道徳的動物日記

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読書メモ:『14歳から考えたい レイシズム』&『14歳から考えたい セクシュアリティ』&『14歳から考えたい 優生学』

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』『マルクス』などに続いてVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ。

 今回はすばる舎から出ている『14歳から考えたい』シリーズのうち3冊を一気に流し読みしたので、ごく短い感想だけ残しておく。なおいずれも「14歳」向けではないし、「14歳」向けにしようとする努力が裏目に出ているように思えるのだが、これに関しては『14歳から考えたい 貧困』の感想を書いたときに十分に愚痴ったので割愛。

 

 テーマがテーマだということもあり、基本的にどの本もサヨクというか左派的な観点から書かれていて、他のVery Short Introduction シリーズに比べても中立性や客観性には欠ける。とはいえたとえば『レイシズム』というテーマを中立的に扱うことは可能ではあろうがそのような行為自体が他の左派からの批判を受けるリスキーなものであろうし、『優生学』についても現在の一部の生命倫理学者なら肯定的な議論はできるであろうがそのような議論自体がかなりマイナーであるから優生学について中立的に議論しようとすること自体が(現状では)偏ったものである、みたいなことは言えるだろうから仕方がないところはあるかもしれない。

 

 

 

 

レイシズム』については他の人の感想を見ると「難しい」という声も多かったが、レイシズムに関する社会学にある程度触れたことのある人なら「はいはいそういうことね」とか「あーああいうやつね」とか言った風に「察し」の付く議論が多く、全体的にもそこまで難解ではない。レイシズムは生物学だけでなく文化に基づくものであること、イスラモフォビアも(「レイシズム」の定義を操作すれば)ある種のレイシズムであることなどは、まじめに考えれば難しい議論であるかもしれないし矛盾も見つかるかもしれないが、薄く浅く「反差別を重視している人の言いたいこと」として理解するならすっと飲み込める。

 また、本書では人種の際を強調せず個人を平等に扱おうとするカラーブラインドは被差別者の人生経験やアイデンティティを無視するものであるうえにネオリベラルだったりするからダメ、「無意識の偏見」に関する社会心理学の議論は構造的レイシズムの深刻さを真剣に捉えておらず個人の意識に問題を帰着させるからダメ、トランプなどを支持するようなポピュリストたちについて「労働者階級」であることとか「反エリート」であることを強調する議論はポピュリストたちがレイシストでもあるという問題を覆い隠すからダメ、といったことが主張されている。要するに、とにかく社会の問題は「レイシズム」によって分析しなければならないし、ついでにいうと人種間の平等は見せかけなので差異を強調した議論をしなければならない、という感じだ。……この書きぶりからも伝わるだろうが、本書を読んでいてわたしはかなり徒労感やうんざり感を抱いてしまった*1。とはいえ、本書のような議論は、現代の(左派)社会学における「レイシズム」論の典型であることは確かであるし、そういう意味では入門書として良いものだと言えるかもしれない。もちろん他の考え方に触れることを前提にすべきだけど。

 また、ニコラス・ウェイドの『人類のやっかいな遺産』をはじめとする、左派社会学ではないタイプの学問や方法論に基づいた書籍や議論などが多数取り上げられたうえで「レイシズムの深刻さを理解していない」とか「レイシズムに基づく議論である」とかしてバッサリ切り捨てられるのも本書の特徴(『人類のやっかいな遺産』については私も微妙な本だと思うけど)。他の学問や他のトピックを扱っているVery Short Introdutionやその他の入門書ではもうちょっと他人の議論に対してフェアであったり謙虚であったりするものだけれど、まあそういう独善さもこの種の社会学の特徴ではあるのでやはり入門書としては逆説的にいいのかもしれない。

 

 

 

セクシュアリティ』は全体的にミシェル・フーコーの出番が多く、そのせいか「規範」とか「権力」に関する言及が少し口うるさいし、進化生物学の議論についてはかなり冷淡に扱われている。「性といえばフーコー」というのもいい加減に止めたほうがいいと思うんだけど、まあ現状そうなっているんだから仕方がない。

 全体的には政治的なメッセージ性はさほど過剰でもなく、古代ギリシア・ローマやキリスト教社会や近代社西洋などでセクシュアリティはどう扱われてきたか、フェミニストたちは「性の解放」やポルノについて賛否それぞれどんな議論をしてきたか、現代ではセクシュアリティジェンダーに関してどんなことが問題になっているか……といったことが、さほどのノイズもなく、時系列順に比較的わかりやすくまとまっている。古代だと「女性は性に旺盛」だとされていたのがキリスト教以降は「女性には性欲がない」とされたことや制欲自体に関する見方が歴史上で二転三転してきたこと、マルクス主義でも「性の解放」を期待する面があったこと……などなどについては面白く感じたし、知的好奇心がそこそこ充たされた。

 

 

 

優生学』は優生学の歴史を丁寧に解説する本で、ほとんどが戦前までの話で現代に関する議論は終盤に僅かにあるくらい。なので面白みはあまりなかったし、抱ける感想もとくにない。でもまあ優生学の歴史についてここまで読みやすくかつまとまった解説がされている本は邦訳書を含めてもほとんどないだろうから、そういう点では有益な本であると思った。

 

*1:著者はイギリス人であるが、下記における「アメリカの黒人エリートは差異を強調したがるが、他の階層の黒人たちは平等を求めている」といった議論を思い出した。

econ101.jp

読書メモ:『市民的抵抗:非暴力が社会を変える』

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』『マルクス』『貧困』と、最近のこのブログではVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介し続けているが、今回は同じくオックスフォードのWhat Everyone Needs to Knowシリーズからの邦訳である『市民的抵抗』を紹介。

 

「市民的抵抗」の定義とか本書の目的とかは以下の通り。

 

市民的抵抗とは、政治的、社会的、経済的な現状を打破しようとする目的で、暴力を用いる、あるいはちらつかせる者に対して、暴力を用いずに、暴力をちらつかせたりせずにおこなう集団行動様式である。市民的抵抗は、手段と目的において、組織立っており、民衆によるものであり、明確に非暴力である。本書は、市民的抵抗キャンペーンがかたちづくり、戦略を立て、組織化し、動員してきた方法について、歴史から学べることをまとめたものである。

 

(p.27)

 

