道徳的動物日記

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「動物の権利、多文化主義、左派」by ウィル・キムリッカ&スー・ドナルドソン 

 ウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンによる論文、"Animal Rights, Multicultrualism and the Left"を、要約して翻訳して紹介する。要約ではあるが、長い文章になっている。註釈や引用に参考文献などは省いているので、英語が読める人はもとの論文を読むことをお勧めする。

 もとの論文はこちらから閲覧・ダウンロードできる。

 

Will Kymlicka and Sue Donaldson, "Animal Rights, Multiculturalism and the Left" (2014) | Will Kymlicka - Academia.edu

 

 また、論文のもととなった講演と講演後の質疑応答が、Youtubeにアップロードされている。

 

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 ウィル・キムリッカはカナダ在住の政治哲学者。多文化主義、シティズンシップ、リベラリズムなどについて研究している。日本では政治哲学の概説書である『現代政治理論』や、主に多文化主義をテーマとしている『多文化時代の市民権』や『土着語の政治』などが翻訳されている。

 スー・ドナルドソンは、カナダ在住の著作家で、ヤングアダルト小説や、ビーガン(完全菜食主義)の料理本を出版しているようだ。

 キムリッカとドナルドソンは、今回紹介する論文の他にも、動物の権利に関する共同論文をいくつか発表している。また、2011年には『Zooplis: A Political Theory for Animal Rights』を出版しており、動物の道徳的権利を認めたうえで、道徳的権利を政治コミュニティで実現するためのシティズンシップ(市民権)を動物に認めるべき、ということを主張している。

 

 

Zoopolis: A Political Theory of Animal Rights

Zoopolis: A Political Theory of Animal Rights

 

 

 上述の著作で、著者らは「動物の権利」を主張している。具体的には、人間の都合によって殺されずに生命を全うする権利や、虐待や様々な社会的慣習によって苦痛を与えられない権利などである。権利論の考えなので、場合によっては動物を殺すことや苦痛を与えることを正当化する功利主義による動物の道徳的地位に比べて、より強固に動物の道徳的地位を支持している立場である。

 今回の論文のなかで何度も登場する「左派」は「北米(アメリカ・カナダ)の白人左派」を想定していると思われる。また、「多文化主義」と書かれているが、外国間での文化衝突ではなく、北米や欧州などの各国内に存在する多文化間の衝突について書かれている。

 論文の主張を大雑把に要約すると、「左派は、自分たちの理論的・方法論的な一貫性を維持するためにも、動物の権利論を支持するべきである。しかし、左派の多くは動物の権利論を支持しない。左派が動物の権利論を支持しない理由はいくつか存在し、その理由の一部は恣意的で正当性のないものであるが、動物の権利論が文化帝国主義や人種偏見につながるという懸念も理由となっており、その懸念には正当性がある。しかし、動物の権利論に限らず、左派の支持する人権の理論も、文化帝国主義や人種偏見につながる危険性を抱えていた。だが、ポストコロニアルな人権論や多文化主義の理論を発展させることによって、左派は文化帝国主義や人種偏見を抑制しながら人権を主張することができた。同じように、ポストコロニアルな動物の権利論や多文化主義によって、文化帝国主義や人種偏見につながらない形で動物の権利論を主張することは可能である。」というところだろうか。キムリッカとドナルドソン自身も、おそらく左派であり、動物の権利を支持する左派が動物の権利を支持しない左派を説得するための論文だという意味合いもあると思う。

 

 

 「動物の権利、多文化主義、左派」by ウィル・キムリッカ&スー・ドナルドソン 

 

 現在、米国の動物の権利運動は「左派の孤児」と表現される境遇になっている。進歩的左派は女性・同性愛者・障害者・移民・人種マイノリティ・先住民などの権利を守るために、社会的正義や少数者の市民権を主張する運動を行ってきたが、動物の問題はラディカルな環境運動のなかで多少注目される程度で、左派の運動のなかでは無視されてきた。この傾向は19世紀から続いてきたものであり、左派は動物に対する人間の暴力を無視し続けてきた歴史がある。

 

