道徳的動物日記

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読書メモ:シジウィックによる倫理学の三つの公理

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 

『普遍的な観点から:シジウィックと現代功利主義』の第5章では、シジウィックが自明であり直観的に認識できる真実と見なしている倫理学の三つの公理が取り上げられる。「ある状況についてどう行動するべきか」「私たちにはどのような義務があるか」という具体的なことはこれらの公理自体から引き出すことはできず、他の方法(シジウィックによると功利主義の方法)が必要となるのだが、ともかく道徳はこの三つの公理に基づいたものであるべきものなのだ。尚、シジウィックは以下の三つの公理は自明であるとしているが、功利主義が自明であるとは主張していない。

 例によって以前に自分が訳した記事や他の人の記事を引用しながら紹介していく。

 

ヘンリー・シジウィックは著書『倫理学の方法』にて倫理的な直感と原則の範囲について研究し、それらの中から3つの「本当の明白さと確かさのある直観的な公理」を選び出した。この3つの公理について短く示すことは、道徳的真実とはどのようなものであるかという可能性の例を私たちに示してくれるので、有益であるかもしれない。

(1)公平と平等の公理:「ある種類の行動が私にとって正しい(または不正である)が誰か別の人にとっては正しくない(または不正ではない)のなら、(訳注:その違いは)私とその人が違う人であるからという事実ではなく、二つの事例の間にある何らかの違いに基づいていなければならない」

(2)思慮分別の公理:我々は「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」

(3)普遍的な善の公理:「各々の人は、自分以外の他人にとっての善を自分自身にとっての善と同等に見積もることを道徳的に義務付けられている…偏りなく見た結果ある善の方が少ないと判断された場合や、彼がその善を知ることや得ることの確実さが少ない場合に限り、例外であるが」

 シジウィックは、これらの「合理的な直観」の公理は数学における公理が真であるのとほぼ同じ様に真である、と主張した。*1

 

 この本ではそれぞれが「正義の公理(The Axiom of Justice)」「自愛の公理( The Axiom of Prudence)」「合理的博愛の公理(The Axiom of Rational Benevolence)」と書かれている。公理といっても、「合理的博愛の公理」は他の二つの公理から推論で導き出されるものであるようだ。そして、常識道徳における様々な義務(「嘘をつかない」「約束を守る」など)や日常的な道徳判断は、突き詰めればこの三つの公理によって正当化されるべきものなのである。

 

「正義の公理」は倫理学の用語で言うところの「普遍化可能性」であり、 R.M.ヘアによる道徳判断の分析と重なるところが大きい。

 

 指令主義によると、「~すべきだ」という道徳判断は、 このように「~せよ」という命令を含んでいるが、 それに加えて普遍化可能性 (universalisability) という特徴を持つとされる。 これは要するに、われわれは道徳判断に関しては、 等しい状況においては等しい判断を下すことが要求されるということである。 たとえば、 ある状況Aにおいて太郎が花子に「人の物を盗むべきではない」 と言うならば、状況Aと重要な点でよく似ている状況Bにおいて、 太郎が花子に「人の物を盗むべきだ」と言うと、太郎は矛盾を犯すことになる。 また、太郎と花子に道徳的観点からして決定的な違いがないとしたら、 状況Aにおいて太郎が花子に「人の物を盗むべきではない」と言い、 同時に太郎が自分に「人に物を盗むべきだ」と言い聞かせることも、 やはり論理的な矛盾を犯していることになる。 この特徴は普通の命令にはないとされ、 普通の命令文と道徳判断とを区別するメルクマール(指標)になる。*2

 

 ヘアは、道徳判断が普遍的指令的なものであるとすれば、そのことは選好功利主義…関係者全ての立場に立ってみて考えれば、全員分の選好を最大限に満たす行為を支持するべきだということになるから…を導くと主張した。この本ではヘアの主張には論理の飛躍があるとするジョン・マッキーの反論も取り上げられている。

 シジウィックによる「正義の公理」の議論がヘアの「普遍的指令主義」の議論とどれだけ重なっているかには議論の余地がある。ヘアは「〜べき」という道徳用語の分析にこだわっているが「シジウィックにとって問題なのは、私たちが使う言葉ではなく、私たちが最も行う理由のあることは何なのかということである」(p.126)。