 本書でとくに強調されるのは、「暴力行動を含まない市民的抵抗は無力であるから、他の社会運動の方法に比べて成功率が低い」というイメージとは裏腹に、実際には市民抵抗は他の方法に比べて成功率が高いという主張だ。この主張の背景には、政治的権力というのは「強制」よりも「正統性」に基づいており、どれだけ暴力を独占している政治体制でも民衆による支持や協力が失われたら弱体化してしまうのであり、そして市民的抵抗は暴力を伴わないことで自分たちの主張の正統性を他の市民たちに対して説得しやすくなり、既存の政治体制に対する支持や協力を削減しやすくなる……といった理論が存在する。また、市民抵抗といえば抗議やデモを想像するかもしれないが、消費者ボイコットとか選挙ボイコットとか徴兵拒否とかハンガーストライキとかそういうのもぜんぶ市民的抵抗である。

 なお、本書の帯文でも大々的に紹介されている3.5%ルールとは以下のようなもの。

 

「三・五パーセント・ルール」とは、運動の観察可能な出来事の絶頂期に全人口の三・五パーセントが積極的に参加している場合、革命運動は失敗しないという仮説だ。

(p.174)

 

 とはいえ、帯文での扱いに比べると本書では3.5%ルールがそこまで強調されているわけでもないし、多少の留保も含まれた扱いになる。

 

 ……いずれに、わたしからすれば、全体的に本書はかなり微妙だった。著者のエリカ・チェノウスは研究者兼社会運動家であるようだが、そういう人の書く本が往々にしてそうであるように、本書は(入門書だっていうのに)一般読者に対して知識や知見を客観的かつわかりやすく紹介する本というよりかは、もともと社会運動に参加していたり関心があったりする人や左翼的な価値観や考え方をしている人たちに対してその人たちが望むような議論を提供して気分を良くさせつつアジテーションを行う、といった内容になっている。

 たとえば「市民的抵抗は暴力を伴わないなら成功しづらいんじゃないの?」というのはごく常識的な意見であるし、この意見を支持するような議論や研究を展開している研究者もいるはずであるが、本書では「実は市民的抵抗は成功率がいちばん高い」という主張を強弁するあまり、対立する意見はほとんど取り上げられない。また、「これまでの歴史上で市民的抵抗が行われてきた事例」や「市民的抵抗が成功した事例」といった個別具体的な事例が大量に並べられたり固有名詞が雨霰のように羅列されたりアネクドータルなエピソードがいっぱい紹介されたりする一方で、市民的抵抗という理念の発展の歴史や時代・地域ごとの代表的な見方や批判意見を紹介したり現在の諸々の理論において市民抵抗はそれぞれどのように捉えられているか……といった「市民的抵抗とはなにか」ということについて読者に知らせて考えさせるきっかけとなるような情報をバランスよく提供する、といった心構えも一切感じられない。

 そして、本書の内容に客観性や中立性を一切感じられないせいで、「市民的抵抗は成功率が高い社会運動の方法である」とか「3.5%ルール」とかいった著者の主張もほとんど信用できるものではなくなっている。運動の目的にとって不利益であったり都合が悪かったりする事実や研究結果なども直視して、目的を等しくしない立場の者からの批判も受け入れながら、正しい知識や理論を探究する……という研究者なら当然求められる資質を著者が持っているかどうかが非常に疑わしくなってしまうのだ。

 

 本書を読んでいてわたしが思い出したのは『ブルシット・ジョブ』である。

たとえばベーシック・インカムを導入するにしても、そこで必要となるのは、人々のインセティブに対してどのような影響が出てどのような副作用が出るかなどについての、冷静な検討と試算と実験と対策である。人びとの感覚に深く寄り添った耳心地のいいアジテーションはお呼びでない。

……しかし、これはいつも思うことなのだが、それなりに本を読んでいて物事を考えて生きているであろう人がこういうアジテーション的な主張にコロッとやられてしまうのは不思議なことである。

あるいは、こういう本を好む人は本のなかで主張されている内容の理論的妥当性とか実現可能性とか批判の正当性とかはどうでもよくて、幾多のエピソードとカタカナ言葉に彩られた「ラディカルな解放の書」を読むという行為自体に楽しさや気持ち良さを感じているのかもしれない。

読書メモ:『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』 - 道徳的動物日記

 

『市民的抵抗』は『ブルシット・ジョブ』よりかはマシではあるが、議論の内容もエピソード過多な文章も似ているし、サヨクの社会活動家(兼研究者)が書いた本はどれもこういう風になるのだろう。そして『ブルシット・ジョブ』はベストセラーだし本書についても日本国内では批判意見をいまのところほとんど見かけないので、こういうのを求める読者層や「市場」というのはもうすでにあるんだからそれに文句を付けるのは野暮だということになるのかもしれない。だとしてもわたしの読書時間を無駄にしたことは許せないので、帯文には「知識を得るための入門書じゃなくて読んでいて気持ち良くなるためのアジテーション本ですよ」くらいのことは書いておいてほしかったと思う。

 

 なお、市民的抵抗とはほぼ同じ意味を持つ「市民的不服従」については(本書では市民的抵抗と市民的不服従は違うみたいなことも書かれていたけれどまあ無視していいです)、過去にピータ・シンガーによる倫理的な議論をこのブログで紹介しています。

 

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『一冊でわかる デモクラシー』&『啓蒙とはなにか:忘却された〈光〉の哲学』

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』『マルクス』『貧困』に引き続きオックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第七弾。ただし今回紹介する『デモクラシー』と『権威主義』はどっちもあまり良い本ではない(前者はロクでなしという域に達している)のでまとめて紹介。

 

 

 

 バーナード・クリックはわたしでも知っているような有名な政治学者で、本書が出版された時点で73歳と高齢であり、本書のカバーに書かれている紹介によると「イギリス政治学の重鎮」であるらしい。

 訳者あとがきでは、イギリスの政治学にはアメリカ的な「政治科学」とは異なる「政治理論」の伝統があり、「政治科学」が軽量的な測定とかモデル構築とかの専門的な手法を重視する代わりに専門家にしか通じないタコツボ的な議論になっているのに対して、クリックの行っているような「政治理論」は「読書界全般(リーディング・パブリック)」を対象読者として想定した広く一般にも通じるような議論を展開しているそうだ…が、クリックはたとえばジョン・ロールズの『正義論』のような、(アメリカの)分析的政治哲学の著作も「政治科学」扱いしているようである。

