道徳的動物日記

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「他人の立場に立つ」:黄金律、視点取得、共感、物語、理性、輪の拡大

 

 何度か書いてきたことだが、儒教キリスト教などの伝統的な道徳にせよ、現代における倫理学理論にせよ、道徳的な規範の多くには「黄金律」と呼ばれる考え方が含まれている*1。「あなたが人からしてもらいたいことを、人にしてあげなさい」という肯定的な形にせよ、「自分の嫌だと思うことは人にもするな」という否定的な形にせよ、黄金律を抜きにして道徳というものを考えるのは難しいだろう。結局のところ、道徳というものは「他者に対して自分は何をするべきか/どうあるべきか」ということについての物事である部分が大きいし、他人についての「〜べき」を考える際には「自分が何をしたいか/何をしたくないか」だけを考えている訳にはいかず「他人は何をされたいか/他人は何をされたくないか」ということをも考えなければいけないのだ。

 

「利益に対する平等な配慮」を提唱するピーター・シンガーにせよ、またシンガーのお師匠さんであり道徳の普遍可能性という性質から功利主義を導き出したR・M・ヘアにせよ、彼らが提唱しているのもまた一種の黄金律だ*2。何らかの道徳的な行為や道徳的な意思決定をする際には、その行為や意思決定が自分だけにもたらす影響だけを見るのではなく、行為や意思決定に影響される関係者全員の幸福や利害を、それぞれの関係者についてその人自身の立場から見て、そして(自分を含む)全員の利害や幸福に平等に配慮しなければいけない。ポイントとなるのは「その人自身の立場から」見ることと「平等に配慮」することだ。

 例えば、あなたが友人十数名を招いてホームパーティーをすることになったとしよう。あなたは料理が上手であり特別な材料を使わなくても十分に美味しい料理が作れるが、たまたま特別に上等な豚が丸ごと手に入って、この豚を丸焼きにすればすごく美味しい料理をパーティーの客たちに振る舞うことができる*3。しかし、そのパーティーの客の半分はイスラム教徒であり、彼らは宗教上の戒律のために豚肉が食べれない。この時、「俺は豚の丸焼きが大好きだし、豚の丸焼きを食べたいと思っている。自分がしたいということを他人にもするのが黄金律なのだから、俺はパーティーで豚の丸焼きを振る舞うべきだ」とあなたが考えてしまったとすれば、あなたは誤っている。…たしかにあなたは「あなたが人からしてもらいたいことを、人にしてあげなさい」という黄金律を実践しようとしているのだが、他人の幸福や利害についてその人たち自身の立場から見ることを怠ってしまっているからだ。あなたが"してもらいたい"と思うことでも、属性や背景などの諸々の事情が異なる他人にとっては、"してほしくない"と思うことであるかもしれない。また、「俺はイスラム教徒じゃないからイスラム教徒には配慮しなくてもいい」とか「確かにパーティーには6人のイスラム教徒が来るが、他の7人の客はキリスト教徒だから、多数派を優先して豚の丸焼きを振る舞おう」などの理屈で考えるのも、関係者全員の利害に平等に配慮しているとは言い難い。豚肉を使わないが美味しい料理を振る舞った時と、豚の丸焼きを振る舞った時のそれぞれについて、パーティーの関係者たち一人一人の幸福や利害はどうなるか、ということを考えるべきなのだ。

 ともかく、黄金律は道徳にとって欠かせないし、また黄金律を実践するためには「他人の立場に立つ」こと…他人の視点を取得するということが欠かせない。そして、この視点取得というものは一朝一夕には行えないものであるのだ。

 

 まず、私たちには共感というものが備わっている。他人の苦しみを自分の苦しみのように感じたり、他人が幸せになった時には自分も嬉しくなるといった感情だ。日常的な生活の中では、この共感という感情が道徳的な判断を導いてくれることも多いだろう。

