道徳的動物日記

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人文書とTwitter

 

 Twitterは辞めたけれど、気になる話題があったら、いまだに外部サイトを経由して検索などはしてしまったりしている。

 すこし前になるが、いろいろと気になったのはKADOKAWAによる『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』の刊行告知および刊行中止告知に関する話題。

 

www.kadokawa.co.jp

 

この件に関しては、わたしは津田大介氏とほぼ同じ意見を持っている。

 

 

 

 また、「表現の自由」や「言論の自由」に関するわたしの立場は下記の記事にまと目ている。

 

s-scrap.com

 

 この記事では、「自由に意見が表明されることはわたしたちが物事について正しい知識や理解を得るのに不可欠なので、人を傷つける可能性があっても意見そのものを封殺してはいけない」と論じる一方で、「意見に報酬が伴うSNSや論壇などでは扇情的な意見が幅を利かせやすくなり、それらの意見は知識や理解に貢献するとは限らないし、無意味に人が傷つく危険性も増す(だからこそ危険な意見ほどアカデミアの制度内で論じられたほうがいい)」とも指摘していた。

 記事内では言及できていなかったが、取材に基づいたジャーナリズム本にせよなんらかの学問に基づいた人文書にせよ、一般読者に売ることを想定した「本」というメディアは、著者が意見を表明して人々に物事について知識や理解を与えるものであると同時に売れれば売れるほど著者や出版社の懐が潤うという「報酬」を伴った「商品」でもある。したがって、本が出版されると、売るための宣伝やマーケティングが多かれ少なかれ発生する。具体的には、本の内容とはほとんど関係が無い趣旨の帯が巻かれたり、原著と異なる大げさな邦題がつけられたり、なんかダサい文字だらけの表紙になったり、著作家同士でヨイショしあう書評が公開されたりするなど。

 わたしはかなり潔癖な人間なので、前述したような本の宣伝やマーケティングについてはどれにも「いやだなあ」と感じる。しかしそんなことを言っていたらジャーナリズム本や人文書は売れなくなって出版社も立ちゆかなくなり、そもそも一般読者が本を手に取って意見に触れたり知識を得たりする機会も失われてしまうから、ある程度は仕方がない(そもそもわたしが単著を出版したときにもマーケティングは多かれ少なかれあったわけだし)。……とはいえ限度はあるし、扇情的な副題をつけたりトランスジェンダーに関する知識や理解があるとも思えない右翼インフルエンサーに喧伝させたりすることで当事者を傷つける可能性を無闇矢鱈と高めるようなマーケティング手法は強く非難されるべきだ。

 

 そして、批判を受けてKADOKAWAが刊行を中止したことで、「サヨクによる言論弾圧だ」「LGBT団体によるキャンセルカルチャーだ」という風に多くの人が騒ぐことになった。……だが、KADOKAWAによる「お詫びとお知らせ」の告知を見ても、特定の団体の要望を受け入れて刊行中止になったという経緯が記されているわけではない。国内外の出版関係者24名による賛同コメントをつけた意見書は提出されたらしいが、その意見書が刊行を中止させる程の圧力となったかどうかは定かではないし、たかが意見書にそんな力があるとも思えない。実際のところ、ロマン優光氏も指摘しているように、刊行中止はKADOKAWAの内部の都合や社内プロセスの行き違いなどが原因である可能性が高いだろう。

 

bunkaonline.jp

 

 しかし、刊行中止の理由がなんであれ、中止になった時点で騒ぎたい人は「言論弾圧だ」「キャンセルカルチャーだ」と騒ぐし、結果としてトランスジェンダー当事者やその支援団体やアライの人たちが被害や迷惑を受けたり余計なストレスを感じさせられることになる。……この一連の顛末は、早川書房が出版した『「社会正義」はいつも正しい』の訳者による巻末解説のネット公開が中止になった件とほとんど同じだ。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 当時にわたしは下記のようにコメントしている。

 

そして、早川書房のアナウンスでは「具体的にどの箇所を問題視して公開を停止したか」「具体的に誰からの批判を受けて公開を停止したか」ということが明記されていないために*1、多数の人々がTwitterはてブで「またサヨク言論弾圧をした」「反差別団体が言論弾圧をした」「フェミニスト言論弾圧をした」「TRAが言論弾圧をした」といった憶測や陰謀論を好き勝手に言う事態となっている。

わたしが学生時代に読んだ森達也の『放送禁止歌』では、マスメディアが自律した判断を行わずに事なかれ主義でいくつかの歌を「放送禁止」にしたことが、「同和団体表現規制をした」「やはり同和団体には権力がありマスメディアを支配しているのだ」といった憶測を呼ぶ事態になった、ということが書かれていた記憶がある。今回の事態は、『放送禁止歌』で書かれていたそれを思い出させるものだ。

davitrice.hatenadiary.jp

 

 KADOKAWAのほうの「お詫びとお知らせ」が公開されたのは2023年12月5日だが、早川書房の「記事の公開停止につきまして」が公開されたのも、奇しくもちょうど1年前の2022年12月5日である。うんざりさせられるのは、この1年間で出版社や編集者たちもネット民たちもまったく成長しておらず、同じようなマーケティングとその失敗が繰り返された挙句に同じような馬鹿騒ぎが繰り広げられていることだ。

 

 起こっている事態が同じなので、この件に関するわたしのコメントも『「社会正義」はいつも正しい』のときと同じようなものに終始することになる。

 なのでわざわざ記事を書くまでもなかったかもしれないが、すこし考えさせられた/引っかかったのは、この件に関して本屋LIGHTHOUSEが公開した記事内の、下記の箇所(強調部分はわたしによるもの)。

 

とにかく、出版業界における「反差別・反ヘイト」の基点/起点は中韓ヘイトにあり、そこを中心に議論や実践もなされてきています。また別の観点を加えれば、中韓ヘイトへの抵抗の方法を基礎にしてほかの差別への抵抗方法も考案・実践されている(これは出版業界に限らない話だと思いますが)。というのが現時点での私が感じていることです。そして、そのような前提=環境のなかで変わってきた環境がもうひとつあります。SNSが持つ影響力です。現時点で、特にTwitterに関してはもはや出版業界における最重要インフラと化しており、そこでの反響の大小や良し悪しが出版社の生命線=売上を握っていると言ってもいいでしょう。ゆえに、そのTwitterでの反響が悪いほうに影響を及ぼしたと判断したKADOKAWA経営層が、今回は中止の判断をしたのだろうと推測しています。

出版社にとっても読者にとっても、いまやTwitterの世界は現実世界と同義です。2013年以降というスパンで考えても、この10年でTwitterの持つ「インプレッション」力は跳ね上がっています。つまり、ヘイト本(として悪評が立っている本)が刊行される/されたということを知っている者の数も、10年前と比較したら確実に増える、そういう環境にあるわけです。となると、大手企業であればあるほど「メンツ」が大事になるということも考えると、KADOKAWAの対応(の速さ)も納得がいきます。そしてなにが問題なのかをわかっていない感じの声明文も同様に、そうなる背景を推測できるわけです。つまり、経営的な観点からの合理的判断であり、自らの差別・ヘイトを反省する類のものではないということ。KADOKAWAのような大規模会社になると、現場がどのような本を作っているかなんて経営層は把握していません。これだけTwitterで話題になって、やっと本の存在を知ったはずです。だからこそ、「流石にこれは(メンツ=経営的に)やばいな」と思い、即座の刊行中止判断と声明発表になったのではないか、と推測しています。

lighthouse226.substack.com

 

 まず思うのは、「Twitterが「最重要インフラ」や「生命線」になっている出版業界って相当マズいんじゃない?」ということ。周知の通り、イーロン・マスクに売却されて以降のTwitterには様々な改悪がなされており、有料化されたとか収益化されたとかだけでなく出会い系アプリになるという話も出ているくらいで、Twitterというプラットフォーム自体の将来が危ぶまれている。わたしを含めてTwitterを離れている人もぼちぼち目立つようになってきた。Mastodonなどの他のSNSに移住している人もいるようだが、移住先は複数あって分散しているし、Twitterに代わる大規模なSNSはもう登場しない可能性は高い。登場したとしてもシステムの仕組みや性質が変わってTwitterでは定番になっていたようなマーケティング手法はもう通じなくなるかもしれない。……となると、最重要インフラや生命線となっているTwitterが崩壊したり消失したりするのに伴って、出版業界も終わってしまうことになる。

 もちろん、実際には、Twitter以外の方法でも出版社が本を宣伝したり読者が本のことを知ったりする経路や機会は存在する(わたしが単著を出したときにも、新聞書評の効果がイメージしていたよりもずっと大きくておどろいたものだ)。2023年の年間ベストセラーのランキングを見てみると、Twitterでは対象となる層が異なり過ぎてほとんど売り上げに貢献していなさそうな本が多数含まれている。そして、わたしの周りで本を読む人々のなかにはTwitterを一切やっていない人やほとんどログインしていない人も多々いるし、わたしだって今年(のとくに後半)はTwitterとは関係のないところで地道に本を探して読み続けてきた。多くの読者にとっては「いまやTwitterの世界は現実世界と同義」なんてことはまったくないのだ。それは出版社にとってもそうであるはずだろう。

 

