道徳的動物日記

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環境倫理と動物倫理についての論文を雑に紹介

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 昨日に紹介したこの記事に関連して、倫理学者のゲイリー・ヴァーナー(Gary Varner)が The Oxford Handbook of Animal Ethicsに寄稿している記事「環境倫理、狩猟、動物の位置付け(Environmental Ethics, Hunting, and the Place of Animals)」を参考にしながら、環境倫理と動物倫理との関係について軽く紹介したい。私は基本的に環境倫理よりも動物倫理の文献を主に読んできており、今回のブログ記事も前者より後者に対して好意的な紹介になっているし環境倫理に対してフェアであるとは言えないかもしれないが、特に日本で出版されている環境倫理の教科書は動物倫理に対してかなり批判的だったりアンフェアな記述をしているものも多い気がするので、まあカウンターとしてこういう記事があってもいいだろう。

 

 

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

 

 

www.oxfordhandbooks.com

 

 

 一口に「環境倫理学」と言っても、"環境"や"自然"と言われるもののうち何がどんな理由で大切であり、何が道徳的な配慮の対象に値したり本質的な(Instrinsic/内在的な)道徳的価値を持つか、ということについては様々な見解がある。ヴァーナーは、環境倫理学の主な立場を5つに大別している。

 

・人間中心主義(Anthropocentrism):人間だけが本質的な価値を持ち、他の動物や植物や生態系は全て人間にとっての道具的価値しか持たない、という考え方。

 

・感覚中心主義(Sentientism):人間を含んだ感覚のある動物だけが本質的な価値を持ち、植物などの感覚を持たない生き物と、生物種や生態系などは感覚のある動物にとっての道具的価値しか持たない。

 

・生命中心的個体主義(Biocentric Individualism):感覚の有無を問わず生き物は動物も植物も本質的価値を持つが、生態系や生物種は道具的価値しか持たない*1

 

・多元的ホーリズム(Holism, pluralistic):個々としての生き物たちと、その生き物たちが集まった生物種や生態系などの両方が、いずれも本質的価値を持つ。

 

・純粋なホーリズム(Holism, pure):生物種や生態系という"全体"のみが価値を持つのであり、人間も他の動物も植物も個々としては本質的価値を持たない。

 

 学問としての環境倫理学アメリカで始まったようなものであるが、そのアメリカの環境倫理学の元祖的な存在であるアルド・レオポルド(Aldo Leopold)はホーリズムを主張していた。ホーリズム環境倫理学の中でもメジャーな立場であり、後の時代の代表的な環境倫理学者であるJ・ベアード・キャリコット(J Baird Callicott)やホームズ・ロールストン3世(Holms Rolston III)やマーク・サゴフ(Mark Sagoff)も多かれ少なかれホーリズム論者であるようだ*2。人間の利益と比べた上での環境や生態系の価値をどれだけ重く見積もってどれだけの強さで主張するかという点では論者によって差があるだろうが、ともかくこの人たちのみんなが生態系とか生物種とか生物多様性といったものに道徳的な価値を見出していて、人間中心主義・感覚中心主義・生命中心的個体主義を批判している。

 

 感覚中心主義的な生命倫理学はいわゆる「動物の権利論」とか「動物倫理学」であるが、それも、ピーター・シンガー(Peter Singer)のような功利主義者たちの代表されるような「動物の福祉(Animal Welfare)」を重視した論と、トム・リーガン(Tom Regan)のようなカント主義者に代表されるような「動物の権利(Animal Rights)」論とに分別できる。

 なお、世間的な意味においては、「動物の福祉/動物の権利」という二分法には「畜産や動物実験などで動物を利用して殺害することは認めるが、その過程における動物の苦しみを減らそうとする立場/畜産や動物実験などを一切認めずに廃止しようとする立場」という風なイメージがある。ヴァーナーは、現在のアメリカの獣医学や農学などの学問のカリキュラムでは、"動物の福祉主義者"たちは"私たち(獣医学者や農業従事者)"として好意的に扱われる一方で、"動物の権利主義者"は"私たち"と対立する危険で非科学的で狂った"彼ら"だとして扱われていることを指摘している。

