道徳的動物日記

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キムリッカとドナルドソンによる「動物の権利」論(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』⑥)

 

 

 

 第22章「権利」の著者は政治哲学者のウィル・キムリッカと哲学者のスー・ドナルドソン。『人と動物の政治共同体:「動物の権利」の政治理論』を執筆した夫婦であり、このブログでは二人の著書や論文も何度か取り上げてきたので期待を抱いていたのだが、今回の文章にはあまり感心しなかった。

 

 

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 本章の前半では、西洋における「権利革命」について述べられている。19世紀から20世紀の前半まで、リベラル・デモクラシーはベンサムやミルの唱えたような功利主義によって正当化されていた。また、労働者階級・女性・植民地化された国家に暮らす人々などが自分たちの政治的権利を求めるために行なった運動は、「少数」の特権階級のために「多数」の被抑圧者の幸福が侵害されているという問題を改善するためのものとみなすことができたから、「最大多数の最大幸福」を追求する功利主義によっても支持することができた。

 ……しかし、アフリカ系アメリカ人による公民権運動は、アフリカ系という「少数」が白人という「多数」に対して異議申し立てを行う運動であったために、功利主義では支持しづらい。むしろ、少数派であるアフリカ系を抑圧したままにしておいたほうが最大多数の最大幸福につながるかもしれない。同性愛者の権利や先住民の権利、障害者の権利についても同様だ。これらの権利を求める運動が活発化したのに伴い、リベラルな政治哲学者たちは功利主義に代わる理念を追求する必要があると考えるようになっていった。それがロナルド・ドウォーキンが「切り札」と表現した「不可侵の権利」論や、ジョン・ロールズによる『正義論』へとつながっていく。

 人間のマイノリティに関する運動/理論と同様に、動物に関する運動/理論においても、功利主義から権利論やリベラリズムへの転換が起こった。動物解放運動の嚆矢はピーター・シンガーの『動物の解放』であるが、功利主義の理屈では動物のことを暫定的にしか保護できない。もし、檻に閉じ込められた動物に生じる苦痛よりもその動物を眺めることで得られる多数の人間の幸福の総計が上回ったり、食用に飼育される動物たちの苦痛よりもその肉などを食べることで人間たちが得られる幸福の総計が上回るなら、理論上、動物に対する搾取や虐待は肯定されることになる。

 キムリッカとドナルドソンによると「<動物の権利>という立場はシンガーの著作に対する批判的反応として現れたことに留意すべき」(p.556)で、「シンガーの功利主義的な動物倫理におけるこうした欠陥にまさに反応するかたちで、現在の<動物の権利>運動が起こったのである」(p.557)。具体的には、トム・レーガンの『動物の権利の擁護』をはじめとして、ゲイリー・フランシオンやゲイリー・スタイナー、パオラ・カヴァリエリなどの哲学者たちが、功利主義的な効用計算を度外視して絶対に守られるべき不可侵の<動物の権利>を主張する著作を発表していった。

 

 しかし、キムリッカとドナルドソンの書きぶりは、功利主義やシンガーに対してあまりに厳し過ぎるように思える。

 まず、広い意味での「動物の権利運動」……つまりPETAのように狭い意味での<動物の権利>運動の支持者からは「新福祉主義」などと批判されるが、工場畜産の撤廃や動物実験の大幅な規制などを求めており、一般的には「動物の権利」を主張していると解釈されているような団体や運動家を含んだ場合には……シンガーの理論は未だ影響力を持っているだろう。そもそも、いわゆる「動物の権利運動」を引き起こしたのはやはりシンガーの著作のほうであり、その後にせまい意味での<動物の権利>を提唱した諸々の著作が、理論的にはともかく現実の運動や社会に対してどれほどの貢献を行えたり影響を与えられたりしたのか、という点には疑問符が付く。

 また、たしかに功利主義は理論上は畜産業や動物園などの制度・慣行を肯定し得るし、実際にシンガーはかなり厳しい条件付きでごく一部の動物実験は認められると論じているが、ほとんどの場合には功利主義者たちは<動物の権利>を提唱している人々とほぼ同じ主張を行っている。つまり、効用をどのように計算したところで、現行の畜産業や動物園や(大半の)動物実験などの制度・慣行が認められる道理はないのだ。

 そして、功利主義が出す結論が常に暫定的なものであることは「欠陥」などではなく、柔軟さや実用性という「美徳」として捉えることもできるだろう(それらの美徳はまさに権利論が欠いているものである)。

 

多様な功利主義者たちが勇猛果敢にも示そうとしたのは、たとえマジョリティの選好を蹂躙したところで、それがゆくゆくは最大多数の最大幸福につながるということだった(例えば、差別は経済的に非効率的になるとか、他の集団に不安をもたらすなどという理由で)。だが、功利主義者たちがそんな理屈をでっち上げたところで、彼らは間違った理屈で正しい答えを導いたことにかわりはない。確かに、アフリカ系アメリカ人の人種隔離は、そもそも道徳的に間違っていた。なぜなら人種隔離は、彼らの人間性公民権を尊重しなかったからである。たとえ人種隔離が、全体の選好充足にゆくゆくは変化をもたらすとはいえ。公民権闘争にとって、反マジョリティの道徳的主張がぜひとも必要だったのだ。

 

(p.554)

 

 字数の都合もあるだろうが、本章では、功利主義の理屈がなぜ「間違っている」のか、または「人間性公民権を尊重」することがなぜ正しいのか、ということに関する理論的な議論はほとんど行われていない。現代の大多数の人が既に持っている「権利が尊重されるのは当たり前だ」という常識に阿りながら、功利主義は人権侵害を許容し得るという点をことさらに強調して悪者扱いする……つまり印象操作を行なっているだけであるように思える。

 

 本章の後半では、<動物の権利>という概念に対する様々な異議や懸念が検討される。

 

  1. 戦略面での異議:<動物の権利>という概念は過激かつユートピア的に過ぎるので、「動物の福祉」を軸にした運動でないと効果が得られないだろう、という懸念。先日に紹介した「懐柔的」アプローチと「対立的」アプローチの比較に関する議論とほぼ同じようなもの。
  2. 権利は人間中心主義的:動物に不可侵の権利を保障することを目指す運動のなかでもとくに影響力があるのは「グレート・エイプ・プロジェクト」であるが、動物の権利運動は大型類人猿のように「人間に近い」動物を優遇してそうでない動物を冷遇する傾向がある。また、フランシオンなどは、動物は法律上「所有物」ではなく「人格」とみなされるべきだと主張しているが、「人格」を重視するアプローチに対しては人間至上主義(=男性ジェンダー至上主義・白人至上主義)や障害者差別的であるという批判がなされている。
  3. 権利は消極的:<動物の権利>という概念を提唱している論客の多くは、「危害を加えない」「殺さない」などの消極的義務についてばかり論じており、動物に対する積極的義務を示したり、動物とどんな関係を築くことが望ましいかという前向きな話をしない。フランシオンなどが「廃止論」を主張しているように、後ろ向きでネガティブな議論が多いのだ。……『人と動物の政治共同体』は、まさにこの懸念を受けて、シティズンシップやデニズンシップなどの用語を用いながら前向きでポジティブな動物の権利論を提示することを目指して書かれた本であった[その試みがうまくいっているとは、わたしには思えないけれど]*1
  4. 権利は敵対的:先日にも触れたような、権利という概念は敵対や競合が存在する環境でなければ考えつかない発想であるというタイプの批判。また、アメリカ先住民系の学者は、アングロ・アメリカの権利モデルと、連帯と和解を目指した自分たちの伝統との違いを強調している*2。さらに、動物は法廷で自身を「弁護」できないのだから、(法廷における)敵対関係を前提とした議論は必然的に動物にとって不利になる、という批判もある。……これに対してドナルドソンとキムリッカは、オンブズパーソンや管財人などの制度(権利主張を第三者が代行する制度)を動物にも適用することを示唆している。また、たしかに敵対的な関係がない社会のほうが望ましいが、そのような社会を実現するためにこそ不可侵の権利の確保が必要なのだ、と述べられている。
  5. 権利は空疎:リベラルな政治哲学者たちが述べる権利論など所詮は机上の空論であり、実際に権利を保障するのは被抑圧者たちが行う政治闘争である。そして、動物たち自身が政治闘争を行うことはできないのだから、<動物の権利>を求める運動は無駄な試みとなることが運命づけられている、という批判。……とはいえ、歴史上、子どもの権利を求める運動を子どもたち自身が行なってきたわけではないが、一部の大人たちが子どもの権利についての理論を考案したうえで政治闘争も行なった結果として、いまや子どもの権利は保障されている。同じことは動物にも起こり得るだろう*3。また、『人と動物の政治共同体』のなかでは、動物は政治的な行為者となって権利主張のプロセスに参加できる、という議論も行なわれている[かなり無理のある議論だったけれど]。

