道徳的動物日記

著書『21世紀の道徳』発売中です。https://onl.la/PTV1b6d

『21世紀の道徳』がじんぶん大賞に入賞しました(年末のご挨拶)

 

 

 

 

 30作中29位だけど。

 

store.kinokuniya.co.jp

 

 大学に所属してもいなければ批評ゼミに通ったり同人誌を出したりしたこともなく、はてなブログでしか意見や文章を発表してこなかった一介のブロガーであった自分が単著を出版できたこと、その単著が名だたる学者や著述家たちの著作に並んでじんぶん大賞にランクインしたことは、うれしく思います。 上位陣にいかにも「流行り」なジェンダー系の本や毒にも薬にもならない哲学エッセイが並んでいることには「しょうもねえな」と思ったけれど。2021年12月とほぼ一年前に出版されたこの本のことを2022年11月まで忘れず、投票していただいた読者の皆さまにも感謝を表明します。ありがとうございます。

 

 今年の1月からは一旦正社員を辞めて、業務委託社員としてパートタイムで働きながら、次の著作の執筆や執筆のための参考書籍の読み込み、翻訳作業や各種雑誌・オンラインメディアでの記事や書評の執筆などを行ってきました。そろそろ貯金がヤバいので、来年の4月に正社員に戻る予定です。ぼくの生活を支援されたいと思う方はクリスマスプレゼントだと思ってぜひ下記のほしい物リストからなんか買ってください。

 

www.amazon.co.jp

 

 次の著作は、『21世紀の道徳』と同じく、晶文社のホームページに連載したコラムを書き直したり書き下ろしのコラムを3〜4本ほど追加したものとなります。今年の後半はオンライン記事の執筆に手一杯になってしまって単著作業に手をつけられなかったので、年始からは気を引き締めて一気に書き下ろしを行い、ひとまず雛形にまで整える予定です。

 

s-scrap.com

 

 いざ「作家」として一年間を過ごしてみた結果、思った以上に儲からなかったり家賃や税金や保険料でどんどん貯金が吸い取られていったりして「こりゃ続けられんわ」と悟るに至ったわけですが、東京で一人暮らしをしながら作家として生きることは学生時代からの夢だったので、一年ちょっとだけでもこの得難い経験ができたことは、うれしく思います。来年からはより戦略的・長期的な観点を持って、会社員と作家業の両立にチャレンジしていきたいと思います。あと、この状況でインボイスが導入されたらマジで死ぬからその前に会社員に戻らざるを得ない。

 また、作家業を本格的にスタートして初めて知ったことは「オンライン記事の執筆ってあんまり儲からない」ということ、および、「紙媒体ってなかなか儲かる」ということです。体感だけれど、平均してだいたい1文字あたり2.5倍くらいの金額の差がある。自分はネット畑出身なので文章の題材やテーマがどうしても「ネット的」になりがちという面は自覚しており、またオンライン記事を書かせていただけること自体もとてもありがたいことなのですが、紙媒体の原稿依頼がもっと来てほしいなあ、と思うところもあります。欲を言えば文芸誌で連載したい(原稿料が高くて儲かるから)。その連載をまとめて単著にしたい(原稿料+印税の一石二鳥でさらに儲かるから)。

 というわけでこの記事を目に留めた編集者・出版社の方々は、ぜひ、紙媒体でぼくを連載させることをご検討ください。著作やこのブログの過去記事を読めばわかると思いますが、わりとどんなテーマでも内容のある文章を書いたり他人と違う意見を言ったりすることができます。

 

 参考までに、この一年のお仕事一覧です。

 

●紙媒体

 

PHP研究所『Voice』2022年 10月号「ネット空間を主戦場にする詭弁家」

 

 

 

 

講談社『群像』2022年 7 月号「感情と理性:けっきょくどちらが大切なのか?」

 

 

 

 

中央公論2022年 5月号「世界で燃え広がるキャンセル・カルチャー日米の事例から考える現代版「私刑」の功と罪」

 

 

 

●オンライン記事

 

shueisha.online

 

toyokeizai.net

 

toyokeizai.net

 

gendai.media

 

 

gendai.media

 

gendai.media

 

gendai.media

 

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gendai.media

 

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soshisha.com

 

s-scrap.com

 

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それでは、よいお年を!

「からかい」を批判する

 

 御田寺圭(白饅頭)の本については、批判的な書評をしたり、「ネット論客」としての彼の議論やビジネスのスタイルを批判したりした*1

 最近になって、わたしに対する御田寺からの人格批判じみた揶揄がいくつか投稿されている(「学術コンプ」と言われたり「アホ」と言われたりするなど)。

 

 

 

 

 

togetter.com

 

 最近になってわたしに対する御田寺からの揶揄が増えた理由は、わたしが行ったピンカーへのインタビュー記事や、最近に出版された『「社会正義」はいつも正しい』の書評記事などが話題になり、「反ポリコレ」系の人たちにも好意的に評価・シェアされていることに起因している、とわたしは判断している*2。過去に自分のことを批判した人間が自分のTLでも評価されているのを目にしてイラッとしたのかもしれないし、「反ポリコレ」をビジネスにしている彼としては「顧客が取られる」という危機感を抱いたのかもしれない*3

 

 これらの揶揄そのものについては度を越しているとはいえないだろうし、物を書いて意見を発信する人間なら許容すべき範囲内のものかもしれない。

 とはいえ、単に揶揄されるのではなく、「取り巻き」の人たちと揶揄を共有しながら仲間内で盛り上がっている様子を目にするのは、かなり不愉快ではある。

 なお、ピンカーへのインタビューにわたしが書いた補講について小山が述べている批判についてはピンカーの著書を開いたりインタビューの録音を聞き直したりして検討してみたが、そのうえで、的外れな批判であり「言いがかり」に近いものである、とわたしは判断している。そして、おそらく御田寺は小山の批判が妥当であるかどうかを自分で確認・検証する手間も取っておらず、「批判や揶揄を行う材料ができたぞ」と思って飛びついているだけだろう。

 また、御田寺が他人に対して「言いがかり」をつけたのは今回に始まらず、たとえば2021年にも以下のような指摘がなされている。

 

hokke-ookami.hatenablog.com

 

 北村紗衣ときて思い出すのが、やはり「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターだろう。

 オープンレターについては以前に御田寺を批判した記事でも言及しており重複になるが、ここで改めて書いておこう。

 

 オープンレターについては、過去にわたしも批判している。具体的には、オープンレターのレトリックや、それが呉座勇一という個人に対する不当な攻撃と処分につながったことが問題であると指摘した。その一方で、以下のようにも書いている。

 

オープンレターのなかでなされている、『フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」』や「からかい」のもつ問題や差別性の指摘は優れているし、オープンレターで示されている問題意識にはわたしにもいろいろと賛同したり共感したりできるところはある。だからこそ、オープンレターが含んでいる(かもしれない)問題には、わたしとしてはかなり気持ち悪い感触を抱いている。

 

「犬笛」としてのオープンレター - 道徳的動物日記

これらの段落で想定されているのは、いわゆる「弱者男性論者」たちのことであろう。すくなくとも、呉座氏と直接に絡んでいた御田寺圭(@terrakei07)のことが想定されているのは、確実だ。ほかにも、小山晃弘(@akihiro_koyama)や永観堂雁琳(@ganrim_)のことも想定しているのかもしれない。

「弱者男性論」についてはわたしも常々問題であると思っており、折に触れて批判してきた。とはいえ、批判のなかで個々の「弱者男性論者」を名指しして取り上げてはいなかったこともたしかである。

しかし、自分のことは棚に置いてしまうけれど、オープンレターに関しては、はっきりと御田寺たちの名前を出すべきだったと思う。呉座氏については名前を出しているんだし、背景の事情を多少なりとも知っている人なら「あいつらのことだ」とすぐにわかる内容だし、実際に本人たちもオープンレターで自分たちが非難の対象となっていることに気が付いてやいのやいのと反論しているのだから。

もちろん、相手の名前を明示することは相手との「論争」が本格的に始まってしまうということであり、オープンレターの発起人たちは負担やリスクを負うことになる。でも、約20名の連名(+約1300名による賛同署名)による公開書簡という強力な手段を用いて人を批判するなら、それくらいの負担やリスクは覚悟すべきだと思う。なにより、本気で「女性差別的な文化」をなんとかする気があるなら、インターネット上で女性に対する「からかい」や女性をダシにした「遊び」を煽動している本丸である、弱者男性論者たちと対峙することは避けられないだろう。

 

「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターについての雑感 - 道徳的動物日記

 

 そして、先日の書評がきっかけで、わたしも、御田寺や小山による、決まり文句の「それ以上いけない」とか匿名のメッセージ(マシュマロ)なども介した「からかい」や「遊び」の対象とされてしまうことになった(その内容はこの記事の冒頭に貼ったTogtetterにまとめてある)。おそらく、これからも、御田寺やその取り巻きによるわたしに対する「からかい」は定期的に行われていくだろう。

 

 オープンレターについては、呉座に対する個人攻撃になっているという点は多くの人が批判したが、「からかい」について書かれた箇所を批判する人はごくわずかだった。基本的には、他人に対する揶揄や他人をダシにした遊びは肯定されるものではない、ということには多くの人が同意しているのだろう。

 とはいえ、なかには、「からかい」を擁護する人もいる。

 あえて、わたしと交流のある人の意見を引くことになるが、たとえば倫理学者の江口聡は以下のツイートや他のツイートなどで「からかい」を肯定する(否定しない)ことが多い。

 

 

 

「怒りと侮蔑」と「からかいと茶化し」を対比させて、前者を否定して(相対的に)後者を肯定する主張は、江口に限らず他の人たちにも見受けられることがある。そのなかには自身では「からかい」を行わないが他人のそれは許容するという人もいれば、自ら積極的に「からかい」を行う人もいる。

 だが、わたしの意見では、「怒りと侮蔑」に比べると「からかいと茶化」しは「怖くない」と思わせること自体が、からかいという行為の問題点である。

 たしかに、相手に対して怒っている人は「わたしの怒りは正当である」という認識を抱いて目が曇っている状態になり、相手に対する過剰な攻撃を行う場合が多いだろう。その一方で、相手のことをからかっている人も「わたしは冷静でありユーモアを保っている」という認識によって目が曇り、自分が感情的になっていてもそのことを認識できずに過剰な攻撃を行う、ということはあり得る。「自分は正しい」と思うことも「自分は冷静だ」「自分はユーモアがある」と思うこともポジティブなセルフイメージという点では同じであり、だからこそ自分に関する認識を誤らせる可能性があるという点も同じであるはずだ。

 また、「怒り」の問題点として想起されるのが、集団が個人に対して集合的な「怒り」を抱いて歯止めなく過剰な攻撃を行う、ということだ。心理学などでよく論じられるように、特定の対象を「敵」と認定して集団的に攻撃するという行為には集団の結束を高める「儀式」として機能する側面があり、それに参加している個人にも快感を与えるから、人間は集団的な怒りへの参加に誘惑されてしまう*4。……だが、個人に対する集団的な攻撃は「怒り」という形をとるとは限らない。御田寺とその取り巻きの言動からは、「からかい」に参加している人はその行為に快感を抱いており、集合的な「からかい」は「怒り」と同じように集団の結束を高める「儀式」として機能していることが、見て取れる。また、「(男性集団が)自分たちの集団外の相手をからかいや揶揄の対象にすることで結束を高める」という行為は、「ホモソーシャル」の問題としてフェミニズムなどで指摘されてきたことでもある。

