道徳的動物日記

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【翻訳希望!】『資本主義の倫理学』

 

 

 

 さきほどの記事で書いたように、この4月は引越しに伴う作業と会社の仕事とでなかなか読書・執筆の時間が取れなかった。……とはいえ、そんななかで日々の楽しみを提供してくれたのが、The Ethics of Capitalism : An Introduction (『資本主義の倫理学:入門』)。

 出勤前や会社の仕事が終わった後などに時間を見て1章ずつ読んでおり、まだ11章と12章も読んでいないのだけれど、どの章も議論の内容が実に明晰に整理されていて、読むたびに思考や気持ちがスッと落ち着いていった。常々思うのだが、良質な哲学書や入門書・解説書って鎮静効果があると思う。

 

 各章のトピックは以下の通り。

 

  1. 本書の概要
  2. 古典的な思想家たち(アダム・スミスジョン・スチュアート・ミル)による資本主義の擁護論
  3. 封建主義の問題点と、現代の社会にも封建主義の要素が残る理由
  4. 市場の自生的秩序と市場の失敗
  5. 社会主義(とその問題点)
  6. 低賃金と劣悪な仕事(労働疎外)
  7. 福祉国家とその代替となる候補(ベーシックインカムや財産所有制民主主義、メリトクラシー
  8. グローバルな貿易(比較優位の説明や貿易に対する批判論の間違いの説明)
  9. 地位財(教育競争の過激化など)
  10. 労働の自動化や機械化、労働時間の短縮や余暇の分配(がなぜ起こらないか)
  11. 市場は環境を破壊するか?
  12. お金で買えないものが存在するべきか?

 

 倫理学(Ethics)と銘打たれてはいるが、本書の議論はどちらかというと政治哲学や公共哲学に近い。資本主義という制度そのものは規範的に正当化できるかどうか、市場や経済に伴う様々な問題についてどのような道徳的な懸念が出されていてその懸念についてどのように考えるべきか、富や余暇や尊厳に関する(分配的な)正義とはなにか、道徳的な懸念や正義を実行に移そうとした場合に生じる経験的な問題点はなにか……といったことがいろいろと論じられている。

 本書の著者たちは、自分たちの議論を「政治経済学」と表現している。スミスやミルなど初期の経済学者たちが使っていた呼称であるが、20世紀になって学問の専門化や分業化が進行する以前、倫理学的・政治学的な規範的議論や政策に関する具体的な議論(「社会哲学」)を含んでいた頃の経済学者たちの展望や問題意識を現代に復活させる、という意味合いが込められている。著者らはオーストラリアの大学で働いており、「アメリカやイギリスのようにアカデミアの規模が大きい国では、哲学者と経済学者との関係が断絶し過ぎていて、本書のような本を書くのは無理だっただろう」ともコメントしている。

 また、本書で追及されるのは「経済的正義(Economic Justice)」である。「経済に関する現在の制度をどのように修正すれば正義に適ったものにできるか」という問題に関する議論であり、基本的には他の正義論と同じように理想理論である一方で、実現不可能な提案は退けて修正の方法を具体的に考えるという点では非理想理論な要素もある。そして、とくにこの「悲理想理論」の部分では経済学の発想や知見をしっかり参照しているという点が、本書を際立たせている。

 ……というのも、非・経済学者が経済や資本主義に関する規範的な議論を行なった場合には、「経済学の発想」そのものが問題の原因だと決め付けて経済学を参照せず、その結果として問題の分析が的外れになり問題に対する処方箋も見当違いで実現不可能になる、という事態に陥ることが多々あるからだ(これはデビッド・グレーバーのようなラディカルで非哲学的な議論を行なっている人だけでなく、マイケル・サンデルのようにオーソドックスな政治哲学の議論を行なっている人にも発生している事態だ。フェミニズム経済学とかのオルタナティブ系の経済学や、一部のポピュリスト的な経済学者の議論にも存在する問題である)。

 また、本書の議論は基本的には分析哲学的なものであり、思想家の権威やレトリックに頼らない、論理に基づいた議論がなされている。比較優位といった複雑な概念や労働価値説といった直感的には正しそうな考え方の間違いなどについても数式などを使わずに文章だけでわかりやすく説明されているのだが、ここら辺の経済学的思考と哲学的議論の相性の良さはジョセフ・ヒースの『資本主義が嫌いな人のための経済学』を思い出させるところだ。その『資本主義が嫌いな人のための経済学』も、賃金に関して「社会の認識」を云々する発想の間違いや二国間の貿易を「競争」と捉えることの間違い、「公正価格」という発想の誤謬を解説するくだりなど、本書でもたびたび参照されている*1。経済的正義に関する議論ではヒースもしっかり参照されているのだ。……その一方で、ヒースの著作は文体の問題から(論理的ではあるが)議論を追うのが難しかったり主張を把握するのが難しかったりするのに対して、本書はどんなトピックについても実に平易でstraightforwardな説明がなされているのがありがたい。

 

 本書が分析哲学的な議論をベースにして書かれていることは、ほかにもいくつかの長所をもたらしている。

 英語圏の哲学の議論に馴染みのある方ならわかるだろうが、分析哲学においてはおよそどんな理論や概念についても「ああでもない」「こうでもない」と(重箱の隅を付いたようなものや屁理屈的なものも含めて)異論や反論があらわれるものであり、なんらかの理論や概念が批判無しで受け入れられるということはほとんどない。この構図が、本書では「搾取」や「福祉国家」といった、社会問題について考えるときにはお馴染みの概念にも当てはめられる。そのため、「こんな仕事をさせられることは搾取に決まっているでしょ」とつい感じてしまうことでも「搾取」という概念を厳密に考えていくとそうとは言えないかもしれないことや、福祉国家は必ずしも絶対的に正しいものとは限らずベーシックインカム制やメリトクラシーにも福祉国家と同じだけの理論的根拠があるかもしれない、という点に気付かされることになるのだ。

 また、本書の著者らは哲学者であるために、経済学者たちなどに比べて「議論の質」といったポイントにこだわっている。たとえば、「社会主義と資本主義のどちらがいいか?」という議論は、「理想の社会主義と現実の資本主義」または「現実の社会主義と理想の資本主義」を比較したうえで理想が参照されている側に軍配を上げる、というアンフェアで低質な議論になっていることが多い、と言うことが本書のなかで度々指摘されている。そして、資本主義や社会主義を否定するにせよ肯定するにせよ、規範的なレベルでの議論であるか経験的なレベルでの議論であるかをはっきりさせたうえで、それぞれのレベルに応じた論証を行う……という姿勢が本書では貫かれている。

 冒頭で「右派/左派という発想は経済的正義について考える際にはノイズだから持ち込まないようにしなさい」と忠告されているなど、学生向けに書かれた入門書なだけあって、特定のイデオロギーや考え方を植え付けるのではなく読者を考えさせたり賢くさせようとしたりすることを目的として書かれているのが伝わってくるのがよい。

 なお、全体的には様々な主義や思想をフラットに紹介するバランスの取れた議論を行なっているなかで、第8章では、重商主義的な発想に基づいて貿易やグローバリズムを批判する現代のポピュリストについてかなり批判的に論じているのも印象深かったところだ。日本でも「経世済民」を掲げながらポピュリズム的な経済論を提唱するタイプの学者や論客は多々いるが、経済的正義に関して問題意識を抱いていると言う点では過去の政治経済学者たちや本書の著者らに近いとしても、論理よりやエビデンスよりも直感とレトリックを重視して情念に阿る議論をしているという点では正反対かもしれない。

 

 分析哲学的な内容でありながらも、思想史や思想家紹介的な要素もしっかり取り入れられている点も、本書の長所だ。

 とくにアダム・スミスジョン・スチュアート・ミルカール・マルクスの3人が経済的正義の議論に関する様々な発想や考え方を提唱したり問題やトピックを指摘・発見したりした創始者的な存在としてフィーチャーされている。言うまでもなくスミスは資本主義を肯定する文脈で(必ずしもそれだけではないが)、マルクスは資本主義を否定する文脈で登場するのだが、この2人にミルが並んでいるところが、わたしとしてはとくに興味深かった。『自由論』は読んでいても『経済学原理』は読んだことがなかったが、本書で何度も取り上げられる彼の政治経済学はなかなか含蓄に富んでおり、ミルに対する興味がますます湧いた(また、教育競争に関するくだりで『ミル自伝』が引用されているあたりなども印象的だ)。

 上記の3人のほかにも、政治学者としてはジョン・ロールズがかなりフィーチャーされている(いままでピンときていなかった「財産所有制民主主義」の概要や背景にある問題意識についても本書のおかげで理解が深まった)し、エリザベス・アンダーソンやジョナサン・ウルフもたびたび登場する。ハイエクケインズはもちろんのことマルサスリカードといった古典的な経済学者たちも登場する一方で、ロバート・ライシュやトマ・ピケティやタイラー・コーエンやロバート・フランクといった現役の経済学者たち、さらにはスティーブン・ピンカーまで登場するので、経済学か哲学のどちらか一方にしか興味がない人にとってもお馴染みの人物に出会えるはずであり、そういう点でも入門がしやすい本だと言えるだろう。