 

 ……以上、こんな感じ。後半で紹介される<動物の権利>批判については無理があるものも多いし、論文や本を量産したりサヨク界隈や批判理論界隈内での美徳シグナリングを行うためにラディカルで耳障りのよい主張を放言しているという感じも漂ってきて、白けてしまった。『人と動物の政治共同体』にビミョーな議論が含まれていたのも、こういった難癖に真面目に対応しようとした結果であるのだろう。

 

*1:なお、ダナ・ハラウェイの『犬と人が出会うとき』などを挙げながら、動物との関係性だけを重視するタイプの議論はむしろ動物の搾取や動物の殺害を正当化してしまう場合がある、ということもキムリッカとドナルドソンは指摘している。「…関係性の倫理を説得力あるものにするには、不可侵性の権利で補完する必要がある」(p.565)。

*2:伝統社会の多くは「修復的司法」を採用していた、ということはジャレッド・ダイヤモンドの『昨日までの世界』でも印象的に解説されている。

 

 

*3:

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「アニマル・ウェルフェア」の多様な意味(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』⑤)

 

 

 第29章「ウェルフェア」の執筆者はクレア・パルマーとぺテル・サンデュ。どちらも倫理学者であり、前者についてはこのブログでも過去に何度か取り上げている。また、両者はコンパニオン・アニマルの倫理についての共著も出版している*1

 

 

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 まずは「アニマル・ウェルフェア(動物福祉)」をめぐる一般的な議論から。

 

…アニマル・ウェルフェアは、かなり物議をかもしたり、争いの種になったりするのだが、それは概して、人間の利益に対する配慮と、アニマル・ウェルフェアに対する配慮とのバランスをどうとるかについて意見が一致しないからである。たとえば、しばしば主張されるのは、科学的実験が人間の病気を治す一助になるのであれば、動物実験は、たとえアニマル・ウェルフェアを損ねることになろうとも認められるといったようなことだ。この場合、人間の利益に必要ということでアニマル・ウェルフェアを損ねることがあるとしても、それを最小限におさえることが、アニマル・ウェルフェアの努力目標となる。同様に農場飼育動物のウェルフェアを向上させる努力も、人間は食肉、乳、卵のために動物を飼育することは容認されていると最初から決めてかかっているところがある。そのためウェルフェアの努力目標は、動物たちがその過程で不必要に苦痛を受けなくて済むよう保障することとして矮小化されてしまう。

アニマル・ウェルフェアは往々にしてこういったかたちで定められるため、人間の利益のための動物利用を容認しない人々は、アニマル・ウェルフェアをめぐる概念をまるごと否定する(本書、第1章[廃止論]および第22章[権利]参照)。しかし、これでは赤ん坊を湯水と一緒に捨てる〔不要なものと一緒に大事なものまで捨てるという意の慣用表現〕ことになる。アニマル・ウェルフェアは、動物自身の観点に立つことで価値を生むものとして理解されるため、動物の世話にたずさわるすべての人々にとって関連性を有しているはずなのである。本章では、感覚をそなえた[センシェント]動物たちにとって重要なことは何かーー「良きウェルフェア」とは何かーーについての考えを深めることになろう。…

 

(p.724 - 725)

 

 人々は昔から動物の苦痛に対して関心を抱いており、1822年にはイギリスで世界初の動物虐待防止法が成立したが、現代的なアニマル・ウェルフェア概念が誕生したのは1964年にルース・ハリソンが出版した『アニマル・マシーン』を受けて1965年に発表されたブランベル報告書(『集約畜産システムにおいて飼育される動物のウェルフェアを調査する専門委員会による報告書』)においてである。

 それまでの動物虐待防止法は「悪意による」苦痛を予防するもの(意図的な虐待を禁ずるもの)であったのに対して、効率的な食糧生産[工場畜産]の過程で生じる苦痛の予防を目的としたことが、ブランベル報告書の革新的な点であった。

 ブランベル報告書は「動物たちの欲求が満たされないときに苦痛が生じる」と理解したうえで、「行動欲求」の阻害も苦しみを生じさせるということが指摘されていた。つまり、単純な「痛み」は生じないとしても、閉じ込められたり動けなくされたりすることで何らかのかたちの「苦しみ(不快感やストレスなど)」が生じる、ということである。

 ブランベル報告書でなされている訴えは、後に「5つの自由」にまとめられて、動物福祉という概念の基本となる。

 

  1. 飢えと渇きからの自由
  2. 不快からの自由
  3. 痛み・傷害・病気からの自由
  4. 恐怖や抑圧からの自由
  5. 正常な行動を表現する自由

動物福祉について|公益社団法人日本動物福祉協会

 

 パルマーとサンデュによると、ブランベル報告書には以下のような限界があった。

 まず、「苦痛の不在」のみに焦点が当てられており、肯定的ウェルフェア(喜びなどのポジティブな状態)が無視されている。

 次に、ブランベル報告書は、「不要な苦痛」さえ取り除ければ工場畜産という制度そのものに問題はないとした。このため、バタリーケージといった現代では問題視されている慣行も容認されてしまったのである。

 そして、ブランベル報告書はあくまで動物の「主観的経験」に焦点を絞っており、動物の「性質的行動」を考慮することはなかった。

 

 ここから、「ウェルフェア(福祉/福利/厚生)」という概念についての本格的な議論がはじまる。

 まず、不快な状態が取り除かれているだけでは、人であっても動物であっても「幸せ」な状態とはいえない。むしろ、不快な状態を多少残っていても、快適な状態が充分に存在することのほうが幸福には不可欠だ。そもそも不快な状態のなかには避けようのないものもあるが、快適な状態を経験することで、不快な状態に折り合いをつけて対処することができる。また、ある種の快楽は、不快な状態を経由しないと経験することができない。

 ブランベル報告書のように主観的な経験という観点によってのみウェルフェアを理解する考え方は、いわゆる「ヘドニズム」に属するものであり、一定数の功利主義者が採用しているものだ。しかし、だれかが「幸福」であったり「良い状態」であったりするかどうかを測る際に、当人の主観のほかの指標を参照することは、人間の場合にはごく一般的に行われている。動物のウェルフェアについて測る際にも同様の発想が必要となるだろう。

 たとえば、屋内で飼われているネコはやがて屋外に出ることに興味を無くして部屋の中で暮らし続けることに満足するかもしれないが、それはネコが「適応的選好」を形成してしまったからかもしれない*2。たとえ重い病気にかかったり自動車に轢かれてしまうリスクがあるとしても、ネコは屋外に出れたら様々な喜びを経験できるかもしれないし、ネコの飼い主の多くは屋内飼いによって不快な経験のリスクを減らすか外に出すことによって快適な経験をより多く与えるかについて悩んだことがあるだろう*3

 ロバート・ノージックが「経験機械」の思考実験によって功利主義を批判したように、ウェルフェアについてどう考えるかということは、哲学の分野において問われ続けてきた問題とつながってくる。

 

 パルマーとサンデュは、バーナード・ローリンの「テロス論」やマーサ・ヌスバウムの「潜在能力アプローチ」などを参照しながら、ウェルフェアを測る際には主観的経験のみならず「性質的行動 natural behavior」も参照しなければならない、と論じる[ロリンもヌスバウムアリストテレスの「ユーダイモニア」論に基づいた議論をしており、ヘドニズムとユーダイモニア論は幸福論において有名なライバル関係にある]*4

