道徳的動物日記

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読書メモ:『道徳の哲学者たち 倫理学入門』

 

 

 本書の特徴は、第一部「古代の哲学者たち」でアリストテレスプラトンを、第二部「近代の哲学者たち」でヒュームやカントやミルを取り上げながらも、それぞれの哲学者たちの思想に存在した課題を指摘しつつ、それらの課題に関するひとまずの解決をヘーゲル主義(ヘーゲル本人の著作ではなくフランシス・ハーバート・ブラッドリーの思想が代わりに取り上げられる)に求めているところだ。また、続くニーチェの章ではマルクスフロイトなども取り上げながら、既存の道徳哲学の問題とそれに対してヘーゲル主義がいかなる解決を提示しているかということに関する議論が補強される。ちなみに、ここで呈示されるヘーゲル主義は、コミュニタリアニズムにもかなり近いものだ。

 具体的には、以下のような主張が呈示される。

 

道徳の第一の特徴は、私が道徳の「疎外的」性格と呼ぼうとするものである。これまで見てきたように、マルクスが「疎外」という言葉を用いるのは、賃金労働の生産物と活動が、労働者にとって外的なもの、よそよそしいものとして経験されるにいたることを説明するためであった。マルクスはこの言葉をもっと広い意味にも捉えていて、人間の活動の所産である社会の諸々の制度や慣行が、それら自身の生命をもつようになり、それらの制度などを創造した人間を逆に支配するようになる事実を指すのに用いている。こうした意味で、狭義の道徳概念は一つの疎外された現象と言うことができる。それを人間は、自らが順応しなければならない一連の外的要求として経験する。つまり道徳とは、カントが、我々が遵守するべき「道徳法則」または「定言命法」と説明しているものである。ニーチェフロイトが明らかにしているのは、道徳という現象を説明する心理的な仕組みである。 対照的なのはヒュームとアリストテレスであろう。ヒュームは道徳的価値を、共感という人間の自然的感情に根ざすものと描いている。またアリストテレスは、道徳的卓越性を、その行為者自身の幸福と繁栄が与えられる件に根ざすものと描いている。

(…中略…)

狭義の道徳概念の第二の特徴は、道徳の自己否定的性格である。この特徴をマルクスは、実際には支配者階級 のものである偽の「一般利害」への服従という言葉で説明している。(…中略…)「古代人」とは異なり、利他主義の倫理が「近代人」に特有の倫理的姿勢であることを、私はすでに示唆しておいた。我々が今探究する必要があるのは、利己主義と利他主義の厳格な二分法を乗り越える倫理的立場の可能性である。そのような立場は、たとえ利他的行為であっても、それが満足と充実感を与えるがゆ えに行なわれるものなら、そのような行為は道徳的価値をもつものとは見なされないとする、カント的な考えを超えるものである。そのような立場がどのようなものであるかは、ここでも課題として残されたままである。

狭義の道徳概念の第三の特徴は、その個人主義的性格である。「道徳的」判断は、行為者個人の道徳的地位や、 その人の道徳的卓越性に狭く焦点をしぼり込む傾向がある。さらにいっそう強烈には、その人の道徳的罪という否定的観点に焦点が当てられやすい。このような先入観の基にあるのは、個人の責任という擁護できないくらい に強力な観念である。そこに欠けているのは、個人の行動は社会的文脈の中で行なわれるという認識、したがって価値判断は個人がある仕方で行為するように導く社会的制度にも同様に向けられる必要があることの認識である。それは、個人は社会的・心理的圧力に反応してそのように行為するという事実、そしてもし個人が異なる仕方で行為することを我々が望むとするなら、彼らに道徳的命令を指し示すより、彼らの行動を引き起こす状況を変えるよう努めた方がうまく行くだろうという事実を、正当に評価しそこなっている。(…中略…)

さて以上が、一般的な意識を完全に支配し、「道徳」そのものとしばしば同一視されている道徳概念である。 私はカントが、こうした概念を最も精確に反映させた道徳論を展開している哲学者であると暗示しておいた(はいえ、カントの道徳論を、単に一般的な意識の無批判的なイデオロギー的反映と見なすことは無意味であろ う)。ニーチェマルクスフロイトをもとにして、狭義の道徳概念を疑問視するのに適した論拠を得てきたのであ流。我々は「道徳」という語をーー今や一揃えの包括的な価値として、いかに生きるべきかについての考 え方としてもっと広く理解することによってーーより適切な道徳についての「非道徳論的」概念を求める試みの論拠を得たわけである。この広義の道徳概念は非疎外的な概念でなければならないであろうし、純粋な自発性の擁護という意味での道徳概念ではなく、道徳的要請を自然的な人間の傾向性や反応の中に根づかせているよう な道徳概念でなければならないであろう。それは、「古代」と「近代」の統合を目指し、利己主義と利他主義の 厳密な二分法を超越するような概念でなければならないであろう。すでに指摘しておいたように、そのような概念に向けての出発点は、個人の社会的性格をヘーゲル的な仕方で承認することであろう。個々の行為者にだけ狭く焦点を合わせることを乗り越えなければならない。その際には、例えば、人間の基本的必要を組織的に打ち砕 いて人々を「非道徳的」行為へと導く社会制度や慣行もそれ自体等しく「非道徳的」であることを認めなければならないであろう。第三部で再び、このような広義の道徳概念を明確にする可能性の問題を取り上げたい。

(p.260~263)

 

 この本の良いところは、単にビッグネームの哲学者たちを並べるだけでなく、「プラトンにはこんな問題があったけれどアリストテレスはその問題をこのようなかたちで乗り越えた。しかしアリストテレスの議論にもこのような問題があって、それは続く哲学者たちがこのようなかたちで乗り越えて…」という風に、発展段階を明確化するかたちで倫理学の歴史を記述しているところだ(それ自体がヘーゲル的と言えるかもしれない)。そのおかげで、「次の章ではどのような議論が展開されるんだろう」とワクワクしながら読み進めることができる。

 また、それぞれの哲学者の解説もかなり論理的かつポイントを抑えているうえに簡潔であり、流し読みでスラスラと理解できるほどに平易ではないないとはいえ、しっかり読んでみれば充実した理解が得られて考えさせられるような内容になっている。各哲学者の規範的な主張について「こんなこと言っています」と結論だけを示すのではなく、それぞれの議論の背景にある前提や論理を説明することで、倫理学史を学ぶと同時に道徳的な概念や立証に関するメタ倫理学の考え方も学んでいくことができる。このような一石二鳥的なお得さのある倫理学入門や倫理学史の本は、他にはなかなか存在しない。それでながら著者の主張がはっきり出ている点も読み物としての面白さにつながっている。絶版しているのか、中古価格がやたらと高騰しているところだけが玉に瑕と言えるかもしれない。

 

 以下では、特に参考になった箇所をいくつか引用。

 

アリストテレスの「しかるべきしかるべきって言うけど、その"しかるべき"ってどうやって判断するんだよ」問題について

 

アリストテレスにとっては、感情はそれ自体が理性の具現化となりうる。感情を管理し指導することは、理性の問題だけではない。むしろ感情それ自体が合理的である場合もあれば合理的ない場合もある。理性は感情の中に存在するとも言えるのである。

感情が合理的であったりなかったりするとはどんな意味だろうか。本質的には、感情がうまく状況に適合するかそうでないかという問題である。怒りの場合を取り上げよう。ある人が私に挨拶しないという理由で私が激怒するとしよう。全く不適切な形で私は自制心を失い、そこでの原因とは全然ちがうところでかっとなる。この私の怒りは不合理である。別の場合として、ある一群の子供たちが年下の子供を非情にもあざけりいじめるのを見て、私が激怒するとしよう。本当にひどいことだ、というのが原因となって、この私の怒りはまったく適切だということになるだろう。するとこれら二つの場合では、私の怒りは一方は不合理で他方は合理的なのである。

「合理的な怒り」を話題とし擁護することは主知主義にすぎるように聞こえるかもしれない。しかし、ここで述べていることの意味に十分注意してもらいたい。私の怒りが独立した合理的な決断の産物である、ということではない。私はまずどう応答すべきかを自問し、状況への考察と評価を下し、それから怒ることに決めた、というわけではない。私の怒りは、まったく直裁的に自然に出たものであろう。それでも私の感情は、状況の本質に気づいているという意味で、合理的と言えよう。この感情は、例えば本筋とは別に事情によって歪められているということがない。

(…中略…)

アリストテレスが、中庸を守るとはしかるべき機会にしかるべき理由でしかるべき程度にしかるべき人に対して感情を抱くことだ、と言うときに指しているのはこのことなのだ、と私は思う。アリストテレスの理想とは、理性と情動をもった生活という理想である。その理想が節度の説になることをその限定的な意味合いにおいて受け容れることが、どうやら我々にはできそうである。それは、特定の機会に過多や不足になるものは何でも避けることを含んでいるだけではない。一般的水準において、理性が感情を抑止し制御するという「プラトン的」理想と、非理性的な情動の自発性という「ロレンス的」理想との中間にある立場だと説明することもできよう。しかし別の意味では、それはこれら二つの立場の中点ではなく、根本的に二つの立場両者の反対に位置するものである。というのも、理性と感情の間の避けられない敵対関係という、両者に共通する想定を退けているからである。

