- 作者: デヴィッド・ドゥグラツィア,戸田清
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/09/06
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「動物の権利」という言葉をめぐるややこしい状況
「動物の権利( Animal Rights)」という言葉を聞いて、戸惑う人は多いだろう。はじめて「動物の権利」という言葉を耳にした人には、様々な疑問が湧くに違いない。
動物に権利があるとは一体どういうことか?動物には選挙権があったり、健康で文化的な最低限度の生活を送る権利があったりするというのか?そもそも動物には権利を主張することすらできないじゃないか?
「権利」という言葉にはいろいろな意味が込められている。倫理学を専門にする人、法学を専門にする人、政治学を専門にする人はそれぞれかなり違った意味で「権利」という言葉を使っているだろう。学者であっても「権利」という言葉が実際のところどの場面で何を意味するのかをわからないまま使っている人もいるかもしれないし、学問の場を離れれば、人々は細かいニュアンスや議論をすっ飛ばして、それぞれ自己流の解釈で「権利」という言葉を使っているだろう。
・実際のところ、「動物の権利」という言葉を巡る状況はややこしい。
「動物を人間の所有物としてではなく自身の意志や利益を持った存在として尊重し、人間の目的のために動物を利用する制度(畜産、動物実験など)の撤廃を目指す運動」は、一般に「動物の権利運動」と呼ばれる。倫理学者ピーター・シンガーの著作『動物の解放』は動物の権利運動が広がる火付け役となり、現在でもシンガーの主張は「動物の権利運動」の理論的支柱の一つとなっている。ーーだが、シンガーは、動物と人間は平等に配慮されるべきである、とは主張していても、動物には生まれながらに権利が存在する、とは言っていない*1*2。
一方で、シンガーと同じく「動物の権利運動」の理論形成に貢献してきたトム・レーガンやゲイリー・フランシオーンなど学者は、「動物は権利を持っている」とはっきり表明し、シンガーら功利主義者と論争も行っている。この論争は「功利主義 VS 権利論」として表現されるが、「動物の権利運動」は功利主義者の理論も権利論者の理論も、どちらにも影響されてどちらの理論も取り込んでいる。
このややこしい状況は、動物をめぐる倫理学の議論において「権利」という言葉がどのような意味を与えられているか、そして、倫理的な主張を実現するために実社会で主張される「権利」にはどのような意味を持つか、ということに注目して整理すると、すっきりする。
今回の記事では、倫理学における「動物の道徳的地位」と「動物の道徳的権利」という言葉をめぐる議論について、功利主義者と権利論者の主張の共通点と相違点という観点から整理する。そして、「動物の権利運動」の主張の場で使われる「権利」という言葉は「道徳的権利」とは違った言葉であることを示し、「動物の道徳的権利」を認めなくても「動物の権利」を主張するのは合理的である、と論じる。
1:「道徳的地位」と「道徳的権利」
まず、功利主義者と権利論者の主張の共通点から整理しよう。
両者は、それぞれ、「動物は道徳的地位を持つ」と主張している点で共通している。
「道徳的地位」を持つこととは、その存在が、誰かにとっての観点に付随する間接的な道徳的配慮の対象ではなく、本人自身にとっての観点から直接的に道徳的配慮となる存在である、ということを意味する*3。
猫を題材にして具体例を挙げてみる。
猫が道徳的地位を持たない場合
人間の飼い猫 → 飼い主にとっての観点から、間接的に、道徳的配慮の対象となる場合がある。たとえば、飼い主Aが友人に「海外旅行に行っている間に猫の世話をしてくれ」と約束して、友人Bが承諾したなら、猫はBにとって「Aとの約束を守る」という道徳的義務のために配慮される。
野良猫 → その野良猫のことを気にかける人が存在しないなら、猫は道徳的配慮の対象となりえない。誰かがその野良猫を虐待して殺したとしても、その行為で他の人間に誰にも迷惑をかけないなら、その行為は道徳的な問題とならない。
猫が道徳的地位を持つ場合
人間の飼い猫 → 飼い主にとっての観点のみならず、飼い猫自身の観点によっても、道都的配慮の対象となる。Bは「Aとの約束を守る」という道徳的義務のみならず、Aの飼い猫そのものに対しても義務を負う。Aも、自分の飼い猫だからといって好き勝手に扱うことはできず、飼い猫自身の幸福や利害に配慮しなければならない。
