道徳的動物日記

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「功利主義:5人を救うために1人を殺すことは道徳的か?」 by フランク・S・ロビンソン

 

Utilitarianism: Is Killing One to Save Five Moral? | The Rational Optimist

 

 

 今回紹介するのは、フランク・S・ロビンソン(Frank S Robinson)という人のブログに掲載された、ジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ - 共存の道徳哲学へ』の書評的な記事。功利主義の考え方の説明やよくある誤解・反論に対する再反論が短くまとめられていると思うので紹介することにした。

 

 

功利主義:5人を救うために1人を殺すことは道徳的か?」

 

 あなたは暴走したトロッコが5人の人間にぶつかって殺してしまいそうになっている状況に出くわした。あなたがスイッチを押せば、1人の人間しか殺されずに済む線路へとトロッコの進路を変えることができる。あなたはスイッチを押すべきだろうか?大半の人は、イエスと答える。しかし…あなたが橋の上にいて、1人の太った男を橋の上からトロッコの進路へと突き落としたら5人の命を救うことができる、と仮定してみよう。あなたは太った男を突き落とすべきだろうか?大半の人は、ノーと答える。あるいは…あなたは医者で、5人の患者がそれぞれ異なる臓器の病気のために死にそうになっている、と仮定しよう。あなたは道端から誰か一人を捕まえてきて彼の臓器を収集して5人の患者を助けるべきだろうか?これらの3つの事例は、道徳的に同一の問題ではないだろうか?

 私たちの脳による道徳的な直感は、3つの事例をそれぞれ違ったものとして扱う。橋の上から男を突き落とすことやある人の臓器を収集することは、直接的な暴力に対する倫理的タブーに違反しているように感じられるのだ(このことは、人間には暴力的な傾向がある、という一般的な考え方を否定するものだ。皮肉なことに、人間が暴力的であると信じる人たちは、彼ら自身に備わった反-暴力モジュールが高度に設定されているからこそそう信じているのかもしれない)。しかし、スイッチを押すという間接的な行為は、直接的な暴力に対する倫理的タブーに違反しているようには感じられないのだ*1

 ジョシュア・グリーンの著書 Moral Tribes(邦題:『モラル・トライブズ-共存の道徳哲学へ』)の中心となっているのはこのような問題だ*2。私たちの道徳的な直感は進化を通じて獲得されたものであり、構成員が密接に結びついた部族社会のなかで私たちの祖先が協力や生存をすることができるように適応したものだ。だから、私たちに備わっている道徳に関する反射的な反応は、道徳的なジレンマが「私」対「私たち」という形のものとなる傾向がある部族社会の中では上手く機能する。しかし、祖先たちの部族社会は他の部族社会と競合していたために、「私たち」対「彼ら」という事態になると問題は別である。そして、異なる部族は、道徳的な問題についても異なる見方をするかもしれない。これこそが、グリーンが真剣に考慮している問題だ。

 グリーンは、功利主義の一つのバージョンを主張している(グリーン自身は「深遠な実用主義」と呼んでいるものだ)。現在では、哲学界隈で功利主義は悪い評判を得てしまっている。「最大多数の最大幸福」という功利主義の規範は、その他の道徳的に考慮されるべき事柄を排除してしまっている、と見なされているのだ。例えば、トロッコや医者の事例は、犠牲にされた人間の権利を侵害しているし、人は常に目的として扱われるべきであり決して手段として扱われるべきではないというカントの格言にも違反している。

 グリーンの議論は、鍵となる問題だと彼が見なす問題から始まる…「本当に問題となるのは何なのか?(what really matters?)」(これは私が著書 The Case for Rational Optimism(合理的楽観主義の擁護)で行っているのと同じ議論だ)*3。様々な「善(goods)」を全て集めて並べたとしても、それらの「善」を分析してみれば、実際には「善」とは一つのものであることが判明する。感覚(feeling, 感情)を経験することのできる存在が持つ感覚であり、一言で言うなら「幸福」のことなのだ。