 

 ……まとまりのない紹介になってしまったが、とにかく良書だと思うので、ぜひ日本語にも翻訳されてより多くの読者に読まれてほしいと思う。

 あとさっきの記事にも書いたけれど次は。Very Short Introductionのジョン・スチュアート・ミルを読んで紹介したいのでどなたかよければ買ってください。

 

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近況報告(鼎談の掲載&学会での発表)

 

■4月30日(日)発売の『フィルカル』(Vol.8 No.1)に倫理学者の長門裕介さんと文学研究者の冨塚亮平さんとの鼎談「『21世紀の道徳』と社会/フィクション批評の現在」が掲載されます。

 著書ではこのブログで論じたようなことを拡大したり深化させたりしたけれど、もうひとつのブログ「THE ★映画日記」のほうで書いてきたような映画論や映画批評が活字になる機会をいただいてありがたいです。

 また、選書企画「フィルカル・リーディングズ」では『「社会正義」はいつも正しい』『自殺の思想史』『アゲインスト・デモクラシー』の3冊を選書してコメントしています。『フィルカル』は分析哲学者とそのファンが読む雑誌(?)なので、そのことを意識したコメントと選書にしました。

 

 

■5月21日(日)に早稲田大学戸山キャンパスで開催される日本哲学会の第82回大会の公開ワークショップ「動物倫理とフェミニズムジェンダー問題」で発表を行います。このテーマは10年前に修士論文で扱った内容だけれど、10年越しに発表の機会をいただけてありがたい。また、学会で発表すること自体が初めてなので(修士のときも経験しなかった)、戦々恐々という感じです。

 

philosophy-japan.org

 

■年末年始の病気が発覚&進行したり、確定申告したり、新宿区から北区に引っ越しをしたり、正社員に復帰したり…と、年明けから読書や執筆のペースが落ちています。とくこの4月は引っ越し関係と会社の仕事が忙し過ぎてこの後の記事で紹介する Ethics of Capitalismを読む以外はなにもできなかった。二作目の単著の完成もだいぶ遠のいてしまっています。……とりあえず、5月は学会発表のために『もうひとつの声』や『ケアの倫理と共感』を読んで、あとは倫理学の概論や入門書を読み直していきたい。GWもあるから多少は読めるかなあ。

 なかなか本が読めない状況でお願いするのもアレだけど、単著のためにリベラリズム関係の本も引き続き募集します。とくにJohn Stuart Mill: A Very Short Introduction が気になっていて日本語の本なら『まっとうな政治を求めて──「リベラルな」という形容詞』や『リベラリズムへの不満』がいいなあ。

 

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「気概」とリベラルな民主主義(読書メモ:『歴史の終わり』)

 

 

 

 

 フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』は数年前にも読んで感想を書いているが、『IDENTITY  尊厳の欲求と憤りの政治』を読んだときにそこで紹介されていた「対等願望」や「優越願望」に関する議論が興味深く感じられたので、昨年の夏に改めて読み返した*1

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

……とはいえ、1992年に書かれた当時の時事ネタが数多く含まれているために冗長であったり無駄であったりするところも多く、上下巻の本を保存しておく必要もないと考えて、引っ越しを契機に処分する前にキモとなる議論をここに要約しておく……というよりも、写経的に書き写しておく。まあいまさら『歴史の終わり』を手に取ろうとする人もほとんどいないと思うので問題ないでしょう。もしこの記事で興味を持てたら買うなり借りるなりしてちゃんと読むように。

 

 この本は全5部からなるが、哲学者たちの議論に基づきながら人間の「欲求」や「あ願望」と歴史の発展を結び付かせる議論をしているのは、第3部の「歴史を前進させるエネルギー:「認知」を求める闘争と「優越願望」」と第5部の「「歴史の終わり」の後の新しい歴史の始まり」にて。

 フクヤマはフリードリヒ・ヘーゲルの議論を参照しながら、人間が持つ「認知」に対する欲求(=承認欲求)と「優越願望」が歴史上のさまざまな政治的な出来事の動因になっている、と説く。

 

真に自由な意志が存在していようといまいと、事実上あらゆる人間はあたかもそれが存在しているかのごとくに振る舞い、自分は純粋に道徳的な選択ができるという確信にもとづいて互いを評価する。人間活動の多くが自然な欲求の充足に向けられている反面、はるかに移ろいやすい目標の追求に膨大な時間が費やされている。人々は物質的な慰めだけでなく敬意や認知をも求め、同時に、自分は多少なりとも価値や尊厳を持ち合わせているから他人に敬われて当然だと信じている。認知を求める人間の欲望や、もっとも強力な自然の本能にさえ逆らうほどはっきりした自発性を無視してしまうような心理学や政治学に頼っていたのでは、人間の行動についてのきわめて重要なポイントを見誤ってしまうだろう。

[……中略……]

とはいえこの認知を求める闘争は、正真正銘の人間的行為の発端ではあるが、人間的な行為そのものからはほど遠い。ヘーゲルのいう「最初の人間」たちのあいだで繰り広げられる血なまぐさい戦いは、彼の弁証法の起点にすぎず、そこから現代のリベラルな民主主義にいたるには、はるかな道のりが残されている。

人類史の問題は、ある意味では、相互的かつ平等な土俵の上で認められたいという主君と奴隷双方の欲望を満たす方法の探究と見なすことができる。そして歴史は、この目的を達成する社会秩序の勝利とともに幕を閉じるのである。

 

(上巻、p.252- 253)

 

この認知への欲望を、政治的共同体全体に貢献するような形で緩和・抑圧することが政治の中心的課題だと見なしている政治哲学者は実に多いが、それも驚くにはあたらない。そして実際、認知への欲望を手なずけようとするもくろみは、近代政治哲学の手によって大きな成功を収めてきたため、平等な民主国家の市民たちは、この認知への欲望がそもそもなんのためにあるのかさえ見落としがちである。

 

(上巻、p.270)

 

[プラトンが論じるところの]「気概」は、人間が生まれながらにもっている正義感のようなものだ。人々は、自分がなにかしかの価値をもっていると確信しており、他人がそれを否定するようなーー自分の価値を正しく「認知」しないようなーー振る舞いをすると腹を立てるのである。英語で怒りと同義語である indignation(憤り)という言葉を見ても、自己評価と怒りとの密接な関係がわかる。「尊厳(dignity)」は、人間の自分に対する価値観とかかわっていて、何かの拍子にその価値観が侵害されると「憤り」が生まれるのだ。

それとは逆に、自分が自分の自尊心にしたがって行動してはいないことを他人に悟られたとき、われわれは「羞恥心」を感じる。そして、自分が正当に(つまり自分の真価にふさわしく)評価されたときには「誇り」を感じるのである。

[……中略……]

「気概」という言葉が対象物を価値あるものにする魂の部分を示すのに対し、「認知への欲望」は「気概」の働きの一つであり、他人の意識に対して自分と同じ評価をしてくれることを求めるものだという点で、この両者には多少の違いがある。認知を要求しなくとも、自分のなかで「気概」に満ちた誇りを感じることは可能である。だが、尊厳とはリンゴやポルシェのような「モノ」ではない。それは意識のあり方であって、自分自身の価値観について本質的な確信をもつためには、その価値観を他人の意識によって認めてもらわなければならない。だから「気概」は必ずではないにせよ、一般的にいって、他者からの認知を求めるようにと人々を駆り立てていくのである。

 

(上巻、p.274 -275)

 

 ここでフクヤマヴァーツラフ・ハヴェルの『力なき者たちの力』から青果店のエピソードを引用したのちに、共産主義社会は人々の「気概」を徹底的に抑え込んで人々を道徳的な堕落を許容する服従的で卑屈な存在にしてしまう、と論じている。

 

さらに、人間が自分の「徳性」の枠からはみ出さずに、自分の価値を評価できるという保証もない。ハベルの考えでは、すべての人間には善悪の判断力と「正義」の萌芽が見られるという。しかし、この一般論を受け入れたにしても、他の人間よりそういう心の発達が遅れている人のいることは認めざるを得ないだろう。ある種の人間にとっては、道徳などないに等しいといっておく必要もあるだろう。人は、自分の道徳的価値のためばかりでなく、富や権力や肉体美のために他者から認められたがる場合もあるのだ。

さらに重要なのは、すべての人間が自分を他人と対等なものとして評価するはずだ、などと考える根拠がどこにもないことだ。むしろ人は、自分が他人より優越していることを認めさせようとしがちだし、それはほんとうの精神的価値にもとづいている場合もあるが、多くは思い上がった自己評価から生まれてくる。このように、自分の優越性を認めさせようとする欲望を、私は古典ギリシア語から語源を借りて「優越願望」(megalothymia, メガロサミア)と新たに命名したい。自分の権威を認めさせるために隣国を侵略し人民を隷属させる暴君にも、ベートーベン解釈にかけては当世の第一人者を自認するコンサートピアニストにも、この「優越願望」が見てとれる。一方、「対等願望」(isothymia, アイソサミア)はその反意語であり、他人と対等なものとして認められたいという欲望を意味する。「優越願望」と「対等願望」は、認知への欲望の二つのあらわれであり、近代への歴史の意向もこの両者とのからみで理解することができる。