(p.64 - 65)

 

倫理学に必要とされる知識の「厳密さ」に関するアリストテレスの議論

 

アリストテレスはさらに、[イデアに関する]その知識が得られたとしてもそれを倫理学と関連づけることはできない、と言っている。プラトン的なイデアについての知識は永遠不変なるものについての知識であろうが、他方、倫理学の知識は我々の行為を導けるような種類の知識でなくてはならないだろうし、それゆえに可変的な事柄についての知識でなくてはならないだろう。また、イデアについての知識は普通的なものについての知識であろうが、他方、倫理学で我々に必要なのは個別的なものについての知識である。というのも、個別の状況においてこそ我々はいかに行為すべきかを決 定しなければならないからである。もちろん、道徳哲学で我々が目指すのは、個別的なものについての知識にとどまらない。しかし、我々が作り出そうとしている普遍的な要求は、個別の状況においての我々の経験から一般化したものとなるだろう。そのような普遍的要求は、そのようなものとしては大ざっぱな近似値であるだろうが、 倫理学では主題へのふさわしさを超える正確さや厳密さを求めるべきではない。どんな分野にもそれにふさわしい精密さの基準がある。例えば大工が測る直角の正確さは、幾何学者のそれと同じではない。したがって、倫理学に期待できる一般規則とは、ただ大まかな真理性を有している、そして日常生活や個別の状況に立脚した経験の蓄積に由来している一般規則なのである。道徳哲学はこうした経験の共有を前提としているから、若くて経験の乏しい人たちに適した主題とはならない。…

(p.47 - 48)

 

●利己主義と利他主義に関する古代ギリシャの議論

さて、グラウコンによれば、正義が正しい人にとって善いのは、他の人に対して正しく振る舞うなら他の人もまた自分に対して正しく振る舞ってくれ、その結果快適に暮らしていけるからであった。ソクラテスの説によれば、正義は単純に有利な結果をもたらすものではなく、それ自体が最大の利益である。グラウコンにとっては、 正義は道具的な善である。それは善く生きるために必要とされるものを得させてくれる。ソクラテスの説では、正義は本質的に善なのである。それが善く生きることなのである。それゆえ、グラウコンによれば、正義と利益との間には外的な関係が存する。ソクラテスの説によれば、その関係は内的なものである。

(…中略…)

アリストテレスは[プラトンとは異なり]「健康」と「病気」といった用語は用いていないが、しかし彼もまた、心理的な事実に訴えている。プラトンと同様、彼も理性と感情の正しい関係という見地から徳を分析している。彼は、最も幸福で最も充実した人生とは、それらが正しく関り合っている人の人生であると述べている。というのも、そのような人こそ、十分に人間的で理性的な人生を生きているからである。

(…中略…)

プラトンアリストテレスが、他の人に対する適切な配慮を自分自身の幸福にとって不可欠なる要素としてもち出しているのだとしたら、利他主義的な徳についての彼らの説明は、ただもっぱら他人を助けることに喜びを感じる人の利他主義と同様、決して怪しげなものでないことは明らかであろう。

 

(p.72 - 74)

 

●弱い意味での普遍化可能性と強い意味での普遍化可能性

さて、たしかに弱い意味で合理性が普遍性を含むということができる。理性的であるために、私の行為は、整合的であるという意味において普遮化可能でなければならない。嘘の約束に関するカントの例を取り上げてみよ う。カントが想定するのは、「金を借りる必要に迫られていて、自分がそれを返すことはできないだろうと分かっているが、同様にまた、一定期間内にそれを返すとはっきり約束しなければ、一銭も貸してもらえないことも分かっている」というような人である。そして彼は、守れないと知りながら、そのような約束をするこ とを決心したとする。もし、自分の行為が合理的に正当化されなければならないと彼が思っているならば、その場合彼はカントが言うように、「金が必要であると思う場合にはいつでも、決して返せないと分かっていても、 返すと約束して金を借りることにしよう」という普通的な原理あるいは格率に身を委ねていることになる。そしてもし彼がこれを普遍的な原理として認めることができないとすれば、現在の状況に関して自分の行為を正当化する適切な追加的特徴を提示しえない限り、この例において自らが正当化されたと見なすことは合理的ではな
くなる。

これが、ーー整合性としてのーー弱い意味での普遍化可能性である。行為は、普遍的な原理、すなわち適切に類似したすべての状況において同じ仕方で行為せざるをえなくさせるような普遍的な原理の下に置かれるのでなければ、合理的ではありえない。しかしカントは、もっと強い意味での普遍化可能性を望んでいる。彼が望んでいるのは、単なる一貫性の原理だけではなくて、理由の非個人性の原理とでも呼びうるようなものである。この考えによれば、理由は特定の個人にとって特有のものではありえない。仮にRがにとって、行為Aを行なうのに妥当な理由であるとすれば、それはまた、万人にとっても、類似の状況においてAを行なう妥当な理由でなければならない。理由とは、本質的に万人にとっての理由なのである。こうして、約束の例において、もし嘘の約束をする人が自らを合理的に正当化されると考えるならば、彼はまた次のようなことも認めなければならなくなる。すなわち、金を必要とし、それを返すことができない場合はいつでもそのような約束をすることが、他の誰の場合にでも等しく正当化される、と。そしてもし彼がこのことを認めることができないならば、この場合に自分が正当化されると見なすことは、合理的ではないことになる。

 

(p.134- 135)

 

●幸福に関する、ミルのエリート主義?

量だけではなく質をも考慮に入れることで、ミルは部分的にプラトンアリストテレスの立場に立ち返ってい る。この二人がしたように、完全で本物の幸福を購成するものを見つけ出すためには、人間本性に特有のもので、人間を他の動物種から区別するようなものに目を向けなければならないと彼は考えるである。しかしアリストテレスとは違って、人間本性から人間の幸福についての見解への移行をミルが試みるのは、次のような木質主義的論証によってではない。この本質主義的論証とは、特定の活動が本質的に人間的であるのだから、その活動が人間生活の自然で本来的な目的を構成し、人間の幸福の内容を与えてくれるとするものである。ミルにとっては、人間本性と人間の幸福とのつながりは、このような本質主義的なものではなく心理学的なものである。

(…中略…)高級な快楽が優越していると言われるのは最終的には人間がそれを選好(prefer)するから、ということでしかないが、その優越性の決め手になる選好は選択肢を現実に経験した人のものでなければならない。経験する快楽がおおむねありきたりで知性を欠いたものに限られており、まったくそういったものだけを追求し続けるような人が多数存在することは疑いない。ミルが主張しているのは、そのような人々も、人間に能力上可能で要求度のより高い楽しみのいくつか を適切に経験することができるなら、そうした楽しみをより報いのあるものと見るようになるだろうということ であろう。「適切に経験する」という表現が重要である。文芸・芸術の楽しみ、知的探求、創造的で想像力にあふれた仕事、大義への精力的な献身から得られる快楽は、時間をかけて親しまないと得られないものかもしれないのである。そうした快楽を得るためには、長期にわたる専念と関わり合い、一時的には後退することもいとわ ぬ気持ち、そして場合によっては教育の過程が必要である。しかしそのような活動がもたらしてくれるものを実際に経験したことのある人なら、それ以後はそれらを手放そうとはしないであろう。
このことは、ミルの立場は「エリート主義的」だというもう一つの一般的な反発に対するミルの回答ともなる だろう。高次の快楽の優越性は「唯一の有資格者である〔適格な〕裁定者の下した評決」によって決まるというミルの言葉に対して、読者はよくこんな風に応じがちである。なぜ自分がその評決を受け容れるべきなのか。もし自分が本当に情熱的にそしてもっぱらいわゆる「動物的」快楽に没頭しているのなら、他人にそれらの快楽を劣ったものと決めつけるどんな権利があるだろうか。ミルの回答は、まったくそんな権利などないーー選択肢を 真に経験できるとしたらあなた自身がどのように判断するかということに基づく権利以外にはーーというものであろう。ミルがかなり重みを乗せている足場は、もしそれらの選択肢を完全に経験できさえすれば、すべての人 が本当に高次の快楽を選好するだろうという想定である。彼はこのことにわずかではあるが、しかし重要な限定 をつけている。ある時期には高次の快楽を評価できたにもかかわらず、その後それを顧みなくなり、無感覚の習慣に逆戻りするような人が存在するということをミルは認めているのである。しかし、彼の考えではそうした事例も、社会学的、心理学的に説明可能で、退化の事例ということになるであろう。
他にも二つの修正がミルの立場には付け加えられるべきである。これらの修正はミル本人は付け加えなかったものである。私の考えでは、ミルのどちらかといえば厳格に主知主義的な高次の快楽の説明は、修正を加えられるべきである。彼は、高次と低次の快楽の区別が、知的(さもなければとにかく精神的)な活動と肉体的な活動の区別に対応すると想定しがちである。このことを想定する必要はない。表面的な快楽以上のものを与えてくれ る肉体的活動は、数多く存在する。つまり技能、エネルギー、気配り、懸命さを必要とし、そのような仕方で追求されるときにだけ価値と楽しみが分かるような活動が多く存在するのである。熟練した職人技の活動のような例を考えるなら、知的/肉体的の二分法は大いに誤解を招きかねないものである。第二の修正は、高級の快楽と低級の快楽を対比させるとしても、低級の快楽が価値ある人生から排除されねばならないということにはならない、というものである。ミルには低級の快楽を除外する傾向があった。彼には、肉体的感覚の快楽を端的に随落 的であると見る傾向があったのである。とはいってもこのことは、彼の一般的な立場にとって本質的なものではない。食べ物、飲み物、セックスという三つの基本的な欲求対象はかなり評判が悪いが、それなしには人間生活は確実に貧しくなる。それらを「低級の」快楽と特徴づけてはいるが、ミルはまったく矛盾なしにそれらの位置を認めることができたはずである。ただし、ほとんどがそれらの快楽に捧げられた人生、そしてより広範な意義の脈絡からそれらの快楽だけを取り出した人生は、いくらそういう快楽に富んでいても、つまらない空虚なもの であるということを言い添えるだろう。

