道徳的動物日記

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「なぜ動物を食べることに罪悪感を抱かないのか?」

theconversation.com

 

 今回紹介するのは、心理学者のキャロライン・スペンス(Caroline Spence)という人が2015年にオーストラリアの Conversation 誌に掲載誌した記事。社会心理学の論文が色々と参照されている。

 

 

「なぜ私たちは動物を食べることにもっと罪悪感を抱かないのか?」 by キャロライン・スペンス

 

「ハムはブタさんから作られているんだよね、お母さん?」若い娘と地元の動物園に行った時に、彼女から投げかけられた質問だ。お昼のハムサンドウィッチを食べるため、動物園で飼われているアリスという名前のブタに餌をやることを中断した時、突然に彼女はハムとブタとの関係を理解したのだった。「私はアリスが好きだよ、アリスは私の友達だもん!」

 この認識の瞬間も、おませな4歳の娘にとっては問題とならないようだった。しかし、多くの大人にとっては、皿の上にある肉と生きていて感情のある動物との関係は厄介な問題である。それは、ベジタリアンの数が増えていることにも示されている。人口におけるベジタリアンの割合は、一部の先進国における2%からインドにおける30%以上にまで及んでいる。ベジタリアン以外の人たち…豆腐を食べるくらいならダンボール紙を食べる方がマシだと思っている私たちは、生きている存在に対して苦痛を引き起こし死をもたらすことに責任があるという道徳ジレンマを克服するための様々な心理的テクニックによって武装している。

 このジレンマは「肉食のパラドックス(meat paradox)」と呼ばれるものだ。それは、感覚ある存在(sentient beings)に苦痛を引き起こして死をもたらすことは不正であるという私たちの道徳的信念と、罪悪感を感じずにソーセージサンドウィッチを食べたいという私たちの欲求との間の心理的葛藤を示す言葉である。脳内におけるこの種類の争いは「認知的不協和」とも呼ばれている*1

 

心理的綱引き

 

  ある人が二つ以上の矛盾する信念(beliefs)を抱えている時、認知的不協和は起こる。認知的不協和は、怒り・当惑・罪悪感などの様々な感情として表出される場合がある。健康に深刻な危険を生じさせることにも関わらず煙草を吸いたいという欲求や、地球温暖化の脅威を認識しながらもガソリン車を使い続けたいという欲求などに、私たちは認知的不協和を確認することができる。この種類の葛藤を直接目にしたいのであれば、今度ベーコンを食べている人を見かけたときに、その原材料となった可愛らしいブタのことを彼に思い出させてあげればよいだろう。

 認知的不協和を引き起こすような物事について考えるときには自責の念が起こるが、人間の大半は、その自責の念を抑制する傾向を生まれつき備えている*2。論理的には、肉を食べることに対する心理的反発を抑える方法とは、肉を食べないように食習慣を変えることで問題そのものを発生させないことであるはずだ。

 食習慣を変えることは単純な変化であるように思えるかもしれないが、それを単純だと言うことは、肉を食べるという行為が大半の文化においてどれだけ根深いものであるかということを無視している。多くの伝統や儀式において肉を食べることは重要な部分を形成しているし、日常的な料理についても同様だ。また、肉食は社会的地位にも関わっている。たとえば、男性のベジタリアンはそうではない男性と比べて男らしくないと見なされる場合が多い*3。さらに、私たちの多くは肉の味を本当に本当に好んでいるのである。

 このことは、私たちの脳内で繰り広げられる心理的な綱引きを終わらせるためには異なるアプローチが必要とされる、ということを意味している。典型的には、心理的な綱引きは不都合な信念を弱体化させることから始まる。例えば、動物を食べることは必然的に彼らに危害を与えることである、という信念を弱らせることだ*4。その方法として一般的なのが、家畜が人間と同じように考えることを否定することや、家畜がペットなどの"賢い"動物たちと同じように考えることすらも否定することである。家畜が人間や他の動物のように考えられないとすれば、私たちの意識内における家畜たちの本質的な価値も下がって、道徳的な配慮の対象の外に家畜を置くことができる*5。もしウシやブタは考えたり感じたりすることもできないくらい頭が悪いとすれば、私たちが彼らをどう取り扱ったとしても道徳とは関係ないではないか?

