道徳的動物日記

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ハーバーマス(読書メモ:『いまこそロールズに学べ:「正義」とはなにか?』)

 

 あとがきで著者が「ロールズ研究者はミイラ取りがミイラになりがちだ」と述べたうえで、著者自身はミイラにならずにロールズとの間に一定の距離を保ちながらも、彼の理論をあっさりとだが丁寧に解説してくれる、という入門書。文章のスタイルのために印象や記憶に残りにくいのは難点だが、『正義論』などに関するニュートラルで標準的な理解を得るための本としてはおそらく最善のものだ。

 ……とはいえ、あまりにニュートラルで淡々としているために、コメントすることはほぼ思いつかない。

 

 ロールズからはトピックがずれてしまうが、この本でわたしの印象に残ったのは、ハーバーマスによるロールズ批判のくだり。

 

ハーバマスは、「無知のヴェール」のように、情報制限する思考実験装置を使うのではなく、自らの討議倫理学のように、全ての他者のパースペクティヴから考えることを各参加者に要請しながら、強制のない開かれた討論を行うことを通して、一般化されるべき利害(genralizable interests)に対する共通のパースペクティブを共同で構築するやり方の方が、理論的にすっきりしているのではないかと示唆している。

 (p.239)

 

「無知のヴェール」はあくまで思考実験装置なので『正義論』の外で振りかざせるものではなさそうだが、上記に説明されているハーバーマスの「討議倫理学」は、世間で行われる議論一般について理想として当てはめられそうなものだ。

 また、、自分のことだけでなく他者のパースペクティヴからも考えること、それによって共通のパースペクティブを共同で構築することを目指すという考え方は、ミルの『自由論』にもつながりそうな、リベラリズムの理想だと言える。そして、昨今に蔓延しているアイデンティティ・ポリティクスでは、「自分たちのパースペクティブは自分たちのものであり、他者にわかるものではない」という主張と、それを裏返した「他者のパースペクティブなんて考える必要はなく、自分たちのパースペクティブだけを考えればいい」という開き直りが前提となっている。

 最近にリベラリズムや政治理論の勉強を初めて気付かされたことのひとつは、(英米の)標準的な正義論や政治理論とは「悪」を想定するものではなく、すべての関係者に「利害」や「事情」があることを認めたうえでその優先順位を決定したり調停の手段を考えたりするためのものである、ということだ。一方で、昨今のポリティカル・コレクトネス的な発想とは、「悪」とされる人やグループを指定して、彼らの利害や事情は調停や順位付けの対象にもならない、と主張するものである。

 この辺りに、「まとも」なリベラリズムとそうではない「リベラリズムの皮を被った反自由主義」との違いがあるのだろう*1

*1:ジョセフ・ヒースの師匠がハーバーマスであることは、ヒースによるリベラリズムカウンターカルチャー批判を理解するうえでも重要になってくるはずだ。

econ101.jp

「がんばっている人」のための正義論?(読書メモ:『ロールズ正義論入門』)

 

 

 

 ここ最近はロールズの入門書をいくつか集中的に読んでいるが、そのなかでもこの本はいい意味でロールズの「信者」が書いたという趣があり、ロールズの議論について内在的に理解して読者に伝えようとしている意志や熱意が伝わってき、おもしろく好感も抱けた。

 著者は、『正義論』を具体的な政治や社会政策に関する本ではなく「哲学書」として読む、というスタンスを貫いている。そのために、特定の政治的・政策的目標のためにロールズの主張を都合よく解釈したり緩めて理解したりするということをしない。たとえば世間的にはロールズの主張は福祉国家を支持するものだと受け止められがちであるが、ロールズが認める経済政策はあくまで「財産所有の民主主義」のみであり、自由を制限する共産主義を認めないだけでなく、市場原理主義どころか福祉国家主義も資本主義を許容するものであるから認められない、ということが指摘されるのだ。

 また、「善の多様性」を肯定しているはずのロールズの議論が、彼自身の人間観を原因として、ある種の「卓越主義的」なものとなっている、というところが強調されているのもおもしろい。

 

ロールズが最も重要と考えるものは「平等な自由」である。そしてこの自由は人間の本性が完璧に発揮される状態である。じつはこの時点で、ロールズはひとつの人間観を前提にしている。

ロールズは自由を「なにも拘束のない状態」とは考えておらず、むしろ「人間が最も人間らしい状態」と捉えている。これはロールズが「人間であるならば、こうあらねばならぬ。こうあるはずだ」という特定の価値観にもとづいていることを示す。

人間が人間らしくあるとは、その精神を最大限に活用することであり、それを他人と共有することであり、他人と交流することでさらにその能力を伸ばすことである。そして他人と関わる以上、関わり方についてのルールを合意にもとづいて決めることであり、そのためには精神的にも身体的にも他人の支配下に入ることなく、他人との合意の結果である法律によって守られるということである。

(p.4)

 

 

性別(女性)、人種(アフリカ系)、宗教(イスラム教徒)という理由で差別され、男性、白人、キリスト教徒と同じ機会が与えられないと、それは前者の人たちの、自由で平等な市民としての尊厳を傷つけることになる。さらに、公平な機会の平等を得られないことは、自分の技能を駆使して到達する自己実現の場を奪われたことと同じである。自己実現こそ人生の目標だから、その機会がないことは人格を否定されたことに等しい。

背景にはロールズ特有の価値観がある。ロールズは人間を、持って生まれた才能を駆使して、みずからに磨きをかけていく存在だと捉えている。そして天性を伸ばしていくために、人間は自由と権利を有していなければならない、ということが、ロールズが「平等な自由」を理論の根幹に据えている本質的な理由である。

(p.59)

 

 

「善」はその人に利益を与えるものであり、価値のあるものであり、人生を充実させるものである。だから「善」と「価値観」は同じことであるが、「善」は諸価値の総体であり、かつそれらを実現するための手段をも含んでいる、抽象的で包括的な概念である。価値観はより個別な目的を指すとともに、人生の究極的な目標を意味することもある。「年末までに一〇キロ痩せる」も価値であるが、宗教のように人生すべてを統括するものも価値に入れられる。「善」はひとつであるが、価値は複数あるから、全部を一度に達成できないならば、そのあいだに優先順位をつけなければならない。

ロールズの重要なところは、ロールズが特定の人生観を描いていることである。ロールズにとっては、人びとには必ず「理想の人生」があり、それは努力して勝ち取るべきものであり、そのために求められる技能は卓越したものでなければならない。人はより上に、上に向かわなければならない。人が生きるのはそのためであり、それを効率的に成し遂げるために人は合理的である、ということになる。

(p.115)

 

ロールズは特定の人間観にもとづいて理論を展開しているが、ロールズは体力があるならば人は働くべきであると考えている。これは、働いても働かなくても政府が最低限度の生活保障をしなければならないのかどうか、という議論とは、ひとまず関係ない。

ロールズは、正義の二原理が創り出した秩序ある社会は社会的協力の場であると考えている。人びとは自由と権利を含む社会的基本財という道具を用いて、それぞれが理想とする人生の目標を追求すればよいが、なにかを成し遂げるためには、ほかの人たちとの協力は欠かせないので、社会に貢献することを勧めている。働くことは、その重要な部分である。ロールズは「卓越性」を重視しているが、その考えはここにも反映されている。

