オックスフォードのPractical Ethicsブログに、2015年の4月に倫理学者のジョセフ・ボーウェン(Joseph Bowen)が公開した記事を訳して紹介。
「選挙権を認められるべき人々とは誰だろうか?」 by ジョセフ・ボーウェン
あなたが思い付けるなんらかの事件(どれだけ些細な事件であってもよい)について、陪審員たちが判決に達したと仮定してみよう。そして、その陪審員たちに関する以下の事実が明らかになったとも仮定しよう。
1:無知な陪審員。その陪審員は裁判に対して全く注意を払わず、被告についてどう考えるかと聞かれた時には、有罪であると恣意的に決め付けた。
2:非合理的な陪審員。その陪審員は裁判に対して多少は注意を払ったが、裁判とは関係のない理由…希望的観測や奇妙な陰謀論など…に基づいて結論を下した。
3:道徳的に不当な陪審員。その陪審員は、偏見に基づいて被告は有罪であると決め付けた(被告はルーマニア人だから有罪だ、など)。
上記のいずれのケースでも、陪審員たちは権限と正当性を欠くはずだ(裁判は、おそらく再審となるだろう)。ある陪審員の決定は、財産や自由、そして生命を剥奪することによって、人々の人生に対して重大な影響を与える可能性がある(その影響の範囲は、被告本人だけとは限らない)。上記の三人の陪審員が違反したと見なすことができる原則は、以下のようなものだ。
適正原則(Competence Principle):不適正または道徳的に不当な審議機関の決定の結果、もしくは不適正または道徳的に不当な方法で下された決定の結果に基づいた強制力と脅迫力によって、市民たちの生命・自由・財産を奪うこと、または市民たちの人生の展望を変えることは、不当である。(Brennan, 2011,704)
適正原則に違反している以上、上記の三人の陪審員が下したような決定を政府が故意に被告に強制することは不当である。それぞれのケースについて裁判官が「しかし、陪審員たちの大半は適正な仕方で結論を下した」と言ったとしても、それでは充分ではない。「陪審員全体のうちの99%は適正な方法で結論を下した」としても一緒だ。どちらにしても、被告は「この特定の陪審員は適正な方法で結論を下さなかった。だから、彼の決断が審議の結果に影響を与えるべきではない」と主張することができる。適正原則に対する違反がどこかで生じていたとすれば、下された結論もその結論を下した人も、正当性や資格が取り上げられるべきだ。その際、適正原則は誰が権限を持つべきかということについては一切言及していない。むしろ、適正原則は、誰が権限を持つべきでないかということを示す原則なのだ(このことを、反-権限条項と呼ぼう)。
私がここで拝借している素晴らしい研究を行ったジェイソン・ブレナン(Jason Brennan)は、適正原則は陪審員たちだけに適用されるのではなく、選挙権にも適用されるべきだと論じている。政府は、陪審員と同じように、人々の人生に重大な影響を与える。ブレナンが例に挙げているのは、悪質な金融政策を実行して景気後退を恐慌にまで悪化させる政府、または費用のかかる破壊的で非人道的な戦争をもたらすような決定をする政府である。
選挙権を持つということは、ある程度の政治的権力(どんなに小さなものであったとしても)がそれぞれに市民に与えられるということだ。そして、その政治的権力は当人自身に対してだけ発揮されるのではなく、他の人に対しても発揮される。先に挙げた陪審員の例と同様に、有権者たちも、間違った理由に基づいて間違った結論を下す可能性がある。以下の三人の有権者について考えてみよう。
1:無知な有権者。その有権者は選挙に対して全く注意を払わず、投票を求められた時には、特定の立候補者や政党を恣意的に選んだ。
2:非合理的な有権者。その有権者は選挙に対して多少は注意を払ったが、選挙とは関係のない理由…希望的観測や、真偽が定かでない社会科学の様々な仮説など…に基づいて投票する候補者を決めた。