 そして、怒っている人はいつか頭が冷えて「あの時は感情的になって過剰な攻撃をしていたな」と反省するかもしれないが、からかっている人はからかいを行なっている時点から「自分は冷静だ」と思っているために、反省することが期待できない。

 

「からかい」の対象はランダムに選ばれるわけではないことにも留意すべきだ。

 オープンレターで「からかい」が「女性差別的」な行為として表現されていたのは、半分は間違っている……男性であるわたしも「からかい」の対象になっているから。その一方で、半分はやはり正しい。実際問題として、「からかい」の対象になるのは男性よりも女性であることが多いだろう。「からかい」は相手の主張を真っ向から批判するものではなく、相手の「弱み」を見つけて、それをあげつらう行為であるからだ。そして、女性という属性は「弱み」になることが多い。

 たとえば、北村が呉座やオープンレターをめぐる騒動の最中に「泣いてしまった」という旨のツイートをしたとき、御田寺の取り巻きたちは「女の涙」や「ぴえん」という表現を使って一斉に揶揄を(かなり執拗に)行なっていた。

 通常の議論やコミュニケーションにおいては、女性であるという属性を持つだけでは不利になるとは限らない。だが、「からかい」が許容されてしまうと、女性をはじめとして自分の属性が「弱み」となる人が構造的に不利になり、攻撃の被害を受けやすくなる。わたしにもアメリカ人という(日本では)マイノリティである属性があり、幸いなことに現在のところは文筆業に関連してこの属性が「からかい」の対象にされたことはほとんどないが、これまでの人生経験から、そのリスクは常に念頭に置かざるを得ない。

 ……だからこそ、他の男性が「からかい」を許容していることには、自分の属性が「弱み」にならず「からかい」が許容される場では有利になる者としてのポジショントークであるように感じられる。欺瞞であるように思えるのだ。

 

 また、冒頭にも述べたように、「からかい」の対象にされることはかなり不愉快だ。

 少なくともわたしにとっては、「怒り」の対象にされることよりも「からかい」の対象にされることのほうがずっと不愉快であり、負荷がかかって消耗する。怒っている人は「自分が正しくてあいつが間違っている」と思っているから怒っているのであり、こちらでも「いやわたしのほうが正しくて怒っている人のほうが間違っている」と思える根拠なり信念なりがあれば受け流せるが、「からかい」を行なってくる人はそもそも正しさを度外視している。また、「からかい」は怒りよりも執拗であることが多いし、自分が「遊び」の対象にされるということは名誉や尊厳を傷つけられることでもある。

 逆に言えば、「からかい」を行う側からすれば、「からかい」は自己防衛になる。批判をしてくる相手に負荷を与えて消耗させることを繰り返すことで、それを眺めていた人たちに「あの連中のことは問題だと思っているけれど、批判すると今度は自分がからかいの対象になってしまうから、無視しておこう」と思わせることができるのだ。おそらく御田寺のことは多くの人が問題に思っているだろうが、しっかりとした批判を行う人の数が少ないことも、これが理由だ。

 わたしは「からかい」の対象となるリスクをとって彼を批判しているが、不毛さは感じているし、自分にとって得になるとは思わない。とはいえ自分の良心やプライドに基づいて自分で決定していることだから、このこと自体に文句をつける気はない。……だが、第三者が「からかい」を許容することは、御田寺のような人間を批判するという行為の負担を増させるものであることは指摘しておこう。ここにもまた、「自分の意見をはっきりと主張する」というリスクをとらない者の、ポジショントークとしての欺瞞が存在する。

 

「からかい」は、属性が「弱み」になる人を不利にさせて、良心に基づいて自分の意見を主張する人に対して無用な負荷をかける行為であり、「いじめ」に類する行為であるということは、font-daによる以下の文章に優れて表現されている。

 

 私がそれほど衝動的になってしまったのは、その件が、今まで私自身が遊びの対象にされてきた数々の場面を一気に思い出させるものだったからです。私は、大学に入学して以降、性差別に抵抗するたびに、男性の先輩、同級生、ときには教員から嘲笑されました。2000年代前半はフェミニズムの勢いはとても弱くなっており、私に賛同したり味方になったりする人は、ほとんどいませんでした。かれらは、私が動揺しながら性差別を指摘する喋り方を、真似て笑いました。肩をすくめ、目配せしあい、ニヤニヤと笑う、というのもよくありました。いじめの標的になったことがある人は理解しやすいと思うのですが、私は今でも男性が集まって笑っているのを聞くと、「私がネタにされているのだろうか」と不安になることがあります。そして、その場から黙って去ることがあります。当時、私が真剣にかれらに抗議すれば、かれらはこう言いました。

「ネタだよ、ネタ」

 そういう言い回しが、2000年代前半は流行っていました。2ちゃんねるを中心とするネット文化の影響もあったのでしょう。かれらにとって、私の取り乱した姿を見て笑うのは、本気ではなく「遊び」だったのです。多くのいじめがそうであるように。

 

 御田寺の本の書評を書いたときから「キャンセル・カルチャーやポリコレを批判しながら御田寺を批判することは両立するのか?矛盾していないか?」といったコメントがあったが、わたしは「両立する」と思っている。

 わたしがキャンセル・カルチャーを批判する理由は主に二つある。一つめは「学問の自由や意見の自由が侵害されること」*5。二つめは、キャンセル・カルチャーは集団による個人に対する「いじめ」となることだ*6

 わたしも聖人ではないし、嫌味なところや性格が悪いところは多々あるし、他人に対して不当な攻撃をしてしまうこともあるだろう。……だが、他人を批判するときにも、(すくなくとも自分の認識としては)自分ひとりで行うようには努めている。「集団による個人に対する攻撃」という行為や、いじめなどに存在する「卑劣さ」に対しては、若い頃から現在に至るまで素朴な嫌悪感を抱き続けているからだ。

 そして、御田寺が行っているような「からかい」は「いじめ」に類するものであると判断しているし、「からかい」に「卑劣さ」が存在することは明白だろう。

 だから、キャンセル・カルチャーを批判することと「からかい」に参加したり御田寺を擁護することは、わたしのなかでは筋が通らず、矛盾している。どうやら、一部の人にはそれが理解されていないらしい。……「キャンセル・カルチャーを批判しているという点では御田寺と共通するところがあるんだから、仲良くなったり、対談したりすればいいじゃないか」と言ってくる人が、何人かいるのだ。しかし、彼の「からかい」行為や、ビジネスとして「からかい」行為がセットになっている彼の言論活動を許容することは、わたしの良心に反する。

 というか、御田寺の行っているような「からかい」行為を許容しないというくらいの良心は、わたしに限らず、誰にでも持っていてほしいものだ。御田寺やその取り巻きの「からかい」行為を見て見ぬ振りをしながら、「御田寺の言論にも耳を傾けるべきところがある」としたり顔で言っている人々に対しては、いじめに参加している人に対して抱くのと同じような軽蔑の気持ちをわたしは抱いている。

 

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

gendai.media

gendai.media

davitrice.hatenadiary.jp

*3:御田寺の議論について「ビジネス」的側面を強調するのも揶揄であるように受け取られるかもしれないが、以前にも書いた通り、「自分の読者たちに、自分と相対する意見へと耳を傾けさせようとしない」という傾向は、彼のビジネスのスタイルから必然的に生じるものだとわたしは見なしている。

 

わたしは先日の書評のなかでも御田寺のことを「自分の信者を食いものにしている」と表現したが、彼の反応は、その著作活動が「信者ビジネス」であることを裏付けているだろう。教祖をやっている人間は、自分の主張だけが絶対に正しく他の主張は間違っていると、信者に思い込ませ続けなければいけない。そのために批判を放置することはできず反応しなくてはならないし、批判を受け入れたり応答したりするのではなく「こんな批判は間違っているからお前たちは耳を貸すな」と信者たちに喧伝するしかできない。そうしなければ、「もしかしたらこの人の言っていることには間違いがあるかもしれないから他の人の言っていることも聞いてみようかな」と考えた読者が、彼から離れていくかもしれないからだ。

ネット論客がインテリから相手にされない理由 - 道徳的動物日記

*4:『傷つきやすいアメリカの大学生たち』の第二部を参照。

 

 

*5:

gendai.media

*6:

gendai.media

『「社会正義」はいつも正しい』についての、いくつかの雑感

 

 

 早川書房から翻訳が出版された作家のヘレン・プラックローズと数学者のジェームズ・リンゼイの共著『「社会正義」はいつも正しい』に関して、出版とほぼ同じタイミングで山形浩生による「訳者解説」が公開された。

 しかし、公開当初から訳者解説が差別的であるとしてTwitterなどで炎上。そして、公開から数週間が経過した先日に、公開停止が早川書房からアナウンスされた。

 

11月15日に弊社noteに掲載した記事「差別をなくすために差別を温存している? 『「社会正義」はいつも正しい』の読みどころを訳者・山形浩生が解説!」につきまして、読者の皆様から様々なご意見を頂いております。出版社がなんらかの差別に加担するようなことがあってはならず、ご指摘を重く受け止めております。

 

記事の公開停止につきまして

 

 なお、『「社会正義」はいつも正しい』に関してはわたしの方でも講談社現代ビジネスに書評記事を書かせてもらっている。こちらの記事は我ながら穏当な内容であり、まったく炎上することもなく、現在でも無事に掲載されている。たぶん公開停止になることはないだろう。

 

gendai.media

 

あと、別の方々による原書の書評も貼っておこう。

 

liberalartsblog.hatenablog.com

 

 さて、山形の訳者解説の内容を覚えている方やすでに本書を購入されいまでも解説を読める方は、わたしの書評と彼の解説ではずいぶんと雰囲気が違うと思ったかもしれない。「まるで違う本について論じているみたいだな」に感じた人もいるはずだ。

 この事態は、『「社会正義」はいつも正しい』自体がやや厄介な本であることに起因する。

 本書では「現在のアメリカの左派・反差別の間で支配的である一連の考え方には"応用ポストモダニズム"が存在しているという仮説を立てて、現状に至るまでの背景を分析して、応用ポストモダニズム的な発想がもたらす悪影響を指摘して、処方箋としてリベラリズムの理念を提示する」という、まじめな議論がなされている。わたしの書評では、このまじめな部分を強調して紹介した。

 他方で、本書には「クィア理論や批判的人種理論やフェミニズムやファット・スタディーズなどの諸々の理論のなかに出てくる、突飛で無茶苦茶な主張を例示して、あれこれと(いじるように)批判する」という場面も多い。ここの部分は本書の特徴であり、他の本にはないオリジナリティであり、おもしろさである……つまり、原著にせよ訳書にせよ『「社会正義」はいつも正しい』を購読する人の多くは、まずは「おかしな理論の突飛な主張をいじる」という部分に価値を感じている、と想定できる。

 

 もちろん、「まじめな議論」と「おもしろさ」は両立可能だ。

 とくに英語圏の本では、なんらかの議論や理論を提起することを目的とするものであっても、あれこれとデータや実例や書籍や論文が紹介されていることが多い(『銃・病原菌・鉄』『暴力の人類史』『社会はなぜ右と左に分かれるのか』あと手前味噌ながら『21世紀の道徳』などなど*1)。そして、読者は紹介されている実例や論文の内容などについて知ることで知的好奇心を満たしたり驚きを抱けたりするなどの「おもしろさ」を感じられるおかげで、長い本を読み進めていくことができて、「まじめな議論」のほうにも付き合っていけるのだ。