 

「自愛の公理」は先の引用にも書かれているように「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」というものだが、これだけだと自分のことしか言っておらず、他人についてどうすべきかということが示されていないので道徳的な原則としては妙な感じがあする。どうやら、利己主義的な原則でもあれば、他人に対して配慮する場合にも適用すべき道徳的な原則でもあるようだ。このややこしさは、シジウィックによる倫理学の議論では利己主義の可能性が捨てきれないことに由来している。

 

彼は自分は功利主義者であると言いながらも、 功利主義と(倫理的)利己主義どちらも、 実践的原理として捨てがたいと悩んでいたようだ (このことを「実践理性の二元性」と呼ぶ)。*3

 

 この「実践理性の二元性」の問題、またシジウィックとヘアのそれぞれによる利己主義の扱い方の違いについては奥野満理子『シジウィックと現代功利主義』の英訳版が参照されている。…図書館で貸し出し中だったので私は読めていないが。

 ともかく、この「自愛の原理」に対してはバーナード・ウィリアムズやマイケル・スロート(Michael Slote)やラリー・テムキン(Larry Temkin)の反論が取り上げられている。

 スロートは、同じ出来事であっても、それが人生のどの時期に起こるかによってその出来事の道徳的重要さは変わってくるということを指摘する。例えば、政治家としての最初の二十年は成功していて素晴らしい成果を残したが後半の二十年では落ちぶれて成果が残せないようになり惨めに過ごしていた人と、政治家としての最初の二十年は何ら成果を残せずに惨めに過ごしていたが後半の二十年では素晴らしい成果を残すことができた人とでは、後者の方が幸福であり素晴らしい人生であると多くの人が判断するだろう。また、青春時代(in prime)に幸福に過ごすことは子供時代や老年時代に幸福に過ごすことよりもずっと重要なことである、とスロートは論じているようだ。

 4歳の頃にどれだけ幸福な経験をしてもその後の人生に影響はあまりないだろうが、20歳の頃にした素晴らしい経験をすれば人生最良の経験としてその後の人生でも思い出し続けることができるだろう、だから青春時代を道徳的に重要視する理由はある、とは著者らも書いている。しかし、それは同じ経験でも得られる幸福量はその経験をする時代によって違うという間接的な理由であり、重要なのはあくまでも幸福そのものである。そもそものスロートの議論はアリストテレス的な目的論的な人生観に基づいて論じられているものであり、能力が最高に達している時期は本人の幸福に関わらずにその時期自体を重要視するべきであるとしているようだが、ダーウィンの進化論以後の時代にそんな目的論的な人間観を採用する理由はないというが著者らの見解である。

 また、「人生の前半よりも後半に幸福な出来事が起きた方が良い」という考えには、ダニエル・カーネマンらが指摘したようなバイアスが反映されている可能性がある。

 

…例として出てくる彼の研究にこのようなものがあります。まず、痛みを伴う治療の間、患者に苦痛の強さの変化を記録してもらいます。そして治療の後に、全体的にどれくらい苦痛だったかを評価してもらいます。これを比較して分かったのは、全体的な評価は、一番痛かった時の痛さと、治療の終わりの時点でどれだけ痛かったかに大きく影響される一方、苦痛だった時間の長さにほとんど影響されない事でした。リアルタイムで体験した苦痛を「合計」するのと、後になって思い出す苦痛の「合計」は、必ずしも一致しないという事です。*4

 

 

