道徳的動物日記

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読書メモ:『ジェンダー格差 実証経済学は何を語るか』

 

 

ジェンダー格差」と「実証経済学」の組み合わせに惹かれたこと、そして中公新書というレーベルの信頼度から、発売日直後に購入。

 他にも読んでいる本はあるんだけれど発売直後の本は早いとこ書評を書いたほうが宣伝にもなるものなので、読み終わった直後であるが簡単に感想を書いておく。

 

 本書はまさに副題通りの「経済学」の本であり、著者も序章で「私はジェンダーの専門家ではありません」と明言している(p.ⅳ)。また、経済学は価値判断を下す学問ではなく、あくまで現実を分析して事実を明らかにするためのツールであるということが本書では繰り返し指摘されている。これらの点は、本書の長所であると同時に弱点にもなっているように思えた。

 

 本書の長所としては、近年の人文学的なジェンダー論者やフェミニストが「資本主義的」だとか「ネオリベ」だとかのレッテルを貼って否定しがちな経済学の観点を(おそらくそういう批判を意識することなく)明け透けに用いることで、現代の先進国ではむしろ忘れられがちな、ごく基本的なレベルでのジェンダー平等の重要性やフェミニズムの意義が伝わってくるということがある。

 たとえば昨今の人文系フェミニズムでは、(他の思想潮流と融合しながら)「キャリア・ウーマンになって“男並み”になれるということが真の女性解放だとは言えない」とか「そもそも“人は働かなければならない”という圧力から解放されることを目指すべきだ」といったような議論がなされがちだ。しかし、本書が示しているのは、女性が労働参加できることは家庭内交渉力を高めるなどして女性の意思決定権や自立性を保障するだけでなく、中絶される女児の数を減らしたり女性の生存確率を上げたり児童婚を防いだりするのにもつながるということだ。著者の専門分野のひとつが開発経済学であり研究対象の地域としているのは南アジアであるため、本書でもインドをはじめとして性差別的な文化・慣習が強く残っていたり途上国であったりする地域での研究事例がたびたび取り上げられる。読んでいる最中は「日本や欧米のような先進国とは状況が違い過ぎて、いまここで起こっている問題について考える手がかりにはならないなあ」とも思ったが、そもそも経済・労働面での最低限の性的平等が確立しないことには女性の生命そのものが脅かされるという事実を再確認することは有益であるだろう。

 また、女性の収入やスキルと結婚の関係という話題でゲイリー・ベッカーによる「結婚市場」理論が紹介されたり、リプロダクティブ・ライツに関連してスティーヴン・D・レヴィットとスティーヴン・J・ダブナーの著書『ヤバい経済学』で有名な「望まない出産の中絶を認めることで犯罪件数が減った」という事例が取り上げられたりするあたりも、人文学ではなく経済学によってジェンダーを扱った本ならではだと思った。ベッカーの理論がミシェル・フーコーに批判されていることは有名だし、レヴィットたちの「中絶合法化→犯罪率低下」理論もあまりにドギツくて取り上げたがらない著者のほうが多そうだ。なお、レヴィットたちの理論には当時から批判があったようだが、2020年に検証を行ったところ当初の主張が裏付けられたそうだ。

 

 さて、レヴィットたちに関連して、以下のような記述があった。

 

レヴィットたちは因果関係を裏づけるエビデンスを示しているだけで、何が倫理的に正しいか、どうあるべきかという判断をしていません。

中絶は認められるべきか、堕胎は殺人とみなされるべきか、人によって意見は異なるでしょう。ただ中絶を望む女性たちが一〇代である、貧しい、シングルマザーとなる可能性が高いといった特徴をもつことは各種データから明らかです。そのような環境に生まれた子どもの人生に、困難が伴うだろうということは想像に難くないでしょう。レヴィットたちが示した実証結果は、もっともらしいといわざるをえません。

(…中略…)

中絶合法化によって犯罪率の低下がもたらされたという結論の理由、つまり犯罪者予備軍が生まれなかったから、が、衝撃的であるため、嫌悪感を抱く気持ちもわからないではありません。しかし、これらの直感的にも納得できるエビデンスを提示されて、それでも反対するようであれば、中絶が禁止されることで不利益を被る人たちへの責任ある対応が必要でしょう。中絶を望む女性たちが中絶できないことに対して、またそのことによって生まれる子どもたちに対しても、満足のできる政策を提示できなくては、中絶禁止支持者は無責任といわれても仕方がないはずです。

 

(p.154 - 155)

 

 先述したように本書では「経済学は規範ではなく事実を判断するための学問だ」といったことが強調されているのだが、このあたりの文章には、明らかに著者の規範的な判断…妊娠中絶は禁止されるべきでない、それでも中絶を禁止するなら被害を受ける人には相応の補償をするべきだ…が含まれているように思える。この本に限らないのだが、一部の新書本など(そのなかでも経済学や社会科学者の本)では、「べき論」そのものやそれにスレスレの議論をしているのに最終的に「〜すべきだ」と主張することだけはしないという「逃げ」の感じられる文章が含まれていることが多い。編集者の指示か学者たちに特有の流儀かは知らないけれど、こういうのはけっこう苦手だ。

「べき論」と言えば、本書の8章では少子化の問題も取り上げられるのだが、この章の記述は「少子化は解決されるべき問題だ」ということが暗黙の前提になっているように思えた。また、そもそも本書の本題である経済・労働面でのジェンダー格差についても、日本では専業主婦業願望を持っている(保守的な)女性が多くいるという事実には(序章などで触れられているとはいえ)もっと踏み込んでほしかったし、先述したようにフェミニズムジェンダー論の文脈でも「そもそも経済や労働の領域において女性が男性と対等に活躍できるようになることが女性を本当に解放するとはいえない」という主張がなされるようになったことも多少は意識してほしかったもしれない。

 結局のところ「ジェンダー格差は改善されるべきだ(また、少子化は改善されるべきだ)」という判断自体は本書の前提となっているのだから、一般論というレベルでもいいからあるべき将来の社会像やジェンダー格差解消を目指す理由などの目標をまずはっきりさせたうえで、事実に関する知見をどんどん紹介していくという構成にしてくれたほうがよかったように思える。

 

 その他の感想は箇条書き。

 

・序文の時点で「エビデンス」や「因果推論」などの経済学(社会科学)的な思考の基本、また「ランダム化比較試験」や「自然実験」などの具体的な手法が紹介されるため、「経済学入門」という側面もある。

 

・本書における「エンパワーメント」の定義は以下の通り。

 

…エンパワーメントとは、自分の人生をコントロールできることと広く理解されています。女性が、進路、就職、結婚、出産など、人生の大きな分岐点だけでなく、日常生活のあらゆることに対して、自由に決められ、自己実現を感じられることが、エンパワーメントが実現した状態といえるでしょう。

(p.43)

 

 また、「あとがき」でも以下のように書かれている。

 

女性だろうが男性だろうが、自分の能力を十分に活かせ、真に活躍できる社会を建設していくことが、いまの私たちの大きな責任でしょう。

(p.210)

 