 マルクスは動物虐待防止協会の会員を「禁酒教の狂信者」と同じく的外れな道徳運動を行っている存在 である、として軽蔑していた。人間の内在的な価値は「人間(man)と動物を分別する、人間独自の能力」に由来する、というカント的・ヘーゲル的な考えをしていたマルクスは、自然や動物は人間が能力を振るう対象に過ぎない、と考えていた。

 しかし、「高度な能力を持つ人間/ただ機能を備えているだけの動物」という二分法は、現代の左派には受け入られていない。左派が、動物も知性や意識の面で様々な能力を備えているという事実を重視しているから…ではなく、この二分法は人間社会にも悪質なヒエラルキーを持ち込んでしまうからである。「人間の内在的な価値は、意識的に外界に働きかけ変化させる能力に由来する」という考えは、女性よりも男性の方が優れている・障害者よりも健常者の方が優れている・ヨーロッパなどの特定の文化の方がその他の文化よりも優れている、という考えを肯定してしまう。現在では、フェミニズム運動・障害者運動・多文化主義運動などの影響により、左派は「人間の価値は合理性や知性や能力にある」という考え方を拒否するようになり、人間の様々な生き方に価値を見出すようになった。

 左派の考えがこのように変わったことは、本来なら、動物のための運動に繋がるはずである。動物と人間とを別け隔てる能力である合理性や知性を重視するデカルト的な考えが否定され、感情や依存性や脆 弱さなど、人間だけでなく動物も備えているような要素が新しく注目されるようになった。他者とのケア関係を価値を見出す「ケアの倫理」、多種多様な生き方 を開花させることに価値を見出す「ケイパビリティ」の考え、人々が独立していることではなく依存していることに価値を見出す障害学理論など、新しい考え方のいずれもが、動物に対しても適用することのできる考え方であるし、実際に動物に対して適用した理論家たちも存在する。しかし、左派の大半は、依然として動物に対する人間による暴力を無視している。

 

 左派が動物の問題を無視している理由の一つとして考えられるのが、人間を動物よりも特別視する一神教の考えを、意識的には否定していても、育った文化のために影響を受けてしまっている、ということである。もう一つの理由として、動物の権利の考えを実践しようとすると、肉料理や革靴を消費することを諦めるなど、自分自身の生活に不便で苦痛をもたらす変化を導入することになるから、そのような不都合を避けるために動物の権利の考えを無視してしまう、ということである。動物の権利に関係する文化的な影響や個人的な生活の影響は、同性愛者や障害者の権利に関係する影響よりも大きいものと思われる。左派といえども、人間を特別視する文化や自己利益には影響を受けてしまうのであるから、自分たちが主張している理論にもかかわらず動物の問題を無視してしまう。

 しかし、動物の権利を拒否する理由として、文化的影響や自己利益ではない、 左派ならではの理由も存在すると考えられる。それは、「動物の権利を擁護することは、その他の社会的弱者による闘争を侵害してしまうことに繋がる」という認識である。以下では、この認識が妥当であるかどうかを確かめ、左派が動物の権利を無視することを正当化する理由が本当に存在するのかどうかを議論しよう。

 

 

潜在的対立の原因

 

  アカデミズムの世界では、動物の権利に対して批判が存在してきた。例えば、社会学の中では、ゲイ/レズビアンスタディーズやラティーノスタディーズに 学問分野としての正当性を認めてきた社会学者であっても、アニマル・スタディーズには正当性を認めてこなかった。アニマル・スタディーズの研究者である アーノルド・アルクは、その他のマイノリティ・スタディーズの研究者がアニマル・スタディーズの正当性を認めないことについて、「大学の予算や、アカデミズム内での地位や存在感を巡って争うゼロサムゲームの敵役として警戒されている」「アニマル・スタディーズはその他のマイノリティ・スタディーズのパロディとして見なされており、マイノリティの闘争を貶めたり矮小化するものだと思われている」等の可能性を指摘している。「入れ替え/排除 (Displacement)」と「矮小化」が、左派が動物の権利を警戒する理由として考えられる。

 

 入れ替え/排除:左派が動物の権利の問題に時間や資源を投入すると、人種差別など他の問題についての闘争に費やされる時間や資源が失われる、という懸念。これは、他の多くの マイノリティの運動に対しても投げかけられてきた、ありがちな批判でもある。例えば、階級闘争をしている運動家は、女性差別や人種差別に反対する運動家に 対して、時間や資源を流用しているとして批判していた。

