の部門の賃金は上昇する。その結果、ある部門の高賃金に引き寄せられ、またほかの部門の低賃金や失業で追い払われ、人々が右往左往した末にすべての雇用が満たされる。各自の選択でそうしているとしても、労働市場がある程度は強制的な役割を果たしていることに変わりはない。夢をあきらめ、望んでいたよりも地に足の着いた生活を受け入れさせるのだ。そしてこれを達成する手段が、賃金の変化と関連部門にはびこる失業率である(この点で社会があまりに多くの人間を俳優にしないよう、どれほど努力しているかを考えてほしい)。そこで特定の賃金がどれほど「公平」か「不公平」かを考えるときに、労働市場が人々に多くのつらい決断を課すことに社会が依存している、そのことを覚えておきたい。特定の職業では生計を立てられないという単なる事実は、それしか給料がもらえないのは不公平だということを意味しない。「社会」がその職業に就くよう要求していない、ということではなかろうか。あまりに多くの人がもうしている仕事だから。

(p.265 - 266)

 

 また、「賃金を決めるのは、経済もしくは雇用先よりも広い部門の平均生産性なのである」(p.269)。たとえば、メイドやベビーシッターなどのサービス業の人がやる仕事は豊かな国でも貧しい国でもほぼ一緒であるが、生産性が高くて豊かな社会ほど、サービスは製品に比べて割高になる。これは、生産性の高い社会では「ある人が一定の時間を費やすことで儲けられる賃金」の平均が底上げされるために、サービス業に提示する給与額も高くしなければそれをやってくれる人がいなくなる、ということに由来している。ただし、サービス業の給与を高くしなければならないということは、「サービス業の人を雇う」というインセンティブが弱まることでもある。発展途上国の富裕層が多くの使用人を雇える一方で、先進国では金持ちであってもメイドを雇うことを渋ることになるのはこのためだ。また、メイドの仕事そのものの生産性は、電子掃除機が発明されたことなどを除けば19世紀からほとんど変わっていない。しかし、雇用する側としては支払う金に見合う産出物を期待するために、メイドの労働条件は先進国でほど過酷になる。メイドの仕事とは専門知識や道具で高められる効率に限界があるタイプのものであるために、成果を増やすためには条件を悪化させるしかないからだ。

 とはいえ、自分自身が生み出せるものの価値ではなく、社会全体の生産性によって賃金が決まっていることは、大半の人にとってはラッキーなことである。もし、生み出すものの価値によって賃金が決まっていたら、技術進歩の恩恵を受けやすいタイプの仕事(農業や工業など)をしている人の賃金は大幅に上がっていた一方で、サービス業の賃金はほとんど向上することがなかっただろう。

 

ある意味、給料は実際の仕事よりも、できたはずのことに支払われている。少なくともそれだけの額をもらってない人は今の仕事をやめて、そのほかの仕事を始めることだろう。仕事はほとんど同じなのに、法学教授が哲学教授の二倍ほど稼いでいる理由はこれである。実際の話、たいがいの法学教授はもしも大学を辞めて弁護士の仕事に就けば、今よりもっと稼げるだろう。それにひきかえ、哲学教授は、哲学を教えるしか能がない。たとえある日、世界じゅうの哲学教授の給料が半額にカットされても、哲学科は一つたりとも閉鎖されないと思う。法学部はそうはいくまいが。

こうしたことから二つ目の問題が浮かび上がる。外ではそんなひどい選択しかないなら、哲学教授はなぜそれほど給料をもらえるのか?答えは、私たちの経済の二つ目の均等化傾向に関係している。つまり大きな組織では、従業員間の賃金格差を平らに均しがちということだ。

(……中略……)

企業内になぜこの賃金の均等化が起こるのかは想像に難くない。結局のところ、社員は協力して働かないといけないのに、賃金のばらつきは内輪もめや対立の大きな種なのだ。前述のように私は(大局的に見て)給料のもらいすぎだと思っている。だから、なるべく不平は言うまいと努めている。私に薄給だと感じさせるのは、この世にただ一つ、同僚の稼ぎを知ることだ。この「同僚」とは「同じ大学の同じ学部に勤めている人」を意味する。他大学の哲学教授のサラリーを偶然かいま見ることもあろうが、それで興奮したりしない。なぜか?私には何の影響もないから。同じ学部長に報告し、まったく同じように報酬を決められる廊下の向かいの部屋の主が、私より給料がいいのとはわけがちがう(このため、私の給料がネット閲覧できる根拠となっている法律などの公共部門の情報開示法は、公共部門の給料に上げ圧力を与えるという逆効果を生みがちだ。国民はこんな給料にほんの少ししか関心がないが、給料をもらっている当人は大いに気にしている。同僚の給料を知ることで賃上げ要求が生じるのは周知のことである。まさしくそのために企業はこの情報を秘密にしたがるのだ)。

(……中略……)

私は明らかにこの二つの均等化傾向の恩恵をこうむっている。残念ながら、社会全体が同じだけ利益を得ているかは定かでない。第一の傾向は比較的恵み深い。哲学教授の賃金上昇にしたがい、サービスの需要が低下して、哲学の研究はぜいたく品と化していく。このことが文化に与える影響を嘆く向きもあろうが、少なくとも労働力をより生産的な雇用に向ける(希少性価格形成があらゆる資源を最も生産的な雇用へ向かわせるように)という利点はある。第二の傾向はさほど恵み深くない。大学内に賃金均等化の圧力があるならば、学部によっては教職員の維持が困難になる。外部の選択肢に対抗できるほどの高い給料を払えないからだ。人材をおびき寄せるには、たいがい大学教授という地位の優越に訴えるしかない(多くの点でそれは逆選択を形成する)。その一方で(哲学などの)ほかの学部は文字どおり数百件という単位で求職者を断るはめに陥る。「世界にこれ以上もう哲学者は必要ありません」と言う合図となるべき賃金率が、まったく逆のメッセージを送っている。結果として、社会はその分野への参入を妨げるには、低賃金よりも失業に頼らざるをえない。このために「宝くじ経済」のようなものが形成され、大儲けする人もいるが、ほとんどの人は結局まったく儲からない。

(p. 273 - 276)

 

 男女の賃金格差というトピックについては、「同じ仕事をしている男女で賃金の差があるなら差別なので改善すべきだ」という主張のほかにも(これは否定しようのない正論だ)、「従業員の大半が女性である仕事(ピンク・ゲットー)が低賃金であることを改善すべきだ」という主張がされることがある。つまり、労働者の大半が男性である仕事(倉庫作業など)はピンク・ゲットーの仕事(受付事務など)に比べて賃金が高いことが多いが、これらは受付事務より倉庫作業のほうが価値が高いからではなく性差別の結果に過ぎない、と論じる主張だ。

 

…過去数十年に、主だった反差別機関は、男女とも「同一価値に対する同一賃金」を受けるべきという、いささかあいまいな主張を展開してきた。この「価値」は一般に、能力、努力、責任、労働条件の四つの要素で決められる(…中略…)

このような場合の提言は、受付事務は「平等に認識され報酬を受けていない」となる。ここでは「認識」という言葉の用法が重要だーーつまり受付事務が倉庫作業より賃金が低いのは、社会または雇用主がこの仕事の難しさを公平に評価していないことに関係があるというのだ。要するに、みんな性差別主義者だから、電話で話すより箱を持ち上げるほうが大変だと考え、受付事務より倉庫作業に高給を払う、というわけだ(ほかにこんな主張もある。女性主体の仕事は歴史的に男性主体の仕事ほど「高評価」されてこなかった。「したがって、公正な賃金を支払われなかった」。この一文の「したがって」は重要だーーつまり、賃金の高さと貢献度がきちんと「評価」されることには因果関係があるというのだ。これが「社会の認識」の誤謬である)。

(…略…)倉庫作業では受付事務とまったく同じ難易度の仕事で高い賃金を得ているとするなら、なぜ受付事務員は倉庫作業に応募しないのか?答えは、性差別のせいで倉庫作業には雇われにくいから、かもしれない。だが、そういうことなら、賃金格差と戦う正しい方法は、女性に平等にそのような職業への門戸を開かせることーー雇用差別をなくすことだ。ゲットー(=スラム街、転じて不遇な部門)をなくす最も簡単な方法は、そこから離れやすくすることだ。

しかし、もちろん、多くの受付嬢が倉庫作業に興味をもつとは思えない。一つには、人の能力や趣味はさまざまで、その好みに照らして最も負担にならない仕事をしたがるからだ。倉庫作業と受付事務は同じ労働力プールから出てきてはいない。一方の欠員を他方からの応募者で満たすことはない。そのため、受付事務の口が一つできるごとに十数人が応募し、倉庫作業には二、三人しか来ないことが起こりうる。結局、倉庫作業の給料が上がるのは、労働市場がさほど競争的でないからにすぎない。

肝心なのは、これが現実だと示すことではない。肝心なのは、同じ難易度の仕事が別の賃金率だというだけで差別があるとは推定できないことだ。そのような推定をするには、この二部門のあいだに高度な短期間の労働移動性もなくてはならないだろう。

労働市場の競争性は、もう一つカテゴリーをつくることで仕事の評価体系に簡単に組みこめたはず。求人一件あたりの有効求職者数が下がれば、スコアは上がる。これは「希少性」と呼ぶことができる。こうした要素を報酬に関係づけて扱っていないことが、この評価体系の設計者のきわめて意図的な選択を示している。背後には明らかに、賃金の権利付与の根拠としての道徳的理論がある。残念ながら、それは資本主義経済で賃金が決まる道筋とは何の関係もない。ここに内在する主張とは、賃金は仕事の難易度と必要な技能にもとづくべきで、その技能をもつ人への「社会」のニーズが多い少ないは問わない、というものだ。もしこの原則が一般化したら、私たちは最も必要とされる部門へ労働力を送るメカニズムを失ってしまうだろう。

 

(p. 277 - 279)

 

 そして、近頃だとよく話題になる「エッセンシャル・ワーク」や「ケア・ワーク」の一種である看護師という職業についても、以下のように論じられる。

 

もちろん、女性が歴史的に向き合ってきた強制的な職業選択は、ほかの分野での差別の遺産である。ほかの道を閉ざされていたから、伝統的に特定の仕事に就いてきた。だけど解決法は、女性の部門の賃金をあげて、それこそ間違ったシグナルを送ることではない。女性には報酬を高めるのではなく、過密な部門の仕事を求めるのをやめさせるべきなのだ。政府のような大きな雇用主にはある程度、賃金を均等化する裁量があるが(大学が哲学教授に過分な給料を払えるのと同様に)インセンティブがむしろ逆効果になることが多い。

