道徳的動物日記

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「不平等」はそんなに悪いことなのか?(読書メモ:『政治哲学への招待』②)

 

 

[前段で平等を拒絶する世俗的な主張を並べた後に]これはすべて、大衆政治のレトリックのレベルでのことである。しかし平等は、政治哲学者からも、厳しい取り扱いをされてきている。彼らの論じるところによれば、平等を高く評価することは間違いである。重要なことは、人々が、善きものの分け前を持つことではない。また、人々が、善きものへの(あるいは、それを利用する)平等な機会を持つことですらない。もしわれわれが、平等について考えるとすれば、重要なことは、すべての人が十分に持つことであるか、もっとも少なくしか持っていない人が可能な限り多く持つこと、あるいは、もっとも必要としている人が優先権を得ることなのである。平等を気にするということは、人々が互いに同一の総量を持っていることーーそれが、気にすべき特別の事柄のように見えるーーを気にするということである。結局のところ、人々が平等な総量を持つひとつの可能世界は、誰も何も持っていないような世界である。

今日の選挙政治に関する言説においては、再分配のための課税は、それ自体が悪名を得ており、(ともかくも、実行されているところでは)何ほどか人目を忍んで実行されている。再分配のための税が、表に現れたときにも、それは平等にはほとんど言及しないような観点から提示されるのである。この間、政治哲学者は、ますます政治理念として平等を放棄するようになってきた。こうした背景に照らして、平等に反対する哲学者の議論が、必ずしも再分配のための課税に反対する議論ではないということを理解しておくことは、重要である。平等を拒絶する人が、資源は裕福な人から貧しい人に移転されるべきであるということに深い関心を持つということはありうる。この意味で、平等の拒絶は、再分配を正当化するために提起されるかもしれないある特定の理由を拒絶することを意味しているのである。それゆえ、再分配を弁護する論陣を張ることに及び腰な政治家には好感を持たない一方で、再分配政策は、平等ではなく、別の目標を目指すものとして提示されるという事実を認めておくことができるだろう。別の理由で、資源は、現在そうである以上に平等にーーおそらくは、はるかに平等にーー分配されるべきであると論じる一方で、哲学的なレベルにおいては、根源的な理想としての平等を拒絶することは、完全に首尾一貫しているのである。

(p.130 - 131)

 

 上記の引用部分で想定されているのは、ロールズの格差原理(もっとも少なくしか持っていない人が可能な限り多く持つこと)、ロジャー・クリスプやハリー・フランクファートが主張している十分主義(すべての人が十分に持つこと)などの議論だろう。

「平等そのものには本質的な価値はなく、追い求める対象とすべきではない」という議論は、とくにフランクファートの『不平等論』で印象的に論じられている。……とはいえ、スウィフトも書いている通り、平等を求めることと再分配を求めることは全く異なる。

 また、不平等それ自体は直接的には悪いことではなくても、「不平等な状態が存在すること」から間接的に引き起こされる様々な問題を考慮したうえで、やはり不平等は悪いと論じることもできる。『不平等論』のあとがきでも、訳者の山形浩生は現実に不平等が問題を引き起こしていることを指摘しながら哲学者の机上の空論に過ぎないのではないかと示唆していた。

 

 

 

 不平等というか「格差」を問題視する議論は、以下のようなもの。

 

格差は、些細なことなのだろうか。(…中略…)格差それ自体が、悪しきものというわけではないーー何らかの実体のない形而上学的な理由で、悪しきものではないーーのだが、格差のある社会の中で暮らす人々にとってはーーあるいは、少なくとも、格差の恵まれない側にいる人々にとってはーー、悪しきものなのである。格差が重要であるのは、人々の福祉全体は、ただ所有する経済的資源の総量によってだけではなく、他人と比較して所有している総量によっても影響を受けるからである。われわれは、社会のもっとも恵まれないメンバーを、できる限り良い状態にすることだけに関心を持っているのかもしれないーーそして、人々が良い状態にあったり悪い状態にあったりするその程度を平等にすることには、まったく興味がないのかもしれない。しかし、お金がすべてではないのである。おそらく経済的な不平等は、トリクル・ダウン理論を用いた擁護が示唆しているように、長期的には、もっとも恵まれない人々の経済状態を改善する。しかしながら、それは、経済的な不平等が、彼らの地位全体を改善するということを意味しているのではない。それは、地位全体をより悪い状態にするかもしれないのである。そうだと仮定してみよう。その場合には、もしわれわれが、もっとも恵まれない人の全体的な福祉を最大化することに関心を持っているのならば、われわれは確かに経済的な格差について心配すべきである。ロールズ的な用語を借りるならば、経済的な不平等を気にかけるべきマキシミン原理タイプの理由が存在しているのかもしれない。

なぜ、そうなるかもしれないのだろうか。説明のため、経済的な不平等が絶対的に悪しきものであるかもしれない福祉の三つの側面を検討してみよう。すなわち、自尊心、健康、友愛である。(…中略…)

おそらく、問題はこうである。自尊心は、人々の全体的な福祉の不可欠な構成要素である。(ロールズは、自尊心が、基本財の中でもっとも重要なものであると述べている。)しかし、ある人の自尊心は、他人と比較した場合に、自分は何ができるのかということに大きく依存している。(…後略…)

 

(p.155 - 157)

 

[自尊心に基づく議論と友愛に基づく議論の違いを指摘しつつ]それはむしろ、断片化され分断された社会は、そこに住むすべての人からーー貧しい人からだけでなく、金持ちからもーー、友愛という善を奪い取ってしまうというものなのである。(もちろん、金持ちは、他の点では恵まれているだろうが、「友愛のある社会に生きる」ということに関する限り、彼らも、底辺にいる人々と同程度に恵まれていないであろう。)

(……中略……)

われわれは、本当に友愛のために、経済的不平等が絶えずチェックされているような社会を選ぶだろうかーーもしその結果が、もっとも貧しい人が、さもなければそうありえた以上に貧しくなっているような社会であったとしても。

(……中略……)

このようなコンテクストにおいて、ロールズが、マキシミンという考え方それ自身を、友愛のひとつの表現と見なしていることを指摘しておくことには価値がある。格差原理によって統制され、またそのことが知られている社会では、社会のすべてのメンバーは、存在しているあらゆる経済的不平等は、それが、まさしくもっとも恵まれない人の福祉に貢献しているという理由で、存在しているのだということを理解している。私が、そのような社会のもっとも貧しいメンバーのひとりであり、また他人が自分より恵まれているということを知っていると仮定しよう。ロールズの見解では、私にとって、他人の持ち分がより少なくなるよう願うことはーーあるいは、他人の持ち分のいくらかを自分が持つことを願うのでさえーー、何の意味もない。他人が私よりも多く持っているという事実それ自体が、長期的には、私が、さもなければありえたであろう状態より恵まれた状態になりつつあることを意味しているはずなのである。もし他人が私より多くを持っているということが、私の利得に役立たないのであれば、他人はそもそも多くを持とうとしないであろう。それゆえ、社会が格差原理によって規制されることを受け入れ、同意している場合、その社会は友愛という感情を制度化しているのである。もし自分がそうあることが、もっとも恵まれない人の役に立つのでなければ、誰も他の誰かより恵まれた状態にあることを望まない。私は、後に、この見解の奇妙さに立ち戻るであろう。私よりも恵まれた状態にある他の誰かは、どのようにして私の助けになりうるのだろうか。もし彼らが、本当に私を助けたいのであれば、なぜ彼らは、自分たちが手に入れ、私が持っていないもののいくばくかを私に与えようとしないのだろうか。差し当たって大事な点は、まさにロールズが、格差原理を友愛という価値の制度化として提示しているということである。

 

(p.159 - 161)

 

 ついでに、「結果の平等」と「機会の平等」に関する段落も紹介しておこう。

 

 

確かに慣習的な機会の平等を、自分の能力を用いて何を成すべきかについて人々の選択を尊重することと調和させるという問題が存在している。しかし、そのことは、われわれが、バランスを正しく理解していることを意味しない。たとえ両親が平等な機会からスタートし、異なった能力と選択のゆえに、最終的に不平等な状態に行き着いたとしても、機会の平等のために、彼らがその優位を自分の子供に譲り渡そうとするような何らかの行為を阻止することはなお正当化されるかもしれない。われわれは、人々の不平等な立場が、実際に、彼らの能力や選択の結果としてのみ生じてきたものだともっともらしく主張しうるような社会に暮らしているわけではないから、より大きな機会の平等のために、何らかの結果の平等化を行うことには、十分に正当な理由が存在しているのである。われわれは、すでに、社会的な不利を子供たちに補償することによって、競技場を平準化することを目指す政策ーー貧困地域に、無償の就学前教育を提供するといったーーは、お金がかかることを指摘しておいた。そのようなお金は、お金を持っている人からしかやってこない。お金を持っていない人の教育に用いるために、お金を持っている人から取り上げるというのは、資源の再分配である。より平等な資源の分配ーー社会的背景の有利さにおいて不平等に生まれついた人々の間でのようなーーが、慣習的な機会の平等のために要請されるかもしれないーー確かに、要請されるーーのである。

急進的な見解においては、機会の平等と結果の平等の間の結びつきはずっと強い。結果の平等化が、機会の平等化にとって不可欠の手段であるかもしれないということは、不思議なことではない。そのような構想においては、むしろ二種類の平等は、最終的に同じものだということになる。なぜそうなるのかを理解するためには、急進的な機会の平等が、選択されたものではないあらゆる不利ーー社会的な不利だけではなく自然的な不利も含めてーーを矯正しようとしていることを思い出さねばならない。これが達成された場合には、結果の違いは、純粋に嗜好や選択の違いを反映しうるだけである。(もしそうした違った結果が、才能や家族的な背景、人々に責任を負わすことのできないーーおそらくは、その帰結について十分な情報を与えられはいないだろうからーー嗜好や選択の違いを反映しているのであれば、それは人々が、実際には急進的な意味における機会の平等を持っていないということを意味しているのである。)たとえば、ある人は、他の人よりも長時間働くことを選ぶかもしれず、その結果、より多くのお金を稼ぎ、最終的にお金持ちになる。一方、別の人は、より多くの休暇を取ることを選ぶかもしれず、生き続けるのにちょうど十分なだけのお金しか稼がず、最終的に貧乏になる。かくして人々は、お金という結果に関しては不平等であるだろう。しかし、彼らは、全体的に見て不平等なのだろうか。そうではない。彼らは、「所得プラス余暇」というまとまり全体の観点からすれば、平等な結果を得ているであろう。ここには不平等が存在しているように見えるが、実際には、ただ異なった選択があったにすぎないのである。一般化するならば、人々が実際にある選択を行なっており、その帰結について十分に情報を与えられている限り、機会の平等は、結局のところ、結果の平等を意味していると言うことができる。結果の平等を信じている人は、急進的な意味における機会の平等に起因する結果の違いに反対する理由を持っていない。というのも、このような違いは、実は不平等ではないからである。もしそうした違いが、実際に、十分に情報を与えられた上での人々の選好や選択ーー人々が、真に責任を負うべきであるーーにのみ起因するものであるのなら、それら、実はまったく不平等な結果ではないのである。

 

(p.147- 149)

 

 現代ではある程度の教養のある人々の間では「不平等の存在は貧しい人にとっても経済的利得になりえる」という経済的知識が知れ渡っているのにも関わらず、人々が「不平等は絶対に是正されるべきだ」とついつい思ってしまったり不平等の存在を示すデータやエピソードに強く反応したりする背景には、本書でも指摘されている通り、人間の心理的な傾向として結果の如何に関わらず不平等を拒絶する反応が強いという点があるだろう(本書のなかでは著者の子どもたちのエピソードやフロイトの理論が取り上げられているが、クリストファー・ボームの『モラルの起源』をはじめとして、人類学や進化心理学の知見からも同様のことが指摘されている)。

