道徳的動物日記

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ジョナサン・ハイト 『しあわせ仮説』(6) 第4章 「他者の過ち」 (前半) 大半の人は、自分の見解に対する真の証拠を挙げようとはせず、自分たちの当初の見解に反する証拠を見つけようとする努力はまったくしない。

 ジョナサン・ハイト 『しあわせ仮説』 第4章 「他者の過ち」 (前半)

 

しあわせ仮説

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彼岸島(1) (ヤングマガジンコミックス)

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 ・「なぜあなたは、隣人の目の中のゴミを見つけることができるのに、自分の目の中の丸太に気づかないのか。……偽善者よ、まず自分の目の中の丸太を取り除きなさい。そうすれば隣人の目の中のゴミをもっとはっきりと見ることができて、それを取り除いてあげることができるだろう」。マタイ福音書7章3−5節における、イエスの弁。

 社会心理学者たちは、人間が自分の目の中の丸太に対して盲目となるメカニズムを発見した。私たちの確固とした道徳的確信を揺るがすような、厄介な発見であるが、目の中の丸太を自覚することは、有害なモラリズムや自己正当化を予防するのである。

 

 ・偽善者の言葉と行動との乖離をあげつらって、軽蔑することは、ゴシップのなかでも最高のネタだ。怒りは対象の犯している誤りを正さなければならないという感情が生じさせ、恐れや嫌悪はその対象から逃れなければならないという感情を生じさせるが、軽蔑は余計な感情を生じさせること無く、ただ、「あいつは間違っていて、それに比べると俺は正しい」という快適な道徳感情を与えてくれる。偽善者をあげつらいながら、ニヤニヤ笑いながら友人と話し合うことは、一体感や連帯感を与えてくれる。

 しかし、偽善者を笑うのは止した方が良い。人間は皆偽善者である。誰かの偽善的な行動を笑っていたら、いつか自分も同じような偽善を犯していることに気がつかず、笑われてしまうだろう。(91-93)

 

 ・ゲーム理論の実験では「この前のターンに、相手がどんな行動をとったか」ということは明白に知らされるが、現実生活では「相手がどんな行動をとったか」ということすら完全にはわからない。あなたは、相手がとったと思われる行動に対して反応するが、その反応自体が、相手の印象操作などによって影響されているかもしれない。マキャベリは「人類の大多数は、事実であるかのように見せかけることに満足しており、しばしば、物事の実態よりも外観に影響される」と言った。人類は、マキャベリの薦めるような権謀術数を行うために知性を進化させたのだ、と論じる研究者もいる。実際に公正に行動するというだけでなく、「あの人は公正に行動する人だ」と他人が思うように見せかけることも、他人から良い評判を貰えて感謝を受けるためには欠かせない。

 

 ・ある実験では、二人組でチームワークを行わされたあとに、各コンビから一人の被験者が「自分か相手のどちらかが報酬を得るべきか」という選択権を与えられた。部屋にはコインがあり、実験者は被験者に「大半の人はコイン投げが最も公平な決定方法だと考えるみたいですよ」と情報を与えておいた。

 半数の人は、コインを投げなかった。そのうち9割の人は自分に有利な選択をした。

 半数の人は、コインを投げた。そのうち9割の人は自分に有利な選択をした。

 社会的な責任や他者への気遣いに関心がある人は、コインを投げる傾向にある。しかし、コインを投げたところで、その結果に従うとは限らない。「表が出たら私が報酬を受け取り、裏が出たら相手に報酬を譲ろう」と考えてコインを投げて、表が出れば事前に考えた通り報酬を受け取るが、裏が出たところで素直に相手に譲るとは限らない。コインの裏面を見ると、自分の行ったコイン投げの結果を無視する方法を考えて、「いや、公平な決定方法だとは限らない」などと考えながら、自分が報酬を得ることを正当化するための新たな方法を考える。考えている本人は、自分が都合のいい独善的な考えをしているとは露にも思わず、倫理的で公平な決定方法を考えているのだと、自分でも信じ込んでいるのである。このような見せかけの道徳性(自分が報酬を得るつもりであるのに、コインを投げること)は「道徳的偽善」と呼ばれる。人間は利己主義的な生き物であり、見つからないとわかっていれば不正を行う、ということは広く知られている。

 ただし、事前に「公平性は重要です」と伝えておき、部屋の中に大きな鏡を設置すると、被験者はコイン投げの結果に粛々と従うようになった。「自分がいかさまをしている」と自覚したなら、人間はいかさまを止める。人間は、他人について考えているときには自分の問題や道徳的欠点に気がつかないが、自分について内省するように迫られると、自分の問題に気がつく。

 高速道路で割り込みをする人から、強制収容所を運営したナチスまで、大半の人たちは自分たちを善良であると思っており、自分の行為も善良な理由によるものだと考えている。マキャベリ的な知性は、他人を騙すだけでなく、自分自身をも騙してしまう。(93-96)

 

 ・『モラル・アニマル』の著者ロバート・ライトは「人類は、道徳を身につけたという点で輝しく、それを誤用してしまう性向があるという点で悲劇的であり、その誤用に大して生来的に無知であるという点において哀れな種である」と述べた。もし、自分自身の偽善に対する無知が生来的であるなら、それを改善することはできるのか?