看護師の仕事を例にとろう。典型的なピンク・ゲットーである。医師は昔はほとんどが男性だった。医大への入学でも、医学界の風土でも、女性差別がとても強かったからだ。医師は給料も看護師よりずっと高い。しかし、この賃金格差があるのは、社会が「福祉」関係の職業をきちんと評価していないからではない。医師になれたはずの同世代の女性がごっそり看護師になることを強いられたからだ。参入障壁が除かれ、おおぜいの女性が医大へなだれ混んでいった(それで今やイギリスとカナダは男性より女性の卒業生が多く、アメリカではほぼ同数だ)。女性が医師になりたがった理由の一つとして、看護師より稼げることがあるのは間違いない。意外でも何でもなく、現在の病院は看護師不足に悩まされつつある(そして保持の問題に直面している)。かくして看護師の賃金は上昇し、同時に医師の収入は低下している(女医は男性医師と比べると平均で稼働時間が短いのも一因)。

裏を返せば、世界は大なり小なりしかるべき姿になりつつあるのだ。医大の根強かった女性差別が除かれたとたん、賃金の不平等が起こり、さらなる介入が要求されることはない。そこへ踏みこんで賃金を操作したくなる誘惑には抗わねばならない。二〇年前に看護師の給料を人為的に上げていたら、男女平等の達成という大きな目的には不利に働いたはずだ。多くの若い女性が医師になることのインセンティブを減じていただろうから。

(p.280 - 281)

 

 今回紹介したヒースの議論のポイントは、賃金と社会のニーズを結びつける議論は正しいが、賃金と社会の認識を結びつける議論は誤っている、ということであろうか。

 グレーバーにせよサンデルにせよ、ネオリベラリズムメリトクラシーというイデオロギーが存在することを前提として、そのイデオロギーによってエッセンシャル・ワークなり工場労働者なりの賃金は(人為的に)低いままにさせられている、という主張がされていた。『ブルシット・ジョブ』の議論は、グレーバー自身の独断で「必要とされる仕事」と「不必要な仕事」とを切り分けて区別することを前提とした、道徳主義的なものであった。サンデルの『実力も運のうち』では、金持ちも貧乏人も「お金を稼いでいる人ほど社会に貢献している」というメリトクラシーの規範を内面化していることが前提とされていた*2

 一方で、ヒースの議論では、賃金に影響を与えるのは労働者個人の能力というよりも社会全体の生産性であることを指摘しながらも、労働者と雇用主のそれぞれのインセンティブや自発的な選択によって賃金が決まることも強調している。

 実際のところ、わたし自身の労働者としての経験をふまえても、ヒースの議論のほうが納得がいく。たとえばわたしはフリーター時代にTVゲームのデバッグのバイトをしていたが、それは最低賃金であるのはもちろんのこと、働ける日数や時間がきわめて不安定(クライアントの要求やプロジェクトの進捗によって必要な人員の数が変わるため、週に何日出勤できるかもわからず、当日の夕方ごろになってようやく次回の出勤日が教えられる)であり、賃金を稼ぐという面では最悪に条件だった。しかし、わたしはそこで二年以上働いていたし、それよりもずっと長期間バイトとして働き続けている人は他にもいっぱいいた。なにしろTVゲームなので作業自体がラクであったり楽しかったりすること、体力もコミュニケーション能力もほとんど必要とされないことなどが、ほかのバイトや仕事を探すのではなくデバッグのバイトを続けるというインセンティブになっていたのだ。職場には引きこもり経験者や発達障害者と思わしき人も数多くいたし、わたしと同じように彼らにとってもその職場に留まり続けることについての強いインセンティブがあることはうかがえた(他の職場では働けそうにない人が大量にいたのだ)。雇用主の側も半ばそれを承知しており、意図的に、引きこもり経験者を積極的に採用していたようでもある。……いまから思えばある種の「搾取」がはたらいていた環境ではあっただろうが、とはいえ、労働者にとっても雇用主にとっても利害が一致している部分もあったのだし、そこで働き続けるという選択自体はわたしたち労働者のほうがおこなっていたのだ*3

 デバッグ以外にもわたしがいままでの人生でおこなってきた仕事のほとんどはきわめて低賃金であったが、わたしがやりたいことやラクそうな仕事ばっかりやりたがっていたために、必要とされる人数に対して希望者が多いタイプの職種を選んできたことが原因である(動物の看護、ゲーム業界、Webライターなど)。逆に、比較的に賃金が高かった特許事務の仕事はあまりにつまらなかったので一年で止めてしまった。……低賃金で仕事をさせられること自体はイヤなことであるし、最低賃金などが上がることでわたしがもらえるお金が増えるにこしたことはないが、とはいえ、わたしに低賃金しか支払われていないのが自然な成り行きであることは自分ごとながら自覚していたのだ。

 反資本主義的な言説では「新自由主義」や「自己責任論」を忌避するがあまり、雇用主ではなく労働者のほうもインセンティブに影響されながらも自発的な選択をしている、という事実が見過ごされがちである。選択の結果をどこまで搾取的であるとみなしたり、自己の状況について個人としての労働者はどれだけ道義的な責任を負うかという規範論とはまた別に、社会における現状の原因の一部は個々の労働者や女性による選択も原因になっている、という事実論を無視してしまうと、意図しているのとは逆の効果をもたらすような誤った解決策しか提案できなくなってしまうだろう。

 

 最低賃金制度が存在することや最低賃金が底上げされることが労働者に対してもたらす影響については経済学者の間でも意見が割れるようだが(過去にはネガティブに考える経済学者が主流派だったのが最近はポジティブに考える人のほうが増えているようだ)、ヒースは、「一定水準よりも低い賃金は、人間の尊厳と相容れないと思う」(p.283)という理由から最低賃金を高くすることを支持している。

 とはいえ、この主張は「経済とは無関係な考察」であり、道義的な理由に基づいて主張していることがはっきり明言されていることがポイントだ。経済に関するメカニズムの分析と、それをどうするべきかという道徳論を混同させてはならず、切り分けるべきなのである。

 

一般に、誰それが充分な給料をもらっていないという結論に飛びつくのは安易すぎる。単に仕事を見て、その仕事にいくらの「価値がある」か直観的に判断するというだけでは不充分だ。賃金は市場経済では価格であり、一つのものの価格はつねに他のすべての価格次第で決まる。そのうえ、価格は基本的に相対的な希少性を追いかけるもので、このため賃金は、その仕事をする意思または能力がある人が何人いるかに強く影響される。実際の仕事や必要とされる労力とはまったく関係がない要素に影響されるから、特定の賃金率が公正か不公正かという直観的道徳的判断に頼れば、単純化された政治判断に、極端な場合には役に立たない労働市場政策につながるのがおちである。

(p.285)

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:とはいえ、サンデルが前提としているような「お金を稼いでいる人ほど社会に貢献している」というメリトクラシーの規範を内面化してそれに基づいて「自分はぜんぜん社会に貢献していないダメ人間なんだ」と思ったことは一度もない。わたし以外の人についても、サンデルが論じているようなかたちでメリトクラシーの規範を内面化している人なんてほとんど見たことがない。

ケイパビリティとしての恋愛・結婚(読書メモ:『女性と人間開発 潜在能力アプローチ』)

 

 

 

 ヌスバウムによるケイパビリティ(潜在能力)アプローチの説明は、下記の通り。

 

ケイパビリティ・アプローチが問う中心的課題は、「バサンティ(引用註:とあるインド人女性)はどれほど満足しているか」ではなく、「彼女はどれほどの資源を自由に使えるか」でもない。そうではなくて、「バサンティは実際に何をすることができ、どのような状態になれるか」である。政治目的のために、人の生活において中心的な重要性を持つと考えられる機能の作業上のリストに立脚して、「その人にとってそれは実現可能かどうか」を問う。その人が行ったことから得られる満足について問うだけではなく、その人が何をするのか、何をできる立場にいるのか(彼女の機会や自由は何か)についても問わなければならない。そして、その人が利用可能な資源について問うだけではなく、バサンティが十分に人間らしい生き方ができるようにそれらの資源が役に立っているのかどうかを問わなければならない。

 

いまや私たちはこれらの問いに対する答えをいくつか見つけたので、このアプローチを二つの方法で応用してみよう。第一に、他の人と比較しながらバサンティの生活の質を評価するために、特定の核心的領域におけるケイパビリティを用いるということである。地域や階級や国家のレベルにおける生活の質の差を見るために様々な人々の生活に関するデータを集計していくとき、誰が最も貧しく、誰が十分な生活をしているかを定義し、その比較を行うのは常に中心的ケイパビリティに関してである。第二に、人間のケイパビリティの核心的領域において、公共政策が公正であるための必要条件は、すべての人に対してケイパビリティの一定の基本的水準を保障することである。もし人々が、これらの核心的領域において最低水準を満たしていないとすれば、それは、たとえ他の面ではうまくいっていたとしても、不公平で悲劇的な状況と見なされるべきであり、緊急な配慮が必要である。

 

このアプローチの背景には二つの直観的な考え方がある。第一は、特定の機能は、それを達成しているかいないかによってその人が人間らしい生活をしているか否かが分かるという意味で、人間の生活の中で中心的位置を占めているということである。第二に、マルクスアリストテレス哲学の中に見出したことだが、単に動物的な方法ではなく、真に人間的な方法でこれらの機能を満たすことには大事な意味があるということである。人の生活があまりにも貧しくて、人間の尊厳に値せず、人間らしい力を発揮することもできず、動物のような生活であるという状況に私たちはしばしば出会う。マルクスの例では、飢えている人は十分に人間的な方法で食べ物を食べることができないということであり、これによってマルクスが言おうとしたのは、実践理性や社会性を持った生き方であろうと私は考える。人は単に生き延びるために食料を得ているだけであれば、食べるという行為は社会的理性的要素の多くを伴っていない。しかし、たとえ適切な教育や、娯楽や自己表現のための余暇や、他の人々との貴重な交際によって人間としての感覚が磨かれていないとしても、人間の感覚は単に動物のレベルでも働きうるとも論じている。マルクスはおそらく認めないだろうが、私たちはさらに表現や連帯の自由や信仰の自由といったいくつかの項目もこのリストに加えるべきだろう。その核心的概念は、「群れをなす」動物のように人生が受身的に形作られ、世の中に流されて生きていくのではなく、他の人々と協力しあい互いに助け合いながら自分自身の生活を築いていく、尊厳を持った自由な存在としての人間である。真に人間らしい生き方とは、一貫して実践理性と社会性という人間らしい力によって形作られるものである。

 

(p.84 - 86)

 

 引用文にもあるとおり、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチはアリストテレス的なものだ(「ユーダイモニア=繁栄・開花(Flourishing)」の考えに基づいている)*1。また、「人間の主張な力には物質的な支えが必要」(p.87)であるという認識も、アリストテレスマルクスから得られたものだ。そして、彼女によると、ケイパビリティ・アプローチは「ひとりひとりが価値を持つ者として、そして目的として扱われる」(p.87)という点でカント主義的なものである。