 これらの定義や主張の背景には「リベラル・フェミニズム」的な考え方(というかごく基本的なフェミニズム)があるだろうし、その考え方にはわたしも全く同意するが、「自己実現」や「活躍」を重視するのは「ネオリベ」だという批判が頭をちらつくところだ。

 

・日本のジェンダー格差や少子化の元凶として強調されるのが「「女性は家、男性は外」といったジェンダー規範」(p.209)である。これ自体は「そりゃそうだ」という感じでたいして目新しくはないが、本書では「男性は外で稼ぐべき」「女性は家事や育児に専念すべきだ」といったレベルの主張すら日本には未だ根強く残っていることが示されており、改めて数字を見るとギョッとする。

 

・女性のSTEM進学率の低さについては「能力の性差はない(だからステレオタイプやアンコンシャス・バイアスが原因だ)」という論調になっているが、この話題については「能力」ではなく「志向」の性差(対モノ志向/対ヒト志向)のほうがよく取り上げられているはずなので、そこが無視されている点はかなり気になった。……それはそれとして、本書でも取り上げられているロールモデル効果などを考慮すると、政治についても教育についてもある程度までのクォータ制アファーマティブ・アクションが認められるべきだと思うけど。

 

・7章ではネットで人気の「一夫多妻制は出生率を上昇させる」論が取り上げられており、人類学者による「競争仮説」(出生率上昇)と人口学者による「代替仮説」(出生率下降)なども紹介されているが、どっちつかずな感じ。

 

・同じくネットで人気な「高学歴女性は結婚や出産をしなくなる」論については、東アジアや南欧では学歴と結婚や出産は相反するがジェンダー平等が進んでいる北欧では大卒の方が結婚率や子どものいる確率が高く、アメリカはその中間だとされている。ジェンダー規範が弱くて、離婚した女性が労働市場に復帰しやすかったりシングルマザーの支援が充実したりしている国の方が、高学歴の女性も出産しやすいそうだ。このトピックに関連する著者の見解はWeb上でも公開されている。……とはいえ、「ジェンダー規範」という仮定はなんだか万能に過ぎる気もするし、この件についてはいろいろと反論できる人もいそうだ。

 

www.ide.go.jp

 

・ネット民からは嫌われがちであり、専門家からも慎重な判断が必要だとされているジェンダー・ギャップ指数については*1、(政治・経済の項目は)「日本のような先進国のジェンダー格差を表す指標としては、多くの人びとの感覚に近い」(p.12)と肯定的に評価されている。これについてはわたしも同意できる。

言論の自由の「手段的」擁護論と「構成的」擁護論(読書メモ:『自由の法』②)

 

 

 

 ほんとはちゃんとした記事にしたかったけれど本日中に図書館に返却する必要があり、家庭の事情のために早朝には家を出発する必要があるので、写経で済ませます。

 

憲法に関わる法律家や学者が、言論および出版の自由条項を正当化する論拠として提案してきたものには、多数の異なったものがある。しかしながら、その大部分は、主要な二つの集合のいずれかに分類できる。その第一は、言論の自由手段として重要なものとみなしている。すなわち、それが重要なのは、人に何か内在的な権利として、自らの欲することを述べる道徳的権利があるからではなく、人がそうするのを認めると、我々の中のそれ以外の人々にとってよい結果がもたらされると思われるからである。自由な言論が重要なのは、次のような理由からだと言われている。すなわちその理由とは、たとえば、ホウムズがエイブラムズ判決の反対意見で宣言したように、政治に関する議論が何ら禁じられることなく自由に行われるならば、政治過程において真実の発見や誤りの除去がなされやすくなったり、悪い政策ではなくよい政策がもたらされやすくなったりするからだと言われているし、あるいはまた、マディソンが強調したように、自由な言論が人民の自己支配能力を保護するからだとも言われているし、あるいは、もっと常識的に、政府が批判を罰する権力を持っていなければら、腐敗に陥りにくくなるかだとも言われている。これらの多様な手段主義的見解によれば、アメリカが言論の自由を特に重要な価値として受容しているのは、その根底において、ある戦略をアメリカが国全体として支持しているから、すなわち我々が、自由な言論は長期的に見て、我々に対して害悪よりも利益を多くもたらすであろうということに、集団として賭けているからである。

言論の自由を正当化する2種類目の論拠とは、次のような考えである。すなわち言論の自由に価値があるのは、単にそれがもたらす帰結のためではなく、政府が、判断能力を欠いたものは別として、その社会に属するすべての大人を責任ある道徳上の主体として扱うことが、正義に適った政治社会の本質的で「構成的」な特徴だからだ、というものである。この要請には、二つの側面がある。第一に、道徳上の責任を持った人は、人生や政治において何が善で何が開くかについて、また正義や信仰の問題において何が正しくて何が誤っているかについては、自分自身で決断すると主張する。人々がある種の意見に耳を傾けることについて、政府が、もしもそれを認めると人々が危険な信条または人にとって不快な信条を吹き込まれることになるかもしれないので、それを安心してみていることはできないと公式に述べるならば、そのとき政府は市民を侮辱し、彼らの道徳上の責任を否定しているのである。我々が責任ある道徳うえの主体であるかぎり、ある意見に耳を傾けたり、それについて考えをめぐらせたりするのに我々が相応しくないという理由で、それを我々に聞かせることを差し控える権利は、誰にもーー公職者にも多数者にもーーない。我々が個人として自らの尊厳を保持するのは、唯一こう主張することによってのみである。

多くの人にとっての道徳上の責任には、もう一つの、もっと能動的な側面もあある。それは、単に自分自身で信条を形成するというだけの責任ではなく、それを他人に対して表明するという責任であり、しかもそれは、他人に対する尊重と配慮から、また真実が知られ、正義が実現し、善が確保されるようにとの強烈な願望から、自らの信条を表明するという責任である。政府が人々の一部について、彼らの抱いている心情から判断すると彼らは社会の参加者として相応しくないとの理由で、彼らからこの責任を果たす機会を奪うならば、そのとき政府は道徳上の責任のこの側面を無視し、それを否定しているのである。政府が人に対して政治的支配を行い、その人に政治的服従を要求するかぎり、その人が検討したいとか広めたいとか思っている意見がどれほど憎むべきものであろうと、政府はその人に対して、道徳上の責任の持つこの二つの属性を、どちらも否定してはならないのであり、それは、政府が彼に対して平等な投票権を否定してはならないのと同じことである。もしも政府がこの要請に違反したならば、政府は、その人に対して正当な権力を主張するための実質的根拠を喪失するのである。政府が何らかの社会的態度ないし嗜好の表明を禁止したときと、政治的性格が明白な言論を検閲したときとで、生じる害悪の重大性に変わりはない。市民は、政治に参加する権利を持っているが、道徳上の風土ないし美的な風土の形成に貢献する権利も、それと同じだけ持っているのである。

 

(p.258 - 260)

 

学問の自由と倫理的個人主義(読書メモ:『自由の法』①)

 

 

 