 たしかに『正義論』はこのわたしですら何度読んでもよくわからんところが多い難解な著作であるし、分析的政治哲学(というか分析哲学全体)が一般向けではないところがあるだろう。一方でクリックのようなイギリス流政治理論は「文芸的」とも称されており、学問的な議論を展開すると同時に読み物としてのおもしろさとか文章の質の良さとかも保っているところを誇っているとかそんな感じらしい。……だが、訳者あとがきにも書かれいる通り、本書には「その語り口からして彼一流のもので、議論の飛躍や脱線、ジョークや皮肉にあふれている」のであり、そのせいで「読者にとっては議論の筋が分かりにくい部分がある」(p.211 - 212)。入門書だと銘打っているのに読者にとって議論の筋を分かりにくくさせるのは一流じゃなく二流や三流の人間のやることだろう。

 とくに問題なのは、「ジョークや皮肉」であり、だれにでも想像できる通り73歳の高齢者によるジョークや皮肉が面白いわけがない(そして悲しいことに高齢者になればなるほど自分の面白くなさについて客観的に理解できなくなってジョークや皮肉を言いたがってしまうものである)。しかもそのジョークの内容も「アメリカ人はポピュリム支持のバカである」とか「動物の権利運動や環境保護運動はインテリのお遊びである」とか「フランシス・フクヤマは愚かで単純な議論を行なった」とかの世間(すくなくともイギリスの「読書界」)に存在しているであろう単純化されたステレオタイプや偏見に基づいた安直なものであり、なんら刺激的なものでもなければ啓発的なものでもない。また、ジョークや皮肉のほかにも本書ではやたらと古典や歴史的エピソードからの引用が登場するのだが、教養のひけらかしにしか感じられず、議論の理解を深める役に立つというよりもノイズにしかなっていない。段落の最後で急に話が脱線するのも「わたしと同じくらいの教養を持つ読者ならこの議論についてわたしがなにを思っているかわかってくれますよね?」という「目配せ」みたいなものを感じてキモいし、総じてイライラする*1。いまのところ読んだなかではVery Short Introdutionのなかでもぶっちぎりでワーストだ。

 

 いちおう本書の内容を紹介すると、アリストテレスマキャヴェリトクヴィル、ミルといった思想家たちがそれぞれデモクラシーについてどんなことを考えていたかという思想史的な記述と、デモクラシー自体の発展の歴史に関する記述が織り交ぜられている。アリストテレスが民主制と貴族制の混合(中間)を理想としていたというあたりとか、マキャヴェリのデモクラシー観やトクヴィルが自由のためにデモクラシーが必要なんだと考えていたみたいな記述はそこそこ参考になった。

 第五章はポピュリズムに関してでありアメリカがポピュリズム的ということがくどくど述べられているが、このトピックは現代の研究者に任せたほうがいいだろう。また第七章でのシティズンシップ論もこんな教養ひけらかし権威主義ジジイに語られたくないと思ってイライラした。

 

 なお、今年の年末に、Very Short IntodutionのDemocracyはナオミ・ザックという人が書いたバージョンが新しく出るらしい。まあそうしたほうがいいだろう。

 

 

 

 

『啓蒙とはなにか』も『デモクラシー』ほどではないが、一般読者に対して「啓蒙とはなにか」ということについての知識や見取り図を真面目に提供する気があるのかどうか疑わしく思わさせられるような内容だった。

 本書の著者は「最近では啓蒙を拡大解釈して現代にも啓蒙が必要だと論じたり、啓蒙の悪い側面を無視するような議論が増えている」ということを憂いたうえで「啓蒙とは歴史の一時期にしか存在せずある段階で終わったものだ」ということを強調される。それ自体は思想史の考え方としてあり得るものかもしれないが、問題なのは、じゃあなぜそんなもう過去に終わったものについて読者が学ばなければならないのかという理由や意義みたいなのがさっぱり示されないことだ。また、なぜ啓蒙が拡大解釈されるか……なぜ思想史学的には牽強付会な議論だとしても啓蒙の良いところを取り出して現代に適用しようとする著作家や学者がいて、彼らの書いた本が多くの読者に好意的に受け入れられているのか、ということについても著者はしっかり取り上げて議論しておくべきであっただろう。

 そもそも「啓蒙」というテーマでVery Short Intodutionを執筆する依頼が来たこと自体が現代の「啓蒙」ブームのおかげであるだろうし、わたしを含めた読者の多くは「啓蒙は昔に終わったものだから現代に適用しようとする議論はみんなインチキなんだもん」という思想史的見解の一方的な押し付け以上のことを求めてこの本を購入したんだし。一般読者を向けた入門書を書く以上は、思想史専攻の院生や学部生ではない人にとっても読む意義を感じられる内容にするよう心がけるべきだ。

 

 本書の内容自体も、啓蒙時代に関連するさまざまな思想家やトピックが雨霰と登場してはちょっとした説明が書かれて退場して……の繰り返しであり、内容が散漫で印象に残らなかった。

 

*1:とはいえ、「一般読者」のなかには、本のなかで展開されている議論の内容ではなく、重鎮と称されるエラい学者の繰り広げられるジョークや教養ひけらかしや目配せなんかにこそ「知的」な雰囲気を感じてそれに浸ってうっとりする、みたいな人がかなり多いのだろうなとは思う。たとえば蓮實重彦のファンとかは全員そうだろう。

読書メモ:『14歳から考えたい 貧困』

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』『マルクス』に引き続きオックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第六弾。今回は『貧困』だ*1

 

 のっけから苦言を呈すると、Amazonレビューなどでも散々指摘されている通り、本書はまったく「14歳」向けではない。原著では他のシリーズと同様に大学生以上を想定して書かれているわけであり、学問的な方法(本書は主に経済学)の存在をしっかり知っていると同時に、世界ではどんな国があってどんなことが起こっているかとかイギリスやアメリカではどんなことが社会問題になっているかということについても基本的な知識を持っていて、さらにそれらの問題に対する平均以上の関心を培えている人……つまり比較的まじめで立派な大学生が対象にされている。大学生のなかでもそこまでの域に達している人なんて決して多数派ではないのに、ましてや日本の中学生にとってはかなりハードルが高いはずである。すくなくともわたしが14歳だった頃はこの本には興味も持てなかったし理解もできなかっただろう。もしかしたらすごいハイレベルな進学校に通っている14歳なら違うのかもしれないが、このテーマでそういう人を対象にするのもどうかと思うし。

 これは単にタイトルに難癖を付けているというわけでなく、「14歳」を対象にするために本文が「ですます」調で訳されていたり各ページの上部に大量の訳註が記載されていたりすることで、本文が理解しやすくなるというよりもむしろノイズが多くなって読みづらくなるという弊害が生じているからこその指摘である。