ロールズは「自分を価値ある存在」と見なすことができる独立した存在であるためには、意義があって自信を持てるような仕事に携わることが重要であると考えている。さらに、人びとが正義にかなっていて公平な社会的協力に関わっているならば、人びとには自分の役割を果たす義務があるとも考えている。自分は貢献しないけれども、ほかの人が努力して創られた成果はいただく、ということは悪いことである。

(p.202 - 203)

 

人びとに本性として「卓越性」願望が具わっているならば(ロールズはそう信じている)、人びとは正義の感覚を肯定することで、みずからの「自由・平等・合理性」の本性を外に対して表現することになるが、この行動はその人にとって合理的である。

「卓越性」願望が具わっていることで、(自由と平等が保障されている)秩序ある社会では、自分の本性を表現することは、その人の「善」の中心に来る。この心理傾向によって、人びとは行動を選択する際、「正しいこと」を優先するようになるが、これは単に「正しい」からしているというだけではなく、自分にとって心地よい(つまり「善))からでもある。

(p.240)

 

 また、この本では、「理性」と「合理性」といういかにもややこしそうな二つの能力の違いについて実にわかりやすく整理されているのがありがたいところだ。原初状態を「オリジナル・ポジション」と表記したり、「モラル・パワー」というカタカナを使うなど、訳しづらい言葉はそのままカタカナにして説明するという点も優れていると思う。

 

ロールズにとって「自分を価値ある存在」と見なすための社会的基盤は、人びとに自信を持たせるために必要な仕組みである。自信とは、社会における自分の位置は他人から敬意を示され、かつ自分の「善」は追求に値するものと他人から見られることである。その具体的な内容は歴史と文化で異なるであろうが、ロールズが民主主義社会において中心になると考えているものは、平等な政治的自由と、公平な機会の平等である。

オリジナル・ポジションの下にいる人びとは、社会的基本財の、適切な分け前を欲しいと思っている。というのも、社会的基本財が、人生の合理的な計画の達成と、ふたつのモラル・パワー(理性と合理性)の発揮に必要だからである。だれもが、すべての目的に使える社会的基本財を求めるが、それは少ないより多いほうがよい。そして社会的基本財を求めること自体が合理的な動機である。

整理すれば、オリジナル・ポジションの下にいる人びとは、人生に意味を与えるような人生の合理的な計画を遂行する、という意味で、形式的に合理的である。その人生の合理的な計画の一部として、人びとは、ふたつのモラル・パワー、すなわち「正しさ」を見分ける「理性的であること」と「善」を追求する「合理的であること」という能力を使って、さらにその感覚を伸ばすという実質的な関心を持っている。

(p.126 - 127)

 

 もちろん、ロールズは「これこれこういう善は他の善よりも優れている」と指定してそれを他人に押し付けようとする、という意味での「卓越主義者」ではない(むしろその種の主張を否定するのがロールズリベラリズムの本懐であるはずだ)。

 しかし、「善」の「中身」の多様性は認めても、「善」の「追求のされ方」について<人びとには必ず「理想の人生」があり、それは努力して勝ち取るべきものであり、そのために求められる技能は卓越したものでなければならない。人はより上に、上に向かわなければならない。人が生きるのはそのためである>とすることは、それ自体が「善の構想」や生き方としてとり得る形にかなりの束縛や制約を課すという点で、卓越主義的な発想であるはずだ。「がんばらない人生にも価値がある」「向上心を抱かずにダラダラと趣味や娯楽に明け暮れて過ごしてもいいんだ」的な発想は却下されるわけだし、ほどほどに追求していればそのうち達成されるような目標が「善」となることもないだろう。現在に多くの人々がとっている生き方は否定されて、特定の「理想」は押し付けられなくても、「理想を追求する生き方」が押し付けられることになる。

 この本の著者も冒頭で危惧を示しているように、『正義論』を「哲学書」として、ロールズの価値観を内在的に理解しながら読むことには、これまでに「ロールズって自由を肯定するし福祉国家も支持するんだからいいじゃん」とやんわり思っていた読者をロールズから遠ざけてしまうおそれはあるだろう。福祉国家に比べるとロールズの提唱する「財産所有の民主主義」はおよそ経済政策としての現実味がなさそうだし、人間としての卓越性が強調されて、生き方や価値観がなんでもかんでも「善」と認められるわけではないことを「窮屈だ」「偏狭だ」と思う読者も多いはずである。

 

 とはいえ、ほどほどの目標やダラダラした生き方ではなく前向きに努力することを是とするロールズの卓越主義っぽさには好感が抱けるところもある。「がんばれない人」や「がんばらない人」のことを甘やかす議論ばかりが大手を奮っている昨今では、「がんばっている人」のための正義論を唱えるロールズの主張は新鮮だ。

「自分は貢献しないけれども、ほかの人が努力して創られた成果はいただく、ということは悪いことである。」や「…なにかを成し遂げるためには、ほかの人たちとの協力は欠かせないので、社会に貢献することを勧めている。」というあたりは、「サンデルによる「ロールズメリトクラシーだ」という批判にもつながってくるかもしれない(メリトクラシーは「能力主義」ではなく「功績主義≒貢献主義」という訳語の方がふさわしいので)*1。しかし、サンデルの本に関する書評記事でも書いたように、メリトクラシーはそれは私たちの正義の感覚に適っているがゆえに、魅力があるし、それを抜きにした規範も社会もあり得ないとも思う。

 また、一般的には徳倫理と関係があるコミュニタリアニズムを主張しているサンデルが『実力も運のうち』のなかで卓越性の価値を実質的に否定していた一方で、徳倫理と相反するはずのリベラリズムを主張するロールズのほうが卓越性を重視している、というのもやはり新鮮だ。

 

 ……とはいえ、ロールズが「政治的自由」を最重要しているあたりは、わたしとしてもあまり受け入れられない。サンデルにせよロールズにせよ、「そりゃ君たちは政治学者なんだからそもそも政治が好きだろうし政治が重要だと言わないとご飯食べられなくなるから政治を重要視するだろうけれど、ふつうの人にとって政治はそこまで(他のなによりも優先されるほどに)重要なの?」という疑問はやっぱり抱いてしまう。

 倫理学者のなかには「倫理なんてない」「道徳なんてなにも重要じゃない」というスタンスの人が一定数いる一方で、「政治は重要じゃない」というスタンスの政治学者はほぼいないところも、なんだか気になるところだ。

 

読書メモ:『神はなぜいるのか?』

 

 

 

写経。

 

●超自然的行為者と道徳的直観

 

道徳的直観は、社会的相互作用のための私たちの心的傾向の一部をなす。では、なぜ、それらが神や霊や先祖と結びつくのだろうか?それらの超自然的存在が道徳的理解とどう関係するのかを知るために、前に述べた二つの事実について考えてみよう。第一に、幼い頃から、私たちの道徳的直観は、行動の善悪は行動それ自体にあって、それをだれが考えるかや、どの立場から見るかに依存しないということを示唆する。第二に、神や霊や先祖は一般に、法やルールを与える者としてよりは、道徳的選択や道徳的判断における関係者とみなされている。これらのことは、実は同じ心的プロセスの二つの側面である。

(p.246)

 