 家庭の事情(飼い始めた猫の夜泣きがひどくて睡眠に支障が出ているなど)のために執筆時間はもちろんのこと読書に割ける時間もかなり目減りしている状況なのだが、今日はナントカ早起きできたので都立図書館から取り寄せたロナルド・ドゥオーキンの著書『自由の法 米国憲法の道徳的解釈』の第11章「なぜ学問の自由なのか」を読むことができた。

 この章が書かれたのは1995年6月であるが、扱われている問題……大学の授業などで「感受性の欠如した」教授たちがセンシティブなトピックを扱ったためにマイノリティの学生から批判や抗議をされるという現象や、保守派ではなくリベラル派が学問の自由の制限や検閲を主張するという状況……は実に現代的である。繊細な感受性や侮辱に対する過剰反応が学問(と教育)の自由に相反するという問題は『傷つきやすいアメリカの大学生たち』の中心テーマであるし、学問の自由や「客観的真理」の批判者として「ポスト・モダン主義者」が登場するのは『「社会正義」はいつも正しい』を思い出させる。そもそも「ポリティカル・コレクトネス」という単語が登場したのは1990年代からであるし、まあ当時からそんな感じだったのだろう。

 

「学問の自由」といえばジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に基づきながら「異端の意見や誤りだと大多数から思われている意見も自由に主張して議論できる環境が守られていることが大切だ」と主張されることが多いが、ドゥオーキンは、大学が(個々の学者たちの)研究に投入できる資源は有限であることから、「真理を追求する」という目的だけを重視するなら、明らかに誤っていたり瑣末であったりする研究を制限したり止めさせたりすことのが認められしまうという問題を指摘する(これに対して「長期的に見ればそのような措置は真理の追求にとっても有害になるはずだ」という反論があるが、長期的に見ても実際に有害になるかどうかはわからない、としてドゥオーキンはこの反論を退ける)。

 ドゥオーキンは、「真理の追求」に基づくミル的な学問の自由論を「手段的な擁護論」と称したうえで、「この擁護論を、何かもっと奥深く、偶然に左右されにくくて確実性が高く、そして人格にもっと関わるものへと結びつけなければならない」(p.326)と論じる(「倫理的正当化」)。

 また、ドゥオーキンが探求しているのは、「大学が学者を新しく雇用するときに、候補者の研究の内容に基づいて判断する」ことは認められるが「すでに雇用されている学者の研究の内容に大学側が介入する」ことは認められないという意味での「学問の自由」を擁護するものは何であるか、ということだ。

 ここで彼が持ち出すのが、「独立性の文化」である。

 

……それ[学問の自由の侵害]は独立性の文化を弱体化させ、この文化の防衛している理想を価値の低いものにしてしまうからである。

ここで言っている理想とは、倫理的個人主義のことである。この理想はいくつかの要素から構成されているが、その一つとして主張されているのは、我々一人一人には、自らの生が可能な限りうまく行くようにする責任があり、そして、この責任は本人のものだということである。この後半部分は、生がうまく行くというのはいかなることであるのかは、本人が信念として感じ取るべき問題であって、それについては、我々各人が自分自身で決断しなければならないという意味である。倫理的個人主義は、政治におけるリベラルな制度や態度の背後にあって、それらを支えている発想である。それが支えているのは、リベラルな観念の中核的部分であって、そこには言論の自由と学問の自由がどちらも含まれており、しかもこれらは、単に学問上の発見を生み出すのに適した賢明な環境としてだけでなく、個人の信念を最優先する態度を奨励し、それを防御するものとしても位置づけられているのである。

 

(p.327)

 

……我々の研究教育機関においては、教授、学生、そして職員が一人一人、各人の理解のままに真理を発見して伝えることに打ち込んでいるが、なぜ我々はこのような制度を持つべきなのだろうか。

倫理的個人主義は、自らが隆盛するための環境として、特定の文化ーー独立性の文化ーーを必要としている。その敵は、正反対の文化ーー同調性の文化、ホメイニのイランの文化、トルキマーダのスペインの文化、そして、ジョー・マッカーシーアメリカの文化ーーであり、そこでは、真理は個人ごとに独立した確信を得ることによって採取されるのではなく、一枚岩の伝統や聖職者の命令や軍事委員会や過半数の票の中に埋め込まれており、その真理に反対することは反逆罪となる。この全体主義的認識論ーーそれが何であるのかを気味が悪いほどはっきりと示したのは、オーウェルの独裁者の行動であり、彼は、拷問を行って、その犠牲者に対して2足す2が5であると信じさせることについ成功したのであるーーは、専制支配の持つ特徴のうちで最も恐ろしいものである。

リベラルな公教育や、言論、良心、宗教、そして学問の自由は、そのすべてが、我々の社会が独立性の文化を支え、同調性の文化に対してそれを防御している仕組みの一部を成している。中でも、学問の自由は特殊な役割を果たしている。なぜなら、教育制度はこの努力の核心を成しているからである。それが核心を成す理由は、第一に、それが、全体主義体制において尽く実現されてきたように、非常に容易に同調性の推進機関と化す可能性があるからであり、第二に、それが、個人が自らの信念に基づいて生を送るのを重要な仕方で奨励し、そのための重要な技を与えることができるからである。集団が真理とみなすものではなく本人が個人として真理とみなすものに対して忠実であるということは、重要で奥深いことであり、そのことを学び取るというのが、リベラルな社会における教育の主眼とするところの一部なのである。学問の自由には、象徴的な意味における重要性もある。なぜなら、自由な研究教育機関では倫理的個人主義の手本と価値が歴然と示されているからである。自らの理解のままに真理を発見し、語り、そして教えるのが専門家としての責任であるということが、これほど明々白々になっている職業は、他には一つもない。学者はまさにそのために存在するのであり、またそのためだけに存在するのである。独立性の文化は、「それ自体のために」学ぶことを貴重なことと考える。なぜなら、そのような学び方は、まさにそのような学び方であるがゆえに、独立性の文化のためにもなるからである。

 

(p.329 - 330)

 

 ただし、学問の自由が重要な価値だとしても、「それは多くの価値の中の一つであるにすぎない」(p.332)ともドゥオーキンは説く。また、教授の発言や研究内容が一部の学生に対する「侮辱」となるようなとき学問の自由はどれくらい擁護できるか、という問題もある。……ここでドゥオーキンが論じるのは、侮辱が「意図的」なものであるかどうかによって判断を分けるべきだろう、といった主張だ(昨今のマイクロアグレッション論はこのような主張に対抗してより強固に学問/言論の自由を制限するためのものという意味合いもあるのだろう)。

 また、ドゥオーキンは、学生を侮辱から保護すべきために学問の自由を制限すべきだという主張を、「政策に基づいた議論」と「原理に基づいた議論」に区別する。「政策に基づいた議論」とは、「現在の社会に実際に存在する問題(性差別や人種差別)を軽減させるという目的のためには当面は学問の自由を制限することも認められる」といったものであり、これに対してドゥオーキンは「検閲は問題を解決するどころかより悪化させる危険性が高い」という反論を行なっている。

「原理に基づいた議論」は、侮辱から守られるような「権利」が学生にはあって、その権利は学問の自由と競合したり学問の自由を凌駕したりするようなものである、という主張だ。それに対するドゥオーキンの反論は以下の通り。

