第六章 生命を奪う ー胚と胎児ー Taking Life The Embeyo and Fetus
・今日 → ここ40年(123)
・先進国で中絶法の緩和されてきたことについて「アイルランドだけがこの流れに抵抗していた」→「アイルランドやポーランドでさえも一部の状況での中絶を認めるにようになり、中絶を完全に禁止している国はほんの少数となり、そのほとんどがラテンアメリカ諸国である」(123)
・「中絶反対論者も黙っていたわけではない」から始まるパラグラフが削除(123)
・IVF関連の文章が変更。幹細胞研究について文章が追加(124)
・「胚の対極にあるのは〜」→「胚は徐々に人間になっていく」(125)
・「本章の大部分は中絶に関するものである」という文章が削除(125)
・「いま述べた事実によって、最高裁の考えは根底からくつがえされようとしている」という文章が削除(127)
・30年前 → 50年前(127)
・「自由主義者の中絶についての反論は失敗している」という文章が変更(129)
・中絶についての自由主義者の反論について「中絶を非合法にすると、ヤミでの中絶のために警察に賄賂が渡されるようになり、警察腐敗につながる」というものが追加(129)
・ヤミ中絶反対の危険性に関連して「ラテンアメリカの違法中絶で若い女性が傷付いている」という文章が追加(130)
・保守のリベラルに対する反論として「中絶禁止法に負の影響があるとしても、正の影響がそれを上回るかもしれない」というものが追加(130)
・「法律の関知せぬ問題か?」の節の直前のパラグラフが2つに分かれる(130)
・法律と道徳の分離について、1950年代のイギリスでJohn Wolfendenの委員会が同性愛の犯罪化を撤廃する旨を主張したことについての文章が追加(130〜131)
・犯罪学者エドウィン・シャーと著書『被害者なき犯罪』についての記述が削除(131)
・トムソンの論文についての文章が一部変更、文意に変化はなし(133)
・Self Consciousness → Self Awareness(136)
・「胎児に感覚が存在するようになるまでは、胎児は内在的価値を持たない」という文章 →「胎児に感覚が存在するようになるまでは、中絶によって失われるのは、動物というよりも植物に近い存在だ」という文章に変更(136)
・" The Fetus As a Sentient Being"という節が追加(136)
・" The Fetus As a Potentical Life"の節の最初の方のパラグラフが短くなる(138)
・killing an actual human being → killing an actual person(138)
・「山を登りたいから妊娠を遅らせる女性」の例についての文章がやや変更(140)
・「胎児の生命を破壊することは殺人に分類されるべきだ」というポール・ラムジーの主張について紹介するパラグラフで、ジョージ・W・ブッシュの幹細胞研究に関連する発言も追加(140)
・胎児の独特性(uniqueness)や潜在性から中絶禁止を主張する議論に対して、クローン技術や幹細胞研究の発展を持ち出して反論するパラグラフが追加(140〜141)
「細胞からも人間を作ることが可能になるかもしれないから、潜在性を持ち出したら、細胞にまで道徳的地位を認めなければならないことになる」という反論。
・The More Argument Against Abortionという節が追加(141)
ドン・マーキス、パトリック・リー、ロバート・ジョージなどによる議論が取り上げられる(143〜144)
・「実験室における胚の道徳的地位」の節の最初の方の文章が変わる(144)
・マリーとヘレンの例(胚が二つに分割して云々)について、David Oderbergを取り上げて、反論(146)
・胚とか卵子、精子の潜在性についての文章がところどころ変更。文意は変わらず(146〜148)
・サロゲートについて言及、ただし「この本では扱わない」とされる(150)
・「フェミニストの果たした役割」についてのパラグラフが消える(151)
・「胎児の利用」の節が丸々カット(151)ここで取り上げられていたフェミニストの議論もカットされる。
・乳児殺しについて「この問題について考えるとき」→「この問題について、熟慮された倫理的判断に辿り着こうとするとき」(152)
・「子どもがいつ死について理解しはじめるか」ということについての文章が変更(153)
