道徳的動物日記

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スティーブン・ピンカーによる「動物の権利運動」論

 スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』では、様々な資料や統計を駆使して、人類が歴史を通じていかに暴力を減少させていったかが示されている。扱われている「暴力」の種類も様々であり、国と国同士で行われる戦争やある社会が特定の集団に行う虐殺など集団間でのマクロな暴力から、残酷な処刑や拷問に決闘や魔女狩りなどの慣習に殺人事件などの集団内での暴力まで、いずれの形の暴力も減少していると示されている。第7章「権利革命」では、アフリカ系アメリカ人などの人種マイノリティ・女性・子ども・同性愛者などのマイノリティの権利が、特に20世紀後半に各国で認められるようになり、それらのマイノリティに対する暴力が減少していったことが論じられている。そして、動物に対する暴力とそれを減少させた「動物の権利」運動も、この第7章で取り上げられている。

 『暴力の人類史』は様々なテーマが少しずつ取り上げられている一方で、それぞれのテーマに割かれる紙幅は狭いので、たとえば「動物の権利運動の歴史」という事柄について詳しく知りたいのなら、「動物の権利運動の歴史」にテーマを絞って書かれた本の方が、そのテーマに関しては『暴力の人類史』よりも内容が詳しいし充実している。実際、私は動物愛護運動や動物の権利運動に関する本を何冊か読んできているので、目新しく思うところはあまりなかった。

 だが、動物の権利運動をその他のマイノリティの権利運動と並列させて論じることで、動物の権利運動とその他の運動との共通点と相違点が見えてくる。動物の権利運動はその他の運動と比べて奇異に見られることが多く、特殊なものとして扱われがちだからこそ、人間社会における全体的な暴力の減少や道徳の発達という普遍的なテーマを扱う『暴力の人類史』で動物の権利運動が扱われている意味は大きい。

 以下では、私が気に入ったところや重要だと思うところを引用しながら、紹介していく。

 

 まず、ピンカーによる「権利革命」の定義と、権利革命の大まかな流れは、以下のように示されている。

 

 暴力に誘われるのは悪しきことと見なされ、だいたいにおいて刑事罰の対象とされるようになったが、この動きは「権利」を求める各種のキャンペーン、つまり公民権、女性の権利、子供の権利、同性愛者の権利、動物の権利などを求めて次々と起こった一連の運動のなかですすめられてきた。これらの運動は二〇世紀後半に集中しており、私はそれを一括して「権利革命」と呼ぶことにしたい。(下巻 p.13、以下の引用も全て下巻から)

 

 各運動は先行運動の成功に着目し、その先行運動の戦術やレトリック、そして何より重要な、道徳的根拠を参考にして取り入れたのだ。二世紀前の人道主義革命のあいだに一連の改革が立て続けに起こったが、その盛り上がりに火をつけたのも従来の固定化した慣習に対する知的な反省であり、その成功を側面から支えたのが人道主義、すなわち個人の肌の色や社会的階層や国籍といった外面的なことよりも、喜びや苦しみを感じることのできる個人の心そのもののほうが大切であるとする考え方だった。…知覚を持った生物の生きる権利や自由を得る権利、幸福を追求する権利が、その生物の肌の色のせいで制限されるものでないとすれば、そうした権利がその生物の性別や年齢や性的指向や種のせいで制限されるのもおかしいのではないか?そう考えていけば論理的な帰結は明らかであり、時と場合によっては頑迷な習慣や強引な力によってその結論にいたるのを阻まれるかもしれないが、オープンな社会でこの流れを阻止することは不可能である。(p.14~15)

 

 第七章では、アフリカ系アメリカ人や女性などのマイノリティについて、それぞれに節が設けられており、いずれの節も「昔はこのマイノリティがいかにひどく扱われてきたか、どれほどの暴力がこのマイノリティに対して振るわれてきたか」ということが示されてから「その扱いがいかに改善されてきたか、現在ではどれだけマシになっているか」ということが論じられる。動物の権利についての節も、同様の構成で書かれている。