…私たちの道徳的理解の構造は、神や霊の概念をより適切なものにするが、道徳的理解をもつのに、とくに神や霊が必要なわけではない。ここで言う適切とは、神や霊の概念が、いったん道徳性という文脈におかれると、表象するのが容易であり、多くの新しい推論を生み出すということである。たとえば、ほとんどの人は、道徳に反するように思えることをした時には、罪悪感を抱く。すなわち、自分に都合のよいどんな正当化をしようが、その状況についてすべてを知っている存在なら、それを悪のほうに分類するだろうという直観をもつ。ここで、この直観を「私がしたことについて先祖が思うこと」や「私がしたことについて神がお感じになること」に置き換えると、きわめて漠然としていたことが簡単に表象される。すなわち、私たちの道徳的直観のほとんどは明快だが、私たちにはそれらの起源がわからない。というのは、その期限が意識的にはアクセスできない心的処理のなかにあるからである。これらの直観をほかのだれかの観点として見ることは、なぜ私たちがこれらの直観をもっているのかを理解する簡単な方法である。しかしそれには、戦略的情報をすべて知ることのできる行為者の概念が必要である。

以上のことは、[神や霊に関して]なぜ「関係者」という考えが、人々の実際の思考のなかで「立法者」や「鑑」との結びつきよりもはるかに広まっていて有力なのかを説明する。関係者モデルでは、神や霊は私たちのすることについてあらゆる関連情報を知ることができ、それゆえ私たちが直観的に得る道徳的見解を彼らももっている、と考える。最初に述べたように、宗教的規範や手本は、文字通り人々の道徳的思考の起源ではありえない。道徳的思考は、異なる宗教的概念をもった人でも、そうした概念を持たない人でも、驚くほどよく似ている。さらに、これらの思考は、当然子どもでも生じるが、子どもはそれを超自然的行為者に関係づけることはない。そして、宗教的な人々でさえも、道徳的問題についての思考は、規範や手本によってよりも、ほかの人と共有する直観によって制約されている。

まとめると、次のようになる。協力行動をとる種としての私たちの進化の点から、道徳的推論において実際に起こっている心のはたらきーー子どもやおとなが行為の道徳的次元を表象するしかたーーは、十分に説明できる。そしてこれは、宗教的行為者という特別な概念も、特別な規範も、従うべき手本も必要としない。だが、戦略的情報をもった超自然的行為者の概念をいったんもってしまうと、すでにある道徳的推論に宗教的概念などを容易にはめ込むことができるため、宗教概念、規範や手本は、より顕著で適切なものになる。ある意味では、宗教的概念は道徳的直観に寄生している。

 

(p.248 - 250)

 

●現代で原理主義者が登場する理由

 

宗教に話を戻そう。私が示そうとしたのは、共同体を作る上で、あるいは効力のある信頼を築く上で、神々や霊についてなにも特別なことはないということである。しかし、そこで終わるわけにはいかない。というのは、そこには、宗教集団のメンバーが自分の仲間には私心のない協力を提供し、ほかの宗教や宗派のメンバーを危険だとか不快だとか人間以下だとかみなす時の極度の熱狂の説明がないからである。答えは、人間の連帯形成能力とその能力の柔軟性にある。これに関わる心的システムは、宗教的概念だけに特化しているわけではないが、ある状況では、宗教的概念は、どんな場合に連帯が期待されるかをかなり正確に示すものになる。

このことは、なぜ多くの宗教集団が、交渉の余地をほとんど与えずに、根本的な選択として所属を強調しようとするのかという理由なのかもしれない。宗教団体のなかのあらゆる種類のメカニズムが、人は永遠にそのメンバーなのだというこの意味を強化する。もちろん、たいていの社会では、「選択」があるというのは理論上のことである。つまり、サウジアラビアに生まれたなら、人はイスラーム教徒になることを「選んだ」り、イスラーム教徒の共同体、ウンマと一体感をもつことを「選んだ」りするわけではない。同じく、アメリカ合衆国では、キリスト教徒になることに選択の余地はほとんどない。しかし、ここでの要点は、どの場合も、人はそのアイデンティティを表明したいと思う程度を変化せることができ、それを連帯への関与や連帯の利益の源にすることができる、ということである。ある者は、浅い関与の戦略をとり、メンバーであることを認め、さまざまな税を支払い、メンバーに要求されるさまざまなことを行うが、その程度だ。別の者は、深い関与の戦略をとり、自分の忠誠を表明し、しばしば信仰のためなら驚くべき行為を進んで行い、そしてその見返りとして富、権力、威信、そしてほかのメンバーからの連帯の保証を手にする。さらに、別の者は、より危険な道を選び、集団のために喜んで人を殺したり、自分の命を投げ出したりする。

 

(p. 376 - 377)

 

…人間が自分たちの集団の共通の「文化的価値」を保持したいと自然に思うというのは、完全に自明なわけではない。なぜそうしたいと思うのだろうか?その動機はなんだろう?私たちはふつう、人々が自分たちの文化を守ろうという強い願望をもつのは、自分たちの文化がアイデンティティの感覚と連帯感とをもたらすからだ、と考える。しかし、これは論点先取である。先に述べたように、ある条件では、文化的な概念や規範には、そのように用いられるものもあるが、すべてがつねにそうであるとは言えない。この欲望が暴力につながるというのも、さらに自明ではない。それはまさしく、私たちが説明しようと思っていることだからだ。

原理主義者の反応をもっとよく理解するには、宗教的な環境において現代的影響のなにがそんなにも許しがたいのかをより詳細に記述し、原理主義者の反応が連帯のプロセスの問題だということを考慮するとよい。現代世界からのメッセージはたんに、ほかの生き方も可能であること、ある人たちは信じなかったり、別のことを信じたり、あるいは宗教的道徳に縛られていないと感じたりすること、あるいは(女性の場合には)男性の承認なしに自分で決定をくだすことができるということ、だけではない。メッセージはまた、人間は高い代価を払わずにそれができる、ということでもある。信仰をもたないものや別の信仰の信者は、排斥されない。法を遵守するかぎり、宗教的道徳に従わないものも通常の社会的地位をもつ。そして女性は、男性の庇護がなくても、目に見えるような悪い結果をこうむることはない。この「メッセージ」はあまりに自明に見えるので、これが連帯的思考にもとづく社会的相互作用をいかに深刻に脅かすのかを私たちは認識できない。宗教的連帯の視点から見ると、現代的状況においては、多くの選択が高い代価を払わずになされうるという事実は、離脱は高くつかないし、それゆえ離脱が起こりやすいということを意味する。

 

(p.380 - 381)

 

●結論

 

私は、宗教を、すべての人間の心のなかにあるシステムの点から説明してきた。それらのシステムは、貴重で興味深いあらゆる種類の仕事をするが、本来は宗教的概念や宗教的行動を生み出すためのものではない。宗教の本能といったものはないし、心にそういった特殊な傾向もないし、宗教的概念のための特殊な性質もない。脳のなかに宗教の中枢があるわけでもない。信心深い人は、そうでない人と基本的な認知機能において異なるわけではない。信仰や信念は、概念や推論が宗教以外の領域ではたらく時と同じようにはたらいた結果にすぎないように見える。