 

 それはともかく本書の内容を紹介すると、著者は経済学者であるために本書もほぼ経済学の本となっている。

 イントロダクションではロールズの格差原理が登場、第二章「貧困の歴史」でアダム・スミスマルサスリカードマルクスなどの古典的な経済学者たちが貧困の原因や対策についてどのように論じたかを紹介するくだりは思想史っぽいし、第三章「幸福のはかりかた」ではケイパビリティ・アプローチに関してマーサ・ヌスバウムの名前も登場するが、哲学的な要素はそれくらいで、たとえばシンガーやポッゲなどのグローバル正義論などを紹介しながら「そもそもなぜ外国の貧困を解決すべきか」という規範を問うような議論は含まれていない。

 一方で経済学に関しては「貧困」というテーマを足掛かりにしながらかなり幅広い内容が詰め込まれている。

 たとえば第七章「貧困との戦い」では開発経済学がメインになっており、比較優位の考え方やRCT(ランダム化比較試験)の理論が紹介されたり、イースタリーにアセモグルとロビンソンにディートンにフォーゲルにと現代の有名な経済学者たちが次々と登場したりする。またこの章ではインセンティブモラルハザードの問題に言及されていたり、「ある程度の不平等の存在はむしろ必要かもしれない」とか「過度の援助は(腐敗した国家や政権の存続を後押しするから)逆効果になる可能性がある」といった、経済学的な冷めた意見も(他の意見と並んで)紹介されていたりするところが面白い。

 第五章「労働市場」は労働経済学の考え方を紹介する内容になっており、雇用と失業に賃金や労働者の職能といった基本的なところから、労働市場における差別(ベッカーやアローが登場)や移民の影響といったトピックも取り上げられている。また、第六章「貧困分布と階層移動」では世代間における貧困の再生産といった問題が紹介されている。

 

 わたし的にとくに興味深かったのは、やはり「幸福のはかりかた」。この章で紹介されるのはあくまで経済学における諸々の指標であるが、「幸福をどうやって測るか」「幸福をどうやって定義するか」ということ自体は哲学や倫理学でも伝統的なトピックなので興味を抱きやすかったのだ。……とはいえこの章は他の章に比べてもかなり専門的かつ難しい議論を駆け足気味に紹介している感もあった。

 また、第4章「暮らしのいたるところで」では「幸福感に影響をあたえる五つの側面」として健康や家族構成、教育と資産、そして環境が取り上げられている。第七章でも貧困と女性差別の関係についてけっこうなページ数をとって紹介されており、なんだかんだでSDGs的な問題意識って重要なんだなということが再確認できる。

 

 ……とはいえ、本書ではグローバルな貧困についても(先進)国内の貧困についてもどっちも扱われているぶん中途半端な内容になっているところもあるし、また「貧困」というテーマを(さまざまな学問の視点を取り入れながら)包括的に扱う内容にはなっていない一方で「経済学の入門書」として書かれているわけでもなく、どっちつかずなところが漂う。

 ほんとうなら「貧困の経済学(Economics of Poverty)」というタイトルにすべき内容のところを「貧困」にしてしまっていることが問題だろう。まあ、タイトルとなっている単語は広い意味を含むのに本文の内容は著者の専門分野という狭い範囲に限定されるという問題は、 Very Short Introduction シリーズではよくあることだ。

*1:

 今後は『不平等』や『ニーチェ』あたりを紹介したいところです。

 

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読書メモ:『ロールズ正義論とその周辺 コミュニタリアニズム、共和主義、ポストモダニズム』

 

 

 マイケル・サンデルの『実力も運のうち』は案の定ベストセラーになって、この度は文庫版も出版された*1。しかし、『実力も運のうち』でなされていた議論についてわたしはかなり批判的だし、この本を読んで以来はサンデルやコミュニタリアニズム全体に対して疑問を抱くようになった*2。そのため昨年からの政治哲学の勉強の一環としてサンデルの『自由主義と正義の限界』を読んだうえで、『リベラル コミュニタリアン論争』も約一年前に読んだのだが、後者の本ではサンデルの議論の問題点が簡潔にまとめられていた記憶がある(読書メモを取れていないのでそのうち読み返すつもり)*3

 そして、サンデルに対する批判をもっと読みたいので調べていたところで評判を聞いた、『ロールズ正義論とその周辺』を(近所の図書館に置いていなかったからわざわざ相互貸借サービスを利用して)借りて読んでみたのだが……残念なことに、ここ最近にわたしが読んできた本のなかでもぶっちぎりの悪文で読みづらい。というのも、サンデルに対する「批判」の域を超えた「悪口」や下らない嫌味や皮肉、要領を得ない比喩表現や高尚ぶるだけの意味しかない修飾語に翻訳すればいいだけの無意味な英字表現が、全ページにわたって延々と頻出し続けるからだ。これらがあまりにノイズになり過ぎていて、議論の筋や文章の意図を追っていくことすらしんどくなってしまった。

 サンデルに対する悪口を言うだけならまだ許せるが(それもよくないが)、ここまで悪文であると読者であるわたしまでもがナメられている気がしてしまう。ストレスも溜まるし時間の無駄だし、『リベラル・コミュニタリアン論争』を読み直せばいいやという結論に達したので、途中で読むのを放棄しました。……とはいえ、せっかくわざわざ借りてある程度のページ数は読んだのだから(そしてもう二度と手に取ることはないだろうし)、読めた範囲で重要そうに思ったところのメモだけは取っておく。

 

[『リベラリズムと正義の限界』におけるサンデルのロールズ読解について]…「善」と「正」の関係がまずい。多分に意図的であるような気もするが、ロールズ善論の基本構造を無視する言説が多い。「正は善に先立つ」、これだけでは何も理解したことにならない。まずは、ロールズ善論が「二層構造」(two-tiered structure)をもつことを押さえなくてはならない。すなわち、

(1)薄く一般的な善論ーー幸福一般の理論。人間は幸福を追求する存在である。そのために、種々の社会的基本善(social primary goods)や合理性を必要とする。