 まず、狩猟採集民や近代以前の社会では動物の苦痛に対する配慮はほとんど無かったことが示される。「伝統社会の人びとが動物を生きたまま刻んだり調理したりするのは、決して珍しいことではない」(p.148) のであり、”自然に優しい”というイメージがある狩猟採集民族や遊牧民などであっても、動物を絶滅に追い込んだり猟犬を虐待したりする。古代ギリシャやローマ、初期のユダヤ教キリスト教においても、「動物は人間の利益のために存在しているというのが最優先の原則だった」ため(p.149)、動物への道徳的な配慮が示されることは基本的になかった。近代になってからも、動物は機械のようなものであり感覚は無いからどのように扱ってもよい、というデカルト的な考えのために動物への配慮は遅れた。家畜を身動きできない場所に閉じ込めて苦しませる、今日の工場式畜産の原型のような飼い方は17世紀から行われていたし、街中では猫や熊などに対する動物虐待が娯楽として扱われていた。また、菜食主義は昔から存在していたが、宗教的な教義を理由にしている場合があり、必ずしも動物への配慮を理由にしているとは限らない、ということが論じられる*1

 18世紀から19世紀にかけてはヴォルテールなどの哲学者がデカルト的な考えを批判し、ダーウィンの『種の起源』の影響によって人間と動物との連続性が注目され、動物にも苦しみの感覚があることが認識されるようになった。功利主義の哲学者であるベンサムは、動物の苦痛は人間の苦痛と同じように道徳的配慮の対象であると主張した。イギリスでは動物愛護に関する法律が議会に提出されて、反生体解剖や菜食主義などの運動が行われるようになった。だが、20世紀半ばには二つの世界大戦で動物愛護の盛り上がりは途絶た。肉の需要の高まりによって工場式畜産が登場し、動物の心や感情について考えることを「擬人化」であるとする行動主義的心理学の考えが台頭した。菜食主義や動物愛護には理想主義的・偽善的・おめでたいイメージが付くようになってしまった。

 

 しかし、工場式畜産の実態を告発したルース・ハリソンの著作『アニマル・マシーン』が1964年に出版されると、他の著名人も工場式畜産の反対を主張するようになった。そして、1975年に出版されたピーター・シンガーの著作『動物の解放』は、工場式畜産や動物実験などの制度に対する反対を功利主義によって理論化し、動物の権利運動のバイブルとなった。『動物の解放』という題名は植民地の解放や女性の解放を連想させるし、シンガー自身も著作の中で動物の権利運動を同時代の他の権利運動になぞらえている。1970年代には、動物への配慮に加えて健康意識や自然保護などの理由から、菜食主義のイメージは向上した。また、動物実験に大幅な規制がかかるようになったこと、キツネ狩りや闘鶏などのブラッドスポーツに規制がかかったこと、闘牛や娯楽としての狩猟と釣りのイメージが悪くなったこと、映画の撮影時にも動物福祉に配慮しなければいけなくなったこと…などなど、様々な分野で動物の扱いが向上したことが示される。

 食肉については、工場式畜産の登場にふまえて、鶏肉の需要が向上したことにより、肉のために殺害される動物の数は20世紀後半に急増した。「牛一頭分の肉をまかなうには二〇〇羽の鶏が必要なのだ」(p.170)*2。だが、(魚も卵も牛乳も摂取しない、純粋な菜食主義者はいまだに少数であるとはいえ)菜食主義者は増加傾向にある、ピンカーの示したサンプルによると、イギリスでは20年間で菜食主義者の数が人口の2%から7%にまで上昇したし、アメリカでも純粋な菜食主義者の数は15年間で1%弱から3%強にまで上昇している。食品業界や小売店菜食主義者向けの商品を大量に開発・販売している。肉を食べる人であっても動物福祉に考慮をしている人は多く、畜産業界は家畜への人道的な配慮を意識するようになり、2008年にはカリフォルニアで家畜虐待防止法が承認された。保守派である「共和党員の大多数が、畜産動物の扱いに関する「厳格な法律」を制定することに賛成している。」(p.176)。ヨーロッパではアメリカ以上に動物保護のための規則が制定されている。スイスでは、法規制は150ページにわたり、犬の飼い主は犬を飼う前に四時間の講習を受けなければならず、飼い方についても届け出を出さなければならない。