『女性と人間開発』という本の目的は、インドを主とする非西洋諸国(発展途上国)における女性差別について、「その国や文化に口は出せない」「その地方の慣習だから仕方がない」といった相対主義的な批判を棄却して「どこの国や地方のものであっても女性差別は問題である」と論じて是正の必要性を主張することである。このことから、ヌスバウムがケイパビリティ・アプローチを提唱する目的のひとつが、「普遍的な価値の擁護」となる。ケイパビリティが保証されることは、西洋やアメリカなどの特定の社会に限定されず、すべての国や地方の人間にとって必要なことだと彼女は主張するのだ。

 

 ヌスバウムによる、ケイパビリティのリストは以下の通り*2

 

  1. 生命
  2. 身体的健康
  3. 身体的保全
  4. 感覚・想像力・思考
  5. 感情
  6. 実践理性
  7. 連帯
  8. 自然との共生
  9. 遊び
  10. 環境のコントロール (政治的環境と物質的環境に分かれる)

 

 また、ケイパビリティを保障するといっても、全ての人が全てのケイパビリティを達成することまでは期待されない。

 

私のリストの項目には、ジョン・ロールズが「自然的財」と呼んだもの、すなわち、「その獲得に運が重要な役割を果たす財」が含まれる。政府は全ての人々を健康にし、情緒的な安定をもたらすことはできない。なぜなら、こうした状態は持って生まれたものや運に左右されたりするからである。これらの領域で政府が目指すべきは、これらのケイパビリティの社会的基礎を提供することである。つまり、ケイパビリティ・アプローチは、初期時点での資源や権力の差によってもたらされる格差を埋め合わせるように努力すべきであると主張する。しかし、それでも社会が確実に与えることができるのは良い生活の社会的基礎であって、良い生活そのものではない。女性の情緒的な健全性について考えてみよう。政府は全ての女性を情緒的に健全な状態にすることができるわけではない。しかし、情緒的な健全さに寄与するために、家族法や強姦防止法や治安といった分野で適切な政策を採ることによってきわめて多くのことができる。似たようなことは、全ての自然的財についても当てはまる。ある人たちは、私たちには制御できない要因によって十分なケイパビリティを達成できないでいるかもしれない。生活の質の相対的尺度としてケイパビリティを用いるとき、私たちは観察された差異についてその理由を問われなければならない。国家間あるいはグループ間の健康の差は、公共政策によって取り除くことのできる要素もあれば、そうでないものもある。もし人々がこれらのケイパビリティの十分な社会的基礎を与えられたならば、基本的政治原理はその役割を果たしたことになる…

(p.96)

 

  また、重要なのはケイパビリティの基礎が保障されることであり、個々人は自分の意思で一部のケイパビリティを達成しないことを選択するのは認められる。社会は人々が飢餓に苦しまないようにするべきであるが個人が断食するのは自由であるし、個人が禁欲するのは自由であるが女性器切除などによってセックスの機会(と禁欲を選択する機会)を奪うことは不正である、ということだ(p.103)。

 ……とはいえ、ケイパビリティ・アプローチは通常のリベラリズムに比べてパターナリズム的(温情主義的)であったり、パーフェクショニズム的(完成主義的)であったりはすることはたしかだ。ケイパビリティのリストとは、要するに、「(ほとんど)どんな人についても、これらが満たされるほうが、そうでないよりも善い」という物事を具体的に指定するものであるからだ。

 ヌスバウムは「温情主義だ」という批判に反論しながらも、以下のようにも論じている。

 

「温情主義からの議論」が示しているのは、他人の自由が同じように護られる限り、人が価値あるものと認めることを追求する自由を認めるような普遍的規範を私たちは志向すべきだということである。それは、すべての普遍的規範を拒絶せよというのではなく、自由だけではなく、自由を実現するために決定的に必要な様々な経済的エンパワーメントをも含む普遍的規範を構築することが正しいということを示している。

(p.65)

 

 さて……わたしは、すこし前から、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチと「ポジティブ心理学」との接点を考えるようになった*3

 なにしろ、マーティン・セリグマンやジョナサン・ハイトが行っているようなポジティブ心理学の議論では、ヌスバウムと同じようにアリストテレスのユーダイモニア論が参照されている。ポジティブ心理学でも「"人間らしい"生き方をすることが、その人のとっての幸福につながる」ということが主張されるし、幸福(や徳)について国や文化の垣根を超えた普遍的な基準が提示される。とくにハイトの『しあわせ仮説』は、完成主義的な価値観を主張する著作だと読むことができるだろう。

 そして、ポジティブ心理学やその他の幸福に関する心理学的な議論では、恋愛結婚が個人の人生に対してプラスの影響を与えることが示される場合も多い。

 通常の(ロールズ的な)リベラリズムであれば、「個人が恋愛したり結婚したりすることについて、社会は支援するべきだ」と主張することは困難であるだろう。だが、ケイパビリティ・アプローチなら、恋愛(交際)することや結婚することも「人間らしい生活」を過ごすためには欠かせないものだとして、それが達成される「社会的基礎」を保証することを要求することが正当化できるかもしれない。

 

 ヌスバウムのリストのなかで、恋愛や結婚に関わりそうなものは、下記の三つ(強調部分はわたしによるもの)。

 

(3)身体的保全*4 自由に移動できること。主権者として扱われる身体的境界を持つこと。つまり性的暴力、子どもに対する性的虐待家庭内暴力を含む暴力の恐れがないこと。性的満足の機会および生殖に関する事項の選択の機会を持つこと。

(p.93)

 

(5)感情 自分自身の回りの物や人に対して愛情を持てること。私たちを愛し世話してくれる人々を愛せること。そのような人がいなくなることを嘆くことができること。一般に、愛せること、嘆けること、切望や感謝や正当な怒りを経験できること。極度の恐怖や不安によって、あるいは虐待や無視がトラウマとなって人の感情的発達が妨げられることがないこと(このケイパビリティを擁護することは、その発達にとって決定的に重要である人と人との様々な交わりを擁護することを意味している)。

(p.93)

 

(7) 連帯

A  他の人々と一緒に、そしてそれらの人々のために生きることができること。他の人々を受け入れ、関心を示すことができること。様々な形の社会的な交わりに参加できること。他の人の立場を想像でき、その立場に同情できること。正義と友情の双方に対するケイパビリティを持てること(このケイパビリティを擁護することは、様々な形の協力関係を形成し育てていく制度を擁護することであり、集会と政治的発言の自由を擁護することを意味する)。

(p.94)

 

 ……とはいえ、おそらく、「恋愛関係を築けることや結婚できることもケイパビリティだ」と主張することに対して、ヌスバウムは渋い顔をすると思う。

『女性と人間開発』はフェミニズムの本であり、第4章の「愛・ケア・尊厳」では家族の内側における女性差別や女性への暴力が取り上げられて、ロールズなどの論者が家族の問題について取り上げなかったことが批判される。フェミニズムの議論でよくあるように、男性の学者たちが「家族(のなかで行われる女性のケア)を評価してこなかったこと」と「家族の内部に存在する女性差別を無視してきたこと」が同時に批判されるのだ。

 この章のなかで、ヌスバウムは愛やケアの価値について肯定的に論じてはいる。しかし、ロマンチック・ラブ的な恋愛観や家族観に関しては、普遍的なものではなく近代西洋に固有のものとして退けられる。「…インド全国のヒンドゥー寡婦に関する広範囲な研究は、ほとんどすべての寡婦が再婚する意思を示さず、多くの者が男との生活を終えて喜んでいることを示している」(p. 307)。そして、インドや南アジアの女性がロマンチックな男女関係の代わりに「女性たちの相互支援のためのグループ」を築いて維持することにエネルギーを注いでいることを指摘したうえで、以下のように主張するのだ。

 

家族にはたった一つの形しかないという意味で自然発生的であるとは言えないことが明らかだとすると、特定の家族形態が必然で不可避だとは言えないことも明らかだろう。多様な家族形態が見られることから、西洋の核家族のみが生物学的傾向に基づく形態などとは言えそうにない。そのような生物学的傾向は時間とともに多くの異なった形で現れてくる。独立した規範的考察を行わずに、特定の家族形態が「女性らしさの領域や機能に属する」正しく適切な形態であるとする根拠はさらに薄弱である。

 

(p.309)

 

 だが、この主張には反論できるかもしれない。

 まず、異常で特異なのは西洋のロマンチック・ラブ・イデオロギーではなく、インドのほうである可能性は指摘すべきだろう。なにしろ、(すくなくとも1990年代以前の)インドが女性差別的な社会であり、家庭のなかでも男尊女卑が蔓延していることは、『女性と人間開発』の一冊にわたって示されている。逆に言えば、インドが女性差別的な社会でなければ、ヒンドゥー寡婦たちも男との生活を終えたことを喜ぶのではなく悲しんでいたかもしれない。

 そして、人間がロマンティック・ラブを願望することには生得的な面があること、一夫一妻制の家族形態が他に比べて"自然"なものであることは、人類学や進化心理学や生物学の文献でも示されていることではあるのだ*5

 実際、日本のように男女平等が(インドのような国と比べれば)すすんだ国では、男女ともに恋愛や結婚を求めている人が多く、「人間らしい生活」にそれらが欠かせないと考えている人も多い。

 それは理想化された願望とは限らず、実際に恋愛や結婚を経験している人が「以前に比べて人間らしい生活を過ごせているなあ」と思うことや、恋愛や結婚が破局してしまった人が「以前に比べて人間らしい生活じゃなくなってしまったな」と考えることもあるだろう。すくなくともわたしはそうだし、他にもそういう人はいる。

 もちろん、アロマンティックの人をはじめとして恋愛に興味がない人や恋愛を重視しない人もいれば、モノガミーを求めない人もいるし、恋愛に興味はあっても結婚に興味はない人もいる。とはいえ、「それを求めない人もいる」というのは他のケイパビリティの大半に当てはまることだ。

 そして、例外的な人については「興味はないんだったら追求しなくていいよ」と容認しつつ、そのケイパビリティを求める大半の人を支援する(「社会的基礎を提供する」)ために公的に資源を投入することを正当化できること、正義論風に言えば特定の「善の構想」を優遇できることこそが、ケイパビリティ・アプローチの特徴であるはずだ。

 

 ……もっとも、ケイパビリティ・アプローチであっても、「ひとりひとりは目的として扱われる」。恋愛や結婚をケイパビリティとして認めたとしても、それが他のケイパビリティと異なるのは、達成されるためには特定の相手が自由意志に基づいて了解することが必要になるということだ(「連帯」は不特定多数のだれかが了解したり何らかの集団に加わることで達成できるだろう、「自然との共生」には動物と関わることも含まれるが、大半の犬や多くの猫は自発的に人間と関わってくれる)。他のケイパビリティと比べて、公金などの資源を投入してナントカできる程度がかなり限られているのである。