野良猫 → その野良猫のことを気にかける人が存在しないとしても、その野良猫自身の観点から、道徳的配慮の対象となる。誰かがその野良猫を虐待して殺すことは、その行為で他の人間に誰にも迷惑をかけないとしても、その野良猫にとって危害であるから、その行為は道徳的な問題となる。
また、「なにについての」道徳的地位を持つかは、当人にとってなにが有益で意味のある物事であり、なにが危害であるか、ということで変わる。
人間にとっても猫にとっても、虐待されることは危害であり、人間と猫の両方が「虐待されないこと」についての道徳的地位を持つと考えるのは合理的である。
しかし、現代の民主主義社会に生きる人間にとって、選挙で投票することを通じて政治への参加が可能であることは、責任ある市民として生きることにつながり、有益で意味のあることであり、選挙で投票することを禁止されるのは危害であるから、人間が「選挙で投票すること」についての道徳的地位を持つと考えるのは合理的である。一方で、どのような社会においても猫は選挙を通じて政治に参加することができないし、責任ある市民として生きることもできない。選挙で投票することができるかどうかは猫の生にとってなんの意味も持たないから、猫が「選挙で投票すること」についての道徳的地位を持つと考えるのは非合理的であり、無意味である。
・功利主義者と権利論者は「動物は道徳的地位を持つ」と主張している点では等しいが、その主張は「どれほどの道徳的地位を持つか」という程度問題として異なってくる。
シンガーのような功利主義者は、人間であっても動物であっても、平等に配慮されたうえでの正当な理由であった場合なら、苦痛を与えることや殺害をすることが容認される場合がある、と考える。
「正当な理由」とは、例えば、ある道徳的地位を持つ存在に苦痛を与えたり殺害をしたりしなければ、その存在が苦痛を与えられることや殺害されることよりももっと深刻なことが他の道徳的地位を持つ存在に起こる場合である。単純化した例でいえば「線路Aには5人いて、線路Bには1人いる。トロッコが線路Aを暴走していて、このままでは5人が轢かれて死んでしまう。しかし、トロッコの進路を線路Bへと切り替えれば、1人が死ぬだけで済む」という場合には、「5人の死を予防すること」は「1人を死なせてしまうこと」を容認する正当な理由であるので、線路のスイッチを切り替えて線路Bにいる1人を殺害することは認められる。
動物の絡む例えでは、新薬品開発のための動物実験が、認められる場合がある。「チンパンジー100匹を対象とした動物実験を行う」ことで、人間1万人の不治の病を癒す薬が、確実に開発できる」という場合には、「人間1万人の不治の病が癒されること」は「チンパンジーが100匹動物実験で苦しむこと」を容認する正当な理由であるので、チンパンジー100匹を対象とした動物実験を行うことは道徳的に認められる。スイッチを切り替えられて死ぬ1人や実験で苦しむネズミ100匹も道徳的地位を持つとはいえ、線路Aの5人や不治の病で苦しむ人間1万人も道徳的地位を持っているのであり、どんな選択をしても道徳的地位を持つ存在が危害を受けることは避けられないという状況では、できる限り危害を少なくして最前の結果を目指さなければならない、ということである。
シンガーは、現状の社会では、動物の利害よりも人間の利害が優先されていて、平等な配慮がなされておらず、不当な理由によって動物に苦痛が与えられて殺害されていることを問題視している。たとえば、人間が食事をするときの数分間の楽しみのために、工場畜産のもとでは動物が多大な苦痛を与えられて殺害されている。「人間が食事をするときに数分間楽しめること」*4は「動物が多大な苦痛を与えられて殺害される」ことを容認する正当な理由とはならないので、工場生産は道徳的に認められない、ということがシンガーら功利主義者の主張である。
・リーガンら権利論者は、人間や動物の「道徳的地位」をシンガーら功利主義者の考えるものよりも強いものとして捉えている。
「道徳的地位を持つ存在であっても、正当な理由があれば、苦痛を与えられることや殺害されることが容認される」という主張を否定し、人間や動物は常に尊重されるべきであり、いかなる場合にも苦痛を与えられたり殺害されることを認めさせない「道徳的権利」を持つ、ということが権利論者の主張である。たとえチンパンジー100匹に実験をすることで1万人の人間を不治の病から救えるとしても、その人たちの苦しみからは独立してチンパンジー100匹の苦しみは深刻なのであり、そのように危害を与える行為は行われてはならない、ということが権利論者の主張である*5。
・このように、「道徳的権利」という言葉は、「道徳的地位」という言葉の持つ「その存在が、誰かにとっての観点に付随する間接的な道徳的配慮の対象ではなく、本人自身にとっての観点から直接的に道徳的配慮となる存在である」という意味に付け加えて「その道徳的地位は、他の道徳的地位を持つ存在たちの利害が関わる場合を含めて、いかなる場合でも、絶対的なものとして保護されなければならない」という意味を持つ。