 ウシやブタなどの特定の動物を食料に指定することは、この世界に存在する動物たちについての私たちの理解と知識に由来している、と一部の人は主張するかもしれない。だが、動物に対するこの種類のラベリングは社会的に定義されたものである*6。例えば、最近のイギリスで起こった馬肉の誤表記問題は大きな怒りを引き起こしたが、その怒りは馬を食べることに反対するイギリスの文化的習慣が原因である*7

 しかし、イギリスから最も近い国々を含めて、多くの国々は馬を食べることに全く問題を見出さない。 また、フィドやスキッピーを食べるという行為は多くのオーストラリア人にとっては考えるだけでも恐ろしいことであるだろうが、それはいかなる意味でも世界中で普遍的な反応であるとは言えず、私たちの文化や家庭による影響に大いに依存した反応であるのだ*8*9

 
 証拠から目を逸らす

 

 家畜たちが精神的にも感情的にも複雑な生活を送っているということについての科学的な証拠は増え続けている*10。しかし、家畜は馬鹿であると私たちの頭の中で表現されることは、科学的な証拠を無視して自身の行動を改めるのを回避することを私たちに可能にさせる。そして、更なる認知的不協和を引き起こす可能性がある何事をも避けることによって、私たちは食習慣の現状維持を強化する。例えば、厄介なベジタリアンたちについての情報を読むことは、動物の精神的能力に対する蔑視や過小評価を増させてしまうのである*11

 同様に、スーパーマーケットで売られている肉はその原材料となった動物たちとは全く似ていない。一部の人は頭が付いている魚を見るだけでも嫌悪感を抱くのであるから、大型動物については言うまでもないだろう*12。私たちはブタやウシの代わりに"ビーフ"や"ポーク"を買うが、これも認知的不協和を避ける方法の一つである。私たちは滅多に家畜の健康や幸福(welfare)についての情報を調べようとはしないし、家畜の健康や幸福についての責任を自分よりも大きな権威に委ねることを好みがちである*13。そして、動物たちが苦痛を感じているという証拠に直面した時には、自分が消費している肉の量を低く見積もって報告しがちだ*14。畜産品の生産過程についての意識が高い人たちは、「動物福祉に配慮した(welfare-firendly)」製品を買って、牛たちが緑の野原でスキップしながら過ごしているという幻想を維持するかもしれない。このような「知覚上の行動変化(perceived behavioural change)」は私たちの罪悪感を減らし、自分を道徳的な高みに立たせることとハンバーガーを食べ続けることの両立を可能にしてくれるのだ。

 上述したような方法で心理的葛藤を回避すれば、私たちは動物を食べ続けることが可能であるかもしれない。だが、それは、動物の価値を下げることと私たち自身の同胞を非人間化することとの間の不穏な関係を露わにしてもいる。"部外者"であると見なした人々への知性と道徳的価値を低く見ることは、多くの場合に差別と関係しているし、人間の歴史における数多くの残虐行為が引き起こされたことの重要な原因でもあったと考えられている*15*16

 しかし、人間同士の差別に対する私達の意識…それに伴って、私たちの態度も…が変化していったように、食料のために大量の動物を農場で飼育することについての私たちの考え方も変わる可能性はある。肉食にまつわる認知的不協和を回避するために私たちがどれほどの行為をしているのかということをふまえると、現在行っている消費のレベルに関して私たちはどれほど快適な気分でいるか、ということについて評価し直すのが賢明であるかもしれない。私たちが受けなければいけない試練とは、ブタのアリスに餌をやることは楽しいかもしれないが彼女を食べることは子供の遊びとは程遠いものである、という事実を直視することである。

 

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