 

この考えが意味するのは、動物が性質にしたがって生きれば、良い経験を得られるはずだというものでありーー本質的には快楽主義的観点である。あるいはこういう意味かもしれない、つまり動物にとって性質にしたがって生きることが、結果としての経験とは無関係に良いウェルフェアを生成するということだ。どちらのアプローチも一理ある。快楽主義観から一歩も出ない最初のアプローチでさえも、実際に動物の生活を豊かにすることでアニマル・ウェルフェアを向上させられることを人々に意識させるのに役に立つ。

 

(p. 733 - 734)

 

 ただし、ただ単に性質的行動を重視すればいいというものではない。「人間は、人間性[human nature]に基づいて生きれば幸せになれる」という一般論は人間の多様性を考慮していないために、批判されたり役に立たなかったりする。同じように、動物たちも個体ごとに多様であるうえに、コンパニオン・アニマルや家畜は品種改良によって生物種そのものを変化させられているのだから、「動物の性質はその種によってすっかり決まっているわけではない」(p.735)。

 また、性質的行動が不快な主観的経験を生む場合も多々ある。オス同士が闘うことが自然であっても、闘いによってストレスや怪我が生じる。それをふまえると、闘いを避けるために去勢して攻撃性を減らすほうが良いかもしれない[猫エイズなどの病気のリスクを避けるためにネコの去勢や避妊手術を行うことも、多くの飼い主が行っていることだ]。

 かように、ひとくちに「アニマル・ウェルフェア」といっても多様な定義や考え方が含まれており、統一した評価基準を作成することは困難である。パルマーとサンデュは、農場間を比較してウェルフェアをスコア化することを目指したEUの大規模プロジェクト「ウェルフェア・クオリティ」を紹介したのちに、そのプロジェクトすらも評価基準の統合に失敗してしまったと批判する*5

 

 ここでパルマーとサンデュが持ち出してくるのが、「動物の自律性」という発想だ。人間が動物たちのウェルフェアを測ることに限界があるなら、自分のウェルフェアについての動物自身がどのような好みを示すかを見てみればよい、ということである。

 

人間性心理学[ヒューマニスティック・サイコロジー]の考え方を適用しながら[テリー・]メイプルが主張するのは、動物は困難に直面しそれを乗り越えようとし、一層奮起しているとき、自己実現への契機を必要とすることだ。メイプルの主張では、動物園動物の理想的健康のために求められるのは、「ただ動物園側の制限や要求へ対応するだけではなく、あらゆる行動の発露へ準備を整えさせ、元気旺盛な状態に達するよう」動物を促す「刺激的環境」である。これは、性質的行動をとるための機会を動物に与えるという考え方と、彼らが自分の志向で選択でき、自分たちの生活をできるだけ自己規制できる動物の自律性[アニマル・オートノミー]という考え方の両方にかかわっている。

 

(p. 739 - 740)

 

「動物の自律性」という発想の問題点は主に二つ。

 まず、動物はときとして自己破壊的で有害な選択を行なってしまうかもしれない。人間の場合には愚行権が認められるとしても、多くの動物は、人間の大人のように自分の選択について反省的に検討したり帰結を理解したりする能力は持っていない。……したがって、人間の子どもの選択に保護者が介入するのと同じような、ある程度のパターナリズムはやはり必要となる。

 また、ある程度の自由が与えられているコンパニオン・アニマルや動物園の動物たちとは異なり、畜産や動物実験のために農場や研究所で飼育されている動物たちに自律性を与えるというのは、そもそも難しい。……もっとも、嗜好性試験という手法によって、管理下の動物が何を望んでいるかということもある程度までは測れるようだ。しかし、嗜好性試験においても「適応的選好形成」の問題が生じてくる。

 

 本章の最後のほうでは、「アニマル・ウェルフェア」という概念が初期には「重い苦痛を与えないこと」を意味していたが、現在では「繁栄[性質的行動が取れること]と自律性」が強調されている、ということが改めてまとめられる。

 また、現代的なアニマル・ウェルフェア概念は完全論[perfectionism]と見なすこともできれば、依然として広義の意味でのヘドニズムだとも見なせるということが指摘されている*6

 そして、動物の権利論者や廃止論者はアニマル・ウェルフェア概念そのものを全否定するかもしれないが、実際問題として、人間の利益とアニマル・ウェルフェアのバランスをどのようにとるかという議論はいまなお重要なのである……と、パルマーとサンデュは述べる。

*1:動物倫理に関する洋書の「ほしい物リスト」はこちら。いただいたところでいつ読めるかはわからないけど。

www.amazon.co.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:これについては、とくに都会に住んでいたり飼育知識があったりするタイプの日本人の飼い主なら、「屋外に猫を出すなんて言語道断で選択肢のうちに入らない!」と反応する人も多いだろう。わたしの見聞からしても、アメリカ人の飼い主の多くは日本人よりも外飼いに肯定的だ。パルマーとサンデュは、別の論文において、外飼いを必ずしも肯定しないが室内飼いの問題点も指摘しているようである[Chat Gptに論文を要約させた]。

philpapers.org

*4:

 

 

 

*5:

www.welfarequality.net

*6:ピーター・シンガーヌスバウムの潜在能力アプローチについて結局は功利主義に基づくものだという批判を行なっている。

philpapers.org

クリスティン・コースガードの「理性」論(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』④)

 

 

 第20章「理性」の執筆者は、カント主義の哲学者クリスティン・M・コースガード。なかなか難しい内容であった。

 

 

 

 

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 本章の冒頭では、道具を用いて、天井の外に吊るしてあったり檻の外に置いてあったりしたバナナを入手することができたチンパンジーのサルタン(ヴォルフガング・ケーラーの実験)について紹介しながら、人間を他の動物から区別するのは人間が「理性的 rational」であったり「理性 reason」を持っていたりすることである、という見解について論じられる。

 

…社会科学においては、合理的行為が通常意味するのは、分別ある行為(自分自身にとって最も利益になることを行うこと)ーーあるいは道具的合理性〔以下の説明にあるように、目的と関連づけられ目的と連動して働く理性のこと〕による行為(つまり自分自身にとって最も利益になるかならないかにかかわらず、希求している目標を達成するためなら何でも行うこと)である。この意味において、ある人物の行動が合理的[ラショナル]であると言うとき、通常、それはその誰かの主観が、一定の分別や道具的合理性の基準によって支配されているということをも意味している。すなわち、その人物には、自分のためだと信じていることをする動機があるということを、あるいは目標が何であれ、それを達成させてくれると信じていることをする動機があるということを、したがって、その人物は自身の信念によって動機づけられているということを意味しているのである。…

 

(p.509)

 

…サルタンのようなケースが示している通り、道具として有効な〔道具的理性に適う〕動物の行動のすべてが、必ずしも本能的・自動的なものだとは言えない。知的な動物は、本能が教えてくれないことについては、自分で頭をひねるものである。また動物たち自身の視点から見ても、それこそがまさに動物たちの試み、つまり目標達成のために頭を働かせることだということを疑う理由はないのである。ところがカント派の伝統に連なる哲学者たちは、サルタンのような動物が知的な道具的思考に従事するときでさえーーすなわち、希求している目標をいかに達成するべきかを考えているときでさえーーその動機は必ずしも「理性的/合理的」であることを示していないと主張するだろう。こうした哲学者たちの議論によれば、合理的動機に伴う自覚とは、行動の基になった考慮[consideration]が、その行動の理由であるという自覚なのである。行為主体は自分がしていることに対し理由を持っていると私たちが言うとき、私たちが暗に示そうとしているのは、その行為に対する評価基準ーーその行為は何らかの点で「筋が通っている reasonable」あるいは「合理的 rational」であるという基準ーーが存在しているということである。そして、その行為主体はある程度は目論見通りにその基準を満たしているということである。したがって、自分がある理由のためにふるまっているのを知っているということは、評価基準がそのふるまいに適用されたことを知っているということである。しかるべきふるまい方、ないし当然のふるまい方があるのを知っているということである。もしくは、そうふるまうのが適当ないし正しいというのを知っているということである。そして、その自覚によって、いくらか動機づけられているということである。サルタンのような動物、つまり、ある手段を取ることで自分の求める目標に到達できることを知った動物は、そのように動機づけられていることの規範的適正について考えることなく、ただその手段を取るという決断によって動かされているのかもしれない。…