「道徳的権利」という言葉は、日常生活や法的・政治的な場で「権利」という言葉を使う場合よりも、強い意味合いを持つように思われる。日常生活で「線路Bの1人も線路Aの5人も皆権利を持っているのだから、1人の権利よりも5人の権利を優先して、線路Bの1人を死なせるべきだ」とまで言い切る人はいないかもしれないが、全ての人が配慮に値すると認めたうえで、配慮の結果として大多数派や重大な問題を優先して、少数派や些細な問題を後回しにする、ということは多くの場で行われているし、公認されていることであると思う。日常的にも「権利と言うものはとにかく絶対的なもので、破られることがあってはいけないんだ」と「道徳的権利」のように強い意味合いで言う人もいるかもしれないが、多くの場合は「道徳的地位」(当人の観点から配慮に値するあ、正当な理由があれば犠牲や後回しにすることができる) の意味合いで「権利」という言葉が使われているのではないだろうか。
トロッコのスイッチを切り替えるべきか切り替えないべきか、チンパンジーに対する実験を認めるか認めないべきか、などの(極端な設定の)問題において、功利主義者と権利論者は真逆の回答をする。功利主義者は権利論の理論では取捨選択が必要な場面には対応できないような役に立たない理論だと考えるし、権利論者は功利主義の理論は大多数のために少数を犠牲にすることを容認しかねない危険な理論だと考える。このような例を見る、功利主義と権利論の理論はかけ離れているように思える。
2:「動物の権利を主張する」とはどういうことか
しかし、実社会において動物の関わる大多数の制度ーー畜産、毛皮、動物園、そして動物実験ーーについては、「道徳的に認められない」として、功利主義者と権利論者はほとんど同じ結論を出す。
動物の苦痛と殺害を伴った制度を、権利論者が否定するのは、ある意味で当たり前である。動物の持つ道徳的権利とは絶対的であり、いかなる場合にも保護されるべきものなのだから、動物に苦痛と殺害を与えることで権利を侵害する制度はどのような場合でも認められない。
功利主義の視点からしても、動物の苦痛と殺害を伴った制度は、ほとんどの場合、対象となる動物の苦痛と殺害を容認することを正当化するだけの理由を備えていない。動物実験の場合はごく一部は認められるかもしえないが、現実に行われている動物実験の多くは「チンパンジー100匹を犠牲に人間を1万人救える」という理想的な状況からはかけ離れている*6。
功利主義も権利論も、動物の関わる制度について「道徳的に認められない」という結論を出す。
そして、ここまでは道徳の次元の問題であったが、一旦ある制度について「道徳的に認められない」という結論を出したなら、後はいかにしてその制度を規制・撤廃するかという、法律的・社会的な次元の問題となる。
・ここでは、動物の権利運動のなかでも主要な運動目標である、畜産の撤廃を具体例とする。
現在の動物の権利運動家は多くがベジタリアンやビーガン(肉、魚肉、乳製品、卵などの動物性食品を一切食べない人)である。動物の権利運動家は畜産が道徳的に認められないと考えており、畜産によっせ生産される動物性食品を食べることは道徳的に問題ある制度に加担することだと考えているから、ビーガンとなる。また、友人知人との食事の際にビーガンを実践することや、ビーガンのレストランを経営したりビーガンの製品や商店で売り出すことなどは、「畜産が道徳的に認められない」という意見を多くの人に広めるための有効な手段である。「畜産が道徳的に認められない」という意見を持つ人が増えて、ビーガン生活を実践する人や週に数日ベジタリアンになる人、動物性食品を食べるにしても工場畜産によって生産されたものではなく動物福祉が配慮されたものを食べる人などが増えていけば、畜産業者やそれに関わる企業の得られる収入は減っていくだろうし、工場畜産を動物福祉に配慮した農場畜産に切り替える・動物福祉に配慮するための自主規制を設ける・そもそも畜産を止めて他の仕事をするようになる、などの効果が見込めるだろう。
しかし、人々のライフスタイルや消費行動を変えることによる効果は、限度がある。動物の権利運動家がビーガンの宣伝をするのと同じように畜産に関わる企業は動物性食品を使った食事の宣伝をするだろうし、動物の権利運動家が工場畜産の実態を公開しようとしても企業は隠蔽を行うだろう。また、個人としても「畜産が道徳的に認められない」という意見に納得できない人、納得したとしても自分の「動物性食品を食べたい」という欲求を優先する人は一定数居続けるだろうから、畜産への需要は存在し続けるだろう。
