道徳的動物日記

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読書メモ:進化論 vs 道徳的実在論

 

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

『普遍的な観点から:シジウィックと現代倫理学』の第7章の題名は「実践理性の起源と統一(Origins and the Unity of Practical Reason)」であり、進化論と"客観的な道徳的真実が存在する"という考え方(道徳的実在論)との関わりが議論される。

 シジウィックとダーウィンは同時代人だったが、ダーウィンがシジウィックの主張に懐疑的であったように、「客観的で普遍的な道徳的真実(道徳的義務や道徳的原則など)が存在する」という考え方と進化論は相性が悪い。進化論的には、人間が持つ道徳感情や道徳的行為とはあくまで当人が長生きしてより多くの子孫を残すことに都合の良いものが身に付いている訳で、それが「客観的で普遍的な道徳的真実」とやらを反映していなければならないという理由は全くない。人間は狩猟採集民の時代から高度に社会的な生き物であった以上は、一般に道徳的とされる感情…恥や罪の感情とか、限定された範囲での利他心など…を身に付けていないと集団の中でやっていけなくて長生きもできず子孫を残せないので、ある程度の道徳的感情は進化によって生得的に身に付いているだろうが、「合理的博愛の公理」や倫理学的な利他主義が要求するような道徳的義務…自分自身や家族や友人などの自分にとって身近な人と、遠く離れた他人や人間以外の生物とを、等しく道徳的配慮の対象とすること…に呼応するような感情が進化によって身に付けられる理由は存在しないはずだ。私たちが身に付けている心理は真実追求的なものであるとは限らないし、そうではない場合の方がむしろ多いのである*1

 この章では、シャロン・ストリート(Sharon Street)による、道徳的価値の実在論に対する「ダーウィン的なジレンマ」の議論が特に取り上げられている。

 

彼女は、客観的な道徳的真実の存在を擁護する人は不愉快な(uncongential)二つの可能性に直面することになる、と論じる。第一の可能性は、進化的な(淘汰)圧力は、真実を客観的に評価する心構えを持つ存在を選択する傾向を全く持たないということだ。この場合には、我々の評価的な判断(evaluative judgment)の大半は正当化されないということを客観主義者たちは認めざるを得なくなる。第二の可能性は、客観的な道徳的真実を認識することができる人を存在を進化的な(淘汰)圧力は選択してきたということだ。だが、ストリートによると、この可能性は進化の機能についての科学的な理解に反している。

(p.179)

 

 第一の可能性を認めると進化は道徳的真実とは全く関係がないということになり、ほとんど有り得ないような類稀なる偶然が進化の歴史上において起こったと仮定しない限りは、私たちは道徳的な真実を客観的に評価する能力を身に付けていないと考えなければならないはずだ。 

 第二の可能性が科学的にあり得ないということは、上述したように、客観的な道徳的真実を理解する能力は私たちの遺伝的成功とは全く関係ない…自分の生存や繁殖にとって益にならない相手にも道徳的に振る舞うことを要求するわけで、むしろ遺伝的成功に反している…ことに由来する。進化的な圧力は、自分自身を生存させることや子孫を生存させることに寄与する能力は身に付けさせるだろうが、それに関係しないような「真実を認識する能力」をわざわざ身に付けさせることはないはずだ。

 

 …が、シジウィックや著者らにとっては、「進化は私たちにどのような道徳的感情を身に付けさせたか」「私たちが持っている評価的な判断能力の進化的な基礎は何であるか」ということは大した問題ではない。シジウィックは直観主義者であるが、日常レベルの直観や社会における常識道徳はより深遠な道徳的原理…自明で客観的な道徳的真実…によって正当化されなけばならないと論じている。では、進化によって身に付いた道徳的な感情や評価的判断能力は客観的な道徳的真実とは関係がないとすれば、どうすれば私たちは客観的な道徳的真実を認識することができると言うのだろうか?…理性を用いることによって認識するのだ、とシジウィックや著者らは論じる。

 

道徳的真実を認識するという特定の能力は私たちの繁殖的な成功を増させない、とストリートは正しくも指摘している。だが、理性を用いる能力(capacity to reason, 推論を行う能力)には私たちの繁殖的な成功を増させる傾向があるはずだ。

…(中略)…理性は私たちの生存を妨げるような諸々の問題を解決することを可能にしたために、私たちは理性的な存在になったのかもしれない。しかし、理性を用いることが可能になってからは、私たちの生存に寄与しないような真実を理解して発見することが私たちには避けられなくなったのかもしれないのだ。このことは数学や物理学に関するいくつかの複雑な真実について当てはまるかもしれない。また、パーフィットが示唆しているように、私たちにとっての規範的で認識的な信念のいくつかにも当てはまるかもしれない。例えば、ある議論が妥当であり前提が真である時にはその結論も真であらなければならないという信念であり、その事実は議論の結論を信じるということへの決定的な理由を私たちに与えるのである。

(p.182)

 

 進化が私たちに身に付けた感情や直観ではなく、進化が私たちに身に付けた理性や推論能力こそが普遍的な利他主義的などの道徳的な原則に沿った行為を行うことを可能にした…ということは著者らだけでなく様々な論者も主張している。この章では(他の章と同じく)パーフィットの主張が特に取り上げられているが、日本で最も馴染み深いのは進化心理学者のスティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』で行った議論であろう(もっとも、そのピンカーの議論自体が、『普遍的な観点から』の著者の一人であるピーター・シンガーが『拡大する輪:倫理学、進化、道徳的進歩(Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress)』で行った議論を下敷きにしたものである。また、この本では言及されていないが、心理学者のマイケル・シャーマーも理性的な思考(科学的思考)が人々の道徳的能力を発展させたと論じている)*2