 

(下巻、p.31 - 32)

 

 共産主義に限らず、ホッブズやロックなどによる近代哲学は「気概」や「認知への欲望」をできるだけコントロールしたり無力にしたりすることを目指すものであった(これらの哲学者に逆らって「気概」の価値を擁護したのがニーチェである)。とくに「優越願望」は現代ではすっかり悪いものとされてしまったが、その一方で「対等願望」は過去よりもさらに浸透した。現代人がよくつかう「尊厳」とか「自負」といった言葉も「対等願望」の言い換えである。

 

リベラルな民主主義社会を選び取った場合に問題となるのは、それがわれわれに自由に金儲けをさせ、魂のなかの欲望の部分を満たしてくれるという点だけではない。さらに重要で、最終的にいっそうの満足を与えてくれることは、この社会がわれわれの尊厳を認めてくれるという点なのだ。リベラルな民主主義社会はすばらしい物質的な繁栄をもたらす可能性を秘めているが、それはまた各人の自由を認め合うという、まったく精神的な目標実現にいたる道をも指し示してくれる。リベラルな民主主義国家では、われわれが自分自身の価値をどうとらえているかという観点から人間が評価される。このようにして、われわれの魂のなかの欲望の部分と「気概」の部分は、ともに満足を見出すのである。

 

(下巻、p.57 - 58)

 

[人種や民族に基づくナショナリズム国家とは]反対にリベラルな国家は理にかなった存在だ。なぜならこのような国家では、相互に受け入れが可能な唯一の根拠、つまり人を人して見なすという原則をふまえつつ、認知への欲望同士のぶつかりあいを和解させていくからだ。リベラルな国家は普遍的なものでなくてはならない。つまり、あらゆる市民を、彼らが特定の国家的、民族的あるいは人種的集団に属しているという理由からではなく、彼らがまさに人間であるという理由によって認めていかねばならない。同時にその国家は、主君と奴隷の区別の廃止を基礎に、階級のない社会を築いていけるくらい均質的なものでなくてはならない。

[……中略……」

リベラルな国家は、理性的な自己認識の一つのあらわれである。なぜなら、このような国においてはじめて人間は、共同体としてのみずからの本質を悟り、その本質と合致する政治共同体を作り上げていけるようになるからである。

 

(下巻、p.59 - 60)

 

…われわれがいま歴史の終着点に立っているというコジェーブの主張が正しいかどうかは、ひとえに、現代のリベラルな民主主義国家が人間の認知への欲望をどの程度満足させているかにかかっている。近代のリベラルな民主主義は主君の道徳と奴隷の道徳とをうまく統合し、両者の要素を多少は残しながらもその区別を消し去ってしまった、とコジェーブは考えていた。しかしほんとうにそうなのだろうか? とくに、近代の政治制度は主君の「優越願望」を政治にとって無害なものに変え、その矛先をそらすことに成功したのだろうか?じきにもっと多くを求めるようになりはしないだろうか?そして、「優越願望」が近代政治によってそんなにも徹底的に骨抜きにされ、方向転換させられたのだとすれば、ニーチェが認めた「優越願望」をわれわれは賞賛に値するものとしてではなく比類なき災害と見なすべきなのだろうか?

 

(下巻、67 - 68)

 

 この疑問に対する答えは最終章にて書かれている。

 

プラトンは「気概」を美徳の土台だとしながらも、「気概」そのものは善でも悪でもなく、それを公共の善に奉仕させるためには訓練が必要だと論じた。換言すれば、「気概」は理性によって支配されるべきであり、欲望の同盟者となるべきだというのである。公正な都市では、魂の三つの部分がことごとく満たされ、理性の導きのもとで均衡を保っている。

[……中略……]

このようなものさしにもとづいて、歴史上のさまざまな政体のうちで現代も通用するものを比較すると、リベラルな民主主義が魂の三つの部分すべてにいちばん幅広い余地を提供しているように思われる。たとえリベラルな民主主義が理論上はもっとも公正な政体にあてはまらなくても、現実上はその資格がある。というのも、ヘーゲルがわれわれに教えてくれたように、近代の自由主義は認知への欲望を捨て去ったところに立脚しているのではなく、むしろその欲望がより合理的な形態へと変化したところに成り立っているからだ。

仮に「気概」が、それ以前にあらわれた形で完全に保存されてはいないとしても、それで「気概」が完全に否定されるわけではない。さらにいえば、「対等願望」だけを土台にした自由主義社会などは存在しない。自由主義社会はすべて、たとえおおっぴらに信じている原理とは相反することであっても、安全で飼い慣らされた「優越願望」をある程度までは容認せざるを得ないのである。

歴史的なプロセスが合理的な欲望および合理的な認知という二本の柱に支えられていること、そして現代のリベラルな民主主義がこの二本の柱のある種のバランスを保つのに最適な政治システムだということが正しいとすれば、民主主義に対する最大の脅威とは、ほんとうの意味で存続の危機にさらされているものは何かという点についてわれわれ自身の頭のなかが混乱していることにあるのだ。というのも、現代社会が民主主義に向けて進化してきた一方で、現代思想は袋小路に突きあたり、人間とその独自の尊厳を形作っているものは何かについて合意に達することも、ひいては人間の諸権利を定義することも不可能になってしまったからだ。

このことは一方で、平等な権利を認めさせたいという極度に肥大化した欲求にはけ口を与え、他方で「優越願望」の再解放へ道を開いていく。歴史が合理的な欲望と合理的な認知によって一貫した方向へ動かされているという事実にもかかわらず、そしてリベラルな民主主義が実際には人間のかかえる問題の最善の解決策であるにもかかわらず、このような思考の混乱は起こり得るものなのだ。

 

(下巻、p.260 - 261)

 

 なお、リベラルな民主主義でも「気概」や「優越願望」が発揮される道筋とは、起業や発明に代表されるような資本主義的な活動のこと。これは社会を豊かにもするのでウィン-ウィンだ。

 

 さて、周知の通り、フクヤマは本書でリベラルな民主主義が「歴史の必然」かつ「歴史のゴール」であると主張しているかのような議論をしているので、アメリカ国内でも海外でも色々と批判されることになったし、世界のどこかで民主主義やリベラリズムに対する反動や揺り戻し(クーデーターとか革命とかによって民主主的が潰されて非民主的な政権が樹立したり、民主主義の枠内でポピュリズムが巻き起こったりするなど)が起こるたびに引き合いに出されては「やっぱりフクヤマは間違っていたんだ」と冷笑や揶揄を受けることになった。諸々の本や教科書、学校の授業などでも『歴史の終わり』は徒花や反面教師としてしか紹介されないだろう。

 しかし、改めて『歴史の終わり』を読んでいると、やはりそんなにヘンなことを言っているようには思えない。また、フクヤマはこの後に『政治の起源』『政治の衰退』などの大著を含む様々な本を出版しているが、いずれの著作でも一貫してリベラルな民主主義を支持しているようだ。

 最終章の議論などは、もっとも穏当に解釈すれば「「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外のすべての政治体制を除けばだが」というクリシェと同じようなことを言っているように思える。リベラルな民主主義はユートピアというわけではなく、「認知への欲望」「対等願望」や「気概」「優越願望」が引き起こす問題を完全にコントロールしたり予防したりできるわけでもないが、それらのバランス取りは他の政治体制に比べるとずっとうまくできている、ということだ。

 ……そして、「肥大化した欲求」がゆえに自ら民主主義を捨てた先には失望しか待ち受けていなかったり、「思考の混乱」がゆえにリベラリズムではなく実現不可能なユートピア思想に惹かれしまったりする、という事象は『歴史の終わり』が書かれた1990年代当時にも現代にも起こっていそうなことである。

 

 もちろん、本書の骨子となっているヘーゲルやアレクサンドル・コジェーヴの思想はいかにも胡散臭いし、あまり真に受ける義理もないと思う。フクヤマ自身もそのことを理解していたからこそもうすこし『政治の起源』『政治の衰退』では人類学や進化論や諸々の社会科学の知見を取り入れて現代的なアップデートを図ったのであろう。

 書いていてなんとなく思ったが、現実の政治体制や政治運動はともかく、政治哲学はほんとうにリベラル・デモクラシーを正当化した時点でほぼ「ゴール」であったかもしれない。しかし、政治哲学者や政治思想家は(政治哲学の)歴史が終わった後にも登場し続けるので、これまでの哲学者たちと差別化を図るために、無理くりにでもリベラリズムを否定したり民主主義に代わる制度を提唱したりするしかない。つまり、「思考の混乱」は哲学者たち自身が(自分の存在意義を証明するために)ある意味では意図的に引き起こしているということだ。……先日に動物倫理の本を読んだときにも動物倫理内部での差別化を図る議論が虚しくなって同じようなコメントを書いたが、最近のわたしは半ば本気でこういうことを考えるようになっている。