 

(p.510 - 511)

 

 要するに、目的を達成するための手段についてあれこれと思考できるという点では動物も道具的理性を持っているとは言えるが、目的そのものについて批判的に思考する能力はないため、動物は真の意味では理性的/合理的であるとはいえない、というところだろうか。

 最近の倫理学で重要なタームとなっている(らしい)「理由」という単語については以下のように説明されている。

 

理性はまた、私たちに「理由」ーー信念や行為に奉仕する特定の考慮や動機ーーを特定させる能力と同一視される。この意味における理由というのは、合理的原則によって選別された考慮/動機[consideration]か、心の積極的な能力という意味での「理性」によって直接把握された考慮/動機ということになるのかもしれない。通常、私たちは、行為が何のためになされたのかを正当化し、かつ説明するために、あるいは少なくともその行為を理屈の通ったものにするために、理由に頼る。私たちに、行為主体の理由が何かわかっているならば、その行為主体に状況がどのように映っているか、なぜその行為主体がそうした行為に駆りたてられたのかがわかる。<理性/理由>をこのような意味に捉えれば、他の動物が人間と同じように、理性/理由に応じてある行為をしたりしなかったりしていることは明らかである。一匹の動物が檻の柵に身体をぶつけていると仮定すれば、なぜそうしているのかと私たちは問うだろう。柵を壊すか曲げるかして、檻から脱出しようとしているのだという答えなら、動物には状況がどのように映っているか、その状況に対して何をするつもりであるか、私たちはいくらか把握しているので、その理由が何であるかを見て取ることができるだろう。いや、そうではなく、檻に閉じ込められているせいで、動物が心を病んでいるのだという答えなら、彼の行動には原因があっても、その行動が、理由のためになされたということにはならない。理性/理由をこのような意味に捉えれば、サルタンに二本の棒を組み合わせるようにさせた理性が、サルタンに檻の外に置かれたバナナに手が届くようにさせたことは明らかである。

 

(p.513 - 514 )

 

 人間は動物とは異なり自分が抱いている理由が適切なものかどうかを問い直すことができるので、動物とは異なり人間の信念や行為には規範的な性質が備わる。また、人間に特有なタイプの理性のこの特徴(反省的であること?)が、科学を発展させてきた。  

 そして、多くの人々が「道徳は人間に固有の特徴だ」と思っている原因でもある。

 理性が道徳に関連するという考え方にも、いくつかの種類がある。多くの哲学者は、人間が理性的であること自体が、わたしたちの存在や生命に価値を付与する、と主張してきた。キリスト教的な「人間は神の似姿」論や、イマヌエル・カントとその後継者による「 すべての理性的存在者は目的自体として扱わられなければならない」論など。

 また、権利と義務について理解して、道徳や規範によって互いに束縛し合うためにも、理性が必要となる。理性的存在者である人間は法律や社会契約などに合意して道徳システムに参加できるが、動物はそうではないから道徳的配慮の対象外となる、という考え方はかなり一般的なものだろう。

 もうひとつは、いわゆる「パーソン論」的な考え。ある存在が理性的であることはその存在により高度なアイデンティティ意識を抱かせて、それによってその存在が自分自身の生命に対して持っている利益や賭け金を大きくするが、高度なアイデンティティ意識を持たない非理性的な存在が自分自身の生命にとって持っている利益や賭け金は僅かだから、人間の生命に対しては動物の生命に対してよりも重大な配慮が必要である、という発想だ。

「理性を持たない動物に対する道徳的配慮は必要がない」という考え方に対する批判として頻出するのが「周辺的事例からの議論」*1。人間であっても他の人たちと同じような理性を持たない人々は多々いるが(乳幼児、痴呆症の高齢者、重度精神的障害者など)、わたしたちは彼らを道徳的配慮の対象とする。ならば、彼らと同程度の理性を持つ動物たちも道徳的配慮の対象にしなければ「種差別」である、という議論である。

 周辺事例からの議論に対して、コースガードは理性をさらに「記述的」なものと「規範的」なものに区別したりしながら、コメントを行なっている。コースガードは周辺事例からの議論を提出する人たちが意図している結論……痛みの感覚があること[センシェンス]だけで、人間[と動物]を道徳的関心の対象とするには十分である、という結論……を必ずしも否定しないようだが、たとえば乳幼児が現時点では理性的でないとしても他の動物と異なり人間は理性的存在者として機能するように「デザインされ」ているのだから、ある人が人生の一時点で表出させている属性ではなく、その人の人生の全体を代表する属性に基づいて判断すべき、と述べているようだ(そして、どうやら、生まれつき理性的ではない人についても人間と「異なる種類の生物」であるわけではないから、その人についても他の人間たちと同じような配慮が必要である……と主張しているようだ)。

 

 いずれにせよ、コースガードの結論は「人間は理性を持っているからこそ動物に対して義務を負う」といった、かなり多くの動物倫理学者がこれまでに論じてきたような、スタンダードなものだ。ポストモダン的な「理性主義はよくない」という批判を免れるために「理性」の定義を無理に弄って「動物だって理性を持つ」(または「人間ですら理性を持たない」など)と主張するタイプの主張に比べると、穏当で好感が抱ける。

 以下、最終段落から抜粋。

 

[前略]…たとえ合理的/理性的であることが人間特有の性質だとしても、それはユニークな道徳的価値の源ではなく、異なる種類の道徳的立場の源となるものかもしれない。…[中略」…理性を所有していることは、動物のなかでただ人間のみが、世界を共有[シェア]している他の動物たちに対し、道徳的義務を負っているということなのである。

 

(p.524)

 

効果的な利他主義と動物の権利運動(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』③)

 

 

 第2章「アクティヴィズム」の著者はジェフ・スィーボウとピーター・シンガー。どちらも倫理学者であると同時に動物の権利運動に実践的に関わっている人だ。

 この章で主に論じられるのは<効果的なアニマル・アクティヴィズム>について。

 これは、エビデンスと理性を用いながらできる限り多くの善をなそうと試みる「効果的な利他主義」の考え方を動物の権利運動に当てはめたもの。

 

<効果的な利他主義者たち>全般、また個別的には<効果的なアニマル・アクティヴィストたち>は考えうる最も多くの善をなすために、どのようにエビデンスと理性を用いようとしているのか。ウィリアム・マッカスキルは、人々にいくつかの問いを促す有力なモデルを考案している。このモデルによるなら、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は、第一に、問題の規模を問うべきである。すなわち、その問題がほかの問題と比べてどれほど多くの害を及ぼすかと問うのである。第二に、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は問題が見過ごされている度合いを問うべきである。すなわち、今現在、人々はほかの問題と比べてその問題にどれほど注意を払っているのかと問うのである。第三に、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は問題の解決可能性を問うべきである。すなわち、ほかの問題と比べてその問題について人々のあいだに(もしあるなら)どれほど意見の相違があるかのかを問うのである。最後に、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は個人的な相性を問うべきである。すなわち、人々の個人的な才能や関心やバックグランドがどのようなものであるか、また人々がある種の仕事にどれほど向いているかということを問うのである。問題が及ぼす害が大きければ大きいほど、問題が見過ごされていればいるほど、問題が解決しやすければしやすいほど、そして<効果的なアニマル・アクティヴィズム>がその問題に取り組むのに向いていればいるほど、その分だけ<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は、その問題に優先的に取り組むべきなのである。

 

(p.64)

 

 スィーボウが理事会メンバーでもある「動物チャリティ評価組織」という団体の計算によると、コンパニオン・アニマルを救う取り組みには一頭につき数百ドルかかるが、家畜動物を救う取り組みには一頭につき10セントもかからない。そして、人間に利用され殺されている飼育動物の97パーセントは家畜である。そのため、<効果的なアニマル・アクティヴィズム>ではコンパニオン・アニマルよりも家畜の問題に取り組むことのほうが優先される。

