・「動物の権利論」や「動物開放論」と呼ばれる議論の基本となる主張は「私たちは、動物に対して、直接的な義務を負っている」という主張である。これは「動物は道徳的地位を持つ」という主張でもある。
今回は、ジェイムズ・レイチェルズの議論を参考にしながら、「動物は道徳的地位を持つ」という主張について紹介したい。
・動物に関係する義務は、他のの義務を経由した間接的なものと、動物に対して直接的に持つ義務とに分けられる。
例えば、海外旅行に行く友人に、旅行中に彼の飼い猫の世話をすることを約束すれば、その猫の世話をすることは義務となるだろう。
しかし、この義務は、友人に対する義務であって、猫に対する義務ではない。この事例では、猫は、友人に対する義務を果たすことの、間接的な対象としか見なされていない。
とはいえ、誰の所有物でもない野良猫であったとしても、猫に対して人間が直接的に義務を持つという考え方は、それほど突飛ではない。多くの人は「猫を意味もなく傷つけて虐待すべきではない」という考えに同意するだろう。「車に轢かれて死にかけている猫を見つけたなら、他に特別な事情の無い限り、その猫を助けて獣医に連れて行くべきである」といった考えをする人も多いだろう。
このような事例では、猫は、私たちが直接的に義務を負う対象と見なされている。
・「私たちは、誰に対して、どんな義務を負っているのか?」という問題に答えるために、1970年代、哲学者たちは「道徳的地位」という概念を導入した*1。
ある存在が「道徳的地位」を持つこととは、私たちが道徳的な判断や行動を行う場合に、その存在の利害が直接的に配慮されることを意味する。もし猫が道徳的地位を持つなら、猫の「傷付くのは嫌だ」という利害それ自体が猫を傷付けていけない義務を生じさせる場合があるし、傷付いている猫を積極的に助ける義務を生じさせる場合もあるかもしれない。他方で、もし猫が道徳的地位を持たないなら、友人との約束などを通じて間接的に猫が義務の対象となることはあっても、猫の「傷付くのは嫌だ」という利害それ自体を考慮する義務は存在しない。
・道徳的地位の理論で問題となるのは、「道徳的地位を持つ存在と、そうでない存在は、何によって分けられるか?」である。これについては、4つの主要な理論が存在する。
1.「単に人間であることが、道徳的地位を与える」。この考えの利点は、少なくとも人間同士の問題については、差別的ではないことである。この考えは「いかなる人種であっても、単に人間であるという理由で、平等な権利を持つ。他のいかなる条件も必要ない。」と宣言する。
しかし、「すべての人間が、そして人間だけが道徳的地位をもっている」とだけ宣言することは、何の説明にもならない。この宣言が正しいと主張するならば、「人間であることの“何が”特別であり、“なぜ”その特別さが道徳的地位を与えるのか」ということを説明しなければならない。
2.「自己認識・自律性・理性などの特質が、道徳的地位を与える」。この考えはアリステレスまで遡り、自己を認識する存在のみが道徳的義務の直接的対象となると考えたカントや、カントに影響された近年の研究者などが主張していることである。
3.「道徳的地位を持つことと、道徳的主体であることは、分別できない」。道徳的に判断し行為する能力がある(=道徳的主体である)なら、道徳的地位がある。逆もまた然りで、コインの裏表のように、片方が存在するならもう片方も存在する、という理論。ジョン・ロールズのような、「契約を守ることが期待された人々の間の合意から、道徳的義務が生じる」という契約理論で裏付けられて、「平等な正義を受ける資格があるのは、まさに道徳的な存在のみである」「正義を与えることのできる人々のみが、正義にあずかるのである」と主張する。
2と3の理論の問題点は、道徳的地位を持つための 条件が厳しすぎることである。一部の動物は自己認識や理性や道徳的判断をする能力などを持つかもしれないとはいえ、疑いなくそれらの能力を持っていると見なせるのは知的に健康な成人だけであるだろう。そして、人間ではあっても知的に健康な成人ではない存在、つまり赤ん坊や精神・知的障害のある人々など、 「自己認識や理性や道徳的判断をする能力」を持たない人間も存在する。彼らは健康な成人のように道徳的地位を持つための条件を満たさないので、私たちは赤ん坊や精神障害者に対して義務を負わない、ということになってしまうもしれない。
4.「道徳的地位を有するために唯一必要なのは、ただ苦痛を感じることができることである」。そもそも、動物や赤ん坊などは、理性や道徳的判断をする能力を持たずとも、「苦痛」を感じることはできる。ほとんどの人は、動物や赤ん坊を拷問して無意味な苦痛を与えることは間違っている、と考えるだろう。功利主義者を主とする多くの哲学者は、自己認識や道徳的判断力を行うほどの能力がなくとも、苦痛を感じることのできる能力(痛覚や、痛みを感じる程度の意識)を、道徳的地位のための条件と考えた。
・ 上述の理論は、いずれも「ある一つか複数の特性の有無」によって「ある個人が道徳的地位を持つかどうかの有無」を決める、としている点で問題がある。例えば、2や3の理論は「自己認識を持つこと」「道徳的主体であること」が、その存在がありとあらゆる場面で配慮されるようになる資格を与えることと見なしている。つまり、自己認識を持つ人間は道徳的地位を持つので、棒で叩かれて痛めつけたり拷問されたりしないように配慮されるし、選挙によって政治活動に参加することや恥ずかしい思いをさせられないことについても配慮される。一方で、自己認識を持たない動物や赤ん坊は、道徳的地位が存在しないので、政治活動に参加することや恥ずかしい思いをさせられないことについて配慮されないだけではなく、棒で叩かれて痛めつけたり拷問されたりしなことについて配慮されることもない、ということになってしまう。