 

 上述した部分がこの章のキモであり、残りの部分では、日常的な道徳的判断や常識道徳の多くは進化心理学的な事情を反映したものであり、理性的な道徳判断とは相反するものも多く存在するということが論じられる。例えば、近親相姦や同性愛は本人たちの同意があるなどのどんな条件にもかかわらずに常に不正であるという反応、なんらかの行為を「行った」結果として誰かが傷付くことは不正であるように強く感じられるがなんらかの行為を「行わなかった」結果として誰かが傷付くことはそれほどの不正であるように感じられないという「行為-非行為」に非対称性があるという感覚などは、私たちの進化の歴史における事情に影響されて身に付いた感覚であり、理性によって導き出される道徳判断とは別物である。そして、私たちの日常的な道徳的判断や常識道徳の背後にある進化心理的な影響を一つ一つ明らかにしてそれらの非合理性を暴露していくことは、非合理的な進化心理に影響されない功利主義を採用することへと私たちを導いていく*3

 

 一方で、世界各地の文化における道徳ルールの中には、進化的な成功(生存や繁殖の成功)とは相反するようなものも存在する。例えば、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」という「黄金律」はキリスト教イスラム教だけでなく儒教や仏教やヒンドゥー教の教えにも存在する*4。黄金律の教えはシジウィックが客観的な道徳的真実であると見なしている「合理的博愛の公理」と非常に近い。しかし、黄金律が要求する道徳的行為を実践するとなると、血縁利他主義や群淘汰の理論を採用したとしても生存や繁殖には不利になると言わざるを得ないだろう。進化的な事情とはむしろ相反するにも関わらず黄金律が古来から各々の地域で独自に採用されていることは、数学や科学の普遍的な真理が古来から各々の地域でそれぞれの人々が理性を用いることで独自に発見されてきたように、道徳的な真実も人々が理性を用いることによって各々の地域で独自に発見されてきたということを表している、と考えられるだろう。

 

私たちは、注意深い省察を行う工程の結果として、シジウィックが言うところの「普遍的な観点」へと私たちを導く直観を形成するのだ。

(p.193)

 

 信頼できる直観を形成する工程には以下の三つの要素が必要になる、と著者らは論じる。

 

1・(その直観が)自明であるという確信を導く、注意深い省察

2・他の注意深い思考家との、独立した合意

3・その直観は真実追求的ではない心理的工程の結果である、という妥当な説明が存在していないこと

(p.195)

 

 

 …要するに、進化は私たちに理性的思考能力を身に付けさせてくれたのでそれを用いて妥当な道徳的判断を行ったり道徳的真実を認識したりするべきだが、理性的思考能力以外の進化的な感情や直観は信用ならないものである、感情よりも理性を優先すべき、というのがこの章の主な主張である。いつも思うのだが、シジウィックは「直観主義者」であるはずなのに(著者らの解説を読む限りでは)全然直観的な議論をしていないので話がややこしくなっている。

 

 この章の終わりには前章で論じられた「実践理性の二元性」の問題を解決するための議論がされる。物事の理由には「動機付け的な理由(motivating reason)」と「規範的な理由(normative reason)」の二つがあるのであり、その二つは混同せずにきっちり分けて理解して、利己主義は前者で利他主義は後者で、道徳においては後者を採用すべき、という議論である。動機付けとなる理由と規範的な理由が一致する場合もあれば相反する場合もあるだろうが、後者の場合には規範的な理由が求める行為を行うべきだ、ということになる。パーフィットは著者らの主張に近いところまで行っていたが「動機付けとなる理由」を切り捨てることができず、「実践理性の二元性」の問題を解決することができなかったらしい。それは、彼が「反省的均衡」を行ってしまったために日常的・直観的な判断を捨て切ることがパーフィットにはできなかったためである…そして、そもそも「反省的均衡」に批判的な著者らはパーフィットのように日和ることもなく堂々と「実践理性の二元性」を解決した、とのことである。

 

規範倫理や応用倫理において反省的均衡を用いる人たちは、概して、一貫性のある規範理論と一般に受け入れている道徳判断のうちの大半(少なくとも多く)との間の均衡を達成しようとするべきだと想定している。だが、そんな想定をする必要はないのだ。自分自身の利益になることを行うことは合理的である、という一般に受け入られた見解を彼らは否定すればよいのであり(自分自身の利益になることを行うことについての強い動機付け的な理由が人々には存在するかもしれないとしてもだ)、二つの可能な行為のうち片方は物事を人々にとって分け隔てなく善くするとすれば(things go impartially better)その行為を行うことについての決定的な理由を私たちは持っている、ということを認めればよいのである。

(p.199)

 

 

 次の章からは功利主義の理論の詳細へと議論が移行し、功利主義の対象となる「善」とはなんぞや、ということで選好充足功利主義と快楽功利主義がそれぞれに取り上げられることになる…。

 

*1:著者らは言及していないが、道徳的な感情が真実追求的なものではないどころかむしろ真実追求と多くの場合には相反する、という議論についてはこの本が特に面白い。

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:この部分の議論は、日本語で読める文献としてはジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ』で行なわれている議論にかなり近い。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

黄金律 - Wikipedia