道徳的動物日記

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『暴力の人類史』の書評が気になった

 

 

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

 

  1月末に発売されたスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』だが、図書館に予約していたものがようやく届いたので、読んだ。原著(The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined )は前から手元にあったのだが(邦訳は上下巻揃えるのに9000円以上かかるが、原著なら2000円未満で購入できる)、これだけの量を英語で読み通すのはさすがにしんどく、興味のあるところを摘んで読む程度にとどまっていた。しかし、改めて邦訳を読んでみて、これは最初から最後まで通読するべき本だと思った。

 様々な話題が取り上げられており、どこから読んでも面白いタイプの本だが、本のメインテーマは「現代は人類の歴史において最も暴力の少ない時代である」「古代から現代にかけて、様々な要因(政府や警察などの制度が整う、通商が活発になる、理性や道徳が発達する、など)によって、暴力は減り続けている」ということである。上巻では暴力の減少の歴史的な経緯が書かれており、下巻では女性の権利や動物の権利を含めた「権利運動」についてと、「人間はなぜ暴力を起こすのか」/「人間はなぜ暴力を抑えるのか」ということについての心理学の知見が紹介されている(著者のスティーブン・ピンカーの専門は歴史学ではなく心理学である)。

 

 おめでたいアメリカ人『暴力の人類史』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 邦訳の発売から4ヶ月が経っており、既に様々な書評が書かれている。そのなかでも、上記の書評は「暴力の人類史」でグーグル検索すると上の方に出てくる、読者数の多そうな書評である。

 しかし、上記の書評は、著者のピンカーが本書で展開している議論に対して否定的である。それはいいのだが、本の内容が歪められて紹介されている(と私には思える)ところが、いくつか見受けられた。影響の大きい書評であると思うので、ここで指摘しておきたい。

 

暴力は減っているのか? 「欧米からは減っている」が正解だろう。

 

自分ん家が燃えてないのは、火種がアウトソースされているから。昔は直接的な植民地支配で簒奪してきた資源が、現地組織を介し、トラブルも込みで搾取する構造になっているから。パレスチナ問題や血まみれダイヤモンド(Blood Diamond)なんて、その典型かつ象徴だし、最近ならメキシコ麻薬戦争も然り。「その場所だけ」に限定された問題と矮小化することで、自分ん家からは無かったことにする。

 

 第六章の「新しい平和」では、アフリカや中東で起こっている内戦やジェノサイド、テロリズムを取り上げている。そして、「すべてのタイプの殺戮が減少している」[上:  p.523]ことを示し、「世界の戦争の負荷は減ったのではなく、北半球から南半球へと移動したにすぎないという印象」[上:p. 522]を否定している。 上巻の529ページや533ページには、内戦による軍人・民間人の死亡数の減少を表すグラフが掲載されている。

 また、発展途上国の状況が改善した一因として、国連などによる平和維持活動が挙げられている。

 途上国で紛争や暴力が起こる一因は欧米諸国にあるだろうが、紛争や暴力が起きる要因は様々であり、全てが欧米諸国によるアウトソースとは言えないだろう。

 ついでに、パレスチナ問題やダイヤモンド紛争のような「よくメディアで取り上げられる出来事」「イメージしやすい出来事」の印象に惑わされずに、数字や統計を見て判断せよ、ということは『暴力の人類史』で一貫して主張されている。

 

 対人だけでなく、インフラを破壊して社会活動を阻害するのも「暴力」だ。兵士を殺傷するよりも、その背後にある武器やインフラ、兵士を育てる家庭となる社会基盤を破壊する。その国そのものを、物理的に住めない場所にすると同時に、そこに住む人々を根絶やしにする。

この辺の検証をスルーして、単純に兵士の死者数が減っているから暴力は減少している…

 

 

インフラ等の破壊による、「戦争によって悪化した飢餓、病気、無法状態による民間人の間接的死者数」[p.552]については、552ページから557ページで論じられている。そして、兵士の死者数に比べて民間人の死者数の統計を把握するのは困難だと認めながらも、人道支援や援助機関の洗練によって病気や飢餓による死者数は減っており、「間接的死者の増加が戦闘死者の減少を相殺または無効化してしまうという懸念は杞憂に終わった」 [p.557]と示されている。

 

ピンカーは、前線要員をドローンに置き換えること自体、人類の脱暴力化のあらわれだという。人ではなくロボットが闘うことは、人命を尊重していることなの だからと無邪気に言い張る。違う。暴力は目の前から移動させられているにすぎない。物理的に移動させられただけでなく、別の名前で呼ばれるようになった り、定義が変えられることで、見えなくなっているのが現状だ。

 

 ピンカーは、「前線要員をロボットや無人航空機に置き換えたこと」[上:p455]について、第二次世界大戦以降に先進諸国で徴兵制が廃止され、兵力や軍の規模の縮小が進んだことに絡めて、言及している。