 ……とはいえ、長期的に通じるのかという問題や他にも本を見つけたり宣伝したりする経路はあるはずだろうというポイントを差し置けば、現時点では、Twitterが本を宣伝する場として活用されていることはたしかだ。『「社会正義」はいつも正しい』にせよ『あの子もトランスジェンダーになった』にせよ、それらを売り出す担当者などはTwitterで炎上気味に話題になることが売り上げに貢献するのを狙ったマーケティングを企画していたはずである。

 そして、Twitterを宣伝の場にしているのは、『「社会正義」はいつも正しい』のような「アンチ・リベラル」な本や『あの子もトランスジェンダーになった』のような「差別的」な本を出している側だけではない。近年では「リベラル」や「左翼」に「反差別」や「フェミニズム」なスタンスの本でも、Twitter上でのマーケティングが目立っているものは少なくない。政治的な要素が薄い歴史学系や言語学系や生物学系の本であっても、「SNSでバズらせる」マーケティングが明白に行われているものは多々ある。

 もちろん、どのようなかたちでマーケティングが行われようが、それが有意義で価値のある内容の本が多くの人の手に取られて読まれるきっかけになるとしたら、とくに問題はないと言えるかもしれない。「アンチ・リベラル」や「差別的」な本でなければ、マーケティングによって傷つく人もほとんどいないだろうし。冒頭でも書いたように本が売れなくて出版社が立ちゆかなくなったら本末転倒だし、Twitter/SNSでのマーケティング人文書の需要を拡大したり延命させたりしているという面も確実にあるだろう。

 ……とはいえ、Twitterで本を宣伝したり紹介したりしても文字数の短さからその内容はどうしても単純になったり浅薄になったりするものだし、シェアされて拡散されることを狙う以上は大げさで扇情的にもなりがちだ。また、「流行り」に乗った内容であったり「勢い」のあったりするジャンルの本は積極的に出版されてマーケティングも行われやすくなる一方で、そうではない本は冷遇されて埋もれてしまうおそれもある。

 こういった問題意識を抱いている人はわたしに限らないようだ。たとえば、今年も紀伊國屋書店の「じんぶん大賞」が発表されたが、それに関して問題意識を表明する(または愚痴っている)人はわたしが検索した範囲だけでもぼちぼちと見つかった。

 

store.kinokuniya.co.jp

 

 

 

 また、昨年ほどではないが、今年のじんぶん大賞のラインナップにも「ジェンダー」や「フェミニズム」なテーマ/トピックの本が多く含まれている*2。これらの本の内容や著者/編集者の問題意識が真摯なものだとしても、ジェンダーフェミニズムTwitterやネット上で本をバズらせやすくて売り出しやすい「トレンド」になっていることは否定できないだろう。……そして、Twitterやネット上で「反LGBT」や「アンチ・フェミニズム」の主張が勢いを持つようになっている背景には、「トレンド」に対する反発という面もあるはずだ。『あの子はトランスジェンダーになった』のような本の出版とマーケティングが企画されたのも、このような状況のなかで拡大していった「反LGBT」層の需要を狙ってのものだっただろう。

 まあだからといって「アンチやヘイターの反感や需要を育てるからジェンダーフェミニズムの本を出すのは止めろ」というのも無理筋で本末転倒だし、マーケティングをするなというわけにもいかない。あえて提言するなら、出版社や編集者ではなく読者の側に対して「マーケティングや流行りに惑わされず、自分の判断できちんと本を選んだり、最新の本ばかりだけでなく旧い良書も手に取ったりするように意識しましょうね」と呼びかけるしかないだろうか。

 

 余談だが、こういった話題になると「でもいまやSNSを経由しないとどんな新刊本が出ているかも知ることができないじゃないか」と文句を言ってくる人があらわれる。しかし、実際には、SNSを使わなくても新刊本の情報をキャッチする術はいくらでもある。新聞書評をチェックするとか、大型書店を定期的に訪れるとか。

 わたしのおすすめは、自分の住んでいる地方自治体(または通っている大学)の図書館のWebサイトにある「新着資料」や「新着図書」の一覧ページを定期的にチェックしたり、図書館を訪れるたびに新着図書コーナーを確認したりすることだ。ハードな学術書を除けばだいたいの本はいつか図書館に入荷されるものなので、この方法でだいたいの本の情報はキャッチできる(最新の本の情報を瞬時にキャッチできるわけではないが、そもそもそんなに生き急ぐ必要はない)。学生時代から社会人になってからもわたしはこの習慣を実践し続けているし(最近は読書に割ける時間自体が少なくなっているのであまりできていないけれど)、おかげで他の人がほとんど読んでいないようなマイナーなものも含めて多くの本に出会うことができた。

*1:KADOKAWAのほうの「お詫びとお知らせ」は「本書は、ジェンダーに関する欧米での事象等を通じて国内読者で議論を深めていくきっかけになればと刊行を予定しておりましたが、タイトルやキャッチコピーの内容により結果的に当事者の方を傷つけることとなり、誠に申し訳ございません」と具体的に書かれているぶん、早川書房よりかはすこしだけマシ。

*2:昨年のラインナップに関してはこの記事内でこっそり文句を書いている。

davitrice.hatenadiary.jp

近況報告(引っ越し、猫を飼い始め、結婚、身内の不幸、コロナ罹患、異動など)

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 昨年末にも挨拶記事を書いていたし、SNSを辞めてからは日々の生活や状況を書く場所がなくなったからわたしの近況が気になる人もいるだろうし(いるよね?)、今年1年のわたしの生活の変遷や最近の状況についてここで書いておこう。

 

 とりあえず時系列順に箇条書きすると以下のような感じ。

 

  • 1月:母親のガンについて知らされる
  • 2月:母親の見舞いに京都まで行く、付き合っている恋人との結婚前提の同棲(とそのための引っ越し)を決意
  • 3月:引っ越し準備、確定申告
  • 4月:2021年まで働いていた会社に正社員として復帰(2022年内は業務委託契約で働いていた)、四谷から赤羽に引っ越し
  • 5月:学会で発表、妻と熱海旅行
  • 6月:ロフトでイベント、保護猫の譲渡会に参加、母親の見舞いに京都まで(ついでに松坂へも行く)
  • 7月:譲渡された保護猫を飼い始める、猫の夜泣きが激しく睡眠不足、猛暑で夏風邪をひいてダウン、市役所に行って入籍届を提出
  • 8月:母親が死去したので葬儀のために京都へ、忌引き休暇と夏季休暇が組み合わさって長めの夏休み
  • 9月:母親の死亡に伴う諸々の手続きのために京都へ(ついでに奈良まで行く)、納骨式に参加するためにまた京都へ行ったら直後にコロナが発症して参加できず
  • 10月:前半はコロナの後遺症でダウン、後半は妻と那須まで旅行
  • 11月:婚姻休暇を使用して長めの休暇、三島に一人旅
  • 12月:年明けから部署異動になるので現部署の残りの仕事を消化し続ける日々

 

 ……というわけで、例年になくライフイベントが多く、環境の変化が多い一年となった。充実していたといえばしていたのかもしれないが、リモートワークがメインとはいえ平日は毎日働いているなかで諸々の出来事が起こったり体調不良になったりするのはかなりしんどい。来年からの異動先の部署は出社が主となり残業も多そうなので、プライヴェートの面ではもうすこし穏やかかつ健康に過ごしたいと思う。

 新婚生活についてはまあ良し悪しというところ。飼い猫については夜泣きが収まったのでだいぶ飼いやすくはなった。

 母親についてはガンが発覚してからは進行が早く、まだ比較的若い年齢なのにあっという間に亡くなってしまった。そして、夫婦生活や飼い猫のことや仕事などの悩み事がピークに達していた時期に亡くなられたので、こちらとしては頭がいっぱいというか「それどころではない」という状態で、十分に悼んだり喪に服したりすることができなかったことがいまでも心残りになっている。

 京都の実家に残っている父親についても、今後は「妻に先立たれた高齢男性」にありがちな問題が起こりそうで不安なところだ。家事は夫婦で分担していて料理などもしていたので生活能力には問題がないのだが、職場と家族以外にコミュニティはないようだし、友人や会話できる相手も母親に比べると父親のほうがずっと少ないので、今後は寂しさや孤独にどう対処するかというのが課題になるのだろう。

 そもそも父親は母親に比べると日本語があまり得意でないということもあり、母親の死亡に伴う契約変更や役所関係・相続関係の手続きのかなり多くを手伝わされることになった。また、実家では複数の猫を飼っているので、もし父親にも健康上の問題が起こったときに実家の猫たちをどうするかという問題もずっと頭をちらついている。かといって京都に戻るのはわたしの職種的にも他の諸々の事情からも困難だし…。

 

 母親の見舞いや父の将来のこと、妻や飼い猫のことを考えると、このブログでもこれまで取り上げてきたような「ケア」論の問題意識が身に沁みて感じられることはたしかだ。

 コロナ禍の前はリモートワーク自体が当たり前のことはなかったから昔に比べるとだいぶ状況は良くなっているし、仕事やタスクの内容によっては出社したほうがずっと能率が良くなったりそもそも家では行うことが不可能だったりするという面もあるのだが、それはそれとして、会社員として賃労働することには、本質的に、人生における大事な物事を蔑ろにさせられるというところがあるのだろう(とくに日本企業で経営者になったり管理職として出世できたりするタイプの人ほど、仕事や金儲けに楽しさを感じる代わりにプライヴェートや生活は大事に思っておらず、そしてルールやシステムを決定するのは経営者であったり出世した管理職であったりするので、プライヴェートや生活が尊重されない状況が出来上がる……という構図にもなっているだろう)。

