道徳的動物日記

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「分裂したアメリカ政治を乗り越える方法」 by ジョナサン・ハイト、ラヴィ・アイヤー

 

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 社会心理学者のジョナサン・ハイトとラヴィ・アイヤーが2016年の11月4日にウォール・ストリート・ジャーナルに発表された記事。ヒラリー・クリントンドナルド・トランプとの大統領選の結果が出る数日前に発表された記事だが、選挙の結果の如何にかかわらず民主党支持者と共和党支持者の両方に向けて書かれている記事であり、部族的・分極的で悲観的になりがちなアメリカの政治対立の現状を個人レベルで改善するための提案をしている記事である。

 

「私たちの部族的な政治をいかに乗り越えるか」by ジョナサン・ハイト、ラヴィ・アイヤー

 

 1983年に放送された『ザ・デイ・アフター』はアメリカの歴史上で最も多く視聴されたテレビ映画であり、ソビエト連邦とアメリカとの間の全面的な核戦争が起こる前後の数日におけるカンザスミズーリの人々の人生を描写したものである。火曜日の大統領選挙は世界の終わりや国家の崩壊をもたらすかもしれないという考えをあなたがほんの少しでも抱いたことがあるなら、 Youtubeで『ザ・デイ・アフター』を検索して、シークバーを53分までスクロールしてその次の6分間を見たほうがいいかもしれない。そこであなたが見るものこそが、この世の終末(apocalypse)である。

 言うまでもなく、大統領選挙の結果と核戦争の結果を比較するのは馬鹿らしいことだ。だが、その馬鹿らしさは参考になる。物事がどれほど悪く見えたとしても、感謝すべきことが私たちにはまだまだ残っている、ということを思い出させてくれるのだ。ソビエト連邦は過去のものとなり、大半の客観的な指標によるとアメリカ人の人生は1980年代よりもずっと良くなっている。犯罪は減っていて、経済的な成功(prosperity)や寿命は増している。そして、人種や性別等の人口グループに関わらず、成功へと続く扉は才能のある人に対して昔よりもずっと広く開かれている。たしかに、私たちは新しい問題を抱えるようになったし、進歩によって得られた恩恵も均等には広がっていない。しかし、大局的に見れば、私たちは驚くべき進歩を成し遂げているのだ。

 今回の選挙戦ではあまりにも多くのアメリカ人たちが終末論的な物言いをしているが、『ザ・デイ・アフター』を見ることにはそのような物言いを控えさせる効果もあるかもしれない。右派では、一部の人たちは今回の選挙のことを「ユナイテッド航空93便選挙(Flight 93 election)」と呼んでいる*1。アメリカは飛行機を破壊しようとしている悪逆無道な左派によってハイジャックされてしまったのであり、ドナルド・トランプを当選させてコクピットに駆けつけることが唯一の正気な選択である、ということだ。左派では、トランプが当選してしまえば憲政が危機に瀕して軍事クーデーターやファシズム独裁制が起こってしまうだろうと一部の人たちが考えている。

 そのために、11月9日の朝には、アメリカ国内の半分近い人が深く落ち込むことになるのだ。そして、負けた側の人々の多くは、アメリカはもう終わりだと考える。勝った側の人々は気持ちがほっとするだろう。しかし、勝った側の人々の多くも、道徳的には悪魔にも等しいような存在に対して自分の同胞たちの半分近くが投票したという事実にショックを受けて嫌悪をするのである。嫌悪とは対象を非人間化する感情であることをふまえれば、今回の選挙で両方の陣営が相手に対して示してきた嫌悪は、特に心配するべきものだ。嫌悪は、普通の市民たちが隣人を殺すことのハードルを下げる…多くの場合にジェノサイドの加害者達は嫌悪の感情を強く抱いていることもそれが理由である。

 手短に言えば…今回の選挙の次の日は、1860年以降にアメリカで行われたどんな選挙の次の日よりも暗くて不吉な日になる可能性が高いのである。果たして、アメリカ人たちがお互いを許し合い、認め合い、共に働いて共に生きることは可能なのだろうか?