宗教的な心の代わりに、私たちが見出したのは、いくつもの見えざる手という物足りなさの残るものだった。これらのプロセスのひとつは、人の注意を、特定の概念の可能な組み合わせに向けさせる。また別のプロセスは、それらのうちのいくつかの想起を強める。また別のプロセスは、もし行為者の概念が戦略的情報をもつ者や道徳との結びつきなどを含んでいるのなら、それらの概念をはるかに獲得しやすくする。心のなかの多重の推論システムの見えざる手は、これらの概念と生活のなかの際立った出来事との間にあらゆる結びつきを生み出す。文化的淘汰の見えざる手は、人々が獲得し伝達する宗教的概念を、その環境のなかで、もっとも説得力をもつように見えるようにするのだ。

これが物足りないことだというのは、宗教が私たちの脳の単なる結果や副産物として描かれていて、これはとりたてて劇的なものではないからである。しかし宗教そのものは劇的であり、多くの人々の生きる支えであり、きわめて感情的な体験に関係し、人を殺人や自殺に駆り立てることもある。私たちは、劇的なものごとの説明も同様に劇的であってほしいと思いがちである。似たような理由から、宗教に憤慨し宗教を拒絶する人々も、彼らには大いなる誤りに見えるものの唯一の原因ーーきわめて多くの人間の心が道を誤る、いわば分岐点ーーを見つけようとする。しかし実際には、そういった単一の地点などない。なぜなら、宗教的概念に説得力をもたせているのは、さまざまな認知プロセスの共謀だからである。

もちろん、私がそれをよいことと思っているのに、物足りないこととして述べたのはちょっとずるすぎたかもしれない。私たちが隠れた手や簡潔なデザインを見出せずに、代わりに調べ方のわかっているさまざまなプロセスを見出すということは、科学の営みにおいては時折あることであり、それはつねによい方向を向いている。この進展は、認知プロセスのことがよくわかっているので、宗教をよく理解できる、ということだけではない。逆にそれは、人間のもつ宗教的思考の傾向を研究することによって、私たちの心のしくみの多くの魅力ある特徴を浮き彫りにし、それらをよく理解できるようになる、ということでもある。これらの複雑な生物学的機械がどのようにありもしない幻に居場所と名前を与えるのかを理解すれば、それらの機械についても多くのことが明らかになるはずである。

(p.427 - 428)

 

読書メモ:『自由原理:来るべき福祉国家の理念』

 

 

 あまりコメントすることがないので、覚えておきたい箇所の「写経」みたいな記事になっちゃいます。

 

ヌスバウムのケイパビリティ論について

 

第一に、アリストテレス的な社会民主主義の文脈におけるケイパビリティ・アプローチは、人間的な善を、客観的かつ包括的に把握するため、ケイパビリティは、人々の欲望とは独立して促進するに値するものとされる。不平等と差別の構造は、人々が選択したり価値を置いたりする際の理由を歪めているかもしれず、人は自己の欲望に基づいて正しい判断をすることが難しいからである。これに対して、ロールズ的な政治的自由主義の文脈におけるケイパビリティ・アプローチは、人間的な前についての客観的な把握を退ける。その場合のケイパビリティ・アプローチは、各人が自分で自分の善き正を選びとる能力とみなされ、そのような能力をもった人々が、政治的な意思決定に参加することが望ましいとされる。潜勢的可能性としてのケイパビリティは、そうした選択の背後に前提とされる、ケイパビリティの選択肢集合を与えるものとして位置づけられるだろう。

ただし、政治的自由主義が想定する「善き生の選択能力」としてのケイパビリティは、その能力を政治的自由のための手段とみなすが、潜勢的可能性としてのケイパビリティは、それ自体が善き生の理念であり、政治的自由を実現するための手段を超えたものとみなすであろう。それは人間の内的ー生成に関わる善き生であるがゆえに、無限に促進されるべきものであり、またそのような可能性を秘めたものとして肯定されなければならない。さらに、潜勢的可能性としてのケイパビリティは、他のケイパビリティを発展させる作用としても、肯定されなければならない。新たな人間的善の生成を促すことは、人間的世界の多様性を促すと同時に、人間の潜在能力を最大限に発揮するという理想に近づく。潜勢的可能性としてのケイパビリティは、新しい善の可能性を拓き、その生成を促すという観点から促進される。……(中略)……

第二に、アリストテレス主義は、ケイパビリティに基づく善き生の実現を義務として捉え、各人は、善の客観理論を構成するケイパビリティを、実現する機械をもたなければならない、と考える。その場合の機能のリストは、善き生の構成要素であり、それは、人間の生活にとってなにが最も価値あるものかについての評価的な探求から生まれ、ある一定の文脈のなかでは客観的に同定されるとみなされる。これに対してロールズの政治的自由主義は、ケイパビリティを権利のための道徳的基礎であるとみなし、人びとが自分で望んだ生活を自由に探究するために必要なものとみなすだろう。その場合のケイパビリティのリストは、どんな特定の善理論にも依拠しない。それは、人々の評価的な探究によって導かれるのではなく、人々のあいだで重なる合理によって特定されるべきである、とみなされよう。

ここで注目すべきは、権利としてのケイパビリティのリストが、人々の重なる合意によって導かれる場合、そのリストの中身が、各人の探求と選好に応じて、無限の可能性に開かれているという点である。……(後略)

 

(p.125 - 126)

 

 

●「器のなかの卓越主義」

 

J・S・ミルの場合、もしある高次財(例えばクラシック音楽)を経験した人のほとんどがそれをよいと認めるならば、その高次財はウェルビイングの観点から共有されるべきであるとみなされる。このような判断の背後にはおそらく、人々はそのような高次財を享受するために、人格を陶冶することがふさわしいという信念があるだろう。しかしこのように、人格の理想(「人間的完成の理想」)に照らしてウェルビイングの程度を測るよりも、むしろ各人が自分で自分の器を評価し、バランスのとれた仕方で理想を求めるほうが望ましいのではないか。各人は自分の器に照らして、ある程度まで人格の理想を追求し、ある程度まであきらめた方が望ましいのではないか。グリフィンは、ミルやシジウィックの功利主義を補うために、「深慮ある卓越主義(prudential perfectionism)」という立場を展開している。すなわち、各人がどれだけ人格を陶冶することができるのかという器に照らして、ウェルビイングを判断するという考え方である。

グリフィンによれば、「諸々の器の異なるコンビネーション、あるいはさまざまな程度の器をもった人々」は、それぞれの処世術的価値にしたがって、よりよい状態に至ることができる。器の大きい人は、すぐれた能力の実現、すなわち卓越の基準を自分の内的動機として取り込むだろう。器の小さい人はそれほどでもないだろう。こうしてウェルビイングの基準は、グリフィンにおいては各人の器の程度に応じて設定され、その器に即して各人に機会を与えることが望ましいとみなされる。

(……中略……)

自分を知るとは、自分の器を知ることである。ウェルビイングをめぐるグリフィンの立場は、このような人生理解から、各人がその器にふさわしい実践をすること、自分の器を満たすこと、あるいはその器を従前に機能させることが望ましいと解釈する。しかし私たちが自分の器について無知であり、器の大きさが不明確であるとすれば、どのように対応すべきなのだろうか。

 

(p.243 - 245)

 

現実逃避としてのケア論(読書メモ:『「格差の時代」の労働論』)

 

 

…労働や生産性を人間にとって最も重要な価値であると規定し、そうした価値を促進すように社会の諸制度は編成されることを唱導する「労働中心主義社会」も、まさしく卓越性原理に基づく社会であると考えることができるのだ。