(p.163-165)

 

●特殊の功利主義、普遍のカント主義

ブラッドリーは「なぜ私は道徳的であるべきか」という章の中で、「自己実現」 (self-realization)を、倫理学の中心概念として、さらに道徳が本来目指すべきものとして確認している。そこで、自己実現とは何であるかを決定することが倫理学の課題となるのだが、ミルとカントはそれぞれこの問題に対して一面的な回答を提出している。ミルは自己実現を快楽の達成と見なし、カントはそれを義務の遂行を通した善意志の達成と見なしているのである。これらの回答は以下の点で一面的である。ミルは普遍を排して特殊の面を強調するが、これに対しカントは特殊を排して普遍の面を強調する。そしてまた、ミルが形式を排して内容の面を強調するのに対し、カントは内容を排して形式の面を強調する。両者はいずれも、特殊と普遍の統一、形式と内容の統一を正当に扱うことができないのである。

この点について説明することにしよう。功利主義は善き生と快楽を最大にすることとを同じものと考えるのだが、その際、善き生を単なる一続きの孤立した特殊的な事柄、すなわち快の感情の状態の単なる連続と見なし、 その唯一の目的はできるだけ多くこれら快の感情の状態を達成することであるとする。しかしそれらは単に特殊的な事柄であるにすぎず、決して互いに有意義な関係にあることはなく、かくして、これらすべての特殊的状態 にある快の感情を密接に連関した一つの全体へと統合する普通という概念が欠けているのである。それらはただ加算されるだけであり、したがって、形式を欠いた単なる内容であるにすぎない。なぜなら、それらが合算され ても、何ら意義ある包括的な形あるいは型になるとは見なされないからである。それらは単に一つの集種された ものでしかないのである。これに対しカントは、普遍性と形式の面を強調するのだが、そのようなカントのやり方によっては、それらは単なる空虚な普遍性と単なる空虚な形式となってしまい、特殊的・具体的なものとなるいかなる手段からも分断されている。カントの道徳性はただ普遍的法則という観念との一致を命ずるだけでありそれは正邪を判定する純粋に形式的な吟味の手段を提案するのである。しかしすでに見てきたように、いかなる行為も普遍化されえないようなものはないのであり、それゆえ、普遍化可能かどうかを吟味することから具体的な結果を引き出すために、カントは外部から内容をひそかに引き入れ、以前には排除すべきだと主張していた有用性や結果についても考慮せざるをえなくなるのである。

 

(p.190 - 191)

 

●「社会関係の倫理学

ブラッドリーの社会関係の倫理学は、それが説得力を持ちまた受け容れられるためには、これまで見てきたような仕方で修正される必要がある。考慮されねばならないのは、さまざまな砿類の社会関係のこのような根本的 拡張である。しかしながら、このように拡張されるとき、この倫理学はとてつもなく重要な理論となる。この重要性は、我々がカントや、ミルの中に見出した問題にまで立ち返って考えてみるとき、初めて理解することがで きるのである。彼らの共有していた基本的な問題は、利害に関わらない利他主義をいかにして合理的に正当化するか、という問題であった。彼らの失敗から(そして彼らの数知れぬ後継者たちの失敗から)我々が学びとるのは、そのような正当化は、純粋に形式的な合理性や論理に訴えることによっては与えられえない、ということである。すでに見たように、カントは、他肴の権利を尊重しまたその利益を促進するという義務は、普遍化可能いう形式的な要求から導出されうる、ということを示そうとしている。しかしそのようなことは不可能である。 普遍化可能性の原理が純粋に形式的な合理性に基づくものである限り、それは首尾一貫性の原理であるとか、また理由の非個人性の原理であると正当に解釈されることができるが、公正さの原理であると解釈されることはで きない。また、ミルが、自分自身の幸福を欲する個人という概念から出発し、単なる論理によって、我々はすべてお互いの幸福を欲するべきだということが示されうる、と想定しているのを見た。彼もまた成功してはいない。 孤立した個人という概念から出発する限り、個人の幸福から万人の幸福への移行は不可能なのである。実際に人 間を相互に結びつけている現実的な緋を考慮するときにのみ、私心のない他人への配慮が合理的なものとして示されうるのである。すなわち、ミルのように非社会的な個人から出発すべきではなく、ブラッドリーのように、 他者への関与をその内に含む関係に組み込まれた社会的存在としての個人という概念から出発すべきなのである。 自己を社会的自己と解するときにのみ、自己と他者との間の道徳的間隙を埋めることができる。このことを理解してはじめて、我々は利己主義に対する反駁を用意することが出来る。この反駁は、利己心に何か外面的な物を付加することによるのでなく、人間にとって重要な事柄は単に欲求や利益だけではないことを示すことによって なされるのである。他者との関係は、利益の追求や欲求の満足とまったく同様に、人間の生活の中で重要な役割を果たしており、前者は後者に還元されうるものではないのである。
我々がここで行なっているのは、利己主義から利他主義へと議論を進めることではなく、両者の二分法の不適切さを明らかにすることである。友人に対する誠実さという例をとって考えてみよう。もし私が困っている友人 を助けようと自分の時間を犠牲にして努力するとき、私は長い目で見て自分の利益につながるという理由からそうしているのではない。もし私が真の友人であるなら、私は、「たぶん彼もいつか私に同じことをしてくれるで あろう」などとは考えない、しかしながら、友人を助けることによって私は自分を何か外面的な事柄の犠牲にしている、と考えるのも適当ではないであろう。友情は私の人生に不可欠な一つの構成部分である。他の個人やさ まざまな人間の集団、主義主張や制度に対する私の献身的態度や誠実さなどのすべてがそうであるように、友情は私のアイデンティティを明確にし、私の人生にその意味を与えてくれる。ブラッドリーが言うように、私の自己は「他者の存在によって浸透され、影響を受け、特徴づけられており、その内容は共同体のあらゆる性質の組織的な関係を包含している」のである。そしてこのことは、私がそうした誠実さに基づいて行為するときは、私のアイデンティティの意識を保持したり、私の人生に意味を与えたりするためにそうしているのだ、ということを言っているのではない。そうではなくむしろ、このような他者への関係が私自身のアイデンティティの一部であるとともに、私の人生に意味を与えるものの一部であるというこの事実の方が、こうした関心事への積極的な私自身の献身のうちに、そのおのずからなる表現を見出している、と言っているのである。

 

(p.200 - 202)

 

 またもや写経みたいな記事になってしまったが、著者が展開する「社会関係の倫理学」は、ある面では八方美人的で凡庸なものにも見えるところもあるが、魅力も強いものだ。コミュニタリアニズムをはじめとして、アリストテレス主義やケアの倫理などの「いいとこ取り」な倫理になっているように思える。

 とはいえ、著者自身も留意しているように、社会関係やアイデンティティの枠を超えた相手に対するより普遍的な道徳問題について対応できるのか、というのが気になるところもであるが。

ハーバーマス(読書メモ:『いまこそロールズに学べ:「正義」とはなにか?』)

 

 あとがきで著者が「ロールズ研究者はミイラ取りがミイラになりがちだ」と述べたうえで、著者自身はミイラにならずにロールズとの間に一定の距離を保ちながらも、彼の理論をあっさりとだが丁寧に解説してくれる、という入門書。文章のスタイルのために印象や記憶に残りにくいのは難点だが、『正義論』などに関するニュートラルで標準的な理解を得るための本としてはおそらく最善のものだ。