 というわけで、「社会的基礎を提供する」といっても、せいぜいのところ街コンや婚活支援のようなものにしかならないかもしれない。それは現状の社会でも多かれ少なかれ行われていることだ。

 ほかにも、男性も女性のどちらも多数派は恋愛や結婚を求めているとしても、それらを求めていない少数派の割合には男女差があるだろう(恋愛を求めていない女性の数は、恋愛を求めていない男性の数よりも多いように思われる)。その場合、片方の性別を優遇することになってしまう危険性はあるだろう。

 

 このように問題は多々あるし実効性にも乏しいのだけれど、恋愛や結婚をケイパビリティに含めることができれば、すくなくとも、「恋愛したい」「結婚したい」という要求や願望に正当性を認めることはできる。

 そして、だれかが恋愛できなかったり結婚できなかったりするせいで苦しむことを、「不公平で悲劇的な状況と見なされるべき」と言えるようにはなるのだ。

 

 余談だが、「結婚したほうがそうでないよりも幸福になりやすい」ということに限らず、ポジティブ心理学ではリベラル的というよりも保守的に分類される見解が提出されることが多い。きっと、「人間らしさ」を重視する議論や完成主義的な議論は、順当にいけば保守的なところに落ち着くものだろう。

 むしろ、ヌスバウムが「人間らしさ」を強調しながらも一部の保守的な見解を排除していることについて、リベラリストフェミニストであることと両立させるために不都合な要素についてあえて目を瞑っている、という疑惑を抱けるかもしれない。「人間らしさ」について論じているのに生物学や進化論の文献をあまり参照しない(『女性と人間開発』だけでなくそれ以降の著作でも)のも気になるところだ。それは政治哲学の世界でやっていったりフェミニストとしてまともな主張をしていくためには必要なことかもしれないけれど、そういう束縛から解放されている心理学者たちのほうがより真を突いた見解を提出することができる、という可能性もあるかもしれない。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:「現在のもの」という但書はされているが、2000年刊行の『女性と人間開発』と2011年刊行の『正義のフロンティア』とで、その内容はほぼ変わっていない(訳者が違うので訳語が異なっていたりはするけど)。たぶん2022年の時点でもヌスバウムは同じリストを挙げているだろう。

*3:といってもさほどオリジナリティのある発想ではなく、ググってみると、心理学や教育学などの観点から両者の接点について論じた論文はいくつかあるようだ。

*4:英語ではBodily Integrity

ja.wikipedia.org

*5:この議論の詳細は以下の本の第9章「ロマンティック・ラブを擁護する」に書いている。

 

 

「愛」は「正義」の代替となるか?(読書メモ:『新版 現代政治理論』)

 

 

 

 昨日に引き続き、キムリッカの『現代政治理論』から気になったところを引用。第5章「マルクス主義」から。

 

マルクス主義による批判の核心は、むしろ法的共同体の理念それ自体にたいする反論である。多くのマルクス主義者の考えでは、正義は社会制度の第一の徳性などではなく、真に善き共同体には必要のないものである。正義は、我々が「正義の状況」ーー正義の原理によってしか解決しえないような対立を引き起こすーーにある時にしか相応しくない。通例、正義の状況には二つの主たる特徴があると言われる。目標が対立していることと、物質的資源が限られていることである。目標が一致せず、資源が希少である場合、人々は対立する要求を出さざるをえない。しかし、人々の目標の対立を取り除くか、あるいは資源の希少性を取り除くことができるならば、法的平等論は必要なくなるであろうし、それがなくても巧くやっていけるであろう、というのである(Buchanan,Lukese)。

 

マルクス主義者のなかには、共産主義が克服しようとしている正義の状況とは、善の構想同士が対立している状況である、と論じる者もいる。彼らは家族を法的ではない制度ーーそこでは利害が一致しており、正しい義務や個人的利得の計算に基づいてではなく、愛に基づいて他者のニーズに自発的に応答するーーの実例と受けとっている(Buchanan)。共同体全体の利害が一致し、愛情によって結ばれるならば、正義など必要なくなるであろう。なぜならば、自らを権利の担い手と考えるならば、「自らを人間同士の対立ーーそこでは権利を主張することが避けられず、要求しているものが当然私のものであると「弁護する」ことが避けられないーーの潜在的な当事者であると見なす」(Buchanan)ことになるからである。しかし、愛や一致した利益に基づいて相互のニーズを満たすのであれば、権利のような概念が現れる余地などなくなるであろう、と。

 

私が別のところで論じたように、マルクスは、利害が一致し愛情によって統合された共同体というビジョンなど信奉していなかった。マルクスにとって、共産主義的関係が敵対と無縁であるといっても、それは「個人的敵対という意味ではなく、個々人の社会的生活条件から生じる敵対という意味である」(Marx and Engels)。実際には、正義の状況を「目的が一致する」ように解決するのは、マルクス主義的な理想であるよりも、コミュニタリアニズム的な理想である。さらに言えば、それが、正義の状況にたいする解決策でありうるのかどうかも疑わしい。というのは、一連の目標を共有したとしても、依然として個人的利害の対立が残るかもしれないからである(たとえば、二人の音楽愛好者が一枚のオペラのチケットを欲しがっている場合)。また、個人的利害の対立がない場合でさえ、どのようにして共有されたプロジェクトを達成するか、そのプロジェクトはどれくらい支援する価値があるか、という点では一致しないかもしれない。あなたも私も、音楽鑑賞は善き人生に欠かせないものであり、音楽を支援するために自分の時間や金銭を費やすべきだと考えているかもしれない。しかしあなたは、たとえ質が下がることになったとしても、なるべく多くの人々が楽しめるように音楽を支援すべきである、と望むかもしれない。けれども私は、たとえ鑑賞しえない人々がでることになったとしても、最高水準の音楽を支援したいと思うかもしれない。資源が希少であるかぎり、どの音楽のプロジェクトにどれだけの支援をすべきか、という点で一致することはないであろう。たとえ目的が共有されたとしても、手段や優先順位も共有されないかぎり、希少な資源の使い道をめぐる対立は取り除かれないであろう。しかし、同一の目的を同一の理由で同一の程度共有しているのは、同一の人物以外にはありえない。ここで、対立する目的は、「矯正」されたり克服されたりする必要のある「問題」として捉えられるのがよいかどうか、という疑問が起こらざるをえない。おそらく対立は、それ自体としては価値あるものではないであろう。しかし、そうした対立を不可避に引き起こす目的の多様性のほうは、価値あるものであるかもしれない。

正義の状況にたいするもう一つの解決策は、物質的希少性を取り除くことである。

…(中略)…

マルクスは、物質的豊かさ(アバンダンス)が必要不可欠であると強調した。希少性のせいで対立が解決不可能になると考えたからである。生産力が最高度に発達することは、「〔共産主義の〕絶対的に必要な実践的前提である。なぜならば、それがなければ欠乏が広まるだけであり、貧困とともに必需品のための闘争と、旧来のあらゆる汚れた商売とが再生産されざるをえないであろうからである」(Marx and Engels)。おそらく、マルクスが物質的豊かさの可能性についてあまりにも楽観的であったのは、希少性の社会的影響についてあまりにも悲観的であったためなのであろう(Cohen)。

 

(p.250 - 252)

 

だが、正義は、捨て去られるべき矯正的徳性と見なされるのがよいのであろうか。マルク主義者によれば、正義は対立を調停するのに役立つとはいえ、対立を引き起こす傾向もあるし、少なくとも社交性を自然に表現させにくくする傾向がある。それゆえ正義は、今のところは必要悪であるとしても、物質的豊かさという条件の下では高次の共同体にとっての障害物になるであろう。人々が相互に愛に基づいて自発的に行動できるのであれば、そのほうが、自分たちを正当な権原の担い手と見なすよりも望ましい、というのである。

(p.253)

 

ロールズが正義の優位を主張しているといっても、それは「さまざまな利益への正当な権利要求を極限にまで押し進めるかどうか、また押し進めるべきかどうか、に関する」(Baker)主張ではない。正義の優位は、個々人が一定の利益を主張できるようにすると同様に、そうした利益を愛する人々と分かち合えるようにもする。寛大で愛する人々は、正当な権原でもって寛大であり愛するであろう。正義の優位は、そうした行動を抑止するどころか、可能にするのである。正義が除外するのは愛や愛情ではなく、不正ーー他者の正当な権原を否定することによって、その人々の善が別の人々の善に従属することーーなのである(Baker)。もちろん不正は、真の愛や愛情とは反対のものである。

(p.254)

 

 わたしはマルクス主義に詳しいわけではないのでたいしたことは言えないけれど、キムリッカがマルクス主義者(やコミュニタリアン)のものとして示している考え方……人々の利害対立を調停するはずの「正義」や「権利」はむしろ対立を前面化するように促すものであるために解決策とはならず、「愛」(と「物質的豊かさ」)によって利害対立そのものを無くすことが真の解決策である、という考え方は、近頃の日本でもよく目にするものではある。

 たとえば、自由主義系で資本主義全面肯定派の経済学者である柿埜真吾は、マルクス主義系の論者である斎藤幸平の主張について以下のように論じている。

 

脱成長コミュニズムがもたらすのも、他人とは違う独創的発想が迫害され、個人の自由が抑圧される社会である。斎藤氏によれば、脱成長コミュニズムは「使用価値経済」だという。「使用価値経済」の下では、主要資源が共同体に管理され、「使用価値」がないものは禁じられる。例えば、「マーケッティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止される。コンサルタント投資銀行も不要である」(斎藤,2020,303頁)。ブランド化や使用価値がない製品も認めないという。

 

だが、問題は一体誰がその「使用価値」を決めるのかである。市場経済では、使用価値があるかないかを決めるのは一人一人の消費者だが、社会主義経済では、何に価値があり何に価値がないかを決めるのは政府や共同体の命令と強制である。斎藤氏の言葉からも、脱成長コミュニズムの下では、職業選択の自由言論の自由も存在しないのは明白である。

 

「似たような商品が必要以上に溢れている」(斎藤,2020,256頁)とか、様々な職業が「不要」だと断言する斎藤氏に拍手喝采する読者は、何が使用価値で、何が必要か、自分が決める気でいるようだが、ある人にとって不要で下らないものは、他の人にとってはかけがえのないものである。脱成長コミュニズムは、特定の「使用価値」が全員に押し付けられ、あなたの大切なものが「不要」、「使用価値がない」と否定され、弾圧される社会である。

 

経済成長と自由を選ぶのか、脱成長と全体主義社会を選ぶのか――『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠 』(PHP新書)/柿埜真吾(著者) - SYNODOS