『正義論』を執筆した中期のロールズは、こうした労働中心主義社会に反対していた(社会の効率や生産性よりも正義の実現の方が優位にある)。…

(p.185)

 

もしこれらの利益(自尊心、社会からの承認、疎外感の克服、健康)を与えてくれる活動が労働以外にもあるならば、「社会が雇用主」となる必要はなく、人びとがそうした活動を行うことを可能にするための、ベーシックインカム政策のみを政府は施行すればよいこととなる。問題は、今のところ、そうした活動は「労働」以外には無い、という点である。

(……中略……)

なぜ無いのか、またなぜ無いといえるのか。

それはこの社会が依然として労働中心主義社会だからである。

(p.202 - 203)

 

そんな社会情況のなかで、「労働中心主義」の呪縛から逃れるためには、つまりこの労働に対する過度の価値付与を修正するためには、労働を取り巻く環境の改善という現実的思考と、それと並行して労働の新たな意味づけという抽象的思考の両方を我々は模索しなければならないのではないだろうか。

 

そのための選択肢として、三つの立場を挙げうる。

第一に労働中心主義社会を保持したままで「労働の解放」を目指す立場。労働は人間の本質的な活動であるという近代的な考えを修正することはないが、労働環境の改善(職場の民主化等)を通じて、誰もが有意義な労働を行うことができるような状況を生み出す。(若き)マルクス主義、そしてサンデルの共和主義などがこれにあたる。

第二は、同様に労働中心主義社会を保持するが、ワークシェアや普遍的な所得保障を実現することで「労働からの解放」を目指す立場。労働には価値はあるが、辛い活動であり、有意義な余暇の時間をできるだけ増やすことによって古典古代の人間性の回復を志向する。ラッセルや今村仁司などがそれにあたり、ベーシックインカム論者の多くもこれを支持する。

第三はベーシックインカムを実現することを通じて、労働中心主義を解体し、働くことの意味を再構築した上で、生きるために低賃金でも働かざるをえないという状況から「有意義な労働への権利」、並びに「働かない権利」を制度的に保証するという立場である。これが、ロールズの主張する「財産所有の民主制」に基づきながら、私が最も望ましいと考える立場である。

 

(p.205 - 206)

 

「最も望ましい」かもしれないけれど、問題なのは、それに実現可能性があるかどうかというところだろう。ロールズの正義論はあくまで理想理論であり、具体的な問題については、何が望ましいかと言っているだけでは足りない。それに比べると、第一や第二の選択肢のほうが、程度問題ではあるがある程度の実現可能性はありそう(少なくとも実現を志向してはいる)という点でずっと好ましい。

 そもそも、「労働中心主義」が存在するとしてそれを解体することは可能であるのか、という問題がある。この本のなかでは「自尊」を重んじるロールズが「労働以外の活動からも人々は自尊の感覚を得ることができると考えていた」(p.184)ことが指摘されて、具体的には文化的活動や政治的活動が自尊や自己実現の元となることが述べられている。これは、この本やロールズに限らず、大体の政治学者や人文学者や学問ファンや本好きや怠惰なツイッタラーがこぞって述べているような、凡庸でありきたりな主張だ。そして、これだけ多くの人が「労働中心主義」の解体の必要性を唱えているにも関わらず、全く解体される気配がないことからは、やはり目を逸らしてはいけないだろう。

 

 この本の最終盤で著者が提唱するのが「絆としての労働」論だ。

 

換言すると、他者との社会的な絆を形成し、それを維持することを目的とする活動も<労働>と名付けられるであろう。たとえ、それが経済活動としては低レベルだったり、無意味だったりしても。そして、それこそが「正しい労働」ではないだろうか。

(p.216)

 

このように考えてくると「生きることは労働だ」という障がい者運動における主張も別様に解釈することが可能となろう。脳性マヒによって、寝返りを打つことさえも一苦労な状況にある人にとっては、生きていること自体が「労働」である、すなわち「骨折り(labor)」であるということをこの主張は含意していた。しかし、障がい者の生存のために介護や自立支援を行うことを通じて、人びとの間にネットワークが形成されることは、もう一つの側面から解釈すると<労働の発生>とみなしうる。生きていること自体によって人びとを結びつける活動を障がい者は行っているのである(同じことは乳幼児や高齢者にも当てはまる)。

 

(p.216 -217)

 

 上記の議論も、なんだか綺麗事というか「お題目」という感じが漂う。

 労働や生産性(≒経済)が関わる事柄について人間関係や絆(≒ケア)を持ち出したり「障がい者」を持ち出したりしながらなにかしらの「解釈」を提示してなんだか解決した感じにする、というのはここ最近の人文学ではすっかり定番の展開となっている。しかし、このテの議論は、経済に関する通常の議論が目を向けて扱おうとしているジレンマやトラブルから目を逸らすものでしかないように思える。

 高齢化社会が社会で大問題となっているのは、労働によって物品や富などのリソースを生産することができる人口の数が減り、自分ではリソースを生み出せず消費することしかできない人口の数が増えることで、社会全体で分配されるリソースの平均量がどんどん少なくなっていって人々の生活の質が全体的に下がっているという現状に不満を抱く人が多かったり、やがて社会が破綻することを危惧している人の数が増えていたりするからであろう。通常の経済活動がケア活動に依存していることが指摘されるようになって久しいが、その一方で、ケア活動も通常の経済活動に依存していることも忘れてはいけない。みんなが「他者との社会的な絆を形成し、それを維持することを目的とする活動」だけをしているわけにはいかないのだ。

 同じく、文化的活動や政治的活動をする人ばっかりの社会も、まともに機能するとは思いがたい。結局のところ、社会は「生産性」を必要としている。生産性を個人にとっての重要な「価値」と定義することは卓越主義につながってロールズ的にはダメかもしれないが、社会がある程度以上の生産を行い続けることが個人にとっても「必要」であることは認めるべきなのだ。……そして、社会における生産が継続するかどうかは、結局のところは個人の行動に委ねられている。

 

 このテの本では労働や経済活動が大なり小なり軽んじられたり憐れまれたりする一方で、ケア労働をしている人と障がいを持って生きる人は、文化的活動をしている人や政治的活動をしている人と並んで望ましい存在としてやたらと価値を見出される、というのもなんだか不思議だ。いろいろと理屈はつけられるが、最終的には象牙の塔に引きこもっている(ロールズを含めた)人文学者たちに特有の「生産性」嫌いや「経済」嫌いおよび「政治」好きと「文化」好きによるもの、つまりは趣味や嗜好の表明に過ぎないのではないか、とわたしは疑っている。

なぜ人類学者は人間の「共通点」ではなく「差異」を強調するか?(『ヒューマン・ユニヴァーサルズ:文化相対主義から普遍性の認識へ』)

 

 

 

 原著は1991年であり、スティーブン・ピンカーの『心は空白の石板か』の11年前に出版されたもの。当時における文化人類学が人間の「普遍特性」の存在を認めなかったり軽視したりすることを批判して、人類学において普遍特性をいかに扱って説明すべきであるか、ということが論じられている。

 

 この本で繰り返し指摘されているのは、異なる社会や異なる文化に生きる人たちの間の「共通点」や「差異」を文化人類学者が強調しがちであるということには、学問的な方法論やディシプリン以前の営利的な事情が関わっているということだ。

 