 また、「書き手の主張と対立する意見を取り上げて、舌鋒鋭く批判したり、皮肉ったりする」という部分が「おもしろさ」として成立することもある。多くの人はケンカが好きだし、とくに自分が良い印象を抱いていない人や本がやっつけられる様子を見ると痛快に感じるものだ。たとえばジョセフ・ヒースの『反逆の神話』は、ヒース自身の漸進的で地味な主張よりも、カウンターカルチャーをあれこれと皮肉るところに「おもしろさ」が見出されて受容されているだろう。

 とはいえ、『「社会正義」はいつも正しい』で提供される「おもしろさ」には、『反逆の神話』に比べてもさらに悪趣味で露悪的な面があることは否めない。わたしも「特権理論」や「インターセクショナリティ理論」に対しては昔から批判的な考えや印象を抱いていきたので、それらの理論が批判される箇所はやはり痛快に感じる。一方で、「批判をしやすくするために、おかしな主張をしている論文を、わざとチェリーピッキングしているんじゃないか?」という疑念が生じることもたしかである。また、結局のところ「応用ポストモダニズム理論」を提唱している人たちの多くは自身がマイノリティ当事者であること、自分を含めたマイノリティを援助したいという「善意」が存在するであろうことから、彼らに対する批判に「おもしろさ」を感じることに居心地の悪さ抱かなくもない。

 それでも、後述するように、最終的にはリベラリズム的な理念を明示する本書における「まじめな議論」には、やはり価値がある。……原著者らがとっている行動や投稿している内容などを見聞すると、彼らが自分たちの提唱している理念に対してどこまで忠実・誠実であるかには疑いの余地があるが、それとこれは別の話だ。

 

 さて、上述したように、『「社会正義」はいつも正しい』はそれ自体が厄介な本だ。訳者解説の公開が停止された件も、色々と厄介である。

 わたしがTwitterを眺めていた印象では、訳者解説に対する批判は、およそ二つに分かれていた。

 一つめは、トランスジェンダーに関する具体的な記述、とくに以下の箇所に関する、「トランスジェンダーに対する"デマ"を広めることで偏見を煽っている」という批判だ。

 

それどころか、ジェンダーアイデンティティ選択の自由の名のもとに、子供への安易なホルモン投与や性器切除といった、直接的に健康や厚生を阻害しかねない措置が、容認どころか推奨されるという異常な事態すら起きつつある。

(p.352)

 

 二つめは、訳者解説のトーン全体について「反差別運動に対して冷笑的であり、反差別運動を妨害するものとして機能する」といった類の批判である。あるいは、反差別運動を批判すること自体がマイノリティに対する差別や加害を強化する、という批判もあったような気がする。

 

 批判の種類が少なくとも上記の二つに分かれるというのをふまえると、早川書房による「記事の公開停止につきまして」のアナウンスで、訳者解説のなかのどのような箇所に関してどのような懸念があるかということが具体的に記されていない、というのはかなり問題だ。

 まず、「トランスジェンダーに対する"デマ"を広めることで、偏見を煽る」という批判については、それが事実であるなら「マイノリティに対する加害」という深刻な帰結を生じさせるし、向き合うべき批判であると言えるだろう。

 一方で、この批判は論点が明確なぶん、反論をしようと思った人は反論をすることができる。たとえば、訳者自身が「子供への安易なホルモン投与や性器切除」に関する報道などの事例を提示することで「デマじゃなくて実際に起こっている事実ではないか」と言うことができるだろう。それに対して批判側が「その報道自体がデマである」とか「ごく珍しい事例を針小棒大に紹介することが問題なのだ」とかいった批判をすることもできる。……つまり、この批判は「議論の余地」があるものであり、だからこそこの批判を受けて解説の公開を停止したのならそう明記すべきであると思う。

 他方で、「反差別運動に対して冷笑的であり、反差別運動を妨害するものとして機能する」といった類の批判は取るに足らないものであり、議論をするまでもなく、出版社は無視すべきものだ。

 冷笑は問題となり得るし、そこを批判したい人はすればいいが、特定の個人や団体に対して向けられているわけでもない冷笑を「差別への加担」やマイノリティへの実害と同一視することはできない。ある程度までの揶揄や冷笑を受忍することは、社会運動全般に対しても物を書いて意見を発信する人々全般にも求められることであると思う(もちろん冷笑や揶揄に対して反論することは自由であるが、それらを封じ込めることにはある程度までは抑制的であるべきだ)。

 

 そして、早川書房のアナウンスでは「具体的にどの箇所を問題視して公開を停止したか」「具体的に誰からの批判を受けて公開を停止したか」ということが明記されていないために、多数の人々がTwitterはてブで「またサヨク言論弾圧をした」「反差別団体が言論弾圧をした」「フェミニスト言論弾圧をした」「TRAが言論弾圧をした」といった憶測や陰謀論を好き勝手に言う事態となっている。

 わたしが学生時代に読んだ森達也の『放送禁止歌』では、マスメディアが自律した判断を行わずに事なかれ主義でいくつかの歌を「放送禁止」にしたことが、「同和団体表現規制をした」「やはり同和団体には権力がありマスメディアを支配しているのだ」といった憶測を呼ぶ事態になった、ということが書かれていた記憶がある*2。今回の事態は、『放送禁止歌』で書かれていたそれを思い出させるものだ。

 

 なお、「キャンセルカルチャーを批判した本がキャンセルされた」といった物言いも散見されるが、あくまで「キャンセルカルチャーを批判した本の訳者解説がキャンセルされた」のであって、本そのものや本文中の議論自体はキャンセルされたわけではない、ということにも留意するべきだ。

 もしかしたら見逃しているかもしれないが、わたしが読んだところ、本文中には「子供への安易なホルモン投与や性器切除」についての言及はなかった。訳者解説でこの件が言及されているのは「本書の背景」という節であり、本文自体の解説や要約ではなく、日本の読者に本書の前提や意義をわかりやすく説明するために社会事情を説明している箇所だ。つまり、公開停止がこの件を受けてのものであったとすれば、本文と訳者解説の相違は重要である(やはりそれも明記することが、訳者と原著者の双方に対して誠実であるだろう)。

 

 いずれにせよ、論理立った文章による批判とそれに対する反論を伴う「議論」がなされることもなく、大量の「左寄り」の人たちが好き勝手に批判して、公開が停止されたら今度は大量の「右寄り」の人たちが好き勝手に騒ぐ、という構図そのものが反知性的であり、わたしはイヤな気持ちを抱いている。

 今回は早川書房の側がSNSでの炎上を狙って訳者解説をオンラインで公開したこと(炎上はほぼ確実に意図したことであるだろう)が原因で起こったことなので、大元の責任は早川書房にあると言えるが、まともな分量の文章による批判や議論が行われることなく、Twitterによる細切れな文章が書き散らされていくうちになんとなくの「雰囲気」が醸成されて、物事が決まっていく……という事態はここ数年になって以前よりもさらに増えているような気がする。

 議論の空間としてのはてなブログがほぼ死んでいること、ブログを書いていた人もTwitterで満足するようになったこと(わたしも人のことは言えない)、特定層の読者を課金に誘導して限定公開記事を書くことへのインセンティブが生じてしまうnoteの影響力が増したこと、などなども原因になっているだろう*3

 

 というわけで、本記事の締めくくりとして、以下では『「社会正義」はいつも正しい』の「まじめ」な議論のところ……「応用ポストモダニズム」に代わるものとして著者らが提起するリベラリズムの理念の意義が示されている、結論部分の箇所を引用しよう。

 このような前向きで生産的で根気強くてしっかりとした「議論」は、なにかを書いたり意見を言ったりしたいと思っている人は、誰もが目指すべきものだと思うからだ。

 

<理論>に直面しつつ、リベラリズムへの肩入れと信念を維持することはできるし、そうするのが私たちのためにもなる。だが、これはむずかしい。一つには、新しく過激な答えにはある種の魅力があるのだ。人々はそれに興奮するし、特に世の中が悪く思える場合にはなおさらだ。大きくて目前に迫っているように見える問題には、革命的な新しい解決策が求められるように思える。人々がたったいま苦しんでいるときには、漸進的な改善はどうしようもなく遅いように感じられる。いつもながら、完璧は善の敵だーーよい仕組みはとっくによい結果をもたらしているべきだという非現実的な期待もそうだ。これは急進主義や専制主義、原理主義シニシズムを招く。だからこそ、<理論>は魅惑的だーーそれはポピュリズムも、マルクス主義も、その他紙の上ではよさげに見えるのに実際には大惨事をもたらす、あらゆる形のユートピア主義も同じことだ。それは世界の無数の問題に対する必然的な解決策に思えるし、そうした問題の一部は緊急事態のように思える(あるいは本当に緊急なのかもしれないが)。

だがこうした問題への答えは目新しくはないし、だからこそそれは、即座の満足を与えてはくれないのかもしれない。その解決策とはリベラリズムだ。政治的なリベラリズム(普遍的リベラリズムポストモダン政治原理の特効薬だ)と、知のリベラリズムの両方がここに含まれる(ジョナサン・ローチの「リベラル科学」はポストモダンの知の原理に対する特効薬だ)。別にジョナサン・ローチの業績や、ジョン・スチュアート・ミルや、その他偉大なリベラル思想家に精通する必要はない。また<理論>や<社会正義>研究を詳しく勉強して、しっかり反論できるようになる必要もない。だが大きな力を持っているものに反対して立ち上がるには、少し勇気が必要だ。<理論>を見たらそれとわかる必要があるし、それに対するリベラル派の対応に味方しようーーこれは単に「いいえ、それはあなたがイデオロギー的にそう思っているだけですよね。別に私がそれに従う必要はありませんよね」と言うだけですむ話だったりする。

これをやりやすくするために、社会的不公正を認識しつつ、<社会正義>イデオロギーが解決策を拒絶する方法の例をいくつか挙げよう。社会的正義の問題は深刻で重要ではあるけれど、それに対する非リベラル的な手法は、よくても不十分、最悪なら見当違いで危険であり、人々にとっても有意義な大義にとっても有害なのだということを示そう。もちろん、<社会正義>の考えに対する独自の原理に基づく反対を作り出すことだって可能だ。

 

原理に基づく反対:例1

 

・人種差別はいまも社会問題だし、対応が必要だというのは認める

・批判的人種<理論>や交差性が、その対応の最も役に立つツールだとは認めない。人種問題は、可能な限り厳密な分析を通じて解決するのが最もよいと信じるから。

・人種差別は、人種に基づく個人や集団に対する偏見や差別的行為として定義されるし、そのようなものとして対応するのがよいと考える

・人種差別が言説を通じて社会に焼き込まれているとか、それが避けがたく、あらゆるやりとりの中に存在するからそれを見つけて糾弾すべきだとか、それがいつどこにでも存在し、あらゆるところに充満した偏在する制度的な問題の一部だ、とかいう話は認めない