 

「一体誰がその価値を決めるのか」という問題は、デヴィッド・グレーバーによる『ブルシット・ジョブ』論にも当てはまる。不必要で無駄な商品と仕事と、必要(エッセンシャル)である商品と仕事とを区別して、前者をなくして後者に資源なり労働力なりを集中すれば、経済成長がなくても「物質的豊かさ」の欠乏の問題に対処できるかもしれないし、職業間での利害の対立とか格差とかも解決できるかもしれない。……とはいえ、「必要な商品」や「無駄ではない仕事」とは何であるかという考えは人によって異なり、どれだけ議論を重ねても意見の違いは残り続けるであろう。

 どんな商品が必要かとか、どんな仕事に意義を見出すとかは、各人の「善の構想」に委ねられることである。それに対して外側から「こんな商品には価値がない、こんな職業はブルシットだ」とジャッジして捌いていこうとする主張は、独善的なものにならざるをえない。

 

 また、「愛が正義や権利に取って代わる真の解決策だ」式の発想は、近年の「ケア」を強調する規範理論を想定せざるをえない。ケアと愛情が並べて論じられることも多いし、利害が対立する個人同士の法的な共同体に対比するものとして「家族」が持ち出されることもケア論的だ。

 だが、このブログでも何度か書いてきたように、わたしは「ケアの倫理」的な発想にはかなり否定的である。もちろん、ケアが正義の代替になるとも思わない。ケア論が流行っているのも、「利害の対立の調停」という難しい問題からの逃避であるというくらいにしか思っていない。

 

『現代政治理論』を読んでいるときにふと思ったのだが、ロールズ的・リベラリズム的な意味での「正義」を論じる人たちは、その単語の互換とは裏腹に、「悪」を想定している感じが薄い。功利主義者も同様。「善に対する正の優越」や「最大多数の最大幸福」などの規範・目標は、人々が異なる善の構想を抱いていて利害の対立の調停はどんな社会でも必要とされ続けることを前提とした、ニュートラルなものであるからだ。

 それに比べると、マルクス主義コミュニタリアンフェミニストなどは特定の「善」に人々を結束させることで利害の対立を克服することを目標とするために、「共通善」や「ケア」などの支障となる人や物事を「悪」とみなして、容赦しない傾向にある。

 

 また、「善を優先するか、正を優先するか」というだけなら理論の違いでしかなく、倫理学や政治理論の教科書でも書かれているようなことではあるのだけれど、「善」を優先するタイプの理論はそれを唱えている人の事実認識や世界観にまで波及して効果があるようにも思える。

 たとえば、「現在に人々の間で利害の対立が発生して問題が生じているのは、人々が誤ったイデオロギーにしたがって行動したり思考したりしているからであり、そのイデオロギーを取り除ければ利害の対立の克服に近づくことができる」という主張はマルクス主義者やフェミニストだけでなくコミュニタリアンもおこなうものだ。「個人や法人はそれぞれの観点からそれぞれの利益を合理的に追求している」という標準的な経済学の発想も、三者三様に否定しようとする*1

 しかし、それは、自分たちの理論にとって問題となる「愛やケアや共通善では解決できない事柄がある」という事実から目を逸らしているだけであるのだ。

*1:

経済学において「合理性」とは、各主体が与えられた状況・制約条件を所与として自己の達成目標を最大限に達成している、というあくまで個人レベルの形式的なものである。このことは、個々人は手持ちの情報を最大限に活用して「合理的」に判断していても社会全体としてはそれが故に負のサイクルにはまっている、という世の中によくあることと全く整合的である(と同時に、「それで世の中うまく回ってるのだ」という結論を結果的に排除するものでもない。うまく回っていることもある)。

 

gendai.ismedia.jp

社会は「男性の幸福度の低さ」について配慮するべきか?

 

 

 最近はキムリッカの『現代政治理論』をじっくりと読んでいたのだが、最終章の「フェミニズム」の章で、近頃の日本(のネット上)における議論にとっていろいろと示唆に富む箇所があったので、かなり長くなってしまうけど引用する。

 フェミニズム政治理論の一種である「ケアの倫理」アプローチに対する批判的なコメント、という文脈の文章であるが、政治や倫理一般にひろく当てはまる議論であるだろう。

 

 

なぜ正義を唱える理論家は、他者への責任を公正の要求に限定することが重要だと考えるのであろうか。仮に、主観的苦痛が常に道徳的な要求を呼び起こすとするならば、倫理的ケアにかかわる事柄として、私のあらゆる利益に注意を向けるよう他者に期待するのは正当である。しかし正義を唱える理論家にしてみれば、このように言うことは、自分自身の利益の一部については全責任を負わなければならない、という事実を見落としたものである。正義の視点によれば、公正にかかわる事柄として、自分の利益の一部に注意を向けるよう他者に期待するのは、たとえ他者自身の善の追求が制約されたとしても正当である。だが、自分の利益すべてに注意を向けるよう期待することは正当ではありえない。自分自身の責任の範囲内に属する利益が存在するからである。自分の責任である事柄に注意を払ってもらうため、他者に自らの善の追求をやめるよう期待するのは不当であろう。 

 

友人が必要としている場合、自分の時間や金銭を寛大に差しだすが、その支出にまったく無頓着である人物を思い浮かべてほしい。その人物は、(不必要に)しばしば援助を費用とするようになり、自分の無思慮の結果から救いだしてくれるよう他者に頼ることになる。この場合、彼が援助を期待するのは正当であろうか。われわれは、彼を本人の不注意から救いだす道徳的義務を感じるべきであろうか。主観的苦痛のアプローチからすれば、彼の苦痛に注意を払わないのは無責任である。主観的苦痛を感じているのであれば、たとえその苦痛が本人の無計画性や浪費によるものであったとしても、注意を払わなければならないからである。だが正義の倫理によれば、あらゆる苦痛から救ってくれるよう他者に期待するほうが無責任である。行動の責任は本人にあり、自分の不注意の代償を他者に支払わせようとするのは不道徳だからである。

 

以上のように見てみれば、主観的苦痛と客観的不公正との論争は真の論争である。この論争には、われわれ自身の福利にたいする責任について、決定的に異なる立場が存在するからである。ケアを唱える理論家に言わせれば、客観的不公正を重視するならば、道徳的責任の放棄を容認しかねない。というのも、客観的不公正に従えば、他者への責任が不公正の告発に限定されるため、他者の避けえた苦痛は見落とされるからである。正義を唱える理論家に言わせれば、主観的苦痛を重視するほうが道徳的責任の放棄を容認している。というのも、主観的苦痛を重視するならば、賢明さに欠ける者が自らの選択の代償を支払うという当然のことを否定し、責任を持って行動している者に不利益を被らせ、無責任な者に得をさせるからである。

 

したがって、ケアと正義との論争は、責任と権利との論争なのではない。それどころか責任は正義の倫理の中核にある。他者への要求が公正へと限定されるのは、他者が権利を有しているためではなく、私が責任を有しているためである。他者への責任とは、一つには、自分自身の願望や選択の代価として責任を引き受けることである。ロールズによれば、彼の理論は「自己の目標への責任を引き受ける能力に依拠している」(Rawls)。反対に、道徳的義務を客観的不公正ではなく主観的苦痛と結びつける者は、責任ある行為者という理念を否定しなければならない。「人々に自分の選好の責任を負わせ、できる限りのことを要求するのは、不正とはいわないまでも、理に適ってはいない」(Rawls)と言うべきである。ロールズは、われわれには責任能力が備わっていると考えている。彼の理論では、所得に見合った生活をし、正当に期待しうる所得に自らの将来の見通しを合わせるよう求められる。その結果、不注意で放埒な者が、責任を持って生活してきた者に、自分の無思慮の代償を支払ってくれるよう期待することなどできない。「彼の洞察力や自己規律の欠如によってもたらされた結果から彼を救いだすために、人々の所有物を減らすべきだというのは、不公正と見なされる」(Rawls)。いかなる主観的苦痛にも援助の手をさしのべなければならないならば、自身の福利に責任を持ってきた者は、不注意であったり放埒であった無責任な者を助けるために、常に犠牲を強いられることになるだろう。これは不公正以外の何ものでもない。

 

主観的苦痛が常に道徳的な要求をもたらすという見解は、不公正なだけでなく、抑圧を隠蔽する可能性がある。主観的苦痛は期待と結びつき、不正な社会は不正な期待を生みだすからである。伝統的な婚姻関係を考えてみてほしい。この関係では「女性が男性に仕えるようには、男性は女性に仕えない」(Fyre)。男性は女性に、自分のニーズに対応してくれるよう期待するため、家事労働の分担を求められるたびに主観的苦痛を感じることになる。実際「搾取や抑圧の関係を変革しようとすれば、一部の者は何かを奪われざるをえない。彼らは慣れ親しんできた気配りや奉仕や快適さを奪われるかもしれない。そしていくらかの苦難や困難をケアの欠如と感じるかもしれない(Grimshaw)。抑圧者は、いかなる特権の喪失にも敏感であろう。逆に被抑圧者は、抑圧に主観的苦痛を感じないよう社会化されている場合が多い。すなわち被抑圧者は、獲得できないとわかっている物をあらかじめ望まないように選好を適応させているのである。

 

こうした適応的選好形成の形成過程が見出せる場合、道徳的な要求の根拠として主観的苦痛に焦点を合わせるならば、抑圧は常に見えにくくなってしまう。他方、正義の観点からすれば、抑圧者の主観的苦痛は不公正で利己的な期待から生じたものである以上、道徳的に何ら重要性を持たない。正義の要求は、人々の実際の期待によってではなく、正当な期待によって決定される。以上の理由によって、正義を唱える理論家は、客観的不公正が存在しない場合に主観的苦痛が道徳的重要性を持たないだけでなく、たとえ主観的苦痛をともなわない場合でも、たとえば人々が抑圧を受け入れるよう社会化されている場合でも、客観的不公正は非道徳である、と主張するのである(Harding)。この意味において、道徳的に妥当なケアや共同体は、正義に関する条件や判断を前提としている(Kohlberg)。

 

(p.588-591)

 

 ネット上などにおける「弱者男性論者」の主張のなかでも定番の論法のひとつが「男女の幸福度を調査すると、日本では女性のほうが幸福度が高く、男性のほうが幸福度が低い」という点を強調するものだ。類似した議論としては、「男性のほうが女性よりも自殺率が高い」という点を強調する場合もある。いずれにせよ、男性の幸福度の低さや自殺率の高さが、「男性は女性よりも差別されている」という主張や「男性は女性よりも公的な支援を必要としている」という主張の根拠とされる。

 しかし、引用した議論で示されているように、「幸福度の低さ(≒主観的苦痛)」が支援を要求する根拠になるとは限らない。男性が不幸になっているとしても、それは男性たちは(男女平等の社会で認められないという意味で)不当な期待やニーズを抱いているからかもしれないし、男性たちが無思慮な行動や生活をしてきた結果であるからかもしれない。