*1:最新刊の『リベラリズムへの不満』もマイケル・ウォルツァーの『まっとうな政治を求めて──「リベラルな」という形容詞』とセットで読みたいところだ。

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「普遍的な道徳」は存在するか?(読書メモ:『道徳性の発達と道徳教育』)

 

 

「ケアの倫理」を最初に提唱したキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』の批判対象として有名な……というか、哲学・倫理学界隈では「ギリガンに批判された人」というイメージしか抱かれていないおそれもある、教育心理学者兼哲学者のローレンス・コールバーグさんの本。

 この本には1980年代にコールバーグが廣池学園モラロジー研究所の関連機関)で行なった講演と、1971年に彼が執筆した代表的な論文(「道徳教育の基盤としての道徳性の発達段階」)などが収められている。講演に関してはモラロジー研究所廣池千九郎へのヨイショ的な文言も差し挟まっていて、割り引いて読まなければいけない感じがある。また、別々の機械になされた複数の講演と論文とが収められているため、一冊の本のなかで同じ話題やトピックが何度も繰り返されたりするなど、読んでいるうちに飽きが来るのが早く、読みものとしておもしろい本ではない*1

 書かれている内容自体もたいへん堅苦しいが、コールバーグの真面目さは伝わってくる。とくに、なぜコールバーグが単なる教育学や心理学ではなく道徳哲学に基づいた「普遍的道徳」を探究する議論を行なっているかという動機が冒頭の講演で明確に示されており、後の章を読む補助線にもなっているところがいい。

 

…一九四五年の秋、私は合衆国商船隊員としてヨーロッパに到着しました。

私が衝撃を受けたのは、戦争による建物と生活の破滅ばかりでなく、ナチによるユダヤ人やジプシーや他の非アーリヤ人の大虐殺を生き延びた人たちの苦境でした。これは、破壊と恐怖であったばかりでなく、私には世界がかつて知らなかったほどの不正と思えました。もし船が私を広島や長崎に連れてきていましたら、原爆投下というアメリカの恐るべき不道徳を知って、おそらく私の道徳研究は多少違った方向に向かっていたかもしれません。

ともあれ、私はアメリカの商船隊員としての任期を早々に終えました。そしてユダヤ人難民を満載した船を、非合法ながらイギリスの封鎖をくぐり抜け、当時イギリスの統治下にあったパレスチナに上陸させるため無報酬の技師として志願しました。大虐殺を生き延びたものの、帰るべき故国もなく、追放難民キャンプに移されたユダヤ人たちにとってきわめて不当と感じられたイギリスの法律を破ることについては、私はなんら道徳的葛藤を覚えませんでした。ですから、私たちの小さな船に乗った二千人の難民を見るとうれしくなりました。その船とは、後にイスラエルの陸海軍となったユダヤ自衛隊ハガナが購入したアメリカ海軍の古い砕氷船パドゥーカ号でした。

[……中略……]

戦争が終わると、私は学部の学生としてシカゴ大学に入りました。それまでは、大学に入りたいとは思っていませんでした。しかし、私は道徳の問題、つまり正義の問題に取り組んでいる自分に気づいたのです。人を殺したり暴力を用いることは政治目的として正しく、公正だったのだろうか。幼い子どもたちが死に、大人たちは強制連行所へ連行されましたが、ハガナの目的は政治的なものでした。すなわち、イギリス軍にパレスチナを出ていくよう国際的な圧力をかけることが目的だったのです。

正しいと思う目的のために暴力的手段を用いることが許されるのは、どのような場合なのか。あの場合、普遍的道徳などというものはありえたのだろうか。それとも、すべての道徳的選択は、文化や国によって異なり、相対的なものだったのだろうか。後に私が研究対象とするようになった多くの学部学生と同じように、当時の私は相対主義の混乱した状態にありました。

 

(p.7-9)

 

 コールバーグによる「道徳性の発達段階」理論では子どもの道徳性の発達は六つの段階/3つのレベルに分けられている。第一段階と第二段階が「慣習以前のレベル」、第三段階と第四段階が「慣習的レベル」、そして第五段階と第六段階が「慣習以後の自律的、原理的レベル」である。

「慣習的レベル」の後半である第四段階は「「法と秩序」志向」とされており、正しいこととは「既存の社会秩序を秩序そのものために維持すること」であると考える思考……ひらたく言えば権威主義だ。この権威主義の段階から一歩先に出てより「高次」な思考をすること、つまり自分自身の利益や都合のことはもちろん既存の権威をも相対化しながらもほんとうの意味での道徳や正義とはどのようなものであるかを考えられるようになることこそが、文化や時代を問わずに普遍的に「優れた道徳的思考」の特徴とされるものであり、すべての人がこの段階に辿り着けるというわけではないが充分な知的能力があり真剣に思考をした人は(どの国や時代の人であっても)第五段階や第六段階に辿り着ける……とコールバーグは論じている。

 

 本書を読んでいて伝わってきたのは、コールバーグがとくに批判したいのは「権威主義」と「相対主義」である、ということ。

 後者については、レベル3の人は「法と秩序の目的は、正義の擁護にあることを知っています」(p.82)と論じながら市民的不服従を支持しているあたりに、顕著に表れている。コールバーグ自身の人生経験とともに、時代的な部分も影響を与えているのだろう*2

 また、子どもを教育する方法というより具体的な問題に関して、コールバーグは「…知的発達の見地からすれば、非常に無駄に見える集団、賞賛、力が、子どもの道徳性発達の必要条件であると主張する」(p.63)エミール・デュルケームの理論を強く批判している。

 デュルケームの発想は「校則そのものの正当性や論理性などに関係なく、なんらかの校則によって子どもを律すること自体が子どもの成長に貢献する」といったタイプの機能主義に基づくものであり、「道徳」とは集団への適応や集団の秩序維持に関するものである、という集団主義も含まれているようだ*3。そして、教育現場における権威主義集団主義の根っこには相対主義が存在している、とも指摘されている。

 ついでに書いておくと、後にコールバーグの普遍主義に対抗して「道徳基盤理論」を提唱して異文化間での道徳の(ゆるやかな)相対主義を主張したジョナサン・ハイトは、自身の議論のなかでデュルケームを持ち出している*4

 

 以下は1971年に書かれた論文からの引用だが、現代のポストモダン思想やそれに基づく教育論に対する批判としても成立しそうなところだ。

 

公立学校で毎日行われている隠れたカリキュラムのデュルケーム式の哲学的、心理学的展開は反発を招くようですが、道徳的価値の文化的、歴史的相対性という大多数の社会科学者に共通する中心的前提に立つかぎり、これこそ計画的な道徳教育に対する、論理的に首尾一貫した唯一の理論的根拠であるということを論じることにしましょう。そこで道徳教育に関する別のアプローチを考察する前に、価値相対性の問題を考えてみなければなりません。

子どもの発達と教育における道徳的価値について論じている現代の多くの心理学者や社会学者は、普遍的で、非恣意的な道徳原理など存在せず、各個人は自分自身の価値を自分の外にある文化から獲得するという前提に立っています。[……中略……]こうして、発達は子どもの外にある文化的諸規範の直接的な内面化と定義されます。成長する子どもは、社会の規則や価値に従って行動するようにしつけられるのです。

相対性の前提から出てくる第一の教育的立場は、デュルケームの集団的規律による道徳的教化の主張です。この立場によれば、すべての価値は相対的であるけれども、子どもは、自分自身の適応と社会の存続のために、属する社会の支配的な価値を受け入れることを教わらなければなりません。そしてこの過程において、学校は必要な役割を演ずるのです。

アメリカにおいて価値相対性の前提から出てくる第二の立場は、公立学校が、子どもにアメリカ社会の道徳的価値を教えれば必ず少数集団の権利を侵すことになり、したがって、価値の教育は、特定の価値体系を教える学校を公的に援助し、そしてカトリックの教区学校や黒人民族主義的な価値を教える学校などのどれに子どもをやるかは、親の自由に任せるべきだとする立場です。

相対性の前提から出てくる第三の立場(「私は、子どもを善くする代わりに悪くしてしまう張本人は道徳教育であると信じている」と主張するA・S・]ニイルの立場)は、道徳的価値は恣意的、非合理的なものだから、学校で教えたり強制したりすべきものではないという立場です。

実際には、倫理の相対性を信じている現場の教師の多くは、直面する状況に応じて、上の三つの立場を往き来しています。彼らは子どもに伝えるべき普遍的な倫理的原理の性質について確信を持っていませんし、そうかといって完全に倫理的中立を保つこともできません。その結果、慣例的となっているのは、普遍的で重要な事柄よりも、取るに足らない身近な事柄に焦点を当てて道徳的教示を行うことです。それは、このようなやり方によれば、哲学的ないし倫理的正当化で頭を痛めることが少ないからです。