 

……それ[原理に基づいた議論]は、何らかの表現ないし表現物の提示が、誰かを困惑させるものと思われたり、その人に対する他者からの評価を低下させるものと思われたり、あるいはその人の自尊心を低下させるものと思われたりしても致し方ないかもしれないものならば、そのような表現ないし表現物の提示は、何であれ禁止するよう要求しているのである。人々にこの権利があるという考え方は、ばかげたものである。もちろん、好意を持たれたり尊敬を受けたりするに値する人の誰に対しても、すべての人がそのような反応をするとしたら、それは結構なことであろう。しかし、もしも我々が、自分が他人から尊敬を受ける権利といったものや、ある言論のせいで自分が尊敬を受ける可能性が小さくなるときに、その言論の影響を蒙らない権利といったものを承認したら、我々は必ずや、独立性の文化の中核にある諸々の理想を全部転覆させてしまうことになるし、この文化が防御している倫理的個人主義も否定してしまうことになるのである。いかなる社会においても常に、そこに属している人の誰かは、そこで広く受け入れられている意見や偏見によって傷つくであろう。アメリカでは、毎日どこかの地域社会で、誰かがひどい侮辱を受けている。そうした人とは、創造説論者や宗教上の原理主義者、同性愛は非常に罪深いとか、性交渉は夫婦間でのみ正当であるとか信じている人、神は手術やペニシリンを禁止しているとか、神は聖戦を命じているとか信じている人、今世紀の偉大な芸術家はノーマン・ロックウェルだけだとか、鑑定書は感動的なものだとか、スーザ作曲の行進曲は偉大な音楽だとか信じている人、背が低い人とか太っている人とか単に動作が全くのろいだけの人とかである。世界の民主主義国で、まともな国ならばどこにおいても、ありとあらゆる異なった信念や体型や嗜好を持った人々が、あらゆる質の言論や出版によって、笑い物にされたとか侮辱にされたとか感じており、彼らがそう感じるのは、無理もないことである。

独立性の文化は、このような状況が実現することを保障しているとさえ言ってよいほどである。たしかに、我々は互いに品位のある態度を取るべきであるし、偏狭な態度は軽蔑に値する。しかし、我々の誠実に抱いている見解が、誰かに対して侮蔑的だとされ、その判断が、その他者本人または第三者の目から見たものであるとき、もしも我々が、自分がその見解を伝えるときは必ずその人の権利を侵害するのだ、と本当に考えるようになったとしたら、我々は、誠実に生きるとはいかなることかに関する自分自身の理解を、犠牲にしてしまったことになるのである。我々は、人種差別主義や性差別主義と闘うための武器としては、これとは別の、これほど自殺的ではないものを、見出さなければならない。我々は、いつもと同じように、抑圧ではなく自由を信頼しなければならない。

 

(p.339 - 340)

 

理性と論理に基づくリベラリズム(読書メモ『Liberalism : the basics』)

 

 

 

 次の本の執筆に向けて昨年からリベラリズムのことを勉強し続けているうちに気が尽かされたのだが、哲学や理論としてのリベラリズムの入門書は意外なほどに少ない。

 中公新書『リベラルとは何か』は思想史や哲学の話題は半分以下であり後半は現代の政治状況や国家制度の話が主であったし、オックスフォードのベリーショートイントロダクションの翻訳であるマイケル・フリーデンの『リベラリズムとは何か』も思想史がメインであって哲学としてのリベラリズム理論を解説するものではなかった(むしろ、ジョン・ロールズの扱いの悪さにあらわれているように、フリーデンは厳密な哲学的議論を嫌っているという印象も受ける)*1

 わたしがこれまでに読んできた本でとくにリベラリズムの理論が勉強できたのはウィル・キムリッカの『新版 現代政治理論』とアダム・スウィフトとスティーヴン・ムルホールによる『リベラル・コミュニタリアン論争』であり、とくに後者はロールズの議論がかなりのページを割いて解説されていたりロナルド・ドウォーキンやジョセフ・ラズなどの論者の議論もそれぞれ一章を充てて解説されているなど、充実度はかなりのものであった。ただし、どちらもページ数が多く重たい単行本でお値段もお高くと、多くの人にとっては手を出しづらい本であることは否めない*2

 

 そんななか見つけて買ってもらったジョン・シャーベットによる本書は、概念の細かい分析や厳密な理論の構築などの英語圏の伝統が感じられる、まさしく「哲学」としてのリベラリズム入門である*3

 まず、本書の第一部では「リベラルな実践」として現代にリベラリズムを採用している社会(アメリカや西欧・北欧など)で採用されている制度や実践されている営みなどを挙げて解説することで、「リベラルな社会とそうでない社会の違いとはなにか」ということが示されている。

「リベラルな実践」の具体例は以下のようなもの。

 

・法の支配

言論の自由

・結社と運動の自由

・経済の自由

・性の自由

 

 次に、第二部のタイトルは「リベラルな価値」として、リベラリズムで重視される諸々の概念が哲学的に分析される。

 

・自由

・平等

・共同体

・幸福(福利)

 

 そして最後の第三部では、リベラリズムはさまざまな規範理論から導き出され得るということを指摘したうえで、それぞれの理論が正しかったり矛盾がなかったりするかどうか、その理論からリベラリズムを導き出すことがほんとうに論理的に可能であるかどうか、といったことが検討される。

 

リバタリアニズム

功利主義

・カント主義

・現代リベラリズムロールズドウォーキン、ラズ)

 

 本書の特徴としては、まず、出版されたのが2019年だということもあり、現代特有の問題も分析されていること。

 たとえば第一部や第二部では「ポリティカル・コレクトネス」や「アイデンティティ・ ポリティクス」の問題のほかトランスジェンダーについても触れられているし、またウクライナ侵攻以前ではあるがリベラリズムではない国家の代表例としてプーチン大統領支配下のロシアが何度も出てくる。

 ここら辺に関連して、シャーベットの議論は全体的にはやや保守的というか「反ポリコレ的」なところも重要だ。言論の自由を強く支持して反ヘイトスピーチ法に反対しているし、「差異派フェミニズム」によるリベラリズム批判や自律・理性批判にポストモダン的な価値相対主義を含むような文化多元主義についても再批判をして退けている。必ずしも平等を再重要視しておらず、マイケル・サンデルが行ったようなメリトクラシー批判に対しても冷や水を浴びせている。その一方で、リバタリアニズムリベラリズムの一種として対等に扱っているところも特徴的だ。

 ……というのも、最近の(だいたいは日本人によって書かれた)政治思想や政治学関係の本を読むと、とくにフェミニズムに対してはやたらと甘い一方でリバタリアニズムは「ネオリベ」と一括りして相手にしなかったり非難や罵倒をする、というのが多いからだ。その点、本書は最近の風潮や流行に反しているかもしれないのが、本書の「反ポリコレ的」なところの大半は、自由や平等といったリベラリズムの核となる概念について厳密に考えたり矛盾のない理論を構築したりするといった、哲学者や学者としての信念やプライドや意地といったものに基づいていることが察せられたので、わたしとしては好ましく感じられた。