 ……とはいえ、あまりにニュートラルで淡々としているために、コメントすることはほぼ思いつかない。

 

 ロールズからはトピックがずれてしまうが、この本でわたしの印象に残ったのは、ハーバーマスによるロールズ批判のくだり。

 

ハーバマスは、「無知のヴェール」のように、情報制限する思考実験装置を使うのではなく、自らの討議倫理学のように、全ての他者のパースペクティヴから考えることを各参加者に要請しながら、強制のない開かれた討論を行うことを通して、一般化されるべき利害(genralizable interests)に対する共通のパースペクティブを共同で構築するやり方の方が、理論的にすっきりしているのではないかと示唆している。

 (p.239)

 

「無知のヴェール」はあくまで思考実験装置なので『正義論』の外で振りかざせるものではなさそうだが、上記に説明されているハーバーマスの「討議倫理学」は、世間で行われる議論一般について理想として当てはめられそうなものだ。

 また、、自分のことだけでなく他者のパースペクティヴからも考えること、それによって共通のパースペクティブを共同で構築することを目指すという考え方は、ミルの『自由論』にもつながりそうな、リベラリズムの理想だと言える。そして、昨今に蔓延しているアイデンティティ・ポリティクスでは、「自分たちのパースペクティブは自分たちのものであり、他者にわかるものではない」という主張と、それを裏返した「他者のパースペクティブなんて考える必要はなく、自分たちのパースペクティブだけを考えればいい」という開き直りが前提となっている。

 最近にリベラリズムや政治理論の勉強を初めて気付かされたことのひとつは、(英米の)標準的な正義論や政治理論とは「悪」を想定するものではなく、すべての関係者に「利害」や「事情」があることを認めたうえでその優先順位を決定したり調停の手段を考えたりするためのものである、ということだ。一方で、昨今のポリティカル・コレクトネス的な発想とは、「悪」とされる人やグループを指定して、彼らの利害や事情は調停や順位付けの対象にもならない、と主張するものである。

 この辺りに、「まとも」なリベラリズムとそうではない「リベラリズムの皮を被った反自由主義」との違いがあるのだろう*1

*1:ジョセフ・ヒースの師匠がハーバーマスであることは、ヒースによるリベラリズムカウンターカルチャー批判を理解するうえでも重要になってくるはずだ。

econ101.jp

「がんばっている人」のための正義論?(読書メモ:『ロールズ正義論入門』)

 

 

 

 ここ最近はロールズの入門書をいくつか集中的に読んでいるが、そのなかでもこの本はいい意味でロールズの「信者」が書いたという趣があり、ロールズの議論について内在的に理解して読者に伝えようとしている意志や熱意が伝わってき、おもしろく好感も抱けた。

 著者は、『正義論』を具体的な政治や社会政策に関する本ではなく「哲学書」として読む、というスタンスを貫いている。そのために、特定の政治的・政策的目標のためにロールズの主張を都合よく解釈したり緩めて理解したりするということをしない。たとえば世間的にはロールズの主張は福祉国家を支持するものだと受け止められがちであるが、ロールズが認める経済政策はあくまで「財産所有の民主主義」のみであり、自由を制限する共産主義を認めないだけでなく、市場原理主義どころか福祉国家主義も資本主義を許容するものであるから認められない、ということが指摘されるのだ。

 また、「善の多様性」を肯定しているはずのロールズの議論が、彼自身の人間観を原因として、ある種の「卓越主義的」なものとなっている、というところが強調されているのもおもしろい。

 

ロールズが最も重要と考えるものは「平等な自由」である。そしてこの自由は人間の本性が完璧に発揮される状態である。じつはこの時点で、ロールズはひとつの人間観を前提にしている。

ロールズは自由を「なにも拘束のない状態」とは考えておらず、むしろ「人間が最も人間らしい状態」と捉えている。これはロールズが「人間であるならば、こうあらねばならぬ。こうあるはずだ」という特定の価値観にもとづいていることを示す。

人間が人間らしくあるとは、その精神を最大限に活用することであり、それを他人と共有することであり、他人と交流することでさらにその能力を伸ばすことである。そして他人と関わる以上、関わり方についてのルールを合意にもとづいて決めることであり、そのためには精神的にも身体的にも他人の支配下に入ることなく、他人との合意の結果である法律によって守られるということである。

(p.4)

 

 

性別(女性)、人種(アフリカ系)、宗教(イスラム教徒)という理由で差別され、男性、白人、キリスト教徒と同じ機会が与えられないと、それは前者の人たちの、自由で平等な市民としての尊厳を傷つけることになる。さらに、公平な機会の平等を得られないことは、自分の技能を駆使して到達する自己実現の場を奪われたことと同じである。自己実現こそ人生の目標だから、その機会がないことは人格を否定されたことに等しい。

背景にはロールズ特有の価値観がある。ロールズは人間を、持って生まれた才能を駆使して、みずからに磨きをかけていく存在だと捉えている。そして天性を伸ばしていくために、人間は自由と権利を有していなければならない、ということが、ロールズが「平等な自由」を理論の根幹に据えている本質的な理由である。

(p.59)

 

 

「善」はその人に利益を与えるものであり、価値のあるものであり、人生を充実させるものである。だから「善」と「価値観」は同じことであるが、「善」は諸価値の総体であり、かつそれらを実現するための手段をも含んでいる、抽象的で包括的な概念である。価値観はより個別な目的を指すとともに、人生の究極的な目標を意味することもある。「年末までに一〇キロ痩せる」も価値であるが、宗教のように人生すべてを統括するものも価値に入れられる。「善」はひとつであるが、価値は複数あるから、全部を一度に達成できないならば、そのあいだに優先順位をつけなければならない。

ロールズの重要なところは、ロールズが特定の人生観を描いていることである。ロールズにとっては、人びとには必ず「理想の人生」があり、それは努力して勝ち取るべきものであり、そのために求められる技能は卓越したものでなければならない。人はより上に、上に向かわなければならない。人が生きるのはそのためであり、それを効率的に成し遂げるために人は合理的である、ということになる。

(p.115)

 

ロールズは特定の人間観にもとづいて理論を展開しているが、ロールズは体力があるならば人は働くべきであると考えている。これは、働いても働かなくても政府が最低限度の生活保障をしなければならないのかどうか、という議論とは、ひとまず関係ない。

ロールズは、正義の二原理が創り出した秩序ある社会は社会的協力の場であると考えている。人びとは自由と権利を含む社会的基本財という道具を用いて、それぞれが理想とする人生の目標を追求すればよいが、なにかを成し遂げるためには、ほかの人たちとの協力は欠かせないので、社会に貢献することを勧めている。働くことは、その重要な部分である。ロールズは「卓越性」を重視しているが、その考えはここにも反映されている。

ロールズは「自分を価値ある存在」と見なすことができる独立した存在であるためには、意義があって自信を持てるような仕事に携わることが重要であると考えている。さらに、人びとが正義にかなっていて公平な社会的協力に関わっているならば、人びとには自分の役割を果たす義務があるとも考えている。自分は貢献しないけれども、ほかの人が努力して創られた成果はいただく、ということは悪いことである。

(p.202 - 203)

 

人びとに本性として「卓越性」願望が具わっているならば(ロールズはそう信じている)、人びとは正義の感覚を肯定することで、みずからの「自由・平等・合理性」の本性を外に対して表現することになるが、この行動はその人にとって合理的である。

「卓越性」願望が具わっていることで、(自由と平等が保障されている)秩序ある社会では、自分の本性を表現することは、その人の「善」の中心に来る。この心理傾向によって、人びとは行動を選択する際、「正しいこと」を優先するようになるが、これは単に「正しい」からしているというだけではなく、自分にとって心地よい(つまり「善))からでもある。

(p.240)

 

 また、この本では、「理性」と「合理性」といういかにもややこしそうな二つの能力の違いについて実にわかりやすく整理されているのがありがたいところだ。原初状態を「オリジナル・ポジション」と表記したり、「モラル・パワー」というカタカナを使うなど、訳しづらい言葉はそのままカタカナにして説明するという点も優れていると思う。

 

ロールズにとって「自分を価値ある存在」と見なすための社会的基盤は、人びとに自信を持たせるために必要な仕組みである。自信とは、社会における自分の位置は他人から敬意を示され、かつ自分の「善」は追求に値するものと他人から見られることである。その具体的な内容は歴史と文化で異なるであろうが、ロールズが民主主義社会において中心になると考えているものは、平等な政治的自由と、公平な機会の平等である。

オリジナル・ポジションの下にいる人びとは、社会的基本財の、適切な分け前を欲しいと思っている。というのも、社会的基本財が、人生の合理的な計画の達成と、ふたつのモラル・パワー(理性と合理性)の発揮に必要だからである。だれもが、すべての目的に使える社会的基本財を求めるが、それは少ないより多いほうがよい。そして社会的基本財を求めること自体が合理的な動機である。