ここで述べてきた歪曲ーーとりわけ心の白紙(タブラ・ラサ)説ーーに関して、人類学者は全面的な責任があるわけではない。しかし、社会や文化による差異や決定を強調したいという人類学者の職業上の動機は、そう簡単には片づかない。社会や文化の違いの存在を示せば示すほど、そしてそれらが純粋に社会や文化の力学を反映していると論じれば論じるほど、社会・文化人類学者(あるいは社会学者)は、学問の世界と実際的な人間の営みにおける自らの役割をより正当化でき、その結果より多くの収入を得、より多くの聴衆を聴衆を講演に集めることができ、研究費も増え、書くものもより広く読まれるようになる。責任の一部は、直接人類学者が負うべきものだ。なぜなら、サモアでは思春期のストレスがないと報告したのも、チャンブリ族では性役割が逆転していると報告したのも、ホピ族では時間の概念がないと報告したのも、人類学者だからである。そしてこれらの報告を真に受け、人類が限りない可塑性をもっているという神話にそれらを織り込んだのもまた、人類学者である。なによりもこのことが、すべての文化に共通する規則性や客観的基準といったものは実質的には存在しないという立場をとる(あるいはそれにつながる)極端なかたちの相対主義に、実証科学の力を貸すことになった。

(p.275 - 276)

 

 また、「心の白紙説」や「人類も限りない可塑性」を強調する議論の背景には、ある種の道徳的・イデオロギー的な動機もあった。

 

[行動主義の創始者であるジョン・ワトソンの有名な言葉に関して]*1今考えてみると、個人差への環境の影響について述べたこの有名な言葉は、人間の心の「能力」を「モジュール(機能単位)」として見る見方の最も極端なものーー人間の心が数多くの生得的で高度に特殊化したメカニズムから構成されているという見方ーーとなんら矛盾しないのは明らかである。しかし、その時代の社会学者や人類学者は、ワトソンの論法になんの欠点も見出せなかったようであり、ワトソンと同様の結論を引き出した。すなわち、人間は社会や文化の産物であって、社会や文化を変えれば人間を変えることができ、社会や文化の力学を知れば人間の営みもコントロールできる。知的で科学的な社会化によって、人間は自分がなりたいものになることができる。こうした見方は、大勢の社会科学者のものの見方に合うだけではなく、さまざまな階層のアメリカ市民にアピールする、平等主義と科学に対する楽観的な信仰も具現していた。ワトソンは預言者として歓迎され、彼の考え方は、家族、労働力、産業、そして社会全般に関わるさまざまな問題を解決できるように思えた。

しかし、ワトソンは「すばらしい考えを提示した」が、その考えを支持するために示した実験的証拠は、ないも同然だった。[マーガレット・]ミードの『サモアの思春期』も、これに負けず劣らずすばらしい考えの例だが、この本の成功もこの文脈の中で見る必要がある。それは、際立って行動主義の主張を確証しているように見えたのだ。

(……中略……)

ミードの考えは、社会科学の教科書に長い間根を張った。その考えの需要は、人類学だけでなく、それをとりまく広範な領域において支配的になりつつあった思想をミードの考えが的確に表現していたことを反映していた。(文化相対主義などの)代表的な環境決定論と、社会科学を実際の社会問題に適用できるという楽観論との同一視は、現在にいたるまで影響力をもち続けている。

生物科学が社会科学の明確なガイド役とはなりえなかった時代に、こうした展開があったのは確かに、偶然ではない。ダーウィン的な考えは、それが社会ダーウィニズム全般に結びついたり、とくに優生主義に結びついたりしたために、汚されていた。さらに、進化論が一層の飛躍をとげるには、ダーウィンとメンデルの研究の統合を待たなければならなかった。R・A・フィッシャーの『自然淘汰の遺伝的理論』[1930]に始まるこうした統合が起きるまで、生物学の理論的展開に注意を向けた社会科学者はほとんどいなかった。

(p.107 - 109)

 

[1950年代前半に]続く十年ほどの間は、人類学の本流では普遍特性を一般に明示的に論じた著作の数は増えず、人類学の大部分で、大きな後退が見られた。戦争直後に湧き上がった普遍特性への熱がなぜ冷めたのかについては、普遍特性に対して多くの人類学者たちがまだ抱いていた相反する感情に加え、おそらくさらに二つの理由があった。普遍特性への関心は、一九三〇年代後半から四〇年代にかけての大きな危機ーーナチスの台頭ーーに際してなんらかのしっかりした基盤をもちたいという望みによって刺激されていたのだが、この危機が去ってしまうと、そうした普遍特性への関心も薄れてしまったということなのかもしれない。実際、これに続く大きな世界的危機ーー第三次世界大戦の脅威ーーに際しては、多くの学者たちから、寛容とそれを支える文化相対主義の新たな支持を求める声が起こった。第二に、人類学者が普遍特性を喜んで受け入れたにしても、普遍特性をどのように説明すべきか、あるいは、おそらくもっと重要なのだが、普遍特性への関心をどのように研究に結実させるかということが、あまり明確ではなかった。心理学は依然として行動主義に偏りすぎており、ほとんどガイド役にはならなかった。進化生物学でなにが起こりつつあるのか、あるいはそれが役に立つのかどうかをーー文化の進化への人類学的関心にもかかわらずーーわかっている人類学者も、ほとんどいなかった。

(p.129 - 130)

 

 この本のなかでは、文化人類学において普遍特性と文化相対主義とが各時代にそれぞれどのように扱われてきたかを示す第三章「普遍特性研究の歴史」がもっとも興味深い。また、第四章の「普遍特性を説明する」ではいくつかのタイプの説明が紹介されるが、基本的には進化論的・生物学的な観点からの説明が主となる。

 文化の当事者たちの観点や枠組みから内在的に説明する「イーミック(emic)」と、外在的に説明する「エティック(etic)」という分析枠組みに関する説明(そして、一部の文化人類学者はイーミックなことにこだわるあまりエティックな普遍性を見逃してしまいがちなこと)も、興味深かった*2

 第六章の「普遍的人間」では、地域や時代を超えてどこの集団や個人にも当てはまる数多くの特徴を記述しながら、普遍的な<人間>が描かれる。たとえば以下のような感じ。

 

<人間>は善悪を区別する。そして、前に述べたように、少なくとも暗黙にではあるが、責任と意図を認める。また、約束もわかり、約束を交わす。人間のモラルで鍵となるのは、前述の互酬性と共感の能力である。嫉妬は普遍的に見られる。嫉妬のもたらす不幸な結果に関して、それを扱う象徴的な方法(たとえば呪術)も普遍的にある。

(p.246)

 

 さて、『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』が出版されてから三十年が経っても(『心は空白の石板か』からも二十年が経っている)、「心の白紙説」や「人類も限りない可塑性」を強調する議論は相変わらず提出され続けている。その理由についても相変わらずブラウンの説明が当てはまるように思える。……つまり、人間の共通点ではなく差異を強調する議論の方がおもしろくてワクワクして魅力的なので、多くの人に読まれて売れ行きがよくなる、ということだ。