 

 このように、動物の権利運動は一定の成果を収めている。では、動物の権利運動が完全に達成されて、全ての工場や実験室から動物が解放される日がいつか来るのだろうか。

 

 そうかもしれない。だが、たぶんそうはならない。抑圧された動物を抑圧された人間になぞらえるのは、レトリックとして大きな効果があったし、動物も人間もすべて感覚ある生き物であるぁほろ。そのようになぞらえても知的な意味ではなんら不当なことではない。しかし、その二つはまったく同じではないーアフリカ系アメリカ人、女性、子ども、同性愛者は、いずれもブロイラーチキンではないーのだから、動物の権利に関する軌跡がちょっと遅れて人権に関する軌跡をそのままたどるとは、私にはどうも思いがたい。(p.177)

 

  動物の権利運動の完全な達成にとって障害となる要因は複数ある。まず、「伝統的なヒンドゥー教徒仏教徒ジャイナ教徒が証明しているように、肉のない社会はたしかに可能である」(p.177)のだが、人間には基本的に肉への欲望が備わっており、アメリカでの菜食主義者の少なさは前途の多難さを示している。それ以上の障害となるのは、人間と動物との関係はゼロサムである場合が多い、という事実である。つまり、人間と動物のどちらかにとっての利益が、もう片方にとっての損害となる。動物は人間に怪我や病気などの危険をもたらし、農産物や住居を破壊することがあるし、絶滅危惧種を捕食するなどして生態系に影響を与える場合もある。また、動物実験を完全に停止してしまうことは、現在生きている人間やこれから生まれてくる人間に苦しみを与えることにつながる。その他には、昆虫や軟体動物について倫理的に配慮することがどういうことであるのか(昆虫や軟体動物には意識や感覚はあるのか)が未だにはっきりしないことや、人間には「自然」に価値を見出す心理的な傾向があるので、野生動物に介入することを忌避し人間自身の自然な肉食性に価値を見出してしまうこと、が挙げられる。これらの障害をふまえたうえで、ピンカーは以下のように結論付ける。

 

このような一概には断じがたい要素のために、動物の権利運動は、ほかの権利革命と完全に同じ軌跡をたどることにはならないのではないかと私は思う。しかし当面のところ、ゴールラインがどこになるかは重要な問題ではない。動物の負わされている大きな苦しみを、人間にとってのわずかなコストで軽減してやれる機会はいくらでもある。昨今の感受性の変化にかんがみると、動物の一生が今後も改善されつづけるのは間違いないだろう。(p.179)

 

 また、動物の権利運動とその他の権利運動の違いを、ピンカーは以下のように書いている。

動物の権利における革命は…感覚ある生き物に苦しみを負わせてはならないという倫理的な原則のみによって推進されてきた…。ほかの権利革命と違って、動物の権利を求める運動は、被害を受けている当事者によって進められたのではない。…動物の権利の承認は、動物に代わって物申す人間が、共感と理性とほかの権利革命からの刺激に突き動かされて進めてきたのだ。 (p.144)

 

  

 『暴力の人類史』の 「動物の権利運動」論は、おおむね問題は無いとは思う。しかし、工場式畜産についての記述や、西洋以外の社会がほとんど取り上げられていないことなど、物足りないところもある。