 一方で、野生動物たちにも多大な苦しみは生じているが、家畜の問題に比べると野生動物の問題は解決が難しい。干ばつや飢餓や他の動物からの捕食といった野生動物に苦しみを生じさせる原因にそもそもどう対処すればいいのか、対処できたところでどんな副作用が起きるか(生態系や環境のバランスの破壊など)、といったことが不明であるからだ。そのため、<効果的なアニマル・アクティヴィストたち>の多くは、野生動物の問題は後まわしにすべきであると判断している。

 

 また、動物の権利運動をどのような方法で行うかということについて、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>とそうでない動物の権利運動家たちの間では意見が対立しがちである。効果的な利他主義者たちは計算可能なエビデンスに基づく費用便益計算を重視するがゆえに、利益が計算しやすく費用が計算しづらいアプローチを好む一方で、利益が計算しづらく費用が計算しやすいアプローチを嫌がる傾向がある。

 そのため、効果的な<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は「懐柔的」なアプローチをとりがちだ。つまり、一般的な消費者たちを表立って批判したり糾弾したりするのではなく、工場畜産で生産された製品の消費を減らして動物福祉に配慮された環境で生産された製品を購入するように呼びかけるのである。このアプローチは、短期的に見れば効果が出やすい(実際に工場畜産で生産された動物性食品の消費が減って、劣悪な環境に生きる家畜の数が減ることにつながるから)。しかし、長期的に見れば、このアプローチは人々の信念を変えて動物性の製品そのものの消費を止めるように促すかもしれない一方で、「動物福祉に配慮された環境で生産されたなら動物性の製品を消費することは一切問題がない」という信念を植え付けてしまい、動物性の製品の存在を撤廃するという動物の権利運動の目的にとっては逆効果な結果を生じさせるかもしれない。

 一方で、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>ではないタイプの動物の権利運動家は、動物福祉に配慮された環境で生産されたかどうかに関わらず動物性の製品を消費することそのものを批判する「対決的」なアプローチを取ることが多い。短期的に見れば、このアプローチは有害な結果を生じさせる可能性がある。「懐柔的」なアプローチであれば理解を示していたかもしれないオルグ対象の人々が動物の権利運動に悪印象を抱いて、動物の福祉に対する配慮や関心も失ってしまうかもしれないからだ。長期的に見てもこの悪影響は持続して、動物の権利運動は一般大衆からの支持を得られないものになるかもしれない。……しかし、妥協抜きの対決的なアプローチが抑圧的なイデオロギーへの異議申し立てとなって、ラディカルな変革の道を開く可能性もある。

 このあたりは動物の権利運動や効果的な利他主義などに限らず、たとえば公民権運動においてキング牧師とマルコムXがそれぞれに対比的なアプローチを取ったことに示されるように、社会運動全般に付き物のジレンマであるだろう。また、効果的な利他主義功利主義的な発想が、構造やイデオロギーといった複雑な問題について見落としがちであるという側面はたしかになくはないと思う*1

 

<効果的なアニマル・アクティヴィズム>に対するこうした批判は運動の内部から必然的に出てくるものである。それは、できる限り動物の苦しみを減らそうとすることに反対するものでもなければ、その過程でエビデンスと理性を用いることに反対するものでもない。むしろそれは、もしできる限り動物の苦しみを減らし、その過程でエビデンスと理性を用いることを望むならば、個々の行動の直接的で個別的な効果にばかり焦点を当てないよう注意すべきだと主張するものである。というのも、もし個々の行動の直接的で個別的な効果にばかり焦点を当てることになれば、アニマル・アクティヴィストが個人として、また集団として何をするべきかということをめぐる分析は、不完全で、またおそらく不正確なものになってしまうからだ。

 

(p.70)

 

 スィーボウとシンガーは、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は、以下の方法によって自分たちが行うリスク便益分析を改善することができる、と述べる。

 

  1. 評価方法の拡大:歴史や社会、政治や経済に関する理論などを参照しながら、より広い観点から評価を行うこと。たとえば社会運動の歴史を学べば、懐柔的なアプローチと対立的なアプローチが相互に作用しあってきたことがわかる。
  2. 評価範囲の拡大:拡大された評価方法を、より広範囲に及ぶ問題に適用する。
  3. 評価におけるバイアスの是正:効果的なアニマル・アクティヴィストたち自身の身分やバックグラウンドについて反省的に分析して、自分たちの視野がどのようなかたちで狭まっているかを検討して、それを改善する。たとえば、多くの効果的なアニマル・アクティヴィストは裕福であったり学歴に恵まれていたりするためについつい現行の制度を支持してしまいがちであるという点(「特権」)を自覚したうえで、それによるバイアスが生じないように、改めて判断や計算をし直す。

 

 上記のような方法を実施する際には、よく言えば合理的で悪く言えば「浅薄」な考え方である効果的な利他主義やそれに基づく効果的なアニマル・アクティヴィズムにとっても、よく言えば「深遠」で悪く言えば曖昧な批判理論やそれに基づく<アニマル・スタディーズ>から学べることがある……という点が、この章のキモである。

 

 また、スィーボウとシンガーは、ジョン・スチュアート・ミルが間接功利主義を推奨したことや、功利主義に基づいて「リベラルな多元主義」を提唱したことを支持しており、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は自分たちとは異なる考え方や方法論に基づいて動物の権利運動を行う人たちにも寛容でなければいけない、と述べている。

 ただし、「リベラルな多元主義」にも限度はある。まず、あまりにも暴力的な手段を用いることは、動物の権利運動全体に「テロリズム」の烙印を押して非暴力的な手段で行われる活動の効果すらをも毀損するので、そのような行動をする運動家や団体を許容すべきではない。

 また、運動の戦略をめぐって運動家同士で意見が対立すること自体は問題ないが、運動のそのものの標的である「動物虐待を擁護する者たち」(畜産業者や動物実験業界など)と「動物の側に立つ人間」との区別は付けておくべきであり、内ゲバに終始することがあってはならない。……たとえば、狭い意味での「動物の権利運動家」を自称する個人や団体が、畜産業者や動物実験業界よりもシンガーやPETAのような「新福祉主義者」に対する批判や攻撃に熱心になる、というのは実にありそうなことだ。

 はっきり言うと、『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』に収められている他の学者たちの章のうちのかなり多くにも、内ゲバ的な傾向は見て取れる(そうでもしなきゃ理論や論文としての差別化が図れない、という事情もあるのだろう)。これも私見だが、批判理論や「〜・スタディーズ」に基づく研究は「一見すると良いと思われていたり道徳的だと思われていたりする理論や価値観には、実はこんな問題があるのだ」と言いながら他の学者たちの粗探しに終始したり、「こんな隠れた問題に気が付くわたしのほうが真面目でエラい」といった美徳シグナリングにばかり熱心になったりしてしまい、実際に社会に存在する問題の改善からはむしろ遠ざかってしまいがちだ。

 スィーボウとシンガーもわたしと同じような問題意識を抱いていて、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>たちに対する反省を促すのと同時に、<アニマル・スタディーズ>側の人たちにも遠回しにやんわりと釘を刺しているのではないだろうか。

 

*1:「構造」の話ばっかりしていればいい、というものでもないけど。

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ローリー・グルーエンの「からまりあう共感」論(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』②)

 

 

 本書の編者でもある倫理学者のローリー・グルーエンは、第9章「共感」を執筆している。

 この章の議論はグルーエンの単著 Entangled Empathy: An Alternative Ethic for Our Relationships with Animals で彼女が述べていた主張の要約版、という感じ。Entangled Empathyについては三年前にこのブログでも紹介している。……そして、当時に抱いたのと同じような疑問や違和感を今回も抱くことになった。

 

 

 

 

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 グルーエンが倫理において共感が重要であると考える理由は「動機づけを行なう潜在能力」であるから、ということ。

 意見や知識に基づく理性的な倫理理論は「自分がすべきこと」を教えてくれはするかもしれないが、実際にそれをするような気持ちにさせてくれるとは限らない。しかし、グルーエンの定義するところの「共感」は知覚や内省などの認知的な側面と気遣いなどの感情的な側面が切り離せなく結び付いたものであり、きちんと共感を行っている人は、「他者が幸福な状態を経験するためには何ができるか」ということに注意が惹かれており、何をすればいいかということを知りたがるだけでなくそれに基づいた行動もしたいという意欲も抱いている。