 そして、軍隊のロボット化を「自国民の命が、かってより大切になっているからだ」としているが、これは、為政者にとって自国民の命のコストが高くなった(戦争で自国民兵士の命を失わせると国民から批判されるようになったので、昔に比べて為政者は戦争を起こすのに慎重になった)からだ、という程度の意味だろう。

 

 途上国ではとうてい製造できない武器や兵器を渡し、現地の資源を手にするシステムが成り立っている。兵器の生産拠点→消費拠点をグラフにするならば、暴力の輸出は瞭然だろう。効率的に暴力を行使できる道具を、先進国が輸出してきたおかげで、より残虐で大規模な暴行が大盤振る舞いされてきた。

 

 現在では途上国でも紛争やジェノサイドによる犠牲者数が減少していること、ルワンダのジェノサイドが斧や鎌などの原始的な武器で行われたことをふまえると、「効率的に暴力を行使できる道具」が流通しているかどうかと、「残虐で大規模な暴行」が行われるかどうかは関係ないのではないか。

 

本書が参照した統計情報[Correlates of War]によると、第二次大戦で174万人の日本兵が死んでいるが、この中には日本本土の空襲で死傷した100万人と被災した970万人[Wikipedia:日本本土空襲]は含まれていない

 

 357ページにはマシュー・ホワイトによる「人類が犯した(約)二〇の大罪」のリストが掲載されており、第二次世界大戦の死者数が5500万人とされているが、こちらには空襲や原爆による犠牲者を含めた民間人の死者も含まれているようである。

 

p.533図6-3では、国家を基盤とする武装衝突の「数」でもって暴力を測ろうとする。仮に、武装衝突の「数」から導き出される死者数を、それが起きている地域の人口で割ったならば、結構な数値になるだろう。

 「国家を基盤とする武装衝突の数」を示す図6-3と同じページに、「国家間戦争および内戦による死者数」を示す図6-4が掲載されている。そして、内戦や武装衝突の数と死者数がともに減少傾向であることが示されている。

 

暴力を測るなら、暴行の頻度やそれによる死傷者の数、誰に(何に)対する暴力なのか、暴力死の数が重要なのか、それとも人口比の割合が問題なのか、「その 行為」を暴力的だとみなされていたか・いなかったか(あるいは曖昧なままで分析するか)をクリアにしなければならない。本書は、この定義を華麗にスルーし ている。

 

ピンカーのトリックは、暴力の範囲や定義を、便宜に応じて伸び縮みさせているところにある。

 

ピンカーは、この定義を行わず、章の先々で自在に「暴力」を定義する。ある章では人に対する暴行が暴力だったものが、別の箇所では動物虐待も含まれること になる。殺人は明らかに暴力だが、DVが暴力扱いされたのは最近のことで、「しつけ」だったり「指導」と言い換えられていたのだから、そもそも記録すらさ れていない(「虐待」も然り)。

 

「暴力的」とみなされる出来事が時代によって違うことや残存する資料の絶対数の問題があり、得られるデータの量や種類も時代によって違ってくからこそ、章ごとに 「この時代については、このタイプの暴力についてのデータがあるので、これを基に論じていく」とせざるを得ないのだろう。統計やデータの種類や質については毎回明らかにしているのだから、これを「トリック」と呼ぶのは、悪意が感じられる。

 また、「「暴力的」とみなされる行為が時代によって変わってきたこと」はこの本のテーマでもあり、動物虐待やDVなど、時代によっては全く暴力と見なされなかったことが暴力として見なされるようになった歴史的な経緯については第7章で独立して扱われている。

 

アメリカ合衆国の、自己中心性、理想主義、無邪気さと危 険性を描いたグレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』に倣って、「おめでたいアメリカ人」と名づけたい。

 

今ここを平穏にするためになされている努力と欺瞞から目を背けることのないように、想像力を働かせたい。

 

 

 上記の書評を読んでいて思ったのだが、著者(ピンカー)に対して悪意を持って読み過ぎなのではないか。

 

 上記の書評に限らず、『暴力の人類史』で主張される「現在は、人類史上最も平和な時代である」というメッセージと、ピンカーがアメリカ人(白人)であることを結びつけて、「現在のアメリカ中心の世界秩序を正当化しようとしている」「過去に欧米諸国が行った植民地主義などの行為や、現在の欧米諸国が発展途上国を搾取する構造を、正当化しようとしている」という意図を見出しているのではないか、という人が散見される。

 本の読み方として、著者の意図やイデオロギーを事前に想定しておいて、内容を割り引いて読む・情報の恣意的な抽出や誇張を警戒しながら読む・反対の事例を想定しながら読む、ということは基本的には間違っていないと思う。

 しかし、それが行き過ぎると、「邪推」と言わざるを得ない。