道徳的動物日記

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読書メモ:知覚直観主義(道徳的個別主義)と常識道徳

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

  

 第3章のタイトルは「Intuition and the Morality of Common Sense(直観と常識道徳)」であり、シジウィックによる直観主義の議論について、現代における直観主義者の主張を取り上げながら論じられている。

 シジウィックは直観主義を三つのカテゴリに分けている。一つ目は「超-直観的(Ultra-Intuitonal)」な直観主義、「知覚的直観主義(Perceptional Intuitionism)」と呼ばれるものであり、ある個別の場面における道徳的な判断は一般的なルールや道徳的な推論を行わずとも直観によって判断することができる、という考え方である。二つ目は「常識道徳(Morality of Common Sense)」であり、通常の人々が日常的に行う直観的な道徳的判断には一般的なルールが暗黙のうちに含まれている、という考え方である。三つ目は、常識的な道徳判断が"なぜ"正しいのかということの根拠を探り、場合によってはより正しい原則によって常識的な道徳判断を調整することも求める「哲学的直観主義(Philosophical Intuitionism)」である。この章では「知覚的直観主義」と「常識道徳」が否定的に取り上げられている。

 ただし、「直観主義」という単語には複数の意味が含まれており、広い意味での直観主義は「道徳的な真実は直観によって認識することができる」という認識論に関する主張であるが、狭い意味での直観主義は「ある行為が正であるか不正であるかは、行為の帰結に関係なく、直観的な道徳規則などによって判断される」というような義務論的な規範理論としての主張である。基本的には、シジウィックは広い意味での直観主義を主張してはいるが狭い意味での直観主義は否定しているようだ。

 著者らは、シジウィックによる直観主義に対する批判を取り上げた後に、知覚的直観主義と常識道徳のそれぞれに対応する現代の倫理学者の主張を取り上げて批判している。知覚的直観主義の現代版としては「道徳的個別主義(Moral Particuralism)」を主張するジョナサン・ダンシー(Jonathan Dancy)が、「常識道徳」の現代版としては「一見自明な義務(Prima Facie Duty)」を論じるW.D.ロス(W.D. Ross)やバーナード・ガート(Barnard Gert)が取り上げられている。

 道徳における一般的なルールや普遍的な基準の存在を否定して個別の事例における直観的な判断で事足りるとする知覚直観主義(現代における道徳的個別主義)では、道徳的判断の正否がそれぞれの場面における個人の主観に左右されてしまい、それはあまりにも恣意的なものである、と著者らは批判する。ある場面においては正しいとされる理由を持つ道徳的判断が、似ているが違う要素のある別の場面では別の理由によって間違っているとされることはあるだろうが、その道徳的判断は"なぜ"ある場面においては正しくて別の場面では"なぜ"間違っているのか、ということは客観的な言葉で説明されなければならないはずだ。そして、結局のところ、"なぜ"という理由を理解するためには何らかのルールや基準に基づいた説明が必要となるはずだろう…というのが著者らの主張である。もし知覚直観主義(道徳的個別主義)が基準やルールに基づく説明を一切否定するとすればそれは恣意的で頼りない理論であるし、基準やルールに基づく説明を導入するとすればもはや知覚直観主義(道徳的個別主義)としての特徴は無くなってしまうだろう。

 直観的な道徳的判断に含まれている一般的な規則について論じる「常識道徳」や「一見自明」の議論にしても、二つ以上の規則が衝突して矛盾した場合や一般的な規則が通じないような特殊な場面では私たちはどのように道徳的判断を行うべきか、ということについての答えが得られないという難点がある。一般的な規則は一見すると自明で絶対的なものであるように思えても、実際にはそれらの規則を生み出して正当化するようなより普遍的な基準や原則があると考えた方が妥当であるし、一般的な規則では対応できない場合にはより上位の普遍的な原則に立ち返って道徳的判断を行う必要があるだろう。

 結局のところ、「知覚的直観主義」も「常識道徳」もそれのみで直観的な道徳判断を正当化するには恣意的で物足りないものであり、"なぜ"直観的な道徳判断や道徳規則が正しいか(あるいは、間違っているのか)ということをより上位の基準や原則に基づいて論じる「哲学的直観主義」が必要とされてくるのである。

 …そして、そもそも常識道徳は「意識せずに功利主義的」(p.92)なのであり、常識道徳に含まれている一般的なルールとして挙げられる「他人に対する慈愛を持つこと」や「嘘をつかないこと」なども、なぜそれが道徳的なルールとされているかという理由を少し考えれば帰結主義的な回答が得られるはずだ。例えば、嘘をついて相手を騙さなければ犯罪の被害に遭うことが確実に見込まれているなどの特殊な場面においては「嘘をつかないこと」という規則を破ることは正当化される、という主張には多くの人がそれこそ直観的・常識的に同意するが、それも人々が帰結的な判断を行っているからであろう。道徳的個別主義は「ある場面においては正しいとされる理由を持つ道徳的判断が、似ているが違う要素のある別の場面では別の理由によって間違っている」ということを論じるが、ある道徳的判断の正否が二つの場面において変わってくる理由も、異なる場面において同じ道徳的判断をすることがもたらす結果の違いによって論じることができるだろう。このようにして、次章からは著者らとシジウィックは帰結主義功利主義の正当性を擁護していくのである…。

 

 

Moral Reasons

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