 

共感者は、内省的に自分自身を他者の立場になって考えるように想像をはたらかせ、自身の視点と他者の視点をなんらかのかたちできちんと分離しておく。次に共感者は、その他者が置かれている状況が、その他者の精神状態や幸福にどのように寄与するかについて判断を下す。そして共感者は、注意深く状況を査定し、どのような情報がその人物を効果的に救うのに適したものとなるか判断を下す。

 

(p.252 - 253)

 

私はこのプロセスを、からまりあう共感と呼ぶ。ここでは、私たちは、私たち自身と、私たち自身の状況と、私たちが共感している同胞との間の類似性と差異の双方に着目することになる。まさに、この経験的プロセスにおいて私たちは、他者と関係していることを認識し、他者が必要としているもの、他者の関心事や欲望、他者の脆弱性や希望や感受性に対し注意を払うことによって、この関係に応答[レスポンス]し、かつ責任をとる[レスポンシブル]よう求められる。私たちは、私たちの視点と、私たちが共感している人の視点との間を行き来する。ここでは、私たちは、関係性のうちにあるという感覚を維持できるし、また他者と同じ視点のうちに溶けあうことはない。これを首尾良くこなすには、個人に固有の経験や状況、そして個人の人格を理解しなければならない。とりわけ、非言語的他者あるいは言語による接近不可能な他者の場合、専門知識や注意深い観察なしにこれを行うことはふつう困難である。

 

(p.253 - 254)

 

 前回と同じく、今回も思ったのが、「それって"共感"と言えるの?」ということ。なんというか、「心」ではなくずいぶんと「頭」寄りだし、感情的側面よりも認知的側面が強すぎるような気がする。

 

からめとられている共感者は、社会的、政治的、そして種を基盤とする異なる権力下における、他者、人間、人間ではないものを理解するための複雑な過程を克服しようとする。これは、複雑で、時には私たちが他者を「一瞥する」ことしかできない危うく、間違いを犯す可能性がある危険な過程である。しかし、私たちが、共生関係のうちに深くからめとられていることを考えてみれば、この理解のための努力は望ましいものであるだけでなく、私たちの主体性にとって重要なものとなる。ごく簡単に言えば、私たちの主体性は関係的である。私たちは、社会的あるいは物質的なからまりあいによって、共生関係をむすばされているのである。社会的なからまりあいは、多くの場合、人間を超え、私たちの物理的位置をも超えて広がっている。物質的なからまりあいは、社会・経済的機会の広がりを伴うとともに、人種や階級によって形成される機会への障壁をも伴う。さらにここに含まれる、私たちのからまりあいの対象には、私たちが手に入れることのできる食べ物、私たちの物理的環境の安全性、私たちが消費するものによって、その労働や身体が搾取されるところの動物や人間たち、気候変動難民を生み出す温室効果ガス排出活動などがある。これら全てが、私たち自身の一部を構築している。特定の時代における私たちの行動様式は、空間、種、物質をめぐる多様な関係とのからまりあいの表出なのである。

 

(p.257 - 258) 

 

 この段落に至っては、よくある「インターセクショナリティ」論のように、サヨクが気になっている問題(人種、階級、環境)を「からまりあい」というふわふわワードの下に雑に結び付けているようにしか思えない*1

 ……たとえば、環境保護運動は時と場合によっては労働者階級の運動や動物の権利運動との対立する場合があるが、「からまりあう共感」で問題間の優先順位を付けて「その問題よりもこちらの問題のほうがさらに重要だ」といった指針を提示したりすることはできるのだろうか?一貫性や論理性に欠けているためにモラル・ジレンマに答えを出すことができないというケアの倫理に特有の問題は、グルーエンの議論にも健在であるように思える。

 他にも思うところはあるけれど、これまでに他の記事で書いたことの繰り返しになりそうなのでこの辺で。なんというか、読んでいて「真面目にやる気あんの?」と思ってしまった。ピーター・シンガーなどが『動物の解放』なの著作で倫理に伴う様々な難問に苦心しながら答えを出していったのに比べるとずいぶんとお気楽な議論をしているような気がするし、流行りのワードやふわふわしたワードで固定概念を再確認しているだけの中身のない文章だという気がどうしてもしてしまう。

動物倫理における「有感覚主義」(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』①)

 

 

 先日に発売された『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』を図書館で入手してきたので(とても個人で購入できるような値段ではない)、気になる章をいくつか読んで読書メモを取っていく。

 

 まずは、倫理学者ゲイリー・ヴァーナーが執筆した第24章「感覚があること/有感覚(Senticence)」から。ヴァーナーはわたしのお気に入りの哲学者であり、このブログでも何度か紹介してきたほか、『21世紀の道徳』の第3章でも引用している*1。しかしこれまで彼の本や論文が日本語に公式に翻訳されてきたことはなかったはずなので、今回の『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』で短いながらもヴァーナーの文章が翻訳されたことは喜ばしい。

 

 ヴァーナーは、「感覚があること」という言葉はしばしば明確な定義抜きで使われており、以下のような多種多様な意味が含まれている、と指摘する。

 

一、意識がある conscious

二、知能がある  intelligent

三、自己認識力がある self-aware

四、選択の自由や自律性 freedom of choice or autonomy をもつ

五、パーソン/人格 personhood に該当する

 

 (p.611)

 

 ピーター・シンガーは『動物の解放』のなかで、ある存在が「利益に対する平等な配慮」の原理の対象になるかどうかの境界線を「感覚があること」に設定した。その際、シンガーは「感覚があること」という言葉が様々な意味で使われ得るという点を意識したうえで、「苦しむことや楽しむことを経験する能力の、精確ではないが便利な略称」という但し書きを与えている。

 ヴァーナーは「痛みを感じる能力は感覚があることの十分条件だが、必要条件ではない」と指摘している(p.613)。SF作品に出てくるアンドロイドや、現実世界の先天性無痛症(C I P)の人々などは、痛みを感じることはないが喜んだり楽しんだり苦しんだり落ち込んだりするなどの感情を持っている。……この点は、シンガーの議論に対するイチャモンじみた批判を招き寄せてきた*2。とはいえ、シンガーの『動物の解放』や『実践の倫理』は現実の問題について考えたり対処したりするための本であり、フィクションの世界やごく特殊な事例を捨象して一般論に基づいた指針を提唱するのはごく妥当なことであろう。

 

[世界中でCIPと診断されている人はわずか百人ほどであることを指摘したうえで]だから現実世界ではーーSFを除いてーーわれわれは通常、何らかの感覚をもっていてあたりまえの有感覚者なのに身体的痛みを感じる能力がないという個人には出会わない。そんなわけで、身体的痛みを感じる能力は、一般的に有感覚の範囲と一致するものとして扱われ、どの動物に感覚があるかの科学的研究は特に、どの動物が身体的痛みを感じられるかという問題に的を絞って行われてきた。

 

(p.614)

 

 人間以外の他の動物(生物)たちのうちどの動物が痛みを感じられてどの動物はそうではないか、ということを確認するのには困難さがあることはヴァーナーも認める。痛みの「主観的な感じ」や意識的な「苦しみ」それ自体は観察することも科学的に測定することもできないから、「類推による論証」を行うしかないのだ。

 

類推による論証は、身体的痛みの主観的な感じのように、直接観察できない特性にかかわるさまざまな文脈で使われる。ある動物種の痛みに関し、類推による論証の一般的な骨組みは以下のように表すことができる。

 

一、われわれは、<人類>と<動物種S>がともにa、b、c、……nという特性を有すると知っている。

二、われわれは、<人類>が意識的に痛みを感じると知っている。

三、したがって、<動物種S>もきっと痛みを感じることができる。

 

こうした論証は、演繹的に妥当ではなく、帰納である。つまり、その前提が真であっても、結論が誤りである可能性は除外されない。<動物種S>が痛みを感じるという結論にわれわれがどの程度確信をもつべきかは、a、b、c、……nという特性が痛みを感じる能力とどの程度関連しているかによる。