この問題は、道徳的地位を無限定で一般的なものと見なして、存在を「ある一つか複数の特性を持っているので、全ての問題において道徳的地位を持つ存在」と「ある一つか複数の特性を持っていないので、全ての問題において道徳的地位を持たない存在」とに分けてしまうために、生じる問題である。
・これを解決するために、道徳的地位を限定的で具体的なものとみなして、特定の行為や取り扱い方ごとに考えるべきである。
例えば、一般的な成人は、自分自身のプライドやプライバシーについて認識して気にかけており、他人がどのように自分を見ているかということも気にかけている。他方で、猫は成人のように自分自身のプライドやプライバシーについて認識することができず、他人がどのように自分を見ているかということについて考えを巡らせることもできないだろうから、成人のようにプライドやプライバシーや評判については気にかけていない。「自分の性的障害を町内の人たちに暴露されること」は、一般的な成人にとっては「恥ずかしめられること」であり、危害を与えられることとなる。一方で、猫にとっては、「自分の性的障害を町内の人たちに暴露されること」は問題も影響も受けない(そもそも、問題があるとも認識できない)ことなので、危害を与えられることとはならない。
このような場合、「自分の性的障害を町内の人たちに暴露されないことについての道徳的地位」は、一般的な成人は持つが、猫は持たないだろう。そして、この特定の道徳的地位を持つ/持たないという境界線を「自己認識できる存在であるかどうか」という点で引くことは適切である。
一般的な成人は、痛みを感じるための神経や生理的特徴などを備えている。猫も、人間と同じように痛みを感じるための神経や生理的特徴などを備えている。そして、成人も猫も、棒で叩かれると痛みを感じる。このような場合「棒で叩かれること」は成人にとっても猫にとっても危害となる。
ここで、「自己認識できる存在であるかどうか」という点で「棒で叩かれないことについての道徳的地位」の境界線を引くことは、関係の無い理由を持ち出しているという点で不合理である。成人にとって棒で叩かれることが危害であるのは、自己認識ができるからではなく、痛みを感じることができるからである。自己認識のできる成人も、自己認識のできない猫も、棒で叩かれたら痛みを感じるという点では等しい。棒で叩かれないことについての道徳的地位を持つ/持たないという境界線は「自己認識できる存在であるかどうか」という点ではなく「痛みを感じることができるかどうか」という点で引き、猫もこの道徳的地位を持つと認識すべきである。
・多くの場合、取り扱い方やそれによって受ける危害、人間や動物の持つ能力と危害との関係は複雑であり、一筋縄ではいかない。例えば「長期間鎖で繋がれ監禁され、食事や水を満足に与えられず衰弱させられる」という取り扱いは、成人にとっても猫にとっても危害となる。鎖から放たれて自由になることや、栄養や水分が不足して苦しみを感じることについての利害は、人間にとっても猫にとっても存在する。一方で、ほとんどの成人は猫よりも豊かで複雑な社会生活や友人関係を過ごしており、社会生活から疎外されることによる苦しみは成人の方が猫より大きいだろう。他方で、衰弱させられることによる健康上の問題や監禁されることによる恐怖は猫の方が成人よりも大きいかもしれない。どちらかの苦痛が大きいからといって小さい方の苦痛を無視してもよいということにはならないが、大きな苦痛と小さな苦痛を同一視することも不適切である。
・「私たちは、特別な事情が無い限り、他の存在に対して害悪を与えるべきでない。そして、ある存在に特定の行為をするときや、ある存在を特定のやり方で取り扱うとき、その行為や取り扱いがその存在に害悪を与えるならば、その行為や取り扱いをすべきでないという理由になる。ある行為や取り扱いがある存在について害悪となるかどうかは、その行為や取り扱いを受ける存在についての事実—どのような能力や特性を持っているかーによって変わる。」
これが、「動物は道徳的地位を持つ」という主張の要点である。
- 作者: キャス・R・サンスティン,マーサ・C・ヌスバウム,Cass Sunstein,Martha Nussbaum,安部圭介,山本龍彦,大林啓吾
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参考文献
ジェイムズ・レイチェルズ、「動物に権利はあるか」(『倫理学に答えはあるか ポスト・ヒューマニズムの視点から』古牧徳生・次田憲和 訳)、世界思想社、2011年。
ジェイムズ・レイチェルズ、「境界線を引くこと」上本昌昭 訳(『動物の権利』キャス・サンスティーン マーサ・ヌスバウム 編)、尚学社、2013年。
Warren, Mary. Moral status obligations to persons and other living things. Oxford: Clarendon Press, 1997.
*1:「道徳的地位」という言葉の意味は、メアリ・アン・ウォレンの以下の定義を参照。「ある存在が道徳的地位を持つということは、道徳的主体が、その存在に対して、道徳的義務を持つか、または道徳的義務を持つかもしれない、ということである。もしある存在が道徳的地位を持つのなら、我々は、その存在を対して自分が好きなように恣意に扱うことは許されない。我々には、その存在のニーズや、利益や、福祉を、熟慮の対象とする道徳的な義務がある。さらに、この道徳的義務は、その存在のニーズや利益を保護することが我々自身や他の人にとって有益だからという理由ではなく、道徳的地位を持つ存在のニーズや利益はそれ自体が道徳的な重要性を持つからという理由である」(Warren 1997, 3)