 また、スティーブン・ピンカーやジョセフ・ヒース(やピーター・シンガー)などといった論客も明らかにリベラリズムを支持しているがアイデンティティ・ポリティクスなどには反対しているために「保守」や「右派」と勘違いされることがあるが、「哲学的リベラル」や「理性重視リベラル」はどういう理論に基づいてどんな考えをしており、彼らと「ポリコレ派リベラル」や「最近のリベラル」との違いはなにか、といった点を簡単に確認できるというあたりも有益な本である。

 

 「リベラリズムの理論」を扱う第三部では代表的な倫理学者や政治哲学者たちの思想が簡潔に紹介されており、第二部における自由や平等についての概念分析的な議論とあわせて、哲学の入門書という側面もある。カントやロールズなどの難解な議論もそのエッセンスがかなりわかりやすくまとめられている点がよい。

 その一方で、シャーベットがどの理論に対しても「厳密に考えればこの前提からこの結論は導き出せないから論理の飛躍である」とか「ここに矛盾がある」とかいった欠点を指摘して退けていき、最後に自分の理論を短く提示して「他の理論と違ってわたしの理論には矛盾がない」と誇らしげにして締められているのは、英語圏の哲学本ではありがちな構成だとはいえ、ちょっと辟易するところもある。最終的にシャーベットが提示するのは一般的なリベラリズムよりも共同体(共通のアイデンティティ)を重視して、なおかつ平等主義ではなく十分主義なリベラリズムであり、それ自体は妥当であるがとくに目新しくもなく、たとえばロールズドウォーキンの理論のような影響力を持てるかというと絶対そんなことないでしょ……と思わされてしまう。

 

 いずれにせよ、先日に紹介した『資本主義の倫理学』と同じように現在の日本語圏には存在しないタイプの本であるため、この本もぜひどこかの出版社で翻訳を出してほしい*4。また、本書と同じく「リベラリズムの理論」を解説する本であるポール・ケリーの『リベラリズム:リベラルな平等主義を擁護して』が数日後に出版されるので、次はこの本を読んで紹介したいところだ(よければ買ってください、マイケル・ウォルツァーフランシス・フクヤマリベラリズム本も読みたいです)。

 

 

 

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責任否定論に現実味がない理由(読書メモ:『考えるあなたのための倫理入門』)

 

 

 

 この本は返却期限の問題から3章の「権利」と5章の「自由、責任、決定論」しか読めていない。前者の議論はいろいろと納得ができなかったが、後者にはピーター・ストローソンの講演「自由と怒り」に基づくおもしろい議論が含まれていたので、やや長くなるがメモとして引用しておく*1

 

…われわれは、責任をもって行為し、意図的に選択できる存在として人々に接することができる。そして、彼らに対するわれわれの自発的な態度は、われわれがそうしていることを含意している。具体的な事例については、彼らの行為が事故であったり、無理もない間違いであったりした場合や、子どもであるとか老年性認知症により責任を負うことができないと判断した場合に、われわれは彼らの責任を免じることができる。即時的で個人的な反応的態度は、より一般的ないし道徳的な態度と結びついており、両者は同情心を通じて結びついている。われわれの個人的な怒りは同情心を通じて花開き、自分自身を超えて他人に広がるのである。

責任を負うことのできる人々に対するわれわれの感情(怒りや道徳的不承認だけでなく、感謝や愛情や賞賛なども含む)やわれわれに対する彼らの態度は、われわれの生にとって特に重要である。問題は、他の人間とともに生きる人間として、われわれがこれらの態度や反応を除外して生きることを考えられるかどうかである。すでに述べたように、人々をさまざまな理由で責任の適用外にすることは明らかに可能である。なぜなら、そのような人々は責任を問うことができない人々だからである。しかしこのように〔責任の〕適用外とすることは、彼らを道徳感情の世界から、人間以外の動物と同じように排除することである。われわれが十全な仕方でやりとりすることのできない人なのである。すると問題は、われわれがあらゆる人をそのように扱うことができるのかということである。そして、例えばあらゆる人のあらゆる行動は脳の物理的構造を支配している法則によって予見可能であるという理論に従って、あらゆる人をそう扱わなくてはならないと納得してしまうことがあり得るのだろうか。

私は、そのようなことは、人間である以上明らかにあり得ないと思う。同胞のことを他の事物と違わないもの、ただ利用したり、避けたり、操ったり、果てには処分したりする対象と見なす人間もいるだろう。しかしわれわれはふつう、そのような人間は人間的な感情や道徳感覚をまったく欠落している精神病質者と考える。精神病質者は、十全な人間として扱うことのできない者に数え入れる。つまり、われわれはそのような人間とまともにやりとりをすることはできないし、彼らもまたわれわれとまともにやりとりすることができない。したがって、彼らは適用外の範疇に入る。しかしあらゆる人とそのように接することは論理的に不可能である。精神病質は異常なのであり、あらゆる人がこの状態にあることはあり得ない。

自分ではやればできると思っていることを、他人にできないと思われていると知ると、われわれは困惑する。サルトルは、またしても遅刻してきた遅刻の常習者が上司に、間に合うはずだったし、間に合ったはずなのだけれども、今朝だけは車のエンジンがかからなかったので、明日は遅刻しないと言い訳をしているエピソードを紹介している。上司は「そうかもね。君の言っていることを信じるべきだろうね」と言う。この上司はこの部下のことをただ、きちんと作動するかどうか心許ない機械のような、帰納的推論の対象として見ている。この機械が自然にうまく動くようになる可能性は完全にゼロではないが、われわれは過去の経験からその信頼度を図るのである。このような場合、約束には意味がない。われわれはこの機械のようにもの扱いされると、自分ではそれでも自由だと考えているものの、世界における身分が変わる。われわれは非-人間(inhuman)になるのである。

(p.128 - 130)

 

 原著の出版は1998年ということもあり、いまじゃなかなか見かけることもないような「健常者中心主義」的な議論であるかもしれない。とはいえ、上記の文章は、自由意志やそれに基づく責任を否定する議論が一見すると説得力があるし厳密に論破することは難しくても、現実の世界…つまり、論文とか学会とかSF小説の中でなされる議論、あるいは大学の部室やSNSやガキの飲み会の中でなされる放言などの外側にある、まともで成熟した人々たちが暮らして働いて生きている社会や家庭など…では相手にされることなく影響力を持つこともできない理由を、よく表現できているように思える。

 責任否定論を採用しようとすると協働は成立しなくなるし、情操を伴う関係を他人と築くこともできなくなる。そのような状況のなかで生きていたいと本気で思える人はいないということだ。

*1:ストローソンの議論は『そうしないことはありえたか?:自由論入門』でも紹介されていたが、ウォーノックによる紹介のほうがずっと意義がわかりやすいと思った。

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「公共道徳」と「私的倫理」(読書メモ:『J・S・ミル:自由を探究した思想家』)

 

 

 

 この新書に関しては先日に前夜祭的な記事を書いている。

 

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 また、『自由論』についてはこのブログやWebメディアに掲載した記事などでもたびたび登場しているが、ミルの研究書についてはこれまでにも以下のようなものを読んできた。

 

