道徳的動物日記

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イデオロギーは社会学の知見をいかに妨げたか by クリス・マーティン

 社会学クリス・マーティンの論文「イデオロギー社会学の知見をいかに妨げたか」の、著者本人による要約である。

 原文はこちら。参考文献は省略している。

How Ideology Has Hindered Sociological Insight, summarized | HeterodoxAcademy.org

 

 イデオロギー社会学の知見をいかに妨げたか by クリス・マーティン

 

 今年、私は社会学イデオロギー的同質性のために直面している問題について論文を発表した。論文はアメリカン・ソシオロジスト紙でも読めるし、無料でダウンロードもできる。*1以下は、論文で私が論じたことについての要約である。

 

 まず、人々がイデオロギーを持つのは、人々がそれぞれに特定の種類の道徳的危害に懸念を抱いているからである。

 

イデオロギー」という言葉の完全な定義は存在しないものの、イデオロギーの典型とは、特定の価値への違反に対する制度的な警戒のことである。多くの場合、イデオロギーを抱いている人は道徳的進歩の機会についても警戒しているが、タブーの保持を優先する。例えば、フェミニズムは女性に対する不正な取り扱いを警戒するイデオロギーであり、環境主義は環境的な危害を警戒するイデオロギーであり、ファシズムは「適切な」政治的・経済的ヒエラルキーの崩壊を警戒するイデオロギーである、などなど。

 

 

 

 道徳的な危害は、実際に起こっている。私は、哲学者のバス・ヴァン・ダー・ローゼンとは違って、大学教授たちは自分たち自身をイデオロギーから引き離すべきである、とは主張しない。*2しかし、社会科学や行動科学を研究する教授たちの間にイデオロギーの多様性が存在しない時には、問題のある結果が起こることになる。各学問分野の科学的進歩は、妨害されることになるだろう。

 イデオロギー的な同質性が学問の停滞を起こすことには、3つの道筋がある。一つ目は、同じイデオロギーを持っている人たちは同じタブーを共有している、ということだ。

 

社会科学において共有されているタブーとは、場合によっては「被害者」にも非難される謂れがあるということ、性別間や人種間には生物学的に違いがあるということ、社会的な信念は構築的なものではなく生得的なものであるということ、ある集団に対するステレオタイプは時にはその集団の平均的な特徴と合致しているということ、などである(私は「ステレオタイプ」という言葉を、ある人に対してその人が属する社会的集団に基づいて抱く信念、という意味で使っている。私は「ステレオタイプ」を不正確な信念や不公平な信念に限定している訳ではない)。これらのタブーを抱いている人たちは、自己決定と個人の尊厳についての懸念を共有している。ある人の生物学的な属性や社会的な身分は、抑圧的な鎖と解釈されて、個々人はその鎖から解放されるべきであると解釈される。抑圧的な鎖は、個々人の尊厳と自己決定の権利に対する侮辱であると見なされるのだ。人間には自律や自己決定が可能であると見なされることは実際に人々の利益となるので、このような考えは道徳的には賞賛に値するものではある。しかし、ある社会学的な主張が人間には自律や自己決定が可能であるいう認識を増強するとしても、その主張は事実として間違っている場合がある。

 

 この件は、リー・ジュシムが書いたように、ステレオタイプの研究において深刻な問題となっている。*3

 

 第二に、イデオロギーに傾いている人々は自分の立場を支持する証拠を集めたり思い出したりする傾向が強くなるために、科学的な結論を導くためのデータが限定されることにつながる。例えば、白人の特権という問題について考えてみよう。アメリカにおいて、アフリカ系アメリカ人ではなく白人であることで与えられる特権が一部存在することには、疑いの余地はない。しかし、白人の特権という考えは、社会にはヒエラルキーが存在して白人がその頂点にいる、と人々に信じさせるまでに至ってしまった。人々はこの考えに合致する証拠ばかり集めるようになり、不都合な事実は無視するようになった。

 