 しかし、現在の左派の多くは、社会正義を求める闘争はゼロサムゲームではないと見なしており、ある不正義を新しく取り上げることは、それまで取り上げられていた不正義を目立たなくさせるのではなく、正義一般の存在感を社会で目立たせることに繋がる、と考えている。また、多くの不正義は同じようなイデオロギーや構造に基づいて行われており、それぞれに繋がっているのだから、ある不正義を新しく取り上げることは、不正義全般と戦うのに有益である。他の運動を批判するのではなく、運動同士の共通点や交差点に注目して連帯するべきだ、というのが現在の左派の考えであり、動物の権利運動家は自分たちの考えを左派の考えの延長線上にあると見なしている。

 

 矮小化:左派の行動の対象に動物を含めることは、現在培われている正義を貶め、人間に対する不正義の深刻さを矮小化させる、という懸念。動物の「抑圧」や「奴隷化」について声を上げることは、人間に対する「抑圧」や「奴隷化」の深刻さを貶めてしまう、という考えである。

  この「矮小化」という懸念は、二つの種類に分けられる。一つ目の懸念は哲学的なものであり、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも実際に高いのだか ら、人間に対するそれと比べて重要性の低い動物に対する虐待や差別の問題と人間の問題を結び付けようとすることは、人間の問題の矮小化である、という考えである。しかし、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも高いという主張は、先述した理性中心主義やマルクス的な能力主義ユダヤ-キリスト教的な考えであ り、現在の左派には受け入れられるものではない。

 二つ目の懸念は哲学的なものではなく、社会正義の問題に動物の権利が関わるようになったときに起きるかもしれない事態に対する懸念である。動物の権利が社会的に受け入られるようになり、人間と動物との道徳的な境界が曖昧になると、抑圧された人や社会的弱者の権利の根拠が崩れしまうかもしれない、という考えである。社会的弱者が存在を認められる権利は、常に危険に晒されているからこそ、常に守 られていなければいけない。人間と動物を分け隔てる道徳的なヒエラルキーは、「人間であるから」という理由で社会的弱者の権利を認めさせることができるので、必要である。哲学的には擁護できない考えだとしても、人間の動物に対する優位を認めることは社会的弱者の権利を認めさせるのに最も有効な手段であるという主張は、多くの人が妥当だと考える。

 しかし、証拠は逆のことを示唆する。人間と動物とを分別すればするほど、移民などの外集団の人間 が非人間化されるのである。「人間は動物よりも優れている」という信念は「ある人間の集団は他の人間たちよりも優れている」という信念に繋がっている。そのことは心理学の研究でも実証されている。人間の心理的な機能の多くは、動物に対するネガティブな態度と外集団の非人間化を繋げさせる。逆に、動物の感情 や特徴を認められる人たちには、外集団の人間についても平等を認められる人が多い。人間と動物との地位の分断を抑えることは、人間集団間での偏見を減らして平等を促進することに繋がる。人間を特別視させるイデオロギーを批判することが社会的弱者の立場を弱めることに繋がる、という証拠はないのである。

  「入れ替え/排除」と「矮小化」のどちらの懸念も、実際に懸念されている事態が起きるかどうかは疑わしい。そして、懸念されている事態が起きるという証拠はないが、逆の証拠は存在する。これは、現代の左派が理論の前提としている、人間の価値についての考えと「不正義は相互に繋がっている」という考えから予測できることである。 正義・権力・抑圧・ケア・民主主義などについての左派の意見から動物を排除すべきだという考えは、左派の理論そのものと反しているのである。

 

文化帝国主義と人種偏見

 

 

 左派が動物に対する暴力に関心を示さない理由が「入れ替え/排除」と「矮小化」に対する懸念だけであったら、問題は簡単だ。しかし、懸念は他にも存在する。文化帝国主義と人種的特権である。動物の権利運動家の目的は力の無い弱者である動物を守ることだが、多くの人は動物の権利運動が白人・中産階級・西洋人の特権を強めて、マイノリティ集団と非西洋社会の力を弱めさせてスティグマ化させることを懸念している。動物に関わる問題が、白人/西洋文化を特別に人道的で文明化された存在だと位置付けて、マイノリティ/非西洋文化を野蛮で遅れた文化だと位置付けてしまい、人種ヒエラルキーを正当化してしまうことを懸念しているのである。