 可能である、と著者たちは考える。結局のところ、市民性(civility)とは、同じ意見を持つことや批判を差し控えることを要求しない。お互いの誠実さや礼儀を尊重しながら、他人との意見の不一致を生産的なものにする能力こそが市民性なのである。感情が昂っている時には市民性を実践することは難しい。だが、蔓延している敵意の心理的な原因についてより良い理解を得ることができれば、敵意を弱める何らかの単純な手段を私たちの皆が実践することができるし、憎しみから自分たちを解放して次の四年間を私たちにとっても国にとっても良いものとできるはずだ。三つの由緒ある名言が、私たちの指針となってくれる。

 

私対私の兄弟、兄弟たちと私対私の従兄弟たち、そして従兄弟たちと私対部外者たち  -  ベドウィン族の諺

 

 人間の本性は部族的である。私たちは簡単にチームを組むことができるが、その理由として最も可能性が高いのは、人間は集団間の暴力的な紛争に適応して進化してきたということだ。私たちの精神は集団間の暴力的な紛争に対してあまりにも準備万端なのであり、私たちが迷信やゲームやスポーツ…"ペイントボール"のような戦争ゲームも含まれている…を発明してきたのも、恐怖や実際の戦争を経験しなくても集団間の紛争の快感を得られるようにするためにである。

 ベドウィン族の諺が示しているように、部族的な精神は脅威の対象の変化に対処するために同盟を変えることを得意とする。そのような変化の具体例は、各政党の予備選に見ることができる。敗北した候補者を支持していた人たちも、すぐに、指名された候補者の周りに集まって彼を支持するようになるのだ。9.11の同時多発テロ事件が起こった後にアメリカ中が団結して大統領とアフガニスタンに侵入する軍隊を支持した時にも、私たちは部族的な精神の変化の具体例を目にしていたのである。

 しかし、9.11の後の数ヶ月という例外を除けば、1990年代後半以降、アメリカにおける政治党派間の敵意は着実に伸び続けている。ピュー研究所が世論調査を行うようになったのは1994年からだが、相手の政党の意見を「支持できない」ではなく「とても支持できない」意見であると両方の党派の多数派が答えたのは今年が初めてだ。1990年代を通じて、「とても支持できない」という答えをする人は通常は20%以下であり続けた。だが、現在では両方の党派においてそれぞれ40%以上の人々が相手の党派の政策を「あまりにも間違っているために、アメリカの健康(well-being)を脅かす」と見なしている。2014年からのたった2年間で、その数字は両方の党派において10%も上がってきたのだ。

 では、次に大規模なテロ攻撃が起こった際にはどうなるだろうか?私たちは再び団結するだろうか?または、最近数年で小規模なテロ攻撃が起こった後の事態と同じように、数時間も経たない内にテロ攻撃は党派間の論争の題材となってしまうのだろうか?アメリカの部族主義では何かが壊れている。現在では、私たちは常に「兄弟たちと私対私の従兄弟たち」という状態になっているのだ…部外者たちが私たちを脅かしている時や、何も脅威が存在しない時でさえも。

 民主主義は、競争を必要とするのと同様に信頼と協力も必要とする。健全な民主主義の特徴とは、柔軟性があって同盟が変化することである。自分とは反対の側にいる市民たちを従兄弟であると見なす方法を私たちは見つけなければならない…時には議論の相手となるが、価値観と利害の大半を共有しており、決して道徳的な敵とはならない従兄弟であると見なす方法だ。

 

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 …偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 – イエス・キリスト、「マタイによる福音書」第7章3節及び5節から*2

 

 私たちの部族的精神は強力なツールを備えている。それは、恥知らずで愚かな偽善である。「行動するために考える」とは、心理学の一般的なルールだ。私たちは特定の目的を心に抱いた上で思考を行うが、多くの場合には、その目的とは事実を発見することではなく自分たちを擁護して相手を攻撃することである。

 心理学者たちは、このような思考のプロセスのことを「動機付けられた推論」と呼ぶ。自己の利害が関わっている時には「動機付けられた推論」は常に発見される。集団の利害という要素が混ざれば、このバイアスがかかかった嫌らしい推論はポジティブで高潔なものへと変身する…それは、あなたがチームに対して抱いている忠誠を示す目印となるのだ。政党の支持者たちが、自分たちの政党の候補者のスキャンダルが判明した時にもあまりにも簡単にそれを無視するのに相手の政党の候補者のスキャンダルが判明した時にはひたすらそれに食い付くのも、動機付けられた推論が理由となっている。

