道徳的動物日記

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「科学から政治的活動へと変貌させられる人類学」by グリン・カストレッド

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 今回は、カリフォルニア州立大学イーストベイ校の人類学者グリン・カストレッド(Glynn Custred)による記事「Turning Anthropology from Science into Political Activism(社会科学から政治的活動に変貌させられる人類学)」を紹介する。カストレッドは、言語人類学やフォークロアを専門に研究している人類学者であるようだ。

 

 

「科学から政治的活動へと変貌させられる人類学」by グリン・カストレッド

 

 

 1960年代から、アカデミアの内部では学術的な研究を社会変革の道具に変えてしまうことを目的とした運動が続いている。マルクス主義・フェミニズム・西洋文明全般に対するトレンディな反感といった、知的にファッショナブルな考えがこの運動を引き起こしていた。やがて、この運動は人文学を占拠して社会科学にも深刻な影響を及ぼすようになってしまった。

 私の専門分野である人類学の領域では、この運動の影響力は場合によって違う。人類学には4つの下位分野があり、研究の対象となる範囲は自然科学から社会科学や人文学にまで及んでいるからだ。下位分野のうち3つ(考古学、自然人類学、言語人類学)は、人類学を政治的正しさの植民地にしようとする運動にもほとんど影響を受けずに済んでいる。

 しかし、4つの下位分野のなかでも最大の分野である社会-文化人類学(世界中の様々な社会と文化を研究する学問)は、かなり歪められてしまっている。社会-文化人類学は、科学から政治的イデオロギーの道具に変えられてしまったのだ。

 まことに露骨な事例が2010年に起こっている。人類学の専門職団体のなかでも主要な団体であるアメリカ人類学会(American Anthropological Association)の執行委員会が、団体の綱領(mission statement)やその他の公式声明から「科学(science)」という単語を取り除いたのだ*1。それ以来、AAAは巷で流行っている問題にばかり注目するようになった。環境、暴力、気候変動、人種、その他色々。

 現在のAAAは、事実を理解して説明することよりも「問題を解決する」ことを求めている。AAAの内部にはラディカルな政治的意見を反映した部門が新しく設立された。 フェミニスト人類学会やクィア人類学会などの内部団体であり、いずれもかなり政治的な団体だ。AAAの委員会は政治的問題に対してかなりの労力を費やしており、「世界的な気候変動についての特別委員会」や「人種とレイシズムについての特別委員会」などの特別委員会を設立している。

 人類学が政治的になる要素の一つが、西洋の植民地主義時代の過去だ。活動家である人類学者にとっては、植民地主義時代に西洋が領土を拡大したことは歴史の単なる一局面とは見なせない。帝国の周期的な登場という、文明が誕生した時から続いている現象と多くの面で似通っている現象だとは見なせないのだ。そうではなく、改心を誓わなければならない永久に続く罪であると見なされているのである。

 活動家である人類学者の一人はカリフォルニア大学バークレー校のナンシー・シェパー=ヒューズだ。人類学を学術的なディシプリンから「裁判的な(forensic)」人類学と彼女自身が呼ぶものに再定義したとして、しばしば言及される人物である*2

「裁判的な人類学」という言葉でヒューズが意味しているのは、人類学は客観的な科学的分析ではなく政治的な活動になるべきだということだ。それも、過去の人類学者たちが行った「犯罪」に注目した活動である。

 ヒューズによると、人類学者たちは事実の客観的な観察者であろうとすることを止めるべきである。その代わりに、研究対象である人々に対して行われてきた「不正を明らかにする証人」となるべきなのだ。

 ヒューズの主張は「高貴な野蛮人」の神話から連続しているものだ。ジャン・ジャック・ルソーが表現したことで有名な、18世紀に西洋のエリートたちの間に広まっていた神話である。原初状態の自然は平和と調和にあふれていて生態系のバランスも完璧であった、という物語だ。太古の楽園、エデンの園がこの世にあったのだとされる。そのため、「高貴な野蛮人」の神話からすると、人類学者たちによって報告されている、競争・闘争・社会の不調和・戦争が世界中の原住民たちの間で起こっていることがあまりにも頻繁に見受けられるという事実は、西洋文明の包括的で破壊的な力が原因となって起こされているのだということでなければならないのだ。

「高貴な野蛮人」の神話を維持して拡散するために、活動家たちは不都合な事実を伝えている人類学的研究を抹殺しようとしてきた。それらの研究を否認するか、研究を報告した人物を中傷するという方法によってである。

「高貴な野蛮人」の神話と矛盾している膨大な数の証拠が存在していることを記録は示している。資源をめぐる競争が虐殺という結果を引き起こした事例が過去から存在していたこと、襲撃・戦争・男性と女性と子供の虐殺・奴隷制・カニバリズムやその他色々の事件がおびただしい数で起こっていたこと。これらの事件のいずれも、想像上の高貴な野蛮人の楽園に侵入した邪悪な西洋によって持ち込まれたのではない。最初期から人類に普及していた特徴なのだ。しかし、活動家たちは人類の暴力性に関する研究を停止したがっているし、既になされた研究の記録も抹消したがっている。彼らにとっては、自分たちの政治的目標の方が重要なのだ。

 また、人間の行動はどの程度までが遺伝に基づいており、純粋に養育や歴史的な要因に基づいている行動はどれ程なのか、ということも論争の的になっている。昔ながらの「生まれか育ちか」論争だ。この問題は複雑であるし、人種的ステレオタイプの「科学的な」正当化を避けるためにも、慎重な分析や主張に対する厳密な検証が行われるべきだ。過去には科学的な概念がイデオロギー的・経済的・政治的目的のためにどれ程歪められてきたかということを、私たちは知っている訳だから。