 

(p.68 - 70)

 

 確たる信念もなしに「三つの立場(権威主義、善の多元性に関するリベラリズム、価値相対主義)を往き来する」というのは、1970年代のアメリカの学校教師に限らず、現代の日本人の多くにも当てはまりそうだ。

 

 本書の別の箇所でも、表面的には賢しらに聞こえる相対主義が実は思考の未熟さや未発達を表している、という議論がなされている。

 

…わたしが相対主義的立場という場合、それは次に示すボブのような立場を意味しています。ボブは、「この問題[ハインツのジレンマ]の考え方は百万とあるよ。ハインツは道徳的決断をしなければならないのさ。盗むのが悪いか、妻を死なせるのが悪いかって?僕の考えでは、ハインツをとがめることもできるし、大目に見ることもできるよ。この場合、僕は盗んでもよかったと思うよ。しかし、おそらく薬屋は需要と供給の資本主義的道徳で行動していたんだろうよ。」(私は、さらにボブに尋ねました。「ハインツが盗みをしないとしたら、それは間違っているのでしょうか」と)。ボブは答えました。「それは、ハインツが道徳的にどういう考えを持っているかによるよ。もし彼が自分の妻を死なせることより、盗みのほうを悪いことと考えれば、彼のしたことは悪いということになるだろうよ。すべて相対的なんだよ。僕だったら薬を盗むよ。でもしれが正しいとか、間違いだとかいえないし、誰もがそうすべきだなんて言えないよ」。

ここで、ボブの相対主義は、いくつかの考え方の混乱に基づいています。第一の混乱は、寛容や良心の自由は、それ自体、相対主義を意味しているという考え方です。第二の混乱は、人はそれぞれ異なる道徳価値を持っているという社会科学で想定される事実としての相対性と、人はそれぞれ異なる道徳価値を持つべきだという主張、つまり、すべての人に対して正当化しうる道徳価値はない、という哲学的主張としての相対性を混同していることです。

 

(p.21)

 

 上記の、事実と価値の分離に基づく相対主義批判は倫理学のなかでもかなり基本的な議論であるが、本書を読んで改めて思ったのは、コールバーグの議論は想像していた以上に(西洋の)倫理学に依拠している、ということだ。

 1971年に書かれた論文では、ヘンリー・シジウィックの三つの公理やR・M・ヘアの普遍的指令主義やイマニュエル・カントの議論に触れられているし、1980年代の講演では「黄金律」の重要性を指摘したりジョン・ロールズの『正義論』が讃えられていたりする。

 第六段階に位置付けられる最終的な道徳原理の候補として、平等と公正を優先する「正義」の原理と最大多数の最大善や最大善を優先する「慈悲」の原理(功利主義)を並べたうえで後者を否定するなど、コールバーグ自身の考え方はロールズにもっとも近いようだ。「無知のヴェール」から正義の二原理を持ち出す議論についても、「…ロールズは第五段階から第六段階の道徳を導き出し、さらに社会的、政治的な選択によって定義されるかぎりでの第六段階の道徳を体系づけるために、形式的な議論を用いたのです」(p.118)と評されている。……これは功利主義にシンパシーを抱いているわたしとしては納得がいかないし、第六段階でも通じるような功利主義的思考というのはいくらでもあり得そうだとも思う*5

 ただし、道徳性の発達段階理論で重要なのは、各発展段階の子どもや大人がどんな主義主張を採用しているかではなく、架空のモラル・ジレンマや実際の社会で起きる問題について問われたときにどのような論理で答えるかという、具体的な答えではなく考え方の形式であるという点は失念すべきではないだろう。

 同じジレンマであっても文化的背景の違いによって回答のディティールが異なったり優先順位が変わったりすることもあるかもしれないが、その答えを正当化する際にどのような議論や理屈を採用するかということについての、各個人の知的成長に伴う順序は、欧米であろうがアジアで他の国々であろうが変わらない、というのがコールバーグの主張のポイントだ(「慣習レベル」にまで至った人は「慣習以前のレベル」の論理を用いないし、「自律レベル」にまで至った人は「慣習レベル」の論理を用いない、ということ)。

 

 言うまでもなく、ギリガンやハイトの他にも数多くの論者が、この五十年間で様々な方面からコールバーグの議論を批判してきたのであろう。

 道徳や人間の思考の「普遍性」を説く議論は進化心理学の発展に伴い説得力はむしろ増している側面もありそうだが、それと同時にハイトのように論理的思考そのものの無力さを指摘する論者も増えているし、さすがのわたしも諸々を考慮してもコールバーグの議論はやや西洋哲学に影響され過ぎているのではないかと感じはなくもない。また、コールバーグが理想とするほどの道徳に関する知識と思考を現場の教師たちに要求するのは無理があるだろうし、学校における民主的主義を賛美する彼の主張にもいまとなっては疑問符を付けられるかもしれない。

 それでも、普遍的な道徳を求める本書の議論は真摯で爽やかであるし、一読の価値はあるだろう。自分の考え方がどの段階にあるかを自省しながら読んでみるのも一興だ。

*1:コールバーグの本は他にあまり出ていないようだし、読みものとしておもしろくないためにギリガンに比べて存在感が薄いという可能性もありそうだ

*2:

コールバーグの話は、60年代に若者に遵法精神がなくなってきて問題になっているときに、良心的兵役拒否などは普通の違法行為とは違うという認識が高まり、それを説明する理論として第5レベルや第6レベルの話が出てきたのだ、だからあれは左翼の思想なのだ、という政治的な解釈もあるようだ

https://twitter.com/s_kodama/status/1237487838813458432

*3:p.68では「機能主義社会学の一派」が槍玉に上げられている。

*4:

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*5:とくに、「人間の生命の道徳的価値に関する考え方の六段階」という項目で、安楽死を支持する議論が第五段階に位置付けられているのに対して「人間の生命は神聖であるという信念」が第六段階に位置付けられているのは気に食わない。

キムリッカとドナルドソンによる「動物の権利」論(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』⑥)

 

 

 

 第22章「権利」の著者は政治哲学者のウィル・キムリッカと哲学者のスー・ドナルドソン。『人と動物の政治共同体:「動物の権利」の政治理論』を執筆した夫婦であり、このブログでは二人の著書や論文も何度か取り上げてきたので期待を抱いていたのだが、今回の文章にはあまり感心しなかった。

 

 

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 本章の前半では、西洋における「権利革命」について述べられている。19世紀から20世紀の前半まで、リベラル・デモクラシーはベンサムやミルの唱えたような功利主義によって正当化されていた。また、労働者階級・女性・植民地化された国家に暮らす人々などが自分たちの政治的権利を求めるために行なった運動は、「少数」の特権階級のために「多数」の被抑圧者の幸福が侵害されているという問題を改善するためのものとみなすことができたから、「最大多数の最大幸福」を追求する功利主義によっても支持することができた。

 ……しかし、アフリカ系アメリカ人による公民権運動は、アフリカ系という「少数」が白人という「多数」に対して異議申し立てを行う運動であったために、功利主義では支持しづらい。むしろ、少数派であるアフリカ系を抑圧したままにしておいたほうが最大多数の最大幸福につながるかもしれない。同性愛者の権利や先住民の権利、障害者の権利についても同様だ。これらの権利を求める運動が活発化したのに伴い、リベラルな政治哲学者たちは功利主義に代わる理念を追求する必要があると考えるようになっていった。それがロナルド・ドウォーキンが「切り札」と表現した「不可侵の権利」論や、ジョン・ロールズによる『正義論』へとつながっていく。

 人間のマイノリティに関する運動/理論と同様に、動物に関する運動/理論においても、功利主義から権利論やリベラリズムへの転換が起こった。動物解放運動の嚆矢はピーター・シンガーの『動物の解放』であるが、功利主義の理屈では動物のことを暫定的にしか保護できない。もし、檻に閉じ込められた動物に生じる苦痛よりもその動物を眺めることで得られる多数の人間の幸福の総計が上回ったり、食用に飼育される動物たちの苦痛よりもその肉などを食べることで人間たちが得られる幸福の総計が上回るなら、理論上、動物に対する搾取や虐待は肯定されることになる。

 キムリッカとドナルドソンによると「<動物の権利>という立場はシンガーの著作に対する批判的反応として現れたことに留意すべき」(p.556)で、「シンガーの功利主義的な動物倫理におけるこうした欠陥にまさに反応するかたちで、現在の<動物の権利>運動が起こったのである」(p.557)。具体的には、トム・レーガンの『動物の権利の擁護』をはじめとして、ゲイリー・フランシオンやゲイリー・スタイナー、パオラ・カヴァリエリなどの哲学者たちが、功利主義的な効用計算を度外視して絶対に守られるべき不可侵の<動物の権利>を主張する著作を発表していった。

 