 一方で、女性の幸福度が高いからといって、女性が差別されていないとは限らない。女性は差別的な社会によって「適応的選好」を形成してきて、いろいろなものを無意識または意識的に諦めてきたから幸福度が高くなっているだけかもしれないからだ。

 

 このあたりの議論は一昔前から存在するものであり、反論も提出されている。

 たとえば、男女平等で自由な社会でもやはり多くの女性がキャリアよりも家庭を優先していることなどを理由にして、「差別的な社会に適応して形成された選好」と思われていたものの一部は、一般的な女性や多数派の女性が"自然に"抱いていた選好である、と論じることができるかもしれない。

 もちろん、男性の幸福度の低さや自殺率の高さは社会のせいである、と論じることもできるだろう(実際に弱者男性論の多くではそう論じられている)。男性はキャリアを積むために仕事をこなしたり商売を成功させるために市場で競争したりなどの経済活動をするように社会に(または女性に)強制されているから、不本意であったり本人に向いていなかったりしても長時間労働をしたりリスクをとったりせざるをえなく、そのために心身に負担がかかったり不安やプレッシャーに苛まれたりして、結果として幸福度が低くなったり自殺したりしている……かもしれない。

 

 とはいえ、すくなくとも、「男性の幸福度の低さ」という事実と「男性に対する公的な支援がなされるべきだ」や「男性は差別されている」という主張をつなげるためには、「男性の幸福度の低さ」の原因が社会にあること、つまり主観的苦痛であるだけでなく客観的不公正であることも示さなければいけない。そして、弱者男性論の主張では、しばしばこの過程が抜かされてしまっている印象がある。

 また、実際問題として、社会的なプレッシャーも男性たちの幸福度の低さの一因となっているだろうが、男性たちが無思慮な行動や自己破滅的な生き方をしやすかったり充たされる可能性の低い選好を抱きやすかったりするところも一因になっているだろう。自殺率の高さについては、男性の生物学的な傾向と、学校などの環境において男性たちが若い頃から身に付ける行動様式が原因であるとするトマス・ジョイナーの議論を、何度か紹介したことがある*1。「生物学的な傾向は男性たち自身が選んで身に付けたものではないので、男性たち自身に責任はない」と主張することも可能かもしれない。……しかし、「生物学的な傾向」から生じる不幸について、他の属性(女性)の人たちや"社会"が配慮する義務を負っているわけでもないだろう。行動様式についても、それを身に付けたのは環境のせいであり男性たち自身の意識的な選択によるものではなかったとしても、現実的な問題として、個人の行動様式を"社会"が介入して変えることは難しく、変えるかどうかは本人に委ねられている。

 その一方で、日本では女性のほうが男性より幸福度が高く自殺率が低いとしても、「日本では女性が差別されている」と言える論拠は大量にある。

 進学校や医学部などの受験における差別、ハラスメントや性犯罪の被害への遭いやすさ、夫婦別姓が認められていないこと(姓を変えるのは大半は女性の方なので実質的には女性差別)、などなど。ハラスメントや性犯罪については直接的な加害行為であり、倫理学的にも政治理論的にも、「加害行為は問題であって是正されるべきだ」と論じることは簡単だ。また、受験や姓(戸籍)などの制度に関する問題についても、単に女性が主観的苦痛を感じているだけでなく客観的不公正でもあると主張することは簡単なはずである。

 

 つまり、多くの場合において、女性の感じている不幸は不公正不正義が原因で生じたものであると主張することは容易である。それに比べて、男性が感じている不幸が不公正や不正義が原因で生じたものであると主張することは難しい。難しいといっても、がんばれば、やはり不公正や不正義が原因で生じていると立証することができるかもしれない(わたしも、ある程度までだが、男性の不幸は不公正や不正義が一因であると考えている)。

 いずれにせよ、その「難しさ」は理解しなければならないだろう。

 

 政治理論や正義論に触れたついでに指摘しておくと、弱者男性論で言われがちな「女性の上昇婚志向」問題についても、少なくともリベラリズムでは、「収入の高い女性は自分よりも収入の低い男性と結婚すべきだ」と要請したり促したりすることは、不可能であるはずだ。

「どんな相手と結婚して、共に生活を過ごすか」ということは個々人に委ねられて個々人が追求すべき「善の構想」のひとつである*2。多くの女性が「年収の高い男性と結婚したい」と考えていて、多くの男性が「だれでもいいから女性と結婚したい」と考えていて、前者と後者とのミスマッチのために年収の低い男性が結婚できず、そのために不幸になったり苦しんだりするとしても、その状況を「不正義」と表現することはできないだろう。ただ個々人が善の構想を追求した結果、「一部の人たちの構想は叶ったが、別の人たちの構想は叶わなかった」という残念な状況であるというだけだ。

 ましてや、結婚できない男性たちの幸福度が低くなったことを配慮や補填などを女性たちに要求することはできない("社会"に要求できるかどうかも難しい)。大体の人は、そのような要求は理に適っていないと判断するはずだ。

 

リベラリズム批判」はもうずっと何十年も前から定番の主張であるが、『現代政治理論』を読んでいると、リベラリズムというのは理に適っていることを重視して、適正な要求と不適正な要求を区別するのに長けている理論であることに気付かされる。「無知のベール」に基づいて考えるロールズの議論も、必ずしもアメリカ的なものであったり西洋中心的なものでもないだろう。日本人であっても多くの人は「そりゃそうだ」とか「もっともだ」とうなずくような議論が展開されているように思える。

 キムリッカが「自分の責任である事柄に注意を払ってもらうため、他者に自らの善の追求をやめるよう期待するのは不当であろう」とか「ロールズは、われわれには責任能力が備わっていると考えている。彼の理論では、所得に見合った生活をし、正当に期待しうる所得に自らの将来の見通しを合わせるよう求められる。その結果、不注意で放埒な者が、責任を持って生活してきた者に、自分の無思慮の代償を支払ってくれるよう期待することなどできない」とか書いていることも、やはり重要だ。これらの箇所は、一般の人ならごく真っ当な主張と受け取るもののはずである。

 ……しかし、昨今では右も左も"自己責任論"批判に明け暮れて、責任という概念が解体されしきっているために、一部の文系アカデミアやネット上の議論では個人の責任について議論することすらもご法度になってしまっている*3

 とはいえ、「自己責任」がご法度になっているのはあくまで新書本とか雑誌とかTwitterとかはてブだけの世界であり、実際には、政治においても法律においても会社においても友人間や家族においても「自己責任」は存在しており、それに基づいて諸々の制度や規則が運用されていたり、人間関係が築かれたり互いを評価しあったりしている。責任抜きで社会や人間関係は存在できないのだ。

 福祉が削られるとか貧困者に対する同情が薄くなるとかで「自己責任社会」とか「ネオリベラリズム社会」とかが到来することはわたしも問題であると思うけれど、それに対抗するための方法とは、「責任」という概念を解体することではなく、むしろ「責任」という概念についてしっかり論じることで個人の責任の範囲内にあるものとそうでないものとの境界線をきっちりと引くことであるはずだ*4。まともな人たちの大半は昨今流行の極端な「自己責任論批判」には取り合いもしないだろうし、まともな人たちに取り合われない議論なんて存在意義がない。

 また、これは以前にも指摘したことであるが、弱者男性論は昨今のフェミニズムサヨクの議論の「ミラーリング」をしているがゆえに、論点や問題意識は重要であっても議論の内実は不毛なものになっていることが多い*5。理に適った有意義な議論を展開するためには、弱者男性論もリベラリズム(と自己責任論)の観点を取り入れるべきだろう。そして、同じことは、最近のフェミニズムにも当てはまるはずだ。

 

*1:

gendai.ismedia.jp

*2:

plaza.umin.ac.jp

plaza.umin.ac.jp

*3:サンデルも『実力も運のうち』のなかで「正当な期待に対する資格」に関するロールズの議論や、"自己責任論"を批判している

davitrice.hatenadiary.jp

*4:同様の主張は、山形浩生が18年前のイラク人質事件の当時に行なっている。

cruel.org

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

「弱いものいじめ」としてのキャンセル・カルチャー

s-scrap.com

 

 晶文社の連載で先日に書いた内容の続編的なものを書くために、キャンセル・カルチャーに関する洋書をいくつか取り寄せてもらって読んでいる。

 そのうちの一冊が『Cancel This Book: The Progressive Case Against Cancel Culture(本書をキャンセルせよ:進歩派によるキャンセル・カルチャーへの反論)』。

 

 

 

 

 著者のダン・コヴァリクは昔ながらの労働者支持の左翼。それはいいのだが、タイミングの悪いことにかなりの親ロシア派であって、『The Plot to Scapegoat Russia: How the CIA and the Deep State Have Conspired to Vilify Putin(ロシアをスケープゴートにする陰謀:プーチンを誹謗中傷するためにCIAとディープ・ステートはいかに共謀してきたか)』という本も出していたりする。この本のなかでもロシア擁護的な章も含まれているのだが、まあ本筋とは関係ないのでそこは気にしないでいいだろう。だが、それをさしおいても全体的に時評的・ジャーナリスティックな本ではあり、『アメリカン・マインドの甘やかし』のような理論的・学術的な分析がされているものではない(ので、さして面白くもない)。

 

 とはいえ、この本の第七章「大学における魔女狩り」はわたしの個人的な関心ともマッチしていて興味深く読めたし、重要な指摘もされていた。

 第七章のなかでは、アメリ言語学会(LSA)にスティーブン・ピンカーの除名を誓願するオープン・レターが出された事件についても触れられている(ちなみに著者はピンカーの歴史観などは支持していないそうだ)*1。結局のところ実際に除名されるまでは至らず、ピンカーの立場は守られて教授を続けられているが、それは「ピンカーに対する批判が不当である」と立証されたからではなく、たまたまピンカーがテニュアを持つ大学教授であったからに過ぎない(このことについてはピンカー自身も認めているらしい)。

 日本と同じく、アメリカのアカデミアでも、教授たちの大半は不安定で立場が弱く、大して稼げているわけでもない、非常勤のポジションにいる。彼らがキャンセル・カルチャーの対象になったら、ピンカーの場合とは違って、事なかれ主義で非難を恐れる大学によって簡単にクビを切られてしまう。キャンセル・カルチャーの多くは左派によるものであることをふまえると、労働者の味方をするべきであるはずの左派が立場の弱い労働者を積極的に攻撃していることになる、と著者は指摘するのだ。