・人種差別に対処する最もよい方法は、人種分類に社会的に対する重要性を復活させて、その重要性を極端に高めることだ、などとは考えない

・各人は、人種差別的な見方をしないという選択ができるし、またそうなるよう期待される。それにより人種差別は次第に低減し、珍しいものになり、お互いをまずは人間として見て、ある人種の一員かどうかは二の次になるだろうと考える。人種問題は、人種化された体験について正直に述べることで対処するのがよく、その一方で共通の目標と共有されたビジョンに向けて活動するべきだと考える。そして人種によって差別しないという原理は普遍的に尊重されるべきだと考える。

 

(p.343 - 345)

 

*1:

 

 

*2:

 

 

*3:何度も書いてきたが、noteのシステムは「公論」の形成に資するものではなくむしろ「公論」にとって有害である、とわたしは判断している。

davitrice.hatenadiary.jp

「公共的正当化」とはなんぞや(読書メモ:『リベラルな徳』)

 

 

 

ジョン・ロールズの『正義論』のような、リベラリズムに関する議論への基本的な忠誠は、それ自体が広く認識され、需要されうる理性的議論であるという事実においてはじめて把握される。つまり、その主張が理性により支えられ、異議や反論を予期し、理性によってそれらに向き合い、競合する理論を公正に考慮しようと試み、議論に反論しようとする根拠が明確だという事実において。誰もが理由と異議を与えることができ、最善の議論がどこからでも生じ、誰もが公共的に正当化できる見解が目標であるとみなされるとき、その議論は公共的なものである。公平な視点、つまり関係者全員に受け入れられる道理を見分けることのできる視点から、正義の原理を考慮するよう我われに要求するとき、その議論は道徳的なものである。その場合、誰もが勘定に入れられるのであって、勘定から外され、あるいは他者のために犠牲にされる人はいない。既存の判断や実践を単に反映することを意図しておらず、また多少の矛盾を取り繕おうとしないとき、その議論は哲学的で、批判的なものである。それは既存の見解の正当化可能性を批判し、テストするのである。その議論はソクラテス流のものである。リベラルは、最善の状態で、すべてのことを考慮したうえで、利用可能な最善のものとして公共的に正当化しうる正義の原理を支持するように定められている。こうした見方は、すべてのリベラルな理論について妥当するわけではなく、非リベラルな理論の一部についても妥当する。

 

(p.11)

 

この理想において、リベラルな価値は、我われ相互の道徳的義務の表現として、「我われが生きる最善の方法は何か?」という問いに対する最善の回答として、公職者および市民両者によって肯定されるのである。批判的省察は、公共的かかわりであり、最も根本的には、我われの政治的取決めをどうすべきかについて公共的に討議する方法へのかかわりである。憲法上の制度は、この継続的討議を構成し、維持する場である。正当なリベラル社会は、それを推奨する正義以上のものを有する。そうした社会においては、共同体、徳、および人間の繁栄についての積極的なリベラルの理想を識別することができる。リベラルな正義が統治する共同体は、リベラルな権利が侵害されない場所としてのみならず、共同体としても魅力的なものなのである。

 

(p.12- 13)

 

市民権、徳、および共同体のリベラルな理想は、公共的合理性への基本的な政治的忠誠によって維持される、リベラルな立憲主義の理想の中に見出される。哲学は、「通常の」思考と区別されたそれと並立する制度ではなく、「そのまさに問題になっている事柄は、一般常識の問題の拡大」であるとポパーは言う。我われは、良い道理および強力な議論を探究しなければならないのである。なぜなら現代国家は、いかなる単純な意味においても「共有された意味の共同体」などではなく、一部のことには同意し、他のことには同意せず、我われがむしろその合理性を尊重したいと思い、それによってその忠誠を呼び起こしたいと願う多かれ少なかれ合理的な人々からなる結社だからである。

 

(p.38 - 39)

 

 本書は政治哲学の本であると同時に法哲学憲法論的な話題についても尺が割かれており、わたしにはちょっと手強い本ではあった。

 上記の引用部分に書かれているような「公共的正当化」という営みと、それがリベラリズムにもたらす(他のイズムに対する)優越性については、翻訳者の小川仁志が以下のようにまとめている。

 

マシードの説く「リベラルな徳」が、ここで時代の文脈を超えてヒントを与えてくれる。政治哲学や政治思想に明るい方ならすぐに察しが付くと思うが、リベラルとは一般に価値中立性を意味する用語であり、徳とはその反対に個々人が重視している一定の価値や、それに基づく生き方についての信念などを意味する用語である。したがって、「リベラルな徳」という表現はいかにも矛盾した概念に聞こえるだろう。

しかしそれはまったくの誤解である。マシードは次のように言っている。「リベラリズムは、公共的価値の間で本当に中立ではありえない。それは、個人の自由および責任、変化と多様性に対する寛容、およびリベラルな価値を尊重する者の権利の尊重について、一定の公共的価値の至高の価値を支持するのである」と。

リベラリズムとは、むしろ個々の市民が異なる価値観をすり合わせながら、一つの共同体で共存していくための仕組みにほかならない。したがって、個々人が徳を語ってはいけないのではなくて、逆に徳を語ることで、それがいかに共有可能なものであるか吟味することこそが求められるのである。

非リベラルな思想、あるいは政体においては、そうした行為は許されるものではない。予め善として掲げられた徳の下に個々人が結集し、それを疑うことすら許されないのである。しかしリベラルは異なる。どの徳が望ましいのか、吟味するプロセスが保障されているのだ。マシードに言わせるとそれは公共的正当化ということになる。

公共的正当化とは、理性に限界があることを認めつつも、理由付与とその共有を目指す営為である。わかりやすく言うならば、市民誰もが社会の問題にかかわり、議論し、その結果をみんなで共有しようとする態度である。

 

gendai.media

 

 また、「公共的正当化」は同じくロールズ由来の「公共的理性」という言葉とも深く関わっているようだ(というより、ほとんど同じ意味かしら?)。

 

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 また、森田浩之が『ロールズ正義論入門』で解説したような「理性」と「合理性」の違いも意識しておきべきだろう(上述部分で『リベラルな徳』から引用した「多かれ少なかれ合理的な人々」などの文章は、文脈を見る限り、「合理性」ではなく「理性」のほうを指しているように思われる)。

 

整理すれば、オリジナル・ポジションの下にいる人びとは、人生に意味を与えるような人生の合理的な計画を遂行する、という意味で、形式的に合理的である。その人生の合理的な計画の一部として、人びとは、ふたつのモラル・パワー、すなわち「正しさ」を見分ける「理性的であること」と「善」を追求する「合理的であること」という能力を使って、さらにその感覚を伸ばすという実質的な関心を持っている。

 

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 本書で提示されている「リベラルな徳」とは、自分自身と自分の人生について批判的に考える能力や、それに伴う「自律」である。

 

「通常」の人間(道徳的意味で)であれば、我われの尊重への要求、自制、および自由への平等の権利に対する道徳的要求を有している、とリベラルは言う。人は、目標、プロジェクト、および人生の計画を形成し、追求し、改定する省察的選択ができる。人は、程度の異なる実践的および認識的合理性を備えており、「自己規律的」ないし「自己充足的」である。人は、長い間にわたって継続するものとして自らを認識する。自己規律的な人の省察能力は、多様な形態の行動、パラノイア、スキゾフレニアを含む欠陥、および我われが目録に搭載するため立ち止まる必要があるその他の条件によって損なわれうる。ここで重要な点は、リベラルは、理論的に、操作、強制、パターナリズム、および卓越主義に対して、人や目的への尊重の原理を共通に認識するということである。

人は尊重に値し、その結果自らの理想を選択し、または理想なしで生きることに自由であるべきだとリベラルは信じている。選択の自由を尊重しながらも、すべての選択に等しく価値があるとか、すべての選択が卓越性のリベラルな形態と等しく両立するなどと、リベラルはみなす必要はない。通常の人であることに関連する省察的能力をさらに十全に発達させることは、人格の理想、我われが「自律」と呼ぶものへと導く。

自己充足した人間は、欲求をある程度省察し、選択し、繰り述べ、形成する能力がある。それゆえ自己規律的であるが、価値ある長期的プロジェクトおよび約束のために、欲求および性向に抵抗する規律を欠いているかもしれない。自己充足した人間も、依然として流行または慣習に順応的であるが、または「奴隷」であって、他者から無批判的に受け取る基準、理想、および価値に基づいて行動しうる。すなわち、自己充足した人間は、慣習を自ら批判的に考量し、判断する能力または性向を欠いているかもしれない。単なる自己充足した人間は、批判的に評価し、理性的に統合した価値、理想、および願望から行為しない。道具的合理性しか持たない自己充足した人間も、なお基本的な尊重の形態への資格がある。リベラルとして活躍することは、道具的合理性以上の省察的能力を必要とする。

自己充足から自律への移行の決定的特徴は、批判的に評価し、また人の行為だけでなく、我われの行動の源、人の人格そのものを積極的に形成さえする能力の発達である。

 

(p. 215 - 216)

 

リベラルな者は、自己統治的省察能力の保有により区別される。こうした省察能力をさらに発展させることは、自律の理想へと人を導くが、その理想は他のリベラルな徳の源なのである。権利の尊重を核心的価値とし、多様性および寛容の普及を奨励する政治体制は、人々が自己の主人となり、自己制御を達成するため、他者の権利を尊重し、積極的に選択の自由を行使するように、自らのプロジェクトの経路を作り、制約できるようにする能力の行使の多くの機会、および刺激を与える。

自律に向かって努力することは、自覚的で、自己批判的で、省察的な能力の発達を含む。その能力は、人が人生の理想と人格を構築し、評価し、そして改定し、かかる評価を実際の選択、プロジェクト、そして誓約の構築に関係させられるようにするものである。自律的な者として発展することとは、人の個性を積極的に発展させることである。自律は、批判的に省察し、こうした省察に基づいて行為する能力を含意する。それは、我われが「執行の」徳と呼ぶものの保有を意味する。自発性、独立、決心、忍耐、勤勉、および根気である。

 

(p.273)

 

 このあたり、『ロールズ正義論入門』における、追求する「善」の中身ではなく「善」の追求の仕方に卓越性(徳)が存在する、とロールズが考えていたという森田の解釈とも一致していそうだ。自分の人生の目標をきちんと追求できている人は、たしかに、忍耐や根気があるはずだろう。

 そして、人々が相互に相手のことを自律した人間だと認めあい、「自分の自律も相手の自律も侵害されてはならない」と考えるようになって、そして公共的正当化(理性的な議論)を経て「(市民の自律を尊重できる社会は他にないから)社会はリベラルなものでなければならない」と納得するようになった社会では、「リベラリズム」自体が人々によって共有される公共道徳となり、「共通の価値観がない社会では連帯や社会的紐帯の基盤もなくなってしまう」というコミュニタリアンの批判を斥けることができる……というのが、マシードの主張の大枠であるようだ。

 ちなみに、マシードは、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で論じたような個人の卓越した性質・能力としての「徳」と、『政治学』で論じた(らしい)社会全体にとっての公共的な価値としての「共通善」の両方について、「リベラリズムでもそれらを得ることができる」といった議論をしている。とはいえ、リベラリズムに反論する人は、必ずしも「徳」と「共通善」の両方(がリベラルな社会では得られないこと)に関する主張をしているわけではなく、たとえばサンデルはもっぱら後者についてしか語っていないことは留意しておいたほうがいいだろう。

 また、リベラリズムの原理は、法律そのものや法律が運用されるシステムにも反映される。

 