 しかし、キムリッカとドナルドソンの書きぶりは、功利主義やシンガーに対してあまりに厳し過ぎるように思える。

 まず、広い意味での「動物の権利運動」……つまりPETAのように狭い意味での<動物の権利>運動の支持者からは「新福祉主義」などと批判されるが、工場畜産の撤廃や動物実験の大幅な規制などを求めており、一般的には「動物の権利」を主張していると解釈されているような団体や運動家を含んだ場合には……シンガーの理論は未だ影響力を持っているだろう。そもそも、いわゆる「動物の権利運動」を引き起こしたのはやはりシンガーの著作のほうであり、その後にせまい意味での<動物の権利>を提唱した諸々の著作が、理論的にはともかく現実の運動や社会に対してどれほどの貢献を行えたり影響を与えられたりしたのか、という点には疑問符が付く。

 また、たしかに功利主義は理論上は畜産業や動物園などの制度・慣行を肯定し得るし、実際にシンガーはかなり厳しい条件付きでごく一部の動物実験は認められると論じているが、ほとんどの場合には功利主義者たちは<動物の権利>を提唱している人々とほぼ同じ主張を行っている。つまり、効用をどのように計算したところで、現行の畜産業や動物園や(大半の)動物実験などの制度・慣行が認められる道理はないのだ。

 そして、功利主義が出す結論が常に暫定的なものであることは「欠陥」などではなく、柔軟さや実用性という「美徳」として捉えることもできるだろう(それらの美徳はまさに権利論が欠いているものである)。

 

多様な功利主義者たちが勇猛果敢にも示そうとしたのは、たとえマジョリティの選好を蹂躙したところで、それがゆくゆくは最大多数の最大幸福につながるということだった(例えば、差別は経済的に非効率的になるとか、他の集団に不安をもたらすなどという理由で)。だが、功利主義者たちがそんな理屈をでっち上げたところで、彼らは間違った理屈で正しい答えを導いたことにかわりはない。確かに、アフリカ系アメリカ人の人種隔離は、そもそも道徳的に間違っていた。なぜなら人種隔離は、彼らの人間性公民権を尊重しなかったからである。たとえ人種隔離が、全体の選好充足にゆくゆくは変化をもたらすとはいえ。公民権闘争にとって、反マジョリティの道徳的主張がぜひとも必要だったのだ。

 

(p.554)

 

 字数の都合もあるだろうが、本章では、功利主義の理屈がなぜ「間違っている」のか、または「人間性公民権を尊重」することがなぜ正しいのか、ということに関する理論的な議論はほとんど行われていない。現代の大多数の人が既に持っている「権利が尊重されるのは当たり前だ」という常識に阿りながら、功利主義は人権侵害を許容し得るという点をことさらに強調して悪者扱いする……つまり印象操作を行なっているだけであるように思える。

 

 本章の後半では、<動物の権利>という概念に対する様々な異議や懸念が検討される。

 

  1. 戦略面での異議:<動物の権利>という概念は過激かつユートピア的に過ぎるので、「動物の福祉」を軸にした運動でないと効果が得られないだろう、という懸念。先日に紹介した「懐柔的」アプローチと「対立的」アプローチの比較に関する議論とほぼ同じようなもの。
  2. 権利は人間中心主義的:動物に不可侵の権利を保障することを目指す運動のなかでもとくに影響力があるのは「グレート・エイプ・プロジェクト」であるが、動物の権利運動は大型類人猿のように「人間に近い」動物を優遇してそうでない動物を冷遇する傾向がある。また、フランシオンなどは、動物は法律上「所有物」ではなく「人格」とみなされるべきだと主張しているが、「人格」を重視するアプローチに対しては人間至上主義(=男性ジェンダー至上主義・白人至上主義)や障害者差別的であるという批判がなされている。
  3. 権利は消極的:<動物の権利>という概念を提唱している論客の多くは、「危害を加えない」「殺さない」などの消極的義務についてばかり論じており、動物に対する積極的義務を示したり、動物とどんな関係を築くことが望ましいかという前向きな話をしない。フランシオンなどが「廃止論」を主張しているように、後ろ向きでネガティブな議論が多いのだ。……『人と動物の政治共同体』は、まさにこの懸念を受けて、シティズンシップやデニズンシップなどの用語を用いながら前向きでポジティブな動物の権利論を提示することを目指して書かれた本であった[その試みがうまくいっているとは、わたしには思えないけれど]*1
  4. 権利は敵対的:先日にも触れたような、権利という概念は敵対や競合が存在する環境でなければ考えつかない発想であるというタイプの批判。また、アメリカ先住民系の学者は、アングロ・アメリカの権利モデルと、連帯と和解を目指した自分たちの伝統との違いを強調している*2。さらに、動物は法廷で自身を「弁護」できないのだから、(法廷における)敵対関係を前提とした議論は必然的に動物にとって不利になる、という批判もある。……これに対してドナルドソンとキムリッカは、オンブズパーソンや管財人などの制度(権利主張を第三者が代行する制度)を動物にも適用することを示唆している。また、たしかに敵対的な関係がない社会のほうが望ましいが、そのような社会を実現するためにこそ不可侵の権利の確保が必要なのだ、と述べられている。
  5. 権利は空疎:リベラルな政治哲学者たちが述べる権利論など所詮は机上の空論であり、実際に権利を保障するのは被抑圧者たちが行う政治闘争である。そして、動物たち自身が政治闘争を行うことはできないのだから、<動物の権利>を求める運動は無駄な試みとなることが運命づけられている、という批判。……とはいえ、歴史上、子どもの権利を求める運動を子どもたち自身が行なってきたわけではないが、一部の大人たちが子どもの権利についての理論を考案したうえで政治闘争も行なった結果として、いまや子どもの権利は保障されている。同じことは動物にも起こり得るだろう*3。また、『人と動物の政治共同体』のなかでは、動物は政治的な行為者となって権利主張のプロセスに参加できる、という議論も行なわれている[かなり無理のある議論だったけれど]。

 

 ……以上、こんな感じ。後半で紹介される<動物の権利>批判については無理があるものも多いし、論文や本を量産したりサヨク界隈や批判理論界隈内での美徳シグナリングを行うためにラディカルで耳障りのよい主張を放言しているという感じも漂ってきて、白けてしまった。『人と動物の政治共同体』にビミョーな議論が含まれていたのも、こういった難癖に真面目に対応しようとした結果であるのだろう。

 

*1:なお、ダナ・ハラウェイの『犬と人が出会うとき』などを挙げながら、動物との関係性だけを重視するタイプの議論はむしろ動物の搾取や動物の殺害を正当化してしまう場合がある、ということもキムリッカとドナルドソンは指摘している。「…関係性の倫理を説得力あるものにするには、不可侵性の権利で補完する必要がある」(p.565)。

*2:伝統社会の多くは「修復的司法」を採用していた、ということはジャレッド・ダイヤモンドの『昨日までの世界』でも印象的に解説されている。

 

 

*3:

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「アニマル・ウェルフェア」の多様な意味(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』⑤)

 

 

 第29章「ウェルフェア」の執筆者はクレア・パルマーとぺテル・サンデュ。どちらも倫理学者であり、前者についてはこのブログでも過去に何度か取り上げている。また、両者はコンパニオン・アニマルの倫理についての共著も出版している*1

 

 

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 まずは「アニマル・ウェルフェア(動物福祉)」をめぐる一般的な議論から。

 

…アニマル・ウェルフェアは、かなり物議をかもしたり、争いの種になったりするのだが、それは概して、人間の利益に対する配慮と、アニマル・ウェルフェアに対する配慮とのバランスをどうとるかについて意見が一致しないからである。たとえば、しばしば主張されるのは、科学的実験が人間の病気を治す一助になるのであれば、動物実験は、たとえアニマル・ウェルフェアを損ねることになろうとも認められるといったようなことだ。この場合、人間の利益に必要ということでアニマル・ウェルフェアを損ねることがあるとしても、それを最小限におさえることが、アニマル・ウェルフェアの努力目標となる。同様に農場飼育動物のウェルフェアを向上させる努力も、人間は食肉、乳、卵のために動物を飼育することは容認されていると最初から決めてかかっているところがある。そのためウェルフェアの努力目標は、動物たちがその過程で不必要に苦痛を受けなくて済むよう保障することとして矮小化されてしまう。

アニマル・ウェルフェアは往々にしてこういったかたちで定められるため、人間の利益のための動物利用を容認しない人々は、アニマル・ウェルフェアをめぐる概念をまるごと否定する(本書、第1章[廃止論]および第22章[権利]参照)。しかし、これでは赤ん坊を湯水と一緒に捨てる〔不要なものと一緒に大事なものまで捨てるという意の慣用表現〕ことになる。アニマル・ウェルフェアは、動物自身の観点に立つことで価値を生むものとして理解されるため、動物の世話にたずさわるすべての人々にとって関連性を有しているはずなのである。本章では、感覚をそなえた[センシェント]動物たちにとって重要なことは何かーー「良きウェルフェア」とは何かーーについての考えを深めることになろう。…

 

(p.724 - 725)

 