 今年になって『政治哲学への招待』やジョナサン・ウルフの『政治哲学入門』、ウィル・キムリッカの『現代政治理論』などを読んで思ったのは、わたしたちがついつい疑問を抱いて(SNSなどで)意見を言ってしまうようなトピックが、、政治哲学は倫理学以上に取り上げられているということだ。そして、もちろん、わたしたちの脊髄反射的なコメントや浅はかな思い付きを早々に粉砕してしまうような、中身のある奥深い議論がなされている。

 平等や公正といった問題について考えて意見を述べたいときには、「平等と公正の違いを表すイラスト」(3人の子どもたちが木箱に乗ったりしながら球場を覗き込もうとするアレ)とか「トリクル・ダウン理論のウソを示すイラスト」(グラスタワーにワインが注がれているアレ)を貼って満足するのではなくて、きちんとした入門本を手に取って、平等や公正といった言葉が本当のところ何を述べているのかについてじっくりと考えるべきだろう。

 

 

 関連記事として、スティーブン・ピンカーの『21世紀の啓蒙』を読んだときの読書メモを貼っておく。

 

davitrice.hatenadiary.jp

能力のある人は、他の人よりも恵まれた暮らしに「値する」のか?(読書メモ:『政治哲学への招待』①)

 

 

 

 

●格差原理と、不平等の正当化

 

分配の正義に関する論争において、最大の注目を集めたのは、最後の原理ーーすなわち、格差原理ーーである。不平等は、どのようにして、もっとも恵まれない人の地位を、最大限良くすることに役立ちうるのだろうか。それを理解するわかりやすい方法は、すべての人に同じものを支払うことではないだろうか。ロールズの考えは、もし人々が、実益をもたらすような諸活動において働くよう動機づけられるべきだとすれば、彼らにはインセンティヴが必要かもしれないというお馴染みのものである。そして、議論は次のように進行する。もし経済が、そうでありうるのと同程度に生産的であろうとするならば、何らかの不平等が必要(社会学者は「機能的に」と言うかもしれない)である。不平等がなければ、人々はある仕事を別の仕事以上にしようとするインセンティヴを持たないだろうーーこうして、彼らの行うはずのもっとも有益な種類の仕事(他のすべての人にとって)を行うべきインセンティヴがないことになってしまうのである。すべての脳外科医と精力的な起業家が、本来はむしろ詩人志望であると想像してみよう。彼らが詩作の喜びを慎むよう誘導する割り増し的な金銭がないとすれば、残りのわれわれは、彼らの外科医や起業家としての技量を失ってしまうことになるだろう。集団的なレベルに総合してみるなら、あなたが得るのは、すべての人に同じものを支払ったがために、すべての人ーー長期的には、もっとも恵まれない人を含むーーの利益となるような種類の成長をもたらさない非効率的で停滞した経済である。そして議論は、次のように進行する。これが、おおざっぱに言って、東欧の国家社会主義において生じたことなのである。

このような不平等の正当化は、非常に広範に受け入れられている。このことから、何人かの思想家は、不平等について気に病む必要などまったくないという結論へと導かれた。

(……中略……)

ロールズの原理が述べているのは、不平等は、もしそれが、もっとも恵まれない人の地位を最大限良くすることに役立つならば、正当化されるということだけなのである。実際、この原理は、不平等は正当化されないという主張とまったく矛盾しない(なぜなら、もっとも恵まれない人の利得を最大化するためには、どんなことでも必要だというのは、真実ではないのだから)。われわれは、不平等が必要なのかどうか、そして、もし必要ならば、なぜそうなのかを注意深く考えるべきである(そして、考えるであろう)。また、この原理が、次のことを要請していることにも注意しておこう。すなわち、不平等は、もっとも恵まれない人の地位を最大限良くするのに役立つ場合に限って、正当化されるということである。半端なわずかばかりの「トリクル・ダウン」は、この原理を満たすのに十分でない。重要なことは、もっとも恵まれない人がそうありうるのと同程度に豊かであるかどうかであって、彼らがそうであったかもしれない状態よりもましな状態にあるのかどうかではないのである。

 

(p.41 - 42)

 

自己所有権と、才能の「道徳的な恣意性」

 

自己の所有権は、どうなのだろうか。人は、この「完全な、あるいは絶対的な」意味において、少なくとも自分自身の身体ーー天賦の才能を含めてーーを確かに所有しているのだろうか。この論点について、ノージックは、明らかにロールズとは対照的である。ロールズにとって、原初状態は、市民として人々が自由かつ平等であるという考え方をモデル化したものであったということを思い出してみよう。そして、人々が平等であるという考え方は、部分的に、天賦の能力について無知であることによって巧みに捉えられていた。このことは、才能を持っているということは、「道徳的観点からは恣意的」であるとするロールズの見解を表している。人が、丈夫さや賢さをより多く持って生まれるか、より少なく持って生まれるかは、運以外の何ものでもない。それゆえ、それを根拠にして、人々がお互いに、より恵まれたり恵まれなかったりすることは、公正ではないであろう。ある箇所でロールズは、自分の正義の構想は、人々の天賦の才能を「共有資産」として扱うと述べている。なぜノージックが、人格の別個独立性や、人々は自分自身を所有しているという考えを真剣に受け止めることができていないこのような明白な失敗に、意義を唱えようとするのかを理解することは容易であろう。ノージックは、(生まれついた家族の社会階級と同様に)人々が天賦の才能を持つことが、運の問題だということを否定してはいない。しかし、それは重要なことではない。たとえそれが運であったとしても、それでもなお人々は、自分自身を所有しているというのである。

ほとんどの人は、何らかの種類の自己所有権テーゼを受け入れている。(……中略、「国家が眼球を再分配する」という思考実験が提示される……)身体の一部の強制的な再分配を拒否する一方で、再分配のための課税を支持する人たちーーおそらくは、人口の大多数ーーは、自己所有権に関してはノージックに同意するのだが、自己に関する所有権には、われわれが自分自身を使用することによって作り出した事物ーー商品や金銭ーーに関する所有権ーー同様の完全な意味におけるーーが必ず伴うということを否定している。人々は、一般に、身体の一部の強制的な再分配は、身体の一部を使用することによって作られたモノの強制的な再分配ならばそうでないような仕方で、われわれの自己の侵害を必然的に伴うだろうーー人間としての完全性を侵害するだろうーーということを信じているのである。(自己所有権を支持する直観に圧力をかけるために、多数の怪我人と血液の必要をもたらした自然災害を想像してみよう。自発的な献血だけでは十分ではない。この場合、国家が強制的な献血プログラムを始めるのは間違いだというのは明らかのことなのだろうか。)

ロールズは、自己所有権のいくつかの側面には、同意している。誰がどの身体を持つかは「道徳的に恣意的」であるとしても、依然としてわれわれは、身体的な完全性への権利と個人の自由の領域ーーそこにおいては、われわれは、干渉を免れていなければならないーーを持っているのである。ロールズの見解では、例えば、個人は自由に選択した職業に就くことができなければならない。私が卓越した外科医になることができ、そうなることが同胞市民にもっとも役に立つという単なる事実は、他の人たちが、その方向へと私を強制するために結託することを正当化するわけではない。このことは、ロールズにとって、ノージックの意味における自己所有への権利以上に、自分固有の善の構想を形成し、修正し、追求する個人の能力の重要性とより深く関係している。道徳的恣意性についてのロールズの主張は、ノージック自己所有権という概念で捉えようとした広く共有されている直感のいくつかを受け入れる余地を残しているということを理解しておくことは、依然として重要である。両者の間の大きな相違は、ノージックが、自己所有権を自己が作り出した生産物の所有権を含むところまで拡張するようなやり方で、そうした直観を用いようとした点にあるのである。

 

(p.57 - 59)

 

●「真価」としての正義という、慣習的な見解(世論)

 

[ノージックの議論を学ぶ理由として]……正義を根拠にして市場の結果を擁護する人たちが、極めて頻繁にーーそして、完全に不当にーー、実際にはまったく異なった議論であるものを、いかに混ぜ合わせがちであるかを理解する手助けになるからである。ある議論は、市場は、個人の自由にとってーーあるいは人々の自己所有権の尊重にとってーー、絶対不可欠なものであると見なしている。個人的な交換から生じる結果からは離れた強制的な資源の再分配は、自分のものを用いて自分の好きなことをする人々の自由を侵害する。(…中略…)別のまったく異なる議論は、市場は、人々に、その人に値するものを与えているのだと主張する。才能に恵まれ、一所懸命に働いた人は、才能に恵まれておらず、無気力な人よりも多くの報酬に値し、市場は、彼らがそれを得ることを保証している。これらの正当化は、特殊なケースでは一致するかもしれないが、市場の擁護者は、一致しないかもしれないということに無自覚なまま、ひとつの議論から別の議論へと移動すべきではないのである。

したがって、ノージックは、真価(ディザート)としての正義という考え方に訴えかけるような市場の結果の擁護を提示しているわけではない。ロールズもまた、まったく別の方向から、その生産活動が市場で高い値段を期待しうる人は、他人が進んで彼に支払おうとするお金に値するという考え方に断固反対している。ロールズの場合、これは、本質的に、人がその生産活動をいくらで売ることができるかを決定するにあたって、運が極めて大きな役割を果たしているからである。天賦の能力の分配は、「道徳的観点からは恣意的」であるのだから、他人が進んでそのために支払いたいような多くの能力を授けられた人は、そうでない人よりも多くの報酬に値すると主張することはできない。こうしてロールズは、「慣習的な真価の請求」と呼んでよいかもしれないものに断固反対している。それは、例えば、次のような主張である。「タイガー・ウッズは、ジーン・メーソンよりも多くの収入に値する。なぜなら、ウッズは、世界中の何百万人という人に大きな喜びを与える突出した才能に恵まれたゴルファーであり、その結果、自分の労働を非常な高値で売ることができるが、他方のメーソンは、一個のソーシャル・ワーカーである」。

そのような主張は、実際にほとんどの人が、それを是認しているという意味で「慣習的」なものである。われわれは、世論がウッズの味方であることを知っている。世論は、ウッズが、得ているだけの収入に値するとは考えていないかもしれないが、概して他人が進んで支払うようにすることができる(そして、そうしている)人は、そうしない人(そうしない唯一の理由が、できないからであっても)よりも、恵まれた暮らしを送るに値するという考え方には賛同しているのである。

(……中略……)

そして、[ロールズノージックの]この一致において、彼らは共に、世論ーーこの種の慣習的な真価の請求に大筋で賛同しているーーに異議を唱えている。政治哲学者たちは、この論点に関して、巷の人々とは、相当に意見を異にしているのである。

 

(p.60 -61)

 

[上述したような「慣習的な」見解を]…「極端な」見解と対比してみよう。この見解は、各人がたとえ異なった量の努力を払っているーーあるいは、過去において払ったーーとしても、人々は、互いに、より少ない所得やより多い所得を得るに値するわけではないと述べる。一所懸命に働く人は、そうではない人より多くの所得を得るに値しない。いったい何が、そのような見解を、正当化するのだろうか。答えは、ある人がどのくらい一所懸命に働くかということは、それ自体、その人のコントロールを超えた何かだからである。人の性格や心理的構成は、遺伝的な体質や幼児期の社会化の函数である。ある人は、成功しようとするーーあるいは、一所懸命頑張ろうとするーー意志を持って生まれてくる。別のある人は、幼少期から、両親やその他の発育上の影響によって、その人に植えつけられた態度を持っている。また、ある人は、それほど幸運に恵まれはいない。なぜ一所懸命に働くような人格であるという幸運に恵まれた人は、そうでないという不運を背負っている人よりも、多くの所得を得るに値すべきなのだろうか。