整理すれば、オリジナル・ポジションの下にいる人びとは、人生に意味を与えるような人生の合理的な計画を遂行する、という意味で、形式的に合理的である。その人生の合理的な計画の一部として、人びとは、ふたつのモラル・パワー、すなわち「正しさ」を見分ける「理性的であること」と「善」を追求する「合理的であること」という能力を使って、さらにその感覚を伸ばすという実質的な関心を持っている。

(p.126 - 127)

 

 もちろん、ロールズは「これこれこういう善は他の善よりも優れている」と指定してそれを他人に押し付けようとする、という意味での「卓越主義者」ではない(むしろその種の主張を否定するのがロールズリベラリズムの本懐であるはずだ)。

 しかし、「善」の「中身」の多様性は認めても、「善」の「追求のされ方」について<人びとには必ず「理想の人生」があり、それは努力して勝ち取るべきものであり、そのために求められる技能は卓越したものでなければならない。人はより上に、上に向かわなければならない。人が生きるのはそのためである>とすることは、それ自体が「善の構想」や生き方としてとり得る形にかなりの束縛や制約を課すという点で、卓越主義的な発想であるはずだ。「がんばらない人生にも価値がある」「向上心を抱かずにダラダラと趣味や娯楽に明け暮れて過ごしてもいいんだ」的な発想は却下されるわけだし、ほどほどに追求していればそのうち達成されるような目標が「善」となることもないだろう。現在に多くの人々がとっている生き方は否定されて、特定の「理想」は押し付けられなくても、「理想を追求する生き方」が押し付けられることになる。

 この本の著者も冒頭で危惧を示しているように、『正義論』を「哲学書」として、ロールズの価値観を内在的に理解しながら読むことには、これまでに「ロールズって自由を肯定するし福祉国家も支持するんだからいいじゃん」とやんわり思っていた読者をロールズから遠ざけてしまうおそれはあるだろう。福祉国家に比べるとロールズの提唱する「財産所有の民主主義」はおよそ経済政策としての現実味がなさそうだし、人間としての卓越性が強調されて、生き方や価値観がなんでもかんでも「善」と認められるわけではないことを「窮屈だ」「偏狭だ」と思う読者も多いはずである。

 

 とはいえ、ほどほどの目標やダラダラした生き方ではなく前向きに努力することを是とするロールズの卓越主義っぽさには好感が抱けるところもある。「がんばれない人」や「がんばらない人」のことを甘やかす議論ばかりが大手を奮っている昨今では、「がんばっている人」のための正義論を唱えるロールズの主張は新鮮だ。

「自分は貢献しないけれども、ほかの人が努力して創られた成果はいただく、ということは悪いことである。」や「…なにかを成し遂げるためには、ほかの人たちとの協力は欠かせないので、社会に貢献することを勧めている。」というあたりは、「サンデルによる「ロールズメリトクラシーだ」という批判にもつながってくるかもしれない(メリトクラシーは「能力主義」ではなく「功績主義≒貢献主義」という訳語の方がふさわしいので)*1。しかし、サンデルの本に関する書評記事でも書いたように、メリトクラシーはそれは私たちの正義の感覚に適っているがゆえに、魅力があるし、それを抜きにした規範も社会もあり得ないとも思う。

 また、一般的には徳倫理と関係があるコミュニタリアニズムを主張しているサンデルが『実力も運のうち』のなかで卓越性の価値を実質的に否定していた一方で、徳倫理と相反するはずのリベラリズムを主張するロールズのほうが卓越性を重視している、というのもやはり新鮮だ。

 

 ……とはいえ、ロールズが「政治的自由」を最重要しているあたりは、わたしとしてもあまり受け入れられない。サンデルにせよロールズにせよ、「そりゃ君たちは政治学者なんだからそもそも政治が好きだろうし政治が重要だと言わないとご飯食べられなくなるから政治を重要視するだろうけれど、ふつうの人にとって政治はそこまで(他のなによりも優先されるほどに)重要なの?」という疑問はやっぱり抱いてしまう。

 倫理学者のなかには「倫理なんてない」「道徳なんてなにも重要じゃない」というスタンスの人が一定数いる一方で、「政治は重要じゃない」というスタンスの政治学者はほぼいないところも、なんだか気になるところだ。

 

読書メモ:『神はなぜいるのか?』

 

 

 

写経。

 

●超自然的行為者と道徳的直観

 

道徳的直観は、社会的相互作用のための私たちの心的傾向の一部をなす。では、なぜ、それらが神や霊や先祖と結びつくのだろうか?それらの超自然的存在が道徳的理解とどう関係するのかを知るために、前に述べた二つの事実について考えてみよう。第一に、幼い頃から、私たちの道徳的直観は、行動の善悪は行動それ自体にあって、それをだれが考えるかや、どの立場から見るかに依存しないということを示唆する。第二に、神や霊や先祖は一般に、法やルールを与える者としてよりは、道徳的選択や道徳的判断における関係者とみなされている。これらのことは、実は同じ心的プロセスの二つの側面である。

(p.246)

 

…私たちの道徳的理解の構造は、神や霊の概念をより適切なものにするが、道徳的理解をもつのに、とくに神や霊が必要なわけではない。ここで言う適切とは、神や霊の概念が、いったん道徳性という文脈におかれると、表象するのが容易であり、多くの新しい推論を生み出すということである。たとえば、ほとんどの人は、道徳に反するように思えることをした時には、罪悪感を抱く。すなわち、自分に都合のよいどんな正当化をしようが、その状況についてすべてを知っている存在なら、それを悪のほうに分類するだろうという直観をもつ。ここで、この直観を「私がしたことについて先祖が思うこと」や「私がしたことについて神がお感じになること」に置き換えると、きわめて漠然としていたことが簡単に表象される。すなわち、私たちの道徳的直観のほとんどは明快だが、私たちにはそれらの起源がわからない。というのは、その期限が意識的にはアクセスできない心的処理のなかにあるからである。これらの直観をほかのだれかの観点として見ることは、なぜ私たちがこれらの直観をもっているのかを理解する簡単な方法である。しかしそれには、戦略的情報をすべて知ることのできる行為者の概念が必要である。

以上のことは、[神や霊に関して]なぜ「関係者」という考えが、人々の実際の思考のなかで「立法者」や「鑑」との結びつきよりもはるかに広まっていて有力なのかを説明する。関係者モデルでは、神や霊は私たちのすることについてあらゆる関連情報を知ることができ、それゆえ私たちが直観的に得る道徳的見解を彼らももっている、と考える。最初に述べたように、宗教的規範や手本は、文字通り人々の道徳的思考の起源ではありえない。道徳的思考は、異なる宗教的概念をもった人でも、そうした概念を持たない人でも、驚くほどよく似ている。さらに、これらの思考は、当然子どもでも生じるが、子どもはそれを超自然的行為者に関係づけることはない。そして、宗教的な人々でさえも、道徳的問題についての思考は、規範や手本によってよりも、ほかの人と共有する直観によって制約されている。

まとめると、次のようになる。協力行動をとる種としての私たちの進化の点から、道徳的推論において実際に起こっている心のはたらきーー子どもやおとなが行為の道徳的次元を表象するしかたーーは、十分に説明できる。そしてこれは、宗教的行為者という特別な概念も、特別な規範も、従うべき手本も必要としない。だが、戦略的情報をもった超自然的行為者の概念をいったんもってしまうと、すでにある道徳的推論に宗教的概念などを容易にはめ込むことができるため、宗教概念、規範や手本は、より顕著で適切なものになる。ある意味では、宗教的概念は道徳的直観に寄生している。

 

(p.248 - 250)

 

●現代で原理主義者が登場する理由

 

宗教に話を戻そう。私が示そうとしたのは、共同体を作る上で、あるいは効力のある信頼を築く上で、神々や霊についてなにも特別なことはないということである。しかし、そこで終わるわけにはいかない。というのは、そこには、宗教集団のメンバーが自分の仲間には私心のない協力を提供し、ほかの宗教や宗派のメンバーを危険だとか不快だとか人間以下だとかみなす時の極度の熱狂の説明がないからである。答えは、人間の連帯形成能力とその能力の柔軟性にある。これに関わる心的システムは、宗教的概念だけに特化しているわけではないが、ある状況では、宗教的概念は、どんな場合に連帯が期待されるかをかなり正確に示すものになる。

このことは、なぜ多くの宗教集団が、交渉の余地をほとんど与えずに、根本的な選択として所属を強調しようとするのかという理由なのかもしれない。宗教団体のなかのあらゆる種類のメカニズムが、人は永遠にそのメンバーなのだというこの意味を強化する。もちろん、たいていの社会では、「選択」があるというのは理論上のことである。つまり、サウジアラビアに生まれたなら、人はイスラーム教徒になることを「選んだ」り、イスラーム教徒の共同体、ウンマと一体感をもつことを「選んだ」りするわけではない。同じく、アメリカ合衆国では、キリスト教徒になることに選択の余地はほとんどない。しかし、ここでの要点は、どの場合も、人はそのアイデンティティを表明したいと思う程度を変化せることができ、それを連帯への関与や連帯の利益の源にすることができる、ということである。ある者は、浅い関与の戦略をとり、メンバーであることを認め、さまざまな税を支払い、メンバーに要求されるさまざまなことを行うが、その程度だ。別の者は、深い関与の戦略をとり、自分の忠誠を表明し、しばしば信仰のためなら驚くべき行為を進んで行い、そしてその見返りとして富、権力、威信、そしてほかのメンバーからの連帯の保証を手にする。さらに、別の者は、より危険な道を選び、集団のために喜んで人を殺したり、自分の命を投げ出したりする。

