今回紹介するのは、倫理学者のピーター・シンガーが2008年の1月に Project Syndicate に発表した、「Hypocrisy on the High Seas?(公海上の偽善?)」という記事。2016年に発売されたシンガーの倫理学エッセイ集である『Ethics in the Real World : 82 Brief Essays on the Things That Matters (現実の世界における倫理学:重要な物事に関する82の短いエッセイ)』にも、「Cultural Bias against Whaling? (捕鯨に対する文化的偏見?)」というタイトルで同じ内容のエッセイが収録されている。
「公海上の偽善?」by ピーター・シンガー
30年前には、オーストラリアの西海岸では政府の賛同を得たオーストラリアの船がマッコウクジラを殺していた。先月には、50頭のザトウクジラを殺すという日本の計画に対して、オーストラリアは国際的な抗議を行った。圧力をかけられた日本は、その計画を1年か2年延期すると発表した。捕鯨についての世論の変化は劇的なものであるし、それはオーストラリアだけで起こったことでもないのだ。
オーストラリアの捕鯨に対する抗議を始めたのは環境保護団体のグリーンピースであり、政府は元裁判官のシドニー・フロストを任命して捕鯨という制度の調査を開始させた。この問題に関心を抱いている一人のオーストラリア人として、また動物の取り扱いについての倫理を研究している一人の哲学者として、私は意見を提出した。
鯨は絶滅危惧種だから捕鯨を止めるべきだ、とは私は論じなかった。私が言わなくても、生態学や海洋生物学の専門家たちの多くがその主張をするだろうということを知っていたからだ。その代わりに、鯨は大きな脳を備えた社会的な動物であり、人生を楽しんで苦痛を感じる能力を持つこと…それも身体的な苦痛だけでなく、仲間の一員が死んだことに対しても悲痛を感じる可能性が非常に高いということを、私は論じたのだ。
鯨を人道的に殺すことはできない*1。彼らはあまりに大きく、爆発銛でさえ、鯨の急所に正確に当てることは難しい。さらに、爆発銛は鯨の体を吹っ飛ばして粉々にしてしまうが、そもそも捕鯨の目的とは貴重な鯨油や鯨肉を回収することにあるのだから、捕鯨船の乗組員たちはあまり多くの爆発銛を使用することを好まない。そのために、捕殺される鯨の大半は長時間かけて苦痛を味わいながら死んでいくのだ。
その行為を行わなければならないという非常に重大な理由もないのに無実の存在に苦痛を与える行為は、不正である。鯨を殺す以外の方法では満たせられない、生死に関わる必要性が人間にあるとすれば、捕鯨に対する倫理的批判は反論されるかもしれない。だが、鯨を殺すことが求められるような、人間にとって不可欠な必要性は存在しない。鯨から入手できるものの全ては、残酷な行為をする必要もなく他の方法で入手することができる。だから、捕鯨は非倫理的なのだ。
フロストは私の意見に同意した。鯨を殺す際に用いられていた方法が非人道的であることには疑いの余地もないとフロストは言ったし、「非常に恐ろしい」とまで彼は表現したのだ。「私たちが関わっているのは、驚くべきほどに発達した脳と高度な知性を備えた生き物であるという可能性」にもフロストは言及した。マルコム・フレーザー首相の保守政権はフロストの勧告を受け入れ、捕鯨は禁止された。間もないうちに、オーストラリアは反捕鯨国となったのであった。
ザトウクジラを殺す計画は停止されたが、依然として、約1000頭の他の種類の鯨を日本の捕鯨船団は殺そうとしている。その大半は小型のミンククジラだ。捕鯨は「調査」である、と日本は正当化している。国際捕鯨員会の規則は、加盟国が調査研究のために鯨を殺害することを認めているからだ。だが、その調査の目的は、商業捕鯨を科学的に正当化する口実を設けることに向けられているようだ。だから、捕鯨が非倫理的であるとすれば、 調査捕鯨そのものも不必要なうえに非倫理的であるのだ。
捕鯨に関する議論は冷静に行いたい、科学的な証拠に基づいた、"感情"を排した議論を行いたい、と日本は言う。50頭殺しても種の存続には何の危険ももたらさない程にまでザトウクジラの頭数は増している、と日本人たちは考えている。この論点に限れば、日本も正しいかもしれない。だが、いくら科学を持ち出したところで、それだけで鯨を殺してよいか悪いかということの答えが出せる訳ではないのだ。
実のところ、捕鯨に対する環境保護主義者の反対と同じくらい、捕鯨を続けようとする日本の欲求も"感情"に動機付けられたものだ。鯨を食べることは日本人の健康や栄養にとって必要不可欠なことではない。おそらく一部の日本人が感情的に愛着を持っているという理由のために、捕鯨は日本人たちが存続させたいと思っている伝統になっているのだ。
日本人たちも、そう簡単には否定できない主張を一つ持っている。捕鯨に対して西洋諸国が反対しているのは、ヒンドゥー教徒にとっての牛が特別な動物であるのと同じように西洋人にとっては鯨が特別な動物であるからだ、と日本人たちは主張しているのだ。そして、西洋諸国は自分たちの文化的な信念を他の国に押し付けようとするべきでない、と日本人たちは主張する。
この主張に対する最善の応答は、感覚のある生き物たちに不必要な苦痛を生じさせることは不正であるという考えは特定の文化に基づいたものではない、ということだ。例えば、日本の主要な倫理的な伝統の一つである仏教の主要な戒律の一つも、前述の考えである*2。
だが、この応答を行うには西洋諸国の立場は弱い。西洋諸国も、非常に大量の不必要な苦痛を動物たちに引き起こしているからだ。オーストラリア政府は捕鯨には強く反対する一方で、毎年数百万頭のカンガルーたちを殺すことを認めている…動物の苦痛が大量に含まれた虐殺だ。同様のことは他の国々の様々な種類の狩猟にも当てはまるし、工場畜産によって引き起こされている莫大な量の動物の苦痛については言うまでもない。
自分自身の生を豊かに過ごす能力を持った社会的で知的な生き物に不必要な苦痛を引き起こす制度であるから、捕鯨は止められるべきだ。だが、自分たちの裏庭で動物たちに引き起こされている不必要な苦痛の問題を解決しない限りは、文化的な偏見であるという日本の批判に対する西洋諸国の反論は心許ないままであるだろう。
Ethics in the Real World: 82 Brief Essays on Things That Matter
- 作者: Peter Singer
- 出版社/メーカー: Princeton Univ Pr
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