 だが、心理学者のポール・ブルームをはじめとした多くの人々が指摘しているように、共感には様々な限界がある*4。共感による判断は多くの場合には視点取得というよりも自己投影であり、「自分だったら嫌だと思うから他人も嫌だと思うだろう」という判断にはなるが、自分とは異なる背景や立場を持つ他人についての理解を伴う判断にはなり難い。また、「誰に対して共感を抱くか」ということは様々な事柄に左右されてしまうので、平等な配慮とは相反することが多い。アザラシや猫のようにふわふわして丸っこくて大きな頭と目玉を持った動物はイタチやカラスなどの動物たちよりも私たちの共感を誘いやすいし、赤ん坊や子供は私たちの共感を抱く人は多いがおっさんに対しては共感を抱く人は少ない。だが、イタチだってアザラシと同じように痛みを感じるのだし、子供よりもおっさんの方が苦しんでいるという事態は往々にあるだろう。誰かの見た目とその誰かの痛みや苦しみとは本来関係がないのであり、事態の本質とは無関係な見た目に振り回される判断は平等的なものとは言い難い。…また、私たちは近くにいる相手や目に見える相手には共感を抱きやすくても、遠くにいて目に見えない他人に共感を抱くことは難しい。未来に生まれてくるであろう人々に対して共感を抱くのはさらに難しい。

 そして、私たちには共感の他にも様々な感情が備わっている。小さな群れから成り立つ狩猟採集社会の中で進化していった人間には身内贔屓の感情や排外的な感情が備わっているのであり、自分の友人知人や自分と同じ国の国民に対しては共感を発揮できる人が、知らない人や外国人に対してはひどく冷淡で残酷になるということが有り得る。また、集団の外の人に対する残虐行為が、集団の内側の人に対する共感によって肯定されるということもあり得るだろう(「あの国のテロでうちの国の同胞が傷付いたから、あの国の連中を皆殺しにしてしまえ」という風に)。集団内であっても、ルールを破った人や犯罪者に対しては、冷静に考えれば理解できるような事情がその人たちの背後にあるとしても私たちの共感は働きづらく相手の事情を理解する気にもなれないし、犯罪の被害にあった人たちに対する共感が犯罪者に対する過剰な処罰に結び付くこともある。…とにかく、共感というものはそれだけでは道徳の導き手としてはあまりに頼りないのだ。私たちが黄金律や視点取得を正しく実践するためには、私たちに生来備わった共感以外のなんらかの力が必要となる。

 

 心理学者のスティーブン・ピンカーは、世界における暴力は歴史を通じて減り続けており人間は道徳的になり続けているということを『暴力の人類史』で論じている。

 ピンカーは、20世紀に様々な「権利革命」が起こったこと…人種的マイノリティ・女性・同性愛者・子供・動物など、それまで社会において道徳的な配慮がほとんどなされていなかった存在に対して配慮がされるようになりそれらの人々の権利が認められるようになったこと…の一因として、テクノロジーの発達によるアイデアと人の拡散を挙げている。

 

イデアと人の拡散が、どうして暴力を減少させる改革につながるか?これにはいくつかの経路がある。最も明白なのは、無知と迷信の暴露である。教育を受けた、互いに交流のある大衆は、少なくとも全体として、長い時間のうちにはきっと有害な確信の誤りに気づくようになる。たとえば、別の人種や民族のメンバーは生まれつき強欲で不実であるとか、経済的な不運や軍事的な不運は少数民族の裏切りのせいであるとか、女性はレイプされても平気だとか、子どもを社会化するには叩かなくてはならないとか、人は道徳的に堕落した生き方の一端として同性愛者になることを選ぶとか、動物は痛みを感じる能力がないだとか、そういった誤った思い込みである。暴力を許容させる思い込みからの近年の脱却で思い起こされるのは、かのヴォルテールの警句である。いわく、人に馬鹿げたことを信じさせられる連中は、人に残虐行為を働かせることもできるのだ。

因果関係のもう一つの経路は、自分とは違う見方をしている人の視点を取得することがますます推奨されるようになったことである。人道主義革命には、クラリッサやパメラやジュリーがいて、アンクル・トムの小屋もオリヴァー・ツイストもあり、壊され、焼かれ、鞭打たれた人々についての目撃報告があった。電子の時代になると、そうした共感を呼ばせるテクノロジーがいっそう広く人びとの生活に浸透した。アフリカ系アメリカ人やゲイの人びとが、まずはバラエティショーのエンターテイナーとして登場し、やがてトークショーのゲストや、シットコムやドラマのなかの共感をよぶ登場人物しても出てくるようになった。…