我われは、フラーやドウォーキンのようなリベラルにならい、法と道徳の分離を拒否することができる。リベラルな法は、規則だけでなく、一定の根底にある目的および原理からなる。秩序ある自由、公正、デュープロセス、理性、および残虐さへの反対である。法の解釈は、規則を適用するだけでなく、その多くが重要な道徳的側面を有する法原理の解釈問題でもある。

 

(p.85)

 

 また、リベラルな法システムは、公共的正当化のプロセスを保護するために「市民的不服従」や「良心的兵役拒否」に寛大である(必ずしも全て許容するわけではなく、時には罰することもあるが、少なくとも公職者には市民的不服従者を罰する前に省察したり複雑な政治的判断をしたりすることが求められる)。

 そして、個々の市民は、リベラルな社会を守るためにときとして自己犠牲的な行動を取らなければならないかもしれない。

 

リベラルな市民は、道徳的人間として、リベラルな正義への優越的忠誠とともにやってくる転位の可能性を、ただ受け入れなければならない。我われのほとんどは、部外者または好まれない構成員、あるいは不人気な少数者に対して不公正に敵対する、集団、近隣、組織、または政治単位の構成員である。我われが非常に配慮する人々でさえも、不正義に押しやられるかもしれない。『真昼の決闘』のケイン保安官のように、リベラルな原理に対する優越的忠誠を持つ者は、正義が要求するものについての我われの最善の理解と両立しない行為を友人や愛する者が薦めたとき、彼らから距離を置く用意がなければならない。あるいは、我われは、ゴードン・ヒラバヤシのように、より高いリベラルな理想の名において、無実の家族を残して去ることを決心することになるだろう。そうした限定的な事例で正義が要求するものは、より正常な状況にふさわしい態度の決定に役立つ。我われは、結局、子どもたちに批判的に考え、彼らが正しいと考えることを行い、同僚の圧力に屈しないように教える。しかしながら、結局我われは、原理に基づく行動の孤独性を強調すべきではない。リベラルな正義の最善の道理は、公共的に維持されるものである。我われは、正しいことをすることが、しばしば単独で行為することを意味するものと想定すべきではない。

 

(p. 252)

 

 本書の議論を改めてまとめると、要するに、コミュニタリアンが想定するような「地域」「伝統」「慣習」「文化」などではなく、リベラリズムという「原理」や「思想」、あるいは公共的正当化という「プロセス」に対して敬意や忠誠を市民たちが持つようになることで、自律という個人的美徳を備えた個人たちの間に共通善が成立するようになる、ということだろう。

 ……もちろん、ここで疑問を抱くのは、そんな社会がほんとうに成立し得るのかということだ。少なくとも日本ではまず見かけないし、現状を鑑みるとむこう200年間くらいは成立しなさそうである。アメリカやヨーロッパのごく一部では有り得るかもしれないが、リベラルなエリートたちは「公共的な正当化」や「理性的な議論」をやっている気でいながら自分たちの間で既に定まっている価値観や意見を再確認したりお決まりのコミュニケーションを繰り返したりしているだけかもしれない。これはリベラリズムと理性に対するジョナサン・ハイト的な懐疑主義的な見解であり、普段はわたしも必ずしもハイトに賛同するわけではないのだが、マシードのようにリベラリズムをあまりに熱心かつ理想主義的に擁護している議論を読むと、「リベラルな人たちってほんとに自認するほどの批判的省察や自律ができているの?」と疑いたくなってしまうものである。

 また、仮に人々が「原理」や「プロセス」に基づいて連帯できたところで、それぞれ異なる「原理」や「プロセス」に基づいて連帯している人たちどうしの対立は、単に伝統や地域に基づいて連帯している人たちどうしの対立よりも深刻なものとなるかもしれない。……たとえば、『リベラルな徳』のなかで描かれているようなリベラリズムに忠誠を近いリベラリズムに基づいて連帯する人々とパラレルな存在として、リバタリアニズムに忠誠を近いリバタリアニズムに基づいて連帯する人々の姿を思い浮かべることはできる。彼らのほうが、リベラリストにとってはむしろコミュニタリアンたちよりも深刻な脅威となるかもしれない。

 

市民の議論に対して哲学者が提言できる範囲とは?(読書メモ:『「正しい政策」がないならどうすべきか 政策のための哲学入門』②)

 

 

 

 

●「安全性」をめぐってわたしたちの内部で生じる、帰結主義と義務論の対立

 

たとえば、鉄道衝突事故が起きた後に、犠牲者の親族が訴えるであろうことを考えてみよう。ある意味で、あらゆる衝突事故は回避できたものだ。さまざまな要素が複合して事故が起きたのであり、もし一つでも要素が異なっていれば、事故は起きなかっただろう。そして多くの場合、責任を負っている会社は、そうした事故が起こらないように何らかの仕組みや技術を導入することができたはずだ。したがって、たとえば運転士が信号に正しく応答しなかったせいで鉄道事故が起きたなら、一体どうしてこんなことが21世紀において起きるのだろうか、と思うのは当然だ。そもそも、鉄道が信号に自動的に応ずるような技術はすでにあって、それを採用している国もいくつかある。よって、技術があるなら、単純にそれを導入したらどうか。そうすれば、このような事故を一切防ぐことができる。コストがかかるというだけでその対策を拒否するのは、確かに何か不道徳なところがある。

以上の推論は極めて強力に思われ、おそらく否定しようがない。しかし、帰結主義者が、新システムを導入するコストは膨大になると反論するのももっともだ。今回の事例では、指摘したように何十億ポンドにも達するだろう。一年に一人か二人を救うために、これだけのお金を出すことは本当に妥当だろうか。とりわけ、そのお金を他の目的に使えば、もっと良いことを実現できるというのに。哲学の教科書はよく、帰結主義者と絶対主義者[義務論者]を次のような構図で描く。つまり、第一次世界大戦中に、対立する勢力がそれぞれの塹壕にいて、自らの大義は正しいと確信しているものの、どうすれば勝利できるかについては見当がついていないという構図である。しかし、今回の例では、二つの勢力が勢力が闘い合っていると考えるのは間違っている。われわれ各自の内部において、対立が存在するのである。多くの人々が、自身が二つの観点に引き裂かれているーー別の要素が視野に入ると、別の立場に意見が変わるーーのに気づくだろう。したがって、ここに極めて深刻な道徳的問題がある。

 

(p. 127 - 128)

 

[ハットフィールド鉄道事故グレート・ヘック鉄道事故について]

両事故に対する国民とメディアの関心の相違は、ある種の特別な道徳的責任という原理に訴えることによってある程度は説明がつく。ここで厳密な原理を示すのは難しいが、次の区別が関連すると思われる。つまり、鉄道会社にとって直接的な関心たるべき問題ーーたとえば線路のコンディションやメンテナンスーーと、直接の関心ではない問題ーー自動車の運転手が払うべき適切な注意の程度、といった点ーーとの区別である。もちろん、後者の問題についても鉄道会社はすべての責任を放棄できるわけではないが、その場合では、われわれの道徳的な直観はより帰結主義的になる傾向がある。つまり、絶対的、予防的アプローチーーこれは、完全に自分の責任の下にある問題については適切であるーーではなく、釣り合いのとれた、費用対効果の高い政策を求めるようになる。もちろんこれらの場合でも、コストの制約という考えが適用されねばならないが、われわれの反応が対極に向けられるという点を、われわれは少なくとも理解できる。要するに、ある事故の原因が会社にとってより直接的な管理の下にあればあるほど、会社は安全対策について絶対主義的な態度をとるべきである。

(……中略……)

もちろん、私がこれまで述べたことは、決して現在とられている対策と異なるものを正当化するものではない。むしろそれは、国民、メディア、会社が現在取っている道徳的態度が正しいのかどうか、というさらなる議論の問題である。しかし、すでにみたように、彼らの判断を裏づけている漠然とした原則は、「ある事故の原因が、より会社の道徳的過失であればあるほど、会社はより絶対主義的な態度で、同種の事件を予防すべきだ」というものだ。当然ながら、これについて論ずべきことはたくさんあり、いまはまだ議論の解決というより議論の出発点に近いのかもしれない。しかし、ここで示した原理自体はある程度明確であると思われる。しかし、次に論ずべきなのは、ある行為者の道徳的過失を生じさせるのは何なのか、という問題だ。ただし、ここではさらに議論しないことにする。

 

(p.143 - 145)

 

……帰結主義者と絶対主義者はよく対立する理論的立場として提示されるが、さまざまな事例を見当すると、われわれのほとんどは帰結主義と絶対主義のどちらの推論にも引き寄せられるということだ。よってわれわれは、問題は帰結主義と絶対主義のどちらかを選ぶことだと考えるのではなく、双方の要素を包含する立場を考え出す必要がある。

 

(p.145)

 

 帰結主義者の立場からすれば「別の要素が視野に入ると、別の立場に意見が変わる」という恣意性や不安定さを回避するために、わたしたちは義務論(絶対主義)ではなく帰結主義を採用すべきだ、ということになるだろう。鉄道事故で死んでしまった人の身からすれば、過失が鉄道会社にあるかその他の要素(運転手など)にあるかは些細なことであり、そこに第三者であるわたしたちがこだわるのは「過失の種類が直接的であるほど、責任は重くなるべきだ」とわたしたちが感じているからに過ぎない。そして、この感覚には実のところ大した根拠がないこと、この感覚には集団での協力や配分といった社会的行為を円滑にまわすという機能はあるかもしれないが道徳と本質的な関係があるかどうかは定かでないことを、ジョシュア・グリーンやピーター・シンガーなどの帰結主義者なら指摘するはずである(進化論的暴露論証)。

 ……とはいえ、上の段落はあくまで哲学者が哲学者に対して行うような議論であり、『「正しい政策」がないならどうすべきか』では哲学者ではない一般人の感覚や思考を尊重しながら、哲学者が政策に対して提言できる範囲は限定されている/限定されるべきである、ということを前提にしながら書かれている。

 

公共政策の問題に、あたかもあなたが何かの撲滅運動にでも参加しようとするかのように、「まず、あなたの〔正しいと思う〕理論を選びなさい」という方法論によって取り組むことは、哲学的には興味深い帰結を導くかもしれないが、現在の政策論争にとって有用な〔論争上の〕貢献につながることはまずない。もちろんーー私はまたこのことを明確にしてきたと思いたいがーー根本的な哲学的議論は、論争における極めて重要な部分であり、議論を豊かにする多くのアイデアをつけ加えてくれる。だが、それらは、それら自体としては何も解決はしないだろう。ここで暗黙の裡に推奨された方法論は、実践的な問題について考えるときには、他方の極から始めるべきだ、ということを提案する。つまり、哲学的理論ではなく、公共政策における目下の意見の対立から始めるべきということである。われわれは次のことを問う必要がある。人々は、自分たちがどう意見が対立していると考えているのか。そして、それは意見の不一致を理解する最善の方法なのか。他によりよい方法はあるのか。そして、もしそうなら、それは進歩を生み出すための新しい道筋を拓くのだろうか。哲学者は公的議論の条件を明らかにするのに貢献できる、とよく言われる。もちろん、哲学者はこれができる唯一の人々ではないが、区別をつけたり、結論に向かって議論を追求したり、比較的に緩い議論をより厳密な形式で再構成したりすることは、われわれの(哲学者として受ける)トレーニングの一部である。だが、このことをするためには、まず、自分が介入したいと思う論争に突っ込まなくてはならない。

 

(p.48 - 49)

 

 