 うつ病の患者は、自分がうつ状態であることを認められる。しかし、私たちは、自分が偽善を行っているということすら、まず認められない。象使いが、象の偽善を調教することは、骨の折れる作業だ。(97)

 

 ・人は自分の直感を支持する理由を見つけ出すことに非常に長けている。象使いは、真実のためでなく、象の利益のために仕事を行う弁護士である。私たちの理性が作り上げた嘘や物語は、他人を騙すだけでなく、私たち自身もついつい信じ込んでしまう。

 クライアントに「とにかく、これをやるべきかやらないべきかということだけを教えてくれ」と訪ねられたら、複雑な過程や影響を考えながら、イエスかノーかを判断して伝えるのが弁護士の仕事である。また、クライアントのやりたいことがはじめから決まっていて「このようなことをしたいのだが、どうすればいいか」ということを訪ねてきたら、その方法について考えることが、弁護士の仕事である。私たちの無意識である象は後者のクライアントであり、「最低賃金は引き上げられるべきか」などの考えることが難しい複雑な問題については、即座に「イエス/ノー」のどちらかに傾きがちである。そして、象は最初の直感で「イエス」と判断したなら、「最低賃金は引き上げられるべき理由だけを探してくれ」と弁護士に頼み、弁護士はその理由を探す。ノーと判断したならその逆。象にとって、結論ははじめから決まっているので、「最低賃金は引き上げられるべきか、そうではないのかを考えてくれ」ということは頼まない。場合によっては偽の証拠すら弁護士に提出させてしまう。深く考えることも無く、適当な証拠や物語を考えついてしまえば、その時点で満足してしまう。

 大半の人は、自分の見解に対する真の証拠を挙げようとはせず、自分たちの当初の見解に反する証拠を見つけようとする努力はまったくしない。(98-99)

 

 ・思考は、自分の立場と「つじつまが合う」証拠を探し、それが見つかれば、その時点で一旦停止する。ただし、もし誰かが他方の立場の理由と証拠を持ち出してくれば、意見を帰るということもあり得る。しかし、深刻であったり重要な事態については、他方の立場の証拠が提示されても、思考は揺るがない。

 ある特定の結論に到達するように動機づけられている人は、ひどい推論を行いながらも、その結論を支持する証拠を見つけるためにもがく。社会的知性のテストで点数が低かった人は、そのテストそのものに問題があるのではないかと必死に探し出す。コーヒーを毎日飲む人は、「コーヒーを毎日飲むことは体に良くない」という研究結果を、見せられると、コーヒーを飲まない人は気がつかないような研究の問題点や不備を見つけ出そうと、躍起になる。

 人は自分にとって好ましい信念や行為を支持する理由を掘り起こす。私たちは、客観的であるという勘違いに安住する。自分の立場が合理的で、客観的に正当化されたと、本当に信じてしまう。

 ベンジャミン・フランクリン「理性のある動物、人間とは、まことに都合のいいものである。したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理屈をつけることもできる」(99-101)

 

 ● 自分にとって不愉快なコメントや主張を見たときにその反対意見を探したり、他人と議論して負け気味だったときに必死こいて自分の立場に賛同してくれる人の意見や証拠を探したりと、「自分の立場とつじつまが合う証拠ばかりを探し出し、相手側の立場は不備や問題点を示す証拠ばかりを探し出そうとする」というのは実生活を内省しても納得できる。

 パソコンのある場所で議論をしていると、お互い自分の立場の論理や証拠はおぼろげにしか覚えていないので、それぞれの主張を解説したり証拠を示したりするWEBサイトやブログを見せて「ほら、ここに俺の言っていることが正しいと書かれているだろう」と伝えようとするが、そのサイトやブログを読んでも全く考えが変わらずにむしろ「こういうブログに書いていることを正しいと思えちゃう時点で、やっぱりこいつは駄目だ」と思ってしまうという、不毛な事態に陥ることがあった。そういう経験を踏まえながら「立場の違う相手との議論は不毛」「他人を説得して見解を変えることはできない」みたいな人生訓とか世間知みたいなのを人は学んでいくのだろう。

 「ハイトも“人間は自分の主張とつじつまが合う証拠ばかりを探し出し、自分たちの主張に反する証拠を見つけようとする努力はまったくしない”という主張につじつまが合う証拠ばかりを探し出していて、自分の主張に反する証拠を見つけようとする努力はまったくしていないじゃないか」という批判はできそうだが、その批判自体が、ハイトの主張していることの信憑性を増しそうだ。