 私はイギリスとアメリカの運動については多少は本を読んで勉強しているのだが、ピンカーの歴史の解釈には多少気になるところもある。以下では、少しだけ指摘しておきたい。

 動物の権利に関する記述に限らず、『暴力の人類史』では「昔の人間の生活や社会は暴力の氾濫したひどいものであったが、文明や制度の進歩によって共感や理性が発達したおかげで、暴力は抑制されて生活や社会は良いものとなった」というメッセージを主張するために、過去を過小評価して現代を過大評価する傾向がある。

 ピンカーは「動物に対する本当に倫理的な配慮をあらわしたものが初めてちらほらと出てきたのは、ルネサンス期のことである」 (p.157)として、それ以前の運動については、動物の苦しみに対する同情的な関心だけでなく、その他の理由も含まれているから”本当に倫理的な配慮”ではないとして、切り捨てている。また、18世紀や19世紀の運動についてもほとんどページ数を割かずに、20世紀後半以降の運動ばかりを強調している。

 しかし、動物の権利運動を研究する歴史家たちは、20世紀の運動はそれ以前からの運動と地続きであることを示している。例えば、19世紀に設立した英国動物虐待防止協会(The Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals)アメリカ動物虐待防止協会(The American Society for the Prevention of Cruelty to Animals)英米動物愛護団体は、20世紀にも活動を行っていたし、現在でもそれぞれの国内で最大級の組織であり、動物への道徳的配慮を推進する力となっている。20世紀後半に動物の権利運動が盛り上がり現代まで続いている理由として、それ以前の運動によって「動物をむやみに苦しめてはならない」といった考えが一般に広められていたことは大きいだろう。

 また、ピンカーは、反生体解剖運動について「科学と知性全般への反感を糧にしている」「ロマン主義的なイデオロギー」(p.154)と書き、ブラッドスポーツについて「中流階級が、下層階級の喜ぶ闘鶏や、上流階級の楽しむキツネ狩りを違法にしようと根回しした」(p.155)階級闘争であることを強調している。たしかに、これらの運動の要因として科学への反感や階級闘争の側面が含まれているかもしれないが、他の要因が混じっているから”本当に倫理的な配慮”ではないとするのは、了見が狭いように思える。以下の本では、イギリスやアメリカでの反生体解剖運動やブラッドスポーツの反対運動の背景には動物の苦しみに対する配慮があったことが示されている。

 

 

 

For the Love of Animals: The Rise of the Animal Protection Movement

For the Love of Animals: The Rise of the Animal Protection Movement

 

 

 

For the Prevention of Cruelty: The History And Legacy of Animal Rights Activism in the United States

For the Prevention of Cruelty: The History And Legacy of Animal Rights Activism in the United States

 

 

 
とはいえ、『暴力の人類史』での「動物の権利運動」の記述は、短いページ数でよくまとまっている。他の権利運動についての記述も、詳しい人や専門家からすれば不満点や突っ込みどころがあるだろうが、様々なマイノリティの権利が認められることによって暴力が減少していった経緯がうまく示されていると思う。

 

 

*1:ピンカーは、ヒンドゥー教や仏教の菜食主義について書いた後に「菜食主義と人道主義が仲良くするどんな制度も、二〇世紀のナチ支配下での動物の扱いによって、壊滅的に粉砕された。ヒトラーとその腹心たちは、菜食主義者を自称していた」(p.156)として、ナチスが菜食主義や動物福祉を奨励していたことから、菜食主義のイメージが悪くなった、ということを論じる。しかし、西洋での菜食主義がナチスによってイメージが悪くなるのは有り得ると思うが、ヒンドゥー教や仏教などの菜食主義がナチスによって影響を受けたとは思えない。ここは、ミスリード気味であるように思えた。

*2:ピンカーは「工場式畜産も、家畜や家禽への残酷な扱いも、もとをたどれば何世紀も昔にさかのぼる。」(p.170)として、現代に特有の問題ではないとする。しかし、工場式畜産は、単に家畜を身動きできない場所に閉じ込めるというだけのものではない。個々の動物が受ける苦痛の質も、苦痛を受ける動物の数も、昔と現代とではかなりの違いがあるように思える。