 

(p.62 - 63)

 

 

ロールズは、ときどき、極端な見解を抱いていると紹介されることがある。この点に関して、彼は、完全にはっきりしているというわけではない。しかし、ロールズが何を述べているのかに関する説得力のある読解は、彼は自由意志の役割を認めており、個人が行うと想定されているすべての選択は、実際に、遺伝や社会化によって決定されていると主張しているわけではないとしている。そうではなく、ロールズは、人が、自らの努力レベルに関して行う選択は、当人のコントロールを超えた要因によって強く影響されているので、単純にその努力に比例して報酬を与えるのは不公正であろうということを信じているのである。彼が述べているように、「真価に報酬を与えるという考えは、実行不可能である」。なぜなら、実際問題として、選択に影響を与えがちな恣意的な特性から、適切な意味で、選択(すなわち、道徳的に恣意的な特性から影響を受けていない選択)を分離することは不可能だからである。

 

(p.64)

 

[優れた詩を書いた文学者はノーベル文学賞に値するという議論に関連して]…慣習的な真価の請求について懐疑的な論者でさえ、その請求が妥当する何らかのコンテクストが存在していることを認めるだろう。懐疑的な論者と、市場を各人がそれに値するものを与えるものとして擁護する論者との間の不一致は、すべての慣習的な真価の請求が妥当かどうかではなく、それに相応しい範囲によっているように思われる。

 

(p.66)

 

●「真価」と「正当な期待」の違い、「差額の補償」

 

第一に、真価と「正当な期待」との間には、差異が存在している。企業や全体としての市場経済のようなひとつの制度化された構造ーーそこでは、実際に、人々は、持っている資質によって不平等な報酬を与えられているーーを想定してみよう。この場合、われわれは、次のように言うかもしれない。そのような資質を獲得した人は、報酬を与えられるに値する。それは、まさに制度が、その資質を獲得した人は、その資質を獲得したことによって、自分が報酬を受けるだろうという正当な期待を持つようなあり方で、作り上げられているからである。こうした考え方は、真価の「制度的」構想と呼ばれることがある。理解しておくべき重要な事柄は、制度が、そもそもいまあるようなあり方で、作り上げられるべきであったのかどうかということは、まったく別の問題だということである。われわれは、まったく問題なく、次のように言うことができるだろう。「われわれは、もしMBAを取得したなら、その人は、一般的に、高額の報酬を与えられるシステムの中で活動している。そして、ある人は、そうした前提に基づいて、結果的にMBAの取得をもたらした様々な選択を行った。その人の、高賃金を得るべきだという期待は、正当なものである。そうした限定的な意味において、その人は、高賃金を得るに「値する」。それでもなお、MBAを持っている人は、持っていない人よりも多くの報酬を与えられるシステムーー実際には、何らかの種類の試験に合格する能力によって、人々に異なった賃金を与える何らかのシステムーーは、本質的に不正義であり、確かに、人にその人が本当に値するものを与えていないのである」。「真価」の観点から、正当な期待に関する請求を定式化することは、難しくない。実際、そうすることに、何の問題もないのであるーー本当は、それに値していない(なぜなら、制度は、不正義に作り上げらえれており、人の「実質的な」、「剥き出しの」、「前制度的な」真価に従って、その人に報酬を与えているのではないのだから)報酬への正当な期待と持つことができる(それゆえ、制度的な意味で「値する」)人がいるということが、明らかになっている限りで。

(p.67 - 68)

 

第二に、ある人たちは、「真価」という言葉を、補償や平等化について語る場合に用いる。私が、次のように考えていると想定してみよう。すなわち、その仕事が、危険で、ストレスが多く、汚く、退屈で、不当に蔑視されている人々は、他の条件が同じであれば、その仕事が、安全で、快適、面白く、健康的で、威信の高い人々よりも多くの所得を得るべきである。私は、彼らは、より多くの所得を得るに値すると言うだろう。この種の真価の請求が、私がこれまで議論してきた種類のことといかに異なっているかが明らかである限りで、そこには何の問題もない。

(……中略……)

われわれがここで語っている事柄は、本質的には、平等化の請求であるような真価の請求を用いているのである。われわれは、それを、「差額の補償」という考え方に基づいて、考察することができる。

(……中略、ふたたびタイガー・ウッズとソーシャル・ワーカーが対比される……)

われわれの社会において、市場が生み出す不平等は、差額の補償としての真価という考え方に訴えかけることによって、正当化されうると考えることには、まったく説得力がないのである。(理想化された完全な市場が生み出す不平等は、正当化されうると考えている経済学者や政治理論家もいる。このケースでは、人々の得るお金ーー労働の値段ーーは、自分の仕事を果たすことに含まれる利益と不利益の正味の収支以外のものは何も反映しないだろう。それゆえ、雇用者は、人々に不愉快な仕事をさせるためには、愉快な仕事よりも多くを支払わねばならないであろうーーところがいまのところ、その反対が、しばしば真実なのである。)

 

(p.68 - 69)

 

ここで区別されるべき第三の、そして最後の考え方は、この差額の補償という着想と関連づけることができるーーもっとも、関連づけることが必要だというわけではないのだが。これはある人たちが、他人よりも多くの所得を得ることを、もし彼らがそうしないなら悪い結果が生じるだろうという理由で、正当化するような考え方である。この考え方は、真価という観念を用いて定式化されることがある。われわれが、「脳外科医は、看護師より多くの所得を得るに値するのか」という問いを発したと想定してみよう。次のように答える人がいるかもしれない、「そうだ。彼らはそれに値する。なぜなら、もしわれわれが、看護師より脳外科医に多くを支払わないならば、誰も脳外科医でありたいとは思わないだろうからである。ある人々が脳外科医であるということは明らかに重要なのだから、われわれが、ある人々がその仕事を選択するということを確保するために、彼らはより多くのお金を得るに値するのである」。これは、インセンティヴに関する主張ーー人々を社会的に有用な職務へと誘導することの必要性と、もし人々に、より多くの賃金を支払うことが、そうした職務を遂行させる唯一の、あるいは最善の方法であるのならば、そうすることの正当性に関する主張ーーである。それは、真価と何らかの関係があるのだろうか。

今のところは、無関係である。それは、基本的には、脳外科医と看護師の相対的な真価には何の関係もない。それは、単なる帰結主義者の見解であり、結果についてのーーもしわれわれが、多くの賃金を支払わなければ、何が起きるのかについてのーー所見である。

 

(p.69- 70)

 

 かなり引用が長くなってしまったが、「真価」や「正当な期待」に関する議論にわたしがこだわっているのは、まずは『実力も運のうち』でサンデルがロールズに対して行なった批判に由来する。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 政治哲学における能力主義批判をまとめると、「ある人が他の人よりも能力を発揮して社会に貢献しているとしても、その背景には道徳的に恣意的な事柄(天賦の才能の有無や、外的要因のマイナス影響を受けずに「努力ができる」という状態にまで至れること)が存在するのだから、能力を発揮していること自体はその人が他の人よりも恵まれた生活に値することには直結しない」ということになるだろう。

 日本人読者の多くは、昨年にサンデルの『実力も運のうち』が邦訳されたことで初めてこの考え方を知ったはずだ。……とはいえ、彼自身が書いていたように、この考え方はとくにサンデルにオリジナルのものではない。むしろ、引用部分で示してきたように、この考え方はサンデルの批判対象であるジョン・ロールズのほうに代表されるものである。また、スウィフトもサンデルも認めている通り、ノージックハイエクなどのリバタリアンですら市場での成功と「真価」を結び付ける議論は否定しているのだ。

 とはいえ、『政治哲学への招待』が優れているのは、政治哲学ではなく正義に関して「世論」が持っている考え方として、能力や成功と「真価」と報酬(所得や恵まれた暮らしなど)を結び付ける発想を紹介しているところだ。

 サンデルも「真価」に基づく発想を批判的に紹介してはいたが、彼はその起源をアメリカのキリスト教の歴史やプロテスタンティズムに見出していた。しかし、以前にも指摘した通り、「能力を発揮している人や社会に貢献している人や努力をしている人は、そうでない人に比べてより多くの報酬に値するべきだ」という発想は欧米人に限らずアジア人やその他の世界中の人々に存在しているだろうし、現代や近代に限られたものでもない。おそらく、ジョナサン・ハイトが「分配的正義の直感」や「道徳基盤」として論じているような、生物学的レベルで人間に深く根付いた心理的傾向であるのだろう*1。社会的なものであるとしても、「より努力をした人はより成果を出した人はより多くの報酬に値する」というルールや道徳観は、ほとんど全ての段階の社会で必要とされるはずだ。人々の外部にある社会システムとして「より成果を出した人はより多くの報酬を得られるインセンティブが設計されているだけでなく、「より成果を出した人はより多くの報酬に値する」という道徳観が人々の間に内面化されていたり、能力を発揮することや努力をすることが「徳」として称えられている社会でないと、生産性が低下して持続不可能になると思われるからだ(すくなくとも農耕以降の社会には多かれ少なかれ「真価」の考え方が根付いているだろうし、平等主義がかなり強い狩猟採集民社会ですら「狩人や戦士として優れている男はそうでない男よりも賞賛に値する」という発想はあるだろう)*2。『政治哲学への招待』にも書かれているとおりインセンティブと真価は必ず関係があるというわけではないが、ここでわたしが言いたいのは、インセンティブ設計の必要性が、真価を重視する心理的傾向や文化を生み出すということである(わたしたちがある人のことを「能力が優れており立派だから称賛に値する」と考えるとき、その考えの背後にある心理的傾向や文化はインセンティブ設計の都合から生まれたものであるとしても、わたしたちの考え自体にはインセンティブという発想は含まれていない、ということ)。

 

 サンデルはロールズが「真価」の議論を否定していることを認めながらも、ロールズの議論ではインセンティブ設計の都合から「正当な期待に対する資格」が許容されているために、ロールズリベラリズムにおいては「真価」に基づく世論と同様に「能力を発揮して稼いでいる人間は、そうでない人間よりも優れている」という発想を人々が抱くようになって、勝者が「傲慢さ」を抱き敗者が「屈辱」を抱くようになる……と論じていた。

 その代替案としてサンデルが持ち出すのが「共通善」であった。市民を教育して同胞意識や連帯感を育せて同じコミュニティに暮らす仲間として尊重し合う態度を教えることで傲慢さも屈辱も感じることがなくなるだろう……といった主張である。

 とはいえ、以前にも指摘した通り、サンデルにはインセンティブという発想が全く欠けている。また、教育などによって共通善を育めば傲慢さや屈辱などの問題が解決するという発想は、かなり浅薄な人間観に基づくと言わざるを得ない。これも以前に指摘したが、サンデルは「思想」や「イデオロギー」や「社会」が人間の感情や発想に与える影響力をかなり強く見積もる代わりに、社会がどうであるということ以前に人間に備わる生物学的・心理学的な要素を無視する傾向が強い*3