「幸福」を明確に定義しようとすれば、それが曖昧な概念であることがわかるだろう。幸福とは、誰かが幸せであるという「感覚」のことなのか?これは循環論法だし、単純過ぎる。満足した豚であることよりも不満足なソクラテスである方が良い、というジョン・スチュアート・ミルの言葉も有名だ。

 しかし、いずれの場合でも、感覚ある存在の持つ感覚だけが最終的には問題となるのだ。それぞれ名前の付いた他の価値は、全て、感覚に影響を与える場合に限って意味を持つ。そして、道徳哲学の(唯一の目標でないとすれば)最高の目標とは、良い感覚(または幸福、快楽、快感)の最大化と悪い感覚(痛みと苦しみ)の最小化であるべきだ。  

 功利主義は富(wealth)の最大化を目指すものだ、というのはよくある誤解の一つである。他の全ての条件が等しければ、より多くの富はより多くの幸福をもたらす。しかし、他の全ての条件が等しいということは有り得ないし、幸福と苦痛の対立という問題はずっと複雑なものだ。ある乞食たちはある富豪たちよりも幸福である。功利主義が目標とする「功利(utility, 効用)」とは富ではない。金銭とは目的のための手段でしかなく、そしてその目的とは感覚である。   

 これこそが「最大多数の最高幸福」の意味するところだ。功利主義創始者である思想家ジェレミーベンサムは、全ての感覚経験(experience)の価値を点数付けることを想像していた。これは文字通りの意味ではないが、しかし、もし良い感覚と悪い感覚とを数値化できたとすれば、点数が高ければ高いほどより多くの「功利」が達成されることになり、世の中がより良くなるということになる。

 

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 それでも、功利主義はトロッコや臓器手術の仮定に対する問題含みの回答…5人を救うために1人を殺すという回答をしてしまうのではないか?だが、実際には、5人を救うために1人を殺すという回答は功利主義のテストに落第する。自分の臓器が非自発的に他人から収集される可能性のあるような社会に暮らしたいと思う人間は存在しないからだ(このモンティ・パイソンのコントを見てみればいい*4)。命が救われた人の立場からすれば功利主義的に見えるかもしれないが、他の人にとっては非常に非・功利主義的である。誰かがトロッコ問題のように奇妙な仮定を作り上げたとしても、現実の世界はトロッコ問題のようには動かない。現実の世界では、例えば90%の人口が10%の人口を奴隷にするような方法では(これも反功利主義的な仮説の典型的なものだ)、「功利」は最大化されないのだ

 功利主義は、それぞれの状況や事態に制限される中で、狭量な「功利」計算を行うことを要求しない。そうではなく、大局的な視点を持て、ということを功利主義は私たちに教えるのだ。本当に問題となるのは感覚であること、全体的(grobally, 世界的)に感覚を良くするものは善であること、感覚を悪くするものは悪であること。グリーンが示すように、功利主義は異なる「部族」間での道徳的なジレンマについて評価するための「共通通貨」やフィルターを提供してくれる。  

 さて、ある人物Xが、より大きな善だとXが思う物事のためにX自身を犠牲にすることには問題がない。しかし、より大きな善だとXが思う物事のために別の人物Yを犠牲にすることは、全くもって大問題だ。それは地獄へと続く道だし、私たちはあまりにも多くの社会がこの道を通ってしまったことを知っている。 

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 だから、現実の世界に生きる本物の功利主義者は、他の人にとって善であると思われる物事のために人々が搾取されることを防ぐために、不可侵の人権という種類の概念を取り入れる。…なぜなら、不可侵の人権という概念は、幸福・快楽・人間の繁栄を最大化するのであり、痛みと苦しみを最小化するからである。

 

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*1:ロッコ問題は道徳哲学の領域の中で大きく取り上げられている。他の観点については、The Economistの記事を参照

www.economist.com 

※トロッコ問題について外国語で考えることを求められると、人はより理性的になって功利主義的な判断を下すことが多くなる、という実験などについての記事

*2:

 

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

 

 

*3:

 

The Case for Rational Optimism

The Case for Rational Optimism

 

 

*4:


Organ Donor - Monty Python's The Meaning of Life