(『暴力の人類史』下巻、184ページ)

 

 また、20世紀以前の欧米で起こった奴隷解放運動や人道主義運動についても、それらの運動が起こった一因として、小説を始めとしたフィクションの普及をピンカーは挙げている。例えばアメリカでは『アンクル・トムの小屋』や『ハックルベリー・フィンの冒険』といった作品が黒人奴隷に対する人々の同情や共感の気持ちを促進させて、人々の奴隷性に対する反対の気持ちを強めた。とにもかくにも、小説を読むという行為は、その登場人物たちの思考や感情を追って、登場人物自身の立場から彼らのことを理解するという行為である。そして、小説を読むことで得られた視点取得の能力は、現実の世界の他者に対しても発揮されるのだ*5

 

しかし考えてみればフィクション上での経験が現実での経験にも同じような効果をもたらすのは当然のことで、人はしばしばその両者を記憶のなかでごっちゃにしてしまうのである。

(……略……)

共感の科学は、共感が正真正銘の利他主義を促せること、および、共感が拡大されうることを明らかにしてきた。つまり架空の人物を含め、誰かの視点を通じてものごとを見てみると、それまで共感を持てなかったその誰かや、その誰かが属する集合に対しても共感が持てるようになるのである。…

(『暴力の人類史』下巻、390ー391ぺージ)

 

 

 …しかし、メディアやフィクションは私たちが共感を抱いて視点取得をする対象となる存在を増やしたかもしれないが、それにもやっぱり限界は存在する。先にも書いたように、まだ存在していない人々のような仮定的な存在に対して共感を抱くのは難しいが、地球温暖化などの環境問題や資源問題の悪影響は未来の人々に及ばされるのであり、正しく黄金律を実践するためには未来の人々についても配慮しなければいけないはずだ。また、100万人が苦しむことはひどく悪いことであるというのは私たちには理解できるが、1000万人が苦しむことはその10倍悪いことであるというのは、数値的としては理解しても、感覚としては掴みづらい。戦争や貧困や畜産制度のように、何千万や何万億もの存在が苦しんでいる問題というのは本来なら最も重大な問題であるはずなのだが、その問題の重大さに見合うほどの共感を私たちは抱くことは不可能だろう。…だが、私たちがどう思うかに限らずそれらの問題によって苦しんでいる存在はいるのであり、黄金律や視点取得を正しく実践するためには、仮定や数量といった私たちの感覚にはそぐわない要素をも考慮した抽象的な思考を行わなければならないのだ。

 

 ピンカーは、現代に生きる私たちを先祖たちよりもずっと道徳的な存在にしている最大の要素として、知能と理性の発達を挙げている。

 

私たちの認知機能は、特に必要があってこの方向に進化してきたのではない。だが、ひとたび制限のない推論システムが獲得されると、たとえそれが食料調達や同盟確保といった日常的な問題のために進化したのであっても、その推論システムは必然的に、別の命題の帰結である命題まで受け入れるようになる。あなたが自分の母語を獲得して、「これはネズミを殺したネコです」を理解できるようになると、あなたは必然的に「これは麦芽を食べたネズミです」を理解することになる。「37+24」の足し算の仕方を覚えると、必然的に「32+47」の輪を導くようになる。この芸当を、認知科学者は体系性(システマティシティ)と呼び、言語と推論の基礎にある神経系の複合的な力によるものと見なしている。したがって、種のメンバー同士が互いを理で説く力を持っていて、その力を発揮する機会を十分にもてれば、遅かれ早かれ、彼らは非暴力をはじめとする相互配慮による互恵に気づくことになり、それをさらに広く適用しようとするようになる。

これこそピーター・シンガーが最初に明確化した「輪の拡大」の理論である。私はこのシンガーの比喩的表現を、視点取得の機会が増大したことによって同情の範囲がさらに多様な人間集団に広がったという歴史的プロセスの名称として使わせてもらってきたが、シンガー自身の念頭にあったのは、むしろ感情よりも知性だった。

(『暴力の人類史』下巻、495ぺージ)

 

 