 人々は昔から動物の苦痛に対して関心を抱いており、1822年にはイギリスで世界初の動物虐待防止法が成立したが、現代的なアニマル・ウェルフェア概念が誕生したのは1964年にルース・ハリソンが出版した『アニマル・マシーン』を受けて1965年に発表されたブランベル報告書(『集約畜産システムにおいて飼育される動物のウェルフェアを調査する専門委員会による報告書』)においてである。

 それまでの動物虐待防止法は「悪意による」苦痛を予防するもの(意図的な虐待を禁ずるもの)であったのに対して、効率的な食糧生産[工場畜産]の過程で生じる苦痛の予防を目的としたことが、ブランベル報告書の革新的な点であった。

 ブランベル報告書は「動物たちの欲求が満たされないときに苦痛が生じる」と理解したうえで、「行動欲求」の阻害も苦しみを生じさせるということが指摘されていた。つまり、単純な「痛み」は生じないとしても、閉じ込められたり動けなくされたりすることで何らかのかたちの「苦しみ(不快感やストレスなど)」が生じる、ということである。

 ブランベル報告書でなされている訴えは、後に「5つの自由」にまとめられて、動物福祉という概念の基本となる。

 

  1. 飢えと渇きからの自由
  2. 不快からの自由
  3. 痛み・傷害・病気からの自由
  4. 恐怖や抑圧からの自由
  5. 正常な行動を表現する自由

動物福祉について|公益社団法人日本動物福祉協会

 

 パルマーとサンデュによると、ブランベル報告書には以下のような限界があった。

 まず、「苦痛の不在」のみに焦点が当てられており、肯定的ウェルフェア(喜びなどのポジティブな状態)が無視されている。

 次に、ブランベル報告書は、「不要な苦痛」さえ取り除ければ工場畜産という制度そのものに問題はないとした。このため、バタリーケージといった現代では問題視されている慣行も容認されてしまったのである。

 そして、ブランベル報告書はあくまで動物の「主観的経験」に焦点を絞っており、動物の「性質的行動」を考慮することはなかった。

 

 ここから、「ウェルフェア(福祉/福利/厚生)」という概念についての本格的な議論がはじまる。

 まず、不快な状態が取り除かれているだけでは、人であっても動物であっても「幸せ」な状態とはいえない。むしろ、不快な状態を多少残っていても、快適な状態が充分に存在することのほうが幸福には不可欠だ。そもそも不快な状態のなかには避けようのないものもあるが、快適な状態を経験することで、不快な状態に折り合いをつけて対処することができる。また、ある種の快楽は、不快な状態を経由しないと経験することができない。

 ブランベル報告書のように主観的な経験という観点によってのみウェルフェアを理解する考え方は、いわゆる「ヘドニズム」に属するものであり、一定数の功利主義者が採用しているものだ。しかし、だれかが「幸福」であったり「良い状態」であったりするかどうかを測る際に、当人の主観のほかの指標を参照することは、人間の場合にはごく一般的に行われている。動物のウェルフェアについて測る際にも同様の発想が必要となるだろう。

 たとえば、屋内で飼われているネコはやがて屋外に出ることに興味を無くして部屋の中で暮らし続けることに満足するかもしれないが、それはネコが「適応的選好」を形成してしまったからかもしれない*2。たとえ重い病気にかかったり自動車に轢かれてしまうリスクがあるとしても、ネコは屋外に出れたら様々な喜びを経験できるかもしれないし、ネコの飼い主の多くは屋内飼いによって不快な経験のリスクを減らすか外に出すことによって快適な経験をより多く与えるかについて悩んだことがあるだろう*3

 ロバート・ノージックが「経験機械」の思考実験によって功利主義を批判したように、ウェルフェアについてどう考えるかということは、哲学の分野において問われ続けてきた問題とつながってくる。

 

 パルマーとサンデュは、バーナード・ローリンの「テロス論」やマーサ・ヌスバウムの「潜在能力アプローチ」などを参照しながら、ウェルフェアを測る際には主観的経験のみならず「性質的行動 natural behavior」も参照しなければならない、と論じる[ロリンもヌスバウムアリストテレスの「ユーダイモニア」論に基づいた議論をしており、ヘドニズムとユーダイモニア論は幸福論において有名なライバル関係にある]*4

 

この考えが意味するのは、動物が性質にしたがって生きれば、良い経験を得られるはずだというものでありーー本質的には快楽主義的観点である。あるいはこういう意味かもしれない、つまり動物にとって性質にしたがって生きることが、結果としての経験とは無関係に良いウェルフェアを生成するということだ。どちらのアプローチも一理ある。快楽主義観から一歩も出ない最初のアプローチでさえも、実際に動物の生活を豊かにすることでアニマル・ウェルフェアを向上させられることを人々に意識させるのに役に立つ。

 

(p. 733 - 734)

 

 ただし、ただ単に性質的行動を重視すればいいというものではない。「人間は、人間性[human nature]に基づいて生きれば幸せになれる」という一般論は人間の多様性を考慮していないために、批判されたり役に立たなかったりする。同じように、動物たちも個体ごとに多様であるうえに、コンパニオン・アニマルや家畜は品種改良によって生物種そのものを変化させられているのだから、「動物の性質はその種によってすっかり決まっているわけではない」(p.735)。

 また、性質的行動が不快な主観的経験を生む場合も多々ある。オス同士が闘うことが自然であっても、闘いによってストレスや怪我が生じる。それをふまえると、闘いを避けるために去勢して攻撃性を減らすほうが良いかもしれない[猫エイズなどの病気のリスクを避けるためにネコの去勢や避妊手術を行うことも、多くの飼い主が行っていることだ]。

 かように、ひとくちに「アニマル・ウェルフェア」といっても多様な定義や考え方が含まれており、統一した評価基準を作成することは困難である。パルマーとサンデュは、農場間を比較してウェルフェアをスコア化することを目指したEUの大規模プロジェクト「ウェルフェア・クオリティ」を紹介したのちに、そのプロジェクトすらも評価基準の統合に失敗してしまったと批判する*5

 

 ここでパルマーとサンデュが持ち出してくるのが、「動物の自律性」という発想だ。人間が動物たちのウェルフェアを測ることに限界があるなら、自分のウェルフェアについての動物自身がどのような好みを示すかを見てみればよい、ということである。

 

人間性心理学[ヒューマニスティック・サイコロジー]の考え方を適用しながら[テリー・]メイプルが主張するのは、動物は困難に直面しそれを乗り越えようとし、一層奮起しているとき、自己実現への契機を必要とすることだ。メイプルの主張では、動物園動物の理想的健康のために求められるのは、「ただ動物園側の制限や要求へ対応するだけではなく、あらゆる行動の発露へ準備を整えさせ、元気旺盛な状態に達するよう」動物を促す「刺激的環境」である。これは、性質的行動をとるための機会を動物に与えるという考え方と、彼らが自分の志向で選択でき、自分たちの生活をできるだけ自己規制できる動物の自律性[アニマル・オートノミー]という考え方の両方にかかわっている。

 

(p. 739 - 740)

 

「動物の自律性」という発想の問題点は主に二つ。

 まず、動物はときとして自己破壊的で有害な選択を行なってしまうかもしれない。人間の場合には愚行権が認められるとしても、多くの動物は、人間の大人のように自分の選択について反省的に検討したり帰結を理解したりする能力は持っていない。……したがって、人間の子どもの選択に保護者が介入するのと同じような、ある程度のパターナリズムはやはり必要となる。

 また、ある程度の自由が与えられているコンパニオン・アニマルや動物園の動物たちとは異なり、畜産や動物実験のために農場や研究所で飼育されている動物たちに自律性を与えるというのは、そもそも難しい。……もっとも、嗜好性試験という手法によって、管理下の動物が何を望んでいるかということもある程度までは測れるようだ。しかし、嗜好性試験においても「適応的選好形成」の問題が生じてくる。

 

 本章の最後のほうでは、「アニマル・ウェルフェア」という概念が初期には「重い苦痛を与えないこと」を意味していたが、現在では「繁栄[性質的行動が取れること]と自律性」が強調されている、ということが改めてまとめられる。

 また、現代的なアニマル・ウェルフェア概念は完全論[perfectionism]と見なすこともできれば、依然として広義の意味でのヘドニズムだとも見なせるということが指摘されている*6

 そして、動物の権利論者や廃止論者はアニマル・ウェルフェア概念そのものを全否定するかもしれないが、実際問題として、人間の利益とアニマル・ウェルフェアのバランスをどのようにとるかという議論はいまなお重要なのである……と、パルマーとサンデュは述べる。

*1:動物倫理に関する洋書の「ほしい物リスト」はこちら。いただいたところでいつ読めるかはわからないけど。

www.amazon.co.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:これについては、とくに都会に住んでいたり飼育知識があったりするタイプの日本人の飼い主なら、「屋外に猫を出すなんて言語道断で選択肢のうちに入らない!」と反応する人も多いだろう。わたしの見聞からしても、アメリカ人の飼い主の多くは日本人よりも外飼いに肯定的だ。パルマーとサンデュは、別の論文において、外飼いを必ずしも肯定しないが室内飼いの問題点も指摘しているようである[Chat Gptに論文を要約させた]。

philpapers.org

*4:

 

 

 

*5:

www.welfarequality.net

*6:ピーター・シンガーヌスバウムの潜在能力アプローチについて結局は功利主義に基づくものだという批判を行なっている。

philpapers.org

クリスティン・コースガードの「理性」論(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』④)

 

 

 第20章「理性」の執筆者は、カント主義の哲学者クリスティン・M・コースガード。なかなか難しい内容であった。

 

 

 

 

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 本章の冒頭では、道具を用いて、天井の外に吊るしてあったり檻の外に置いてあったりしたバナナを入手することができたチンパンジーのサルタン(ヴォルフガング・ケーラーの実験)について紹介しながら、人間を他の動物から区別するのは人間が「理性的 rational」であったり「理性 reason」を持っていたりすることである、という見解について論じられる。

 

…社会科学においては、合理的行為が通常意味するのは、分別ある行為(自分自身にとって最も利益になることを行うこと)ーーあるいは道具的合理性〔以下の説明にあるように、目的と関連づけられ目的と連動して働く理性のこと〕による行為(つまり自分自身にとって最も利益になるかならないかにかかわらず、希求している目標を達成するためなら何でも行うこと)である。この意味において、ある人物の行動が合理的[ラショナル]であると言うとき、通常、それはその誰かの主観が、一定の分別や道具的合理性の基準によって支配されているということをも意味している。すなわち、その人物には、自分のためだと信じていることをする動機があるということを、あるいは目標が何であれ、それを達成させてくれると信じていることをする動機があるということを、したがって、その人物は自身の信念によって動機づけられているということを意味しているのである。…

 

(p.509)

 

…サルタンのようなケースが示している通り、道具として有効な〔道具的理性に適う〕動物の行動のすべてが、必ずしも本能的・自動的なものだとは言えない。知的な動物は、本能が教えてくれないことについては、自分で頭をひねるものである。また動物たち自身の視点から見ても、それこそがまさに動物たちの試み、つまり目標達成のために頭を働かせることだということを疑う理由はないのである。ところがカント派の伝統に連なる哲学者たちは、サルタンのような動物が知的な道具的思考に従事するときでさえーーすなわち、希求している目標をいかに達成するべきかを考えているときでさえーーその動機は必ずしも「理性的/合理的」であることを示していないと主張するだろう。こうした哲学者たちの議論によれば、合理的動機に伴う自覚とは、行動の基になった考慮[consideration]が、その行動の理由であるという自覚なのである。行為主体は自分がしていることに対し理由を持っていると私たちが言うとき、私たちが暗に示そうとしているのは、その行為に対する評価基準ーーその行為は何らかの点で「筋が通っている reasonable」あるいは「合理的 rational」であるという基準ーーが存在しているということである。そして、その行為主体はある程度は目論見通りにその基準を満たしているということである。したがって、自分がある理由のためにふるまっているのを知っているということは、評価基準がそのふるまいに適用されたことを知っているということである。しかるべきふるまい方、ないし当然のふるまい方があるのを知っているということである。もしくは、そうふるまうのが適当ないし正しいというのを知っているということである。そして、その自覚によって、いくらか動機づけられているということである。サルタンのような動物、つまり、ある手段を取ることで自分の求める目標に到達できることを知った動物は、そのように動機づけられていることの規範的適正について考えることなく、ただその手段を取るという決断によって動かされているのかもしれない。…

 

(p.510 - 511)

 

 要するに、目的を達成するための手段についてあれこれと思考できるという点では動物も道具的理性を持っているとは言えるが、目的そのものについて批判的に思考する能力はないため、動物は真の意味では理性的/合理的であるとはいえない、というところだろうか。

 最近の倫理学で重要なタームとなっている(らしい)「理由」という単語については以下のように説明されている。

 

理性はまた、私たちに「理由」ーー信念や行為に奉仕する特定の考慮や動機ーーを特定させる能力と同一視される。この意味における理由というのは、合理的原則によって選別された考慮/動機[consideration]か、心の積極的な能力という意味での「理性」によって直接把握された考慮/動機ということになるのかもしれない。通常、私たちは、行為が何のためになされたのかを正当化し、かつ説明するために、あるいは少なくともその行為を理屈の通ったものにするために、理由に頼る。私たちに、行為主体の理由が何かわかっているならば、その行為主体に状況がどのように映っているか、なぜその行為主体がそうした行為に駆りたてられたのかがわかる。<理性/理由>をこのような意味に捉えれば、他の動物が人間と同じように、理性/理由に応じてある行為をしたりしなかったりしていることは明らかである。一匹の動物が檻の柵に身体をぶつけていると仮定すれば、なぜそうしているのかと私たちは問うだろう。柵を壊すか曲げるかして、檻から脱出しようとしているのだという答えなら、動物には状況がどのように映っているか、その状況に対して何をするつもりであるか、私たちはいくらか把握しているので、その理由が何であるかを見て取ることができるだろう。いや、そうではなく、檻に閉じ込められているせいで、動物が心を病んでいるのだという答えなら、彼の行動には原因があっても、その行動が、理由のためになされたということにはならない。理性/理由をこのような意味に捉えれば、サルタンに二本の棒を組み合わせるようにさせた理性が、サルタンに檻の外に置かれたバナナに手が届くようにさせたことは明らかである。

 

(p.513 - 514 )

 

 人間は動物とは異なり自分が抱いている理由が適切なものかどうかを問い直すことができるので、動物とは異なり人間の信念や行為には規範的な性質が備わる。また、人間に特有なタイプの理性のこの特徴(反省的であること?)が、科学を発展させてきた。  

 そして、多くの人々が「道徳は人間に固有の特徴だ」と思っている原因でもある。

 理性が道徳に関連するという考え方にも、いくつかの種類がある。多くの哲学者は、人間が理性的であること自体が、わたしたちの存在や生命に価値を付与する、と主張してきた。キリスト教的な「人間は神の似姿」論や、イマヌエル・カントとその後継者による「 すべての理性的存在者は目的自体として扱わられなければならない」論など。

 また、権利と義務について理解して、道徳や規範によって互いに束縛し合うためにも、理性が必要となる。理性的存在者である人間は法律や社会契約などに合意して道徳システムに参加できるが、動物はそうではないから道徳的配慮の対象外となる、という考え方はかなり一般的なものだろう。

 もうひとつは、いわゆる「パーソン論」的な考え。ある存在が理性的であることはその存在により高度なアイデンティティ意識を抱かせて、それによってその存在が自分自身の生命に対して持っている利益や賭け金を大きくするが、高度なアイデンティティ意識を持たない非理性的な存在が自分自身の生命にとって持っている利益や賭け金は僅かだから、人間の生命に対しては動物の生命に対してよりも重大な配慮が必要である、という発想だ。

「理性を持たない動物に対する道徳的配慮は必要がない」という考え方に対する批判として頻出するのが「周辺的事例からの議論」*1。人間であっても他の人たちと同じような理性を持たない人々は多々いるが(乳幼児、痴呆症の高齢者、重度精神的障害者など)、わたしたちは彼らを道徳的配慮の対象とする。ならば、彼らと同程度の理性を持つ動物たちも道徳的配慮の対象にしなければ「種差別」である、という議論である。

 周辺事例からの議論に対して、コースガードは理性をさらに「記述的」なものと「規範的」なものに区別したりしながら、コメントを行なっている。コースガードは周辺事例からの議論を提出する人たちが意図している結論……痛みの感覚があること[センシェンス]だけで、人間[と動物]を道徳的関心の対象とするには十分である、という結論……を必ずしも否定しないようだが、たとえば乳幼児が現時点では理性的でないとしても他の動物と異なり人間は理性的存在者として機能するように「デザインされ」ているのだから、ある人が人生の一時点で表出させている属性ではなく、その人の人生の全体を代表する属性に基づいて判断すべき、と述べているようだ(そして、どうやら、生まれつき理性的ではない人についても人間と「異なる種類の生物」であるわけではないから、その人についても他の人間たちと同じような配慮が必要である……と主張しているようだ)。

 

 いずれにせよ、コースガードの結論は「人間は理性を持っているからこそ動物に対して義務を負う」といった、かなり多くの動物倫理学者がこれまでに論じてきたような、スタンダードなものだ。ポストモダン的な「理性主義はよくない」という批判を免れるために「理性」の定義を無理に弄って「動物だって理性を持つ」(または「人間ですら理性を持たない」など)と主張するタイプの主張に比べると、穏当で好感が抱ける。

 以下、最終段落から抜粋。

 

[前略]…たとえ合理的/理性的であることが人間特有の性質だとしても、それはユニークな道徳的価値の源ではなく、異なる種類の道徳的立場の源となるものかもしれない。…[中略」…理性を所有していることは、動物のなかでただ人間のみが、世界を共有[シェア]している他の動物たちに対し、道徳的義務を負っているということなのである。

 

(p.524)