 また、普遍的特性を認める議論は、「文明」や「国家」や「市場」などの「制度」の利点や価値を認める議論にもつながる。人間が安全に快楽に関する同じような欲求を(社会とか資本主義によって喚起されて作り出されるのではなく)生得的にに持っているのだとすれば、それらの欲求を満たしてくれる制度はどんな人間にとっても好ましいものだとか、制度がない状況とある状況との両方を経験したらどんな人間も後者を求める、といった主張を展開できるかもしれない。また、人間には暴力的な傾向や残酷な性質が普遍的に存在するのだとしたら、それをより抑制できる文化や価値観はそうでないものよりも道徳的に優れている、と主張することも可能であるはずだ。……実際、ピンカーの『暴力の人類史』や一部の文明史家・経済史家の著作では、このタイプの主張が展開されている。

 一方で、アナーキストたちの主張は人間は「制度」から解放されて自由になった方が幸福になる、ということを前提としている。おそらく、彼らの主張は、人類には普遍的特性とそれに伴う制約が存在するという議論(というか事実)とは相容れない。だから、アナーキズムサヨクの運動では、経済学者でも政治学者でも倫理学者でもなく、デビッド・グレーバーのような「人類学者」によるお墨付きが求められるのだ。……グレーバーに限らず、日本の論客にも同様のタイプの人はちらほらといるように思われる(文化人類学者の人もいれば、人類学の議論を援用した「哲学」を論じるタイプの人もいそうだ)。

 

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*1:「私に健康で発育の良い1ダースの子どもと彼らを養育するために私が自由に設定できる環境とを与えてほしい。そうすれば、その子どもたちに適切な環境と経験を与えて、医師や弁護士、芸術家、経営者、ホームレス、泥棒などにすることができるだろう」

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0257792

*2:

www.nihongo-appliedlinguistics.net

公正価格の誤謬、「ホモ・エコノミクス」批判批判(読書メモ:『資本主義が嫌いな人のための経済学』③)

 

 

 

● 第7章「公正価格の誤謬」から。

 

あえて私の考えを言えば、左派または人類の味方とすら辞任する御仁にとって、豊かな工業化社会で食住をあがえない人がいるのはいるのは許しがたいことだ。それだけなら問題ない。だが、ここで二つの大きく異なる見方がある。食中をあがえない人がいるなら、問題はこれらが高すぎるか、お金が足りない人がいるかのどちらかだ。同様に、問題の解決法は二つある。一つ目は価格を変えること、二つ目は国民の収入を補うことだ。だが、なぜか二番目の選択肢は見過ごされる傾向がある。そのため「公正価格の誤謬」とでも呼ぶべき論考パターンができあがる。再分配の様式に生じる不公正の直接の原因は価格だからと、給付金の効果を無視するものである。

 

(p.175)

 

 この章でヒースが指摘するのが、左派による「公正価格の誤謬」は電気料金や賃貸住宅などの生活に欠かせないものが貧困層に人々にとって高すぎるという消費者側の視点と、発展途上国が先進国向けに輸出する値段が安すぎるという生産者側の視点の両方で生じている、ということだ。前者については、電気料金の切り下げや家賃統制などの価格操作的な政策が取られ、後者についてはフェアトレード運動に結びつく。しかし、これらのどちらもが、意図しているものとは異なる効果や逆の結果をもたらしてしまう。   

 電気料金を切り下げることは過剰な消費を招くだけでなく、貧困層の人々以上に富裕層の人々を得させてしまう。生活費に占める電気料金の割合は貧困層のほうが高いとはいえ、電気を消費する絶対量は富裕層のほうが大きいために、「貧しい人に一ドル届けるごとに金持ちに二ドル与えることが必要となる社会政策」(p.178)になっていて、非常に非効率的なのだ。

 家賃統制は賃貸物件の条件を借主側にとって有利で魅力的にするために、本来なら持ち家を買っていたような層の人たちまでもが賃貸をしたがる。そのために、貧困層は部屋をめぐって中間層や富裕層と競争することになってしまい、結果として、都市部に引っ越したくても空いている部屋がないという状況になってしまう。価格操作は供給と需要のバランスに不自然な影響を与えて歪めてしまうことになる。

 フェアトレードに関する指摘は以下の通り。

 

フェアトレードの文献には、地主や、焙煎業者、ブローカー、多国籍企業から破廉恥に搾取されるコーヒー生産者の胸のつぶれるような話があふれている。だが変えようのない事実がいくつかある。世界のニーズより一〇〇〇万袋も多くコーヒーを生産しているなら、適切な解決法はそんなに多く生産するのをやめることだ(存在しない西洋の消費者向けのコーヒー豆栽培に使われた土地と労働力は、本当に必要とされているもの、例えば食糧の生産に使うこともできたのだ。それは重要なことなので忘れずにいたい)。ところが、苗木を植えたり身が熟すまで世話したりといった「埋没費用」ゆえに、あまりに多くのコーヒー生産者が、他人が自分より先に市場から離脱するのを望みながら粘っていた。

原因療法ならぬ対処療法に走る見本のごとくに、オックスファムその他のフェアトレード信者は、西洋の消費者がこの供給過剰に対し、コーヒーにもっと高値を払うべきだと示唆した。悲惨なほどばかげた提案だ。これでは(問題を解決しないという意味で)間違っているだけでなく、(解決すべき問題をまさしく悪化させるという意味で)とるべき行動の正反対ですらある。

 

(p.195)

 

「希少性価値形成」に関連する、「社会的費用」の説明もなかなか(難しくて)興味深い。

 

「社会的費用」は、各人の消費が社会に課した放棄の度合い、または控えさせた消費を表している。これはかなり抽象的な概念だ。というのも、ほかの誰かに消費されたであろうその財だけではなく、その財を作るのに注がれた労働力と資源をほかの何かに支えて、ほかの誰かに消費されえたのだ、ということも含めるからである(だから一杯のコーヒーを飲むとき、それを飲みたかったかもしれない人から、その一杯のコーヒーを取り上げているだけではなく、その土地を使って育てて欲しかったであろう人から野菜を、その農民を裁縫工場で雇ってほしかったであろう人から服を……以下続く……取り上げているのだ)。

一杯のコーヒーを飲むとき人が他人にどれだけ不便をかけるかは、二つのことで決まる。第一に、ほかの人がどれほどコーヒーを必要としているか、第二に、もっと生産するのにどれだけ手間がかかるか(もっと経済学的にいうと、コーヒーの需要供給曲線はどうなっているか)。コーヒーの価格が需要と供給の変化をたどるなら、この困難さの程度を反映したものになりがちだろう。ほかの誰もがコーヒーを本当に必要とするなら、もっと払う覚悟をするだろう。コーヒーは、それを飲む人間がほかのみんなに本当に必要なものを与えないという事実を反映して、もっと割高なものになる。だからコーヒーを飲む人は、他人に与えないことを正当化するために、心底から必要としているほうがいい。上昇した価格を払うのにやぶさかでないことこそ、その人にとってそれが本当に必要であることの証左となる。

同じように、もしコーヒーが豊富でわりと生産が簡単ならば、おかわりをしてもさほど問題ではないが、もしコーヒーの生産にもっと多くの材料が必要になってきたり、ほかの部門でその材料の需要が高まったら、コーヒーの生産を縮小して、労力をよそへ注ぎたくなるかもしれない。この場合にもコーヒーは、消費者が求めるほかのものの生産に材料を使うほうがいいかもしれないという事実を反映して、もっと割高になる。そこで支払いの意思が見られるなら、コーヒーの生産は必要とされる時間と労力に見合う価値がまだあるということだ。もし見られないなら、紅茶に切り替える人が出てきてしかるべきだ。

