道徳的動物日記

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ロールズの社会は「地獄」なのか?(読書メモ:『<責任>という虚構』)

 

 

 以前に同じ著者の『社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 』も読んだけれど、読んでいてとにかくイライラした。本書も同じく。

 著者の立場は極端な社会構築主義。『責任という虚構』にせよ『社会心理学講義』にせよ、「自由意志」は存在せず「責任」はだれかに罪や貧乏クジを押し付けて社会秩序を回復するための虚構に過ぎないと言い張ったうえで、自由意志とそれに伴う責任を前提としたうえで有るべき社会秩序を考えて「規範」を説こうとする哲学者の傲慢さや偽善性を批判する、という論旨がよく登場する。また、ベンジャミン・リベットの実験やスタンフォード監獄実験などの脳科学・心理学の研究結果をかなり大袈裟に解釈して牽強付会に用いているところも特徴。ほかの心理学者の本を読んでみるとなんだかんだで謙虚であり、「現在の心理学の知見で言えるのはここまで」「ここから先の文明論や人間論は哲学や社会学などの他の領域の出番である」という切り分けが意識されているものだが、小坂井の議論はオレ流社会心理学帝国主義となっていて仰々しく大雑把。しかしこの大雑把さのために一昔前や他学問に対する敬意がなかった頃の「哲学」っぽい内容にもなっていて、牽強付会な議論こそが哲学や人文学であると勘違いしているタイプの読者を釣りやすい本として仕上がっている。

 そして論旨や議論の内容以前にイライラさせられるのが、断定や決め付けが多くてやたらとレトリカルで、読者に対してニュートラルな知識・議論を提供しようとするフェアネスも他の論者に対する敬意も感じられない、傲慢な文体である。他の読者たちの書評を見るとこの文体を「明晰」だと評価していたり「知性」を感じていたりするようだが、そういう読者は粗雑さや性急さを明晰さと勘違いしたり謙虚さの欠如を知性だと勘違いしているだけだと思う。

 とくにひどいと思ったのは第6章の「正義という地獄」の節。

 

正義という地獄

問題はそれだけに止まらない。人間世界の<外部>を排除し、あくまで内部に留まったままで秩序を根拠づける試みは論理的に不可能なだけでなく、ロールズの善意を裏切る悲惨な結果が待つ。

『正義論』が構想する社会において底辺の人々は自らをどう捉えるだろうか。遺伝・家庭・教育・遺産など外因に左右される能力は本人の責任でないから、そのために劣等感を抱く必要はないとロールズは説く。格差は単なる手段であり、人間の価値が判断されるのではない。

 

[……]最も恵まれない状況の人間が他者に劣ると考える理由はない。一般に同意された公共原理によって、彼らの自尊心は保護される。自他を分ける絶対的または相対的な格差は、その他の政治形態における格差に比べれば感受しやすいはずだ。(※ロールズの本からの引用)

 

だが、このような理屈や慰めは空疎に響く。ロールズの想定する公正な社会では下層の人間にはもはや逃げ道はない。社会秩序が正義に支えられ、改装分布の正しさが証明されている以上、自分が貧困なのは誰のせいでもない。まさしく自らの資質や能力が他の人より劣るからに他ならない。貧富の差は正当であり、差別のせいでもなければ社会制度に欠陥があるのでもない。恨むなら自分の無能を恨むしかない。ある日、正義を成就した国家から通知が届く。

 

欠陥者の皆さんへ

あなたは劣った素質に生まれつきました。あなたの能力は他の人々に比べて劣ります。でも、それはあなたの責任ではありません。愚鈍な遺伝形質を授けられ、劣悪な家庭環境で育てられただけのことです。だから自分の劣等性を恥ずかしがったり、罪の意識を抱く理由はありません。不幸な事態を補償し、あなた方の人生が少しでも向上するように我々優越者は文化・物質的資源を分け与えます。でも、優越者に感謝する必要はありません。あなたが受け取る生活保護は、欠陥者として生まれた人間の当然の権利です。劣等者の生活ができるだけ改善されるように社会秩序は正義に則って定められています。ご安心下さい。

 

同期に入社した同僚に比べて自分の地位が低かったり給料が少なかったりしても、それが意地悪い上司の不当な査定のせいならば自尊心は保たれる。序列の基準が正当でないと信ずるからこそ人間は劣等感に苛まれないですむ。ロールズの楽観とは逆に、公正な社会ほど恐ろしいものはない。社会秩序の原理が完全に透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界だ。

 

(p.368 - 369)

 

 まず、「欠陥者の皆さんへ」と題された手紙が届くというくだりは、ロールズなどの平等主義論者に対する「平等性からの屈辱的な手紙」批判として英米系の政治哲学者の間では広く知られており、元ネタはアメリカの哲学者エリザベス・アンダーソンの論文「平等の要点とは何か」である。さすがに「註」にはそのことが書かれているが、多くの読者は「註」まで読まないものなので、わたしだったら「エリザベス・アンダーソンの有名論文によると〜」といった風に本文中に元ネタの名前を挙げるだろう。とくに「平等性からの屈辱的な手紙」批判は具体的なイメージを想起させやすい印象的な批判だけに、「こんなに鋭くておもしろいロールズ批判を考えられるなんてこの本の著者はすごいなあ」と読者に誤解させてしまう可能性が高い。実際、『責任という虚構』の感想を調べてみると、元ネタがアンダーソンであることを忘れて(註を読まずに?)「平等性からの屈辱的な手紙」批判とは小坂井オリジナルのものだと思っている人もいるようだ。

 そして、『平等主義基本論文集』の監訳者である広瀬巌の「あとがき」によると、元ネタであるアンダーソンの論文自体も、哲学者たちの間では必ずしも高く評価されていないようである。

 

アンダーソンの論文は二つの点で重要とされている。第一に、運の平等主義に対する重要な批判をしたという点。第二に、「民主的平等」ないしは「関係性平等主義」と呼ばれるようになった立場を初めて表明したという点。第一の点について言えば、アンダーソンは大まかに二つの批判を繰り広げている。一つは「平等性からの屈辱的な手紙」批判、もう一つは「遺棄」批判である。前者の批判はまったく的はずれな批判と目されており、真剣に議論されることはない(同じような屈辱的な手紙は、いかなる分配的正義の理論に対して書くことが可能である)。

あとがきたちよみ/『平等主義基本論文集』 - けいそうビブリオフィル

 

 とはいえ、「平等性からの屈辱的な手紙」批判はマイケル・サンデルの『実力も運のうち』でも引かれていた。「恵まれない人に対する再分配を行う際に、国家(アンダーソンの元ネタでは「国家平等委員会」)から"あなたは恵まれない可哀想な人間なので、再分配の対象になりました”とわざわざ強調する手紙が届く」という光景のインパクトは強いし、その手紙が恵まれない人に与える屈辱感についてもわたしたちは想起して同情してしまうから、つい印象に残ってしまうのだろう。……逆にいえば、アンダーソン(と小坂井やサンデルなどの追随者)は、おそらく意図的に読者の感情を操作して、論理的でないかたちでロールズや運の平等主義の説得力を下げようとしている。