 サンデルに比べると、ロールズの正義論は、一般的・平均的な人間の心理学的な特徴や傾向、インセンティブに対する態度などの(経済学的な)合理性などを仮定したうえでボトムアップ的に論じられている。また、ロールズの議論では大半の人間が持つ利己性を前提としながら、同じく大半の人間が持つ正義感覚との折衝をしながら「正義の原理」が探られていく。『ロールズ政治哲学史講義』を読むと、この発想やホッブズやロックやヒュームやルソーなどの政治哲学の伝統に連なるものであることがわかる(というかロールズ自身がそう書いている)。また、インセンティブや利己性を前提にしながら論じているという点で、ロールズやその他の正義論者たちはサンデルよりもずっと現実的だ。

 

 ちなみに、ロールズが「正当な期待に対する資格」という言葉で何を述べようとしているかは、『実力も運のうち』どころか『正義論』を読んでいてもいまいちピンと来なかった。ようやく理解できるようになったのは、『政治哲学への招待』や同じくスウィフトの『リベラル・コミュニタリアン論争』を読んでからである。

 わたしなりに解釈すると……配分の対象である財や資源を増加させるためには市場での競争は不可欠であり、さらに才能のある人がその才能を発揮することで財や資源はさらに増加するのだから、格差原理に違反しない限りにおいて(脱税などをされて市場で成功した人からその成果の一部を徴収できなくなったり、市場の競争が激化し過ぎることで庶民のプライベートや生活に関わる部分までもに悪影響が出たりして、もっとも恵まれない立場の人の状況を改善しないのに恵まれた立場の人の状況だけがさらに恵まれたものになるという状況が起こらない限りにおいて)市場が効率的に機能してその生産物が増加するような社会設計にしておく必要がある。

 そして、個々人は、市場のルールや市場で成功したときに得られる報酬などは「真価」とはまったく関係がなく道徳的に恣意的な事柄であるということを理解したうえで、「自分が市場に参加して、競争に勝利した場合にはこれくらいの報酬が得られるんだな」という「期待」を抱きながら市場に参加する(その期待は道徳とは関係のないものであるが、市場が正当な範囲で機能している限りにおいて「正当」な期待である)。実際に競争に成功して報酬を得られたらうれしく生活も(格差原理が許す範囲内で)恵まれたものとなるし、競争が失敗したら悔しいかもしれないが、自分や他人の「真価」がどうだとか自分や他人が優れた人間であるか劣った人間であるかといった事柄はまったく切り離して考えることができる。……すべての人は、市場と道徳が別の領域であることや市場の存在が認められている理由などを同意・理解しているためだ。

 もちろん、昨日の記事にも書いた通り、この考えは社会においてリベラリズム完全に達成されておりすべての人々がリベラリズムを完全に理解していることを前提としているだろう。ロールズの議論は、人間観や社会の状態(正義の情況)に関する理解は現実的だとしても、あくまで理想論である*4。実際にはリベラリズムがかなりの程度まで社会制度的に達成されたり人々の意識に浸透したりしたとしても、「能力を発揮して市場で成功して社会に貢献した人はそうでない人よりも優れている」という「かん違い」は多かれ少なかれ発生して、それに伴いエリートの傲慢さや労働者階級の屈辱は残って、摩擦が発生するだろう。

 このことをふまえると、サンデルの批判が「ロールズがいくら理想を言おうが人々の認識が彼の言う通りに変わることはないだろう」というものであれば正しいと思う。……しかし、サンデルは「正当な期待に対する資格を許容するロールズの発想が、現在の社会において、エリートの傲慢さを増加する原因になっている」ことを示唆している。端的に言って、この批判は不当なものである。先述したように、現在の世論の大半は「真価」を認める発想をしているのだし、この発想は心理学や生物学のレベルで根深くどの社会にも普遍的なものである可能性が高い。逆に、ロールズリベラリズムなんて、人文系の学者や院生の一部を除けばアメリカ人の間にすらほとんど浸透していないだろう。問題の原因は、ロールズが世論に影響を与えていることではなく、ロールズもサンデルも含めて政治哲学者が無力であり、世論に影響を与えられず「真価」に基づく発想を取り除くのもできていないことのほうにある。

 また、ロールズが市場や競争を認めているとしても、おそらく渋々ながらだ。配分される財を生み出して人々の生活を向上させる源泉が他に存在すればいいのだが、実際には市場や競争以外に財を生み出す方法はないのだから、それを前提としたうえで理想的な社会を構想しなければならない。理想的な社会を語るにしても、物理的や設計的に不可能な社会を語るわけにはいかないということだ。

 一方で、サンデルの議論で市場やインセンティブ設計がどのように位置付けられているかは、いまだにわたしにはよくわからない。おそらく、サンデルもロールズ(や他の多くの人文学者たち)と同じように市場やインセンティブ設計が嫌いではある。『それをお金で買いますか 市場主義の限界』などの著作の議論を見ると、できる限り市場やインセンティブ設計を共通善やモラルに置き換えたがっていることも察せられる。とはいえ、結局のところ市場やインセンティブ設計は必要であるのだし(リベラリズムの社会ではなくコミュニタリアンの社会でも財や資源は必要であるから)、サンデルもそのことは自覚しているようにも思える。……だが、ロールズに比べると、嫌で厄介な市場やインセンティブ設計の必要性を直視して渋々ながらにも対応する、という態度がサンデルには見受けられないのだ。『実力も運のうち』を読んだ人の多くは「"共通善"は解決策になっているの?」と思ったことだろうが、おそらくサンデルも解決策になっていないことを自覚しながら、当たり障りのない議論で誤魔化しているのである。

 

 ロールズやサンデルからは離れるが、「政治哲学者たちは、この論点(真価)に関して、巷の人々とは、相当に意見を異にしているのである」という一節はかなり重要だ。

 政治哲学者でなくとも、哲学的な思考や人文学的な思考がある程度以上にできる人や、社会問題や政治について「わかっている」人であれば、「能力のある人は他の人よりも恵まれた暮らしに値する」という発想を相対視したり否定したりすることはできるだろう。関連して、「努力できるかどうかにも運や外的な要因が関わっている」という発想を抱くこともできる。飛躍させて「個人の責任というものは存在しない」という発想を抱くこともできる。……そして、SNSなどには毎日のように能力主義(≒新自由主義)や自己責任が「虚構」であるという主張を投稿し続ける人がごまんといる。

 とはいえ、政治哲学(や倫理学など)の領域を飛び越えて「真価」や「責任」を否定しはじめることには、いろいろと問題や副作用が考えられる。まず顕著なのは、「他人の真価」や「自分の責任」は否定するが、「自分の真価」や「他人の責任」は否定しないという自己中心主義的なダブルスタンダードに嵌まってしまうことだ。政治哲学においては議論が抽象化されるし、筋の悪い議論に対しては他の論者からのチェックがなされるから、あまりに露骨なダブルスタンダードは表に出る前に修正される。が、SNS(や社会運動など)の議論は具体的であるし(大概はその議論を行なっている本人の生活や関心に関わっていること)、外部からのチェックもないので、自己中心的な発想がそのまま表に出やすい。

 より重要な問題は、頭の中やTwitterアカウントや社会運動サークルの中では「真価」や「責任」を否定する人ですら、職場や家庭や友人関係やふつうの部活などにおいては「真価」や「責任」を否定することはほぼない、ということである。ミクロなものにせよマクロなものにせよ集団を維持・運営するためには責任という発想は不可欠であるし、友人や同僚を評価したり子供や部下を教育したりする際に「真価」の発想を無視することも困難だ。政治哲学のレベルの抽象的な「真価」「責任」否定論を唱えられるのは、せいぜいが二次会の席とか合宿先の寝室とかであるだろう。真昼間から素面でこれらの発想を否定する主張を唱えるような人に、大事な仕事や作業を任せたいとは思わない。

 もちろん「実際には真価や責任なんてものはないのだが、集団や人間関係の意地や運営を効率化するために真価や責任があると便宜的に仮定したうえで、その便宜的な仮定に基づいて行動や発想を行っている」とする考え方もあり得る。また、「ミクロなレベルでの対人評価や集団秩序においては真価や責任という発想は認められるべきだが、政治や経済などの関わるマクロなレベルでは真価や責任という発想は認められない」とする考え方もあり得るだろう。……とはいえ、これらは論理的にはダブルスタンダードではないかもしれないが、実践的にはこの種類の抽象的な二重思考を維持するのは困難である。

 いずれにせよ、「世論」は政治哲学的な正論とは別の領域に存在していること、世論の発想は正しくないとしても存在するのには十分もっともな理由があること、真価や責任などの「誤った」発想を世論から取り除くことはものすごく困難であること、などなどは理解しておいたほうがいい(おそらく政治哲学者の大半はそのことを理解しているが、政治哲学的な発想にかぶれた一般人のほうが、このギャップを理解するのは難しいと思われる)。

 

*1:

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*2:ポジティブ心理学では一定の種類の「徳」(VIA)が文化を超えて普遍的に見出されると論じられていることは、能力主義にもアメリカやプロテスタンティズムを超えた普遍的な魅力が存在するという議論に関連付けられる。

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*3:

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*4:

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読書メモ:『ポジティブ心理学 科学的メンタル・ウェルネス入門』

 

 

 

 著者の小林はサンデルやアリストテレスについての著作もあるコミュニタリアン系の政治哲学者。とくにアリストテレスの「徳倫理」がポジティブ心理学に結び付くのはわたしも『21世紀の道徳』のなかで紹介しており、コミュニタリアンの人がポジティブ心理学についての本を出すこと自体も違和感がないというかむしろ望ましいことであると思う。

 とはいえ、サンデルの『実力も運のうち』を読んでからわたしの頭にある疑問は、アリストテレスの「ユーダイモニア論」やそれに基づく「強み」や「美徳」を重視するポジシティ部心理学の議論と、同じくアリストテレスの「共通善」概念を発展させたサンデルのコミュニタリアニズムは矛盾するのではないか、というところだ。端的に述べると、リチャード・テイラーは『卓越の倫理』のなかでアリストテレス倫理学はエリート主義であると明確に述べておりルサンチマン道徳に対比されるものと論じているが、「能力主義」を批判するサンデルの議論はむしろルサンチマン的である、という点に疑念を抱いている*1

 

 それはともかく、本書のなかでとくにわたしの問題関心に沿っており気に入ったのは以下の箇所。

 

庶民が語り伝えてきた神話や昔話の中にも、美徳をそなえた者が最後の成功を得る、美徳に欠けた者は不幸になるという教訓談がじつに多い。「舌切り雀」や「花咲爺」は、善良で優しいお爺さんの幸せや喜びと強欲なお爺さん・お婆さんの失敗を対比しているし、桃太郎・金太郎や一寸法師は男気・元気や強力の価値を示すお話だ。「こぶとり爺さん」は「勇気」の物語であり、「浦島太郎」や「鶴の恩返し」は亀や鶴を助けるという優しい行為と約束を破るという不誠実な行為の帰結を語る。さらに「かちかち山」や「猿蟹合戦」のような敵討ち物語は、非道な者によって失われた正義を知恵や協力によって回復することがモチーフである。こうした物語を通して、【仁】や【勇】【智】や【義】などの美徳や元気やチームワークなどの強みの重要性が暗示されてきたわけだ。物語によってこれらを自覚しようとしてきたのは、過去の人々ばかりではない。現代の私たちもまた美徳と人格的な強みを学習するツールを欲し、それを再生産し続けている。