このことを解決するためには、最終的には、人々の消費やライフスタイルという私的な行動や習慣を変えるだけでなく、政治や法律などの公的な制度も変えなければならない。公的な制度は強制力を持つものであり、もし「畜産が道徳的に認められない」という意見が公的に採用されれば、畜産業や動物性食品を食べたい個人にも公的な圧力や制限を加えられるようになる。
そして、畜産動物の道徳的地位を明示する形で「畜産が道徳的に認められない」という意見を法律の場で反映するとしたら*7、畜産の対象である動物について、畜産によって苦痛を与えられたり殺害されたりしないことについての「法的地位」 を明記することになるだろう。
現在では、ほとんどの社会の法律で、動物は個人や企業などの「人格」の持つ「所有物」としてのみ扱われている。動物を傷付けることが個人や企業に損害をもたらす場合などには法的な考慮の対象となるが、動物の利害が独立して考慮の対象となることは、基本的に無い。また、個人や企業を傷付けたり損害を与えることは罰の対象となり、一部の愛護動物や希少動物を傷付けることや殺害することも罰の対象となるが、家畜に苦痛を与えて殺害することは罰の対象とはならない。
だが、例えば、畜産の対象となる動物に「所有物」としてではなく「人格」としての法的地位が認められれば、家畜が苦痛を与えられて殺害されることは家畜自身の利害という観点から、法的な考慮の対象となるし、罰の対象となるだろう。そのように法律を変えるためには、ある程度は州法や条例でも対応できるかもしれないが、憲法などの改正も必要だろうし、「動物には権利がある」という文言の明記も必要かもしれない*8。
いずれにせよ、「動物には道徳的地位がある」という主張を社会的に実現するためには、畜産の対象となる家畜に限らず、動物全般に「所有物」としてではなく「人格」としての法的地位が明記されること、そして個人や企業による動物の道徳的地位を不当に侵害する行為が処罰の対象となること、が求められる。
また、法律改正の前に、政治の場においても動物の道徳的地位が扱われ、認められなければならない。動物の道徳的地位が選挙の争点となること、法律を改正しなければならないという問題意識を持った政治家が当選すること、動物の道徳的地位について国会や地方議会などの場で扱われること、などが必要だろう*9。
・「動物には道徳的地位があるという主張を社会的(消費、政治、法律など)な場で公認されるべきである、と主張すること」を、総称して、「動物には権利があると主張すること」と言ってしまってよいだろう。
この場合の「権利」は、道徳的・法的・政治的・社会的・日常的な意味合いを全てひっくるめた、大雑把な意味での「権利」である。
「権利という用語は、便利な省略的表現である 。…三〇秒のテレビニュース断片の時代においていっそう役に立つ」(シンガー 2011, 29− 30)。動物の道徳的地位を主張するにしても、字数や時間の限られたメディア・人々が通り過ぎていく街頭でのデモ・哲学的な話題よりも実際の問題についての議論が主要となる政治の場では、いちいち「道徳的地位とは何であるか」「功利主義と権利論の違い」などの道徳の話をすることはできない。
だが、「動物には権利がある」と言えば、多くの場合「動物には道徳的地位がある」という主張の要点がほとんど伝わるだろう。たとえば牛について、畜産の話題を出しながら「牛には権利がある」と主張すれば、ほとんどの場合は「牛の選挙権を主張しているのではなく、牛には苦痛を受けたり殺害されない権利があると言っているのだな」と相手は察してくれるだろう。また、「自分は牛がかわいそうだと思うから牛を食べない、と言っているのではなく、牛自身を尊重して自分だけでなく他人も牛を食べるべきではない、と言っているのだな」と相手は察してくれるだろう。もしも相手に「牛はなにか義務を果たしているのか?」「そもそも牛には権利を主張することすらできないじゃないか?」と反論されれば、そのときに「道徳的地位とは何であるか」という道徳の話をすればよい。
功利主義者であっても「動物の権利」を主張すること、また「動物の道徳的地位を主張している団体」を「動物の権利団体」と総称してしまうことは、「道徳的権利」という言葉の意味からすれば間違っているかもしれないが、とにかく便利である。
運動家にとっては、単語の倫理学的な意味にこだわりつづけるよりも、倫理的な主張を実現することの方が遥かに重要である。動物の権利運動を研究するうえでも、「権利」という言葉の意味を厳密に分析することも大切だろうが、それとは別に、「動物の権利運動」というカテゴリで括られる運動は何を主張して何をやっているかを分析することが大切である。
