道徳的動物日記

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倫理学における、動物の「知能による線引き」について、雑に説明してみた

anond.hatelabo.jp

 

おれのアタマじゃ結論出ないので、倫理学専門家に説明してほしいなあ。」

私も専門家ではないし、時間がないので雑になるが、前半の「知能による線引き」について、とりあえず説明してみる。

 

 基本的に、倫理学で「動物は道徳的に配慮されるべきだ」「人間には、動物を倫理的に取り扱う義務がある」といった主張がされる場合には、その根拠は「動物が苦痛や幸福を感じるから」であることが多い。

 「人間が苦痛を受けること」や「人間の幸福が奪われること」が「悪いこと」であるのと同じように、「動物が苦痛を受けること」や「動物の幸福が奪われること」も「悪いこと」である、という訳である。

 

 「悪いこと」であるから絶対にやってはいけない、という主張もあるが、多くの倫理学の主張では「正当な理由」がある場合には「動物が苦痛を受けること」などの「悪いこと」を行ってもよい、としている。

 極端な例では「一匹の動物が殴られて苦痛を受けること」で「百人の人間がトロッコに轢かれて死ぬ」という状況では、後者に比べて前者の事態の方が遥かにマシなので、ほとんどの理論が「動物を殴ること」を行ってもよい、と主張するだろう。

 しかし、「動物の肉を食べること」などについては、「人間が動物の肉を食べて喜びを得られること」と「動物が屠殺される際に苦痛を受けること」を比べても、人間の得られる喜びよりも動物が受ける苦痛の方が重大であるから、「人間が動物の肉を食べて喜びを得られること」は「動物が屠殺される際に苦痛を受けること」を行う「正当な理由」とならず、「動物の肉を食べること」は認められない、と主張されることが多い。

 

 

「知能の高い種は後々人類対話して共生することになる可能性があるので、禍根を残さないようにしよう」

黒人白人の都合で奴隷として扱ったのはマズかった。彼らは対話可能な存在だった。同じ過ちを繰り返さないようにしよう。」

 上記の、匿名ダイアリーで書かれている考え方は「対話」や「相互の契約」を重要視する考え方である。人間同士の関係について論ずる場合では、倫理学でも「対話」や「相互の契約」を重要視することは多いが、動物に関する問題では、あまり問題にならない。

 「ある動物が人間とは会話できない」「ある動物は人間とは相互に契約をできない」ということは、「ある動物が殴られると、その動物は苦痛を感じる」「ある動物が殺されると、その動物が将来感じたであろう幸福が奪われる」こととは関わらない。

 「対話」や「契約」ができるかどうかではなく、「苦痛」や「幸福」を感じるかどうかが、問題とされて、「ある動物が人間とは会話できない」ことは「その動物を殴って、苦痛を感じさせる」ことを行う「正当な理由」としては認められない…という場合が大半である。

 

 動物についての倫理学で「頭の良さ」が問題になる場合も、人間と動物との「対話」や「契約」ができるかどうかではなく、動物の「苦痛」や「幸福」に関わる点である。

 生物学や心理学などの自然科学や、難解な哲学的問題も関わってくる論点なので、詳しく説明するのは難しいから、かなり雑に説明する。

 「時間の概念がある」「過去について覚えている」「未来について想像できる」「"自己""死"の概念がある」「仲間を認識して、覚え続けられる」など、一部の種類の「頭の良さ」は、特定の行為を受ける際の「苦痛」や奪われる「幸福」に関わる。

 たとえば、「じわじわと嬲られながら、時間をかけて殺される」という行為を受ける場合、感覚のある動物ならいずれも嬲られる際に肉体的な苦痛を受けるが、「未来について想像できる」「"死"の概念がある」などの能力を備えた動物の場合、"自分の死"を想起して恐怖を感じるという、精神的な苦痛が加わる。また、「仲間が攫われる」という行為を受ける場合、「仲間を認識して、覚え続けられる」ことができる動物にとっては精神的な苦痛となるだろうが、そうではない動物にとっては大した苦痛にならないだろう。

 また、「"自己""死"の概念がある」「仲間を認識して、覚え続けられる」などの能力を備えた動物は、そうでない動物よりも複雑な感情を抱きながら生を送っており、多種多様な「幸福」を感じている、と考えられる。すると、「殺されて、その後の生で感じるはずであった"幸福"を奪われる」という行為を受ける際にも、「"自己""死"の概念がある」「仲間を認識して、覚え続けられる」動物の方がそうでない動物よりも、奪われる幸福の量が大きい、と考えることができる。

 

 このように、複数の種類の動物に対して「殺す」などの同じ行為を行う際にも、ある動物が特定の種類の「頭の良さ」を備えていた場合、そうでない動物に対して行う際よりも、「殺す」という行為の「悪さ」は増す。

 倫理学で動物「頭の良さ」が問題となる場合、このような理屈であることが多い。イルカやクジラ・チンパンジーやゴリラなどの霊長類が、問題となる種類の「頭の良さ」を備えているとして頻繁に取り上げられるが、ゾウ・アメリカカケス等の鳥類が取り上げられている場合もある。

 もっとも、「時間の概念がある」「仲間を認識して、覚え続けられる」などの「頭の良さ」の定義は複雑だし、動物の種類によってその中身や仕組みは違うだろうし、1か0かで割り切れる問題ではない。

 実際にはほとんどの動物が「殺されることについての恐怖」などの精神的な苦痛は感じるだろうし、多くの論者は「イルカや霊長類が殺される場合、他の動物が殺されること場合よりも、多くの種類の精神的な苦痛を感じる。だから、比較すれば、イルカや霊長類が殺されることは他の動物が殺されることよりも深刻だ」という程度に主張している。

 「イルカや霊長類が殺されることは悪いことだが、他の動物が殺されることは悪いことではない」と主張している人は、少なくとも倫理学者にはほとんどいないだろう。

 また、倫理学者でも、動物の「頭の良さ」にはさほどこだわらず、「肉体的な苦痛を感じられる動物/一定以上の精神的な苦痛を感じられる動物を殺すことは、等しく悪い」というような理論を主張していることも多い。

 どんな種類の「頭の良さ」がどれほど重要かは、知能や幸福の定義によって変わってくるし、多くの学者が、生物学や心理学などの研究結果を参考にしながら、様々な主張をしている。

 

 とにかく、要点をまとめると、「イルカは頭がいいから殺してはダメだ」という主張は、倫理学的には「イルカを殺すことは、イルカに肉体的な苦痛を与えるだけでなく、他の多くの種類の動物が感じないであろう精神的な苦痛をイルカに与えるから、イルカを殺すことは他の動物を殺すことと比較して、より悪い」という風に変換することができると思う。

 「イルカは頭がいいから殺してはダメだ」という主張が「イルカ以外の動物は頭が悪いから殺しても良い」という主張を含意しているわけではないし、少なくとも倫理学者ではそんな主張をしている人はほとんどいないと思う。

 

 以上、雑になってしまった。 

 動物倫理については、私の過去のブログ記事でも多少は説明しているが、本を読むのが一番だと思う。