 活動家の人類学者たちが行っていることは、人間の行動が生物学的な要素に関連している可能性の研究を放置することや、そのような主張を厳密な審査にかけることではない。人間の行動が生物学的な要素に関連している可能性に関する言及は、主張の程度に関わらず全てが異端的であり根絶させられなければならない、と活動家の人類学者たちは考えているのだ。

 上記の問題についての有名な事例は、ミズーリ大学の人類学者ナポレオン・シャグノンへの、政治的団体になったAAAによる卑劣な対応だろう。シャグノンは、アマゾンのジャングルの奥地に暮らす部族であるヤノマモ族の長期的な研究で知られている。ヤノマモ族のように外部との交流が非常に少ない社会は、シャグノンが彼らと初めて接触を行った時にはほとんど消滅していた。シャグノンはヤノマモ族と共に暮らして、彼らの石器時代的な生活の様式について詳細に報告する機会を得たのだ。

 シャグノンは、ヤノマモ族に特有の戦争のパターンを観察して報告した。資源を求める競争が戦争のパターンを説明する場合があるが、現地では資源を求める競争は存在していなかった。また、ヤノマモ族の暮らす世界は非常に限られているので、外部からの影響も戦争のパターンを説明しなかった。自分自身の観察とヤノマモ族の住民たちからの証言に基づいて、女性を獲得することと過去に行われた襲撃に対する報復こそがヤノマモ族が戦争を行う理由である、とシャグノンは主張した。

 活動家たちにとっては、シャグノンの調査結果は異端であった。シャグノンは「高貴な野蛮人の神話」を否定しただけでなく、暴力が生物学的な要因に基づいているかもしれないという考えを真剣に取り上げてしまったのだ。自分自身の専門的な業績のために、シャグノンの信用は傷つけられてしまった。

 事件の始まりは1976年のAAAの会合までに遡る。会合にてシャグノンは中傷されて、「レイシズム」や「ナチス」などの言葉で非難された…左派が議論を打ち切ろうとする時にいつも使う言葉である。後の会合では、シャグノンは先住民たちの間の戦争について「嘘をついた」のだと活動家たちが言い出した。本を書いたりドキュメンタリーを撮ったりする題材を得るために、シャグノンはヤノマモ族に報酬を払って殺人を行ってもらったのだと言ったのだ。また、シャグノンは優生学を奉じておりジョセフ・マッカーシーの政治的意見を支持しているのだ、と活動家は言った。

 シャグノンに対する野蛮で扇情的な非難の根拠は、ジャーナリストの書いたたった一冊の本だけであった。しかし、活動家たちに屈服したAAAはシャグノンの疑惑に関する特別委員会を設けた。2002年に設立された特別委員会は、2005年になってようやくシャグノンに対する疑惑を否定した。委員長はジャーナリストの本が「いかがわしい代物」であったことを認めたが、もしAAAがシャグノンに対して何も対応をしなかったら「臆病である」ように思われていただろうと言ったのだった。

 この事件は、2013年にシャグノンが著書『Noble Savages: My Life Among Two Dangerous Tribes: The Yanomamo and the Anthropologists(高貴な野蛮人:二つの危険な部族と私の人生:ヤノマモ族と人類学者たち)』を出版するまでは、おおよそ忘れられていた*3。専門職としての人類学の凋落を明らかに示したスペクタクルな出来事であったのにも関わらず、事件はたった一つの公文書にしか記録されていなかったのだ。

 だが、人類学にも希望は残っている。素晴らしくもHeterodox Academyのホームページで発展しているような知的エネルギーを生き返らせるための処方箋を、他の社会科学と共に人類学も受け取ることになるだろう、と私は楽観的に考えている*4。人類学の下位分野のなかでも、エビデンスに基づいた分野…自然人類学と考古学、また言語人類学の大部分…は、以前から変質せずに続いている。AAAの内部団体である科学的人類学協会も、伝統的な科学的手法を継続しているのだ。

 また、そもそも科学を成り立たせる基本的な設問を無視し続けている社会-文化人類学が、自己利益と空虚さに占められた狭まり続ける領域へと更に引きこもるにつれて、闘争的で政治的な人類学の派閥もやがては力尽きてしまう可能性もあるかもしれない。

 トレンドに目敏くて洒落た方法でトレンドを持ち出すことにも定評のあるウディ・アレンは、最近の監督映画『ブルージャスミン』で、サンフランシスコに向かう飛行機の中で主人公に彼女自身についてのセリフを言わせている。主人公の当てにならなさ(flakiness)を強調するために、誰に向けたわけでもない独白のなかで、自分の専攻は人類学だと彼女に言わせているのだ。

 

 

 

 

*1:※この話題については先日に私が訳した記事も参照

「科学はお断り。私たちは人類学者だ」by アリス・ドレガー - 道徳的動物日記

*2:たとえば、『Current Anthropology』1995年6月号に発表された彼女の評論、「The Primacy of the Ethical: Propositions for a Militant Anthropology(倫理の優先:闘争的な人類学のための試案)」を参照

http://www.unl.edu/rhames/courses/current/hughes.pdf

※PDF

*3:

 

Noble Savages

Noble Savages

 

 

*4:

heterodoxacademy.org

※ Heterodox Academyは「学問(特に社会科学)における視点の多様性を増加させる」ことを目的とした、主に社会科学者や心理学者たちによる団体。基本的には、社会科学で主流となっている左派・リベラルな意見に対して、保守的であったり非リベラルな意見を展開している。Heterodox Academyのホームページに掲載されている記事は、過去にもいくつか訳している。

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