 シンガーをはじめとした哲学者や思想研究者たちは、私たちの道徳的思考の発達を思想史に求めることが多い。つまり、ある哲学者が画期的な議論を行ったこととか、哲学者たちのコミュニティの間で主流であったり有力であるとされる見解や主義の移り変わりを、私たちの道徳的思考の発達を示すものとして挙げるのである。しかし、哲学者とか知識人とかの間で普及したことが社会全般に普及するという保証はない。

 『暴力の人類史』でピンカーが示しているのは、経済や法律制度などの社会環境の変化がいかに私たちの内面に影響を与えて、私たちの思考までをも変えていったかということだ。ピンカーの議論に大きく影響を受けた著書『The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity toward Truth, Justice, and Freedom (道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか)』を書いた、マイケル・シャーマーの記事から引用しよう*6

 

1980年代、社会学者のジェームズ・フリンが画期的な発見をした。20世紀の初頭から、人々の実質的IQの平均点が10年ごとに3点ずつ上がっていることを発見したのだ。人々のIQが上昇していることは、IQテストの内容が平均点を100に戻すために世代ごとに更新されて改良されてきたという事実のために隠されていたのであった。

「フリン効果」として知られるこの現象には驚くべき意味が含まれている。現代において平均的な知能(100点)を持っている人が100年前に行ったとしたら、標準偏差により彼のIQスコアは130点を記録することになる。130点は「非常に優れた」IQスコアとして分類される点数だ。つまり、私はたちはどんどん賢くなっているのだ。それも非常に賢くなっている。

 

…19世紀まではほぼ全ての人が鋤や牛や機械を使って生きていたが、現代では単語・数字・記号を使って生きている人が昔に比べて遥かに多くなっている。私たちの経済は農業や工業的な経済から情報的な経済へと移行し、私たちに生活の全ての段階において概念的で抽象的な思考を行うことを求めるようになったのだ。

 フリン自身も、「科学の眼鏡」をかけて世界を観察する能力が人々の間で促進されたことがフリン効果が起こった原因であると考えている。私の主催する雑誌で彼にインタビューした際、フリンは心理学者のアレクサンダー・ルリアによる前世紀のロシアの小作農の推論能力についての研究に言及した。「ルリアが研究したロシアの小作農たちは読み書きができなかったのですが、彼らは仮説を真剣に扱うことにも消極的でした。『常に雪が降っているところから熊が来たと想像してください。また、常に雪が降っているところから熊が来た場合には、その熊は白い熊であると仮定してください。さて、北極にいる熊の色は何色でしょうか?』とルリアは言いました。小作農の返事は『俺は茶色い熊しか見たことがない。北極から来た老人が教えてくれるなら、俺も信じるかもしれない』というようなものでした。小作農たちは仮説的・抽象的なカテゴリに興味がなかったのです。彼らは具体的な現実に基づいて考えていました。『ドイツにはラクダがいません。Bという場所はドイツにあります。さて、Bという場所にラクダはいますでしょうか?』。『そのBという場所が十分に大きければ、ラクダはいるはずだろう 。それか、もしかしたらそのBという場所はラクダがいるには小さ過ぎるかもしれない』と小作農たちは答えました」。

 

 

抽象的に考える能力が上昇した理由の一つは、科学的な思考方法…つまり理性的・合理的・経験主義的・懐疑的な思考方法が普及したことにもあるかもしれない。科学者のように考えることは、私たちの持つ知的能力の全てを駆使して、感情的・主観的・本能的な考えを克服することを意味している。また、科学的な思考方法は、物理や生物などに関する本質だけでなく、社会や道徳に関する本質についてもより優れた理解を追求することができる。政治学や経済学などの学問、人々はどのように配慮されるべきかということの抽象化などを行えるのだ。  

 

 

人類における道徳の劇的な向上は啓蒙時代から始まった。今日の西洋社会に暮らすほとんどの人は、生命・自由・財産・結婚・出産・投票・言論・礼拝・集会・抗議・自律・幸福の追求などの権利を行使して生きている。リベラルな民主主義は独裁制神権政治を追い払い、最も普及した政治体制となっている。奴隷制や拷問は世界中のどんな場所でも違法となっている(今でも、時には奴隷制や拷問が実行されることはあるが)。死刑が存在している国も非常に減っており、2020年代のいつかにはこの世から死刑が存在しなくなる可能性も高い。暴力と犯罪は歴史的に少なくなっている。私たちは道徳の領域を拡大し、より多くの人を権利と尊重に値する人間コミュニティの仲間であると見なすようになった。一部の動物たちでさえも、感覚ある存在として道徳的配慮に値すると見なされるようになってきている。