 

会社員として働きつつ諸々の出来事に直面したり夏風邪やコロナになったりしたおかげで、時間的・精神的・体調的にまったく余裕がなくなり、今年は作家業のほうの仕事はほとんどできなかった。最後の仕事は新宿ブックファーストのフェア「名著百選」で推薦文を書いたというもの。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 コロナの後遺症であるブレインフォグの症状がしばらく残っていたことも大きい。結婚している以上は土日だからといって妻のことを無視して執筆し続けるわけにもいかないし、わたしとしても平日は仕事で疲れているのだから休日は妻や友人と遊びに行ったり旅行に行ったり休養したりしたい。2021年以前は早起きして早朝に執筆することで会社員と作家業をなんとか両立できていたのだが、今年はあまりに疲れることが多かったり猫の夜泣きや夏風邪にコロナの影響などで出社日以外に早朝に起きることがぜんぜんできなくなってしまった。……来年からは出社日が増えるにつれて生活リズムはいやでも改善されると思うけれど、仕事はさらに忙しくなるので執筆に避ける余裕をどこまで保てるか、という不安もある。

 2冊目の単著の執筆も今年は停止していたが、なんとか来年内に出版する予定だ(編集者からも「そろそろ仕上げてもらわないとマズい」と釘を刺されていることだし)。次の本を出せるならその前後に雑誌記事やWeb記事の依頼もまた来るだろう。……とはいえ、ベストセラーにもならない限り、作家業で得られる収入は会社員として働くことで得られる収入に比べると微々たるものであるというのがつらいところだ。執筆にせよ、学会への参加やトークイベントの準備などにせよ、妻からすれば「趣味」や「遊び」だと思われているようで非協力的な態度を取られるのだが、実際問題として収入やキャリアに直結しないという点で「仕事」と言えるほどのものでもないのもたしかだから、こちらとしても強い態度はとれない。

 本を書くほうではなく読むほうにしても、今年はやはり停滞してしまった。……それでも一般的な社会人の何倍もの本は読んでいるだろうし、また数年前に上京して会社員を始めた時期に比べると読書に割ける時間はずっと安定して確保できるようになっているのだけれど、それでも「これでは足りない」と思ってしまう。2冊目やそれ以降に執筆する予定の単著の参考文献やネタ元にするために読み続けているというところもあるが、それ以上に、今年は自分の精神的な健康を保つために読書をしているという面が強かった。

 会社員としての仕事を始めてからも前半は洋書も多少は読むことができていたが、徐々に忙しくなったり余裕がなくなったりしていったので、後半からは新書本を読んだりVery Short Intoductionシリーズの翻訳を読んだりするのがメインになっていった。社会人としての仕事や家事に忙殺されていたりテレビ番組ばかり見たりしているとどうしても世俗的で短絡的な考え方や発想に毒されていくので、いろいろな学問分野の良質な入門書を読んでそれをまとめた読書メモを定期的に執筆することで思考のデトックスを行なっていたという感じだ(手に取った本の内容がしょうもないときには逆効果にもなっていたけど)。本を手に取ったらできるだけ最後まで読み終えてブログに記事を書くようにしているのだが(そうしなければ本の内容をきちんと理解したり消化したりしたという感覚を得ることができない)、そうなると一冊の本あたりにかかる日数は長くなるし、週末に遊びやお出かけの予定が重なったら新書を読むのもままならない。当然のことながら学術書を読むのはさらに大変であり、11月の長期休暇に読み始めたヌスバウムの『感情と法』もいまだに読み終えられていない。読むだけでなく書くスピードも遅くなっていて、これはコロナの後遺症がいまだに後を引いている可能性もあるだろうし、読んだり書いたりすることが当たり前だった状況から離れたことで慣れや勘所が失われているというのもあるだろう。

 

 ……と、ネガティブな話題ばかりになってしまったが、ポジティブな話題としては、この一年で金銭的にはそれなりに余裕ができたというのがある。当たり前のことだが、会社員として働くことで定期的に給与をもらえたりボーナスをもらえたりするようになったからだ。コンビニまで行って保険料や税金を自分で納める必要がなくなったのは金銭的だけでなく精神的にもプラスになる。また、引っ越しには金がかかったが、二人で暮らし始めると家賃だけでなく光熱費や食費やネット料金なんかも折半になることの影響は想像していた以上にデカかった。おかげで旅行も行きやすくなったし記念日の出費にもそこまでつらさを感じないようになった。

 とはいえ、一般的な30代の男性の平均から見ると貯金の金額はいまだにカスみたいなものである。というわけで、この一年間いろいろ大変だったことなので、クリスマスプレゼントがてらにご支援を募集します。以下のAmazonほしい物リストから飲料でも薬でも本でもなんでもいいのでなんか買ってください(Twitterをやっていた頃は定期的に支援してもらえていたが最近はすっかりなくなっちゃった)。「本が読めなくなった」という話をしておいて本を希望するのもヘンな話だけど、そのうち読書の習慣も取り戻せるでしょう。

 

www.amazon.jp

インターネット時代におけるマスメディアの必要性(読書メモ:『マスメディアとは何か 影響力の正体』)

 

 

 マスメディアを研究する分野といってもさまざまにあるだろうが、本書の内容は「マスメディアが人々にもたらす影響をデータを用いて科学的に検証する研究分野」である「メディア効果論」に立脚しており、「取材方法などに関する情報の送り手についての議論ではなく、視聴者などの受け手に対する影響」に関する議論がメインとなっている(p.v)。

 そして本書のもうひとつの特徴は、マスメディアを擁護したり肯定したりする議論がたびたび登場すること。市井の人々がマスメディアに対して抱いているさまざまなイメージ……「偏っている」「人々を洗脳している」「何も影響力がない」「オワコンだ」……が誤っていることを指摘して、マスメディアの影響力について冷静に分析しながら、その存在が民主主義社会には不可欠であることが主張されているのである。とくに終盤の第5章と第6章では「インターネットがマスメディアに取って代わる」というネット黎明期にあった期待がまったくの幻想であったことを鋭く論じたうえで、インターネット時代であるからこそのマスメディアの必要性が説かれている。……本文中にも書かれているが、著者のような「マスコミ擁護派」はメディア研究者のなかでも少数派な存在であるようだが。

 また、本書はメディア効果論の学説史というかレビューのようにもなっており、専門外の研究者や実務家にもわかりやすくメディア効果論の知見を参照できるようになっているとともに、著者としては「次代のメディア効果論の研究者の育成」という点も意識しながら書いたものらしい(p.252)。そのため、専門外の読者にとってはマイナーな研究者の名前がいっぱい出てくるほか、各研究についても研究手法やそれに伴う研究結果・研究範囲の限界などが細かく紹介されている。「研究成果」だけでなく「研究手法」も詳しく伝えることは本書に限らず最近の新書本ではよく見受けられることだし*1、読者に自分や自分野で主張されていることを鵜呑みにさせず、より注意深く考えさせることに誘うという点で基本的には好ましいことだが、それにしてもかなり詳細かつ堅い筆致なのでアカデミックな文献になれてない読者にとっては読みものとしてつらいところがあるかもしれない。

 

 第1章は、初期(戦後)のマスメディア研究で盛んに主張されていた「強力効果論」について。「文字通りマスメディアが強力な効果を持つという前提に立つ」「メディアの効果がすべての人に対して即時的、直接的に及ぶものだという想定に特徴づけられる」(p.5)議論で、ナチスプロパガンダに対する反省や「なぜナチスの宣伝はあれほど強力だったのか」という疑問からスタートしたらしい。ただし、現代ではそもそも「ナチスプロパガンダが強力だった」というイメージ自体が誇張されていたものであることが明らかになっている*2。また、「『宇宙戦争」事件」に関する研究も取り上げられているが、「メディアの影響力は誰にでもいつでも働くわけではなく、フェイクニュースに騙されるかどうかも、そのニュースを受信した人が批判的思考能力を働かせられる状況にあったかどうかや、身近な人からの影響があったかどうかに左右される」といった結論になっている。

 第2章では、マスメディアの影響力は限定的であると主張する「限定効果論」が扱われている。この章では「対人コミュニケーション」や「選択的接触」がキーワードとなっており、マスメディアと個人の間には「個人の所属する集団」や「集団内のバリア」があること、またどのような情報に接触したりどのような情報を受け入れたりするかは個人側の動機や心理に認知過程などにも影響されているから、マスメディアがただ情報を発信するだけでみんながその情報に影響されるわけではない、といったことが論じられている。

 具体的に紹介される知見は、「選挙においてマスメディアが人々の投票先を変えたわけではなかった(もともと所属していた集団の影響力のほうが強かった)」「マスメディアの情報を集団内のオピニオンリーダーが受け取り、リーダーから非リーダーの人たちにその情報が伝達される(コミュニケーションの二段の流れ)」「個人は自分の信念や都合に合わなくて認知的不協和を生じさせられるような情報を回避して、都合の良い情報にばかり接触する(選択的接触)」といった知見が紹介されたのちに、メディア研究におけるエビデンスや体系や研究史といったポイントについても論じられている。