(2)厚く特定的な善論ーー特殊な幸福の理論。個人ないし集団が追求する確定的な善に関わる。包括的な哲学や世界像に裏打ちされている。

そこで、ロールズ善論と正義論の構造を明記すると、(1)は正義論に先行し、(2)は正義論のあとに来る。つまり、「一般的善は正義に優位し、正義は特定的善に優位する」というのがロールズにおける善と正の正確な関係である。ロールズ正義論は(1)において「目的論」(ヒューム)をとり、(2)において「義務論」(カント)をとる。読者には、そもそも正義の二原理がどういう原理であったかを思い起こしていただきたい。それは、「公正な環境下でもっとも合理的に幸福を追求するときに、個人が従う行動原理」であった。幸福(一般的善)の追求は正義の前提である。以下、サンデルの体系的なロールズ誤読は、かかる基本構造の無理解によっている。我々はつねに、一般的善と特定的善を峻別しなければならない。ちなみに、サンデルの基本的な主張は、「厚く特定的な善が正義に先行する」ということである。

だから、「自我は目的に優位する」(主体は条件に先立つ)も同じである。一般目的としての幸福ーー上記(1)に相当ーーは自我に優位する。それはその存立条件でさえある。自我が優位に立つのは、厚く規定された特定の目的ーー(2)に相当ーーに対してである。

サンデルが、「ロールズはヒュームとカントを和解させることに失敗した」と断定するのは、彼がロールズ善論の二層構造を無視して、あらゆる善を十把一絡げにしているからである。

 

(p.96 - 97)

 

義務論的自我は一切の目的や価値に先立ってアプリオリに個別化された自我である。対して、格差原理は「共同資産」(自然的資質の共同所有)を前提としており、ひいては相互主観的な共同主体を想定する。従って、義務論的倫理は格差原理と両立しない。[←格差原理に関するサンデルの批判の要約]

[…中略…]

格差原理が共同資産論、ひいては共同主体論を前提するという誤解は、すでに過去のものである。[…中略…]共同資産論は格差原理の一解釈(モデル)であってその前提ではない。個人主義的な【方法論】によって演繹された格差原理が、強く共同的な社会(共同資産社会)をその「モデル」、すなわちある種の【存在論】としてもちうることの論証は、【方法論】的個人主義者にとってはその輝かしい成功を意味するのだが、【方法論】と【存在論】の区別が付かない人々には、奇天烈なサーカスとうつるのである。

また、社会的協働の産物を「社会のもの」と見なすにあたって、「共同主体」のごとき神秘的な実態を捏造する必要はない。「みんなで作ったものはみんなのもの」という幼稚園的倫理で十分である。

 

 

(p.100 - 101)

 

こうしてロールズをdichotomyの一極に押し込んだサンデルは、ロールズに「何もかもダメ」の烙印を押して終わる。きっかけはやはり、原初状態のトラウマである。たかだか【方法論】でしかないものに【存在論】(哲学的人間学)を読み込み、ロールズの人格論・自我論を都合よく創作してしまった。バランスを失ったロールズ批判は結局パラノイアの域を出ていない。「構成的」(constructive)への妙なこだわりは、アトムとしての自我がそれを受け入れない、という妄念の裏返しである。

 

(p.107)

 

 上記の引用部分はいずれも第二章から。また、第二章の終盤では、ロールズ自身もサンデルによる「自我の構想」批判を一蹴したことが指摘されているほか、「ロールズが政治的リベラリズムに転向したのはサンデル(をはじめとするコミュニタリアン)の批判を受けたからだ」という世間の通説が誤りであると論じられている(コミュニタリアンの批判を真に受けたなら「包括的リベラリズム」の方向に進んでいたはずなのに、ロールズが実際に進んだのは真逆の方向だった)。

 サンデルによる「自我の構想」批判が些細な論点をあげつらう難癖みたいなものだとは、わたしも『自由主義と正義の限界』を読んでいるときにぼんやりと感じていたことだ。それを明文化して指摘されたこと自体はありがたい(だからといって「トラウマ」とか「パラノイア」とかいった表現を使う必要は皆無であると思うが)。

 

 あと本書のよかったところを探すなら、「包括的教条」や「哲学」といったものを一切拒む、ドライで冷徹なプラグマティズムとしての「政治的リベラリズム」の姿が描き出されていること。リベラリズムを支持する人であってもわたしを含めた大半がどこかに「卓越」とか「徳」の余地を見出したがるところだが、リベラリズムはあくまで異なる価値観や利害を持つ人々の協力を成り立たせるための社会契約に過ぎないのでそれ以上のものを求めるんじゃないよ、みたいな突き放した考え方が感じられた(ちゃんと読んでいないので違うかもしれないけど)。

 宗教とリベラリズムの関係に関する以下の指摘も覚えておきたい(あくまで「ロールズ型リベラル」の考え方であり、マーサ・ヌスバウムもウィル・キムリッカも同意しそうにないものだけど)。

 

宗教問題に対する「ロールズ型リベラル」の反応は、要するに「触らぬ神に祟りなし」である。そもそもリベラリズムは阿鼻叫喚、地獄絵図の宗教戦争から生まれたのだから、宗教というものはそれが市民社会を破壊してしまわない範囲でノータッチ、が一番いいのである。正統派のユダヤがその宗教的行為によって部隊を全滅させてしまう恐れがあるのなら、上官はその行為を断じて許すまい。そうでないならひたすら「忍」の一字ーーローティの言う「慇懃な無視」(a being neglect)ーー、それがリベラリズムの歴史的教訓であり「寛容」(耐えること)の真意である。

 

(p.136)

 

 あとはまあ熟議民主主義論に対する以下の批判も印象的だった(この批判は『実力も運のうち』での「共通善」論にも当てはまるものだろう)。

 

熟議がつねに人々の公共精神を喚起し、そのpreferenceを変容・収斂させ、いつも望ましいコンセンサス(あるいはその近似点)に導くというバラ色のシナリオが描けるのなら、人民の絶対主権もよろしかろう。さすればリベラリズムも無用であろう。しかし、リベラリズムはこの手のユートピア思想とは無縁である。シェルドン・ウォーリンのいわく、「以下我々の課題の一つは、後者〔リベラリズム〕の伝統を前者〔democratic radicalism〕から解き放つこと、そして、リベラリズムがしらふ(sobriety)の哲学であり、恐怖から生まれ、幻想からの覚醒(disenchantment)を糧に育ち、人間の条件は苦痛と不安の状態であり今後もまたそうであろう、と信じる向きにあったことを証することである」。リベラリズムは熟議を妨げない(いな、促進する)。大いにやったらよろしい。だが、ユートピア思想にはついて行けない。具体的な制度論をもたず、ただ熟議の精神論を鼓舞し、ひたすら公共精神をたのみとするようでは、かなり興ざめである。そこに見出されるのは、せいぜい精神注入ないし根性デモクラシー(そしてその背後でくすぶる人間改造論)でしかない。