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 本書の構成は、第一章から第三章まではミルの伝記的事実や思想が形成されていった過程が解説されて、第四章から第六章までは主著である『自由論』『代議制統治論』『功利主義が順番に解説されて、第七章で晩年のミルの著作と伝記についてまとめる……というもの。

 先日に読んだ『J・S・ミルと現代』に比べるとミルの哲学的な議論に関する解説がずっと多く含まれているのと同時に、章や節の構成が整然としていて内容も理解しやすくなっている。これは著者自身の能力とか研究の発展とかにも由来しているだろうが、日本の新書文化が成熟したりレベルが高くなったりしたということも大きいだろう*1

 

 本書のなかでもわたしがとくに惹かれたのは、まず、ミルの思想には(父のジェイムズと同じように)「ストア派」的な側面があったことが何度か触れられている点。そして、ミルの功利主義論では「公共道徳」と「私的倫理」が区別されているということがわかりやすく解説されている点である。

 

[「精神の危機」後のミルについて]第一に、「新しい人生理論(a theory of life)を採用するようになったことである」(…)。「危機」の経験に懲りずに、またしても「理論」なのかという印象を与えかねないが、しかし、それは実際のところは、たんなる理論的知識ではなく、むしろ生き方の基本姿勢と言えるものだった。これがミル自身の実感と切り離せない基本原理として、その後の思想の展開において大きな役割を果たすことになる。

第二の影響としてミルが挙げているのは、「感情の陶冶(the cultivation of the feelings)」を重視するようになったことである。陶冶とは簡潔に言えば、素質や能力を開発することを指す。feelingsと複数になっていて、陶冶の対象にはいろいろな感情があるという含みが込められている。後で示すように、それらの中には道徳的な感情も含まれるが、それだけではないところが重要である。

 

(p.50)

 

…ミルが獲得した精神のバランスについては、もう少しコメントを加えておく必要がある。このバランスは、同じ次元の異なる要素が均衡するという意味ではなかった。改革のための活動的な生活は、現実には苦闘の生活とならざるをえない。これとは別次元の世界に「感情の陶冶」の中心はある。活動的な生活は、感情の平穏を得るための手段でも目的でもない。また反対に、感情の平穏も、活動的な生活の手段でも目的でもない。両者は交換不可能なものとして捉えられている。これは、世界を政治や公共道徳一色で塗りつぶすようなタイプの理論とは、まったく異質な捉え方である。むしろ、政治や道徳は別の世界を見据えることで、人間の生活を豊かにし、それとともに、政治や道徳に節度や限界を与えて健全化する捉え方だと言えるだろう。

 

(p. 64 - 65)

 

…法律や社会制度、さらに教育という観点から見る場合には、作為と不作為のあいだには、実のところ、重要な境界線があるとミルは考えている。つまり、他人に危害を与えてはならないという不作為の指示は、社会が強制すべき事柄である。しかし、他人を幸福にすべきだという作為の指示は、社会が強制すべき事柄ではない。教育においても、両者の違いに応じた配慮が必要になる。これは、ミルが『自由論』で自由原理として、つまり、個人に対する社会の干渉の範囲を定める原理として力説していた点に他ならない。

個人がしてはならないことは、社会が義務として定め強制する。望ましいものとして個人に期待される行為は、社会の中で推奨され賞賛されはするが、強制はされない。この区別は、『功利主義』において、先ほど取り上げた有徳な人の自己犠牲をめぐる考察との関連で、はっきりと主張されている。たしかに、有徳な人は、自分の幸福を犠牲にしてまでも、自ら進んで自分以外の人や社会全般の利益のために行動する。しかし、功利主義は、有徳な人のこうした自発的な自己犠牲を、公共道徳の義務としては要求していない。功利主義の道徳は、誰に対しても自己犠牲を要求する過酷な道徳だという批判は、誤解にもとづいている。

功利主義の立場では、公的な効用つまり社会全般の利益を害さない行為の動機が、他者への配慮という立派なものか、自己中心的な利益かは、公共道徳の観点からは問わない。もちろんそれは、人柄や品位の評価という個人道徳の観点から見れば大きな違いである。しかし、功利主義は、これら二つの観点を混同していない。はっきり区別している。

 

(p.238 - 239)

 

特定の誰かが権利を持っているときは、その権利を尊重する義務が、その人以外のすべての人間にある。処罰の感情は、この義務を実際に怠った人間に対して生じる。しかし、他者にかかわらない領域でのプライベートな都合・不都合に対する判断は言うまでもなく、自発的献身や慈善の場合でも、そのような処罰感情の前提になる権利・義務の関係は存在しない。だから、たとえば街頭募金をしなかったからといって、特定の誰かの権利を侵害したとして処罰されることはない。慈愛も正義のどちらも、広い意味では道徳的な事柄ではあるが、両者にはこのような大きな違いがある。その点をまったく無視して「道徳のすべてを正義で一括り」にする(…)のは誤りである。

 

(p.245 - 246)

 

 手前味噌ながら、上記のような「公共道徳」と「私的倫理」の区別は、わたしも『21世紀の道徳』を書いているうちにいろいろと考えるようになったことである*2。というか、道徳や倫理について研究していたり考えていたりする人ならだれでも避けることができないテーマであるのだろう。

 ミルによる「作為」と「不作為」の区別や公私の区別自体が現代ではややナイーヴに見えるところもある。たとえば貧困や差別に関する「構造」に関する議論を持ち出せば不作為も実質的には作為だと言うことができるかもしれない。また、ピーター・シンガーの「池で溺れる子供」の思考実験に基づく海外援助義務論は、他者を幸福にするというよりも危害から救うための、自己犠牲というほどではないが作為ではある行為(募金など)は、社会によって強制されるというわけではないが個人に要求される義務である、という議論だが、これはミルの区別にはちょうど当てはまらないように思える*3。……とはいえ、なんにせよ、ミルによる作為/不作為や講師の区別は議論のスタートラインとしては多くの人にとって理解も支持もしやすいものだろう。

 

 また、感情の陶冶や道徳感情といったトピックの他にも、「権力心理学」や「国民性格学」などの心理学的な物事についてミルが様々なかたちで考察していたことが本書ではたびたび触れられている。ミルは経済学者としても知られており、経済の法則については(当時における)科学法則と同じくらいに確固たる法則を論じることができたが、性格という物事についてはさまざまな知見を蓄積してはいたが科学といえるような理論や法則を打ち立てるまでには思索を発展し切らなかったそうだ。とはいえ、人間の感情や人格のメカニズムについて(できるだけ事実や経験的知識に立脚しながら)精確に知ろうとすることは、経済や政治のメカニズムについて精確に知ろうとするのと同じくらい、規範を論じるうえでは大切なことである。

 だが、現代ではこのことが失念されており、人間の本性をまったく無視した規範論を主張する人が学者のなかにも多々いる。過去の哲学者たちは政治哲学や公共哲学と経済学を分離させずに「政治経済学」としてまとめて考えていたのが学問の専門化や分業化によって現在ではそういう議論が難しくなったのと同じく、過去の哲学者たちは倫理学と心理学を分離させずに論じようとしていたのが現在ではそういう議論は一部でしかなされていないという問題があるのだろう*4。よくある意見だが、精密で専門的になった代わりに断片的でタコツボ化した現代のアカデミックな議論に囚われずに視野を広げておくためにこそ、昔の哲学者たちの大雑把で総合的な議論にも定期的に触れる必要があるのだろう。