●動物の取り扱いに関する「議論」と、「動機」や「行動」とのギャップ

 

しかし、少なくとも私にとって奇妙な点は、[動物実験に関する帰結主義や義務論などの]そのような議論にはどんなに知的に説得力があっても、私は動機に訴えるそれほど強い力を見出さないということなのだ。私はいまだに、動物で試験された薬や家庭用品を使っている。私の大学で行われている動物実験について、私は抗議していない。だいぶ後ろめたいものの、私は肉を食べ続けている。道徳哲学者のR・M・ヘアなら、表明された信念と行動のこの組み合わせに対して、私の主張は不誠実なのだと論じて応答するだろう。ヘアは誠実な道徳的信念はつねに行動にあらわれると論じたが、私の行動は私の主張する信念に従っていないのだから、動物への危害ある取り扱いに対して私が行ういかなる道徳的主張も、必然的に不誠実なのだ。だがこの議論は、私には教条主義的で説得力がないように思われる。現象学的には、道徳的議論は良心のレベルで最も強く衝撃を与えるものであり、それが行動を生み出すものかどうかは、さらなる別の問題であると、私には思われる。私は思うのだが、ある程度は、われわれは自身の道徳的信念に則って行動することの帰結を考慮に入れなくてはならないのだ。良心が促すように行動することが、犠牲にするものが大きいとか、あるいは無様だとか都合が悪いといった程度でしかない場合でさえ、人々は、彼ら自身が何らかの〔良心の〕レベルで肯定しないあり方で、自ら行動しているのかもしれない。類比のために、19世紀のアメリカ南部における奴隷制の存在を考えてみよう。各々の奴隷所有者たちが、一人の人間が他の人間を買い、彼または彼女に対して恣意的な力を振るう慣行の中に、何も問題がないと心から信じていたということは、私には信じ難い。多くの人がそれは何らかの点で自然な物事のあり方だと考えていたことは間違いないだろうが、確かに疑いを抱いていた人々もいたのではないだろうか。これらの「後ろめたい主人たち」は、誰も他人の奴隷であるべきではないという道徳的議論を受け入れたであろうが、ある程度の生活水準で生きていくには〔奴隷をもつより〕他の方法がないと信じて、彼や彼女の奴隷を解放することを真剣に考えなかったのだ。同じように、われわれの多くは、熟慮しているときには道徳的に受け入れがたい動物の使用であると思うもののもたらす利益を、あきらめようとはしない。というのも、そうすればわれわれの生活はより不便で快適で無くなってしまうからだ。

もし追求しようと選んだ行動が、われわれが信じるに道徳的に正当化されないなら、われわれは選択に直面する。われわれは明らかな偽善とともに生きるか、生き方を変えるか、または道徳的信念を調整することができる。だが、政治的、または〔社会の〕構造的には、もう一つの選択肢がある。それはわれわれの目的を、われわれが正当化されないと信じる行いを受け入れることなく追求できるようにする、制度や技術の進歩である。おそらく、奴隷なしでビジネスを継続することが経済的に可能となったということが明らかになったときには、奴隷制はより容易に廃止できただろう。同じく、もしわれわれが、肉と同じくらい美味で栄養がある非動物食を生産する方法や、動物を用いない薬剤の試験方法を見つけることができれば、われわれは求める目的を、道徳的に問題がある仕方で行動することなく、追求し続けることができる。結局それは、道徳的問題を、それを避けることで解決しようという望みなのだ。

動物実験の場合、〔問題〕回避という方向でなされた先導的な提案は、ラッセルとバーチにより提議された、「三つのR」の理論である。(……後略……)

(p.43 - 45) 

 

●犯罪の被害に遭うことはなぜ恐ろしいか?

 

人々は犯罪の被害者になるのを避けようとして、このような極端な犠牲をもたらす行動をとってしまうことがある[犯罪率の高い地域では、窓を開けっ放しにしたりエアコンの効いた商店に出かけることが難しいために、酷暑が原因で死ぬ人が多かったという事例のこと]。この点を念頭に置いて、われわれは一体なぜ犯罪をそれほど恐れるのか、という最初の問いに立ち戻りたい。これまででわれわれは、ベンサムの指摘した「無限の損害」という考えを得た。私はこれを、自分が制御できない、あるいは影響を及ぼせないほどまでに混乱して悪化する状況を回避しようとする意識、と理解する。しかし、ベンサムはこの分析において、何かを見落としていると私は思わざるをえない。無限の損害はトルネードや鉄砲水、サメによっても脅かされうるし、これらを想像するのもまた恐ろしいことだ。ただし、犯罪とはある人が他人に対して行うものであるという事実は、さらなる道徳的および政治的な側面を与えてくれるように思われる。そして、このためにわれわれは、それほど極端な恐怖をもたらさない犯罪事件に対して、過剰なまでに心配になってしまうこともある。損失が比較的小さい、あるいは限定的だとわかっている犯罪に対しても心配するのである。よってわれわれは、犯罪との関係におけるリスク、不安、恐怖について、より深く検討することが必要だ。

 

(p.154)

 

私が思うに、人々は被害者になることを恐れている、という言い方は間違いかもしれない。恐れとは〔実際の〕損失や傷害に対するものだからだ。しかし、それ以上に、いわば被害者にされることを強く嫌う気持ちも存在する。このことを示すちょっとした例として、大道手品師にからかわれたり、騙されたりすることに耐えられない人たちがいる。おそらく、それが彼らの自己意識や尊厳の感覚を傷つけるからだろう。犯罪被害者にされた場合、人は、自分が自らの運命の支配者であるという感覚を失う。さらに、その人は憐みの対象になる。多くの人は、このことを自分の尊厳が傷つけられることだと思うだろう。しかし、最も重要なのは、他人があなたを侮辱を持って扱い、そのことに成功したという事実である。先に述べたように、侮辱は未遂犯罪においてさえも示される。しかし、犯罪が成功した際に、おそらく人は、その侮辱はそれに値したのだという考えを抱くようになる。もし自分を守ることができないなら、私とは一体どんな存在だというのか。完遂した犯罪は、少なくとも場合によっては、ある人の地位や自尊心を変化させるように思われる。この点で、犯罪は社会秩序を侵害する、破壊的な性格をもっている。

 

(p.156)

 

……犯罪が悪い、あるいは少なくとも何らかの犯罪がある人々にとって悪い理由は、被害者にされたという事実によるということだった。これを思い出してほしい。それは、他人があなたのことを侮辱を持って扱おうとしたというよりも、彼らがそうするのに成功した、という事実である。未遂犯罪と完遂犯罪との間に、これほどの心理的な違いが存在するのはそのためだ。犯罪者はあなたに犯罪を働くのに成功したことにより、おそらく、自分がある面であなたに優越している、ということを言外に告げていることになる。彼らはあなたを被害者にし、地位を貶めた。明確な被害者がいない場合ーーたとえば公共財産の破壊行為ーーであっても、犯罪に成功したということは、ある意味で犯罪者は規範、あるいは少なくともルールを超越している、ということを含意する。犯罪はあるメッセージを伝えるのである。

もちろんここで、犯罪者がこのように考えているということを示せる証拠はほとんどない。しかし、私の説明には一定の妥当性があると想定させてほしい。もしそうだとすれば、刑罰は新たな観点から見えてくる。つまり、刑罰の少なくとも一部の目的は、すべての当事者間での、何らかの適切な地位を回復させることにあるということになる。もし犯罪者が逮捕され、適切に処罰されれば、彼はもはや何かをやりおおせたわけではないことになる。彼はもう、高い立場にあると言外に主張することはできない。被害者だった人は、犠牲者としての立場が終わったと感じ、以前の立場が回復される。しかし、刑罰の時点で一人の被害者も確認されていない犯罪ーー被害者がそもそもいない場合(脱税)、あるいは死亡をもたらした犯罪(殺人)ーーについてはどうだろうか。これと同じ分析が、修正された形でなお当てはまるのである。通例では、被害者が確認され生存する場合には、被害者の立場を引き上げ、加害者の立場を引き下げることにより、刑罰は当事者間の立場を「リバランス」させる。被害者が死亡した場合でも、なお刑罰を科すことによって、われわれが社会としてその人の命を極めて重大に扱っているということを示せる。これと逆の例として考えてほしいのは、人種差別が存在する社会において、ある少数派民族の人々に対する殺人がほとんど捜査されず、それにより、彼らが低い立場にあるという強いメッセージが実際に伝わっているような状況である。被害者のいない犯罪の場合、できることは犯罪者の立場を引き下げることだけだが、これはなお重要な問題として残る。応報論によれば、その罪が重ければ重いほど、道徳的なバランスを回復させるためにより多くのことが求められることになるだろう。

よって、ここでわれわれは、刑罰に関するコミュニケーション的理論との関連をみてとれる。もし犯罪がメッセージを伝達するなら、刑罰もまたそうする。一般的には、最初のメッセージを相殺するための、反対のメッセージを送ろうとするのである。(……中略……)

つまり、どの社会においても、何らかのレベルの刑罰は適切なものと認められるのであり、犯罪者が刑罰を受ければ、「正義は実現され」、可能な場合には被害者の地位が回復し、犯人の立場が引き下げられることになる。

このように応報をコミュニケーションとして理解すると、それは刑罰の正当性として、しばしば思われるほど野蛮なものではなくなるかもしれない。

 

(p. 168 - 169)

 

 前回の記事でも書いた通り、本書は単なる両論併記的な入門書ではなく、ユニークでオリジナリティのある発想もしばしば顔を出す。アカデミックな議論では否定されがちな、刑罰に関する「応報論」を「被害者の地位の回復」やコミュニケーションという発想から肯定する上記の議論も、少なくともわたしは初めて目にしたものだが、なかなか説得力を感じた。

 本書では、哲学者の頭のなかにある理論だけでなく、「このトピックについて一般人ならこう考えるだろう」ということや「このトピックについて世論が共有している常識とはこういうものだ」ということに関する考察や推測も多分に含まれている。このような議論を行うためには、人間観察者としての「モラリスト」の能力や経験も必要になってくるはずだ。哲学者が世間の人々や社会と対話するためには「理論」だけをやってればいいとうわけではないことを(もちろん思想史や人物研究をやってればいいというわけでもない)、理論とは別のところにある人々の「道徳観」に対する理解も必要になるということを、本書は示しているのである。

自由市場が限定されるべき(意外な)理由(読書メモ:『「正しい政策」がないならどうすべきか 政策のための哲学入門』①)

 

 

 

 動物実験やギャンブルにドラッグなどの規制、公共交通機関の安全性や刑罰や健康など、様々なトピックに関する政策について、哲学・倫理学の視点から何が言えるのかということを考えていく本。

 本書の特徴はふたつある。ひとつめは、政策に関する議論について哲学が及ぼし得る影響力をウルフがかなり現実的にーーつまり、少なめにーー見積もっていること。したがって、抽象的な理論に基づく正論を言ってハイ終わりと済ませずに、むしろ各トピックについて哲学の正論がなぜ賛同を得られないかや現実の問題に対して有効でないかが分析されたうえで、結果的にはどの章でも常識や世論に対して哲学がかなりの譲歩を行う、という構成になっている。

 この点については「日和っている」と思う人もいるかもしれないが、ある種のプラグマティズムであるし、実際に政策論議について哲学を持ち込んでもこういう風にしかなり得ないだろうなという納得感も抱ける。(また、応用倫理学の文章を読んでも、法律や規則の作成に関する議論への参加などの実践的な場面についてはこういう温度感の主張を行なっているようだ。ウルフ特有のスタンスというよりも、哲学者が現実に関わるときには一般的な態度であるのだろう。)