 もちろん、ロールズや運の平等主義者たちの提唱する「正義」が仮に実現したとして、国家や再分配機関がわざわざ「手紙」を送ることはないだろう。再分配をする際に、対象となる人に「屈辱」を与える意味がないからだ。実際には、「平等性からの屈辱的な手紙」批判では手紙が送られるかどうかは重要ではなく、「生まれ持った能力の格差や運の悪さに対しても再分配による補償がなされるほどに平等が実現した社会では、自分の人生がうまくいかなかったり競争に敗れたりしたときに言い訳することができなくなり、能力のない人は自分の能力のなさを常に思い知らされ続けて逃げ場の余地がなくなる」という点に主眼が置かれているようだ。

 

 とはいえ、引用部分で書かれている通り、ロールズは「公共原理」が一般に同意されたら「最も恵まれない状況の人間が他者に劣ると考える理由」はなくなると考えている。

 ここでロールズが想定しているのは、正義の各原理が完全に達成されて、再分配がなされる根拠である正義の原理について人々が完全に理解している状態での社会におけるわたしたちの思考や感性であるだろう。

 ロールズ流の正義論(または運の平等主義など)がしっかりと実現された社会とは、財や資源が格差原理などの正義の原理にしたがって配分される社会というだけでなく、社会の成員がその配分の理由を理解して同意している社会でもある。そのような社会では、ある人の状況が恵まれないこととその人が他者よりも劣っているかどうかはまったく関係がないこと、また自分の才能や能力の有無は道徳的には全く恣意的な事柄であるために自分が恵まれた状況で過ごせるかどうかとも本質的には関係ないといったことを、自分も他人も理解している。

 そのような社会では、たしかに、恵まれない状況にいる人が他者よりも劣っていると考える人はいなくなるはずだ。再分配によって資源や財を得られる側の人々は劣等感や恥辱を抱くことなく「能力のある人たちが稼いだ財が能力のない自分に再分配されるのは、公共の原理(正義の原理)にしたがっているのだから正しいことなのだ」と考えて堂々と受け取れるだろう。さらに、稼いだ資源や財の一部を再分配のために徴収される側の人たちすらも「これが正しいことなのだ」と納得するはずである。

 もちろん、これは理想である。実際にはわたしたちがロールズの正義論や運の平等主義の背景にある考え方を完全に受け入れて内面化することは困難だろう。自分が稼いだ財を能力のない人に再分配するために徴収されることには多かれ少なかれ苦痛や理不尽さを感じるだろうし、才能や能力のある人はそうでない人よりも恵まれた生活に「値する」という直感的な考えを是正するのは能力のある人とない人のどちらにとっても難しい。配分的正義に関する議論とは、「財や資源に(分配が可能かつ分配が必要とされる程度の)希少性があること」と「人々の利害関心や優先順位が異なっていること」という、非理想的で現実の状況に類するような「正義の情況」を前提としたうえで、「その情況では財や資源はどのような根拠に基づいて配分することが望ましいか」というベストな原理を探究するための、あくまで理想論である。

 しかし、「財が希少であるうえに人々の意見も異なるなかで財の配分のルールを定めなければならない」という「正義の情況」自体は常に存在している。どうせ財の配分が必要となるならば、適当に定められたルールや特定の人にとってだけ都合の良いルールや伝統的ではあるが根拠の不明なルールなどに基づいて配分されるよりも、平等であったり公正であったりして根拠もはっきりしたルールに基づいて配分されたほうがよい、ということには大半の人が同意するはずだ。ベストなルールを定めたところで現実の社会では様々な問題からそのルールは実現されず財の配分には歪みが生じるかもしれないが、「本来であればこのルールにしたがって財が配分されるべきであった」という理想的な基準や規範が存在することで、ようやく、「現状の財の配分のされかたは間違っている」と批判したり問題を提起したりすることができる。だからこそ規範は必要になるのだし、「責任」といった概念についても考える必要があるのだ。

 

 上述したようなポイントは、ロールズに限らず、政治哲学や倫理学の枠組みで規範を論じている哲学者たちの大半が自覚しているものだろう。したがって、「お前たちの論じていることは空想的な理想論だ」と断じるだけでは、規範論に対する批判にはなっていない。哲学者たちは、理想や規範と現実との落差を理解しながら、理想を論じるべきところでは理想を論じて、現実を論じるべきところでは現実を論じているだけである。

『責任という虚構』や『社会心理学講義』などの小坂井の本では、規範を論じる哲学者たちに「傲慢」「偽善」「おぞましい」などの価値判断を含む言葉を使いながら非難を浴びせかけられている。

「〜であるべきだ」とか「〜は悪い」といった規範を論じることを否定しながらも「規範は論じるべきでない」とか「規範を論じる行為は悪い」といった判断がなされているのだ。これは哲学者ならすぐに気が付くような、倫理的相対主義にありがちなジレンマである*1

 同じような問題は御田寺圭の『ただしさに殺されないために』にも見受けられるし、日本人が社会の状況について批評的に論じた著作の多くに見受けられる。哲学者やリベラルやフェミニストなどが「ただしさ」を語ることは否定しながらも、「ただしさがもたらしている悪さ」や「ただしさを語っている連中の悪さ」をあれこれあげつらって非難することで「ただしさ」を語るという自分の行為だけは特権的に許容する……という構造の議論は規範や「ただしさ」に対して居心地の悪い思いをしている人や規範や「ただしさ」を守りたがらない怠惰な人にとってはウケが良く、文筆の世界では昔から定番の手法となっており定期的に登場するが、使い古されているぶんかなり凡庸であるし知的にも見るべきところはない*2

 そして、小坂井は単にロールズを非難するだけでなく、彼が理想論としての正義を語る背景を無視しながら「善意」や「楽観」などの言葉を使うことで、ロールズは「頭がお花畑のアホ」であるかのようなイメージを読者に与えようとしている。もちろん、「現実を冷静に理解しているオレ」と対比させて自分の議論にハクをつけるためだ。『<責任>という虚構』はちくま学芸文庫で増補版が出版される程度には評価されている書籍であるようだが、やっていることはどこぞのネット論客とさして変わらない。

 

「平等性からの屈辱的な手紙」批判に話を戻すと、「完全に平等が達成された社会では"言い訳"の余地がなくなり、不平等が残っている社会よりもむしろ惨めさを抱くようになる」というポイントにはサンデルも賛同しており、それなりに説得力のある懸念だとみなされているようだ。サンデルが大学入試くじ引き論を主張する背景にもこの懸念が存在する*3。また、アンダーソンの論文では、配分的正義の問題から個々人の心情やイデオロギーの問題を含んだより社会的・政治的な物事へと議論を拡大させた「民主的平等(関係性平等主義)」が論じられている(これについても広瀬の評価は厳しいし、わたしもアンダーソンの議論はかなり微妙だと思う)。一方で小坂井は「制度化された階層制度や身分制の存在する伝統社会であれば、能力や個性が重視される近代で生じるような劣等感やアイデンティティ喪失は存在しなかったかもしれない」と示唆はするが、もちろん「前近代の身分制社会に戻るべきだ」と主張するほどの度胸も持っておらず、ただ放言するだけ。