 

(p. 208 - 209)

 

 ちなみに、著者は「哲学者」が政治に関してなにか特権的な役割を持てる、という発想も批判しているようだ*4。この点に関して、サンデルが経済学者や官僚による「テクノクラシー」は批判するくせに政治哲学は重要だと論じるのは自分の分野を特権視しているだけだよな、と感じたことを思い出した。

ピーター・シンガーによるマルクス論(読書メモ:『マルクス』)

 

 

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』に引き続きオックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第五弾。

 1989年発行のこの本はAmazonでも高騰が続いているしほとんどの図書館にないしで入手困難だったが、図書館の相互貸し借りサービスを利用してようやく手に取ることができた。また、原著については2018年に第二版が出版されており、「マルクスは現在でもまだ重要か?」という章が追加されているようだ*1

 

 わたしはマルクスについては詳しくないし、とくにマルクスについて他の思想家以上に適当なこと書くと怒られちゃうから恐る恐る紹介することになるが、それにしても本書はかなり読みやすくわかりやすい。

 訳者あとがきでも指摘されているように、「マルクスには一つの中核的思想、つまり世界像があって、それがマルクスの思想全体を統一するとともに、そうでない場合には謎めいた相貌を呈することになる彼の思想の構成部分の背後にある本質的なものを説明してくれる」(p.ⅲ)ということを前提にしたうえで解説されるため、読解の筋道が明瞭である、というところが本書の最大の長所だろう。

 具体的には、シンガーはマルクスの思想の「科学性」を思いっきり否定しているしマルクスの経済学理論に対しても冷淡ではあるが、その代わり、哲学者や倫理学者としてのマルクスの思想を積極的に描き出して評価している。

 また、シンガーが見るところのマルクスの「中核的思想」とはいわゆる「疎外論」であり、とくに本書の前半ではヘーゲル哲学やフォイエルバッハの哲学がマルクスの思想に与えた影響が詳しく解説されて強調されている。訳者あとがきによると疎外論を強調するのは必ずしも正統派のマルスク読解ではないようだし、(おそらく)マルクス主義者である訳者としてはシンガーの科学観や経済学観に言いたいところもあるようだが。

 

 本書を読んでいてもとくに印象に残ったのは、(第1版の)最終章である「評価」。   この章の前半でシンガーは経済や社会の成り行きに関するマルクスの「予言」は外れたことを指摘したうえで、マルクスの議論は粗雑で放埒な自由主義に対して適切な批判を行えている、といった評価をしている。

 ここでシンガーが行なっている議論を要約すると、極端な自由主義に基づく資本主義の肯定者は「一切の規制を廃して、だれもが自分のやりたいことを好き勝手に行える社会にすれば、すべての人が自分の幸福を追求したり自分にとって最も合理的な選択をできたりして、自由で素晴らしい社会が到来する」と論じることがあるが、実際には規制なしの自由はすぐに集合行為問題をもたらす。そして集合行為問題は個人がバラバラに自由を行使していたらいつまで経っても解決しないので、なんらかの妥協を成立させたり行為に対する制約を課したりするための集団的な決定が必要になる。ここでシンガーが架空の例として描き出すのが、「みんなが自動車を運転したら渋滞が起こってしまっていつまで経っても目的地にたどり着けなくなるが、多少の不便を受け入れてでもバスに乗ればみんな目的地に辿りやすくなる」という状況だ。

 このポイントをマルクス主義っぽく表現したのが、以下の段落。

 

われわれには、経済的諸関係は盲目的な自然的諸力であるかに見える。われわれは、これらの諸関係がわれわれの自由を制限するとは思えないーーまた事実、自由主義的自由観の立場にたつならば、これらの関係は人間の故意の干渉の結果ではないのだから、それがわれわれの自由を制限するとはいえないマルクス自身も、一人ひとりをとってみれば、資本家は資本制社会の経済的諸関係にたいして責任はないのであって、彼らもまた労働者と同じ程度にこれらの関係によって支配されている、とはっきり言明している[…]。とはいうものの、これらの経済的関係は、故意に選択されたわけではないが、にもかかわらずわれわれ自身の個別的選択の結果であり、したがって潜在的にはわれわれの意志に服しているところの、われわれ自身が意識しないままにつくりだした被造物である。われわれが造り出したものがわれわれを支配するのを放置するかわりに、それらをわれわれが集団的に支配するまでは、われわれは真に自由であるとはいえない。計画経済が重要な意義をもつのは、このゆえである。非計画的な経済では、人間的存在は、自己の生活にたいする市場の支配を無意識のうちに受容する。これにたいして、経済の計画化は人間の支配権の復権を主張するものであって、それは真の人間的自由にいたるための不可欠の第一歩である。

 

(p.115)

 

 そして、この章の後半では、「貪欲、利己主義、野心といった人間の特性の経済的土台を変革することによって社会のあり方を変えるという展望が出てくる」(p.118)というマルクスの人間観が厳しく批判されている。シンガーが指摘するのは、人間の欲求や利己主義的欲望はどんな社会でも……共産主義国家であろうが非資本主義的世界であろうが……存在したままでありその捌け口を見つけようとするし、地位や権力に対する欲望を統制して差別を撤廃して完全な平等を達成できた社会が存在したことはなかったし、資本主義が地位や権力への欲求を煽ることは否定できなくても(当時の)共産主義国家にはそれ以上に権力の腐敗が見受けられる、といったことだ。また、シンガーは地位への欲求や支配-非支配関係は人間のみに限られず動物たちの間に見受けられることを指摘して、これらは人間社会の「下部構造」などに由来するのではなくもっと根本的な生物学的特徴であることを示唆する。

 

このようにして、いまやわれわれは、マルクスの利用できなかった証拠ーー生産および交換手段の私的所有の廃止を土台に平等主義的な社会を創造しようとしたせっかくの試みが失敗に終わったという証拠や、人間以外の動物の社会の階層的なあり方にかんする証拠ーーを手にしている。もっとも、証拠は完全に出揃っているわけではない。だが、人びとのあいだの相互に対立する利害の調和をはかることはマルクスが考えていたほど容易ではなさそうだ、という暫定的判断に達するに足るだけの証拠は揃っている。