 

(p.615)

 

 研究の結果、現時点では、「侵害受容器を有すること」や「侵害受容器が脳とつながっていること」、「痛い刺激に遭遇すると内因性オピオイドが分泌されること」や「有害な刺激に対して、刺激を避けたり傷ついた部分をかばったりすること(痛みを感じている人間と同じような反応をすること)」などが、ある動物(生物)が痛みを感じるかどうかと関連している、と考えられている。

 

 そして、人間や動物に対して道徳的に配慮する際には、「痛みを感じる」ということのほかにも様々な能力が関わってくる。たとえば「知能」だ。ひとくちに「知能」と言っても、様々なものが有り得る。「数学の問題を解く能力」と「音楽理論を理解する能力」はどちらも知能といえるが、前者を多く持っているが後者に乏しい人もいれば逆の人もいるだろう。数学の得意な人でなければ、数学の難問を解く楽しみも、難問に取り組んでいる苦労も感じられない。音楽に詳しい人でなければ理解できないような複雑な良さを伴う楽曲もあれば、逆にふつうの人なら耐えられるが音楽に詳しい人には人には低質さが理解できて耐えられないような楽曲もあるだろう。

 

[…]このようにして、さまざまな種類の知能は、それらの知能を欠く生き物にはできないやり方で、感覚のある生き物が楽しみかつ苦しむことを可能にするのだ。

このため、多くの人々は、感覚がある生き物はすべて道徳上考慮すべきだが、感覚がある生き物の中でも一部の生命は他よりも道徳上意義が大きいと信じている。つまり多くの人々は、そもそも道徳的考慮のために個体という資格を与えるものとは何かということと、葛藤や順位づけ[トリアージ]がある場合に、諸利益の間で優先順位を決めることを正当化するものは何かということを、きちんと区別しているのである。

 

(p.618)

 

 シンガーの議論や動物倫理全般に対して、「知能の高さによって動物の間にランクを付ける発想だ」という批判がされたり、「人間に近い知能を持つ動物ほど優遇してそうでない動物ほど冷遇する発想であり、結局は人間中心主義から脱せていない」という批判がされたりすることがある(さらにキリスト教とか健常者中心主義とかに結びつけられたり)。

 しかし、ヴァーナーやシンガーの議論は、知能には様々な種類があることを認めている……つまり、別に「人間に近い知能」でなくとも、それが楽しみや苦しみと関連するようなものであれば、平等に配慮されるのだ(もっとも、実際には痛みだけでなく知能についても「類推による論証」によって測るしかないという側面があるだろうから、なにかしら人間と共通点があったり人間に理解可能なタイプの「知能」しか発見されることがなく、したがって人間に近いタイプの知能のほうが配慮されやすいだろうが、それは理論の原理的な問題というよりも実際の世界の制約や実践上の都合に拠るものである)。

 また、先ほどの引用文で「多くの人々は〜と信じている」とヴァーナーが書いているのに対して「いやわたしはそんなことを信じていない」と拒否する読者もいるだろうが、ここは、「人々の普段の言動や思考を批判的・反省的に分析してみたら、(表面上の自己認識はともかく実際には)こういう信念を多くの人々が抱いているだろう」といった意味合いで受け取るべきだろう。

 

こうして、有感覚主義者[センシェンティスト/sentientist]は、次のように主張できる。身体的痛みを感じる能力は個体に道徳上適格性を与えるのに十分だが、さまざまな認知能力は個体に他のさまざまな意識的な苦しみと楽しみを経験する能力を与えうる、と。問題が身体的痛みを与えることに関してではなく個体生命の価値である時、有感覚主義者は何の矛盾もなく、特定の認知能力を有する個体の生命はそれらの認知能力を欠く個体の生命よりも道徳上意義深いと主張できるのだ。

有感覚主義の流れをくむ哲学者たちはこういった見方を擁護してきたが、その中でしばしば、<パーソン>の概念と何らかの自律性を引き合いに出す。たとえばシンガーは後の著作で、<パーソン>を「理性的で自意識のある」存在者と定義し、時には「理性的で自意識のある」を「伝記的な生」を送ると言い換えた。これは、生の「物語」を生きようと選択し努力するという自律性の概念を示唆するものだ。種々の出版物で、シンガーはそのように定義された<パーソン>を「自意識」や「伝記的な生」を欠く個体とは異なり、「かけがえのない」個体と表現している。ただしシンガーは、<パーソン>の生に特別な道徳的意義があると考える理由を他にもいろいろ挙げている。

 

(p.620)

 

 そもそも、「有感覚主義」とはシンガーの議論を批判する環境倫理学者によって導入された、批判的・冷笑的なレッテル貼りの意味合いを持つ言葉であった。自然環境や生態系や生物種などにも本質的価値を認めて、(ときには動物を犠牲にしてでも)それらを保護する必要性があると考えるタイプの環境倫理学者にとっては、道徳的配慮の対象を動物までにしか広げないシンガーのような主張は不徹底で恣意的だと見なされるのだ。

 しかし、ヴァーナーのように、現代では積極的に「有感覚主義」を自称する倫理学者もいる。彼らは有感覚主義は恣意的ではなく妥当な考え方だと見なしたうえで、有感覚主義に対する異議に応答しているのだ。

 

読書メモ:『フェミニストの理論』

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 先日に英語論文を読んだジョゼフィン・ドノヴァンが1985年に書いた単著の『フェミニストの理論』がAmazonで安く売っていたので、せっかく論文を読んだのというのと前後に世界女性デーがあったということで(女性デーのテーマカラーと同じくこの本の表紙も黄色だし)、ひさしぶりにフェミニズムの本にも目を通して見るかと思って買って読んだ次第。

 ……とはいえ、出版されたのは約40年前で、少なくとも日本ではとくに定評があったり有名であったりすわけでもないような本だから、内容はまあ大したものではない。いちおうアメリカのフェミニズムを中心にしているが、イギリスやフランスの重要な思想家(メアリ・ウルストンクラフトやシモーヌ・ド・ボーヴォーワール)も満遍なく取り上げられている。しかし書き振りがどうにものんべんだらりとしていて、思想史の説明と理論の説明とが混ざっている感じが強く、全体的にあまり明瞭ではない。……これはこの本自体の欠点というよりも、この数十年で(とくに英語圏の)哲学入門本や各学問の理論を解説するタイプの本を執筆する際のセオリーやシステムが確立して、昔に比べてずっとわかりやすい入門本が出版されるようになった、ということなのだろう。

 

 本書の目次は以下の通り。

 

  1. 啓蒙運動のリベラル・フェミニズム
  2. 文化フェミニズム
  3. フェミニズムマルクス主義
  4. フェミニズムフロイト主義
  5. フェミニズム実存主義
  6. ラディカル・フェミニズム
  7. フェミニストの道徳ヴィジョン

 

 わたしも最近のフェミニズム思想をフォローできているわけではないので印象論になってしまうが、このなかだと「フロイト主義」や「実存主義」は最近では影が薄くなっている気がする。また、「文化フェミニズム」という言葉を耳にする機会もかなり減った。

 そして、「ケアの倫理」を主とする道徳哲学や規範論が最終章に持ってこられていることや、またケア倫理を文化フェミニズムに連なる流れに位置付けているところがこの本の特徴でるだろう。前回に紹介した論文を読むとドノヴァンは自分自身を「文化フェミニスト」と自認しているようなので、類書に比べると文化フェミニズムが強調されたり評価されたりしているような気がする。

 

最後に、私は、この本が、未来のフェミニストの理論の定式化の手助けになってほしいと願っている。この本を書きながら、私が到達した悲しい結論のひとつはフェミニストたちが幾度となく、おなじ車輪を再発明してきたということだ。一九六〇年代後期、七〇年代初期に展開された理論は、当時は私たちの多くに一種の啓示としてやってきたのだったが、それ以前のフェミニストの運動について学ぶにつれ、こうした「ラディカルたち」がいわなければなかったことで真に新しいものはほとんどない、ということがしだいに明白になってきた。その多くが、一世紀以上まえから、くりかえしいわれてきた。フェミニスト理論のこの腐蝕が、ふたたびおこってはならない。