例えば、ハリウッド映画の中には、文化の違いを超えてヒットする作品が少なくない。アメリカ合衆国じたいがさまざまな人種、文化に属する人々が集まってできている国だから、その違いを超えて楽しめる映画が作られている。もちろんヒットの裏には巧みな商業戦略とお金の投入があるし、作品がその時々のアメリカ国家流の「正義」のPRになることもある。だが、さまざまな問題がありながらも、文化的な違いを超えて大勢の人が観てしまう、楽しめてしまうのはなぜか。それは、ヒット作の多くが【仁義礼智信勇】あるいはVIAで示された普遍性の高い美徳や人格的な強みをわかりやすい形でふまえているからだ。……

(p.139 - 140)

 

 一方で、下記の箇所はサンデルも『実力も運のうち』や『それをお金で買いますか』などで述べていたような議論だが、わたしはかなり疑問を抱く。

 

[コロナ禍において医療従事者や保健行政関係者の業務が増加したことについて]この事態をふり返って、私たちは自問すべきだろう。これら共通善を担う人々やその組織、制度に対し、パンデミック前のわたしたちの社会は、その善にふさわしい人材やお金などの資源を提供していただろうか。あえて素朴な言葉で言えば、私たちが政治を通じて示してきた価値判断や行動選択の中に、共通善を担う人や組織に対する「引き受けてくれてありがとう」や「よろしくお願いします」は、「正しく位置づけられていたのだろうか。

むしろ私たちは経済性や効率性といった尺度のみに左右されやすく、道徳的な価値判断を政治に持ち込むことを怠りやすい。例えば、医療や福祉、保育などの人手不足が指摘されてきたにもかかわらず、これらの分野に従事する人々の賃金水準は低いことが少なくなく、その引き上げペースも鈍かった。この人々が担う共通善の「善さ」について考えるより先に人件費の抑制を考えてしまう風潮は、市民の間にもあったはずだ。

(p.204)

 

  この種類の発想に対するジョセフ・ヒースの批判は以前にも紹介した。

 

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それに対して、左派は「社会の認識」の誤謬とでも呼ぶべきものーー賃金率は「社会」が特定の労働に与える価値で決まるという考えーーの餌食となることがしばしばだった。現実には、賃金率は雇用主が労働者の仕事に与える価値で決まるのですらない。ましてや社会全体のそれでは決まらない。残念なことに、社会の認識の誤謬から多くの人たちが「ワーキングプア(働く貧困層)」問題は労働者の社会に対する貢献の認識を変えれば直せると考えるようになった。バーバラ・エーレンライクの著書『ニッケル・アンド・ダイムド』は、ジャーナリストが低賃金労働に潜入して発見を報告するという零細産業を生み出した。話の教訓はどの例でもほぼ同じだった。善良で勤勉な人たちが骨の折れる仕事をしていて、屈辱に耐えることを強いられながら悲惨なほど薄給ということだ。まったくそのとおり、肝に銘じておきたい。しかし、どうしたらいいのか?あからさまにも、暗黙のうちにも、一般に勧められるのは以下の二つ。その一、そういう人たちには親切に。これには異論はないと思う。その二、賃金を上げる。ここで議論が(たいしたことではないが)ややこしくなる。

勤勉で善良な人はかなりいい給料をもらうのが自然な考えのように思えるのに、資本主義ではそうはいかないのが純然たる事実だ。国内的にも国際的にもそうならない。結果としての所得の分配には控えめに言っても道徳的に問題がある。肝心なのはそれをどうしたいかだ。総合的な問題は、市場経済における賃金は他の価格と同様に、報酬というだけでなくインセンティブでもあることだ。分配の公正を理由に慈善的な価格方針をとれば、負のインセンティブ効果を招きかねない。要するに、いつもながら市場には、国民の支援を意図した発案をかえって前より困窮させるものに変える苛立たしい傾向があるのだ。このため貧困撲滅の構想は、単に賃金を上げるよりもっとずっと高度なものでなければならない。支払われる賃金を操作するよりは、いっそ労働者に(税制などを介して)金銭を与えるほうがましなことが多い。

(p.260 - 261)

 

 もっと単純な問題として、わかりやすい「善さ」に基づいて「医療や保健に関わっている人は共通善を担っているのだからもっと給料を上げてあげるべきだ」と主張することは、恣意的で不公正なきらいがある。

 たとえばコロナ禍では持続化給付金や家賃支援給付金がセックスワーカー性風俗店に支給されないことは大問題になったし、この仕打ちは公平性や正義という観点から見ても正当化できないだろうが、これはまさしく「医療や保健は"善い"仕事だから特別に支援してあげる必要がある」という発想の裏返しであるだろう。

 また、大阪府アメリカなどで行われた対応はコロナの影響を長引かせたり悪化したりして、医療者に多大な負担をかけている。見方によれば、これは「自由」という特定の「善さ」を行政に持ち込んだことの帰結だ。世界の状況や社会・国家のシステムが複雑になればなるほどコミュニタリアニズムの「共通善」が衰退してリベラリズムの価値中立的なテクノクラシーの影響力が増すことには然るべき理由があるし、それは多くの場合には望ましいことでもあるのだろう。

ロールズの社会は「地獄」なのか?(読書メモ:『増補 責任という虚構』)

 

 

 以前に同じ著者の『社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 』も読んだけれど、読んでいてとにかくイライラした。本書も同じく。

 著者の立場は極端な社会構築主義。『責任という虚構』にせよ『社会心理学講義』にせよ、「自由意志」は存在せず「責任」はだれかに罪や貧乏クジを押し付けて社会秩序を回復するための虚構に過ぎないと言い張ったうえで、自由意志とそれに伴う責任を前提としたうえで有るべき社会秩序を考えて「規範」を説こうとする哲学者の傲慢さや偽善性を批判する、という論旨がよく登場する。また、ベンジャミン・リベットの実験やスタンフォード監獄実験などの脳科学・心理学の研究結果をかなり大袈裟に解釈して牽強付会に用いているところも特徴。ほかの心理学者の本を読んでみるとなんだかんだで謙虚であり、「現在の心理学の知見で言えるのはここまで」「ここから先の文明論や人間論は哲学や社会学などの他の領域の出番である」という切り分けが意識されているものだが、小坂井の議論はオレ流社会心理学帝国主義となっていて仰々しく大雑把。しかしこの大雑把さのために一昔前や他学問に対する敬意がなかった頃の「哲学」っぽい内容にもなっていて、牽強付会な議論こそが哲学や人文学であると勘違いしているタイプの読者を釣りやすい本として仕上がっている。

 そして論旨や議論の内容以前にイライラさせられるのが、断定や決め付けが多くてやたらとレトリカルで、読者に対してニュートラルな知識・議論を提供しようとするフェアネスも他の論者に対する敬意も感じられない、傲慢な文体である。他の読者たちの書評を見るとこの文体を「明晰」だと評価していたり「知性」を感じていたりするようだが、そういう読者は粗雑さや性急さを明晰さと勘違いしたり謙虚さの欠如を知性だと勘違いしているだけだと思う。

 とくにひどいと思ったのは第6章の「正義という地獄」の節。

 

正義という地獄

問題はそれだけに止まらない。人間世界の<外部>を排除し、あくまで内部に留まったままで秩序を根拠づける試みは論理的に不可能なだけでなく、ロールズの善意を裏切る悲惨な結果が待つ。

『正義論』が構想する社会において底辺の人々は自らをどう捉えるだろうか。遺伝・家庭・教育・遺産など外因に左右される能力は本人の責任でないから、そのために劣等感を抱く必要はないとロールズは説く。格差は単なる手段であり、人間の価値が判断されるのではない。

 

[……]最も恵まれない状況の人間が他者に劣ると考える理由はない。一般に同意された公共原理によって、彼らの自尊心は保護される。自他を分ける絶対的または相対的な格差は、その他の政治形態における格差に比べれば感受しやすいはずだ。(※ロールズの本からの引用)

 

だが、このような理屈や慰めは空疎に響く。ロールズの想定する公正な社会では下層の人間にはもはや逃げ道はない。社会秩序が正義に支えられ、改装分布の正しさが証明されている以上、自分が貧困なのは誰のせいでもない。まさしく自らの資質や能力が他の人より劣るからに他ならない。貧富の差は正当であり、差別のせいでもなければ社会制度に欠陥があるのでもない。恨むなら自分の無能を恨むしかない。ある日、正義を成就した国家から通知が届く。

 

欠陥者の皆さんへ

あなたは劣った素質に生まれつきました。あなたの能力は他の人々に比べて劣ります。でも、それはあなたの責任ではありません。愚鈍な遺伝形質を授けられ、劣悪な家庭環境で育てられただけのことです。だから自分の劣等性を恥ずかしがったり、罪の意識を抱く理由はありません。不幸な事態を補償し、あなた方の人生が少しでも向上するように我々優越者は文化・物質的資源を分け与えます。でも、優越者に感謝する必要はありません。あなたが受け取る生活保護は、欠陥者として生まれた人間の当然の権利です。劣等者の生活ができるだけ改善されるように社会秩序は正義に則って定められています。ご安心下さい。

 

同期に入社した同僚に比べて自分の地位が低かったり給料が少なかったりしても、それが意地悪い上司の不当な査定のせいならば自尊心は保たれる。序列の基準が正当でないと信ずるからこそ人間は劣等感に苛まれないですむ。ロールズの楽観とは逆に、公正な社会ほど恐ろしいものはない。社会秩序の原理が完全に透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界だ。

 

(p.368 - 369)

 

 まず、「欠陥者の皆さんへ」と題された手紙が届くというくだりは、ロールズなどの平等主義論者に対する「平等性からの屈辱的な手紙」批判として英米系の政治哲学者の間では広く知られており、元ネタはアメリカの哲学者エリザベス・アンダーソンの論文「平等の要点とは何か」である。さすがに「註」にはそのことが書かれているが、多くの読者は「註」まで読まないものなので、わたしだったら「エリザベス・アンダーソンの有名論文によると〜」といった風に本文中に元ネタの名前を挙げるだろう。とくに「平等性からの屈辱的な手紙」批判は具体的なイメージを想起させやすい印象的な批判だけに、「こんなに鋭くておもしろいロールズ批判を考えられるなんてこの本の著者はすごいなあ」と読者に誤解させてしまう可能性が高い。実際、『責任という虚構』の感想を調べてみると、元ネタがアンダーソンであることを忘れて(註を読まずに?)「平等性からの屈辱的な手紙」批判とは小坂井オリジナルのものだと思っている人もいるようだ。

 そして、『平等主義基本論文集』の監訳者である広瀬巌の「あとがき」によると、元ネタであるアンダーソンの論文自体も、哲学者たちの間では必ずしも高く評価されていないようである。

 

アンダーソンの論文は二つの点で重要とされている。第一に、運の平等主義に対する重要な批判をしたという点。第二に、「民主的平等」ないしは「関係性平等主義」と呼ばれるようになった立場を初めて表明したという点。第一の点について言えば、アンダーソンは大まかに二つの批判を繰り広げている。一つは「平等性からの屈辱的な手紙」批判、もう一つは「遺棄」批判である。前者の批判はまったく的はずれな批判と目されており、真剣に議論されることはない(同じような屈辱的な手紙は、いかなる分配的正義の理論に対して書くことが可能である)。

あとがきたちよみ/『平等主義基本論文集』 - けいそうビブリオフィル

 

 とはいえ、「平等性からの屈辱的な手紙」批判はマイケル・サンデルの『実力も運のうち』でも引かれていた。「恵まれない人に対する再分配を行う際に、国家(アンダーソンの元ネタでは「国家平等委員会」)から"あなたは恵まれない可哀想な人間なので、再分配の対象になりました”とわざわざ強調する手紙が届く」という光景のインパクトは強いし、その手紙が恵まれない人に与える屈辱感についてもわたしたちは想起して同情してしまうから、つい印象に残ってしまうのだろう。……逆にいえば、アンダーソン(と小坂井やサンデルなどの追随者)は、おそらく意図的に読者の感情を操作して、論理的でないかたちでロールズや運の平等主義の説得力を下げようとしている。