 限定効果論は強力効果論に比べるとエビデンスや数字に裏付けられたものではあったようだが、「マスメディアは大した影響力を持たない」という結論は研究者にとってもそれを支援する企業にとっても魅力的ではなく、マスメディア研究の一時停滞を招いた。また、限定効果論に対しては「マスメディアの影響力を過小評価することでマスメディアの権力性を覆い隠している」という批判がなされた一方で、限定効果論を肯定する研究者たちにも「巨大なマスメディアの影響力に抵抗する能動性を持った市民たち」という物語に引っ張られていた側面があるそうだ。前者の批判は科学的知見を無視しているし、後者は人間の心理的な特徴や制限に過ぎないものを美化して捉えている、というのが著者の指摘だ。いずれにせよ、マスメディアの影響力を過大評価することには警戒すべきである……「人々をプロパガンダから守るためにマスメディアを規制すべきだ」という主張ほど政治的権力に都合のよいものはないから……と著者は主張する。

 

 第3章では、限定効果論の研究結果にも限らずなぜマスメディアの影響力は大きく見積もられがちなのであるかが論じられて、「「マスメディアを疑う」ということを疑う視点」(p.85)が提供される。ここで主に論じられるのは、「自分はマスメディアの影響を受けないが、他の人たちはマスメディアに容易く影響されてしまう」と認識してしまう「第三者効果」というバイアス、そして実態以上にマスメディアが偏向していると認識してしまう「敵対的メディア認知」というバイアスだ。

 第三者効果は心理学の本などでもよく紹介されるものだ。人は「自己高揚傾向」「内観の幻想」によって自分の意見は熟考にもとづく(優れた)ものであると思いがちだが、他人の意見については「マスコミに影響されているんだろう」「SNS上のフェイクニュースに踊らされたものにすぎない」と容易く判断してしまうということである。また、敵対的メディア認知は、「マスメディアは偏向している」と主張している個人の側の党派性や「選択的記憶」(自分の立場に沿わない情報のほうが印象に残って優先的に記憶される)などが原因で生じる。そして、著者は「少なくとも日本のマスメディア事業者が発信する政治的ニュースについては、特定の方向への偏向は比較的起こりにくいと考えられる」(p.110)として、「マスメディアの偏向報道」がオーバーに表現されていることを改めて指摘する。

 そもそも、日本のテレビ・ラジオは政治ニュースについては放送法によって報道の公平性を保つことが厳しく要求されている(ただし新聞やウェブ記事はその限りではない)。また、テレビ局も新聞社も営利企業であるために「顧客」の意向を気にする必要があるが(NHKも視聴率は受信料徴収の正当性を維持するために視聴率は気にする必要がある)、日本は右でも左でもなく中間に有権者がたくさんいる国なので、偏向報道潜在的な顧客を減らすから、政治的ニュースは中立なものとなる。……著者の主張には異論があるだろうが(「マスコミは偏向している」と主張する人はテレビよりも新聞を標的にしているかもしれないし、報道ニュースなどではなく討論番組とかバラエティ番組などにおける「偏向」や「洗脳」を問題視しているかもしれない)、わたしとしては賛同できる。まあわたしが念頭に置いている比較対象がアメリカだからということがあるかもしれないけれど(アメリカでは報道における「公平性の原則」が撤廃されており、有権者の政治的二極化も激しくなっているから、本書の議論にしたがっても、アメリカのマスメディアが偏向している可能性は否定できないように思える)。

 

 第4章で紹介されるのは1970年代以降に登場した「新しい強力効果論」であり、直接的に観察可能な投票行動ではなく人々の目に見えない認知過程にマスメディアがもたらす影響について論じられている。

 具体的には、マスメディアは「あるトピックに対して人々はどんな考えを抱くのか」ということには影響できないが、「議題設定」や「ゲートキーピング」を行うことで「そもそも人々がどんなトピックについて考えるか」ということには影響力を与えられる。たとえば選挙においては、マスメディアは人々の支持政党には影響を与えられなくても、選挙における「争点」を設定する能力はあるのだ(または「どんなトピックが由々しき社会問題であるか」ということも報道によって設定されたりする)。

 そして、同じトピックであっても、どのような「フレーム」で報道されるかによって人々の認識に与えられる影響は変わる。たとえば、問題の背景を一般化・抽象化して論じる「テーマ型」の報道よりも特定の人物や出来事に注目した「エピソード型」の報道のほうが人々の印象に残りやすい(また、たとえば貧困問題について特定の個人にフォーカスしたエピソード型で報道することは、報道の意図とは裏腹に自己責任論を招きやすいという問題も紹介されている)。

 さらに、テレビというメディアには人々の間に「共通の世界観」を培養するという特性もある(培養理論)。テレビは読み書きが苦手でも視聴できるから多数の人が触れてきたうえに、自ら能動的に選択しなくても常に番組が流されるために「選択的接触」が回避されやすい。そのため、好むと好まざるとにかかわらず、「いま世の中ではこんなことが起こっていますよ」とか「いまの社会はこんなことになっていますよ」とかいった認識が視聴者たちの間に培われていき、意見も似通っていて世論の「主流」が形成されるのだ(右派や左派の人であっても、テレビの視聴時間が長ければ長いほど、諸々のトピックに関する意見は中道に寄っていく)。……もちろんメディアが万能なわけではなく、現実世界の制約をすべて超えられるわけでもないが、現実認識に与えられる影響力はやはり大きなものである。そして、マスメディアが恣意的に情報を選択して争点を設定できるというのは、やはり人々の自由とか民主主義とかには相反するところがあるので、1990年代以降のメディア研究ではインターネットに大きな期待がかけられることになった。

 

 第5章は、そのインターネットの問題について。基本的には「インターネットは個人の選好の強化を助長する」というのが主な問題であり、ネットでは既存メディア以上に選択的接触が激化するしSNSでは自分と似た傾向を持つ他者とつながってしまうし(類同性)、さらに検索エンジンSNSの側も個人の選好に沿った情報を表示するパーソナライゼーションを行うために、認知的不協和を引き起こすような情報はまったく目にせず知りたい情報だけに囲まれて過ごすことが可能になってしまう……その結果としてエコーチェンバーやフィルターバブルなどの社会的に有害な現象が引き起こされたり、意見の異なる者同士が最低限の情報共有や共通認識を成立させることも難しくなって民主主義に危機がもたらされたりする、という議論だ。

 この議論自体は、本文中にも出てくるキャス・サンスティーンが15年くらい前から指摘していたことでもあるし、いまやお馴染みの感もある。とはいえ、従来のマスメディアは偏向しておらず「中立」であったからテレビや新聞は視聴者や読者が抱いているのと反対の意見を届けられていたことなどが強調されているのは、本書の議論の文脈に沿っていて印象的だ。また、検索エンジンSNSアルゴリズムよりもユーザー個々人の類同性にもとづいた選択がフィルターバブルを作り出すことが指摘されているなど、わたしたちがネット環境の単なる犠牲者でもないことに触れられているのは重要だと思う。そして、やや意外なのが、「Yahoo!ニュース」や「SmartNews」などの「ニュースアグリゲーター」は、ニュース記事にせよ意見記事にせよ多様な情報に読者を触れさせる仕組みなので、選択的接触やエコーチェンバーを抑制する効果があるという指摘である。

 ネットの発展に伴い「注意経済(アテンション・エコノミー)」が活発化した現在では、ネットによって右派や左派の偏向が過激化するという問題以上に、そもそも政治ニュースに触れない人々が増加する可能性のほうが深刻である。みんながテレビを視聴していた時代には政治に興味がない人でも朝や夕方にはニュースを目にすることで自然と政治についての知識を獲得するという「副産物的政治学習」が行われていたが、自分の好きな分野の情報に選択的に触れているだけで注意力や時間が全て消耗されるようになった現在では、政治的な知識を得る人はもともと政治に興味のある人……つまり多かれ少なかれ右が左に偏っている人だけなので、中間的な意見と浮動票を持つ有権者が選挙に足を運ぶ機会も減っていくのだ。

 だが、インターネットの欠点はマスメディアを経由した仕組みによって抑えられる、とも著者は論じている。たとえばヤフー・ジャパンのトップページには常に8本のニュースが表示されているが、この記事の選択はデータ分析によって自動的に行われているのではなく人力で行われているうえに、パーソナライゼーションがされることはなくどのユーザーにも同じ記事が表示され、そして政治や経済や国際といったハードニュースが必ず含まれる。このようなポータルニュースの利用者は、政治よりも娯楽に興味がある人であっても政治的知識を得られやすいのだ。

 

これは、ポータルサイトなどのニュースアグリゲーターが、インターネット上のサービスでありながら、以下に述べるようなマスメディアとしての特徴を持つがゆえである。1つ目は、日本におけるヤフー・ジャパンに代表されるように、利用者の規模が大きい(マス)という点である。2つ目は、これらのサイトに掲載されている記事の多くは、テレビ・新聞といった既存のマスメディア事業者によって作成されたものであるという点である。そして3つ目は、個人の選好のみにもとづくパーソナライゼーションによって表示する記事を決定するのではなく、多くの人が知るべきだと考えられる重要なニュースをすべてのユーザーに等しく表示しているという点である。

(p.227)

 