もし以上に述べたことにして正しければ、それがマルクスの積極的提案にたいしてもたらす結果が及ぶ影響の範囲はきわめて大きい。もし社会の経済的土台を変えても、それによって個人が自分自身の利害と社会の利害とを同一だと考えるようにならないというのであれば、マルクスの構想にかかる共産主義は断念されなければならない。おそらく社会の経済構造の社会的所有制への転形が進行中の短期間はともかくとして、マルクスは、自分自身の利益に反して、集団的福利のためにむりやりに個人を働かせるために共産主義社会の実現をめざしたのではけっしてなかった。強制に訴える必要があるということは、疎外の克服を意味するものではなくて、人間の人間からの疎外の存続を意味するであろう。強制をともなう社会は解かれた歴史の謎ではなくて、新しい形で再措定された謎にすぎないであろう。それは階級支配の終焉をもたらさないで、新しい支配階級を旧支配階級ととりかえるにとどまるだろう。一方でマルクスが予知せず、またもし予知していたならきっと弾劾したと思われることのために彼を非難するのは馬鹿げているが、他方マルクスが予言した共産主義社会と「共産主義」の今日の実状との間の懸隔は、結局そのみなもとを、マルクスにおける人間性の弾力性についての間違った捉え方にまでさかのぼることができるのかもしれない。

 

(p.121 - 122)

 

 生物学的=進化論的な発想を念頭に入れながらマルクスによる「土台を変えることで人間性を変化させる」論を批判する……というのは、そのまま、シンガーが1999年に出版した『ダーウィン左翼』における議論につながるものだ*2

 

 最終章以外について触れると、まず、第1章の「評伝」ではマルクスの生涯がコンパクトかつドライにまとめられていて、マルクスの人間的魅力と性格の厄介さや不遇さなどが端的に伝わる内容になっており、読み物としてもおもしろい。

 2章から5章まではヘーゲル哲学に始まるマルクスの思想形成が順を追って説明されており、6章から9章では「疎外」「歴史」「経済学」「共産主義」とマルクスの思想の中心的なところがトピックごとに整理されて論じられている。

 

 疎外に関する簡潔な記述はこちら。

 

以上の[フォイエルバッハの議論を下敷きにした]見方にもとづいて、自由な生産的活動という意味での労働が、人間的生活の本質だといわれるのである。したがってこのような仕方で生産されるものは万事ーー彫像であれ、家であれ、あるいは一片の布切れでさえもーー物的対象に変えられた人間的生活の本質である。マルスクはこういった事象を、「人間の類的生活の対象化」[…]と呼んでいる。理念的には、労働者たちが自由に創造した対象は労働者たち自身のものであって、彼らはこれを自分の望みどおりに留保したり処分したりすることができる。ところが、疎外された労働の状態のもとで労働者たちが(対象は雇主に帰属するので)自分の思いどおりにならないところの、また(雇主の富と力を増すことによって)肝心の生産者の意に反して用いられるところの対象を生産しなければならなくなると、これらの労働者は自己自身の本質的な人間的あり方から疎外される。

このような人間の自己の本来的あり方からの疎外の一つの帰結は、さらに人間の人間からの疎外である。生産的活動は「支配、強制、他者のくびきのもとでの活動」(…)に転化し、この他者は疎遠で敵対的な存在となる。人間は相互協力的に関係しあうかわりに、競争的に関係しあう。商取引と交換とが愛と信頼にとってかわる。人間的存在はおたがいのなかに、彼らに共通の人間としての本来的あり方を認知できなくなる。彼らは他者を、自己自身の利己的な利益を促進するための手段とみなす。

 

(p.42 - 43)

 

 余談だが、疎外がなければ(資本主義じゃなければ?)人間は「取引と交換」ではなく「愛と信頼」に基づいて協力する、といった(ユートピア主義的な)考え方についてはウィル・キムリッカが『現代政治理論』のなかで批判していた。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

「経済学」の章ではマルクスによる労働価値論とか剰余価値論とかを取り上げられて、その誤りが指摘されている。ここにおけるシンガーの指摘自体は間違っていないだろうが、やや難解であり、さすがに最近の学者たちが書いた著作に含まれている指摘のほうがわかりやすい*3。とはいえ、批判点を挙げたうえでマルクスの経済学論を肯定的に捉える以下の文章はなかなか印象的だ。

 

以上のことは、『資本論』の中心的諸命題が間違っているだけだ、ということなのか。またしたがって、『資本論』はーーろくすっぽ訓練をうけたことのない分野に差しで口をはさむドイツの哲学者なら書いても不思議でないかもしれないーーありきたりの酔狂な経済学の書物だということか。万一このような見解にもっともらしい面があるとすれば、自身の発見の科学的性質を強調した点で、マルクス自身も責めの一端を負わなければならない。いっそのこと、『資本論』は、これを(有力な現代の一経済学者〔サムエルソン〕が経済学者としてのマルクスを評価していったように)「二流のポスト・リカーディアン」の仕事とみなすよりは、資本制社会にたいする一批評家の仕事とみなした方がよかろう。マルクスは資本主義の欠陥を暴露するために、古典派経済学の欠陥を暴露したいと思ったのである。彼が望んだのは、産業革命がもたらした生産性のいちじるしい上昇にもかかわらず、なぜ人間的存在の圧倒的多数の生活水準が以前よりも悪化したのかということを、証明することであった。マルクスは、主人とか奴隷とか、領主とか農奴とかいった旧時代の諸関係が、いかにして契約の自由の美名にかくれて生き延びるにいたったのかということを暴露したいと思った。これらの疑問に答えたのが、剰余価値学説である。経済学説としては、それは科学的検証に耐えない。マルクスの経済理論は、資本主義のもとでの搾取の性質と程度を科学的に説明したものとはいえない。だがそれにもかかわらず、それは、生産的労働者が意識しないままに自己自身の抑圧手段を作り出す、非規制的社会のいきいきとした像を提供している。それは人間の疎外を過去労働たる資本の生きた労働に対する支配として麗々しく大仰に描き出したものである。このように描かれた人間の疎外像の価値は、それに導かれて、われわれがこの像の主題〔資本主義〕を根本的に新しい角度から眺めることができる点にある。マルクスの経済理論の疎外像は芸術と哲学的省察と社会的論戦とをひとまとめにした仕事であって、こうした三つの著述形態のすべてにつきものの長所と欠陥をそなえている。それは絵筆でかかれた資本主義像であって、カメラで写しとった資本主義の写真ではない。

 

(p. 94 - 95)

 

*1:

www.oupjapan.co.jp

www.project-syndicate.org

*2:

 