ここでの原則はごく単純である。個人の消費行動が社会へどんな損失を与えるにしろ、消費した商品から個人が得る満足によって正当化されねばならない。紅茶を飲んでもコーヒーと同じくらい満足する消費者は、もしコーヒーに伴う社会的費用のほうが大きいなら、コーヒーを飲むべきではない。これを達成する一つの方法としては、消費者の頭のなかを覗きこんで本当はどれぐらいコーヒーと紅茶が好きかを割り出してから、その生産に何が関係しているかチェックすることだ。もっとずっと現実的な方法は、それぞれの財を人が買いたいと思う総量と売りたいと思う総量が一致するときの価格水準を割り出すことだ。これが「市場精算価格」と呼ばれるものである(競争市場はこの価格を決するものだが、その一手段に過ぎない)。

 

(p.180 - 182)

 

 なんにせよ、ヒースがこの章や『資本主義が嫌いな人のための経済学』全編で主張しているのが、「私たちは道徳的直観に区切りをつけるのを学ばねばならない」(p.184)ということである。私たちは分配的正義に関する直感を持っているだろうし、社会や市場の状況がその直観に反するものとなっていることは多いだろうが、そこで所得の分配を「公正」なものにしようとすることは間違っていないけれど、価格を「公正」なものにしようとするのはやめるべきだ。システムやメカニズムを直観に基づいていじろうとすることは黄信号なのである。

 

● ついでに、第9章の「資本主義は消えゆく運命」の内容についてもちょっと紹介しておこう。

 この章では、「資本主義はいつか克服されてなくなるものだ」という左派の基本的な信念が批判されている。そして、この左派の信念は「過剰生産の誤謬」に基づくことが指摘されたり、不況や恐慌に関するケインズ主義の説明(と多くの左派がそれを誤解していること)が紹介されたりするのだが、なにしろ難しくてきちんとまとめるのが難しいので省略*1。いずれにせよ、資本主義の「矛盾」に見えた諸々のこと……不況、消費主義による勤労意欲の喪失、グローバリーゼーション、環境危機など……は、資本主義の「不調」を」をあらわすものではあるかもしれないが「矛盾」を示すものではないし、資本主義を根本から揺るがすものでもなければ資本主義システムの「構造的特徴」ですらない、ということだ。たとえば環境の問題については、経済が成長したからといって自然が破壊されたり資源が掘り尽くされたりするとは限らない。むしろ、経済が成長して豊かになればなるほど、物質を基本としないサービス業が経済に占める割合は増えていく。ソフトウェア、音楽、ヨガのレッスン、哲学の講義などはいずれも豊かな国でこそ商売として成り立つが、それらは環境にほとんど影響を与えないのだ。

 とはいえ、一部の資本主義全面肯定派や合理的楽観主義者とは違って、ヒースは「…環境に優しい成長もあれば、優しくない成長もあるのだ」(p.255)とは認めている。経済が環境への影響という外部性やコストを伴うこともたしかなのであり、それを無視して経済成長を最優先の政策目標とすることは「便益計上、費用無視」という(右派にありがちな)誤謬なのである。

 最後に、9章の結びの部分を引用。

 

…資本主義はたしかに脆弱な部門もあり、きちんと管理統制しなければならないが、人類が考案した最も非集権的な協同システムである(中央管理機構をもたないインターネットと多くの点で比較可能)。資本主義の「廃止」にいかに骨が折れるかの感触をつかむには、さまざまな薬物のマーケットをつぶすために用いられた時間、エネルギー、あからさまな弾圧の程度について考えてみるといい。違法薬物市場は、スタンダードな経済理論のほぼ予測どおりに動くことを覚えておこう。価格は例によって需給圧力に反応し、高度な分業が発達し、定期的に技術革新や商品開発が起こり、法規制強化のような外圧に予想可能な方法で対処する。中心となる契約は法的な強制力をもたないばかりか法律で禁じられているのに、こうしたことは起こる。地球上の隅々で買い手と売り手は互いを探しあっている。「薬物との戦い」が不毛と考える向きは「資本主義との戦い」も等しく不毛だと思うーーまったく同じ理由で。問題は市場があるか否かではない。魔人がいったん瓶から出てしまった以上、もう後戻りはできないのだ。問題は、市場がいかに管理され、いかに包括的で人間的なシステムにされるべきか、協力による便益と負担をどのように配分するかである。

 

(p.256 - 257)

 

● 資本主義批判は昔から大流行りだが、最近によく見られるものとして、「"人間は自分の利益を合理的に最大化する存在だ"というホモ・エコノミクス的な人間観こそが、人間の思想に影響を与えて、利益の追求を正当化して、人間の連帯の破壊や環境破壊や女性差別などなどを引き起こした」というタイプの議論がある。

 この種類の批判については、経済学が想定する「合理性」や「利益」の範囲を不当に狭く定義した藁人形論法であることが多い。そもそもホモ・エコノミクスはあくまで「モデル」であることを差し置いても、実際のところ、行動経済学が発達して心理学や進化論の考え方も取り入れるようになった現代の経済学では、ホモ・エコノミクス的とは異なるモデルも使うようになっているだろう。

 また、「経済学のイデオロギーや規範を内面化した個人がホモ・エコノミクス的に振る舞うようになる」という(ポストモダン的な?)想定も実に疑わしいものだ。ヒースが資本主義制度とそこにおける個人の振る舞いのアナロジーとして「薬物のマーケット」を持ち出していることは示唆的である。クスリの売人もヤク中もホモ・エコノミクス的に振る舞うけれど、アダム・スミスハイエクフリードマンを読んでいている売人やヤク中はそうそういないだろう。……これは極端な例だけれど、生活者としての実感からしても、「経済学のイデオロギー」が巷で言われるほど大手を振っているという印象はない。本でもWebや雑誌の記事でも大学の授業でも入試問題でも、「経済学のイデオロギー」が紹介されるのは批判的な文脈がほとんどだ。「ホモ・エコノミクス的な人間観を批判する人」は腐るほど見つけられる一方で、「ホモ・エコノミクス的な人間観を持っている人」を探すことは難しい。

 とはいえ、『資本主義が嫌いな人のための経済学』やほかの経済学の本を読んでいると、自分が生きていくなかでとってきた選択や行動がまさに経済学のロジックで説明できたことに気付かされる場面が多々ある。やはり、経済学は、ある面での人間の行動を適切に説明できる学問であるし、行動の予測に基づいて適切な対策をとることに貢献する学問でもあるのだ。

 わたしには、「ホモ・エコノミクス」批判をするタイプの議論の大半は、公正や正義(やケアや同情や共感など)に関する自分の道徳的直観を大事にしたいがあまり、その直観に冷や水を浴びせる経済学的思考を無視することを正当化するための、まわりくどい方便でしかないように思える。それか、資本主義の「不調」を直しながら、現代の社会で生じている問題を漸進的に解決していくというめんどくさい作業から逃避するために、「言葉を変えれば世界も変える」「世界を見る目が変われば世界のほうも変わる」式の考え方を採用しているかだ。でも、資本主義と世界の現実から目を背けて逃げて、言葉と思弁の世界に閉じこもったところで、実際には何も変わらないのである*2

 

*1:「過剰生産の誤謬」に関してはミラノヴィッチの『資本主義だけ残った』でも「塊の誤謬」に関連して指摘されていたような気がする。

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*2:

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