「社会秩序の原理が完全に透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界だ」という小坂井の一文もかなりスジが悪い。たしかに、ロールズ的な正義論が完全に達成された社会は、言い訳の余地がなくなるという点で、能力がない人にとっては多少は住みづらくなるかもしれない。でも、住めないことはないだろう。「地獄」という表現はあまりにオーバーである。本を読み終わったあとにこのレトリックが記憶に残って「ロールズの社会って地獄なんだな」とだけ覚えて帰ってしまう読者もいるかもしれない。

 また、社会秩序の原理が透明化されていない社会であっても、能力のない人は自分自身の経験や他人との関係を通じて、多かれ少なかれ能力のなさを自覚するはずだ。言い訳はあくまで言い訳であり、現在の社会で「自分の給料が低いのは意地の悪い上司の不当な査定のせいだ」と言っている人がいたとして、他人はもちろん本人すらもその言い訳を心からは信じていないかもしれない。そして、言い訳を止めて自分の能力のなさを直視したところで、それで生きられなくなるというわけでもない。多少の屈辱ややるせなさは感じるかもしれないが、「自分はこの程度の人間であるのだ」という自覚をしたうえで、自分自身に折り合いをつけながら、分相応にがんばったり、自分に足りない能力が必要とされる場所から自分の持っている能力が必要とされる場所へと活動のステージを移したり、あるいは競争したり能力を発揮したりすることを重視するのを止めてのんびりと過ごす……というのは現代の社会でも多くの人がやっていることだ。むしろ、「自分はもっと能力があるかもしれない」とか「社会状況や環境のせいで自分は本来の能力が発揮できなかった」とか「自分が不幸であるのは他人のせいである」とかいった認識を改めて、欠点や劣っていることを含めて自分自身をありのままに認識できるようになることには、それ特有の喜びや充実感もあるものだ。

 「伝統的社会では身分制が存在するために欲求不満やアイデンティティ喪失が解消されていた」という小坂井の主張も、おそらく極端な社会構築主義が背景にあるのだろうが、かなり疑わしい。むしろ、人間には「対等願望」や「承認欲求」と共に、自分の能力を発揮して他人から抜き出た人間になりたいという「優越願望」が生得的・生物学的に備わっているというフランシス・フクヤマの議論のほうにわたしは同意する*4身分制度などの差別が存在する社会では「自分はもっと能力を発揮して幸せになったり充実した人生を過ごしたりすることができていたかもしれないのに、差別のせいでそれができなかった」という後悔をずっと抱きながら死んでいった人が大量にいただろう。「地獄」という言葉を使いたいのなら、むしろ彼らや彼女らの人生のほうに使うべきだ。

 

 余談だが、これは、サンデルによる「大学入試くじ引き論」がうまくいかない理由とも関係している。

 大学入試に話をしぼっても、わたしの周りの人たちを見ていると、「自分の能力をベストに発揮できる条件のもとで第一志望の大学を受験したが、根本的に能力が足りていなかったために落ちてしまった」という人よりも「運の悪さや環境・家庭の問題などから、受験の際に自分の能力が発揮できなかったり、第一志望を受けること自体ができなかった」という人のほうが、より強い後悔を抱えており、入試がその後の人生に及ぼす負の影響も大きかったようだ。

 おそらく、わたしたちにとっては「自分の能力のなさ」に耐えるよりも「運の悪さ」に耐えることのほうがずっと難しい。だからこそ、悪影響があるとしてもわたしたちは「くじ引き」よりも「完全に公正な競争」を望むし、実際には不公正が潜んでいたとしても競争は「くじ引き」よりかはマシだと思うのだろう。

……同様に、いくら近代や現代に問題があるからといって、まともな人のなかで身分制度のある伝統社会に戻りたいと思っている人は存在しない。これこそが、能力主義が魅力的であり、また、リベラル・デモクラシーが(なんだかんだで)人々から望まれる理由でもある*5

*1:「補考」では「本書は規範論ではなく、認識論としての相対主義を提唱している」などと言い訳しているが、反論になっていない。

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

「新自由主義」や「自己責任論」は実在するか?(読書メモ:『<学問>の取扱説明書』)

 

 

 

 久しぶりに写経っぽい読書メモ。

 

新自由主義」という言葉自体にも気をつけなくてはいけません。日本語の「〜主義」、あるいは英語の<〜ism>という言い方はすごく曖昧です。「マルクス主義」とか「ヘーゲル主義」「カント主義」などの個人名が付いている時の「主義」は、その固有名詞と結びついてる特定の思想やイデオロギーに自覚的にコミットしていることを意味するわけですが、「自由主義」とか「社会主義」、あるいは「フェミニズム」になると、その幅がかなり広くなります。むしろ思想傾向とか、基本的な考え方の枠組みくらいのゆるい意味で理解した方がいいかもしれません。「民主主義」だと、そもそも英語にすると、<democracy>で、「主義」「思想」ではなくて、「制度」です。「資本主義 capitalism」も、思想的な意味での「主義」ではありませんね。<capitalist>という英語はありますが、「資本主義者」ではなくて、「資本家」という意味です。「主義 〜ism」が付くからといって、特定の「思想」を信奉していることにはなりません。「資本家」であれば、自分の利益や「資本」を廃棄しようとするマルクス主義の運動に反対するのは当然ですが、それは別に「資本主義」という「思想」を信奉しているからではありませんし、資本主義社会を守る運動をしたいわけでもありません。

昔のマルクス主義者には、そのへんを根本的に誤解して、自分たちがマルクス主義を信じて、社会主義を奉じているように、資本家=資本主義者たちが、“資本主義”を信奉して、自分たちと対峙しているかのような言い方をしていたのがいました。個々の“資本家”ーーというより、現代では大企業の経営陣とか株主と言うべきですがーーが自社の利益確保のためにやっている行為の帰結を、資本主義を守るためのイデオロギー策動だと解釈してしまうのです。

(p.73 - 74)

 

例えば、監視カメラが多くなっていることをサヨクの人は「監視社会化」と呼び、ネオリベと結び付けたがりますが、どうして規制緩和、小さい政府を推進するネオリベ派がそんな金も手間もかかることをやるんです?仮に、監視社会化と規制緩和推進のいずれもが政府や資本の意図するところだったとしても、それを「ネオリベ」という一つの論理で括るには無理があるでしょう。

「資本家=資本主義者」に固有のイデオロギーがあるはずだと最初に想定してしまうから、監視カメラと規制緩和が一緒くたになってしまうんです。「新自由主義」という少しだけ目新しいレッテルを政府や大企業のやっていることに貼り付けたら批判していることになる、と思うのは子供です。

権力っぽいものに妙なレッテルを貼って分かったつもりになるのではなくて、個別に見ていかないといけません。起業家や商売人にとって、全ての規制緩和がいいわけない。自分に都合の良い規制なら維持してほしいし、都合が悪いものなら廃止してほしいと思うでしょう。後者が多かったら、規制緩和の圧力が強まる。それだけのことです。そういう商売人の振る舞いをイデオロギー扱いするのはナンセンスです。「支配するためのイデオロギー」という観念があってそれに基づいて動いているわけではない。

