道徳的動物日記

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「文明が登場する以前の戦争」 by ピーター・ターチン

 

evolution-institute.org

 

 今回紹介するのは、進化生物学者・心理学者・人類学者たちなどが集まって進化に関する様々な記事を掲載しているサイトであるEvolution Institueに掲載された、ピーター・ターチン(Peter Turchin)の「文明が登場する前の戦争(War Before Civilization)」という記事。ターチンはコネチカット大学で生物学や人類学を研究する教授であり、戦争の歴史に関する著書を複数出版しているようだ。

 

 

Ultrasociety: How 10,000 Years of War Made Humans the Greatest Cooperators on Earth (English Edition)

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War and Peace and War: The Rise and Fall of Empires

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国家興亡の方程式 歴史に対する数学的アプローチ

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「文明が登場する以前の戦争」 by ピーター・ターチン

 

 最近私が読んでいる本は、歴史家のバーナード・ベイリンの著書『The Barbarous Years(野蛮な時代)』だ*1。ベイリンは17世紀の北アメリカにおけるかなりぞっとするような状況を描き出している。私たちのもとにある歴史的資料はヨーロッパ人が関係している虐殺や非道行為に関するものが特に多いが、ヨーロッパ人は虐殺の加害者になる時と同じくらい頻繁に被害者にもなっていた。無慈悲で残酷な戦争は、アメリカ先住民たちの社会の間でも同じくらい普及していたのだ。

 狩猟のために遠出している男たちは待ち伏せされて殺されてしまい、果物や木の実を採集するために居留地を離れる女性たちも自身を危険に晒していた。時たまに、村の隅々までが大きな戦禍に晒されて荒廃させられることがあった。多くの村は防御壁によって守られていたのにも関わらずにだ。

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フロリダにあった先住民の町は、防御柵と吹き藁の屋根が付いた家々を示している。上述の画像は、1564年に新世界に到着したジャック・ル・モワン・デュ・モルガスが描いた絵画に基づいて、1591年にテオドール・デュ・ブリーが彫った版画である。*2

 

 戦争の勝者は貯蔵されていた食物を略奪し、作物を破壊して家々を焼いて、生き残った人々を処刑したり損傷を与えたり攫ったりした。負けた部族の女性と子供たちは勝利した方の部族に連れて行かれることが多かったが、戦士たちは多くの場合は拷問されて殺された。

 

多くの場合、捕虜たちは身体に損傷を与えられた。次に戦争が起こっても参加できないようにするために、指は切り落とされるか噛み切られた。背中や肩を刃物で傷つけられて、計画的な拷問で責められた。女性たちが捕虜の身体を斬りつけて肉を削ぎ落としていった。固定されて動けない捕虜の身体の中でも最も敏感な場所に、子供たちが赤く焼けた石炭を押し付けた。最終的には、彼らは腹を割かれた後に焼かれて殺されることが最も多かった。彼らの身体の一部は食べられてしまい、彼らの血は祝祭として拷問者たちに飲まれてしまった。

 

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 ジャック・ル・モワン・デュ・モルガスによる、カニバリズムの絵画*3

 

 危険と戦争の存在、突発的な死(さらに悪いことに、苦痛に満ちていて屈辱的な死)の脅威が絶えず続いていることは、「文明」…政府・官僚・警察・判事と法廷・複雑な経済・労働の複雑な分業を伴った大規模な国家…が登場する前の人間社会にとっては、典型的な状況であったのだ。

 一部の人類学者たちは、文明的な国家や帝国が登場する以前の小規模な部族社会における人間の生活を知るために、歴史的に知られているアメリカ先住民の社会を鏡とすることを拒否する。病原菌・金属製の道具・武器・特定の交易物(毛皮など)に対する飽くことなき強欲を伴ったヨーロッパ人たちがアメリカ大陸を訪れたために、先住民たちの社会は不安定になり部族同士の戦争の激しさと致死性を増したのだ、と人類学者たちは主張する。彼らの議論にも一理はある。一般的に、戦争の激しさは地域や時代によって非常に違うものである。とはいえ、小規模な部族社会における人間の生活は大半の人々が想像しているよりもはるかに不安定で暴力的であったのだ。

 歴史が登場する前の人間の生活について、近年の考古学は数十年前に比べて遥かに多くのことを伝えてくれるようになった。だから、小規模な部族社会の不安定さや暴力性も知ることができるのだ。例えば、700年前(つまり、コロンブスアメリカ大陸に到着する200年前)にイリノイ川に住んでいたオネオタ・インディアンの村について考えてみよう。考古学者たちはその村の墓地があった場所を特定して(ノリス・ファームス#36として知られる場所だ)、墓地に埋葬された264人の遺骸を調べた。少なくとも、264人のうち43人(16%)が暴力的な死に方をしていた。ジョージ・ミルナーは以下のように記している。

 遺骸のうちの多くが、石斧のような重たい武器によって正面・側面・背面に打撃を与えられていたか、弓矢に射たれていた。一部の人々は明らかに加害者を直面しながら死んでいったが、別の人々はそうではない。後者の人々は、自由になろうと逃走している時に攻撃されたのだろうと推測できる。時折、被害者は死をもたらされるのに十分な回数を遥かに超えた回数攻撃されていた。おそらく、一人を殺すために複数の戦士が共同して彼を攻撃したのだ。しばしば、死体からは頭皮・頭部・四肢が切除されていた。死体は殺されたその場に放置されて、動物たちによって食べられてしまった。その後で、残っていた部分が仲間によって発見されて、村の墓地に埋葬されたのだ。

 

 このような死に方は、戦争が絶えず続いていたことを示唆するものである。狩猟や採集に出かけた男や女たちは、個人や小グループを標的とした待ち伏せに晒されていたのだ。また、オネオタ村の状況はヨーロッパ人たちによって発見された後のインディアンたちの村の状況と非常に似通っていた。先述したように、一般的な暴力の程度はコロンブス到着後の時代にかなり顕著に上昇したのにも関わらずにだ。

 オネオタ村の墓地において暴力によって死んだと推定される人々の割合は16%であるが、この数字は先史時代の人々の暴力による死に関する他の推定でも平均的な数字である。先史時代の人々の生活が一律して恐ろしく残酷であった訳ではない。小規模な社会に暮らしていた人々にも、平和や繁栄を謳歌できる時期があった。しかし、別の時期には、オネオタ村の人々が耐えなければならなかった戦争よりもさらにひどい戦争が起こってもいたのだ。オネオタに居留地があったのと大体同じ時代、オネオタ村から北西の方向に数百マイル離れたところにあるサウス・ダコタのクロウ・クリークは、先史時代における虐殺が起こった場所の中でも特に有名だ。クロウ・クリークは堀によって堅固に守られた村であったのだが、それにも関わらず、敵によって侵略が行われて完膚なきまでに破壊されてしまった。

 

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ジャック・ル・モワン・デュ・モルガス、火矢によるインディアンの村に対する攻撃*4

 

 およそ500人分の頭蓋骨が一つの墓に積み重ねられた。暴力的な死と、死体に対する大々的な損傷が行われたことの証拠である。ほとんど全ての死体から頭皮が剥がされいて、多くの死体は首か四肢が切り落とされていた。そして、一部の死体からは舌が切り落とされていた。

 

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 ジャック・ル・モワン・デュ・モルガス、インディアンたちは敵の死体をどのように取り扱ったか*5

 

注:言うまでもないことだが、このブログ記事のタイトルは、ローレンス・キーリーによる先駆的な著書の題名に由来している。

 

 

War Before Civilization

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