 

 西洋社会が動物を搾取する工場畜産などを発明して普及させた一方で、非西洋社会は西洋に比べて動物に尊厳を認めてきた歴史をふまえると、動物の扱いが西洋の優越を主張する根拠となる、という考えは一見すると奇妙に思える。例えば、現在のインドで動物虐待が増加しているとすれば、それは西洋の会社や西洋式のライフスタイルがインドに進出した結果であり、インド社会特有の宗教や文化的習慣によるものではない。動物に対する尊厳はある一つの人種や文化に属するものではないし、西洋独特のものではないことは明白である。

 しかし、動物に関する問題が人種的な問題になる危険性は存在する。歴史的に、支配的な集団はマイノリティや先住民集団に対して、その女性・子供・動物に対する取り扱いを"野蛮"で"遅れた"ものだと非難することで、権力を振るうことを正当化してきた。ウィリアム・ジェームズは1876年にアングロサクソンが動物に対して抱ける共感は名誉に値するものであると書いているし、当時の動物愛護運動がジェームズの書いたような主張と結びついて、「文明化した集団だけが他の集団を"人道的"に取り扱うことができる」として他人種に対する優越を主張する言説が生じた。

 

 同じような人種差別的構造は、動物の扱いをめぐる現代の議論にも存在する。動物への危害が公的な問題として取り扱われるときには、マイノリティの慣習が標的になることが多い。例として、「先住民によるアザラシ・クジラの狩猟」「ユダヤ教イスラム教によるコーシャーやハラールなどの屠殺方法」「サンフラシスコの中国系アメリカ人による動物マーケットや、中国レストランでのフカヒレスープの販売」「アフリカ系アメリカ人による闘犬」「韓国系アメリカ人による犬食」などがあげられる。マジョリティがマイノリティの動物に対する慣習を取り上げて批判するとき、それらの慣習が対象とする動物の数に比べて遥かに大量の家畜に対する虐待にマジョリティ自身が関わっているということが無視されがちである。動物の扱いを向上させたいからという意図であったとしても、人種的マイノリティによる慣習を取り上げて批判することは、昔から続く偏見を再生産することに繋がりかねないし、そもそもマイノリティの慣習が無かったとしても救われる動物の数は少ないのである。

 ただし、マイノリティによる慣習が取り上げられることが多いことについては、動物の権利団体のキャンペーンが原因だということはほとんど無い。PETA、ファーム・サンクチュアリ、動物解放戦線などの動物の権利団体は「人間には、人間の利益のために動物に危害を与える権利は無い」という原則を掲げており、動物に対する組織的・商業的な搾取に反対している。動物の権利団体が反対する対象は畜産、動物実験、毛皮、サーカス、動物園、パピーミル(子犬の悪質なブリーディング)などであり、これらの慣習は特にマイノリティと関連付けられている訳ではない。

 マイノリティの慣習は取り上げられがちなことは、動物の権利運動の結果ではなく、むしろ動物の権利運動が成果を収めていないことを示している。動物の権利の観点からすれば、犬を食べることも豚を食べることも、それらの動物の生命や自由の権利を奪っているという点で、等しく悪いことである。しかし、一般の人々は、「残虐な」「不必要な」危害を動物に加え無い限りは、人間には人間の利益のために動物に危害を与える権利があると考えている。しかし、どのような危害が「残虐・不必要な危害」であると見なすかは文化によって変わるからこそ、この考えは偏見へとつながる。「犬や馬を食べることは残虐であり、豚や牛を食べることは残虐ではない」「宗教的な儀式の生贄のために鶏を殺すことは残虐であるが、肉を食べる楽しみのために鶏を殺すことは残虐ではない」「狐狩りは残虐だが、狐の毛皮をとることは残虐ではない」これらの考えは、いずれも文化的な価値観が由来となっているものである。一般の人々がこれらの考えを主張してマイノリティを批判することは、動物の権利の考えが大衆に浸透していないということを表している。