 1990年代以降、動機付けられた推論は部族主義や新しいメディア・テクノロジーと不幸に相互作用してきた。相手の目から何百ものちりを発見することならソーシャルメディアハッカーGoogle検索が手伝ってくれるが、私たち自身の目にある梁を認識するように強制してくれるテクノロジーは存在しないのだ。

 

我々は全員の間に絆が生まれるようにできていて、距離が近づくにつれてその絆は強くなるのである。 – キケロ、『友情について』*3

 

 人間は部族的であるが、部族主義を超えることもできる。部族主義は、他の人間たちと絆を結ぶという類い稀なる私たちの能力と緊張関係にあるのだ。ロメオとジュリエットは恋に落ちた。第一次世界大戦の際、フランスとイギリスとドイツの兵士たちは塹壕から出てきて互いの食料やタバコやクリスマスの贈り物を交換した。

 鍵となるのは、距離の近さである。現代に行われた大量の研究はキケロの観察を裏付けているのだ。寮に暮らす学生たちが一つ隣の部屋の学生と友達になる可能性は、四つ隣の部屋の学生と友達になる可能性よりも高い。他の政治党派の友人を少なくとも一人は持っている人は他の政党の支持者を憎悪する可能性が少なくなる。

 だが、悲劇的なことに、アメリカ人たちは自分とは異なる側にいる人々との近さを失っており、政治的に純一化された環境で過ごす時間が増えている。1980年代以降、民主党支持者は都会へと引っ越して行き、田舎や準郊外にはより多くの共和党主義者が暮らすようになっていった。人々を団結させることに用いられてきた施設…教会など…も、同性婚のような問題をめぐる文化戦争のために引き裂かれてしまっている。

 そして、私たちの社交生活のうちオンラインで過ごされる時間は増え続けている。政治的に同質的なバーチャルコミュニテイやネットワークだ。反対側の政治党派とオンライン上で接触する場合には、相対的な敵意の高さは多くの場合に衝撃的なレベルの不作法さに繋がるし、そこには人種差別的・性差別的な侮辱や暴力を匂わす脅迫も含まれている。

 では、私たちは呪われた運命にあるのか?世論調査によって示されているような分極化(polarization)は、国が二つに分裂するまで進み続けるのか?もしかしたら、1814年にジョン・アダムズが書いたことは正しかったかもしれない。「民主主義が長く続くことはない。すぐに自らを浪費し、疲弊させ、その身を滅ぼすだろう」*4

 しかし、建国から240年、私たちは民主主義を保ってきた。そして、アメリカは戦って守る価値のある国であるという点には、どちらの政治党派も同意している。私たちが学ぶべきは、政治党派同士で互いに対して行う戦いばかりがアメリカを守るための戦いではないということだ。分極化した時代や分極的なテクノロジーに対して私たちの民主主義や習慣を適応させようとする努力も、アメリカを守るための戦いなのである。

 これらの適応の一部は、法律や制度の変革を必要とするだろう。一部はテクノロジーの改良によってもたらされるはずだ。例えば、生産的な不一致に報酬を与えて挑発や脅迫をフィルタリングするようにソーシャルメディアを微調整する、などだ。

 そして、多くの変革は私たちの各々からもたらされなければならない。自分たちとは異なる政党に投票をした友人や同僚や従兄弟たちを持つ個人としての私たちだ。顧客や従業員や学生や隣人としての彼らを、私たちはどのように待遇すればいいのだろうか?感謝祭のディナーで私たちは彼らに何を言えばいいのだろうか?