 だが、少なくとも哲学的な議論における「動物の福祉/動物の権利」論は、どちらも伝統的な倫理学理論に連なる考え方として扱われているし、私たちの社会に共有されている道徳から引き出すことのできる考え方であるとも扱われている。実際のところ、倫理学的な意味での「動物の福祉」も「動物の権利」論も主張の内容は共通しているところが多くて、たとえば「動物の福祉」論者もその大半は畜産という習慣は殆どの場合には倫理的に不当であって撤廃すべきだと主張していたりする。では「動物の福祉/動物の権利」論の主な違いは何かというと、功利主義としての「動物の福祉論」では個々の動物の生命や道徳的地位を絶対的なものとして扱わず、最大多数の最大幸福のために個々の動物の生命や幸福を犠牲にすることを認める場合がある。他方で、「動物の権利」論では功利主義的な計算の元でも犠牲にならない"切り札"としての"権利"を動物に認めている。具体例を挙げれば、動物の福祉論者はごく少数の動物が実験動物として犠牲になれば大多数の人間と動物の生命が助かったり病から解放される、という場合には(実験において不要な苦痛を引き起こさないことを前提として)動物実験を認めるが、動物の権利論者はそれも認めない、といった感じである*3

 

「感覚中心主義者」としての「動物の福祉/動物の権利」論はホーリズム的な環境倫理学とは相性が悪く、ホーリズム論者は人間中心主義者と一緒になって感覚中心主義を批判したりする。ホーリズム論者による感覚中心主義に対する主な批判とは、個々の動物に道徳的地位を認めていたら生態系や生物多様性が守れずに破壊されてしまう、というものだ。マーク・サゴフは、動物倫理の考え方を実践するとなると、人間は捕食動物に傷付けられる被捕食動物を苦しみから救うために自然界に大規模な介入をしなければいけなくなる、と批判した。自然界の全てを人間の管理する農場にしてしまい、肉食動物たちに大豆で作った肉を与えることを是とする考え方が動物倫理なのだ、とサゴフは主張する。自然や生態系の秩序のためには動物が犠牲になることを認めるべきなのだ、とうのがホーリズムを唱えるサゴフの主張である。

 サゴフと同様に、ベアード・キャリコットも動物倫理を強く批判する。シンガーの有名な著作の題名は「動物の解放」であるが、現在人間たちに飼われている家畜を本当に解放するとなると自然界は滅茶苦茶になるし、生物多様性は大いに乱れて、家畜たち自身を含めた多数の生物種が絶滅するであろう、というのがキャリコットの主張である。屠殺を禁止して家畜を飼い続けるとしても家畜は増えすぎて環境に与える負荷が膨大なものになるだろうし、家畜の繁殖を止めさせて徐々に絶滅させることを道徳的な行為だというのならそれはいかにも皮肉である、とキャリコットは動物倫理を批判する。動物の道徳的地位はその動物の属している生物種によって変わる(絶滅危惧種の動物の道徳的地位は高いし、家畜の道徳的地位は低い)、人間は生態系を維持するために自然界への適切な介入を行って絶滅危惧種を守るべきだ、というのがキャリコットやその他のホーリズム論者の主張だ*4

 上述のような議論に対して、キャリコットの主張する未来予想図は個体としての動物の道徳的地位を重視する感覚中心主義者の主張を誤解している、とヴァーナーは批判している。感覚中心主義者たちは「種」としての家畜の存続を気にしているのではなく「個体」としての家畜たちそれぞれの幸福に配慮をするのだから、家畜に苦痛や死をもたらすような行為や政策は本末転倒となるので実行しないのだ。

「感覚中心主義は、捕食動物に傷付けられる被捕食動物を苦しみから救うという行為を実行することを要求するはずだ」という批判に対しては、ピーター・シンガーなどは「自然に対するそのような介入は、(感覚中心主義の)原理からすれば一見すると倫理的な行為に見えても、実行した際にはより多くの危害を生じてしまう可能性が高い。だから、感覚中心主義者であっても、そのような行為は実行しない」という風に反論している。

 

  キャリコットや環境倫理学者たちによる動物倫理に対する批判でも特に主となるのが、動物倫理を認めると動物を殺害する狩猟が行えなくなり、増え過ぎた草食動物の頭数管理や絶滅危惧種を狙う捕食動物の排除なども行えなくなるので、自然保全が行えなくなり生態系が破壊される、というものだ。ヴァーナーも、特にこの論点に対して細かく反論を行なっている。