 しかし、動物の権利団体にも、人種差別として批判されている点は存在する。動物の権利団体は家畜への苦しみを減らすためにビーガン(完全菜食主義)のライフスタイルになるべきだと主張しているが、ビーガンのライフスタイルは適切に努力すれば誰にでも実行可能だという考えは、個人間の文化的・経済的・人種的な環境の差を無視している。他者に対する抑圧の上で成り立っている特権的な階級である白人の価値観を強調しているという点で、動物の権利団体は白人主義的である(performing whiteness)と批判される。この点が、左派が動物の権利に対して道徳的な懸念を抱く理由である。北米の左派にとっては、白人主義的であることが何よりも重大な罪であり、進歩的な組織はいかなることであっても白人主義的であるとして批判されることが起こらないように苦心している。フェミニズム・ゲイ・障害者・反貧困運動は白人主義的であると批判された歴史があり、自分たちの運動に人種マイノリティを含めるために議論を重ねてきた。現在でも左派と人種マイノリティとの同盟関係は脆弱なものであり、この同盟を危険にさらす要素を左派は避けたがる。

 場合によっては、白人主義であることに対する左派の懸念は、動物の権利について考えることを避けるための単なる言い訳である場合がある。人種差別の再生産に反対する誠実で原理的な理由によって動物の問題を避ける左派もいるが、単に動物に対する暴力を無視し続けていてそれを正当化したいと思っている左派は「動物愛護運動は人種偏見や文化帝国主義につながる」という言い訳を好んで使う。誠実な信念にせよ、不誠実な言い訳にせよ、「動物愛護運動は白人主義的である」という考えは、動物の権利運動を左派から孤立させている。左派が動物の権利を主張するためには、白人主義・文化帝国主義だという懸念を解決する必要が有る。人種運動に関わる運動家や学者が抱いているような「動物の権利運動は、人種差別に対する闘争に興味がなくて無視している白人が行う、白人の特権を強化するための運動である」という考えを克服しなければならない。

 動物の権利を主張する人たちは、自分たちの運動が人種マイノリティに与える影響を認識していなければならない。しかし、人種差別改善を主張する人たちの方も、自分たちの運動が動物に与える影響を認識すべきである。

 

多文化主義的な動物の権利論へ

 

 文化帝国主義や人種偏見の間にも、いくつかのそれぞれ異なる動力があり、問題を解決するためにはそれらの違いを理解するべきである。

 一つは、動物の問題を文化帝国主義や人種差別のための道具として意図的に使用することである。例えば、マイノリティを攻撃するために動物の福祉を持ち出すことであり、具体例としては、動物に対して配慮を示したこともないような欧州の極右反イスラム団体がイスラムを攻撃するためにハラールを取り上げて残虐だと批判することである。このような場合、動物福祉は人間の間の不平等や不正義を正当化するのに利用されている。

 マイノリティ集団は、自分たちの動物に関する慣習に対する批判の全てを、マジョリティが差別を正当化するために偽善的なダブルスタンダードを唱えている、と認識することが多い。しかし、上述したように、動物の権利団体の主たる批判対象はマジョリティの慣習である。畜産や動物実験など、強力な企業や権力と結びついている慣習を批判しているために、動物の権利団体は嘲笑されて周辺化・犯罪化されている。動物の権利団体は、マイノリティによる慣習についてコメントを求められる際に、動物の問題を特定の文化や人種に対する差別に結びつけることを否定する。しかし、人種差別や文化差別の存在する現状では、動物の権利運動がマジョリティに利用され、マジョリティの慣習に対する批判を無視されてマイノリティの慣習に対する批判だけ取り上げられる危険性が常に存在する。動物の権利団体はこのような危険に備えていなければならない。