(p.75 - 76)

 

私もロールズの正義論をめぐる一連の論争なんか見ていると、「ポイントは単純なんだから、もっとあっさり言えないのか?」と思うこともあります。ですが、日本での格差をめぐる政治論議のような、「おまえはこんな〇〇の人に共感できないのか!」と共感を押し付ける語り方を見ていると、アメリカのリベラリズムの哲学者たちのように、当たり前のことについて論理的に考えてみる姿勢が重要だと言わざるをえない、という気がします。

また日本の左翼の批判になりますが、日本の左翼には、ロールズ的な意味での「正義論」なんてない。資本主義を打倒する「革命」を断行するのか、それとも、資本主義の中での改革をちょっとずつ進める社民でいいのか、という話しかしていない。革命で共産主義を目指すにしても、共産主義がどういう正義の原理に基づく社会で、それがどうして正当化されるのかなんて、議論しない。

強いて言えば、「私的所有を排して、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。それが人間の本性に合っているので正しい」という正義の原理はあるのかもしれませんが、そんなことを言われても、受け入れるか受け入れないか、どっちかしかないでしょう。具体的な正義の基準がないので、その善し悪しについての論争をしようがない。受け入れてしまえば、後は共産主義社会に至る方法論の問題だけになってしまう。革命の方法論をめぐって論争すると、みんなラディカル(極端)なことを言ったりやったりして、自分の方法論こそが革命的であることを証明しようとしてしまう。「おまえは口先で革命家ぶっているが、俺たちはこういうラディカルな実践を……」というかんじで(笑)。ラディカルさが、何だか男らしさの象徴みたいになって、みんないきがってどんどん過激になっていく。

「男らしさ」っていうと、フェミニストに叱られそうだけど、フェミニストにも、「ラディカル競争」をやって、男らしさを示そうとしているとしか思えない人が結構いますよ。

(……中略……)

フェミニストに限らず、日本の左派は妙に潔癖性で、「知らず知らずに利敵行為をしてしまう」ことを警戒して、「おまえのここが弱くて、敵につけ入られる恐れがある」と指摘し合う傾向があります。最も敵につけ入れられにくい潔癖な議論が、一番ラディカルな議論になるわけです。もちろん、戦前の伝統的文化を復活させようとする右翼がいかにも男っぽいラディカル・パフォーマンスを追求したがることについては、言わずもがなです。ちょっと前までは、右の方は思想論壇では少数派だったので、「右=保守」という大きな括りでゆるく団結していたようなかんじがありますが、最近では思想論壇でも多数派になったせいか、新しい歴史教科書をつくる会の分裂劇だとか、新米保守対反米保守だとか、皇室のあり方をめぐる論争だとか、ラディカル競争っぽいことをやっています。さっきも言ったように、日本の左翼/右翼の思想家に、文学系の人が多いことも、レトリック的なラディカルさにばかり惹かれて論理をおろそかにする傾向が生まれる原因の一つになっているのかもしれませんね。

(p.150 - 152)

 

リーマン・ショックで大量の派遣切りが起こったのは、二〇〇四年に労働者派遣法が改正されて製造業への派遣が可能になり、製造業の派遣労働者が増えていたからだ、というのはその通りだと思いますが、個々の企業がリストラをするのは、自分が生き残るためであって、別に「新自由主義」というイデオロギーに従ってやっているわけではないでしょう。正社員よりも簡単に首を切れる派遣労働者という存在がいたから、先に首を切ろうとするだけであって、派遣社員の人たちをわざと不安定な状態に追いやって、より搾取しやすくするために、業界が示し合わせてやっているわけではないでしょう。非正規社員を統治しやすくするために、密かに協働する余裕なんて、どこの企業にもない。

(……中略……)

派遣労働が解禁になるまでは、日本の企業は労働者をもっと大事にしていた、不況になっても企業全体で痛みを分かち合っていたと言う人はいますが、あれもそれほど客観的な根拠のある話ではないでしょう。どういう経営状態になったら、どのようにリストラしたり、賃金カットしたりしていたのか、個別企業ごとのデータがないとはっきりしたことは言えません。企業の経営環境とか労働形態はどんどん変化しているので、正確な比較は難しいでしょう。派遣労働法の改正によって、不況になった時に派遣労働者が真っ先にリストラの対象になる状況が生まれた、とは言えますが、派遣労働者がいなくて正社員ばかりだったら、労働者と企業の関係はもっと良好だったはずだとは簡単には言いきれないでしょう。

一九九〇年代末から小泉政権期にかけての「改革」で、日本の企業のメンタリティが変わったという可能性は否定できませんが、「新自由主義の下で、労働者を物のように扱う傾向が出てきた」などという漠然とした言い方は、何も言っていないに等しい。それは、マルクス以前から、資本主義的な工場労働がはじまって、労働者階級が形成されはじめた頃からずっと言われていることです。

(p.210 - 211)

 

……「市場原理主義が悪い」という漠然とした言い方では、どういう正義の原理を求めているのか分かりません。日本語の日常用語で「正義」と言うと、アニメの「正義の味方」のような絶対善の化身を連想しがちですが、西欧の経済倫理学、政治哲学、法学などで「正義 justice」と呼ばれているのは、社会的な「公正さ」の基準を提案する議論だったわけでしょう?現在の市場の正義の欠陥を批判するなら、それがどう言うものなのか原理的に把握したうえで、自分はそれに代わる正義の原理として、こういうものを掲げるという態度を示さねばなりません。

念のために言っておきますが、「弱者を見捨てないで、同じ人間として連帯し合う」とかいうのは、心の持ち方の話で、「正義の原理」ではありませんよ。労働問題で「正義」を求めるのなら、現在の企業と労働者の間での利益配分のルールがどのようになっていて、それがどのように不公正であるか理論的に説明したうえで、公平に分配するための基準や方策、例えば、同一労働同一賃金の原則とか、労働配分率のルール化とかを提案して、その方がより正義に適っていることをーー単純に共感に訴えかけるのではなくーー正当化しなければなりません。

ロールズの議論がそうであるように、正義論は、社会全体にとっての公正さを求める正義感覚と、自己の利益・安全を確保しようとする利己心との間でバランスを取る必要があります。労働組合という組織は、特定の企業あるいは業者に属する労働者が利害を共有しているからこそ組織化できるし、その利害を代表して、企業と交渉することができるんです。「この現実を見て、何とも思わないのか!」と叫んで、それに共感する人を一時的に集めることはできるかもしれませんが、制度として定着させるには、共感できない人でも支持できる「正義の原理」を示す必要があります。私が、ネオリベ批判の人たちが嫌なのは、自分たちが「ネオリベ」なる悪を倒す正義の味方の役割を演じれば、自ずから正義が実現されるかのような語り方をしているからです。

(p.215 - 216)

 