 ふたつめは、各トピックに関する議論において、ウルフのオリジナリティが溢れる意外な見解や変わった角度からの考察が登場することだ。『哲学入門』ではあるが、無難な教科書的見解を書き連ねただけの本ではないのである。

 

 たとえば、「ある種の財は自由市場で売られるべきではなく、自由市場とは違った方法によって人々に配分されるべきだ」といった直感的な見解(サンデルが『それをお金で買いますか』などで散々論じてきたような主張)に関する以下の議論は、わたしは初めて目にしたものだが、なかなか印象に残ったしそれなりの説得力を感じた。

 

あるいは、チケットの転売、いわゆる「ダフ屋行為」について考えてみてほしい。多くの人はこれを極めていかがわしい行為だと思うし、それがさまざまな形の詐欺を含んでいることが多いのは事実だ。しかし、いかなる詐欺も含まれていない場合、少なくともその行為のもつ外部性についての潜在的な長期的影響を考えることなしに、それのどこが問題なのかを正確に言うことは難しいだろう。私がいま言及した「阻止された取引」ーー駐車スペース、電車の座席、コンサートのチケットーーについて興味深いのは、関わっている財がありふれたものだということだ。これらの財そのものの性質の中に、それらの取引を阻止したいと思わせるような何かがある、とは言い難い。市場取引が、駐車することや電車で座ること、また娯楽イベントに行くことの社会的意味を堕落させる、などとわれわれは本当に言いたいのだろうか。それは馬鹿げたことだろう。これらの財はすべてお金で売られるものなのだ。ポイントは、われわれはそれらの財について何らかの市場は認めるが、その他の市場には強く抵抗するということだと思われる。なぜなのだろうか。

 

(p.243, 以下、強調は引用者によるもの)

 

これらの事例に関する一つの説明の出発点は、財が希少なときには、どんな社会でもその分配のためのルールを必要とする、という観察である。多くの場合には、われわれは「早い者勝ち」という要素をもつルールを使う。だが、これが唯一の方法ではない。市場決済価格を課金するというのも、もう一つの可能性だ。駐車や座席のケースでわれわれが見たのは、あるルールが有効なときには、違うルールに従って行動しようとする人を、われわれは受け入れないということなのだ。それは、駐車スペースや座席が市場価格原理によって分配されるべきではない、というわけではない。むしろ、他のルールがあるときには、それをあなた自身の目的のために覆してしまうことは、それによって誰も損害を受けなくても、不公正、あるいはもしかすると搾取的となるのだ。これはある種の第三者効果であるが、われわれが見た他の例とは大きく異なる。もしわれわれがルールを完全に他のものに替えるなら、ちょうど駐車の事例で見たように、われわれは過渡的な影響を切り抜ければ、それに十分簡単に慣れてしまうだろう。私の推測は、電車の「早い者勝ちで座る」というような、希少な財の分配についてわれわれが実行している非市場的なルールが生き残っているのは、単に、それを破る人は何か間違ったこと、さらにはとんでもないことを行なっているという、強い直感をわれわれがもっているからである、というものだ。言い換えると、われわれはルールについて、ある種のタブー的な地位を何らかの形で作り上げてきたのだ。おそらく、ルールはそれ自体としては脆弱なので、それが存続するためには、タブーによって支えられることが必要なのだろう。タブーは「強固な道徳的直観」の形で示される。それを破ることは道徳的理由からはほとんど考えられない、と思われないならば、ルールの存続はおぼつかない。しかし、財の性質にはルールを要求するようなものは何もないようだ。それは単に、われわれがどのように希少性を統制しようとしたか、ということだ。タブーはーーそして強固な〔道徳的〕直観はーールールに付随しているのであって、財に付随しているわけではない

 

(p.244 - 245)

 

…〔市場からの保護が当てはまる〕一番もっともらしい事例は、財そのものの性質の中に、売ることにより財が破壊される何ものかがあるというものである。愛と友情は最良の候補として残るかもしれない。それ以外にわれわれは、第三者への有害な効果を防ぐために、何らかの取引規制が必要だと指摘した(軍隊での階級の販売の例)。さらには、ある種の搾取やルールの破壊を避けるための市場の制約もある。しかしこれらのルールの多くは完全に偶発的なものであり、変更されうるのだ

 

(p.248)

 

[スポーツや芸術も現在では自由市場の対象となっているが、そのことは必ずしもスポーツや芸術を堕落させなかったという議論に続く段落]

このことは、すべてのものは市場で供給されるべきだということを意味するのだろうか。私が述べてきたことからは、これは導かれない。ある特定の何かが市場からは除外されるべきだとは言えない、という事実ーーもしそれが事実ならーーから、すべてのものは市場で供給されるべきだ、ということは結論されないのだ。実際、私はかなり大きな非市場の領域があるべきだと考えている。だが、ややひねくれて言うと、私は、いくつかの重要な要素を脇に置けば、十分な規模の非市場セクターがある限り、何が市場の領域におかれるかそうでないかは、あまり大きな問題ではないという見解に変わりつつある。

 

(p.250)

 

…ここで私は、さまざまな財を市場から隔離しておくことを支持する二つの議論を見てみたい。第一は、おそらくより明白なものだ。もしすべての財が市場ベースだけで提供されているのであれば、人生で経済的に成功しなかった人々は、それ以外のほとんどすべてからも締め出されてしまうだろう。非市場的供給を認めることは、より多くの人たちに、普通のレベルの〔人生の〕満足を達成可能にすることができる。

(…中略…)

第二の議論は、公的セクターと私的セクターの供給原理の違いにとくに関わっており、二つのタイプの経済的関係を比較するものである。第一は市場にあり「取引社会」と呼べるもので、そこで人々は最善の取引を求めて、個々の取引活動を行う。もし期待していたものを得られなかったり、わずかな価値しか与えられなかっりしたら、あなたには抗議する権利があり、ことによっては告訴するかもしれない。第二は、特徴づけるのは難しいが、「清濁併せ呑む(taking the rough with the smooth)」または「一長一短(swing and roundabouts)」社会として考えられるものである。このケースの考え方は、ときとして良く、ときとして悪い結果をもたらす分配の一般的ルールや方針があるが、われわれは〔その中でされる〕個々の取引をその利点によって判断するよりは、その取引実践を全体として判断するべきだ、というものだ。

 

(p.251 - 252)

 

さて、これら〔二つの利点に関する主張〕の最初のものは偶然に依存する主張である。それは、個々の価格設定により、別の形で〔社会運営の〕効率性が促進されると考えるなら、多くの人が誤りだと思うだろうものである。だが、それはある財については正しく、他の財については誤りとなるはずであり、それが正しい場合には、このことはその分野で公的供給を行うことの正当な理由である。だが、社会的連帯ーーわれわれはいまここで、みな一緒だという感覚ーーは公的セクターを拡大しておくことによって促進されるのだ。しかし、このことのポジティブな効果は、そのセクターが全体として非効率的で無駄が多いと思われれば、干上がってしまうだろう。すなわち、正味で利益があると少なくとも思われていなければならないのだ。

もちろん、物質的には得をしない人もいるだろう。そしてもし、彼らが物質的損失を引きずり、それによって過度に影響を受けるならば、他の面でも彼らは得をしなくなるだろう。よって、われわれは難しいバランスを維持する必要があるのだ。社会が最善の結果を得るためには、われわれは、公共サービスは「私に十分な価値を与えてくれるのだろうか」と問わずに、それが全体として十分な価値をもたらすのかどうかを問うことができなくてはならないのだ。さらに悪いのは、「個々の公共サービスから、私は十分な価値を得ているのだろうか」という問いだ。この最後の問いが普通になされるようになれば、公共サービスは脆弱になり、われわれの被る潜在的損失は極めて甚大なものになるだろう。したがって、もしわれわれが公的セクターを社会的連隊と効率的供給を生み出すための手段にさせたいなら、われわれはそれを維持し、かつそれには一定の〔限られた〕形の審査のみを受けさせるようにしておく必要がある。

 

(p.253 - 254, この段落のみ強調は引用元から)

 

 まず、「財の性質に関わらず、なんらかの財は市場で取引されないほうがよい」という議論は、「なんでもかんでもが売り買いされる世の中はイヤだ」というわたしたちの多くが抱いている直感にマッチしている。とはいえ、経済学者であれば、ほぼどんな財についてもそれが自由市場で取り引きされることの理由や効率性を指摘することができるかもしれない(自由市場はそれだけ合理的で優れたシステムだということかもしれないし、「理屈と軟膏はどこにでも付けられる」ということであるかもしれない)。

 実のところ、わたしだって、世間では評判が悪く多くの人が「市場で取り引きされるべきでない」と考えているであろう代理出産についても「代理母の決定権や安全性が保証されているのなら、関係者双方の自発的な取り引きに文句を言うべきではないな」と思うところが強い。また、サンフランシスコの不動産価格暴騰に伴うホームレス問題についても、その惨状に胸を痛めはするが、不動産価格が上がること自体には然るべき理由があることや、政府などが無理に家賃などにテコ入れしても副作用が歪みが生じるであろうことは察せられる*1

 ここで言いたいのは、特定のタイプの財について「その財が自由市場で取り引きされるべきでない理由」を述べようとしても、あえなく反論を受けてしまうだろうということだ。……しかし、本書の議論は、財のタイプではなく財の取り引きに関するルールに注目することで、「その財が売買されるのには然るべき理由があるんですよ」といった経済学的な反論を回避することができている。

 また、ブランコ・ミラノヴィッチが『資本主義だけ残った』で「スマホやアプリなどのテクノロジーの発展により、これからは人々の自由時間や私的領域もすべて自由市場における売買の対象になるだろう」という議論をしていたのを読んだときには、「そんな世の中はあまりに侘しくて不愉快なので間違っている」という(規範的な)感情を抱くと同時に「いくらなんでもそこまで"ホモ・エコノミクス"的な世界ができあがるわけないでしょ」という(事実的な)判断もしたものだ*2。本書のなかでウルフが行っている議論は、規範的にも記述的にも、ミラノヴィッチの議論に対するわたしの違和感を説明しているように思える。なんでもかんでもが売買されてしまう社会はロクでもないし、ロクでもないのがわかっているからこそ社会にはなんでもかんでもが売買されないようにするための防衛機能が備わっている……と考えることができるかもしれない。

 

 さらに、公的セクターには財を供給すること以上に社会的連帯を生み出すということに意味がある、というコミュニタリアン的な議論も、こういう形で提示されると納得がいく(サンデルと違ってウルフは経済学的な発想をしっかり検討したうえで提示しているので、誠実さが感じられるということ)。

 そして、公共サービスについて「私は十分な価値を得ているのだろうか」と問うてはいけないという、ついつい忘れがちな正論が書かれているところもいい。……とはいえ、正論ではあるがゆえに、これこそが公共サービスをキープすることが難しい理由でもある。維新の党的な「ネオリベ」で「ポピュリズム」な改革は大衆から受け入れがちであるが(わたしもついつち気持ちの上では賛同してしまいがちだ)、それに反論するためには、「自分の視点からではなく全体としての視点から考える」という必要ではあるが不自然な思考を人々に行ってもらわなければならないのだ。