2000年代の中ごろまでは、ブログや市民メディアがニュース発信者としてマスメディアの地位を脅かすかのような言説も存在したが、継続的にジャーナリストを育成し、ニュースを発信し続ける既存のマスメディア事業者の役割を代替する存在とはなりえなかった。結局、人々のボトムアップによる情報発信のみではメディアは成立せず、ジャーナリストなどによる取材・執筆と専門家によるトップダウンの編集が必要となることは、新しい技術が社会にもたらす変化(もっといえば、新しい技術が作る未来)について楽観的に描く雑誌『ワイアード(Wired)』を創刊したケヴィン・ケリーですら、認めざるをえなかった。なお、政治家などのニュース当事者によるSNSを通じた情報発信は盛んに行われているが、これは自らが伝えたい情報のみを発信する広報であり、たとえば汚職や不祥事などの本人が伝えたくない情報も伝える報道とは異なる。また、記事の自動生成を行う自然言語処理の技術がいかに進歩したとしても、日々変化し続けるニュースについて、人間の手によって書かれた良質なデータが供給され続けない限り、記事を生成し続けることは難しい。

(p.228 - 229)

 

 ただし、ニュースアグリゲーターがマスメディアから安価に記事を買い叩くことでマスメディアが利益を上げられなくなり、ジャーナリストの育成や良質な記事の作成もままならなくなれば、結果としてニュースアグリゲーターも共倒れする危険性はある。インターネット事業者としてはそういう点にも注意しながら、パーソラナイゼーションを行って個人の選好に沿った情報を表示するだけでなく、選好とは無関係の情報を届けることが民主主義を持続させるための社会責任として求められているのだ。

 というわけで、最終章である第6章では「マスメディアは社会にとって必要な存在である」(p.236)という結論が改めて提示される。また、この章では、ネットやAIなどの技術が発展した状態でもその技術をどう用いるかには人々の主体性が介入する余地があるとして技術決定論を退けながら、メディア環境を守ることの必要性が主張されている。

 

メディア環境の改善においてマスメディアが果たすべき役割は「人々が見るべき情報をなるべく多くの人に等しく届ける」ことである。「自分が見たい情報は自分自身が一番よく知っているのだから、見るべき情報をマスメディアが決めるのは傲慢だ」という意見もあるだろう。しかし、個人としては自分の見たい情報を見続ければそれでよいが、すべての人が自分の見たい情報だけを見るようになれば、少なくとも民主主義は機能不全に陥り、結果として個人も不利益を被る。こうした社会的ジレンマ状況を考慮しなければならない。したがって、傲慢に思えても、誰かが情報を選択する役割を担わなければならないのである。

 

(p. 248 - 249)

 

 この結論に対してはネット民からは反発も多いだろうが、わたしとしては充分に同意できる。……イーロン・マスク買収前のTwitterでニュースメディアのキュレーションが行われたことが発覚した件を見ると、情報をキュレーションするとしても、「キュレーションをしている」という事実そのものはオープンにしたり、キュレーションにあたっての基準などに関する公開性や透明性にはかなり気を付けるべきだとは思うが(そうしないと反動を招いてメディア不信がさらに悪化してしまうので)。……一方で、はてなブックマークポータルサイトでありながら専門家によるキュレーションが行われていないWebサイトであるが、現在の(それ以前からの?)この惨状を見ると、やはり専門性に基づいたトップダウンによる情報や記事の選別って必要なんだなと思わされる。

 

 全体的には、テレビメディアが世の中に対してポジティブな効能をもたらしていることが色々と指摘されているところが印象に残った。また、本書を読んでいてたびたび思い出したのが、中学生だか高校生だかのときに社会の先生が授業で言っていた「新聞を読みなさい」という説教だ。要するにマンガばかり読んだりゲームでばかり遊んでいたりバラエティ番組ばかり見ている学生に対して「もういい歳なんだから新聞を隅々まで読んで、世の中で何が起こっているかを知りなさい」ということなのだが、ふと振り返ってみると、わたしを含めた現代社会の大人の多くが当時の中学生と同レベルになっていること……自分の知りたい情報だけを追って他の情報は気にもかけない人間になってしまっているわけである。今後は気をつけていきましょう(……とはいえ、だからといって新聞を購読するのは金銭的にも二の足を踏んでしまうし保管スペースやゴミの処理などにも困るし、テレビだって我が家にはないし購入したところでニュース番組を流す習慣はもう失われているしで、「選択的接触」を予防するために自分の身のまわりの環境を整えるというだけでも、実行するのはなかなか大変で厄介である)。

感情の普遍性と合理性(読書メモ:『一冊でわかる 感情』)

 

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『法哲学』『マルクス』『古代哲学』『懐疑論』などに続いてVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ。

 当たり外れも大きいVery Short Introduction シリーズだが、本書は役者解説が充実しているのも含めて、かなり「当たり」の部類。原著は2000年と古いが、(一部の議論を除けば)現代でも通じる内容であると思われる。

 

 本書の特徴のひとつは、進化心理学の観点に基づいて感情の「普遍性」が強調されていること*1。第一章の章名は「普遍言語」であり、ポール・エクマンによる基本情動理論や表情の研究などを紹介しながら、「どんな感情があってどんな感情がないかは文化によって異なる」とする文化人類学的な「情動の文化理論」を否定する議論を行なっているほか、存在自体は普遍的だが表出のされ方や意味づけが文化によって異なる社会的な感情である「高次認知的情動」についての考え方も紹介されている。

 冒頭から日本独自の「甘え」という言葉が紹介されていること、そして英語には「甘え」に当たる単語はなくても「甘え」で表されるような情動を著者自身が経験したというエピソードから、どんな情動に名前が付けられていたりしなかったりするかという文化的・社会的な事柄に関わりなく情動自体はわたしたちの身体のなかに生物学的・普遍的に存在することを論じるくだりは印象的だ(とはいえ、訳註でも指摘されている通り、ここのエピソードで紹介されている「甘え」とは日本における一般的な意味での「甘え」といよりも、『「甘え」の構造』などで論じられているような特殊な意味での「甘え」であるようだが)*2。また、「恋愛という感情は西洋に独自のものである」という発想を批判しつつも、恋愛も高次認知的情動なのでその社会的な意味付けは文化によって異なることを指摘しているところなどはバランスがよい。ちなみに、本書に限らず進化心理学の本では恋愛感情の普遍性が強調されることが多いのだが、それには、恋愛感情はフェミニズムジェンダー論にも絡んで人類学や社会学からはとくに普遍性が否定されることの多い感情であるからそれに対する反発、というところもあるのだろう*3

 なお、基本情動と高次認知的情動ははっきりと分かれるものではなく、たとえば嫌悪感については、排出物などを見て嫌悪感を経験するというのは文化に依らない普遍的なものである一方で、非道徳的な行為に嫌悪感を感じてそのような行為をおこなった人から遠ざかるという社会的機能を果たす場合には高次認知的情動に近づく(どのような行為が非道徳的であるか、ということには文化的差異が含まれるから)。訳者あとがきでは、どのような情動であっても「認知的評価」が絡んでくるのだから基本的情動と高次認知的情動は分けることができず、せいぜいは程度の違いである、といった指摘もされている。

 ちなみに訳者あとがきは本文以上に感情の「普遍性」を推す立場で書かれている。また、感情についてその感情を経験している本人の「内側」から理解しようとすること…インタビューして語らせることも含む…は文化ごとの言語や概念に必然的に影響されてしまうが、客観的に測定できる表情や生理的反応などの「外側」から分析すれば感情の普遍性が浮かび上がってくる、といったことも指摘されている。…近年ではエクマンの研究については異論や批判もあるようだが*4、こういった方法論に関する議論も含めて興味深いところだ。

 

 また、心理学者によって書かれた本でありながら、感情に関する西洋の哲学者たちによる議論がたびたび紹介されているところもポイントだ。全体としては西洋哲学では感情が軽視されていたことは強調されているし、プラトンホッブズ・カントあたりが理性至上主義者として持ち出されて批判されてはいるが、アリストテレスアダム・スミスによる感情論は肯定的に扱われている(感情の哲学といえば定番であるヒュームの出番は本書には意外とないが)。

 

アリストテレスの中庸という概念は、現在、心理学者が「情動的知性」(emotional intelligence)と呼んでいるものと酷似している。情動的知性とは、情動と理性のどちらか一歩が完全に主導権を握るということなく、両者の間でちょうどいいバランスを取るということに関わるものである。情動的に聡明な人は、いつ自らの情動を制御すればよいのか、またいつ情動のなすがままにふるまえばよいのかを知っている。情動的知性はまた、他者の情動を正確に読み取る能力にも関わる。他者の情動状態の推測はその人が泣きじゃくっているようなときには簡単だが、そういった兆候がいつもはっきりしているとは限らない。また、私たちはよく自分の情動を覆い隠そうとして、自分が何を感じているかを他人に推測させにくくする。もっとも、私たちが心に秘めた考えをついさらけ出してしまうような無意識の昂りまでことごとく制御することなど、めったにできないのではあるが。そのような微妙な兆候から他者の気分を推察する能力は、実践を積めば改良することはできるものの、非常にたぐい稀なる才能と言える。

 

(p.56 - 57)

 

 また、本書では感情や情動というものが合理性を持っているという主張が繰り返し論じられており、「あとがき」の副題も「情動には情動なりの固有の理性がある」となっている。

 