 

(p. 376 - 377)

 

…人間が自分たちの集団の共通の「文化的価値」を保持したいと自然に思うというのは、完全に自明なわけではない。なぜそうしたいと思うのだろうか?その動機はなんだろう?私たちはふつう、人々が自分たちの文化を守ろうという強い願望をもつのは、自分たちの文化がアイデンティティの感覚と連帯感とをもたらすからだ、と考える。しかし、これは論点先取である。先に述べたように、ある条件では、文化的な概念や規範には、そのように用いられるものもあるが、すべてがつねにそうであるとは言えない。この欲望が暴力につながるというのも、さらに自明ではない。それはまさしく、私たちが説明しようと思っていることだからだ。

原理主義者の反応をもっとよく理解するには、宗教的な環境において現代的影響のなにがそんなにも許しがたいのかをより詳細に記述し、原理主義者の反応が連帯のプロセスの問題だということを考慮するとよい。現代世界からのメッセージはたんに、ほかの生き方も可能であること、ある人たちは信じなかったり、別のことを信じたり、あるいは宗教的道徳に縛られていないと感じたりすること、あるいは(女性の場合には)男性の承認なしに自分で決定をくだすことができるということ、だけではない。メッセージはまた、人間は高い代価を払わずにそれができる、ということでもある。信仰をもたないものや別の信仰の信者は、排斥されない。法を遵守するかぎり、宗教的道徳に従わないものも通常の社会的地位をもつ。そして女性は、男性の庇護がなくても、目に見えるような悪い結果をこうむることはない。この「メッセージ」はあまりに自明に見えるので、これが連帯的思考にもとづく社会的相互作用をいかに深刻に脅かすのかを私たちは認識できない。宗教的連帯の視点から見ると、現代的状況においては、多くの選択が高い代価を払わずになされうるという事実は、離脱は高くつかないし、それゆえ離脱が起こりやすいということを意味する。

 

(p.380 - 381)

 

●結論

 

私は、宗教を、すべての人間の心のなかにあるシステムの点から説明してきた。それらのシステムは、貴重で興味深いあらゆる種類の仕事をするが、本来は宗教的概念や宗教的行動を生み出すためのものではない。宗教の本能といったものはないし、心にそういった特殊な傾向もないし、宗教的概念のための特殊な性質もない。脳のなかに宗教の中枢があるわけでもない。信心深い人は、そうでない人と基本的な認知機能において異なるわけではない。信仰や信念は、概念や推論が宗教以外の領域ではたらく時と同じようにはたらいた結果にすぎないように見える。

宗教的な心の代わりに、私たちが見出したのは、いくつもの見えざる手という物足りなさの残るものだった。これらのプロセスのひとつは、人の注意を、特定の概念の可能な組み合わせに向けさせる。また別のプロセスは、それらのうちのいくつかの想起を強める。また別のプロセスは、もし行為者の概念が戦略的情報をもつ者や道徳との結びつきなどを含んでいるのなら、それらの概念をはるかに獲得しやすくする。心のなかの多重の推論システムの見えざる手は、これらの概念と生活のなかの際立った出来事との間にあらゆる結びつきを生み出す。文化的淘汰の見えざる手は、人々が獲得し伝達する宗教的概念を、その環境のなかで、もっとも説得力をもつように見えるようにするのだ。

これが物足りないことだというのは、宗教が私たちの脳の単なる結果や副産物として描かれていて、これはとりたてて劇的なものではないからである。しかし宗教そのものは劇的であり、多くの人々の生きる支えであり、きわめて感情的な体験に関係し、人を殺人や自殺に駆り立てることもある。私たちは、劇的なものごとの説明も同様に劇的であってほしいと思いがちである。似たような理由から、宗教に憤慨し宗教を拒絶する人々も、彼らには大いなる誤りに見えるものの唯一の原因ーーきわめて多くの人間の心が道を誤る、いわば分岐点ーーを見つけようとする。しかし実際には、そういった単一の地点などない。なぜなら、宗教的概念に説得力をもたせているのは、さまざまな認知プロセスの共謀だからである。

もちろん、私がそれをよいことと思っているのに、物足りないこととして述べたのはちょっとずるすぎたかもしれない。私たちが隠れた手や簡潔なデザインを見出せずに、代わりに調べ方のわかっているさまざまなプロセスを見出すということは、科学の営みにおいては時折あることであり、それはつねによい方向を向いている。この進展は、認知プロセスのことがよくわかっているので、宗教をよく理解できる、ということだけではない。逆にそれは、人間のもつ宗教的思考の傾向を研究することによって、私たちの心のしくみの多くの魅力ある特徴を浮き彫りにし、それらをよく理解できるようになる、ということでもある。これらの複雑な生物学的機械がどのようにありもしない幻に居場所と名前を与えるのかを理解すれば、それらの機械についても多くのことが明らかになるはずである。

(p.427 - 428)

 

読書メモ:『自由原理:来るべき福祉国家の理念』

 

 

 あまりコメントすることがないので、覚えておきたい箇所の「写経」みたいな記事になっちゃいます。

 

ヌスバウムのケイパビリティ論について

 

第一に、アリストテレス的な社会民主主義の文脈におけるケイパビリティ・アプローチは、人間的な善を、客観的かつ包括的に把握するため、ケイパビリティは、人々の欲望とは独立して促進するに値するものとされる。不平等と差別の構造は、人々が選択したり価値を置いたりする際の理由を歪めているかもしれず、人は自己の欲望に基づいて正しい判断をすることが難しいからである。これに対して、ロールズ的な政治的自由主義の文脈におけるケイパビリティ・アプローチは、人間的な前についての客観的な把握を退ける。その場合のケイパビリティ・アプローチは、各人が自分で自分の善き正を選びとる能力とみなされ、そのような能力をもった人々が、政治的な意思決定に参加することが望ましいとされる。潜勢的可能性としてのケイパビリティは、そうした選択の背後に前提とされる、ケイパビリティの選択肢集合を与えるものとして位置づけられるだろう。

ただし、政治的自由主義が想定する「善き生の選択能力」としてのケイパビリティは、その能力を政治的自由のための手段とみなすが、潜勢的可能性としてのケイパビリティは、それ自体が善き生の理念であり、政治的自由を実現するための手段を超えたものとみなすであろう。それは人間の内的ー生成に関わる善き生であるがゆえに、無限に促進されるべきものであり、またそのような可能性を秘めたものとして肯定されなければならない。さらに、潜勢的可能性としてのケイパビリティは、他のケイパビリティを発展させる作用としても、肯定されなければならない。新たな人間的善の生成を促すことは、人間的世界の多様性を促すと同時に、人間の潜在能力を最大限に発揮するという理想に近づく。潜勢的可能性としてのケイパビリティは、新しい善の可能性を拓き、その生成を促すという観点から促進される。……(中略)……

第二に、アリストテレス主義は、ケイパビリティに基づく善き生の実現を義務として捉え、各人は、善の客観理論を構成するケイパビリティを、実現する機械をもたなければならない、と考える。その場合の機能のリストは、善き生の構成要素であり、それは、人間の生活にとってなにが最も価値あるものかについての評価的な探求から生まれ、ある一定の文脈のなかでは客観的に同定されるとみなされる。これに対してロールズの政治的自由主義は、ケイパビリティを権利のための道徳的基礎であるとみなし、人びとが自分で望んだ生活を自由に探究するために必要なものとみなすだろう。その場合のケイパビリティのリストは、どんな特定の善理論にも依拠しない。それは、人々の評価的な探究によって導かれるのではなく、人々のあいだで重なる合理によって特定されるべきである、とみなされよう。

ここで注目すべきは、権利としてのケイパビリティのリストが、人々の重なる合意によって導かれる場合、そのリストの中身が、各人の探求と選好に応じて、無限の可能性に開かれているという点である。……(後略)

 

(p.125 - 126)

 

 

●「器のなかの卓越主義」

 