まとまりがなくなったが、要点としては以下の通りである。
● 功利主義者と権利論者は「動物には道徳的地位がある」と主張している点では等しいだが、道徳的地位はどれほど絶対的であるか、という点で見解が違う。
権利論者の主張する「道徳的権利」は、「道徳的地位」に強い意味合いを持たせたものである。
● 実社会に向けた主張の場で使われる「権利」という言葉は、倫理学の議論で使われる「道徳的権利」という言葉よりも遥かに広く多面的な意味合いを持つ。
動物の道徳的権利を主張する権利論者だけでなく、動物の道徳的権利を主張しない功利主義者も、「動物の権利運動」を行い、「動物には権利がある」と表現する。これは、「動物には道徳的地位がある」という主張を実社会で実現するためには「動物には権利がある」と表現することが便利だからである*10。
●「動物に権利がある」という主張は、多くの場合は「動物には苦痛を受けない道徳的地位がある」「動物には殺害されない道徳的地位がある」と主張しているのであり、「動物には選挙権がある」などと主張しているのではない。
参考文献
*1:ついでに言えば、シンガーや功利主義者らは「人間には生まれながらに権利が存在する」とも言わない。だが、功利主義らは諸々の人権運動を支持する。こ のややこしさは「動物の権利」という言葉を巡る状況と一緒である
*2:シンガーは、自分が関わっている運動や自分の理論がきっかけとして起こった運動に ついては、「動物の権利運動」よりも「動物解放運動」( Animal Liberation Movement)と表現することを好むようである。一方、シンガーの主張に触発されて運動を始めた活動家ヘンリー・スピラは Animal Rights Internationalを組織したし、功利主義的な主張を行う団体PETA (People for Ethical Treatment of Animals) も動物の権利団体であると自称している
*3:「道徳的地位」という言葉についての詳細な意味については、この記事を参照してほしい http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2014/04/02/003158
*4:栄養の問題はここでは取り上げない
*5:白状すると、私自身は権利論者の主張を正確に理解している自信は無い。リーガンの本は、翻訳が無いということもあり、読みづらくて難しい
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*6:動物実験は、動物の関わる制度のなかでも、倫理的に認められるかどうかの線引きが難しい制度である。今回の記事では、動物実験の問題についてはこれ以上は触れない
*7:畜産が自然環境を汚染することで人間社会に悪影響を与えることは道徳的に認められない、という問題意識から「畜産が道徳的に認められない」とする場合は、全く別の形となる
*8:私には法学の知識は全くないので、かなり適当に書いてしまっているが、動物の道徳的地位を主張する法学者は多く、ちゃんとした法学的な議論も行われている。尚学者『動物の権利』にも論文が収録されているゲイリー・フランシオーンやスティーブン・ワイズが代表的な論者である
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*9:現状では「畜産が道徳的に認められない」という意見自体がほとんど社会的に認められていないので、頓珍漢な議論に聞こえるかもしれない。だが、例えば 過去のアメリカで奴隷制度撤廃が取り沙汰された時には、畜産制度の撤廃を取り沙汰するときと同じような議論が起きている。個人として「奴隷制度が道徳的に認められない」という意見に納得できない人(白人の農場主)、納得したとしても自分の「奴隷を使役して生活を送り続けたい」という欲求を優先する人は一定 数居続けただろうが、最終的に「奴隷制度が道徳的に認められない」という意見が公的な場で認められ、奴隷制度が法律的に禁止されることとなり、「奴隷制度は認められる」「自分は奴隷を使役したい」という主張は公認するに値しないものとされた
*10:欺瞞のように思えるかもしれないが、たとえば女性の権利運動やアフリカ系アメリカ人の公民権運動についても、功利主義者は「女性には生まれながらに権利がある」「アフリカ系アメリカ人には生まれながらに公民権がある」ということは認めないだろうが、女性の権利運動やアフリカ系アメリカ人の公民権運動は女性やアフリカ系アメリカ人の道徳的地位を社会的に実現するために必要であるから、女性の権利運動やアフリカ系アメリカ人の公民権運動に賛成するだろう