 なお、ミルは決して感情主義者や生物学的決定論者ではなく、性格や感情を理性の力で制御するというストア派的な考えも持ち合わせているようだ。また、「人間の思索能力」は社会変化の要因としても抜きん出たものであると論じている(p.116)。心理学を重視する一方で理性の役割も高く評価して、社会変化も理性によってもたらされるという考え方は、後にシンガーが『拡大する輪』で論じたりスティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』で論じたりする議論に通じるものだ。『自由論』や『代議制統治論』とあわせて、ここらへんについても、ミルは現代の理性主義的リベラルの元祖だと言うことができるだろう。

 

 最後に、本書では『女性の隷従』についてはちょっとしか紹介されていないが、その内容はなかなか印象的だった。

 

…女性という人類の半数を占める部分にかんしては、多少は緩和されてきているものの、隷属状態が続いている。原初の社会に存在した力による支配服従の権力関係は、家庭というミクロのレベルで長らく存続してきた。そうしたミクロな権力関係が、伴侶である女性よりも自分は強くすぐれていると男性に思い込ませる。この思い込みは、感情に深く根付いているために、理性的批判をかたくなに拒むのである。他方で、強者に服従する習慣は、女性から自分の能力を発展させる機会を奪い、その性格を受動的で視野の狭いものにしてしまう。こうして、男性の権力的支配が存続し、慣習や制度にも反映し続ける。ミルはこのように、権力心理学を援用した性格形成論によって、女性の生まれながらの劣等性を否定するとともに、女性を従属させる習慣や制度が根強く残っている原因を説明した。ミルはさらに、功利主義の立場にもとづいて、女性の能力を活用する社会的利益と個々の女性自身の幸福という二つの視点から、自由と正義の原則が全面的に適用された社会の実現を訴えたのだった。

 

(p.252 -253)

 

 ミソジニーの原因をミクロな権力関係に基づく心理や性格形成に求めるミルの議論は生々しくて説得力があり、現代の日本でもいろいろと思い出させるものがあるところだ。

 

*1:ただし、「内容が理解しやすくなっている」とてもそれはわたし自身が哲学の本やJ・S・ミル関連本を比較的熱心に読んでいるからであって、そうでない人にとってどこまで理解しやすかったり、あるいはJ・S・ミルという人に惹かれさせたり彼の思想の意義が伝わったりする内容になっているかどうかはわからない。というのも、あまり知らない分野や苦手な思想家に関する最近の新書…とくに中公新書…を読んだときには「新書だってのに知識のあるマニア向けの内容で入門になっていないじゃん」と思わされることも多いからだ

*2:

gendai.media

*3:

ethicalhedonism.blog.fc2.com

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『社会正義論の系譜:ヒュームからウォルツァーまで』

 

 

 

 先日にリチャード・ベラミーの『哲学がわかる シティズンシップ』の邦訳が発売されて、このブログでも記事を書いた。

 

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 また、8月にはポール・ケリーの単著『リベラリズム:リベラルな平等主義を擁護して』が邦訳される*1

 

 

 

 というわけで、記念?として、本書に収められているベラミーの論文「コミュニティにおける正義」とケリーの論文「契約論的社会正義」を読んだ次第。

 

 どちらの論文でも、本書の副題にも含まれているマイケル・ウォルツァーが主な批判対象として言及されている。最近の政治学の本を読んでいるとウォルツァーはあんまり出てこないのだが、原著の出版は1998年であり、リベラルとコミュニタリアンとの論争がまだ進行していたことを彷彿とさせる。

 ベラミーはウォルツァーの「領域的正義」や「複合的財」の考えを以下のようにまとめている。

 

ウォルツァーの正義論の中心命題は、財(goods)は社会的コンテクストの中で観念され、創造され、そして分配されるというものである。財は、すべてのコミュニティに立ち、それゆえ共通の、固定され内在的な「自然の」あるいは「理想的」な意味をもっているわけではない。すべての財は特定の社会関係の産物であり、そうした関係を用い、形成している男女の存在を離れては実在しないし価値ももたない。先祖伝来の家督財産、一パイントのビール、秘伝の発明といった私的に大切なものを含んでいるようにみえる財でさえ、そうした個人的な評価を理解可能なものにさせる公共文化を部分的に形成している。それどころか人格的アイデンティティすら、きわめて重要な面において、社会的財を利用し追求することを通じて社会的に構築されるのである。

財とその意味は社会的に構築されるから、「財とは何であるのか何のためのものなのかということにかんする共有された観念にしたがって分配はパターン化される」とウォルツァーは結論づけている。しかし、社会的な意味は不変でも普遍でもない。社会的な意味とは時を経て変化するものであり、社会ごとに異なっているし、ある場合には社会内部でも異なっているのである。ウォルツァーはこのよく言われる事実から、重要な結果を数多く引き出している。第一に、ロールズとは対照的にウォルツァーは、それぞれの社会は異なった仕方で財を価値あるものとみなすのであり、歴史の歩みを通じて自分たち自身の評価を変えるのだから、「あらゆる道徳的物質的世界の全域で受け入れられるような単一セットの第一義的、あるいは基礎的な財などというもの」は存在しえないと主張している。いくつかの財は、ある社会では非常に喜ばれるものであるかもしれないが、他の社会では周辺的なものとされるか、あるいは存在しないものであるかもしれない。…(中略)…

第二に、これと関係して、同じ財であってもそれにかかわる者たちにどのように理解されているかによって、さまざまなコンテクストでさまざまなしかたで分配されるだろう。…(中略)…

第三に、単一の分配原理、あるいはすべての財や社会を貫く一連の基準を適用させようとする普遍主義的理論は二重の意味で誤っているということが挙げられる。…(中略)…

第四番に、もう一度ロールズに反論する形で、ウォルツァーは、どのような所与の社会の分配基準であろうと、それを評価するためにアルキメデスの点、つまりロールズの言う原初状態のようなものが存在しうるという考えに疑義をさしはさんでいる。…(中略)…

最後に、正義にかんするどのような理論も、社会的コンテクストだけではなくある特定の政治的コンテクストを想定しなければならない。

 

(ベラミー、p.214 - 217)

 

 この要約からも分かる通り、ウォルツァーの議論は「文化相対主義」にかなり近いものであるようだ(政治哲学的には「多元主義プルーラリズム)」と表現するらしい)。したがって、文化相対主義に対する典型的な批判が、ウォルツァーの議論に対しても当てはまる。たとえばベラミーはフェミニストの政治哲学者スーザン・オーキンの議論を紹介しながら、「ある社会の分配基準がその社会の内部に埋め込められた差別的なバイアスに影響される」という問題を指摘している。……たとえば、性差別的な社会では諸々の財は男性にとって有利に女性にとって不利に分配されるだろうし、わたしたちはそのような状況を批判したいと思うだろうが(その社会の内部にいる女性たちもそうだろう)、その批判のためには「正義と平等について、たんに社会と領域に特殊ではなく一般的な見地から考察をすること」(p.230)が求められる。社会的な意味に影響されないように(普遍的な)分配領域を自律させておくことはやはり必要であるのだ。