↑こちらの訳書は高騰しているので、よかったら『21世紀の道徳』を購入していただき第1章をご参考にしてください。

 

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

フェミニズムの理論をバランスよく(※)紹介する本(読書メモ:『はじめてのフェミニズム』)

 

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』に引き続きオックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第五弾……ではないのだが、同じように英語圏の入門書の邦訳なのでこの流れで紹介。また、今月に発売したばかりの本である*1

 

 本書の「はじめに」ではフェミニズムの定義の問題について触れられている。

 

フェミニズムへの向き合いかたは、なにを「フェミニズム」とするかによって変わってくるということなのです。だれかが「フェミニズム」という言葉を使うとき、意味しているのは次のどれか、あるいは全部かもしれません。

 

・理念としてのフェミニズム。かつてマリー・シアー[アメリカの作家、フェミニズム活動家]は「女性は人であるという根源的な考えかた」だと言いました。

・集団的政治プロジェクトとしてのフェミニズム。ベル・フックス[アフリカ系アメリカ人社会活動家]の言葉を借りれば、「性差別および性差別的な搾取と抑圧を終わらせるための運動」です。

・知的枠組みとしてのフェミニズム。哲学者ナンシー・ハートソックは「分析のひとつの様式であり……問いを発し、答えを探す方法のひとつ」と呼びました。

 

(p.9 - 10)

 

フェミニズムにさまざまな種類があるのは間違いないですが、そのどれもがふたつの基本的な理念にもとづいています。

 

1 現在、女性は社会において従属的な立場にいる。そのため、女性であることによって、あきらかな不正義や制度的な不利益にさらされている。

2 女性の従属性は避けられないものでも望ましいものでもない。政治的行動によって変えることができるし、変えなければならない。

 

(p.19)

 

 著者のデボラ・キャメロン言語学者であるようだが、本書では哲学や社会学などの特定の学問枠組みがフィーチャーされることはないし、「第一派」や「第二派」の時代ごとでもなければ「リベラル・フェミニズム」や「ラディカル・フェミニズム」などの理論や派閥ごとでもなく、「支配」「権利」「仕事」「女らしさ」といっトピックごとに問題を解説する構成になっている。公式サイトにも書かれているように「フェミニズムの「複雑さ」を「複雑なまま」理解する」ためには総合的な視野が必要になるし、また理論ばかりを重視するのは「理念」や「知的枠組み」を優先する代わりに「集団的政治プロジェクト」としてのフェミニズムを軽視することになってしまう、という懸念がはたらいているためだろう。

 

 とはいえ、本書で解説されるフェミニズムの考え方は、全体的にはかなりオーソドックスでスタンダード。また、どのトピックについても「平等派」的な考え方と「差異派」的な考え方、あるいはリベラル・フェミニズム的な考え方とラディカル・フェミニズムマルクスフェミニズム的な考え方をそれぞれ取り上げることでフェミニズムの内部でも考え方の多様性があったり意見が分かれていたりすることを示しつつ、各章の最後のほうではほとんどのフェミニストが一致しているであろう基本的な意見を提示することで無難にまとめられている。

 また、原著も2018年と比較的最近なだけあって、インターセクショナリティやジェンダーアイデンティティ新自由主義批判といった「流行り」の要素も取り入れられているが、その分量と程度は控えめだ。売買春やムスリムフェミニズムジェンダーといった荒れやすい問題についても、(フェミニズム内部での)両論併記的でバランスのよい記述がなされているのは、最近のフェミニズム本としてはむしろ珍しいほうだろう。とくに若いフェミニストの書く文章は、著者が白人であったりシスジェンダーなどのマジョリティ女性である場合にはマイノリティ女性に対する罪悪感から自罰的な記述になりがちであるし、逆に著者がマイノリティ女性である場合マジョリティに対する糾弾や攻撃が目立つ記述になりがちであって、どっちにせよ読みづらく益も少ないものになる傾向が強いのだが、本書は(もしかしたら著者の年齢のおかげで)そういった不毛さから逃れられている。

 なので、フェミニズムジェンダー論に触れてきた人にとって目新しいところはほぼない本ではあるのだが、逆に(邦題の通りに)はじめてフェミニズムに触れるための本としてはかなり良いと思う。

 

 ……とはいえ、本書の「バランスのよさ」が機能しているのは、あくまでフェミニズムの「内側」でだけだ。フェミニズムの「外側」の視点、つまり各トピックについてフェミニズムに基づかずに論ずる主張やフェミニズムの主張を批判する議論については、かなり冷淡かつ粗雑に扱われている。

 たとえば「支配」や「女らしさ」の章では進化心理学がとにかく女性差別を正当化するための理論であるかのように紹介されているうえに、進化心理学のなかでも問題があり古臭い議論を取り上げて「この議論は否定されています」と紹介することで進化心理学全体が否定されているかのような印象操作がなされている。

 また、「男性も男らしさを押し付けられている」「家父長制が個別の男性すべてに利益を与えているわけではない」といった議論は申し訳程度に行われてはいるが、男権運動はフェミニズムに対する反動として一蹴されているフシがある。

「仕事」の章でも男女の賃金格差に関する統計がほぼ登場しないなど、事実的・経験的なデータの紹介が乏しいのも気になるところだ。

 全体として、本書で提示されているのは、世の中の構造や社会問題などに関する「解釈」だ。つまり、「現在の世の中の成り立ちについてフェミニズムではこう解釈できる」とか「この社会問題についてはこちらのフェミニズムではこう捉えられるがあちらのフェミニズムはこう捉えられる」といったことは論じられるのだが、「それらの解釈をフェミニズム以外の理論や運動に基づく解釈と比較したときにはどちらの方が正しいといえるか」といった議論にまでは踏み込まれていないし、「フェミニズムの解釈は実際のところどれほど妥当であるのか」とフェミニズムの外側から眺める視点にも欠けている。

 ……もちろん、翻訳しても本文がジュニア系新書で200ページにも満たないような短い入門書にあまり多くを求めることはできないし、「この本はあくまでフェミニズムの入門書であるのだから、フェミニズム以外の視点を持ちたいのなら読者のほうが別の本を読んだり自分の頭で考えたりすべきである」といったことも言えるだろう。しかしながら、そもそも著者はフェミニズムの外側の視点にはほとんど興味を抱いていないんだろうな、ということは伝わってきてしまった。

*1:同じく今年に発売されたフェミニズム系の新書としては中公新書の『ジェンダー格差』も紹介している。

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