 他方で、人間には現在の出来事に集中している時には後から起こる出来事の影響を過小評価する傾向もあるし、短期的には幸福度をもたらすが長期的な幸福度はほとんど変えないような事象を過大評価するバイアスもある。「より一般的に、カーネマンの研究は、人生におけるある時間は別の時間よりも重要であるということについて"私たちが典型的かつ自然的に考える"ことに私たちはあまり影響を受けるべきでない、ということを示唆している。私たちの典型的で自然的な感情は間違っているかもしれないのだ」(p.133)。時間と幸福に関する私たちの直観は人間の平均寿命が今よりもずっと短かった狩猟採集民の時代に培われた進化的な心理に左右されている可能性が高いが、そんな直観に影響されずに理性的に「自愛の原理」によって判断するべき…というのが著者らの考えである。理性的に考えた結果、何らかの妥当な理由があれば、将来より現在を優先すること(またはその逆)も認められる。「現在は現在であるから大切」という無根拠な考えや、現在の自分と未来の自分とをまるで断絶された別人であるかのように扱うことが非合理でダメなのである。

 

「合理的博愛の公理」の節では、バーナード・ウィリアムズやジョン・ロールズによる功利主義批判が取り上げられて再反論されている。功利主義は「普遍的な観点」を要求するが、それぞれの人々が自分の人生について抱いている「計画」や「integrity(個人の一貫性、全一生)」を無視して普遍的な観点のために行動することを要求するのはおかしい…というのがウィリアムズによる功利主義の批判である。しかし、個人の計画やintergrityを道徳的に重要視しなければならない自明な理由はない、というのが著者らの反論だ。南北戦争前のアメリカの奴隷主は奴隷解放は自分という人間の人生における計画やintegrityを大いに損なうと思っていただろうが、そんな奴隷主の言い分を聞く必要はないだろう。結局のところ「計画」や「integrity」と自己利益やワガママとの間の明白な違いはないのであり、道徳的な判断が自己利益を諦めて他人のために行動することを要求する場合があのはある意味では当たり前のことなのだ。

 ウィリアムズ、ロールズノージックらは功利主義は個人の個別性(separatedness)を無視している、また誰かにとっての幸福を生み出すために別の誰かを犠牲にすることを要求する、と批判する。しかし、シジウィックやヘアによる正義の原理・普遍主義には「関係者全員の立場に立つこと」が含まれているのであり、個人の個別性は初めから考慮されているのだ。「誰かにとっての幸福を生み出すために別の誰かを犠牲にすること」がそれほど問題であるかどうかということについては、パーフィットによる思考実験を改変したものを用いて反論されている。

 

あなたは、地震によって崩れた建物の残骸で生存者を探している。あなたは瓦礫に挟まった二人の人を発見する。二人とも意識は不明だが生きている。ホワイトを助けて彼女の生命を救う唯一の方法は、彼女の側にあるコンクリートの瓦礫を押しのけることだが、その瓦礫はブラックの足に落ちて彼の足指の骨を壊してしまうだろう。しかし、瓦礫を押しのければあなたはホワイトとブラックの両方を助けることができて、二人の生命を救える。ホワイトの側にあるコンクリートの瓦礫を押しのけなければ、ブラックに怪我を負わせずに彼を救うことはできるが、ホワイトは死んでしまう。

(p.139)

 

 この事例において、ホワイトの側にあるコンクリートの瓦礫を押しのけてブラックに怪我を負わせることは許容されるだろうし、ブラックに怪我を負わせないためにホワイトを見殺しにすることはおかしいだろう。「誰かにとっての幸福を生み出すために別の誰かを犠牲にすること」は必ずしも否定されることではないのである。

 

 他にも、道徳的な行為として要求することの程度が大きすぎるという問題を持つ「最大限帰結主義(Maximising consequentialism)」と、これだけすれば道徳的に充分だという閾値が低すぎるという問題を持つ「最小限帰結主義(Satisficing consequentialism)」について取り上げられている。著者らは最小限帰結主義は最大限帰結主義以上に道徳理論として欠陥があると見なしているようだ。

 

 シジウィックは常識道徳を「二つ以上の原則が衝突した場合にどうするかが定まらないので、決定性がない」と否定しているが、彼が自明であるとする3つの公理もそれだけでは具体的な原則を導くことができず、別の方法が必要となる。この、常識道徳を否定しながら自分の公理は正しいと主張するシジウィックの議論がフェアであるかどうかということについても第5章では論じられており、著者らはシジウィックの論法には問題がないとするが、細かくて面倒くさいので省略。

 

 

シジウィックと現代功利主義

シジウィックと現代功利主義