 ヴァーナーは、狩猟という行為を「セラピー的狩猟(Therapeutic Hunting)」「生存のための狩猟(Subsistence Hunting)」「スポーツ・ハンティング」の三つのカテゴリに大別する。セラピー的狩猟とは、対象となる生物種の個体たちの世代を超えて合計した福祉を守るための狩猟か、生態系の健康や秩序を守るための狩猟のことである(前者と後者を同時に兼ねる場合もある)。「生存のための狩猟」は食料確保など生きるために不可欠な狩猟である。「スポーツ・ハンティング」のカテゴリには、宗教的儀式や文化的慣習などのための狩猟も含まれている。ただし、現実には狩猟という行為も複雑であり、ある場面での狩猟は必ずこの三つのカテゴリの内のいずれか一つに当てはまるという訳ではない。例えば、スポーツとしての狩猟を楽しむハンター達の行為がセラピー的狩猟の役割を兼ねている場合も多い。

 動物倫理は必ずしも狩猟を否定しない、ということがヴァーナーの主張だ。特に、功利主義的な動物倫理がセラピー的狩猟を原理的に否定しないという点は明白だ。例えば、ある地域で鹿が増え過ぎて、その結果として鹿たちの生息地から食料となる草木が壊滅して大量の頭数の鹿たちが飢えに苦しむという状況を、セラピー的狩猟は未然に防ぐ場合がある。自然に介入して動物を殺害することが、結果的にはより多くの動物たちの不幸を減らすことになるのであれば、功利主義や「動物の福祉」論は狩猟を否定しない。ただし、一口に草食動物たちと言っても種によって繁殖能力や食べる量が違うという点、同じ生物種であっても生息している地域によって事情は全く異なるという点など、現実には様々な変数が存在しており、最終的に動物たちの不幸を増やすことになるか減らすことになるかを判断するのも非常に複雑で難しい。

 他方で、「動物の権利」論を主張するトム・リーガンはそもそも反功利主義的な議論を行っており、動物たち全体の幸福を結果的に増やすか否かを問わず、動物の殺害を否定する。なので、リーガンの議論ではセラピー的な狩猟も否定されることになる。

 生物多様性を守ったり絶滅危惧種を守るための狩猟も、その行為が長期的な観点から見て人間と動物たちを含めた全体の幸福の量を増やすのなら、功利主義からは認められる。ただし、生物多様性絶滅危惧種そのものに本質的な価値はない、という点は変わらない。

 

 環境倫理学者は物事の「本質的な価値」についての直感主義的な見方を採用することが多いが、倫理学の議論において道徳的な直感にアピールするのは不適切だ、というのもヴァーナーの主張である。また、ホーリズムこそが適切な環境倫理学であると主張する環境倫理学者の多くは、「自然保全にとって重要な物事」と「道徳的な観点からして最終的に重要な物事」とを混同している場合が多い、というのがヴァーナーの見方だ。

 

 

 以上、ヴァーナーの議論をかなり大雑把にまとめてしまった。尚、ヴァーナーは他にも『動物の権利活動家は環境主義者になれるか?(Can Animal Rights Activists Be Environmentalists?)』という論文を発表しており、同じ題名の章が含まれた単著も出版している。

 最近では、動物園反対論で有名なデール・ジェイミソン(Dale Jamieson)がCambridge Applied Ethicsシリーズで環境倫理学の入門書を担当していたりと、環境倫理学内における動物倫理学の扱いも良くなっているような気がする。

 

 

In Nature's Interests?: Interests, Animal Rights, and Environmental Ethics (Environmental Ethics and Science Policy Series)

In Nature's Interests?: Interests, Animal Rights, and Environmental Ethics (Environmental Ethics and Science Policy Series)

 

 

 

Ethics and the Environment: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)

Ethics and the Environment: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)

 

 

 

 

*1:生命中心的個体主義は環境倫理学のなかでも特にマイナーな立場であるらしい

*2:私はだいぶ前にレオポルドの本を読んだりキャリコットとロールストンの論文を読んだくらいで、その内容もあまり覚えていない

*3:ただし、ヴァーナーによると、トム・リーガンは別として、倫理学的な動物の権利論者の多くも"動物を犠牲にする制度の完全な撤廃"を必ずしも求めているようではなく、狩猟なども認めているらしい。

*4:ほかにも、菜食主義は肉食よりも効率が良いために人間の数が増えすぎて結果として自然破壊につながる、などともキャリコットは主張している