 ただし、マジョリティに利用されるという危険は、動物の権利に限ったものではない。動物の権利をマイノリティ差別に利用する右翼団体は、女性の権利・ゲイの権利・子供の権利もマイノリティ差別に利用してきた。女性の権利やゲイの権利に配慮を示してきた記録も無いような右翼団体が、イスラム系移民を差別するときには女性の権利やゲイの権利を持ち出すのである。しかし、女性の権利やゲイの権利が差別に利用された時にも、左派は女性の権利やゲイの権利についての主張を弱めたわけではなく、右翼団体や文化差別を批判しながら、権利の普遍性を改めて主張してきた。例えば、女性の権利を主張する人たちは女性の権利を主張するための道徳的な基盤は全ての社会に存在すると主張して、ある集団にはジェンダー平等が達成できるための文化的DNAが存在しているが別の集団にはそのような文化的DNAは存在していないという本質主義的な見方を否定してきた。また、左派は自分たちの運動の恣意性やダブルスタンダードを抑制するためのチェック・アンド・バランス機能を構築するようにしており、西洋主義やエリート主義を抑制して多種多様な人々の意見を包括するための継続的な努力がなされている。このような左派による努力の末、例えばフェミニズムにおいては、ポストコロニアルフェミニズムや多文化フェミニズムなどの新たなフェミニズムが誕生している。

 動物の権利についても、左派はポストコロニアルな動物の権利理論を主張することができる筈であるし、実際に多くの著者がポストコロニアルフェミニズムを参考にしながら動物への抑圧に対する反対と人間への抑圧に対する反対を結び付けるための議論を主張している。上述したように、ある権利の主張がある集団に対する差別や文化帝国主義に利用されるという危険は動物の権利に限らないし、他の権利と同じように動物の権利においても、文化帝国主義や人種差別の危険に対抗するための措置をとることができる。にもかかわらず、左派は動物の権利の問題に関わることを拒む。左派による人間の権利へのスタンスと動物の権利へのスタンスの非対称性を考えると、左派は単に動物の問題を重大な問題だとは見なしておらず、人間による動物に対する暴力に無関心であるのだと考えられる。

 動物の権利を無視するための根拠として文化帝国主義を持ち出すのは、理論的にも恣意的であるし、非生産的である。現状が維持されたままでは「"残虐"で"不必要な苦痛"はよくないが、それ以外の場合は動物を利用してもいい」という構造が残されて、動物に対しても多大な被害を与え続けるだけでなく、「"残虐"で”不必要”な苦痛を動物に与えている」として批判されるマイノリティに対する差別も残ってしまう。このような構造は法律において顕著であり、動物への残虐な処遇を禁止する法律は、畜産や動物実験などの慣習は「一般に受け入られているから」という理由で残虐ではないと定義して、マイノリティの慣習と個人による猟奇的な行為だけを禁止している。

 2008年のカリフォルニアの住民投票では仔牛・鶏・豚を対象とした「動物の残虐な扱いを予防する州法」が成立するなど、「残虐」や「不必要な苦痛」という言葉はマジョリティの慣習に対して向けられる場合もある。しかし、そもそも、人間による動物に対する暴力のほとんど全ては不必要である。人間は肉を食べなかったり毛皮を着なかったり動物園に行かなくても生きていける。現行の法律は、雌鶏を一生500㎠の檻で過ごさせるのは残虐だが、檻の大きさを750㎠にすると残虐でなくなるとしている。このような法律は、動物のためにあるというよりも、人間のマジョリティが残虐だと感じなくなる程度にだけ動物の状況を改善することで、マジョリティに安心感を与えて気分を良くするためのものである。

 法律の文章に「残虐」だと定義されている物事と比べると、実際の人々が「残虐」だと感じる物事の範囲は広く、時には、社会的に広く受け入られている慣習であっても抗議や批判の対象となることはある。しかし、「残虐」だという批判はマジョリティの不快感に基づいているのだから、マジョリティにとって物珍しく見慣れていないマイノリティによる慣習の方がより多くの不快感をマジョリティに引き起こすので、批判の対象になりやすい。結局、マジョリティが動物に与える苦痛は「必要な苦痛」だがマイノリティが動物に与える苦痛は「不必要な苦痛」である、ということになってしまうのである。

 人種間や文化間のヒエラルキーを問題だと思うなら、動物虐待防止に関する法律や規範に潜む上述したような構造も問題にするべきである。しかし、左派はこの問題について何も反応してこなかった。動物の権利を主張することは人種偏見に繋がると考える左派は動物に対する抑圧について沈黙を続けるのだが、沈黙を続けることは動物虐待防止に関する法律や政治が引き起こする文化偏見を永続させることにつながってしまうのだ。

 