……「自己責任」というのは文字どおりに取れば、「自分したことに対して、自分で責任を取ること」を意味するはずですが、「弱者であることに対して責任を取れ」なんて言っている人いますか?「新自由主義は、弱者に自己責任を押し付ける」という言い方をする人がいますが、政治家や財界人、経済学者で「弱者は自己責任だ」なんて言っている人を見たことありますか?新自由主義批判の人が言っているほど、「自己責任」という言葉は、権力者や企業家の側からは使われていませんよ。

(…中略…)

いわゆる新自由主義者たちが自己責任という言葉を使うのは主として、「自己責任で、市場での競争に参加すべきだ」という文脈においてです。具体的には、護送船団方式を排して各企業が自己責任で経営判断すべきだとか、各人が自己責任で企業する精神を持つべきだとか、各人が自己責任で自分の資産を運用すべきだとかいった場合ですね。自己責任でやって失敗したら、他人のせいにできない、ということにはなりますが、だからといって、現在、「弱い立場」にある人、フリーターとかワーキングプアの人が自己責任でそうなった、ということにはならないでしょう。「新自由主義者は、ワーキングプアとかフリーターとかニートなどは、自己責任で現在の状態に陥ったので、助ける必要はないと言っている」というのは、ネオリベ批判の人が類推で言っているにすぎず、新自由主義者と名指しされている人たちが、「弱者は自己責任で弱者になった」と言っているわけではありません。どうもそこを勘違いして、意味のない批判をやっている人が多すぎます。

(p.225)

 

…政府や大企業のトップが新自由主義的な精神で政策を実行したり、企業を経営したりしたとします。でも、だからといって、その影響で普通の会社員の間にも新自由主義的なメンタリティが浸透した、というのはあまりにも大ざっぱで、論証のしようがない話です。かなり粗悪な疎外論ですよ。その辺のおじさんやおばさんが、「ニートになるのは自業自得(=自己責任)だ」と漠然と言っているのが事実だとしても、それ、単に無関心なので適当に言っているだけなのか、新自由主義イデオロギーに洗脳されているせいなのか、あるいは、古い日本的な勤勉道徳を反映しているのか……。どうとでも解釈できます。

(p.226

 

世の中にはいろいろ望ましくないことが生じていますが、個別に見ると、どれもかなり複雑な経緯をたどって生じてきているわけで、それら全てが、新自由主義的な世界改造計画のようなものに沿って動いているかのような言い方をしても、何にもなりません。全ての負の現象を生みだしている、悪の究極実態などないのですから。

若者の「自己責任」の問題に話を戻しますと、正社員になりたくてもなれなかったり、職が全然なくてニートになったりするまでの間に、いろいろな人生の選択があったはずです。極端なことを言うと、大麻を栽培したり、重大な交通事故や障害事件を起こしたりして、警察に捕まって退学になり、まともなところに就職できなかった若者でも、新自由主義の犠牲者になるんですかね?やる気が出ないので大学の授業に全然出なくて、留年を繰り返し、まともな企業に採用してもらえなかった若者は、どうですか?それほど極端な例ではなくても、自分が負の帰結を回避するために本気で努力をしたら、もっといい職に就ける可能性があった、という人は多いと思います。また、フリーターの生き方がやっぱりいいという人もいるでしょう。その人のそれまでの生き方を全体的に検証しないと、自業自得でそうなっているのか、それとも誰から見ても気の毒な犠牲者なのか分かりようがありませんよね。

(p.228 - 229)

 

 言い方はかなりキツかったり嫌味っぽかったりするが、引用した箇所で仲正が言っていることは、ロールズやロナルド・ドウォーキン的な意味での「リベラリズム」に他ならない。最後の引用箇所はドウォーキンの「運の平等主義」的な考え方を反映していると言えるし、「正義の原理が必要だ」という主張や「共感や情緒に訴えるのではなく、他人の利己心や正義感覚を考慮しながらバランスの取れた主張を理性的に訴えかけなければいけない」というところはロールズの「公共的理性」の考え方を反映していると言える。

新自由主義」批判や「自己責任論」批判が藁人形論法っぽいというのはかなり以前からわたしも思っていた(このブログでも度々そう書いてきた)し、日本のサヨクのラディカルごっこのしょうもなさにも以前からうんざりしていたが、それに対するオルタナティブな規範論としてわたしの頭のなかにあったのは、功利主義やカント主義などの規範倫理学の考え方が主であった。

 政治哲学としての「リベラリズム」やロールズの思想がこのような風潮に真っ向から反発して公共的理性や適切な意味での「責任」論を重視している、ということを理解したのは今年になって政治哲学の勉強を本格的に始めてからである。

 とくに英米の分析系は倫理学も政治哲学もかなり近くて区別が付けづらいところはあるんだけれど(倫理学はどちらかといえば「人」を対象にしていて政治哲学が「国」や「社会」を対象にしているが、倫理学でも国や社会について扱うことはできる)、時事問題や経済・労働などに絡めて論じる分にはリベラリズムの政治哲学がいちばん扱いやすく、芯が通っていて強度が高いと思うようになってきた。

 

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 本書では(欧米を中心とした)「学問」について諸々と説明されているだけでなく、日本のアカデミアや論壇に固有の事情についても紹介されているところがおもしろい。 たとえば、引用部分もちょっと触れられているが、日本は欧米に比べて文学者や批評家が思想論壇のスターになりやすく、本職の政治哲学者などはあまり重宝されないようだ。「正義の原理」についての論理的な議論が堂々と展開されず、ふわふわとした精神論や情緒的なレトリック、ラディカルなだけの放言が目立ちやすいのもそこら辺が原因であるらしい。

 そういえば最近の「スター学者たち」には小説を書いて文芸賞を狙う人がやたらと多い(ちょっと思い出しただけでも千葉雅也、岸政彦 、古市寿徳、東浩紀など)。一方でジョン・ロールズピーター・シンガーはもちろん、デヴィッド・グレーバーやジャック・デリダが小説を書いているところも思い浮かべられない。まあこれは日本だと「本」といえば「小説」というイメージが他の国に比べても強いので文筆家として活動するほど小説に対するコンプレックスができてしまうとか、そういうのもあるかもしれない。あと、日本は法学部も文学部もごっちゃにする「文系」という括りがあったり海外よりも同人誌文化が強かったりするせいで「哲学」「思想」「批評」「文芸」「社会運動」がごちゃ混ぜになる……というのもありそう。

 もちろん、ここで仲正が論じているような日本の論壇に対する批判は、ジョセフ・ヒースが『反逆の神話』などで行なっていた欧米のカウンター・カルチャーに対する批判とかなり似通っている。どこに違いがあるかというと、欧米ではロールズ亡き後にも「ラディカル」に対する「リベラル」が思想家や批評家のなかにも一定数存在し続けているが日本はそれに乏しい、という点である。

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 近頃なんとなく思っているのは、日本の言論の現状に対する責任は、学者たち以上に、人文系の思想誌や人文書の編集者たちのほうにあるのでないか、というところ。「スター学者」も編集者たちによって人工的に作り上げられていく存在だという感じがするし、明らかに理論的に無理があったり根拠薄弱なサヨク言説が掲載されていく背景にも「著述家や他の編集者たちから悪く思われたくない」「社会の問題を批判したりマイノリティの側に立ったりする議論に賛同する善人だと思われたい」という編集者たちの「保身」が存在するのではないか、という気がする。あと編集者たちはなんだかんだで本のなかでは「小説」をいちばん優れたものだと思っているから(出版社の編集者のなかには小説家を目指していたけれど挫折したというタイプの人が学者以上に多いだろうし)、学者にも小説を書くようにすすめていたりするのかもしれない。ぜんぶ憶測だけれど。

 

近況&お仕事募集&雑誌などに投稿した記事のリスト

 

●現在、単著の執筆作業と動物倫理に関する英語の本の翻訳作業を同時で進めていますが、生活費を稼ぐ&知名度を挙げるために、記事を寄稿させていただける雑誌等を募集します。

連絡は下記からよろしくお願いします。

 

davitrice0102@gmail.com

 

●本年度に雑誌に寄稿した記事

PHP研究所『Voice』2022年 10月号「ネット空間を主戦場にする詭弁家」

講談社『群像』2022年 7 月号「感情と理性:けっきょくどちらが大切なのか?」

中央公論2022年 5月号「世界で燃え広がるキャンセル・カルチャー日米の事例から考える現代版「私刑」の功と罪」

 

●昨年度以前の記事

・rn press 2021年『USO 3』、「ウソと「めんどくささ」と道徳」

・啓文社書房『表現者クライテリオン』2021年5月号「ポリティカル・コレクトネスの何が問題か アメリカ社会にみる理性の後退」

太田出版 2017年『atプラス 思想と活動』32、「動物たちの未来は変えられるか?」

 


講談社現代ビジネス 

 

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東洋経済オンライン

 

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シノドス

 

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晶文社の連載

 

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●ほしいものリストから、生活物資などの支援も募集します。

 

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ミルの「個性」と「卓越性」(読書メモ:『ロールズ政治哲学史講義』)

 

 

 

 ホッブズやロックやヒュームやルソーやミルやマルクスについてのロールズによる解釈を読むことで、ロールズ自身による「公正としての正義」とか「リベラリズム」とか「公共的理性」についての考えも直接的・間接的に伝わってくる……というのがウリであると思うんだけれど、なにしろ講義録であり、紹介されている各思想家のテキストを事前に読んでいたり手元にあったりすることが前提となっているフシもあるし、不自然な傍点も多かったりして、お世辞にも「おもしろい」とは言えない。教科書としても、もっと読みやすく理解しやすい本はごまんとあるだろう。

 

 とはいえ、ところどころ、印象に残る箇所もある。たとえば、ミルの議論における「個性」や「卓越性」について扱っている箇所は、他の(日本人による)ミルの解説書や研究書に比べてバランスが取れていて内容も充実しているとは思った。

 以下、写経。

 

私は、見るが、他の人々と異なった者であるために自分を他の人々と異なったものにしなければならない、と言おうとしているとは思いません。むしろ、彼が言わんとしているのは、生のプランが他者のそれと類似していようといまいと、私たちはそのプランを自分自身のものにしなければならない、すなわち、その意味を理解し、それを自分の思想や性格に相応しいものへと具体化しなければならない、ということです。私たちは、言われるところの諸目的の選択者として、自分の生を選ぶ必要はまったくありません。むしろ、私たちは、相応の反省の後で自分の生き方を肯定することがあり、それにただ習慣として従うのではないということがあります。私たちは、思想、想像力、感情の力を十分にかつ自由にはたらかせることによって、自分の生き方を理解できるところまで達し、そのより深い意味合いを洞察できるようになるのです。そういう仕方で、私たちはその生き方を自分のものにしていくのです。たとえ、その生き方がそれ自体旧くからあるものであり、その意味で伝統的であるとしても。

私がこの問題に言及するのは、ミルは、異性であること(エクセントリシティ)を強調し、自分のやりたいようにやることを強調した、としばしば言われるからです。これは誤読だと私は思います。たしかに、彼は、自由な制度がより大きな文化的多様性を導くだろうと予期していますし、彼はそれを望ましいと考えています。しかし、彼の強調は、自由な自己発展と自己陶冶にあります。後者は自己規律を含意していますし、両者のいずれか、あるいはその双方とも異例であることと混同されてはなりません。ミルの基本的な考えは、私たちの関心は、私たちの思想や性格を自由にかつ反省的に形成するものとして理解された個性にあり、その形成は、万人にとっての平等な正義の権利によって課される厳格な規則の枠内で行われる、ということです。

(p.556 - 557)

 

まず、ミルは、称賛すべきものや卓抜したもの、その反対の品位の劣るものや軽蔑すべきものという卓越主義的な価値の存在をたしかに認めています。しかも、それは、彼にとって重要な価値です。さらに、彼は、私たちがそうした価値を承認していることと考えています。というのも、そうした価値は、尊厳の原理という形をとって、何が私たちに相応しいかについての判断をつねに含む確固とした選好の基準という彼の中心的観念の根底にあるからです。このように、卓越主義的な価値の存在と、それが私たちにとって非常に重要なものであることを私たちが承認することは、彼の規範的な教義の根本的な部分をなしており、彼の基本的な人間心理学によって支持されているものです。

しかしながら、自由原理ーーそれはk、個人の自由を制限する卓越主義的な根拠を排除しますーーの内容という観点から見るかぎり、そういう[卓越主義的な]価値は、法や強制的な社会的圧力としての共通の道徳的意見という拘束力(サンクション)を課すことで得られるものではありません。それを私たち自身の価値とするかどうかは、私たちの一人ひとりが友人や仲間とともにどうするかに依存しています。その意味で、彼の教義は卓越主義的ではありません。

 (……中略……)

卓越主義的な価値を実現する活動を追求するよう人々に強いることは不要である、と彼なら言うだろうと思います。そして、正義および自由の制度がはたらいていない場合にそのようにすることは有益というよりも有害である、と述べると思います。これに対して、そうした制度が十分にはたらいているなら、卓越という価値は、正義および自由の制度の拘束のもとで、自由な生き方や結社のうちに最も適切な仕方で実現されることになるでしょう。正義および自由という価値は、根本的な背景の役割を担っており、その意味でそれらには一定の優先が与えられているのです。ミルは、自分は、卓越主義的な価値にそれに相応しい位置づけを与えたのだと言うはずです。

(p.559 - 561)

 

「利他」は「理性」に由来する(読書メモ:『The Kindness of Strangers』)

 

 

 ここではざっくりとしか紹介しないので、各章ごとのちゃんとした要約はShoreBirdさんのほうを参照してください。

 

shorebird.hatenablog.com

 

 この本で扱われるのは、「なぜ現在の私たちは、血も繋がっていなければ済んでいるところも遥か遠くにいえる見知らぬ他人に対して親切心や同情心を抱けるようになり、ときとして彼らを支援するようになったのか」ということ。

 たとえば、ニュースで犯罪や事故の被害者のことを知るとわたしたちは「かわいそうだ」と思うし、外国における戦争や災害の犠牲者の存在を知っても心を痛める。そして、身銭を切って「寄付」というかたちで彼らを支援することもあるだろう。また、貧困層や高齢者、病気になった人、あるいは孤児などの弱者を支援するための福祉制度に、多くの人は多かれ少なかれ賛成している。その福祉を維持するために税金を払ったりなどの様々な負担が自分にかかるとしても、だ。