(p.5)

 

「まえがき」のこの部分だけを読むとラディカル・フェミニズムをディスっているように聞こえるが、実際には、「リベラル・フェミニストとして括られる初期(第一波)のフェミニストたちの考え方には後のラディカル・フェミニズムに通じるところがあった」という指摘が、第一章にて幾度かなされている。

 また、とくにウルストンクラフトなどが啓蒙主義的な「理性」に対してかなり強い信頼や情熱を示している、というのは詳しい人にとっては常識の範疇に属することなのだろうけれど、改めて描き出されると(後に文化フェミニストたちが「理性」に反旗を示していくというところとコントラストにもなっていて)印象深かった。本書には登場しないが、新ストア派とも称されるマーサ・ヌスバウムがリベラル・フェミニストの系譜に連なる存在だということも再認識させられた。

 

とはいえ十九世紀のフェミニストの理論には、おなじように重要な他の鉱脈、啓蒙運動のリベラル理論の根底から理性主義的で、法律尊重主義的な推力をこえて進むので、「文化フェミニズム」のラベルのもとに一括されるであろう理念がある。政治的変化を照準するかわりに、こうした理念をもつフェミニストたちは、より広い、文化的変容を希求した。批判的思考と自己開発の重要性はつづけて認めながらも、こうした人びとはまた、理性とは異なるもの、直観的なもの、そしてしばしば、生活の集団的役割の側面を強調した。男と女の類似性を強調するかわりに、こうした人たちは、差異を強調して、究極として女性的資質が、そのひとの強さの誇りの出所であり、公の再生の源泉にもなりうるだろうと断言する。これらのフェミニストは、リベラルな理論家たちが、多かれ少なかれ手つかずのままにのこした制度ーー宗教、結婚、家庭ーーのオルタナティヴを想像した。世紀の変り目までに、このフェミニストの理論の鉱脈は、女たちの諸権利をそれ自体が目的とみる見解をこえてすすみ、それを、結局はより大きな社会改革を効果あらしめる手段と見た。フェミニストの社会改革論は、女たちの道徳的パースペクティヴが、腐敗した(男性の)政治世界の浄化に必要だから、女は公的領域に参入して、投票権をもつべきだし、またもたねばならないと主張した。

この文化フェミニストの理論の根底にあるのは、母権制のヴィジョンだった。根底から女性的関心と価値観によってみちびかれる、強い女たちの社会の理念だった。もっとも重要なことには、これが、平和主義、協同、異なるものの非暴力の共存、公的生活の調和ある規律をふくみこんでいた。十九世紀の後半に、このユートピアンのヴィジョンが、母権制時代の理論、人類学者たちが前歴史時代に存在したと想定した、母親支配の時期の理論に表現された。それが、当時の女たちの文学にフィクションの表現を見出した。いちばんいきいき描かれたのは、シャーロット・パーキンズ・ギルマンの母権制ユートピア『ハーランド』である。

 

(p.55-56)

 

 本書のなかでもとくに感心して、印象に残ったのは、以下のくだり。

 

歴史研究と人類学研究ーーその多くがこの本[ヴァージニア・ウルフの著書『三ギニー』]に引用されているーーが、女たちが、男とはちがって、ほとんど普遍的にその経験のもとに生きてきた、かずかずの決定的な経験構造をあきらかにした*1。なによりもまず第一に、女は政治的抑圧を経験してきている。彼女らは、社会でこれといった政治力をもたず、その生涯を形成した現実をコントロールできずにいた。

第二に、ほとんどあらゆる場所で、ほとんどあらゆる時代に、女は家庭の領域を割りあてられてきた。前産業社会では、公的労働と私的なそれの区分が、産業化された国ぐにほど硬直でないのは確かだが、それにもかかわらず女たちは、記録ある歴史をつうじて一貫して、家庭の領域と家庭の義務ーー育児あるいは母親活動(マザリング)をふくむーーを割りあてられてきた。

第三に、史上、女の経済機能は、使用のための生産であって、交換のための生産ではなかった。使用のための生産は、Ⅲ章で述べたように、売るとか交換するとかではなく、食料、衣服など、直接に家族によって消費される物質の製造を意味するので、それは当然、その抽象的価値ないし交換価値のために評価されるのではなく、それ自体のためにーーその直接物理的な価値のためにーー評価される。

第四に、女たちは、男とは異なる意味深長な肉体的事件を経験する。そのもっとも重要なものが、ほとんど全部の女がいつかは経験している月経と、多くの女が経験する出産、授乳である。最後に、フロイト派が指摘してきたように、核家族での子供の成熟プロセスは、男と女では非常に異なっているようにみえる。

こうした異なる条件のもとでの暮らしの経験が、特定の意識、特定の認識論、特定の倫理、特定の美学の形成にいたらしめた。以下では、私は、主として、そこから派生した女たちの認識論と倫理に焦点をあてようと思う。

女たちの判断が、根本において、偶然のなりゆき、環境の文脈、具体的で日常的な世界の尊重にもとづいていると示唆する証拠は、かなりの量で見出されている。女は男よりも、環境の「声」の多様性と、その現実の有効性をうけいれる、受動的様式を採用する気になっているようにみえる。女は、その文脈をねじまげたり、それに異質の抽象をおしつけたり、知的に、また物理的に、それを屈服させる用具をつかったりする気が、男よりも少ないようにみえる。このような認識論が、非帝国主義的な倫理、生命肯定的な倫理、生活の具体的細部を尊重する倫理の基礎を供給する。このような倫理が、イギリスの哲学者で小説家、アイリス・マードックによって発言されてきたが、それはのちほど、この章で紹介するつもりである。

以上に概略した経験構造を考えると、女たちが、どのようにして環境知覚的な、もしくは全体論的なヴィジョンを発展させてきたかを想定するのは困難ではない。無力さという第一の条件は、必然的に、女たちが生き残るためにその周囲に気を配っていなければならなかったことを意味する。というのは、その環境がーーそれが父権制的である限りーーたえず女たちを侵害しつづけてきたからである。前に引用した論考で、メレディス・タックスが指摘したように、「女は、その周囲に対して超感度をもっている。女は、そうでなくてはいけないのだ。スイッチをいれないで街の通りを歩いてごらん。あなたはほんとに危険だから」。

家庭の領域では、女は自分自身の別個の空間を切りとり、別個の文化的伝統をたもつことができたけれども、にもかかわらずそこでさえ彼女たちは、たえずその主人の指図のままになっていた。女の計画に基本的な「中断可能性」がまた、環境の影響力に個人として傷つきやすい女の感覚に貢献し、その世界をコントロールするというより、チャンスに、状況に縛られているという感覚をやしなってきた。その結果の意識が、柔軟性、相対性、偶然性の意識であるにちがいない。

おなじように、毎月の月経の経験と、比較的効果のあるバース・コントロールが実現する最近まで、女は妊娠のリスクなしには男と性交できなかった事実が、ひとの計画を侵害する肉体の現実に縛られているという感情に寄与してきたにちがいない。女は、この身体の文脈を無視できなかった。それは”そこに”あった。それは彼女の生活の一部だった。

 

(p.265 - 267)

 

 上記の引用はやや本質主義的ではあるし、たとえばわたしが疑わしいと思っている精神分析の観点が入っている一方でわたしが(ある程度までは)妥当だと思っている進化心理学的な観点がないように、評価する人ごとに受け入れられない要素や前提などが存在するだろう。まあ全体的に古びているとは思う。

 ……とはいえ、自分の生きる環境を支配されるという経験や「無力さ」が女性ならではの柔軟な細やかな認識論や倫理を生み出した、という考え方は、わたしにもかなり同意できるところだ。「無力な人のほうがそうでない人よりも正確な認識ができたり真実に達したりできるんだ」というところまでいってしまうと『「社会正義」はいつも正しい』で批判されていたような応用ポストモダニズムになってしまうので節度は必要だが、ネガティブな経験をすることや傷つきやすい状況に生きることでそうでない人たちにはできない発想や感性を獲得する、というのはふつうにあり得ることだろう。