 また、ウォルツァーの議論は財の多元性や複合性を強調することで価値とか意義とかが市場とか資本主義とかお金とかに一元化されないようにする、みたいなことも意図しているようだ。しかし、ベラミーの批判を読む限り、ウォルツァーの議論はかなりナイーブなものであるように思われる。たとえば、ヘルスケアの分配基準は健康へのニーズに基づいて他の領域からは独立して制定されるべきだとウォルツァーは主張するが、実際にはヘルスケアの基準は「予算」という経済的なものも考慮しなければならないし(いくら必要であるとしても膨大なお金が必要とされる治療を無制限に実施することはできない)、「危険なスポーツをやっている人は公的な保険だけでなく民間保険に入るべきだ」とか「大酒を飲む人やヘヴィ・スモーカーは普通の人より高い保険金を払ったり病気になったときの自己負担の割合を増やすべきだ」といった、責任などに関して人々が抱いている道徳的・規範的な考えも分配基準を制定する際には考慮すべきものである(人々の道徳原理に全く一致しないような基準は、その財や領域に関する「ニーズ」がどのようなものであっても、許容されたり採択されたりすることがないだろう)。ついでに言うと、わたしたちは健康だけでなく食糧や衣服も必要とするが、それらが国営スーパーマーケットや国営デパートで万人に対して公的に配給されるべきだとは誰も思わない。……しかし、健康だけを特別視する理由も自明ではない。結局のところ、「ヘルスケアは人間のニーズであると人々が認識すること[※そのような観念が社会的に共有されること]と、それが非市場的基盤に依拠して公的に給付されなければならないと人々が考えることはまったく別のことである」(p.227)。

 また、ウォルツァーは「地位」に関する多元的な平等について論じている。……現代社会では所得や学歴や職種といった諸々が相互につながっており(相互交換性)、学歴が高ければ待遇が良くて社会的な評価も高い職業について所得も増やしやすいが学歴が低ければその逆となりやすい。しかし、財産や学歴や職業といったそれぞれの領域を分離できれば、学歴が低くても恵まれた仕事を得ることができたり、お金を持ってなくても良い大学にいけたりして、みんなが満足できる。……これについては、そもそも様々な財には因果的関連性が存在しており、教育レベルの高さは職業に必要とされる技能レベルの高さにも実際につながっている、という問題がある。たとえば、平等を理由にして大学を出ていない人を高度な知的専門職に就かせても、その仕事をこなすための技能を持っていないのだからナンセンスだ。ウォルツァーの理想を実現しようとすると共産主義的な計画経済社会になるだろうし、そのような社会は結局のところ資本主義に比べて人々を不幸にしてしまう(さらに、共産党へのコネクションを持つ人は地位も学歴も所得も手に入れる、という風に、資本主義社会よりもロクでもないかたちの「転換可能性」が到来してしまうことを歴史が証明している)。

 ウォルツァーのようなナイーブさは、同じくコミュニタリアンであるマイケル・サンデルの議論に対してもわたしが常日頃から感じていることである。ごく一般的なイメージで言えばリベラルに比べるとコミュニタリアンは保守とか右派とかに寄っていると思われており、そして保守とか右派とかの特徴や強みは左派に比べて「現実的」であったり「歴史的・経験的事実を尊重すること」であったりするはずなのだが、リベラル・コミュニタリアン論争を見ていると、リベラルのほうが現実的でコミュニタリアンのほうがナイーブであったりノスタルジックであったりすることのほうが多いのだ。リベラリストが提示する分配基準や社会像は人間の本性とか経済や社会のメカニズムをきちんと見据えたうえで実現可能(とリベラルが思っている)な範囲内ギリギリの「理想」であるのだが、コミュニタリアンはそのことを無視してリベラルを批判してしまうので自分たちでは実現可能な分配基準や社会像を提示することができず大雑把な理想論に終始する、ということだと思う。

 

 ケリーの論文ではウォルツァーに合わせてアイリス・マリオン・ヤングも批判している。「差異の政治」を主張する彼女の議論は、アイデンティティ・ポリティクスに基づいて社会契約論的なリベラリズムを批判しているという点ではウォルツァーと共通している。そして、ケリーはロールズ的な「公共的理性」を重視する議論によって、ウォルツァーやヤングに反論している。

 

……本章のはじめのほうで、わたくしは、契約論的な分配的正義の優先性がなおその存在意義を失っていないことを説明するのは、理由を与えるというその構想と、民主的社会における公的な正当化との類縁性であることを示唆した。社会的協働の利益と義務を分配する正義の原理を正当化するとき、その目的は、同意を強制することではなく、共通の地盤をみいだすことにある。このことは、すべての人が、何を信じていようとも受け入れることのできる理由を探究することを伴い、またこのことは、理由の潜在的な受益者として〔すべての人を〕平等に承認することを含む。それはまた、各人への負担の押しつけに対して、それらの負担を受け入れるべき理由が与えられない場合には、それを拒否する権利を各人に与える。いいかえれば、契約論的自由主義の根本的に平等主義的な前提は、公的正当化の理念のなかに組込まれているのである。なぜこの結びつきがあるのだろうか。その答えは、平等から離れることを正当化するためには、われわれは、平等に扱われない人々に対して、不平等を正当化しうる理由を与える必要があるということ、そしてこのことは承認の平等を伴っているということであるように思われる。ともかく、利益集団や社会階級、あるいは人種的集団の有利な立場を反映するにすぎないような理由を提供するのに、たいした知識や技術は存在しない。それに代わりうるのは、行為を正当化することをまったくしないで、たんにそれらを押しつけることであるが、しかしこれはもはや政治理論の問題ではなく、むしろ民主的な政治家にとっての実践的問題である。…(中略)…ひとたび包含と排除を正当化する必要が提起されると、そのときには、なにが公的理性を構成するのかという問題が前面にもち出され、アイデンティティに訴えることは根本的な重要性をもたないとみなされるのである。

 

(ケリー、p.269 - 270)

 

 ケリーは「二階の公平性」という議論も提出しているが、これは、異なる「包括的教説」を持つ人たちであっても支持できるものとしての「政治的リベラリズム」、というロールズの議論を彷彿とさせるものである。いずれにせよ、アイデンティティの政治も結局は理性に基づくリベラルな合意に立ち戻らなくてはならない、という主張だ。これは、最近でも『「社会正義」はいつも正しい』でなされていたものである*2。以前にも思ったことだが、昨今のアイデンティティ・ポリティクスや「特権」理論とそれに対する批判の多くは、リベラル-コミュニタリアン論争の際にすでに論点が提出されたり議論がされたりしたものであり、歴史は繰り返す(というか過去の議論を参照するのをみんな怠っている)ということであるかもしれない。

 

*1:レビューするので買ってくれればありがたい。

www.amazon.co.jp

*2:

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