「心(heart)には心なりの固有の理性がある」とブレーズ・パスカルは述べている。そして、さらに「そうした心の理性について通常の理性は何も知らないのだ」と付け加えるのである。人が、認知と情動、あるいは(もう少し伝統的な言葉で言えば)理性と熱情について語るとき、それら二つは、相互に明確に区別される異種の精神機能であることが前提となっている。一つは、冷たく平静・沈着なものであり、明確な論理規則に則ってゆっくりとある結論に到達しようとする。もう一つのものは、熱しやすく彩り豊かであり、情動的直感に従って一気に結論を得ようとする。しかし、ただ、心がいわゆる理性とは独立に働くことがあるからと言って、心がことごとくあらゆる種類の理性を欠いているということにはならない。それどころか、私がこの本で示そうとしてきたのは、危険から逃れようとするにしても、魅力的な人に求愛しようとするにしても、心を何ものかに集中してある判断を得ようとするにしても、情動が働くところには、必ず、それなりの理性が潜み、そして、ときにそうした理性はきわめて機能的であるということである。ただ理性の中に熱情が潜むというばかりではなく、熱情の中に理性が潜んでもいるのである。

[…中略…]

情動や気分が判断に影響するもう一つの道筋は、良い気分と自信過剰との間のよく知られた関係の中に見て取ることができる。良い気分の人は決まって自分がある活動において成功する見込みを過大に見積もり、悪い気分の人は「抑うつ的現実主義」として知られるように、そうした見込みをより正確に評価しがちである。見込みの評価以外のところに違いがなければ、正確な見込みを持てる方が不正確な見込みを持つよりもそれ自体いいことであるわけなので、普通に考えれば、悪い気分の人の方がよりうまくいくように思われるかも知れない。しかし、問題なのは、「見込みの評価以外のところに違いがない」という事態はあり得ないということである。仮にあなたの成功する確率がきわめて低く、しかもあなたの気分がすぐれないとしよう。そうした場合、あなたはその確率を正確に見積もることになるわけであるが、そうなると、あなたはそれをやってみようとさえ思わなくなるだろう。しかし、あなたが良い気分であれば、成功の望みをふくらませ、果敢にもそれに挑み、最後にはうまく成功を収めてしまうかも知れないのである。失敗して無駄になるコストが低く、かつ成功して得られる報酬が大きければ、過剰に楽観的であることの方が、より多くのものを手にする確率が高くなるだろう。逆に、私たちが、客観的な成功確率に冷ややかに基づいて期待を形成しようとすれば、いかなる試みをしようと、それは、成功の確率をさらに低くすることを招来しかねない。また、自信過剰が現実に成功の見込みを引き上げることがないとしても、それは、協力者を得たり他者からの信頼を集めたりするといった、より社会的性質を帯びた利益をその個人にもたらすかも知れない。

このような例は逆説的に思われるかも知れない。ある側面から見ると、良い気分状態にある人は、客観的事実から言えば非現実的なまでに高く成功を見積もるわけなので、あまり合理的ではなくなっているように見える。しかし、別の側面から見れば、ときに利益は大胆にふるまう人のみにもたらされることがあるわけなので、自信過剰であることは、現実的であることよりも、より合理的であるとも言い得るのである。情動はときとして、一種の「超理性」とでも言うべきものを示し得る可能性があり、通常の純粋理性が愚行に走らないよう歯止めをかけてくれているかも知れないのである。

 

(p.170 - 173)

 

 本書において「感情は合理性を持つ」と言われるときには、長期的な合理性のことを指したり、あるいは生態学的であったり進化論的な合理性のことを指している。……たとえば、ごく可能性の低いリスクにも大げさに反応してリスクを回避することは、短期的には得られる可能性の高いリターンを失わせるという点で非合理的だが、リスクの結果が死であったり大ケガであったりする場合には取り返しのつかないことになるから、どんなにリスクの可能性が低くても大げさに反応したほうが長期的に見るとよい(あるいは、わたしたちの祖先はそうやって大げさに反応したおかげで子孫を残せてきたからその傾向がわたしたちに残っている)、といった感じの主張。

(超)長期的な合理性や進化論的な合理性は経済学的な合理性とは反するとか、経済学では捉えきれない合理性がわたしたちには潜んでいるのだとかいった主張は進化心理学ではおなじみのものであるし*5、むしろ古臭いくらいのものだ(結局のところ、狩猟採集民の時代ならともかく現代社会ではわたしたちの心理や感情は頼りにならないのだから理性や制度が必要になる、というのが最近の傾向だろう)*6……2000年の本にそれを言っても仕方がないが。

 また、科学におけるピアレビューや裁判における陪審員制度など、意思決定の制度化(集団化)について疑問を呈しながら、「[ピアレビューや陪審員制度が]…うまくいっているというのであれば、それは集団が個人よりも情動的でないからではなく、逆により情動的であるからなのだろう」(p.128)と主張しているくだりはほとんど意味不明だし、ほかにも感情の利点を強調したいがあまりに無理筋な議論になっているところが多々ある。ここらへんはジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を(悪い意味で)思い出したが、『あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか』を読んだときと同じく、現在に比べると心理学者たちもだいぶ無邪気で調子にのっていたんだなと思わされた*7

 

 どちらかといえば、心理学の知見が紹介されているところよりも、哲学者の議論が紹介されているところのほうがむしろ興味深くて印象に残った。具体的には、「(宝くじに当たるような)思わぬ幸運はむしろ人を不幸にさせることが多い」というアダム・スミスによる「幸運が招く危難」論や、「妬みは民主主義の基礎にある」として妬みを肯定するバートランド・ラッセルの議論、古代ギリシアの哲学者たちはレトリックが情動に与える影響について重視していたこととかフランクフルト学派の心理学者(ほとんど哲学者みたいなもん)は集団心理についてネガティブな考えを抱いていたこととかマーサ・ヌスバウムによる「カタルシス」の議論とか。

 個別の心理学の(トリビア的な)知見として印象に残ったのは、「気分が良くて急かされているときにはニュートラルな気分で急かされているときよりも主張の論理性を判断する能力が乏しくなるが、気分がよくて時間もたっぷりある場合にはニュートラルな気分で時間がたっぷりある場合によりも主張の論理性を判断する能力がさらに上がる」というのや、「ポジティブなものであれネガティブなものであれ激しい情動を伴った場面は記憶に定着して想起しやすくなる(ネガティブな記憶は抑圧されるというフロイト理論は間違い)」というの。

 また、情動の合理性という議論については、本文中のものよりも訳者あとがきのほうがむしろ説得的で印象に残った。

 

もう一点、情動の合理性・機能性に関わる議論をしておこう。それは、時間や情報などの資源が十分にある場合とそうではない場合で情動の見え方ががらりと変わるということである。情動は、大概、せっぱ詰まったときに生じる。とっさに何かをしなくてはならないというときに生じてくるのである。[…中略…]…私たちはよく、ある強い情動が絡んだ過去の事柄を思い出すときに、あのとき、もし別の逃げ方をしていればよかったとか、もう少し効果的な抗議をしておけば今、困ることはなかっただろうに、などということを考えるものである。それはひとえに、情動に駆られた思考や行動が最適なものあるいは合理的なものでは決してなかったという判断がそこに働くからにほかならない。

しかし、これはよくよく考えると、じつにおかしな話である。それというのは、情動は、ある問題を解くのに十分な時間と情報が与えられている場合には本来あまり生起しないわけなので、その視点から情動的行動の機能性や合理性を考えても、ほとんど意味をなさないからである。従来、情動をめぐる議論は、概して理想的な状況でできたであろうこととの対比において、情動を非合理・反機能的と決めつけることが多かったわけであるが、情動が現に生起するそれぞれの状況との関連で、そこでの思考なり行動なりを見ると、それらは大概、その限られた中で最も高い機能性や合理性を具現しているのだと言えるのかも知れない。

 

(p.189 - 190)

 

 なお、一見すると不合理であったり合理性が説明できなかったりする社会的な感情(罪悪感や怒りや不公平感)なども(狩猟採集民の)集団生活における互恵性とか自己防衛とか資源の分配とかに由来する、といった議論もされている。このトピックについてはクリストファー・ボームの『モラルの起源』などで深掘りされていたところだ。

 

 

 

 

 

反共同体主義としてのリバタリアニズム(読書メモ:『自由はどこまで可能か』)

 

 

 タイトル通り、思想や哲学としてのリバタリアニズムの入門書。

 本書の初版は2001年ともう20年以上前であるし、わたしが本書を最初に読んだのも学部生だったときだ。本書の書評やレビューはネットの内外にて既に大量に書かれているだろうから、この記事では本書の内容を要約するということはせず、先日に読み直したときにとくに印象に残った箇所……第4章「政府と社会と経済」で、共同体主義コミュニタリアニズム)や共和主義などの「連帯感」を重視した発想に対して批判を行なっている箇所を主に紹介しておこう。

 

経済的不平等は社会内部の連帯感を損なう、と言われるかもしれない。だが、リバタリアンはそもそも相互に人間性を認め合うという、礼儀正しい尊重以上の濃い連帯感が社会全体の中に存在しなければならないとは考えない。濃い連帯感は共同体の内部で求めるべきである。経済的に豊かな人と貧しい人の間ではライフスタイルが異なるために連帯感が生じにくいかもしれないが、そのことは、異なった宗教の信者や異なった地方の住民の間で連帯感が存在しにくいのと同様、問題ではない。