J・S・ミルの場合、もしある高次財(例えばクラシック音楽)を経験した人のほとんどがそれをよいと認めるならば、その高次財はウェルビイングの観点から共有されるべきであるとみなされる。このような判断の背後にはおそらく、人々はそのような高次財を享受するために、人格を陶冶することがふさわしいという信念があるだろう。しかしこのように、人格の理想(「人間的完成の理想」)に照らしてウェルビイングの程度を測るよりも、むしろ各人が自分で自分の器を評価し、バランスのとれた仕方で理想を求めるほうが望ましいのではないか。各人は自分の器に照らして、ある程度まで人格の理想を追求し、ある程度まであきらめた方が望ましいのではないか。グリフィンは、ミルやシジウィックの功利主義を補うために、「深慮ある卓越主義(prudential perfectionism)」という立場を展開している。すなわち、各人がどれだけ人格を陶冶することができるのかという器に照らして、ウェルビイングを判断するという考え方である。

グリフィンによれば、「諸々の器の異なるコンビネーション、あるいはさまざまな程度の器をもった人々」は、それぞれの処世術的価値にしたがって、よりよい状態に至ることができる。器の大きい人は、すぐれた能力の実現、すなわち卓越の基準を自分の内的動機として取り込むだろう。器の小さい人はそれほどでもないだろう。こうしてウェルビイングの基準は、グリフィンにおいては各人の器の程度に応じて設定され、その器に即して各人に機会を与えることが望ましいとみなされる。

(……中略……)

自分を知るとは、自分の器を知ることである。ウェルビイングをめぐるグリフィンの立場は、このような人生理解から、各人がその器にふさわしい実践をすること、自分の器を満たすこと、あるいはその器を従前に機能させることが望ましいと解釈する。しかし私たちが自分の器について無知であり、器の大きさが不明確であるとすれば、どのように対応すべきなのだろうか。

 

(p.243 - 245)

 

現実逃避としてのケア論(読書メモ:『「格差の時代」の労働論』)

 

 

…労働や生産性を人間にとって最も重要な価値であると規定し、そうした価値を促進すように社会の諸制度は編成されることを唱導する「労働中心主義社会」も、まさしく卓越性原理に基づく社会であると考えることができるのだ。

『正義論』を執筆した中期のロールズは、こうした労働中心主義社会に反対していた(社会の効率や生産性よりも正義の実現の方が優位にある)。…

(p.185)

 

もしこれらの利益(自尊心、社会からの承認、疎外感の克服、健康)を与えてくれる活動が労働以外にもあるならば、「社会が雇用主」となる必要はなく、人びとがそうした活動を行うことを可能にするための、ベーシックインカム政策のみを政府は施行すればよいこととなる。問題は、今のところ、そうした活動は「労働」以外には無い、という点である。

(……中略……)

なぜ無いのか、またなぜ無いといえるのか。

それはこの社会が依然として労働中心主義社会だからである。

(p.202 - 203)

 

そんな社会情況のなかで、「労働中心主義」の呪縛から逃れるためには、つまりこの労働に対する過度の価値付与を修正するためには、労働を取り巻く環境の改善という現実的思考と、それと並行して労働の新たな意味づけという抽象的思考の両方を我々は模索しなければならないのではないだろうか。

 

そのための選択肢として、三つの立場を挙げうる。

第一に労働中心主義社会を保持したままで「労働の解放」を目指す立場。労働は人間の本質的な活動であるという近代的な考えを修正することはないが、労働環境の改善(職場の民主化等)を通じて、誰もが有意義な労働を行うことができるような状況を生み出す。(若き)マルクス主義、そしてサンデルの共和主義などがこれにあたる。

第二は、同様に労働中心主義社会を保持するが、ワークシェアや普遍的な所得保障を実現することで「労働からの解放」を目指す立場。労働には価値はあるが、辛い活動であり、有意義な余暇の時間をできるだけ増やすことによって古典古代の人間性の回復を志向する。ラッセルや今村仁司などがそれにあたり、ベーシックインカム論者の多くもこれを支持する。

第三はベーシックインカムを実現することを通じて、労働中心主義を解体し、働くことの意味を再構築した上で、生きるために低賃金でも働かざるをえないという状況から「有意義な労働への権利」、並びに「働かない権利」を制度的に保証するという立場である。これが、ロールズの主張する「財産所有の民主制」に基づきながら、私が最も望ましいと考える立場である。

 

(p.205 - 206)

 

「最も望ましい」かもしれないけれど、問題なのは、それに実現可能性があるかどうかというところだろう。ロールズの正義論はあくまで理想理論であり、具体的な問題については、何が望ましいかと言っているだけでは足りない。それに比べると、第一や第二の選択肢のほうが、程度問題ではあるがある程度の実現可能性はありそう(少なくとも実現を志向してはいる)という点でずっと好ましい。

 そもそも、「労働中心主義」が存在するとしてそれを解体することは可能であるのか、という問題がある。この本のなかでは「自尊」を重んじるロールズが「労働以外の活動からも人々は自尊の感覚を得ることができると考えていた」(p.184)ことが指摘されて、具体的には文化的活動や政治的活動が自尊や自己実現の元となることが述べられている。これは、この本やロールズに限らず、大体の政治学者や人文学者や学問ファンや本好きや怠惰なツイッタラーがこぞって述べているような、凡庸でありきたりな主張だ。そして、これだけ多くの人が「労働中心主義」の解体の必要性を唱えているにも関わらず、全く解体される気配がないことからは、やはり目を逸らしてはいけないだろう。

 

 この本の最終盤で著者が提唱するのが「絆としての労働」論だ。

 

換言すると、他者との社会的な絆を形成し、それを維持することを目的とする活動も<労働>と名付けられるであろう。たとえ、それが経済活動としては低レベルだったり、無意味だったりしても。そして、それこそが「正しい労働」ではないだろうか。

(p.216)

 

このように考えてくると「生きることは労働だ」という障がい者運動における主張も別様に解釈することが可能となろう。脳性マヒによって、寝返りを打つことさえも一苦労な状況にある人にとっては、生きていること自体が「労働」である、すなわち「骨折り(labor)」であるということをこの主張は含意していた。しかし、障がい者の生存のために介護や自立支援を行うことを通じて、人びとの間にネットワークが形成されることは、もう一つの側面から解釈すると<労働の発生>とみなしうる。生きていること自体によって人びとを結びつける活動を障がい者は行っているのである(同じことは乳幼児や高齢者にも当てはまる)。

 

(p.216 -217)

 

 上記の議論も、なんだか綺麗事というか「お題目」という感じが漂う。

 労働や生産性(≒経済)が関わる事柄について人間関係や絆(≒ケア)を持ち出したり「障がい者」を持ち出したりしながらなにかしらの「解釈」を提示してなんだか解決した感じにする、というのはここ最近の人文学ではすっかり定番の展開となっている。しかし、このテの議論は、経済に関する通常の議論が目を向けて扱おうとしているジレンマやトラブルから目を逸らすものでしかないように思える。

 高齢化社会が社会で大問題となっているのは、労働によって物品や富などのリソースを生産することができる人口の数が減り、自分ではリソースを生み出せず消費することしかできない人口の数が増えることで、社会全体で分配されるリソースの平均量がどんどん少なくなっていって人々の生活の質が全体的に下がっているという現状に不満を抱く人が多かったり、やがて社会が破綻することを危惧している人の数が増えていたりするからであろう。通常の経済活動がケア活動に依存していることが指摘されるようになって久しいが、その一方で、ケア活動も通常の経済活動に依存していることも忘れてはいけない。みんなが「他者との社会的な絆を形成し、それを維持することを目的とする活動」だけをしているわけにはいかないのだ。

 同じく、文化的活動や政治的活動をする人ばっかりの社会も、まともに機能するとは思いがたい。結局のところ、社会は「生産性」を必要としている。生産性を個人にとっての重要な「価値」と定義することは卓越主義につながってロールズ的にはダメかもしれないが、社会がある程度以上の生産を行い続けることが個人にとっても「必要」であることは認めるべきなのだ。……そして、社会における生産が継続するかどうかは、結局のところは個人の行動に委ねられている。

 

 このテの本では労働や経済活動が大なり小なり軽んじられたり憐れまれたりする一方で、ケア労働をしている人と障がいを持って生きる人は、文化的活動をしている人や政治的活動をしている人と並んで望ましい存在としてやたらと価値を見出される、というのもなんだか不思議だ。いろいろと理屈はつけられるが、最終的には象牙の塔に引きこもっている(ロールズを含めた)人文学者たちに特有の「生産性」嫌いや「経済」嫌いおよび「政治」好きと「文化」好きによるもの、つまりは趣味や嗜好の表明に過ぎないのではないか、とわたしは疑っている。

なぜ人類学者は人間の「共通点」ではなく「差異」を強調するか?(『ヒューマン・ユニヴァーサルズ:文化相対主義から普遍性の認識へ』)

 

 

 

 原著は1991年であり、スティーブン・ピンカーの『心は空白の石板か』の11年前に出版されたもの。当時における文化人類学が人間の「普遍特性」の存在を認めなかったり軽視したりすることを批判して、人類学において普遍特性をいかに扱って説明すべきであるか、ということが論じられている。

 

 この本で繰り返し指摘されているのは、異なる社会や異なる文化に生きる人たちの間の「共通点」や「差異」を文化人類学者が強調しがちであるということには、学問的な方法論やディシプリン以前の営利的な事情が関わっているということだ。