 昨今のアメリカの大学の大半には「ダイバーシティ&インクルージョン」の部署があり、一定数の事務員が雇われているわけだが、このこと自体が「魔女狩り」を引きおこしているとも著者は指摘する。ダイバーシティ&インクルージョン部署の事務員には仕事をしていることを当局に示すプレッシャーがかかるので(そうしなければ部署の存在意義が立証できなくなるから)、なにも問題がなさそうな状況でも、なにか問題を見つけて対処しなければならない。結果として、些細な問題でも大ごとにしたり、証拠が不確かでも教員や学生を処罰したりするようになるのだ。

 また、オバーリン大学の学生たち(と大学当局)が町のパン屋を攻撃した事件のように、"Woke"な学生たちによる攻撃の対象は、非常勤講師に限らず、立場の弱い労働者に向かうことが多い*2。これも労働者を守るべき左派の立場からすれば矛盾しているし、それよりも資本主義的で搾取的な大学の労働環境に対する批判を優先するべきだ、といった主張を著者は展開している。

 

 ……先日の記事を書いたときには失念していて、この本を読んでいるときに思い出したが、キャンセル・カルチャーが「イヤ」に感じられる理由のひとつが、目的や意図がいかに善いものであったとしても「弱いものいじめ」として機能してしまう、という構図だ。

 キャンセル・カルチャーは「個人に対する批判・非難を公の場で行うことで、その個人が所属する組織やその個人が関わるメディアやイベントの運営などに対して、懲戒や解雇や契約破棄、または連載の打ち切りや登壇の取り消しなどのペナルティを該当の個人に課することを要求する行為」と表現することができる。

 すると、個人に対する批判や非難がもっともなものであるとしても、常勤職や正規職の労働者は法律や就業規則などが盾となって懲戒や解雇を逃れられるところが、非常勤や非正規の場合には守ってくれるものがないのでクビになったり契約を切られたりする場合がある。イベントの主催者や雑誌の編集部なども、権威や実績のある人については非難から守ろうとするかもしれないが、まだ若くて駆け出しの人だったらたやすく見捨てるかもしれない。もし仮にキャンセル・カルチャーが「悪人たち」に対抗して世の中を是正するための行動であったとしても、犠牲になるのは、悪人ではあるがそのなかでは相対的に「弱者」である人たちなのだ(そして、当然のことながら、キャンセル・カルチャーの対象になっている人たちがほんとうに「悪人たち」であるかどうかについても、個別の事例にはよるだろうがかなりの議論の余地がある)。

 これは、キャンセル・カルチャーが手続き的正義やデュー・プロセスなどの「法」ではなく、示威や権力や人数やレトリックを利用して圧力を加えたり風潮を作り出したりする「政治」によって世の中を改善・是正する行動である以上は、必然的に起こる事態である。……もしかしたら「法」が無力であり「政治」によって是正されることが必要な事態というのも世の中にはあるかもしれないが、キャンセル・カルチャーが行われている事例の大半は、そういう事態ではないように思える。

 

 関連してさらに「イヤ」なところを挙げると、圧力を加えたり風潮を作り出したりしておきながらも、対象にした個人が所属する組織などが懲戒したり解雇したりの処分をすると「責任主体は批判をしたわたしたちではなく、批判を受けて処分をした組織のほうにある」とほっかむりするところだ。

 厄介なのは、形式的には、たしかにその主張は真であるかもしれないことだ。それでも、そういう主張が「責任逃れ」であるということも、大半の人には常識的に判断できることである。理屈がどうであれ、ふつう、目の前でそんな主張をしている人がいたら大体の人は呆れてしまうし、「こいつらとは関わりたくないな」と思うようになるだろう。

 

「非モテ」は「モテないからつらい」、ではない?(読書メモ:『「非モテ」からはじめる男性学』)

 

 

 第一章で提示される、本書のねらいは以下の通り。

 

……登場してから二〇年以上もの間、「非モテ」論は主にネットを中心として議論と考察が繰り返されてきた。その蓄積に敬意を払うと同時に、私は「非モテ」論が限界に立たされているとも感じている。それは、これまで見てきた「非モテ」論の多くが「モテない」こと、つまり恋人がいないことや女性から好意を向けられないことが問題の核心であるという前提に立っているという点にある。

(…中略…)

果たして本当に「非モテ」男性はモテないから苦しいのだろうか。時に暴力にまで走ってしまうほどの苦悩の説明を「モテない」という状況にだけ求めてしまっていいのだろうか。本書で問おうとするのはここである。

ところで杉田[俊介]は『非モテの品格』の中で、性愛的挫折がトラウマのように残り続ける原因として、非正規雇用の問題や男性がケアから疎外されている現象が背景にあることを指摘している。また、本田[透]は恋人のいない苦痛を中心的に論じているが、婉曲的に経済格差やルッキズム(外見や容姿に基づく差別)の問題を示唆している。

つまり、この「モテない」という声を上げる個人の苦悩は、実は恋人がいないという状態や挫折に限らず、あらゆる事象が絡み合って生起しているのではないか。「非モテ」という問題はただ表層として現れただけであって、その奥深くには、男性をめぐるさまざまな問題体系が潜んでいるのではないか。「モテない→苦しい」という単純な因果論から抜け出すためには、多様な角度から「非モテ」男性の世界を分析する必要がある。

本書では、以上の仮説を念頭に置きつつ、「非モテ」男性が抱く苦悩に着目した「非モテ」論の再構築を試みる。そのために、既存の言説に縛られることなく「非モテ」に悩む男性たちの生の語りに焦点を当てながら、苦悩の内実や、苦悩の背景にある複雑なメカニズムを見つめていこうと思う。

(p.29 -31)

 

 本書では、著者の西井が主催する「ぼくらの非モテ研究会」に参加している「非モテ」たちへのインタビューに基づきながら、非モテの人たちが感じている「苦悩」について分析したり表現したりすることが試みられる。

 だが、引用した文章に書かれているように、西井は"「モテない→苦しい」という単純な因果論"を用いることをよしとしない。

 結果として本著で提示されるのは、非モテ男性のつらさは男性集団からの「からかい」や「排除」を受けることやそれによって自分に「非モテ」というラベルを貼ることに起因する、という理論だ。

 

第三章では、「非モテ」男性が男性集団内で追い詰められ、そして自分で自分を追い詰めていく過程を描いた。<集団内の中心メンバー>から、<からかい>や<緩い排除>を受けて周縁化される「非モテ」男性は、被害を受けているにもかかわらず、彼らとの親密な関係性を維持するために、自ら<いじられ役>を引き受けていく。また、<男らしさの達成>をしようとしても、中心メンバーは別の要素を見つけてからかい続けるために、「非モテ」男性はいつまでも「自分は一人前の人間ではないのではないか」という<未達の感覚>と<疎外感>を抱き続けることになる。このゆるい排除と<仲間入りの焦燥>という絶え間ない往還の果てに、「非モテ」男性は自分自身を否定的な存在として見出す<自己レイべリング>に至る。

(…中略…)

以上の分析を通じて、男性たちに苦悩をもたらす「非モテ」とは、「からかいや緩い排除を通じて未達の感覚や疎外感を抱き、孤立化した男性が、メディアや世間の風潮などの影響を受けながら女性に執着するようになり、その行為の罪悪感と否定された挫折からさらなる自己否定を深めてく一連のプロセス」として描き出すことが可能となった。「モテない」という一要素だけで「非モテ」男性の苦悩はもたらされているわけではない。

(p.165 - 168)

 

 さて、ここに引用した理論には、説得力があるだろうか?

 すくなくとも、わたしにはほとんど説得力が感じられない。

Amazonレビューや西井へのインタビュー記事についたはてなブックマークなどを見ると、説得力を感じている人もいるようだ*1。だが、非モテ(弱者男性)として有名な「すもも」氏のように、非モテのなかにも西井の理論に対して違和感を抱いている人は多いようである。

 

 

 

 

 わたしが違和感を抱いているのは、本著のなかでは「男性集団からの周縁化」が非モテのつらさの一因ではなく主因であるかのように論じられているところだ。

 これが一因として論じられているのなら、まだ受け入れられる。たしかに、高校生や大学生の男子集団においては(コミュニティによっては社会人になってからも)、性体験の有無や彼女の有無をネタにしていじりあったりからかいあったりすることは定番の光景である。そのなかで一部の男子がそのいじりやからかいを真に受けたり傷付けたりして悩んだり拗らせたりすることも、よくある事態だろう。わたし自身もいじったりいじられたり、からかったりからかわれたりしてきた経験がある。みんなから童貞いじりされていた人が、その場ではおどけて受け答えしていたが、「実はかなり傷付いていた」と後から打ち明けることもあったものだ。

 しかし、西井の著書や、他の社会学ジェンダー論の本を読んでいると、人間というものの苦悩や幸福はなにからなにまで人の目によってつくられているかのように錯覚させられそうになる。

 

 たとえば、本書の序盤でも触れられている伝統的な「ホモソーシャル」理論によると、男性が女性を求めることは「男性集団で一人前と認められるため」であるからとされる。たしかに、そういうところもあるだろう。男子学生のグループでは他の連中よりも先に彼女を作った男が「格上」と見なされる場合はあるだろうし、社会人になっても配偶者の有無が「有能さ」や「まともさ」の指標として機能させられることもあるだろう。

 だが、ホモソーシャルに属していようが属してなかろうが、男性集団から周縁化させられていようが周縁化させられていなかろうが、大半の男は女を欲求する。これはもう生物学的・人類学的な事実だとしか言いようがない(ので、「そうでない事例もある」とか「欲求が生得的なものだとは証明できない」といった反論は相手にしない)。

 そして、欲求が充たされないとき、わたしたちは多かれ少なかれつらさを感じるものだ。

 欲求とは「食欲」や「性欲」などのシンプルなものだけでなく、社会関係に紐づくものもあることは重要だ。たとえばわたしたちは人の輪に所属することを欲求するし、他人から指図されるのはなく指図する側にまわることを欲求する。だから、孤独であったり、「底辺」であったりすると、つらさを感じる。

 そして、ヘテロセクシュアルの男性であれば、セックスとコミュニケーション関係との両方の面で、女性のパートナーを獲得して保持することを欲求するものだ。だから、彼女や配偶者がいない人は、そうでない人に比べると、パートナーの獲得・保持に関する欲求が充たされないことによるつらさを感じている。それは、腹が減っている人や孤独な人や底辺の人が、それぞれに対応する欲求が充たされないことでそうでない人よりもつらさを感じているのと同じことだ。もちろん欲求の多寡には個人差があるだろうが、それが充たされないと大小に応じてそれぞれのつらさが生じることには変わらない。

 

 わたしは人生において恋人がいる時期を何度か経験してきているので、本書に出てくるような「非モテ」ではない。とはいえ、もちろん、わたしにだって恋人がいなかった時期もある。