 動物の権利の考えは、マイノリティとマジョリティの両方に対して、動物の取り扱いに倫理的な正当性を要求することである。明らかに、マジョリティ同様にマイノリティもこの考えを拒みたがっている。北米における動物の権利に関する論争では、マジョリティもマイノリティも、自分たちの動物の取り扱いは倫理的に正当であると示そうとすることすらしない。「不必要な苦痛」の言説は、マジョリティが自分たちの慣習を倫理的に審査することから免れさせているだけでなく、マイノリティに言い訳を与えてもいる。批判を受けたマイノリティは、自分たちによる動物の取り扱いには倫理的な正当性があると示すのではなく、マジョリティの慣習の方がより悪質なのだから自分たちの慣習だけ取り上げて批判するのは恣意的なダブルスタンダードだ、と指摘することで反論する。マイノリティとその擁護者は、自分たちに対するマジョリティによる権力の行使に目を向けることで、動物たちに対する自分たちによる権力の行使から目を逸らす。この文脈では、多文化主義帝国主義的な機能を担ってしまうのである。

 マジョリティとマイノリティの両方による動物に対する権力の行使を批判するためには、私たちが多文化的動物政治空間(Multicultural Zoopolis)と呼ぶ、ポストコロニアルで人種非差別的な動物の権利論を主張しなければならない。動物に対する搾取は現代の社会に根付いている以上、多文化主義的な動物の権利論はマジョリティにとってもマイノリティにとっても心地よくないものとなるだろう。しかし、マイノリティの慣習を批判することは、必ずしも(少なくとも、左派が提唱しているような)多文化主義と相反するわけではない。コミュニティには自分たち文化や伝統を維持し再生産する権利があり、それらの文化や伝統は批判や倫理的な審査からは免除される、と主張する保守的・コミュニタリアン的な多文化主義については、多文化主義的な動物の権利論とは相反するだろう。しかし、このような多文化主義は強制的な結婚や名誉殺人などの慣習を維持する権利も認めてしまうものであり、左派によって支持されたことは一度も無い。左派は流動的(transformative)な多文化主義を支持しているのであり、それは社会正義や人権・市民権の考え方に根付いており、主流集団の特権もマイノリティのスティグマ化も批判するものである。進歩的な多文化主義の考えは、権力の行使に道徳的な説明責任を求める。このような多文化主義と動物の権利論は、相反するのではなく、正義や道徳的な説明責任への深いコミットメントという根源を同じくするものである。人間の権利についても動物の権利についても、道具化や文化帝国主義の危険を避けることはできる。ポストコロニアル多文化主義的な動物の権利論は、マジョリティに対してもマイノリティに対しても、自分たちの動物に対する慣習を大幅に変革することを要求するのであり、だからこそ多文化主義的なのである。

 

 また、多文化主義的な動物の権利論は、現行の「残虐」や「不必要な苦痛」の考えよりも、文化間の相互理解に開かれている。動物の権利論はマジョリティの慣習を非合法であると見なし、人間と動物の関係を考えるための新しい枠組みを求める。西洋社会は動物を所有物と定義し続けてきて、現在の動物に関する議論も「家畜」や「ペット」など動物を所有物と見なす枠組みに影響を受けている。人間と動物の関係を考えるためには、「所有物」ではない全く別の新しいカテゴリーが必要なのであり、非西洋社会はこのような考えの宝庫である。また、動物に対する搾取を終わらせたいという願望は、白人だけが抱いているわけではない。世界を見ると菜食主義者の大半は白人ではないし、北米に限っても、菜食主義の支持者に有意な人種差や民族差は存在しない。むしろ、白人の方が他の人種よりも菜食主義に賛成していない。いずれにせよ、動物の権利論の考え方や動物の権利への賛意は、ヨーロッパや北米の白人からも、マイノリティや非西洋社会からももたらされるものなのだ。

 擁護に価する全ての多文化主義の考え方がそうであるように、多文化主義的な動物の権利論も、マジョリティの慣習を脱中心化・脱神聖化して、多文化間の交流への道を開き、進歩的な主張の道具化を防ぎ、倫理的な説明責任から免れている特権や権力の行使を白日の下に晒す。このような動物の権利論は、左派による規範的・方法的なコミットメントから自然に発生するものである。人間による動物への暴力を左派が無視し続けることについて、正当な根拠を見出すことはもはや難しい。