道徳的動物日記

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ピーター・シンガーの『動物の解放』

 

 現在、欧米やアジアなどの世界各国で「動物の権利運動」が行われている。

 動物の権利運動は「人間の利益のために、動物を利用・搾取する制度」を批判する。具体的には、大規模な集約式畜産制度・学問研究や新製品開発のための動物実験制度・動物の毛皮を利用した服や装飾品の作成と販売・サーカスや水族館などでの動物を用いた興行・闘牛や闘鶏、などの制度や慣習を批判し、大規模な規制か完全な撤廃を主張する。これらの制度や慣習はいずれも動物に多大な苦痛を与えて殺害するものであり、人間に多大な苦痛を与えて殺害する制度が非道徳的であることと同じように非道徳的である、ということが動物の権利運動の主張である。

 

 

 英米では19世紀から動物愛護運動が存在しているが、過去の運動の対象は主に犬・猫といったコンパニオンアニマルであり、野良犬・野良猫の救済や個人によるペット虐待の取り締まりなどは主張しても、肉食の撤廃は主張していなかった。しかし、20世紀以降の科学技術の発展により大規模な畜産や動物実験制度が行われるようになり、それまでの制度に比べて動物の受ける苦痛の量・質ともに増大したことに対応して、動物の権利運動が登場した。この運動の理念は「動物は、人間との関係や人間の好みに関わらず、道徳的に配慮されるべきである」というものである。つまり、猫や犬のみならず、牛や豚や鶏といった普段私たちが食べている家畜や家禽たち、マウスやモルモットといった実験室で使用されるネズミたちも、犬や猫や人間と同じように道徳的な配慮の対象になるのだ、と動物の権利運動は主張する。そして、「動物への配慮は、個人的な問題ではなく、正義と平等の問題である」と主張する。正義と平等の問題であるということは、動物が好きで動物を気にする人だけが肉食を止めて毛皮を着なければいいということではなく、企業や政府を含めた社会全体が動物に配慮する義務を負っており、動物を用いた非道徳的な制度を止めるように努めなければならない、ということを意味する。

 

 

 

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

 

 

 

 動物の権利運動は特に1970年代の後半から活性化した。この火付け役となったのが、オーストラリアの道徳哲学者であるピーター・シンガーが出版した『動物の解放』である。『動物の解放』では、“工場畜産”と形容される集約式農業や動物実験の実態について、その現場において動物たちがおかれている状況や動物たちに与えられている苦痛についての詳細な記述が、数点の写真と共に示されている。特に当時は工場畜産の実態が知られておらず(現在でもまだまだ周知されているとはいえないが)、“畜産”と聞くことで想像される農園で牛が休んでいたりニワトリが走り回っていたりの牧歌的なイメージと、暗く薄汚い牢獄のような場所で家族と引き離され陽の光を見ることもないまま屠殺までの日々を過ごしている家畜達の現状との対比が、人々に衝撃を与えた。

 

 

  しかし、工場畜産や動物実験の実態の告発自体は、ルース・ハリソンが1964年に出版した『アニマル・マシーン』などで、以前からも行われていた。『動物の解放』が動物の権利運動と火付け役となったのは、ただ動物の凄惨な状況を示すだけではなく、「動物の虐待は人間の虐待と同じように非道徳的であり、動物は人間と同じように正義と平等の対象となる」ということを論証する倫理学的な議論も書かれていたからである。

 シンガーは「種差別(生物種による差別)」という概念を用いることで、動物に対して行われていることは奴隷制度下における「人種差別」と同じ種類の問題であると主張した。

 『動物の解放』の序文では、猫と犬を飼っており「私は動物をとても愛している」(シンガー 2011, 12)と言いながら、肉が含まれているハムサンドイッチを食べる女性のエピソードが記されている。そして、シンガーは以下のように書く。「本書はペットについての書物ではない。……本書はむしろ、どこであれ抑圧と搾取に終止符を打たなければならないと考えている人びと、利害への平等な配慮という基本的な倫理原則の適用範囲はヒトのみに限られるべきではない、と考えている人びとのために書かれたものである」(Ibid., 13)。

 

 『動物の解放』は、もともと「動物好き」であった人々だけでなく、学生運動反戦運動などを通じて社会問題の解決に勤しんでいた運動家たちにも、動物の虐待が他の社会問題と同様に社会正義の問題であると考えさせて、運動に引き込んだ*1。『動物の解放』出版以後、動物実験や工場畜産に対して大規模にデモ活動やメディアによるキャンペーンを行なう「動物への倫理的扱いを求める人々の会」(People for Ethical Treatment of Animals略称PETA)や、住居侵入や器物破損も辞さずに実験動物や畜産動物を救出する「動物解放戦線」(Animal Liberation Front略称ALF) に代表されるような動物の権利団体が誕生し、裁判などを含めた様々な活動によって社会的に注目されるようになった。 さらに、『動物の解放』やそれに続く動物の権利論の著作が、動物への配慮は人間社会にとって些細な問題ではなく、人間の権利の問題と同じように社会的に対応する義務のある正義の問題であると主張したこと、動物の権利団体がその主張をデモ活動やメディアによるキャンペーンなどで大衆に広く示すことで、動物への配慮の問題は動物に興味のない人や敵対する人も巻き込む政治的議論の場へと引き上げられた。現代では、動物の権利運動は公民権運動や障害者運動など他の主要な社会運動と並ぶ存在として見なされている。

 

 

Animal Rights Movement (Essential Library of Social Change)

Animal Rights Movement (Essential Library of Social Change)

 

 

 

 

 「ピーター・シンガーの『動物の解放』を読んだ人たちは、そこに記述されている工場畜産と動物実験の状況をおぞましく感じ、そこで感じた怒りに道徳的な根拠があることをシンガーの哲学理論によって発見したのだろう」(Finsen and Finsen, 1994, 22)現代の社会制度の下で動物たちが置かれている現状を紹介することで読者の関心を惹くこと、その社会制度に反対すべきという理論的な主張の両方を、一冊の本で行なったことが、『動物の解放』が社会に影響を与えることのできた理由である。

 

 

The Animal Rights Movement in America: From Compassion to Respect (Social Movements Past and Present)

The Animal Rights Movement in America: From Compassion to Respect (Social Movements Past and Present)

 

 

参考文献

 

シンガー, ピーター.戸田清訳.『動物の解放 改訂版』. 人文書院, 2011.

  

ハリソン, ルース.橋本明子・訳.『アニマル・マシーンー近代畜産にみる悲劇の主役たち』

講談社, 1979.

 

Finse, Lawrence, and Finsen, Susan. The Animal Rights Movement in America; from Compassion to Respect. New York; Twayne, 1994.

 

Singer, Peter. Ethics into Action: Hnery Spira and The Animal Rights Movement. Lanham,Md.: Rowman & Littlefield, 1998.

 

 

*1:それまで労働運動を指揮していたが、『動物の解放』とシンガー本人との出会いを皮切りに動物の権利運動へ方向転換をした運動家ヘンリー・スピラが代表的である。ただ運動するだけではなく、成果を出すための運動を意識していたスピラは、アメリカ自然史博物館で行われた猫の生体解剖実験の撤廃や、 薬物や化粧品の毒性を確認するために大量の動物を使用するLD50テストやドレーズ・テストの規制を主張し、成果を挙げた

 

Ethics into Action: Henry Spira and the Animal Rights Movement

Ethics into Action: Henry Spira and the Animal Rights Movement