 そして、わたしが「恋人がいないこと」によるつらさをもっとも強く感じていたのは大学院を卒業した後に数年間フリーターをやっていた時期だ。同時に、この時期は、学生であったそれまでの時期とは違い「ホモソーシャル」に所属していない時期でもあった。アルバイト先の人たちとはそれなりに親しくしていたが、学生時代の友人関係のようには親密な関係を築いていたわけではないし、恋人の有無とかセックスに関する話題が出ることもほとんどなかった。

 その時期に親密に関わってよく喋りあっていた相手としては、高校からの友人と大学からの友人がひとりずついたけれど、前者は童貞の非モテであり後者もこの時期には彼女がいなかった。ついでに言うと、両者ともその時期はニートであった(後者は途中から同じバイト先で働き始めてフリーターになったけれど)。

 ポイントとなるのは、この時期のわたしには、自分に恋人がいないことについて比較対象となる相手もなければ、気になる「人の目」もなく、からかってきて周縁化してくる相手もなかったということだ。

 だが、それでも、恋人がいないことはつらかった。それは、同時期にニート/フリーターであった私の友人たちも同じことだ。

「フリーターやニートになる前の大学時代まではホモソーシャルに所属していたので、その時に周縁化された経験や内面化した価値観が、その後にも影響を与えて、つらさを生じさせた」という解釈も、しようと思えばできるかもしれない。しかし、それはわたしの実感にまったくそぐわない。「恋人がいなくて寂しいなあ」とか「ハグとかセックスとかしたいなあ」とか「一緒にデートする相手が欲しいなあ」とか思うときに、若い頃にやったりやられたりしたいじりやからかいとかを思い出したりするわけじゃないのだ。恋人がいないから充たされない欲求と、その欲求が充たされないつらさは、わたしの内側から生じていた。恋人がいないことによって生じている問題や、その状況が恒常化した非モテになることで生じる問題の原因とは、内在しているものであるのだ。

 これはごく常識的で当たり前の発想でもある。むしろ、個人の欲求ではなく、男性集団からなされた周縁化や排除などの外側に問題があるとすること(すくなくとも、問題の主因が外側にあるかのように論じること)のほうが、不自然でおかしいはずだ。

 西井が問題を外在化させている理由については、以下のように書かれている。

 

……何かしら問題が起きた時、それが起きたのは自分のせいだ、と考えることを「原因の内在化」といい、いや相手のせいだ、と考えることを「原因の外在化」という。前者の場合、問題を解決するには自分を変化させなければならないということになり、当事者は今の自分を否定することになってしまう。一方後者の場合、自分を苦しめずに済むが、他人や社会はすぐには変わってくれないので問題はなかなか解決されないままになる。

それに対し「問題の外在化」は問題の原因を問わない。個人の抱える問題を何かの原因に帰属させるのではなく、問題そのものを個人から切り離して、一つの現象として捉えるのである。またその際、現象に名前をつける作業が重要となる。

(…中略…)

個人の中に問題があると見なすのではなく、距離を置いて眺めることで、問題を生起させているメカニズムや、問題が個人に与えている影響などを整理して考えることができる。そうして、問題に対して自分ができることと、できないことの見通しもたってくる。

(…中略…)

さて、ここまでのことを「非モテ」の議論に当てはめてみる。「非モテ」という苦悩の原因を内在化させた場合、それは第一章で確認した「ラベリングとしての非モテ」のように、自分の身体や性格の特徴や傾向が苦悩をもたらしているという説明になる。もしかしたらそのせいで、過度な劣等感に苦しむことになるかもしれない。

一方、「女をあてがえ」論のように自分の苦しさをもたらすのは女のせいだ、と決めつける論理は「原因の外在化」と言えるだろう。当然ながら女性の意思を無視してパートナーシップを結ぶなど不可能であり人権侵害的な論理なので、なんの展望も見込めない。

その点、この「問題の外在化」という手法を応用すれば、自身の苦悩の原因を特定の説明に還元してしまうという危険性を回避しながら、「非モテ」の苦悩の背景や、発生のメカニズムを細かく探れるのではないか。

以上のような「問題の外在化」(当事者研究)の実践の蓄積と思考をもとに、私は「非モテ」男性同士が主体的に自己を探る共同研究の場を立ち上げた。

(p.37 - 39)

 

 率直に言うと、わたしには、西井の言う「問題の外在化」とは「問題のごまかし」でしかないように思える。

 西井が「原因の内在化」および「原因の外在化」を否定しているのは、「それらは正確な原因でないから」といった事実に基づく理由ではなく、「それらがよくない結果や結論をもたらすから」という規範に基づいた理由であることに注意してほしい。

 たとえば、ある人が非モテであることの原因はその人の「身体や性格の特徴や傾向」にあることが事実だと仮定しよう(というか、実際問題として、多くの非モテの原因はそこにあるでしょう)。たしかに、その事実を当人に突きつけたら、当人は「劣等感に苦しむことになる」だろう。そして、事実を突きつけたところで当人がそれを改善することが不可能であるという場合には、無用に当人を苦しめるだけというだけになる。だから、当人には事実を伝えないということも、規範的な選択としては全然アリだ。むしろ、「問題の原因はあなた自身ではなく、男性集団から排除を受けたことにあるんですよ」と言ってあげるほうが、当人としては気休めになってよいかもしれない。……でも、事実は事実であり、劣等感に苦しませることを避けるために別の原因を強調したところで、その事実が消えるわけではない。

 あるいは、ある人が非モテであることの原因は、女性側の選択にも原因があるかもしれない(かもしれないじゃなくて、原理的に、女性側の選択は、ある人が非モテである/恋人がいないという状況を構成する一因である)。そして、西井が危惧しているように、「女性側にも原因がある」という指摘は「女性側にも責任がある」という発想に飛躍して「女をあてがえ」論に結びつきがちではある。でも、それは、原因(事実に関する問題)を責任(規範に関する問題)に飛躍させて論じる人が短絡的で間違っているというだけの話だ。それはそれとして、女性側には責任はなくても原因があることが事実だとすれば、その事実にはごまかさずに目を向けるべきだ。

 あるいは、どちらも事実ではなく、非モテの苦悩の主因はほんとうに「男性集団からの周縁化」などにあるかもしれない。しかし、それを主張するためには、一般的な通念や自然な発想からして「主因である可能性が高そうだ」と思われる他の原因(男性の身体や性格に関する特徴、女性の選択など)が、実際には主因ではないということを示す必要がある。わたしが読んで判断した限り、『「非モテ」からはじめる男性学』ではそのような作業が充分になされていない。

 とはいえ、これは西井の論じ方とか書き方とかが特に悪いというよりも、ジェンダー論や社会学一般に、そして近頃のサヨク的言説一般に見受けられる傾向だ。つまり、「自己責任論はダメだ」「女性に原因があると示してはいけない」といった一連の規範があらかじめ定められており、その規範に抵触する可能性のある事実について明言することも避けながら、許されている範囲内で議論を展開する。こういう議論は、間違っているとか正しいとか以前に、わたしにとってはまったく面白くない。

 それでも、問題について細かく・複雑に・繊細に分析することで、これまで見過ごされていたなにかしらの原因が発見されて、それに応じた新しい対策も考案できるなら、そういう議論にも意味や価値はあるだろう。とはいえ、「問題の繊細で複雑な分析」と「問題のごまかし」の境目は曖昧なものだけれど。

 

 また、一般的な「男性集団」を悪しきものとして描き、それに対比するかたちで「ぼくらの非モテ研究会」を良いものとして描く傾向も散見される。どちらかといえば一般的な「男性集団」のほうに所属しつづけてきたわたしとしては、これはあまり愉快ではない(というか、イラッとする)。

 

……「非モテ」男性はこれまで所属した男性集団の中で些細な傷つきを蓄積しながら疎外感を抱いてきた。そこは構成員同士でお互いにまなざしを向け合う閉鎖的な空間であった。しかし、ボランティアを始めたり、学校の外に目を向けたりすることで偶然たどり着いた新しいコミュニティで、これまでとは違う他者との関わり方に遭遇する。語りや活動が否定されずに受け入れられ、その語りや活動そのものによってつながること。この関係性がもとになったコミュニティの中で、「非モテ」男性の苦悩は和らいでいく。

(…中略…)

非モテ男性が「仲間入り」しようとした集団は人間に序列をつくる競争関係にあり、そこに身を置き続ける限り、男たちは常にお互いを見比べて劣等感と疎外感にさらされるか、もしくは他者を貶める危険性を孕む。しかしここで語られた同じ方向を向きながら共有体験を重ねる仲間関係は、彼らの苦しさを解放し、新たな対人関係のあり方を開く。

(p.160 - 161)

 

 実際のところは、一般的な男性集団であっても、みんながみんな互いに貶めたり劣等感を抱きあったりするものではない。競争的な男性同士でも互いに序列を作るとは限らず、「あいつはこれができてすごいし、おれはこれができてすごい」と言った感じに互いの良さを見つけ合う関係性に落ち着くこともある。互いに競争することで切磋琢磨しあって成長しあうことのメリットも否定できない。いじりあったりからかいあったりすることにすら、それについていける人であれば「楽しさ」を感じられるものだ。

 そのような男性同士の自然な人間関係(≒友情関係)を否定して、代わりに、疎外されたものが「語りあう」ために集まった人工的なアジールのような関係性が持ち上げられることには、わたしにはどうしても違和感が残る。

 

 とはいえ、「男性同士のケア」が流行っている昨今では、『「非モテ」からはじめる男性学』で描かれている非モテ同士の関係性は、ウケが良くて好意的に評価されるんだろうことは想像に難くない。

 昨今の日本における男性学では、澁谷知美や江原由美子などによる「男はつらいよ男性学」批判を想定しながら、「男性特権が実在する」や「女性のほうが男性よりも社会的に抑圧されたり周縁化された集団である」といった前提を真として、女性の受けている差別や抑圧について幾度も触れながら、隙間を縫うようなかたちで「男性のつらさ」を語らなければならない*2。西井はこの作業を上手に完遂しており、澁谷からも太鼓判をもらうことができている*3

非モテの苦悩を「男性集団からの周縁化」に着地させることは、たしかに、フェミニズム的には百点満点の回答にはなっているだろう。主流派の男性集団(そしてその集団を構成する個々の一般男性たち)を「悪い」ことにしてしまえば、そこから漏れている男性たちの「辛さ」を語ることは、フェミニズムでも許容されるからだ。

 だからこそ、わたしは、女性読者たちのほうにチラチラと目配せしてお許しを伺いながら書かれているかのような言い訳がましさを『「非モテ」からはじめる男性学』に感じてしまうのだ。同じことは、ここ数年に出版されたその他のニューウェーブ男性学の本たちに対しても感じているけれど。

 

*1:

b.hatena.ne.jp

*2:たとえば、この本の直前に読んだ『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』もそうだった。

 

 

*3: