道徳的動物日記

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広島・長崎への原爆投下の是非についての、マイケル・シャーマーの議論

 

 オバマ大統領が広島を訪問することや、そこで「謝罪」はしないであろうことの是非を巡って議論が起きているようだ。

 

 最近読んでいたマイケル・シャーマーの『Moral Arc』のなかで、「ファットマンの道徳、リトルボーイをめぐる論争」という題の、広島・長崎への原爆投下の是非が論じられている節があった。『Moral Arc』は科学や理性の発達が人類の道徳にもたらす影響について論じた本であり、基本的に楽観的・進歩主義的な主張をしており、核戦争を防ぐ手段や世界の非核化を導く道筋について論じている説もある。その部分も興味深いのだが、広島・長崎への原爆投下について肯定的な主張が日本で論じられることは少ないので、参考として紹介しておく。

 該当の説は、原著のハードカバーでは71ページから74ページに掲載されている。Google Booksなどでも参照できるだろう。

 

 

The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity Toward Truth, Justice, and Freedom

The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity Toward Truth, Justice, and Freedom

 

 

 

 

 

 シャーマーは、広島と長崎への原爆投下が「非道徳的、違法、人類に対する罪でさえある」と主張する議論を取り上げている。具体的には、1946年のアメリカ教会連合の「戦争に関して原則としてどのような判断をするかに関わらず、広島と長崎に対する驚くべき爆撃は道徳的に擁護不可能である」という声明、1967年の言語学者ノーム・チョムスキーの「(原爆投下は)歴史上で最も酷い犯罪だ」という発言、歴史学者のダニエル・ゴールドハーゲンが著書『Worse Than War』で展開しているハリー・トルーマン大統領に対する批判などが引用されている*1

 シャーマーは特にゴールドハーゲンの議論を取り上げて反論している。ゴールドハーゲンは原爆投下は大量殺人でありジェノサイドであると著書の中で主張している訳だが、大量殺人を行ったという1点だけでトルーマンアドルフ・ヒトラー、ヨゼフ・スターリン毛沢東ポル・ポトなどと同一視するのは間違っている、とシャーマーは主張する。ゴールドハーゲンは「ジェノサイドの種類・度合い・動機の違いを識別することを妨げるカテゴリな的思考に束縛されている」のであり、そもそもゴールドハーゲンの用法では全ての大量殺人がジェノサイドと見なされることになり、殺人について考察するときに「ジェノサイドである大量殺人」と「大量ではないのでジェノサイドではない殺人」の二つのカテゴリを使って考えることしかできなくなってしまう。カテゴリ的な思考(categorical thinking)ではなく連続的な思考(continuous thinking)を用いて、各種の大量殺人の種類・動機・数量を区別しながら考えるべきである、とシャーマーは主張する。

 広島と長崎の原爆投下がジェノサイドであるかどうかという論点については、哲学者のスティーブン・カッツによるジェノサイドの定義「実際にどれほど成功するかどうかに関わらず、ある国籍・民族・人種・宗教・政治・社会・ジェンダー・経済グループを完全に殺害しようとする意図を実行すること」が持ち出される。そして、トルーマンは日本人を抹殺することを目的として原爆を投下した訳ではないのだから、ジェノサイドには当てはまらない(なので、ヒトラーポル・ポトなど実際にジェノサイドを行った為政者たちと同一視するのは筋違いである)、とシャーマーは論じる。仮にトルーマンの目標が日本人の抹殺であったなら、戦争終結後にアメリカが日本を経済的に支援して復興を助ける筈がなかったからである。原爆投下の目的は日本人の抹殺ではなく戦争を終結することであった、とシャーマーは主張する。

 シャーマーは『Moral Arc』の中で道徳を「感覚ある存在の生存と繁栄」と定義している。より多くの人間の生命を助けることは、より多くの生存と繁栄をもたらすことになるので道徳的である。この定義の下に、広島と長崎への原爆投下によって殺害された人命と、原爆投下が戦争を終結させることによって救われた人命の数とが比較して考察される。硫黄島ではおよそ2万6000人のアメリカ人兵士が死に、日本人兵士も2万1000人以上が死んだ。硫黄島よりも日本列島本土に近い沖縄戦では、7万7166人の日本人兵士、1万4009人のアメリカ人兵士、そして14万9193人の日本人市民が死んでいる(戦闘の結果と自殺等の結果を合わせた数)。戦争の終盤でも日本には230万人の兵士と2800万人の市民が残っていたのだから、(原爆が投下されずに)日本本土への侵攻が行われた場合には、沖縄戦以上の犠牲者が出ることになったであろう。トルーマンのアドバイザーによる当時の試算では、日本本土への侵攻が行われた場合、25万人から100万人のアメリカ人兵士が死ぬことになると推測された。ダグラス・マッカーサーは日本人の死者数はアメリカ人1人につき22人の割合になると推測していたが、その推測が正しければ日本人の死者数は最小でも550万人になる。そして、広島と長崎への原爆投下による死者数の合計は20万人から30万人の間に収まるのである。また、トルーマンが原爆を投下しなかったなら、カーティス・ルメイ将軍が東京やその他の都市へのB-29による空襲を戦争が終結するまで続けていただろう。例えば、1945年の3月9日〜10日の間に東京に対して行われた空襲では、8万8千人が死亡し、4万1千人が負傷し、100万人が家を失った。そして、戦争の後期になってもアメリカには十分な数の爆弾が残っていた。広島や長崎に行われたのが原爆投下ではなく通常兵器による空襲であったとしても、原爆投下と同等かさらに多くの数の死傷者が出たであろう。更に、原爆投下ではなく通常の空襲であったなら日本の降伏は遅れていたであろうから、本土侵攻が行われなかったとしても、降伏するまでの間にさらに多くの都市が空襲されて死者の数は増していたであろう…とシャーマーは論じる。

 以下は、該当の節の最後の段落を訳した文章。

 

全てを考慮すれば、原爆を投下することは、テーブルにあった選択肢の中では最も被害が少ないものだったのだ。私たちは原爆投下を道徳的な行為とは呼びたくないだろうが、当時の状況をふまえて、救われた生命という指標で考えるなら、最も非道徳性が少ない行為ではあったのだ。もちろん、数十万人の殺害とは莫大な数の人命の損失であるし、原爆が投下された後にも不可視の放射能による殺害が長く続いたという事実は、このような兵器を再び使うことを私たちに思い留まらせるべきだ。だが、邪悪さを数量に応じて判断するなら、並外れて破壊的であり600万人が死んだホロコーストを含む人類の歴史のなかでも最悪の戦争という文脈をふまえると、原爆投下はチョムスキーの言うように歴史上で最も酷い犯罪ではない…最も酷い犯罪からは程遠いのだ…だが、人類の歴史において忘れられることがあってはならない出来事であるし、二度と繰り返されてはならない出来事なのだ。

 

 

 

 

 

 

*1:

 

Worse Than War: Genocide, eliminationism and the ongoing assault on humanity (English Edition)

Worse Than War: Genocide, eliminationism and the ongoing assault on humanity (English Edition)