道徳的動物日記

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「昆虫に意識はあるか?」 by ピーター・シンガー

 
 
 今回紹介する記事は、Project Syndicateに掲載された倫理学ピーター・シンガーのコラム「Are Insects Conscious?」。

「昆虫に意識はあるか?」 by ピーター・シンガー 

 

 昨年の夏、私が栽培していたルッコラの葉にモンシロチョウが卵を産んだ。まもなく、そのルッコラは葉の緑色に上手く迷彩した青虫だらけとなった。私は他にもルッコラを育てていて、その一部は離れたところにあったのだが、サラダにするには充分な量の葉が既に育っていた。そして殺虫剤も使いたくなかったので、私は青虫たちを放置することにした。すぐに、ルッコラの葉は一つ残らず茎まで食べ尽くされてしまった。もはや食べるものがなくなった青虫たちは蛹になることもできずに飢えて死んでしまった。 

 私が目にしたのは、私が長い間知識としては受け入れてきた物事の縮図だ。進化は非個体的な自然過程であり、進化が生み出した個々の生き物の幸福に進化それ自体は配慮を行わない。世界は全知全能である神によって造られたのであり…全知全能だから世界で起きていることを全て見ているはずだ…そして神は善であり崇拝に価するという信仰と、彼らが目にする実際の世界とを神学者たちはどうやって辻褄を合わせているのだろうかと、私は疑問に思う時がある。 

 人間が苦痛を感じるのはアダムの原罪を私たちの全員が受け継いでる筈だからだ、とキリスト教徒たちは伝統的に論じてきた。だが、青虫はアダムの子孫ではない。この問題へのデカルトの解決策とは、動物が苦痛を感じる能力を持つことを否定する、というものだった。しかし、犬や馬については、デカルトの考えを受け入れられる人はほとんどいないだろう。デカルトが存命していた当時ですら受け入られていなかったのだ。今日では、哺乳類や鳥類についての解剖学・生理学・行動学などの科学的な研究が、デカルトの主張に対する反証となっている。しかし、少なくとも青虫には苦痛を感じる能力はない、という望みを持つことはできるのではないだろうか? 

 以前には、科学者たちは昆虫は中央脳を持たないと説明してきた。脳の代わりにそれぞれ独立した神経節が昆虫の身体の各部位をコントロールしている、と言われてきたのだ。もしその説が正しければ、昆虫に意識があるということは想像するのすら難しくなる。 

 しかし、米国科学アカデミー紀要に最近掲載された論文は上述のモデルを否定している*1マッコーリー大学の認知科学者であるアンドリュー・バロンと哲学者のコリン・クレインは、主観的な経験は私たちが認識している以上に多くの動物たちに普及している…そして、私たちが認識している上に旧くから進化の過程で存在してきた、と論じている。 

 主観的な経験(subjective experiences)とは、意識の最も基本的な形態である。ある生物が主観的な経験をすることが可能であるなら、"その生物である"ことというなにかが存在する…そして、その"なにか"には快適か苦痛な経験をすることが含まれている可能性もある*2。対照的に、自動のロボットカーには衝突を避けるため障害物を感知できる探知機が備わっており、そのような障害物を避けるための行動をとることもできるのだが、"ロボットカーである"ことは存在しない。  

 人間の場合、主観的な経験と高度な意識は区別することができる。高度な意識とは自己意識などであり、大脳皮質の機能を要求するものだ。主観的な経験には大脳皮質ではなく中脳が関わっており、大脳皮質に多大な損傷を受けたとしても主観的な経験は継続することができるのだ。 

 昆虫は中枢神経節を持っており、それは哺乳類にとっての中脳と同様のものだ。中枢神経節は感覚情報の処理、目標を選ぶこと、そして行動を指示することなどに関わっている。また、主観的な経験を持つためのキャパシティを提供する可能性も持つ。 

 昆虫というカテゴリの中には非常に多くの多様な種類の生き物が含まれている。ミツバチは100万個近くの神経細胞を持っているが、人間の新皮質は200億個の神経細胞を持つことや、ゴンドウクジラは370億個の神経細胞を持つことが最近明らかになったのと比べると少ないかもしれない*3。だが、花や水や巣の候補地などについての方角や距離に関する情報を伝達するために有名な「ミツバチのダンス」を踊ったり相手のダンスを理解したりするのには、100万個の神経細胞は充分な数なのである。青虫には、少なくとも人間の知る限り、ミツバチのような能力もない。しかし、飢えることに苦痛を感じることができる程度の意識を青虫が持っている可能性はまだ残っている。
 植物についてはどうなんだ?これは、動物は苦痛を感じるのだから彼らを食べるのはやめようと私が提案する時によく投げかけられる質問である。 植物が驚くべき能力を持っていることはよく主張されるが、適切な実験状況で再現可能な観察結果としては、植物が主観的な経験を持っていることを私たちに認めさせるものは現時点では存在していない。バロンとクレインは、植物は意識を持つことを可能にする機構を持っていないと主張している。同様のことはクラゲや回虫などの単純な動物にも当てはまる。他方で、甲殻類や蜘蛛などは、昆虫と同様に、意識を持つことを可能にする機構を持っている。 

 もし昆虫が主観的な経験を持つとしたら、私たちが考えていたかもしれないよりも遥かに多くの意識が世界には存在することになる。スミソニアン協会の推計によると、およそ100京匹(10 の 18 乗、10,000,000,000,000,000,000)の昆虫の個体が世界には同時に生きているのだ*4。 

 彼らについて私たちがどのように考えるかは、彼らの主観的な経験とはどのようなものに成り得るかということについて私たちがどのように信じるか、ということにかかってくる。このことについては生物の機構を比較したとしても得られる情報はあまりない。もしかしたら、青虫たちは私のルッコラで饗宴を開催することで充分な幸福を味わったために、その惨めな死にも関わらず彼らの一生は生きるに値するものであったかもしれない。
 だが、その反対の場合も少なくとも同じだけ有り得る。 モンシロチョウのような非常に多産な動物の場合、彼女らの子供の多くは孵化した瞬間から飢え続けることになるのだ。

 

 西洋では、進行方向にいる蟻を踏んでしまわないようにホウキで払うジャイナ教の僧侶たちに対して微笑んでしまう人々が多い。しかし、微笑むのではなく、論理的な結論に基づいた同情を実践する僧侶たちを私たちは賞賛するべきなのだ。

 だからと言って、私たちは昆虫の権利を主張するための運動を行うべきである、ということにはならない。権利運動を行う程には、昆虫が持つ主観的な経験とはどのようなものであるかということについて私たちはまだ充分に知っていない。また、いずれにせよ、世界は昆虫の権利運動を真剣に受け止めてくれるには程遠い。まず、真摯な配慮の対象を脊椎動物へと拡大することを完遂する必要があるだろう。脊椎動物が苦痛を感じることには、昆虫と比べて遥かに疑いが少ないのだから。

 

 

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

*1:What insects can tell us about the origins of consciousness

*2:訳注:原文は以下のとおり。

"If a being is capable of having subjective experiences, then there is something that it is like to be that being, and this “something” could include having pleasant or painful experiences. "

訳者としては、トマス・ネーゲルの「コウモリあるとはどのようなことか(What is it like to be a bat?)」を連想した。

 

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

 

 

*3:Quantitative relationships in delphinid neocortex

*4:Encyclopedia Smithsonian: Numbers of Insects