 もちろん、ロールズや運の平等主義者たちの提唱する「正義」が仮に実現したとして、国家や再分配機関がわざわざ「手紙」を送ることはないだろう。再分配をする際に、対象となる人に「屈辱」を与える意味がないからだ。実際には、「平等性からの屈辱的な手紙」批判では手紙が送られるかどうかは重要ではなく、「生まれ持った能力の格差や運の悪さに対しても再分配による補償がなされるほどに平等が実現した社会では、自分の人生がうまくいかなかったり競争に敗れたりしたときに言い訳することができなくなり、能力のない人は自分の能力のなさを常に思い知らされ続けて逃げ場の余地がなくなる」という点に主眼が置かれているようだ。

 

 とはいえ、引用部分で書かれている通り、ロールズは「公共原理」が一般に同意されたら「最も恵まれない状況の人間が他者に劣ると考える理由」はなくなると考えている。

 ここでロールズが想定しているのは、正義の各原理が完全に達成されて、再分配がなされる根拠である正義の原理について人々が完全に理解している状態での社会におけるわたしたちの思考や感性であるだろう。

 ロールズ流の正義論(または運の平等主義など)がしっかりと実現された社会とは、財や資源が格差原理などの正義の原理にしたがって配分される社会というだけでなく、社会の成員がその配分の理由を理解して同意している社会でもある。そのような社会では、ある人の状況が恵まれないこととその人が他者よりも劣っているかどうかはまったく関係がないこと、また自分の才能や能力の有無は道徳的には全く恣意的な事柄であるために自分が恵まれた状況で過ごせるかどうかとも本質的には関係ないといったことを、自分も他人も理解している。

 そのような社会では、たしかに、恵まれない状況にいる人が他者よりも劣っていると考える人はいなくなるはずだ。再分配によって資源や財を得られる側の人々は劣等感や恥辱を抱くことなく「能力のある人たちが稼いだ財が能力のない自分に再分配されるのは、公共の原理(正義の原理)にしたがっているのだから正しいことなのだ」と考えて堂々と受け取れるだろう。さらに、稼いだ資源や財の一部を再分配のために徴収される側の人たちすらも「これが正しいことなのだ」と納得するはずである。

 もちろん、これは理想である。実際にはわたしたちがロールズの正義論や運の平等主義の背景にある考え方を完全に受け入れて内面化することは困難だろう。自分が稼いだ財を能力のない人に再分配するために徴収されることには多かれ少なかれ苦痛や理不尽さを感じるだろうし、才能や能力のある人はそうでない人よりも恵まれた生活に「値する」という直感的な考えを是正するのは能力のある人とない人のどちらにとっても難しい。配分的正義に関する議論とは、「財や資源に(分配が可能かつ分配が必要とされる程度の)希少性があること」と「人々の利害関心や優先順位が異なっていること」という、非理想的で現実の状況に類するような「正義の情況」を前提としたうえで、「その情況では財や資源はどのような根拠に基づいて配分することが望ましいか」というベストな原理を探究するための、あくまで理想論である。

 しかし、「財が希少であるうえに人々の意見も異なるなかで財の配分のルールを定めなければならない」という「正義の情況」自体は常に存在している。どうせ財の配分が必要となるならば、適当に定められたルールや特定の人にとってだけ都合の良いルールや伝統的ではあるが根拠の不明なルールなどに基づいて配分されるよりも、平等であったり公正であったりして根拠もはっきりしたルールに基づいて配分されたほうがよい、ということには大半の人が同意するはずだ。ベストなルールを定めたところで現実の社会では様々な問題からそのルールは実現されず財の配分には歪みが生じるかもしれないが、「本来であればこのルールにしたがって財が配分されるべきであった」という理想的な基準や規範が存在することで、ようやく、「現状の財の配分のされかたは間違っている」と批判したり問題を提起したりすることができる。だからこそ規範は必要になるのだし、「責任」といった概念についても考える必要があるのだ。

 

 上述したようなポイントは、ロールズに限らず、政治哲学や倫理学の枠組みで規範を論じている哲学者たちの大半が自覚しているものだろう。したがって、「お前たちの論じていることは空想的な理想論だ」と断じるだけでは、規範論に対する批判にはなっていない。哲学者たちは、理想や規範と現実との落差を理解しながら、理想を論じるべきところでは理想を論じて、現実を論じるべきところでは現実を論じているだけである。

『責任という虚構』や『社会心理学講義』などの小坂井の本では、規範を論じる哲学者たちに「傲慢」「偽善」「おぞましい」などの価値判断を含む言葉を使いながら非難を浴びせかけられている。

「〜であるべきだ」とか「〜は悪い」といった規範を論じることを否定しながらも「規範は論じるべきでない」とか「規範を論じる行為は悪い」といった判断がなされているのだ。これは哲学者ならすぐに気が付くような、倫理的相対主義にありがちなジレンマである*1

 同じような問題は御田寺圭の『ただしさに殺されないために』にも見受けられるし、日本人が社会の状況について批評的に論じた著作の多くに見受けられる。哲学者やリベラルやフェミニストなどが「ただしさ」を語ることは否定しながらも、「ただしさがもたらしている悪さ」や「ただしさを語っている連中の悪さ」をあれこれあげつらって非難することで「ただしさ」を語るという自分の行為だけは特権的に許容する……という構造の議論は規範や「ただしさ」に対して居心地の悪い思いをしている人や規範や「ただしさ」を守りたがらない怠惰な人にとってはウケが良く、文筆の世界では昔から定番の手法となっており定期的に登場するが、使い古されているぶんかなり凡庸であるし知的にも見るべきところはない*2

 そして、小坂井は単にロールズを非難するだけでなく、彼が理想論としての正義を語る背景を無視しながら「善意」や「楽観」などの言葉を使うことで、ロールズは「頭がお花畑のアホ」であるかのようなイメージを読者に与えようとしている。もちろん、「現実を冷静に理解しているオレ」と対比させて自分の議論にハクをつけるためだ。『責任という虚構』はちくま学芸文庫で増補版が出版される程度には評価されている書籍であるようだが、やっていることはどこぞのネット論客とさして変わらない。

 

「平等性からの屈辱的な手紙」批判に話を戻すと、「完全に平等が達成された社会では"言い訳"の余地がなくなり、不平等が残っている社会よりもむしろ惨めさを抱くようになる」というポイントにはサンデルも賛同しており、それなりに説得力のある懸念だとみなされているようだ。サンデルが大学入試くじ引き論を主張する背景にもこの懸念が存在する*3。また、アンダーソンの論文では、配分的正義の問題から個々人の心情やイデオロギーの問題を含んだより社会的・政治的な物事へと議論を拡大させた「民主的平等(関係性平等主義)」が論じられている(これについても広瀬の評価は厳しいし、わたしもアンダーソンの議論はかなり微妙だと思う)。一方で小坂井は「制度化された階層制度や身分制の存在する伝統社会であれば、能力や個性が重視される近代で生じるような劣等感やアイデンティティ喪失は存在しなかったかもしれない」と示唆はするが、もちろん「前近代の身分制社会に戻るべきだ」と主張するほどの度胸も持っておらず、ただ放言するだけ。

「社会秩序の原理が完全に透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界だ」という小坂井の一文もかなりスジが悪い。たしかに、ロールズ的な正義論が完全に達成された社会は、言い訳の余地がなくなるという点で、能力がない人にとっては多少は住みづらくなるかもしれない。でも、住めないことはないだろう。「地獄」という表現はあまりにオーバーである。本を読み終わったあとにこのレトリックが記憶に残って「ロールズの社会って地獄なんだな」とだけ覚えて帰ってしまう読者もいるかもしれない。

 また、社会秩序の原理が透明化されていない社会であっても、能力のない人は自分自身の経験や他人との関係を通じて、多かれ少なかれ能力のなさを自覚するはずだ。言い訳はあくまで言い訳であり、現在の社会で「自分の給料が低いのは意地の悪い上司の不当な査定のせいだ」と言っている人がいたとして、他人はもちろん本人すらもその言い訳を心からは信じていないかもしれない。そして、言い訳を止めて自分の能力のなさを直視したところで、それで生きられなくなるというわけでもない。多少の屈辱ややるせなさは感じるかもしれないが、「自分はこの程度の人間であるのだ」という自覚をしたうえで、自分自身に折り合いをつけながら、分相応にがんばったり、自分に足りない能力が必要とされる場所から自分の持っている能力が必要とされる場所へと活動のステージを移したり、あるいは競争したり能力を発揮したりすることを重視するのを止めてのんびりと過ごす……というのは現代の社会でも多くの人がやっていることだ。むしろ、「自分はもっと能力があるかもしれない」とか「社会状況や環境のせいで自分は本来の能力が発揮できなかった」とか「自分が不幸であるのは他人のせいである」とかいった認識を改めて、欠点や劣っていることを含めて自分自身をありのままに認識できるようになることには、それ特有の喜びや充実感もあるものだ。

 「伝統的社会では身分制が存在するために欲求不満やアイデンティティ喪失が解消されていた」という小坂井の主張も、おそらく極端な社会構築主義が背景にあるのだろうが、かなり疑わしい。むしろ、人間には「対等願望」や「承認欲求」と共に、自分の能力を発揮して他人から抜き出た人間になりたいという「優越願望」が生得的・生物学的に備わっているというフランシス・フクヤマの議論のほうにわたしは同意する*4身分制度などの差別が存在する社会では「自分はもっと能力を発揮して幸せになったり充実した人生を過ごしたりすることができていたかもしれないのに、差別のせいでそれができなかった」という後悔をずっと抱きながら死んでいった人が大量にいただろう。「地獄」という言葉を使いたいのなら、むしろ彼らや彼女らの人生のほうに使うべきだ。

 

 余談だが、これは、サンデルによる「大学入試くじ引き論」がうまくいかない理由とも関係している。

 大学入試に話をしぼっても、わたしの周りの人たちを見ていると、「自分の能力をベストに発揮できる条件のもとで第一志望の大学を受験したが、根本的に能力が足りていなかったために落ちてしまった」という人よりも「運の悪さや環境・家庭の問題などから、受験の際に自分の能力が発揮できなかったり、第一志望を受けること自体ができなかった」という人のほうが、より強い後悔を抱えており、入試がその後の人生に及ぼす負の影響も大きかったようだ。

 おそらく、わたしたちにとっては「自分の能力のなさ」に耐えるよりも「運の悪さ」に耐えることのほうがずっと難しい。だからこそ、悪影響があるとしてもわたしたちは「くじ引き」よりも「完全に公正な競争」を望むし、実際には不公正が潜んでいたとしても競争は「くじ引き」よりかはマシだと思うのだろう。

……同様に、いくら近代や現代に問題があるからといって、まともな人のなかで身分制度のある伝統社会に戻りたいと思っている人は存在しない。これこそが、能力主義が魅力的であり、また、リベラル・デモクラシーが(なんだかんだで)人々から望まれる理由でもある*5

 

※2023/3/15 追記:タイトルおよび本文中で『責任という虚構』が『<責任>という虚構』に誤記されている、という指摘があったので修正しました。

 

anond.hatelabo.jp

*1:「補考」では「本書は規範論ではなく、認識論としての相対主義を提唱している」などと言い訳しているが、反論になっていない。

*2:

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*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

「新自由主義」や「自己責任論」は実在するか?(読書メモ:『<学問>の取扱説明書』)

 

 

 

 久しぶりに写経っぽい読書メモ。

 

新自由主義」という言葉自体にも気をつけなくてはいけません。日本語の「〜主義」、あるいは英語の<〜ism>という言い方はすごく曖昧です。「マルクス主義」とか「ヘーゲル主義」「カント主義」などの個人名が付いている時の「主義」は、その固有名詞と結びついてる特定の思想やイデオロギーに自覚的にコミットしていることを意味するわけですが、「自由主義」とか「社会主義」、あるいは「フェミニズム」になると、その幅がかなり広くなります。むしろ思想傾向とか、基本的な考え方の枠組みくらいのゆるい意味で理解した方がいいかもしれません。「民主主義」だと、そもそも英語にすると、<democracy>で、「主義」「思想」ではなくて、「制度」です。「資本主義 capitalism」も、思想的な意味での「主義」ではありませんね。<capitalist>という英語はありますが、「資本主義者」ではなくて、「資本家」という意味です。「主義 〜ism」が付くからといって、特定の「思想」を信奉していることにはなりません。「資本家」であれば、自分の利益や「資本」を廃棄しようとするマルクス主義の運動に反対するのは当然ですが、それは別に「資本主義」という「思想」を信奉しているからではありませんし、資本主義社会を守る運動をしたいわけでもありません。

昔のマルクス主義者には、そのへんを根本的に誤解して、自分たちがマルクス主義を信じて、社会主義を奉じているように、資本家=資本主義者たちが、“資本主義”を信奉して、自分たちと対峙しているかのような言い方をしていたのがいました。個々の“資本家”ーーというより、現代では大企業の経営陣とか株主と言うべきですがーーが自社の利益確保のためにやっている行為の帰結を、資本主義を守るためのイデオロギー策動だと解釈してしまうのです。

(p.73 - 74)

 

例えば、監視カメラが多くなっていることをサヨクの人は「監視社会化」と呼び、ネオリベと結び付けたがりますが、どうして規制緩和、小さい政府を推進するネオリベ派がそんな金も手間もかかることをやるんです?仮に、監視社会化と規制緩和推進のいずれもが政府や資本の意図するところだったとしても、それを「ネオリベ」という一つの論理で括るには無理があるでしょう。

「資本家=資本主義者」に固有のイデオロギーがあるはずだと最初に想定してしまうから、監視カメラと規制緩和が一緒くたになってしまうんです。「新自由主義」という少しだけ目新しいレッテルを政府や大企業のやっていることに貼り付けたら批判していることになる、と思うのは子供です。

権力っぽいものに妙なレッテルを貼って分かったつもりになるのではなくて、個別に見ていかないといけません。起業家や商売人にとって、全ての規制緩和がいいわけない。自分に都合の良い規制なら維持してほしいし、都合が悪いものなら廃止してほしいと思うでしょう。後者が多かったら、規制緩和の圧力が強まる。それだけのことです。そういう商売人の振る舞いをイデオロギー扱いするのはナンセンスです。「支配するためのイデオロギー」という観念があってそれに基づいて動いているわけではない。

(p.75 - 76)

 

私もロールズの正義論をめぐる一連の論争なんか見ていると、「ポイントは単純なんだから、もっとあっさり言えないのか?」と思うこともあります。ですが、日本での格差をめぐる政治論議のような、「おまえはこんな〇〇の人に共感できないのか!」と共感を押し付ける語り方を見ていると、アメリカのリベラリズムの哲学者たちのように、当たり前のことについて論理的に考えてみる姿勢が重要だと言わざるをえない、という気がします。

また日本の左翼の批判になりますが、日本の左翼には、ロールズ的な意味での「正義論」なんてない。資本主義を打倒する「革命」を断行するのか、それとも、資本主義の中での改革をちょっとずつ進める社民でいいのか、という話しかしていない。革命で共産主義を目指すにしても、共産主義がどういう正義の原理に基づく社会で、それがどうして正当化されるのかなんて、議論しない。

強いて言えば、「私的所有を排して、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。それが人間の本性に合っているので正しい」という正義の原理はあるのかもしれませんが、そんなことを言われても、受け入れるか受け入れないか、どっちかしかないでしょう。具体的な正義の基準がないので、その善し悪しについての論争をしようがない。受け入れてしまえば、後は共産主義社会に至る方法論の問題だけになってしまう。革命の方法論をめぐって論争すると、みんなラディカル(極端)なことを言ったりやったりして、自分の方法論こそが革命的であることを証明しようとしてしまう。「おまえは口先で革命家ぶっているが、俺たちはこういうラディカルな実践を……」というかんじで(笑)。ラディカルさが、何だか男らしさの象徴みたいになって、みんないきがってどんどん過激になっていく。

「男らしさ」っていうと、フェミニストに叱られそうだけど、フェミニストにも、「ラディカル競争」をやって、男らしさを示そうとしているとしか思えない人が結構いますよ。

(……中略……)

フェミニストに限らず、日本の左派は妙に潔癖性で、「知らず知らずに利敵行為をしてしまう」ことを警戒して、「おまえのここが弱くて、敵につけ入られる恐れがある」と指摘し合う傾向があります。最も敵につけ入れられにくい潔癖な議論が、一番ラディカルな議論になるわけです。もちろん、戦前の伝統的文化を復活させようとする右翼がいかにも男っぽいラディカル・パフォーマンスを追求したがることについては、言わずもがなです。ちょっと前までは、右の方は思想論壇では少数派だったので、「右=保守」という大きな括りでゆるく団結していたようなかんじがありますが、最近では思想論壇でも多数派になったせいか、新しい歴史教科書をつくる会の分裂劇だとか、新米保守対反米保守だとか、皇室のあり方をめぐる論争だとか、ラディカル競争っぽいことをやっています。さっきも言ったように、日本の左翼/右翼の思想家に、文学系の人が多いことも、レトリック的なラディカルさにばかり惹かれて論理をおろそかにする傾向が生まれる原因の一つになっているのかもしれませんね。

(p.150 - 152)

 

リーマン・ショックで大量の派遣切りが起こったのは、二〇〇四年に労働者派遣法が改正されて製造業への派遣が可能になり、製造業の派遣労働者が増えていたからだ、というのはその通りだと思いますが、個々の企業がリストラをするのは、自分が生き残るためであって、別に「新自由主義」というイデオロギーに従ってやっているわけではないでしょう。正社員よりも簡単に首を切れる派遣労働者という存在がいたから、先に首を切ろうとするだけであって、派遣社員の人たちをわざと不安定な状態に追いやって、より搾取しやすくするために、業界が示し合わせてやっているわけではないでしょう。非正規社員を統治しやすくするために、密かに協働する余裕なんて、どこの企業にもない。

(……中略……)

派遣労働が解禁になるまでは、日本の企業は労働者をもっと大事にしていた、不況になっても企業全体で痛みを分かち合っていたと言う人はいますが、あれもそれほど客観的な根拠のある話ではないでしょう。どういう経営状態になったら、どのようにリストラしたり、賃金カットしたりしていたのか、個別企業ごとのデータがないとはっきりしたことは言えません。企業の経営環境とか労働形態はどんどん変化しているので、正確な比較は難しいでしょう。派遣労働法の改正によって、不況になった時に派遣労働者が真っ先にリストラの対象になる状況が生まれた、とは言えますが、派遣労働者がいなくて正社員ばかりだったら、労働者と企業の関係はもっと良好だったはずだとは簡単には言いきれないでしょう。

一九九〇年代末から小泉政権期にかけての「改革」で、日本の企業のメンタリティが変わったという可能性は否定できませんが、「新自由主義の下で、労働者を物のように扱う傾向が出てきた」などという漠然とした言い方は、何も言っていないに等しい。それは、マルクス以前から、資本主義的な工場労働がはじまって、労働者階級が形成されはじめた頃からずっと言われていることです。

(p.210 - 211)

 

……「市場原理主義が悪い」という漠然とした言い方では、どういう正義の原理を求めているのか分かりません。日本語の日常用語で「正義」と言うと、アニメの「正義の味方」のような絶対善の化身を連想しがちですが、西欧の経済倫理学、政治哲学、法学などで「正義 justice」と呼ばれているのは、社会的な「公正さ」の基準を提案する議論だったわけでしょう?現在の市場の正義の欠陥を批判するなら、それがどう言うものなのか原理的に把握したうえで、自分はそれに代わる正義の原理として、こういうものを掲げるという態度を示さねばなりません。

念のために言っておきますが、「弱者を見捨てないで、同じ人間として連帯し合う」とかいうのは、心の持ち方の話で、「正義の原理」ではありませんよ。労働問題で「正義」を求めるのなら、現在の企業と労働者の間での利益配分のルールがどのようになっていて、それがどのように不公正であるか理論的に説明したうえで、公平に分配するための基準や方策、例えば、同一労働同一賃金の原則とか、労働配分率のルール化とかを提案して、その方がより正義に適っていることをーー単純に共感に訴えかけるのではなくーー正当化しなければなりません。

ロールズの議論がそうであるように、正義論は、社会全体にとっての公正さを求める正義感覚と、自己の利益・安全を確保しようとする利己心との間でバランスを取る必要があります。労働組合という組織は、特定の企業あるいは業者に属する労働者が利害を共有しているからこそ組織化できるし、その利害を代表して、企業と交渉することができるんです。「この現実を見て、何とも思わないのか!」と叫んで、それに共感する人を一時的に集めることはできるかもしれませんが、制度として定着させるには、共感できない人でも支持できる「正義の原理」を示す必要があります。私が、ネオリベ批判の人たちが嫌なのは、自分たちが「ネオリベ」なる悪を倒す正義の味方の役割を演じれば、自ずから正義が実現されるかのような語り方をしているからです。

(p.215 - 216)

 

……「自己責任」というのは文字どおりに取れば、「自分したことに対して、自分で責任を取ること」を意味するはずですが、「弱者であることに対して責任を取れ」なんて言っている人いますか?「新自由主義は、弱者に自己責任を押し付ける」という言い方をする人がいますが、政治家や財界人、経済学者で「弱者は自己責任だ」なんて言っている人を見たことありますか?新自由主義批判の人が言っているほど、「自己責任」という言葉は、権力者や企業家の側からは使われていませんよ。

(…中略…)

いわゆる新自由主義者たちが自己責任という言葉を使うのは主として、「自己責任で、市場での競争に参加すべきだ」という文脈においてです。具体的には、護送船団方式を排して各企業が自己責任で経営判断すべきだとか、各人が自己責任で企業する精神を持つべきだとか、各人が自己責任で自分の資産を運用すべきだとかいった場合ですね。自己責任でやって失敗したら、他人のせいにできない、ということにはなりますが、だからといって、現在、「弱い立場」にある人、フリーターとかワーキングプアの人が自己責任でそうなった、ということにはならないでしょう。「新自由主義者は、ワーキングプアとかフリーターとかニートなどは、自己責任で現在の状態に陥ったので、助ける必要はないと言っている」というのは、ネオリベ批判の人が類推で言っているにすぎず、新自由主義者と名指しされている人たちが、「弱者は自己責任で弱者になった」と言っているわけではありません。どうもそこを勘違いして、意味のない批判をやっている人が多すぎます。

(p.225)

 