・「生後一ヶ月で生存権を認める」かどうかということについての文章もやや変更(153)
2版でも3版でも原文では「キリスト教的な態度である」と書かれているのが、翻訳ではなぜか「ユダヤーキリスト教的な態度である」となっている。
・「ギリシャやローマの道徳家よりも我々の方が文明化されているとは信じ難い」という文章で日本や中国についても言及。また、乳児殺しを行っていた国の例に日本が追加される(153)
・最後のパラグラフの文章が少しだけ変化(154)
第七章 生命を奪う ー人ー Taking Life Humans
・最初の文章がやや変更、文意は変わらず(155)
・「安楽死という言葉は、辞書によると〜」という文章から始まるパラグラフが、安楽死の情報や定義が追加された長いパラグラフになる(155〜157)意志による自殺幇助などについて言及
・自発的安楽死の情報が変更(157)
・Types of Euthanasiaの節がForms of Aid in Dyingに変更(156)
・キヴォーキアン医師についての具体例がオランダでの安楽死の認識の例に変更(157)
・非自発的安楽死、ルイ・ルプイユについての例が消える。代わりに、カナダのトレイシー・ラティマーの例が追加
・「障害を持つ乳児の生と死に関する決定」の節で、パラグラフの順番が入れ替わる。「功利主義の原則である〜」という文章から始まるパラグラフが先の方に(160)
・二分脊椎症の例がテイ=サックス病の例に(161〜162)
・血友病の例の文章も微妙に変更。文意は変わらず(162)
・総量功利主義についての文章がやや変わる(163)
・ダウン症の例について、文意はそのまま文章が変更
・「胎児を交換可能で代替可能な存在として扱う」→「胎児を代替可能な存在として扱う」(164)
・「それでもまだこのような反論があるかもしれない」→「障害者団体の中には、このような結論に強く反対する人がいる。彼らが言うには〜」(165)
・2版の第五章で持ち出されていた「人生の旅」のメタファーが無くなったので、第七章でも、このメタファーに関連する記述が削除・変更されている(167)
・「存在先行説をとるか総量説をとるかで結論は変わる」という文章を追加(167)
・植物状態とはどういうことか、ということについての情報が更新(167)
Terri Schaivo氏の事例が追加。
「植物状態でも意識がある可能性はあるが、実際にはほとんどの場合は意識が無い」という文意のパラグラフを追加(167〜168)
・安楽死の間接的な危害(高齢者が恐怖を感じる、など)についての文章がやや変更(168〜169)
・「自発的安楽死の正当化」の節、最初の方のパラグラフが短くなる(169)
・権利論について、プライバシーを説明する例で、「自分の生活を映したフィルム」→「自分の生活を映した動画をwebサイトに投稿」に変更(170)
・エリザベス・キューブラー・ロスについての記述が削除
・「医者がミスをする可能性」を持ち出しても安楽死正当化への反論にはならない、ということが強調される(172)
・2版ではもっと前の節で取り上げられていたキヴォーキアンについての記述が、ここで登場(174)
・Philip Nitschkeについての文章が追加(175)
・安楽死合法化で予想される間接的な危害として「自殺の手段についての情報が普及すると、合理的に考えた結果ではない自殺が行われるかもしれず、悪影響が出るかもしれない」ということが追加(176)
・非自発的安楽死について、ハリケーン・カトリーナの事態で起こった、Jannie BurgerssとEmmett Eveletの事例が追加(177)
「滑りやすい坂」の議論に対して、ルイジアナでは安楽死が禁止されているにも関わらず非自発的安楽死が行われた(ダブル・エフェクトの理論のため)という反論がされる。
・ベイビー・ドゥ事件についての文章が変わる(178)
・重度の障害を持った乳児を死ぬに任せることについて、ヨーロッパの医師たちの意見についての情報が追加(180)
・『「殺すこと」と「死ぬに任せること」に違いはない』ということについての文章はほとんど変更無し(182〜184)
・法皇ジョン・ポール・3世の意見が追加される。2版ではもっと前の節で取り上げられていたジョン・ロールバーがここで登場する(185)
・「滑りやすい坂ー安楽死からジェノサイドへ」の節の文章はほとんど変更無し(186〜190)