 これらは、進化や生物学に関する一般的な考え方では説明できない。遠くの見知らぬ人にまで親切心を抱いて、コストを払って彼らを助ける行動をする傾向には、それに見合うベネフィットが存在するとは考えられない。そして、自然淘汰の原理をふまえると、コストが大きくベネフィットの存在しない特性というものは後の世代に受け継がれる前に消失していくはずだからである。

 

 ……とはいえ、ここ数十年においては、人間の「利他心」についての進化論的な説明もあれこれ発達してきた。それらの説明は、たとえば「"利他心"は一見するとコストばかりが存在しておりベネフィットが含まれないように見えるが、社会集団のなかで生活する人間が適応する環境とは"自然"のみならず"他人"が含まれていることに注目すると、実はベネフィットが存在することが見えてくる」というものであったりする。あるいは、淘汰の単位は「個体」ではなく「遺伝子」または「集団」であると仮定することで、個人にとってはコストがかかる行動が自然淘汰で消えずに引き継がれていることも合理的に説明できる、と論じる主張もある。

 というわけで、本書の前半では、「人間の利他心は進化論的に説明がつけられる」という主張の根拠としてよく持ち出される、「共感」「血縁淘汰」「群淘汰」について検討される。しかし、著者は、これらのいずれもが「遠くの見知らぬ他人に(コストを払ってまで)親切にする」ことを説明しない、と論じる。

 人間には他者の苦痛に共感したり同情したりする能力はたしかに備わっているが、その能力はあくまで身近な人間たちに囲まれた狭い集団のなかでうまくやっていくために進化してきたものだ。その力はひどく心許なく範囲も限定されており、自然な状態では、目の前にすらいない見知らぬ他人に対して共感能力がはたらくということはほとんどない。

 血縁淘汰の理論は、わたしたちが遺伝子を共有する親族に協力したり利他的になったりする理由を説明する。血縁淘汰は現代社会にもたしかに存在しており、縁故主義の原因ともなっている。そして、ときに、「血のつながっていない相手でも親族であると誤認したり、"親族"の範囲を文化やイメージの力で拡大することで、血縁淘汰による利他心は見知らぬ人たちに対しても発動させられる」と論じられることもある。……しかし、そううまくはいかない。そんな風に他人を親族と「誤認」してしまうようなお人好しで間抜けな性質を持っている人は他の人たちからフリーライドされて利用されてしまうだろうから、その性質は早々に消え去るということは理論的に予測できる。そして、実際のところ、わたしたちには「自分と血縁が近い人」とそうでない人とを様々な手がかりによって識別する能力がきちんと備わっている。

 群淘汰(またはマルチレベル淘汰)に関しては、そもそも著者は(多くの進化心理学者と同じく)この理論自体に否定的である。「人間の持つ〇〇という性質は群淘汰が存在しないと説明できない」という主張の多くは、実際には血縁淘汰で説明がつく。また、仮に群淘汰理論が正確であるとしても、群淘汰が人間にもたらす性質は「利他心」であるとは限らない。むしろ、集団間での戦争を勝利に導かせる性質、つまり「身内びいき」や「他集団に対する残虐さ」をもたらす可能性のほうが高いのだ。

 しかし、進化心理学のなかにも、「利他心」を説明するうえで有力な理論が残っている。それが「互恵性」に関する理論だ*1。とくに、「AさんがBさんに親切にすることは、"Aさんは親切だ"という"評判"を集団内にもたらして、CさんやDさんなどがAさんによい態度で接するようになるから、Aさんにとってもプラスになる」という「間接互恵性」の理論は、見知らぬ他人に対する利他心を説明する理論として有力である、ということが指摘されている。ふさわしい環境や制度が整っていれば、親切にする相手が集団内ではなく集団外にいても、集団内での評判の向上につながるからだ。

 

 ……とはいえ、「間接互恵性」と「見知らぬ他人に対する利他心」が結びつくとしても、条件は限られている。それよりも、利他心の対象が拡がっていった経緯は、生物学的なものとは別の要員で説明したほうが適切である。ここで持ち出されるのが理性だ。本書の中盤から後半では、古代から現代にかけて人間の理性が発達するとともに利他行為の対象となる範囲が徐々に広がっていった経緯が、文明や思想や制度の発展とあわせて描写されていく。

 そこで書かれていることは、まあ、スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』と同じような感じである。農業の登場とそれに伴う国家の誕生により弱者も国家に包摂されて支援を得られるようになったこと、「黄金律」に表されるような平等主義・普遍主義を伴う宗教や哲学の登場、啓蒙思想や科学によって「貧困や飢餓とそれによってもたらされる苦痛には対処することが可能であるし、対処するべきである」と考えられるようになったこと、さらに理性と道徳の結び付きは現代になるにつれて強くなっていき科学的な貧困対策や効果的利他主義は当たり前のものとなっていったこと、などなど。それらを通じて「遠くの国に住んでいる見知らぬ他人だろうがわたしたちと同じ人間であるのだから、彼らを助けるのは当然だ」という発想を、いまやわたしたちの大半が身に付けるようになったのだ。最終章では「これからもさらに理性は発展していくので、それにつれて利他的行動の規模や範囲もどんどん拡大していくだろう(だから理性を敵視せずにガンガン理性を推してしていくべきだ)」といったことが述べられている。

 ここら辺の議論はどうしてもピンカーの焼き直しという感が強いのだが、哲学者たちの議論への注目の仕方が『暴力の人類史』とは少し違っているところは興味深い。この本のなかで特に推されているのがピーター・シンガー、チャールズ・ベイツ、オノラ・オニール、クワメ・アンソニーアッピア、ジョン・ロールズなどであるが、彼らはいずれもコスモポリタニズムや普遍的な博愛主義(利他主義)を理論化した*2。そして、現代において(先進国の)人々が、遠い他国の見知らぬ人が飢えに苦しんだり抑圧に苦しんだりすることを配慮できるようになった背景には、哲学者たちの議論も大きく影響していること……哲学は「象牙の塔」を飛び越えて個々人の価値観や国家の政策にも影響を与えていることが指摘されているのである。「哲学者は"道徳の専門家"として振る舞えるし、実際にそう振る舞って人々の価値観や考え方を善導すべきである」というシンガーの(哲学者たちの間からも嫌われがちな)考え方が肯定的に引かれているのもおもしろいところだ*3

 

 本の前半における「互恵性」や「群淘汰理論(の間違い)」に関する議論はけっこう高度なレベルの議論までもが平易に説明されていて、共感や協力行動に関する現代の進化心理学のスタンダードな知見がうまい具合にまとまっているところが魅力的。一方で、中盤以降は、哲学者の主張が多めに取り入れられている点を除いたらコンパクト版な『暴力の人類史』といった印象。