不都合な事実は、数多く存在する。黒人(とアジア系)は白人よりも精神的に健康であるが、このことは黒人ー白人パラドックスと名付けられている。ヒスパニック系は白人よりも身体的に健康であり死亡率も低いが、このことはヒスパニック・パラドックスとして知られている。アジア系は白人よりも平均教育レベルが高いが、このことにはまだ名前は付いていない。健全な理論には本来パラドックスが存在しないことを考えると、これらの現象に「反証」という単語ではなく「パラドックス」という単語が使われていることは示唆的である。他の事例では、明白なランキングを作ることはできない。家計収入の中央値はアジア系が最も高いが、純財産の中央値は白人が最も高い。黒人の男性は、とても魅力的であると見なされるが、とても危険であるとも見なされる。ヘイトクライムの被害者になるリスクは黒人が一番高いが、ヘイトクライムを犯す一人当たりの確率も黒人が一番高い。一方で、アジア系とユダヤ系はヘイトクライムの被害者になることはあっても加害者になることはほとんど無い。このことはアジア系とユダヤ系を人種的ヒエラルキーの最底辺に置きそうなものだが、教育と収入の観点からするとアジア系とユダヤ系は人種的ヒエラルキーの頂点に位置している。

 

 私が知る限りでは、この一貫性の欠如を指摘した社会学者はアーサー・サカモトだけである。*4サカモトによると、白人の特権や人種が強調され続けている理由は、大学教授たちの多くは中流階級か上流階級であるために、階級について学問的な議論を行うことを避ける欲求が大学教授たちに存在しているからである。ただし、私はこの意見には賛同しない。

 

 第三に、イデオロギーを共有しない集団への共感的な理解が限定される、という問題が存在する。保守もリベラルも、お互いを理解するということについてはかなりヘタクソである。どちらも、反対のイデオロギーを持つ人を理解する代わりに戯画化する傾向がある。学問界におけるリベラルの事例は以下の通りである。

 

事実に基づいて理解するのではなく、仮定に基づいて理解することは、社会学社会心理学の文献にも見受けられる。複数の学者が、保守とは現状維持を優先し不平等を放置することを選好する人々のことである、と定義している。しかし、実際には保守の人々は現状維持という観点からは物事を考えていないかもしれないし、保守が現状維持を直接的に選好していることを証明するとされている証拠は疑わしいものかもしれない。保守は権威を尊重しているのであり、彼らの現状維持への尊重は先行世代が作った社会規範への尊重から派生しているのであり、現状維持そのものへの尊重ではない可能性が高い。同様に、保守が不平等に無関心であるということを示す証拠はほとんどない。保守は不平等に無関心なのではなく、財産や社会的サービスを、それを自分で稼いだ訳ではない人々から没収することを選好しているのである。不平等に自分たち自身も苦しんでいる人が不平等に寛容である理由を推論するには、彼ら自身の観点から考えることを行わなくてはならない……(中略)

社会的な問題を示す単語として「現状維持」を選択するのも、手前味噌なことである。アメリカのリベラルも、多くの点で現状維持を支持している。権利章典、政治家たちを選ぶために民主的な選挙を行うこと、公立学校や公立図書館の供給、貧困者や高齢者に医療の助成を提供すること、などだ。「現状維持」という単語が論文で使われるときには、実際には現状維持のなかでも論文の著者が問題だと思っている点についてだけが示されている。しかし、現状維持のなかで自分が問題と思っている点があるなら、それをはっきり名指しすればいいだけなのだ。このことは、全ての人が現状維持に反対している、ということを意味しているのだろうか?むしろ、ある人が自分は「現状維持」に反対していると主張することは、自分は社会変革の主体であるというイメージを喧伝しようとしていることであるように思える。右翼団体ティー・パーティーの参加者たちは自分たちは現状維持に反対していると主張しているが、これも驚くべきことではない。

 

 現代は政治的分極化の時代であり、学者たちは自分たちと反対意見を持つ人たちからあまり距離をとり過ぎないようにする特別な義務を負っている。これは、反対意見を持つ人たちの価値観に共感を持たなくてはいけない義務があるという意味ではなく、反対意見を持つ人たちについて正確に認識する義務がある、ということだ。

 

 以下は、私が提案する解決策である。

 

私は、より包括的な選択肢を主張したいと思う。主要なイデオロギーの全てについて、それらのイデオロギーを持っている人たちが社会学の営みのなかで代表されることを保証して、社会学をより公共的にするのだ。そのような多様性はすぐには達成されないものであるが、自分たちとは違うイデオロギーを持っている人たちを自分たちの学問分野に引き入れるという政策を制定することで、社会学者たちは第一歩を踏み出せる。このような政策は、社会学の科学をより大きな公共的集団とつなげるだけでなく、イデオロギー的なバイアスを減らして社会学の科学を進歩させるだろう。