次に政治的権力の不平等についてだが、これはリバタリアニズムの立場からも確かに問題だ。しかしそれは、経済的不平等を禁止する理由にはならない。問題なのは、正当な授権によって得られたのではない政治的不平等や、平等な自由を侵害するような政治的権力行使である。[…中略…]現代の日本を含む、利益配分型の政治は、たとえどんなに民主的であっても、原理上不正である。なぜなら絶対的貧困を救済するための福祉給付や十分に理由のある公共財(ここでは国防や法秩序も含む)の供給を除くと、政府には果たすべき役割など残っていないからである。政治権力の不平等の防止策は、多様な利益集団の政治参加の平等化ではなく、政治権力自体の最小化であって、それがなされれば、経済的な力が政治に影響するということもおのずからなくなる。それはちょうど、政界と財界の癒着をなくすためには、財界の内部調整によって利権を公平に分配するのではなしに、利権そのものをなくすべきであるのと同様である。

このように考えると、政治とは多様な利益集団の取引と妥協の過程だと考える「政治的多元主義」や、個々人の利害は職能団体とその代表者によって代表され調整されると考える「コーポラティズム」と呼ばれる見解は、政治の実態を記述するものとしては正しいかもしれないが、規範的な見解としては斥けられる。社会の中には多様な利益が存在することは事実だが、その利益の追及は強制力を伴う政治の場ではなしに、民間の領域でなされるべきである。人からお金をもらいたかったら、課税によって否応なしに取り立てるべきではなく、寄付か交換によって、相手の納得ずくでもらうべきである。

するとリバタリアニズムが認める政治の役割は結局何なのか?それは、市場では十分に供給されない公共財が何であり、政府がどれだけ供給すべきかを決めることと、福祉給付の程度を決めることくらいに限られるだろう。むろんこれらの政治的決定に際しても、自己利益的考慮は入り込んでくるだろうが、右の原則が建て前としてでも認められれば、政治が利益集団に利益を分配できる程度は現在よりもはるかに制限されるだろう。

 

(p.124 - 126)

 

リバタリアニズムの消極的な政治観に対する、より根本的な批判もある。最近英語圏の政治理論で注目されている「公民的共和主義(シヴィック・リパブリカニズム)」や、それとよく似た「参加民主主義」などと呼ばれる見解によると、ーー政治は人々の幸福や利益実現のための単なる手段ではないし、まして必要悪でもない。むしろ政治への積極的な参加こそが、市民のよき生にとって欠かせない構成要素である。経済の領域では私的利益を孤独に追求しているにすぎない個人も、政治の領域で公共的決定に参加して、公共善について同胞市民と共に熟慮し討論し競い合うことを通じて、連帯感を持つようになる。政治への参加が人格を陶冶し、他者への共感と思いやりを持った豊かな人間性を育てるーーとなる。古代ギリシア直接民主制を理想化するこの立場では、民主制は人々の意見を平等に反映させるとか、あるいは専制政治を阻止しやすいといった理由よりも、誰もが政治に積極的・直接的に参加すべきだという理由によって正当化される。民主主義国家は民主主義へのコミットメントによって結ばれた政治的共同体である。

この説は、一見して現実離れしているように思われる。第一に、大部分の人は自分自身の利害についてはある程度合理的な判断ができるが、天下国家や地球全体にかかわる問題については、ごく限られた知識しか持ってない。またかりに人々がこれらの問題について十分理解しているとしても、各人が求めるのは公共的な利益よりも自己利益かもしれない。そもそも政治参加が人格を陶冶するというのも、奇異な主張である。プロの政治家と市井の私人とを比べると、前者の方に立派な人格者が多いだろうか?政治家の公約は商人の契約ほど当てになるだろうか?

[…中略…]

…公民的共和主義は、リバタリアンに限らず自由主義的見解からはとうてい認めることができない。それは何よりもまず、人間の多様性を無視している。人々の中には公共的決定への参加を生きがいとする人もいるように、私生活を楽しもうとする人々もいる。公民的共和主義者は後者の人々を、教育されるべき、意識の低い人々とみなすようだ。しかしそのような人間観を持つのは自由だが、それは公的に強制されるべきものではない。その強制は個人的自由に対する全面的な侵害である。それはちょうど音楽好きの人々ーーそれは現代の日本では政治好きの人々よりも多いだろうーーが、音楽のない生活は貧しい生活だという理由で、政府は音楽の振興を国家的目的として、すべての国民に音楽活動への積極的な参加を呼びかけなければならない、と主張するようなものである。

 

(p.126 - 128)

 

 リバタリアニズムの立場からの共同体主義/共和主義批判はジェイソン・ブレナンの『アゲインスト・デモクラシー』でも行われており、わたしはブレナンの本を読んだことをきっかけにして「リバタリアニズムにも意外と見どころはあるんじゃないか」と思うようになった*1。また、「共和主義の議論は要するに自分の趣味を押し付けようとしているだけだよね」とか「自分にとって政治が大切だと思うのはいいけど、他のみんなにとっても政治が大切だと主張するのは違うよね」といった感想(批判)は、マイケル・サンデルなどの共同体主義者やジョン・ロールズにエリザベス・アンダーソンなどのリベラリストに対してわたしが以前から抱いていたものでもある*2共同体主義を批判するという点ではリベラリズムリバタリアニズムも共通しているし、原則としてわたしはリベラリズムのほうを支持しているが……リバタリアニズムほどに自由を重要視する意義がわたしには感じられないし、リバタリアニズムはやはり弱者に対して厳しいものがあると思うし、現実にリバタリアニズムを実践しようとしてもうまくいかないことはほぼ自明であるように思えるし……リベラリストの多くは政治大好き人間であるために、連帯感とか自尊心とかいった議論については共同体主義や共和主義のほうに寄ってしまいがちだという問題がある。そういう問題を考えると、リベラリズムよりも原理的かつ冷徹な視点から共同体主義者や共和主義者の主張を一蹴してしまえる(そしてその光景を眺めているリベラリストにも我に返るきっかけを与えられる)リバタリアンの存在には、大きな意義があるとも思っている。

 

 その他に本書で印象に残ったポイントは、「左派(左翼)リバタリアニズム」について紹介しながらも最終的には「左派リバタリアニズムは実際にはリバタリアニズムとは言えない」と切り捨てているところ、自己所有権テーゼや経済的平等に関するジョン・ハリスやジェラルド・コーエンの議論を紹介しているところ、臓器売買を肯定しているところ、などなど。

 また、共同体主義が「根なし草」を否定するのは反自由主義であるときっぱり指摘しているところや、マルチカルチュラリズムは民族的アイデンティティだけを公的に重視するから恣意的だと批判しているところ、「移民の自由」をはっきりと擁護しているところなどは、出版から20年以上経った現在でこそむしろ重要になっていると思う(いつの間にか、昔よりも現在のほうが、こういった主張を堂々と言うことが難しくなっている面があるからだ)。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

以前にも思ったが、政治思想家たち(ロールズやアンダーソンにサンデルなど)は「社会制度」や「政治参加」が人々の「自尊」にもたらす効果を過大評価する傾向があるように思える。政治思想家たちは政治のことが好きで政治を大事に思っているから政治参加できないと自尊の感情がなくなるだろうけれど、わたしもわたしの周りの人たちも、ほとんど政治参加していないけれど自尊の感情を保てている。

最近読んだ本シリーズ:『体育がきらい』&『サイエンス超簡潔講義 動物行動学』&『サイエンス超簡潔講義 うつ病』

 

●『体育がきらい』

 

 

 著者は大学で体育やスポーツを教えており、また「体育哲学」という研究を行なっているそうだ。本書で哲学っぽいことが書かれるのは終盤になってからだが、身体を通じて個々人が世界を経験したり知覚や認識をしたりすることを重視したり、「体が変わる」ことで「世界が変わる」と論じたり、あと全体的に「〜のために運動すべきだ」とか「〜な身体になったほうがいい」とかいった基準や規範に否定的で個々人の多様性や独自性を重視している感じなど、どことなく現象学を思い出させるような議論がなされている。

 全体的には、日本独自の「体育」教育が発達した歴史的経緯や現在の教育現場における体育教育の状況が紹介されていたり、体育や運動とスポーツとの違いについて論じられたりしている。体育教育やスポーツ論に関する知識が得られるという点ではよい。ただ、本書は「体育がきらい」な子どもに向けて書かれたテイになっており「その理由を一緒に考えましょう」という感じで始まるのだが、実際には、体育業界に関わっている(が体育業界を相対化する視点も持ってしまったがために居心地の悪さや罪悪感を抱いている)大人による子どもに向けた言い訳に終始しているという感じがあった。

 また、本書では「体育ぎらい」な子どもや大人が発生する原因について「規律と恥ずかしさ」「体育教師」「部活」「スポーツという文化が苦手」「そもそ運動が苦手」といった観点から分析するのだが、わたしが子どものときに体育が苦手だった理由である「痛いからイヤ」「(走ったら)喘息で呼吸が苦しくなるからイヤ」「砂ぼこりなどで身体が汚れて不潔感を抱くからイヤ」といった点にはほとんど触れられていないのは、「身体」を強調する本書だからこそ身体的苦痛や不潔感というかなり根本的な「感覚」を取りこぼしているという点で大きなマイナスだと思った。たとえば「ドッジボールは弱肉強食の論理がはっきりする野蛮なゲームであるから多くの子どもを体育きらいにする」といったことが書かれているのだが、そうではなくて、ボールがあたるとめっちゃ痛いからイヤなのである。

 

●『サイエンス超簡潔講義 動物行動学』&『サイエンス超簡潔講義 うつ病

 

 

 

 