 

ここで述べてきた歪曲ーーとりわけ心の白紙(タブラ・ラサ)説ーーに関して、人類学者は全面的な責任があるわけではない。しかし、社会や文化による差異や決定を強調したいという人類学者の職業上の動機は、そう簡単には片づかない。社会や文化の違いの存在を示せば示すほど、そしてそれらが純粋に社会や文化の力学を反映していると論じれば論じるほど、社会・文化人類学者(あるいは社会学者)は、学問の世界と実際的な人間の営みにおける自らの役割をより正当化でき、その結果より多くの収入を得、より多くの聴衆を聴衆を講演に集めることができ、研究費も増え、書くものもより広く読まれるようになる。責任の一部は、直接人類学者が負うべきものだ。なぜなら、サモアでは思春期のストレスがないと報告したのも、チャンブリ族では性役割が逆転していると報告したのも、ホピ族では時間の概念がないと報告したのも、人類学者だからである。そしてこれらの報告を真に受け、人類が限りない可塑性をもっているという神話にそれらを織り込んだのもまた、人類学者である。なによりもこのことが、すべての文化に共通する規則性や客観的基準といったものは実質的には存在しないという立場をとる(あるいはそれにつながる)極端なかたちの相対主義に、実証科学の力を貸すことになった。

(p.275 - 276)

 

 また、「心の白紙説」や「人類も限りない可塑性」を強調する議論の背景には、ある種の道徳的・イデオロギー的な動機もあった。

 

[行動主義の創始者であるジョン・ワトソンの有名な言葉に関して]*1今考えてみると、個人差への環境の影響について述べたこの有名な言葉は、人間の心の「能力」を「モジュール(機能単位)」として見る見方の最も極端なものーー人間の心が数多くの生得的で高度に特殊化したメカニズムから構成されているという見方ーーとなんら矛盾しないのは明らかである。しかし、その時代の社会学者や人類学者は、ワトソンの論法になんの欠点も見出せなかったようであり、ワトソンと同様の結論を引き出した。すなわち、人間は社会や文化の産物であって、社会や文化を変えれば人間を変えることができ、社会や文化の力学を知れば人間の営みもコントロールできる。知的で科学的な社会化によって、人間は自分がなりたいものになることができる。こうした見方は、大勢の社会科学者のものの見方に合うだけではなく、さまざまな階層のアメリカ市民にアピールする、平等主義と科学に対する楽観的な信仰も具現していた。ワトソンは預言者として歓迎され、彼の考え方は、家族、労働力、産業、そして社会全般に関わるさまざまな問題を解決できるように思えた。

しかし、ワトソンは「すばらしい考えを提示した」が、その考えを支持するために示した実験的証拠は、ないも同然だった。[マーガレット・]ミードの『サモアの思春期』も、これに負けず劣らずすばらしい考えの例だが、この本の成功もこの文脈の中で見る必要がある。それは、際立って行動主義の主張を確証しているように見えたのだ。

(……中略……)

ミードの考えは、社会科学の教科書に長い間根を張った。その考えの需要は、人類学だけでなく、それをとりまく広範な領域において支配的になりつつあった思想をミードの考えが的確に表現していたことを反映していた。(文化相対主義などの)代表的な環境決定論と、社会科学を実際の社会問題に適用できるという楽観論との同一視は、現在にいたるまで影響力をもち続けている。

生物科学が社会科学の明確なガイド役とはなりえなかった時代に、こうした展開があったのは確かに、偶然ではない。ダーウィン的な考えは、それが社会ダーウィニズム全般に結びついたり、とくに優生主義に結びついたりしたために、汚されていた。さらに、進化論が一層の飛躍をとげるには、ダーウィンとメンデルの研究の統合を待たなければならなかった。R・A・フィッシャーの『自然淘汰の遺伝的理論』[1930]に始まるこうした統合が起きるまで、生物学の理論的展開に注意を向けた社会科学者はほとんどいなかった。

(p.107 - 109)

 

[1950年代前半に]続く十年ほどの間は、人類学の本流では普遍特性を一般に明示的に論じた著作の数は増えず、人類学の大部分で、大きな後退が見られた。戦争直後に湧き上がった普遍特性への熱がなぜ冷めたのかについては、普遍特性に対して多くの人類学者たちがまだ抱いていた相反する感情に加え、おそらくさらに二つの理由があった。普遍特性への関心は、一九三〇年代後半から四〇年代にかけての大きな危機ーーナチスの台頭ーーに際してなんらかのしっかりした基盤をもちたいという望みによって刺激されていたのだが、この危機が去ってしまうと、そうした普遍特性への関心も薄れてしまったということなのかもしれない。実際、これに続く大きな世界的危機ーー第三次世界大戦の脅威ーーに際しては、多くの学者たちから、寛容とそれを支える文化相対主義の新たな支持を求める声が起こった。第二に、人類学者が普遍特性を喜んで受け入れたにしても、普遍特性をどのように説明すべきか、あるいは、おそらくもっと重要なのだが、普遍特性への関心をどのように研究に結実させるかということが、あまり明確ではなかった。心理学は依然として行動主義に偏りすぎており、ほとんどガイド役にはならなかった。進化生物学でなにが起こりつつあるのか、あるいはそれが役に立つのかどうかをーー文化の進化への人類学的関心にもかかわらずーーわかっている人類学者も、ほとんどいなかった。

(p.129 - 130)

 

 この本のなかでは、文化人類学において普遍特性と文化相対主義とが各時代にそれぞれどのように扱われてきたかを示す第三章「普遍特性研究の歴史」がもっとも興味深い。また、第四章の「普遍特性を説明する」ではいくつかのタイプの説明が紹介されるが、基本的には進化論的・生物学的な観点からの説明が主となる。

 文化の当事者たちの観点や枠組みから内在的に説明する「イーミック(emic)」と、外在的に説明する「エティック(etic)」という分析枠組みに関する説明(そして、一部の文化人類学者はイーミックなことにこだわるあまりエティックな普遍性を見逃してしまいがちなこと)も、興味深かった*2

 第六章の「普遍的人間」では、地域や時代を超えてどこの集団や個人にも当てはまる数多くの特徴を記述しながら、普遍的な<人間>が描かれる。たとえば以下のような感じ。

 

<人間>は善悪を区別する。そして、前に述べたように、少なくとも暗黙にではあるが、責任と意図を認める。また、約束もわかり、約束を交わす。人間のモラルで鍵となるのは、前述の互酬性と共感の能力である。嫉妬は普遍的に見られる。嫉妬のもたらす不幸な結果に関して、それを扱う象徴的な方法(たとえば呪術)も普遍的にある。

(p.246)

 

 さて、『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』が出版されてから三十年が経っても(『心は空白の石板か』からも二十年が経っている)、「心の白紙説」や「人類も限りない可塑性」を強調する議論は相変わらず提出され続けている。その理由についても相変わらずブラウンの説明が当てはまるように思える。……つまり、人間の共通点ではなく差異を強調する議論の方がおもしろくてワクワクして魅力的なので、多くの人に読まれて売れ行きがよくなる、ということだ。

 また、普遍的特性を認める議論は、「文明」や「国家」や「市場」などの「制度」の利点や価値を認める議論にもつながる。人間が安全に快楽に関する同じような欲求を(社会とか資本主義によって喚起されて作り出されるのではなく)生得的にに持っているのだとすれば、それらの欲求を満たしてくれる制度はどんな人間にとっても好ましいものだとか、制度がない状況とある状況との両方を経験したらどんな人間も後者を求める、といった主張を展開できるかもしれない。また、人間には暴力的な傾向や残酷な性質が普遍的に存在するのだとしたら、それをより抑制できる文化や価値観はそうでないものよりも道徳的に優れている、と主張することも可能であるはずだ。……実際、ピンカーの『暴力の人類史』や一部の文明史家・経済史家の著作では、このタイプの主張が展開されている。

 一方で、アナーキストたちの主張は人間は「制度」から解放されて自由になった方が幸福になる、ということを前提としている。おそらく、彼らの主張は、人類には普遍的特性とそれに伴う制約が存在するという議論(というか事実)とは相容れない。だから、アナーキズムサヨクの運動では、経済学者でも政治学者でも倫理学者でもなく、デビッド・グレーバーのような「人類学者」によるお墨付きが求められるのだ。……グレーバーに限らず、日本の論客にも同様のタイプの人はちらほらといるように思われる(文化人類学者の人もいれば、人類学の議論を援用した「哲学」を論じるタイプの人もいそうだ)。

 

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*1:「私に健康で発育の良い1ダースの子どもと彼らを養育するために私が自由に設定できる環境とを与えてほしい。そうすれば、その子どもたちに適切な環境と経験を与えて、医師や弁護士、芸術家、経営者、ホームレス、泥棒などにすることができるだろう」

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0257792

*2:

www.nihongo-appliedlinguistics.net