…政府や大企業のトップが新自由主義的な精神で政策を実行したり、企業を経営したりしたとします。でも、だからといって、その影響で普通の会社員の間にも新自由主義的なメンタリティが浸透した、というのはあまりにも大ざっぱで、論証のしようがない話です。かなり粗悪な疎外論ですよ。その辺のおじさんやおばさんが、「ニートになるのは自業自得(=自己責任)だ」と漠然と言っているのが事実だとしても、それ、単に無関心なので適当に言っているだけなのか、新自由主義イデオロギーに洗脳されているせいなのか、あるいは、古い日本的な勤勉道徳を反映しているのか……。どうとでも解釈できます。

(p.226

 

世の中にはいろいろ望ましくないことが生じていますが、個別に見ると、どれもかなり複雑な経緯をたどって生じてきているわけで、それら全てが、新自由主義的な世界改造計画のようなものに沿って動いているかのような言い方をしても、何にもなりません。全ての負の現象を生みだしている、悪の究極実態などないのですから。

若者の「自己責任」の問題に話を戻しますと、正社員になりたくてもなれなかったり、職が全然なくてニートになったりするまでの間に、いろいろな人生の選択があったはずです。極端なことを言うと、大麻を栽培したり、重大な交通事故や障害事件を起こしたりして、警察に捕まって退学になり、まともなところに就職できなかった若者でも、新自由主義の犠牲者になるんですかね?やる気が出ないので大学の授業に全然出なくて、留年を繰り返し、まともな企業に採用してもらえなかった若者は、どうですか?それほど極端な例ではなくても、自分が負の帰結を回避するために本気で努力をしたら、もっといい職に就ける可能性があった、という人は多いと思います。また、フリーターの生き方がやっぱりいいという人もいるでしょう。その人のそれまでの生き方を全体的に検証しないと、自業自得でそうなっているのか、それとも誰から見ても気の毒な犠牲者なのか分かりようがありませんよね。

(p.228 - 229)

 

 言い方はかなりキツかったり嫌味っぽかったりするが、引用した箇所で仲正が言っていることは、ロールズやロナルド・ドウォーキン的な意味での「リベラリズム」に他ならない。最後の引用箇所はドウォーキンの「運の平等主義」的な考え方を反映していると言えるし、「正義の原理が必要だ」という主張や「共感や情緒に訴えるのではなく、他人の利己心や正義感覚を考慮しながらバランスの取れた主張を理性的に訴えかけなければいけない」というところはロールズの「公共的理性」の考え方を反映していると言える。

新自由主義」批判や「自己責任論」批判が藁人形論法っぽいというのはかなり以前からわたしも思っていた(このブログでも度々そう書いてきた)し、日本のサヨクのラディカルごっこのしょうもなさにも以前からうんざりしていたが、それに対するオルタナティブな規範論としてわたしの頭のなかにあったのは、功利主義やカント主義などの規範倫理学の考え方が主であった。

 政治哲学としての「リベラリズム」やロールズの思想がこのような風潮に真っ向から反発して公共的理性や適切な意味での「責任」論を重視している、ということを理解したのは今年になって政治哲学の勉強を本格的に始めてからである。

 とくに英米の分析系は倫理学も政治哲学もかなり近くて区別が付けづらいところはあるんだけれど(倫理学はどちらかといえば「人」を対象にしていて政治哲学が「国」や「社会」を対象にしているが、倫理学でも国や社会について扱うことはできる)、時事問題や経済・労働などに絡めて論じる分にはリベラリズムの政治哲学がいちばん扱いやすく、芯が通っていて強度が高いと思うようになってきた。

 

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 本書では(欧米を中心とした)「学問」について諸々と説明されているだけでなく、日本のアカデミアや論壇に固有の事情についても紹介されているところがおもしろい。 たとえば、引用部分もちょっと触れられているが、日本は欧米に比べて文学者や批評家が思想論壇のスターになりやすく、本職の政治哲学者などはあまり重宝されないようだ。「正義の原理」についての論理的な議論が堂々と展開されず、ふわふわとした精神論や情緒的なレトリック、ラディカルなだけの放言が目立ちやすいのもそこら辺が原因であるらしい。

 そういえば最近の「スター学者たち」には小説を書いて文芸賞を狙う人がやたらと多い(ちょっと思い出しただけでも千葉雅也、岸政彦 、古市寿徳、東浩紀など)。一方でジョン・ロールズピーター・シンガーはもちろん、デヴィッド・グレーバーやジャック・デリダが小説を書いているところも思い浮かべられない。まあこれは日本だと「本」といえば「小説」というイメージが他の国に比べても強いので文筆家として活動するほど小説に対するコンプレックスができてしまうとか、そういうのもあるかもしれない。あと、日本は法学部も文学部もごっちゃにする「文系」という括りがあったり海外よりも同人誌文化が強かったりするせいで「哲学」「思想」「批評」「文芸」「社会運動」がごちゃ混ぜになる……というのもありそう。

 もちろん、ここで仲正が論じているような日本の論壇に対する批判は、ジョセフ・ヒースが『反逆の神話』などで行なっていた欧米のカウンター・カルチャーに対する批判とかなり似通っている。どこに違いがあるかというと、欧米ではロールズ亡き後にも「ラディカル」に対する「リベラル」が思想家や批評家のなかにも一定数存在し続けているが日本はそれに乏しい、という点である。

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 近頃なんとなく思っているのは、日本の言論の現状に対する責任は、学者たち以上に、人文系の思想誌や人文書の編集者たちのほうにあるのでないか、というところ。「スター学者」も編集者たちによって人工的に作り上げられていく存在だという感じがするし、明らかに理論的に無理があったり根拠薄弱なサヨク言説が掲載されていく背景にも「著述家や他の編集者たちから悪く思われたくない」「社会の問題を批判したりマイノリティの側に立ったりする議論に賛同する善人だと思われたい」という編集者たちの「保身」が存在するのではないか、という気がする。あと編集者たちはなんだかんだで本のなかでは「小説」をいちばん優れたものだと思っているから(出版社の編集者のなかには小説家を目指していたけれど挫折したというタイプの人が学者以上に多いだろうし)、学者にも小説を書くようにすすめていたりするのかもしれない。ぜんぶ憶測だけれど。

 

近況&お仕事募集&雑誌などに投稿した記事のリスト

 

●現在、単著の執筆作業と動物倫理に関する英語の本の翻訳作業を同時で進めていますが、生活費を稼ぐ&知名度を挙げるために、記事を寄稿させていただける雑誌等を募集します。

連絡は下記からよろしくお願いします。

 

davitrice0102@gmail.com

 

●本年度に雑誌に寄稿した記事

PHP研究所『Voice』2022年 10月号「ネット空間を主戦場にする詭弁家」

講談社『群像』2022年 7 月号「感情と理性:けっきょくどちらが大切なのか?」

中央公論2022年 5月号「世界で燃え広がるキャンセル・カルチャー日米の事例から考える現代版「私刑」の功と罪」

 

●昨年度以前の記事

・rn press 2021年『USO 3』、「ウソと「めんどくささ」と道徳」

・啓文社書房『表現者クライテリオン』2021年5月号「ポリティカル・コレクトネスの何が問題か アメリカ社会にみる理性の後退」

太田出版 2017年『atプラス 思想と活動』32、「動物たちの未来は変えられるか?」

 


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ミルの「個性」と「卓越性」(読書メモ:『ロールズ政治哲学史講義』)

 

 

 

 ホッブズやロックやヒュームやルソーやミルやマルクスについてのロールズによる解釈を読むことで、ロールズ自身による「公正としての正義」とか「リベラリズム」とか「公共的理性」についての考えも直接的・間接的に伝わってくる……というのがウリであると思うんだけれど、なにしろ講義録であり、紹介されている各思想家のテキストを事前に読んでいたり手元にあったりすることが前提となっているフシもあるし、不自然な傍点も多かったりして、お世辞にも「おもしろい」とは言えない。教科書としても、もっと読みやすく理解しやすい本はごまんとあるだろう。

 

 とはいえ、ところどころ、印象に残る箇所もある。たとえば、ミルの議論における「個性」や「卓越性」について扱っている箇所は、他の(日本人による)ミルの解説書や研究書に比べてバランスが取れていて内容も充実しているとは思った。

 以下、写経。

 

私は、見るが、他の人々と異なった者であるために自分を他の人々と異なったものにしなければならない、と言おうとしているとは思いません。むしろ、彼が言わんとしているのは、生のプランが他者のそれと類似していようといまいと、私たちはそのプランを自分自身のものにしなければならない、すなわち、その意味を理解し、それを自分の思想や性格に相応しいものへと具体化しなければならない、ということです。私たちは、言われるところの諸目的の選択者として、自分の生を選ぶ必要はまったくありません。むしろ、私たちは、相応の反省の後で自分の生き方を肯定することがあり、それにただ習慣として従うのではないということがあります。私たちは、思想、想像力、感情の力を十分にかつ自由にはたらかせることによって、自分の生き方を理解できるところまで達し、そのより深い意味合いを洞察できるようになるのです。そういう仕方で、私たちはその生き方を自分のものにしていくのです。たとえ、その生き方がそれ自体旧くからあるものであり、その意味で伝統的であるとしても。

私がこの問題に言及するのは、ミルは、異性であること(エクセントリシティ)を強調し、自分のやりたいようにやることを強調した、としばしば言われるからです。これは誤読だと私は思います。たしかに、彼は、自由な制度がより大きな文化的多様性を導くだろうと予期していますし、彼はそれを望ましいと考えています。しかし、彼の強調は、自由な自己発展と自己陶冶にあります。後者は自己規律を含意していますし、両者のいずれか、あるいはその双方とも異例であることと混同されてはなりません。ミルの基本的な考えは、私たちの関心は、私たちの思想や性格を自由にかつ反省的に形成するものとして理解された個性にあり、その形成は、万人にとっての平等な正義の権利によって課される厳格な規則の枠内で行われる、ということです。

(p.556 - 557)

 

まず、ミルは、称賛すべきものや卓抜したもの、その反対の品位の劣るものや軽蔑すべきものという卓越主義的な価値の存在をたしかに認めています。しかも、それは、彼にとって重要な価値です。さらに、彼は、私たちがそうした価値を承認していることと考えています。というのも、そうした価値は、尊厳の原理という形をとって、何が私たちに相応しいかについての判断をつねに含む確固とした選好の基準という彼の中心的観念の根底にあるからです。このように、卓越主義的な価値の存在と、それが私たちにとって非常に重要なものであることを私たちが承認することは、彼の規範的な教義の根本的な部分をなしており、彼の基本的な人間心理学によって支持されているものです。

しかしながら、自由原理ーーそれはk、個人の自由を制限する卓越主義的な根拠を排除しますーーの内容という観点から見るかぎり、そういう[卓越主義的な]価値は、法や強制的な社会的圧力としての共通の道徳的意見という拘束力(サンクション)を課すことで得られるものではありません。それを私たち自身の価値とするかどうかは、私たちの一人ひとりが友人や仲間とともにどうするかに依存しています。その意味で、彼の教義は卓越主義的ではありません。

 (……中略……)

卓越主義的な価値を実現する活動を追求するよう人々に強いることは不要である、と彼なら言うだろうと思います。そして、正義および自由の制度がはたらいていない場合にそのようにすることは有益というよりも有害である、と述べると思います。これに対して、そうした制度が十分にはたらいているなら、卓越という価値は、正義および自由の制度の拘束のもとで、自由な生き方や結社のうちに最も適切な仕方で実現されることになるでしょう。正義および自由という価値は、根本的な背景の役割を担っており、その意味でそれらには一定の優先が与えられているのです。ミルは、自分は、卓越主義的な価値にそれに相応しい位置づけを与えたのだと言うはずです。

(p.559 - 561)