 どちらもVery Short Introdutionの翻訳。このブログでは人文学や社会科学系のトピックはVery Short Introdutionの翻訳書は多々紹介してきたが、それらのなかには読みものとして優れていて考えさせられるものも多くある一方で、著者のクセや自意識がノイズになり過ぎていたり規範的な主張が多過ぎてうんざりさせられたりマイナーなトピックについて読者が読む意義を理解させることに失敗していたりするものもあったりした。それに比べると、自然科学系のトピックのVSIは、読んで知識を得たりその分野の考え方や研究手法を教えてもらったりするだけでも自分のなかに蓄積される情報量が純粋に増えていく感じがあって、本としての面白さはまあまあだが「読んだ時間が無駄になったな」と感じたりストレスを生じさせられたりすることがほぼ確実にないという点でいいものだし、安定感があるなと思った。要するに人文学や社会科学って難儀なのだ。

 なお、『動物行動学』については動物福祉に関する議論も充実しているところ、『うつ病』については「うつ病と創造性の関係」というポイントに紙幅が割かれているところが、それぞれ印象に残った。

内在的公正世界信念と究極的公正世界信念(読書メモ:『「心のクセ」に気づくには 社会心理学から考える』)

 

 

 「公正世界仮説」についてはいまや多くの人が知っていることだろう(小賢しいネット民好みの理論でもあるし)。しかし公正世界仮説(本書では公正世界信念と書かれており、また公正世界誤謬と呼ばれることもあるらしい)には二種類あるということは、わたしは本書を読むまで知らなかった。

 

まず1つ目は、「内在的公正世界信念」です。良い行いをすれば良い結果が、悪い行いをすれば悪い結果がもたらされる、と信じる傾向です。この考え方は小さな頃からの学習や経験を通して、多くの人に身についていきます。

(p.68)

 

2つ目は「究極的公正世界信念」です。今、何かしらの不公正に巻き込まれて被害を負っていても、将来必ず、何らかの形で埋め合わされるに違いないと信じる傾向を指します。この信念は、信仰や宗教とも関わりがあります。宗教は、信仰の対象はさまざまだとしても、死後の世界(たとえば、天国や地獄)や、生まれ変わり(輪廻転生)の教えをしばしば提供します。そこに共通するのは、長期的な視点です。被害の回復は、いつになるかわからないし、時に現世ではなく来世になるかもしれないけれど、きっとその日がやってくるのだと考えます。

(p.70)

 

 また、「不公正世界信念」というのもあり、日本人はこの不公正世界信念の傾向が強いそうだ。

 

最後に、公正な世界の存在を否定する考え、すなわち、「不公正世界信念」にも触れておきましょう。直感的に考えると、公正世界信念が弱い人は不公正世界信念が強い、と思われるかもしれません。でも実は、両者の関係性は研究によってまちまちで、まだはっきりとした関係性は見いだせていません。その背景には、自分が自分自身にとってふさわしい結果を得ているかという公正感と、自分以外の周囲の人たちがそれぞれにふさわしい結果を得ているかという公正感にズレがあることなどが想定されています。

(p.74 - 75)

 

 また、本書では公正世界的な推論を行う程度に関するアメリカ人と日本人との比較研究も紹介されている。それによると、日米のどちらでも、過去に窃盗を犯した人(悪い人)の不運については内在的公正推論が行われて(「悪いことをしたからそんな目にあうんだ」)、周囲から尊敬されている人(良い人)の不運については究極的公正推論が行われる傾向にあるそうだ(「いつか埋め合わせがきっと来るさ」)。

 しかし、日本人はアメリカ人に比べると、良い人と悪い人のどちらについても究極的公正推論を行いづらい。また、悪い人に対する内在的公正推論の程度は、日本人のほうが激しい。なお、宗教(ほぼキリスト教)を信仰しているアメリカ人は無信仰のアメリカ人よりも悪い人に対する内在的公正推論の程度がかなり激しい一方で、宗教(一番多くは仏教)を信じている日本人と無信仰の日本人とではほとんど違いがなかったそうである。

 本書の著者は、(だれかの不運に関する)究極的公正推論はおおむねポジティブに働く…相手が将来に幸運を得ることを予期する考え方なので、相手が傷つくわけではない…が、内在的公正推論は無関係の物事に因果関係を想定することで相手を傷つける…いわゆる「自己責任論」をもたらして困難な目にあっている人や弱者に対するサポートを減らす、という点を危惧している。

 文化差といえば、本書の第1章では物事の原因に関して「内的帰属」するか「外的帰属」するかという原因帰属の理論や、それの文化差なども紹介されている。ここの議論については、過去に読んだロバート・ニスベットの『世界で最も美しい問題解決法』を思い出した*1

 

 さて、ここからは本書に対するネガティヴな感想となるが……最近のちくま(プリマー)新書の例に漏れず、本書についても、やはり説教臭さや規範意識が鼻についてしまった。

 前半は「人間の心理にはこういう傾向がありますよ」と知識を紹介しつつ「傾向に左右されて不合理な考え方をしたり自他に問題を引き起こさないように気をつけましょうね」といった常識的な注意をするという感じなのだが、ステレオタイプを扱った第4章や現状肯定心理を扱った第5章からは差別や格差や気候変動の問題なども言及されるように、やたらと内容がWokeになってくる。……単なる心理学ではなく「社会心理学」という点で分野自体に規範的な側面があったりするのかもしれないし、中高生向けの新書ということになっているので「SDGsとか取り入れてください」と編集者から指示があったかもしれない。もちろん、著者自身が諸々の社会問題に対する懸念や憂慮を抱いているから本書のなかにメッセージを込めた、という面もあるだろう。

 しかし、パターナリズムの訳語に「家父長制」という単語が含まれていたり、日本ではジェンダーステレオタイプに基づく広告が多いことと日本のジェンダー・ギャップ指数が低いことをつなげたり(ジェンダー・ギャップ指数の指標には広告やステレオタイプに関する項目は含まれていなかったと思う)*2、またステレオタイプ広告の例が70年以上前のアメリカのものであったりと、なんだか色々と雑であるうえにヌルい。

 また、格差の問題に関しても、グリム童話「貧乏人と金持ち」を紹介したうえで、「極端に貧しい人やお金持ちの人がいる格差社会は本来であれば好ましくなく、そのような格差は是正されるべきです。」(p.147)などと書いて、童話のストーリーが読者に「居心地のいい感情」を与えることで貧富の格差を等閑視する内容になっていることを批判している……のだが、現代人が書いた小説や漫画や絵本に対してならともかく、グリム童話にそんなことを言ってどうすんの、と思わされちゃう。また、グリム童話の他にもお金持ちと貧しい人が出てくる童話はたくさんあって、小さい頃からそのような物語に繰り返し触れることで貧富の格差を当たり前のものとして受け入れたり特定の社会集団に対するステレオタイプ形成が促されたりすることなどを著者は批判しているのだが、子どもであっても「お話」と「現実」は分別することができるように思えるし、成長した人の大半はグリム童話の背景にある時代と現代社会とを分別して考えることができるでしょう。

 いちおう本書では「公正世界信念もステレオタイプも社会的な問題を引き起こすことはあるが、わたしたちが生きていくうえで欠かせないものでもある」という点は書かれているのだが、むしろこのポイントを深掘りしてくれたほうが個人的には読みものとして面白くなったと思う。また、ステレオタイプによる差別を批判する本書が、「日本人」に対する典型的なステレオタイプを補強する研究結果を紹介する内容になっていること(「他人の不運に対して同情しない」「長期的な視点で持って物事を考えるのが苦手」「成功を望むよりも失敗を恐れる」など)には難しさを感じた。

 

 余談だが、本書の前半ではミルグラム実験が紹介されており、「あれっミルグラム実験って再現性がなかったってことになったんじゃないの?それについて一切言及せずに紹介するなんてアヤしいなあ」と思っていたのだけれど、いま調べたらミルグラム実験はむしろ再現性が高いことで有名らしい。わたしも含めて、スタンフォード監獄実験の再現性問題とごっちゃにして認識している人が多いようだ(反省しました)。

 本書では各実験の手法について細かく紹介されており、Amazonレビューなどを見ていると一部の読者についてはそれが読みものとしてのテンポや面白さを損ねているらしい。また、第4章では二人の男性のイラストを掲載したうえで「能力が高い男性はどちらだと思いますか」「温かいのはどちらだと思いますか」と読者に尋ねてステレオタイプを問う、という場面があるのだが、「能力の高さ」って言葉の意味が曖昧過ぎてその質問って意味あるの、とは思ってしまった*3。……とはいえ、研究手法や実験の過程を細かく描写するのは、心理学の研究結果だけでなくモデルや考え方も読者に伝えられるという点で教育的であるし、また「その手法によるその研究結果でその主張が言えるって飛躍していておかしくない?」と読者に疑問を抱かせる余地も与えている点でフェアで誠実である。これについては本書の長所であると思った。

*1:

 

 こちらはまだ未読だが、原因帰属に関しては同じくニスベットの『木を見る西洋人 森を見る東洋人』で詳しく扱われているようである。

 

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

なお、ジェンダー・ギャップ指数を持ち出すこと自体については、議論の文脈に合ったトピックなら適切であり得るし、それ自体を否定しているわけではない。

*3:スーザン・フィスクらによる「ステレオタイプ内容モデル」の研究を紹介する件なのだが、英語だと「能力の高さ」は competenceとなっているようだ。