 全ての道徳において、抽象的な推論と科学的な思考は基礎として欠かせない認識能力である。「己の欲せざるところを人に施すなかれ」という黄金律と呼ばれるルールを実行するためにはどのように頭を働かす必要があるか、考えてみよう。自分から他人へと立場を変えることと、ある行為Xがその行為Xを実行する人や加害者にとってではなくその行為Xの対象となる人や被害者にとってはどのように感じられるかということを推定することが、黄金律を実行するためには求められる。黄金律は数千年前から存在していたが、過去の黄金律は今日に比べると非常に限定されたやり方でしか実行されなかった。ジェノサイド・幼児殺し・レイプ・他の部族の人々からの略奪などの物語に溢れた旧約聖書が良い証拠だ。

 今日では道徳の弧は正しい方向へと向かっていると思われる。その理由の一部は、心理学者のスティーブン・ピンカーが著書『暴力の人類史』で「道徳的フリン効果」と呼んでいるような現象が起こっていることにある。ピンカーは「(道徳的フリン効果という)考えは馬鹿げていない」と書いているが、私はピンカーよりもさらに強く主張しよう。抽象的な推論能力が全般的に上昇したことは、抽象的で道徳的な推論能力という特定の能力の向上…特に、私たちの友人知人でもなければ親族でもない人に関して道徳的に推論する能力の向上をもたらした、と私は考えているのだ。

 

啓蒙時代の哲学者や他の学者たちは、科学の方法を意識的に採用することで権利・自由・正義などの抽象的な概念を生み出した。その後の世代の人々は、行列推理の問題を解くための思考方法を身に付けたのと同じように、権利や正義などの抽象的な概念を他人に適用して考えることも身に付けるようになったのだ。

 

 引用が長くなってしまったが、とにかく、社会が近代化したことやそれに伴って教育が発展したことは、私たちの抽象的な思考能力を大いに発展させた。そうして発展した抽象的思考能力は、私たちが黄金律を実践して視点取得を行う能力も向上させて、その範囲を飛躍的に拡大させたのだ。

 

 ちょっとまとまりがないし前半と後半で話がずれてしまった気もするが…とにかく、ピンカーの『暴力の人類史』と倫理学との関係や、黄金律や視点取得という道徳的な事柄の背景にある諸々の物事は示せたと思う。

 

 

 

暴力の人類史 下

暴力の人類史 下

 

 

 

 

 

*1:

黄金律

*2:ヘアについては私もあまり詳しいわけではないのだが。シンガーの「利益に対する平等な配慮」についてはこのブログのかなり初期に記事を書いている。

davitrice.hatenadiary.jp

*3:動物倫理の問題は考えないことにする

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

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*5:小説が人々を道徳的にする、という考えはピンカー以外にも多くの学者たちが論じている考えなのだが、小説というものを最も直接的に研究対象にしているはずの文学研究者は、この考えを好まない。「今日では、歴史学者のリン・ハント、哲学者のマーサ・ヌスバウム、心理学者のレイモンド・マーやキース・オートリーなどが、共感を拡大して人道主義的な進歩を推進するものとして、フィクションを読むことの有効性を支持している。その仲間には文学者も入るだろう、と普通なら思うかもしれない。自分たちの専門分野が学生にも資金にもこぞって敬遠されている時代にあって、これぞ進歩の推進力なのだと示したくてたまらないはずだからと。しかし、『共感と小説』のスザンヌ・キーンを始め、多くの文学研究者は、フィクションを読むことが道徳的によい効果を与えるのではないかという考えに苛立ちを隠さない。彼らからすると、その見方はあまりにも中級知識人的で、セラピー志向で、キッチュで、センチメンタルで、オプラ的に思えるのだ。」(『暴力の人類史』下巻、389ページ)

*6:

davitrice.hatenadiary.jp