 

*1:家賃テコ入れの問題はジョセフ・ヒースの『資本主義が嫌いな人のための経済学』でも扱われていた。

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『政治哲学への招待』③

 

 

 

写経。

 

●自由について

 

自由は、三者からなる関係である。それは、必ず三つの事柄への言及を含んでいる。すなわち、自由の行為主体、あるいは主語であるx、制約、干渉、あるいは障害であるy、そして、目標、あるいは目的であるzである。自由についてどのような主張をあなたが思い描いたとしても、そこにはーー明示的にせよ、暗示的にせよーー、何かをなす、あるいは何かになるために、何かから自由である行為主体という考え方が含まれている。自由について意見が一致しない人々は、何をxと見なすのか、何をyと見なすのか、そして何をzと見なすのかについて一致していないのである。

 

(p.78)

 

…極めて大雑把に言えば、右翼は、自由は、本質的に、他から干渉されないこととかかわっているので、できる限り少しのことしかしない国家とレッセ・フェールな自由市場経済によってもっとも促進されるのだと論じる。他方、左翼は、自由には干渉されないこと以上のものがあるのだと主張する。人々の現実のーーあるいは、実質的(あるいは、ときには「積極的」)ーー自由は、ただ彼らをほおっておくことによってではなく、さもなければなしえなかったであろう事柄をなす立場に彼らを置いてやることによって促進されうるのである。右翼は、国家の役割を限定することーーおそらくは、ノージックが唱道する「夜警」の役割にまでーーを望んでいる。左翼は、より積極的、介入主義的な再分配を担う「できるようにする」国家が、自由を根拠にして、正当化可能であると主張している。左翼によれば、右翼は単純な自由の「消極的な」見解と強く結びついている。他方、左翼は、自由をより「積極的な」仕方で理解しているのである。ブレアが擁護しようとしていたのは、こうした自由の「積極的な」構想である。

(……中略……)

このような実質的ーー形式的ではなくーー自由としての自由の構想は、バーリンが「積極的」自由と呼んでいる事柄のひとつであり、また彼が強く警告を発している事柄のひとつである。バーリンによれば、われわれは、自由を、「その行使の諸条件」と混同すべきでない。この見解においては、すべてのイギリス市民は、バハマに遊びに行く自由を持っているのである。ある人々は、その自由を行使するための諸条件を有しているが、その他の人々は、そうではない。もしわれわれが、実質的自由の構想を支持するのであれば、われわれは、自由ーー他からの不干渉という「消極的な」考え方の観点から、実際には、理解されるべきであるーーを、平等や正義のような他の価値と混同しているのである。バーリンはここで、すべての善き事柄は、必然的に合致するという楽観的な考えに対して強く警告を発している。たとえ平等や正義が、ある人から他の人への資源の再分配を要請するとしても、われわれは、そのような再分配が自由もまた促進するなどと主張すべきではない。国家は、正義や平等の名において、人々の生活に干渉するのは正しいのかもしれないが、その行動は、自由という価値に訴えることによって正当化可能であると主張することは、人を誤らせる危険性を持っているのである。人は、一般に、自らの諸概念を、不鮮明な混ぜこぜ状態へと曖昧化させてしまうよりも、それらを明晰に保つよう注意すべきだとしている点で、バーリンは正しい。しかしそこから、貧困の中に生きている人々には、バハマに遊びに行く自由があるーー単にその自由を行使するのに必要な諸条件を欠いているだけーーという結論が引き出されるわけではない。

 

(p.81 - 83)

 

 

自由の道徳化された構想と道徳化されいない構想の間の区別は、権限としての正義というノージックの見解に関する議論の中で、われわれが出会ったような種類のリバタリアンの主張について、われわれが考える手助けをしてくれる。第一章は、自由を尊重する人は、私有財産権を信じなければならないし、再分配のための課税に反対すべきであるという提案について議論した。もちろん、現実の政治において、あらゆる再分配のための課税に反対する人はほぼいない。しかし、右翼の多くが、自由という価値は、市場の結果からの最小限の再分配を必然的に支持すると考えていることは確かである。彼らは、もしそのような再分配が正当化されるべきであるとするなら、それは、自由以外の根拠(平等、正義、治安)に基づいてでなければならないと考えている。それゆえ、この議論が、どのように作用すると考えられいるのかは見ておくに値するのである。

私有財産を持っている人は、もしそれを持っていなければ、なす自由を持っていなかったであろう事柄をなす自由を持っているということは確かである。バルモラルを散歩する女王や、飛行機を保有していて、いつでも好きなときにバハマに飛んで行ける金持ちを考えてみればよい。しかし、私有財産を持っていない人は、どうだろうか。彼らにとって、女王がバルモラルの丘を所有しているという事実は、その丘を散歩する彼らの自由に対する制限を構成している。別の誰かが飛行機を保有しており、運賃を支払ったときにのみ、他人をバハマまで飛行させるという事実は、バハマに行く彼らの自由に対する制限を構成している。リバタリアンは、自分たちは自由を大切に思っていると語り、自由を根拠にして私有財産権に賛成する。しかしながら、彼らは、私有財産権の存在によって、必然的に生じる自由は、気にかけていないーーあるいは、気づいてすらいないーーように思われるのである。

リバタリアンが、自分たちの推奨する解決策が必然的に生み出す不自由に盲目であるということを、いったい何が説明してくれるだろうか。最良の説明は、彼らは、道徳化された自由の構想と協働しているのだと考えることである。彼らの見解では、私有財産は、それを持たない人が、さもなければしたかもしれない事柄をするのを妨げることが正当化しうる限り、その人の自由を制限してはいないのである。この見解によれば、われわれは、バルモラルの丘を散歩することを妨げられた人は、自由を奪われていると考えるべきではない。というのも、女王の地所に対する所有権は、そのような制限を正当化するからである。しかしながら、女王から地所を取り上げることは、その地所は正しく彼女のものであるのだから、彼女の自由への干渉を含んでいるだろう。このことは、リバタリアンの見解が、究極的には、所有権の正当性についての見解であることを示唆している。彼らが自由に訴えているところとは、実際には、何が自由の制限と見なされるーーそして、見なされないーーのかについての判断を、特定の所有権の正当性についての判断に依拠させるようなある構想に訴えかけているところなのである。その意味で「リバタリアン」という言葉はーー「自由」という語の横領を伴っておりーー、誤解を招きやすい。道徳化されていない自由の構想と協働している人は、リバタリアンの社会における、自由の欠如ーー財産が私的に所有されているというまさにその事実によって、さもなければできたかもしれないことを妨げられたすべての人が経験しているーーに気づいている。そのような人たちは、自由の名において、私有財産の廃止ーーあるいは、再分配ーーを唱道するかもしれないし、また、自分たちを自由の敵だとする示唆には、憤慨する可能性が高いのである。

 

(p.100 - 102)

 

●共同体とリベラリズム

 

[共同体主義者によるリベラリズムに対する反論として]……もし「リベラルな共同体」が機能すべきであり、人々が同胞市民を正しく取り扱うために自己利益の追求を進んで制限すべきだとすれば、人々は、単なる「同じ国家の市民」であるという感覚を超えた、より厚く鼓舞するような共通のアイデンティティの感覚を共有していなければならないのではないかという疑念である。もし私が、他の人間を気遣う以上に同胞市民を気遣っているということが正しいとすれば、それは、われわれが同じ抽象的な諸原則に同意しているからでも、リベラルな国家を維持するというプロジェクトに合同で携わっているからでもない。私の同胞市民はまた、私の仲間である同国人だからである。彼らが、私にとって特別ーーリベラルの物語が、単に共通のシティズンシップという観点から説明しようとしている権利や義務を受け入れるに足るほど、私を彼らと同一化するのに必須だという意味において特別ーーであるのは、共用された言語や共有された伝統、共通の歴史を持った私に似たイギリス人だからである。動機づけの働きをするのに必要とされるのは、抽象的なシティズンシップの観念ではなく、われわれの共有された国民的アイデンティティーーイギリス国民としてのアイデンティティーーである。

(……中略……)

自らを普遍的で抽象的な観点で提示してはいるが、「リベラルな共同体」という観念は、より排他的で、より家族に類似したものを前提していると反対論は主張する。家族と同様に、国家のメンバーとしての自分自身に対するわれわれの感覚は、共通の歴史が存在するという信念に基礎を置いている。それは、われわれに、自分たちが何者であるのかに関する感覚を与えてくれるのである。そして、それは、排他的な道徳的紐帯を生み出す。国家が国民(民族)と一致するがゆえにーーあるいは、一致する限りにおいてーー、われわれは、国家ーーわれわれの政治共同体ーーと自分を同一視する。もし国民(民族)と国家が一致しないならば、われわれは、それらが一致しうるように事態を変えようとしたとしても不思議ではない。(ソ連崩壊後のヨーロッパにおける紛争は、主としてお互いを同じ国民(民族)のメンバーとして同一視し、国家と国民(民族)を一致させようとする人々にかかわるものであった。)それゆえ、共同体主義者の説明によれば、「リベラルな共同体」という観念は、自己充足的なものではない。それは、同胞市民を公平に取り扱うという最小限の理念を超えた共同体の構想に訴えかけることなしには、特別な道徳的関係を説明することができないし、平等主義的なリベラルがそうなることを望んでいるように人々が動機づけられるということも期待しえないのである。人々のアイデンティティは、「シティズンシップ」といった抽象的な観念よりも個別的なものによって「構成され」なければならない。それは、共同体主義者が、当初からずっと言い続けてきた種類の事柄である。

 

(p.238 - 239)

 

何が共通のアイデンティティの感覚を、生み出しているのだろうか。何が人々を導いて、お互いに対する一種の連帯感ーー再分配を行おうとするリベラリズムの要求水準の高い諸原理に従って、お互いを取り扱うよう動機づけるのに必要とされるーーを抱かせるのだろうか。戦争は、有効である。イギリスの福祉国家への支持が、第二次世界大戦の直後に頂点に達したことは、偶然ではない。共通の目的や同じボートに乗り合わせているという感覚を形成し、分断する社会の境界線を突き崩す人々の間の一種の相互交流を生み出すのに、戦争ほど好都合なものはないのである。そのような感情が弱まっていくにつれてーー社会が、より多元的で、多様なものになり、文化的に同質なものでなくなるにつれてーー、ある種の国民的ーーあるいは、市民的ーー奉仕の擁護論は強まっていった。いまでは、人々が、自分自身を、国家のメンバーとは感じずに、より地域的で個別的なグループ分けーーエスニシティ、宗教、生活様式ーーに主として同一化することは、容易である。人々に、人生の一年間を、「国民的奉仕(兵役義務)」と見なされており、そのようなものとして提示されているものに捧げるよう求めることは、たとえそれが、ローカルなレベルで履行されたとしても、彼らの中に、「市民としてのアイデンティティ」の感覚を育てるかもしれない。もちろん、こうしたことは、彼らの自由を制限するだろう。そうした根拠に基づいて、それに反対するリベラルもいるかもしれない。しかし、リベラルは、自由だけではなく、正義もまた大切に考えているのである。もし人々が、共通のアイデンティティの感覚を共有している人に対してのみ、公正に行動するよう動機づけられており、また強制的な国民的奉仕には、そうした感覚を伝える力があるのであれば、リベラルは、それが持つ自由制限的な含意を進んで受け入れるべきなのである。

 

(p.240 - 241)