 とはいえ、マイケル・シャーマーの『道徳の弧』もそんな感じだったから、現代において生物学者・心理学者・自然科学者が「道徳」について人類史レベルで論じるとなったら多かれ少なかれ中身は似たようなものになってしまうのだろう。「現代社会の人類は、理性・科学・啓蒙主義が普及したことや、国家・交易・資本主義・民主主義などの制度が発達したおかげで、昔よりも遥かに道徳的な存在になることができた」という『暴力の人類史』のメインテーゼを大々的に否定することは困難であるだろうし。

 

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『The Kindness of Strangers』については、まあ面倒なので原著を読み返すことはもうなさそうだけれど、翻訳がでたらまた読んでみたい、くらいには思っている。日本の読者にとっても、とくに前半の生物学に関する議論は有益であるだろう。また、哲学を専攻している人とか哲学に興味のある人なら後半の議論もしっかり読むべきだ。

 

*1:たとえばチスイコウモリの「直接互恵性」に関する理論は、過去には「チスイコウモリの行動は血縁淘汰で説明できて、互恵性など存在しない」という反論があったが、それに対して再反論があって、現在は互恵性による説明のほうが有力になっている、ということも本書では説明されている。

*2:

 

 

 

www.msz.co.jp

*3:

philpapers.org

公共的理性とはなんぞや(読書メモ:『ロールズと自由な社会のジェンダー』)

 

 

 

リベラルな民主主義社会の理念では、私たちは自らの政治社会のあり方を対話によって定める。私たちが政治社会のあり方をめぐって対話する際に求められるのは、そこに「相互性」が具現化されていることだとロールズはいう。相互性という価値を具現化した対話の理念、それがロールズの提案する「公共的理性 publice reason」である。公共的理性の理念は、「私たちが市民として他の市民とどのような関係を結ぶべきかに関する理念である」。

ここで、「理性」という言葉が多義的に使われいることには注意が必要だ。それは対話するという「活動」であり、対話の「内容」であり、また対話において各種の提案に添えられるさまざまな「理由」でもある。理性という言葉を聞くと、私たちは非人格的に該当する「正しい論理」の使用や探求をイメージしがちだが、ロールズのいう理性はそういうものではない(場合によってはそれも要素として含みうるが)。公共的理性はむしろ、他者へ呼びかけであり、呼びかけへの応答である。公共的理性の営みのなかで私たちは互いに、お互いをひとつの政治社会の対等な一員とまなざす視点から、共生と呼べる社会の実現に向けて他者に呼びかけ、また応答する。公共的理性がめざすのは、さまざまな社会制度のよりよいあり方を探ることだけでなく、公共的理性をめざす共同の対話に他の市民とともに参加することそのものによって、私たちがひとつの政治社会を自由な共生として編み出していくことである。

公共的理性は、相互性という価値を具現化する共生に向けた対話である。ロールズ自身はこれを次のように表現する。

 

[公共的理性に導かれることで]みなが理にかなったものとして受け入れうる考え方のもとで他者と政治的に共生するという……理念を実現することができる。

 

つまり、他のあらゆる市民によって受け入れるべきものとして受け入れられうる共生の理の探求へと動機づけられた対話が公共的理性だというのである。

 

(p.37-39)

 

 相変わらずロールズは難しいのだけれど、「公共的理性」とはこういうものだと説明されるとわかりやすい。要するに相手と自分が対等であると認めて、「自分はこれこれこういう理由から社会はこうあるべきだと考える」ということを相手にも伝わるかたちで、相手の理性に訴えかけるかたちで述べて、それで相手からの反論も受け止めつつ「社会はこうあるべきだ」ということについての合意を探っていく……みたいな感じだろう。

 

 

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読書メモ:『エピクテートス:ストア哲学入門』

 

 

 当然のことながら自分で買える金額じゃなくなっているので図書館で借りて読んだ。

 

……ギリシア的教養は何れにしても知的で、それを学ぶためにはそれだけの時間や余裕が必要であった。したがってそれを持たない者には、結局、縁がないということにならざるを得なかった。しかし本当をいえば、それらの余裕を持たない者たちこそが、ゆとりを与えられ、平静、幸福であるべきなのである。かくてこのようなどん底生活を余儀なくされている弱者のために生れたのが、当時振興のクリスト教であった。そこには神の言葉としてどうかと思われるものもないではないが、その教えは明快にして容易、要はただそのまま信ずるということであった。

(p.31)

 

哲学(倫理学)と宗教の違いをうまく表しているように思える。

 

エピクテートスはずっと独身であった。それは足が不自由な故であったか、それとも貧乏な故であったかはわからない。けれども普通の人には結婚を是認し、かつすすめている。むしろ彼えはエピクーロス派の、子供を育てないとか、公事に携わるなという考えに反対し、人間が絶滅しないためにも、人間の社会性のためにも結婚や子供の育成を説き、人間は公事にたずさわり社会の仕事の一旦を荷なうべきであると説く。

(p.18)

 

「他者」や「外部」によって自分の感情や思想が影響を受けないにしよう、というのがストア哲学の基本方針であるが、一方でエピクテトスに限らず多くのストア哲学者は結婚・育児や公事に関係することの価値も説くようだ。いままでは矛盾とか論理的一貫性の欠如に思えていたけれど、最近はそうでもないように思えてきた。まあこの点についてはもっと考えを深めていきたい。

 

知者たろうと発心する以前の人を、普通の人、もしくは素人と言う。そういう人たちの間では、何か不幸せなことがあれば、その原因をみな外部に帰する。つまり自分は親のせいで不幸なのだとか、兄弟の故に貧乏なのだとする如きである。しかしエピクテートスでは不幸、不仕合せの原因を外部にはおかない。

(p.61)

 

当たり前だけれどストア哲学では「親ガチャ」論は否定されるわけだ。

 

…これらの動物[ロバなど]も活動するためには心像を使用せねばならない。欲求も意欲も、また拒否や忌避もなければならない。しかし人間の場合とは異なる。人間の場合は正確にいえば、心像の使用にしても、正しく用いるので、「正しく」がつくか、あるいは心像の使用に「理解」が伴わねばならない。本能的に心像を使用したり、模倣して使用するのは、では何故であるか、目的も原因も理解もないわけである。が、この理解あってはじめて自然、もしくは神の目ざすところに協力し、意図に沿うこともできるのである。

(p.81-82)

 

人間と動物の違い。パーソン論とか、「動物は道徳的に行為できるか」というところにも関わってくるだろう。

 

エピクテートスがロゴスを意志と同じに用いたことは、さきに述べた。彼はある時は人間をロゴスだというが、ある時は「君は肉や髪の毛ではなく意志だ」と言う。そして彼は善や悪を意志におくのである。彼は善をロゴスにおいてはいるけれども、悪をもロゴスにあるとは言わなかった。それに対し意志の場合には、善と同様悪も意志の中にあるのである。この点ロゴスと意志とは同じではない。ロゴスは意欲、衝動によってくらまされることがないとはいわないが、正しいのが建て前である。けれども意志の場合には、善くも悪くもあり得る。故に正しい意志とか善い意志という表現になる。つまり意志が正しい、善い意思であるためには理性に照されるのでなければならぬ。

(p.88-89)

 

ここら辺はカント倫理とも進化倫理とも関わってきそうだ。