 11月9日、自分自身の道徳的な原則や政治的な原則は手放さずに怒りだけを手放したいとあなたが思っているなら、古代の叡智と現代の研究から得られた助言を授けることができる。

 第一に、ドナルド・トランプヒラリー・クリントンに対してあなたが抱く気持ちと、二人のそれぞれの支持者に対して抱く気持ちを切り離すことだ。政治科学者たちの研究によると、1980年代から、アメリカ人たちは自分自身の側の候補者を熱心に支持するために投票するのではなく相手の側の候補者に反対するために投票する傾向を増し続けている。今回の選挙については特にその傾向が当てはまっている。だから、相手の側の人々の大半はその候補者たちを好いていたり特定の問題についての意見を同じくしている、とは思わなくてもよい。彼らはあなたには理解できない恐怖やフラストレーションのために投票しているかもしれないし、もしあなたが彼らの話を聞けば、あなたは彼らに共感することができるかもしれない。

 第二に、一歩後ろに下がって、自分の目標について考えることだ。長い目で見て、あなたは人々を変えたいのだろうか、それとも憎みたいのだろうか?もしあなたが他人を説得して影響を与えたいと実際に望んでいるのなら、口論によって他人の意見を変えることはほとんど不可能であるということを知るべきだ。お互いが反感を抱いている時、そこにはお互いの動機付けられた推論が存在しているのであり、お互いの保身やお互いの偽善が存在しているのである。

 しかし、相手の心を開くことができれば、相手の意見を開くこともできる。だから、反対の側にいる人たちと個人的な関係を育むためにあなたができることを行うのだ。一緒に時間を過ごして、キケロが勧めるように距離を近づけることによって絆を強くするのである。相手と親しくなって相手のことを知ることは、相手に対する軽蔑を育まない。ある物や人が自分にとって慣れ親しみ深くなるにつれて私たちはその物や人を好きになる、ということは研究の結果でも示されている。

 多くの場合、感情は推論を駆動する。そのために、私たちの心が頑なになるにつれて私たちの思考も硬直化して、私たちは独善的になるのである。そして、自分が気にしている社会問題について柔軟に考えて対処をすることも難しくなるのだ。ジョン・スチュアート・ミルが1859年に書いたように「自分の側が言いたいことしか知らない人は、ほとんど無知に等しい」のである*5。だから、分極化が更に酷くなったとしても、党派を超えた友情がいくつか育まれていればあなたは賢く穏やかになれるのだ。

 そして、反対の側にいる人々と本当の会話を行う方法を見つけたとすれば、上手にアプローチすることである。会話の切り出しとして有効なテクニックの一つは、自分自身の目の中にある梁を指摘することだ…何らかの点について自分自身や自分の側は間違っていたということを、相手の目の前で認めるのだ。会話の開始時点で自分の間違いを認めれば、あなたは戦闘的なモードになっていないということを相手に伝えることができる。あなたが開放的であり、相手を信頼していて寛大でいれば、相手もあなたに報いてくれる可能性が高い。

 分極化を解消するのに有効なもう一つの行動は、相手を称賛することである。クリントンとトランプとの二回目の討論ではその実例が示された。90分以上にも渡る敵意の応酬の末、その夜の討論の最後に、公会堂の観衆の一人が「お互いに関して尊敬できるよい点を一つ挙げていただけますか?」という質問を投げかけたのだ*6。 

 はじめにクリントンが答えたのは、彼女はトランプの子供たちを尊敬しているという控えめな称賛だった。しかし、トランプの子供たちが「すごく優秀」であることや彼らが父親に献身的であることに言及して、「それはドナルドに関する多くのことを物語っていると思います」と加えることで、クリントンはトランプに対する称賛を強く寛大なものにした。トランプも優しく返答して「ヒラリーについてはこう申し上げましょう。彼女は諦めません。彼女は諦めない人です。私はそれを尊敬しています。」と言ったのであった。

 二人の短いやり取りは人々の感情を強く動かすものだった…多くの視聴者にとってはその夜で希望を抱けた唯一の時間であっただろう。もしこのやりとりが討論の最後にではなく開始時点で行われていたとすれば、討論はより高尚で生産的なものになっていたのではないだろうか?

 2016年はアメリカ人にとって恐ろしい年となっている。国内からも海外からも、民主主義の耐久性や正当さや叡智に対して疑問が投げかけられている。しかし、私たちの民主主義…そして、アメリカへの愛…にとっての本当の試練は、選挙の次の日からやって来る。自分がどのような人間になりたいのか、政治的に仲違いをしている従兄弟たちとどのような関係を築きたいのか、この水曜日から、私たち一人ひとりが決断していかなければならないのだ。

 

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