私はブレナンに同意する。 彼らがこのように適正でない仕方で投票を行う限り、上記の三人の有権者たちは、私の人生に重大な影響を与える政府を選択することが認められるべきでない。ブレナンは以下のように書いている。「他の有権者たちを含めて、私に対して権力を発揮する人々は、それを適正で道徳的に正当な仕方で行うべきだ。そうでなければ、正義の問題として、彼らは政治的権力を持つことから除外されるべきであるし、投票する権利も持つべきではないのだ」(Brennan 2011, 704)。ブレナンは、選挙権を制限することによる選良政治(epistocracy)を擁護している。つまり、知識と適正がある人々による政治だ。事実、適正がないという理由で子どもたちは投票から除外されているという事実をふまえれば、現代の民主政治はある程度までは選良政治であるの(非常に弱い程度の選良政治ではあるが)。
ここまでの議論では、普遍的選挙権は適正原則に違反するために不当である、ということが主張されてきた。しかし、選挙権の制限そのものは不当ではないのか?ある部分では、より選良政治的な投票システムが妥当であるかどうかは、どのような人物が適正に欠けるかということついて私たちがいかに判断するかということにかかってくる。これは、議論の出発点としても良さそうだ(ただし、その前に、可能な限り多くの人々が投票できる方が良いと私は考えている、とは言わせてもらおう…不適正さの問題は残るとはいえ)。
適正原則を満たすための最も妥当な方法…すなわち、実際問題としてコストがかかり過ぎたり非現実的であったりしない方法…とは、運転免許試験に類似した、有権者試験である。ブレナンが提案する暫定案によると、一般的な社会科学に関する問題と選挙の立候補者に関する基礎的な知識が有権者試験で問われることになる。私自身が最も妥当だと考えているバージョンの有権者試験について、かなり大雑把にではあるが示してみよう。有権者になりたいと望む人々は、その選挙において行われている議論を自分が理解できていることや、どの立候補者がどの公約を主張しているかを答えることが可能である、ということを示さなければならない(試験の問題用紙には、各政党の公約の最低1バージョンが、適度な文字数の範囲内で書かれている。また、各選挙区それぞれの問題用紙には、選挙区ごとの立候補者たちの主張内容も含まれている)。本質的には、それは理解度確認テストとなるだろう。立候補に関する知識よりも社会科学的な知識を問うことの方が難しい問題となるだろう、と私は考えている。たとえば、立候補者たちの主張の妥当性を正確に判断することが有権者に可能であるかどうかを測定する方法を発案するのは、非常に難しいであろう(特に、社会科学や経済に関連した問題である場合には)。とはいえ、線引きをすること自体は可能であるように思われる…たとえば、移民はイギリスに経済的な利益をもたらすということは何度も何度も証明されてきた(参考文献欄にてリンクしている記事を参照せよ)。だが、多くの有権者たちは逆に考えている。このような場合には、ファクト・チェックを行う用紙が役に立つことだろう。この事例はメディアや表現に関する問題にも関わってくるが、そもそもそれらの問題自体が複雑なものだ。
では、このような試験に対する反論にはどのようなものがあるだろうか?ここが議論の出発点だ!適正原則の他にも、権力を分配するうえで要求されるかもしれない別の原則がある(この原則は、デビッド・エストランド(David Estlund)の著書『民主政治の権限(Democratic Authority)』にて示されている)。
適切な受容可能性の原則(Qualified Acceptability Requirement):権力の分配を正当化する根拠は、いかなるものであっても、全ての適切な視点から受容できるものでなければならない。
有権者試験のなかで、適切な受容可能性の原則を満たすことができるバージョンは存在するだろうか?まず、特定の人々が適正原則を満たせられないのは背景に存在する社会-経済的な不正義の結果である可能性がある、というもっともな理由で有権者試験に反論することはできるだろう。たとえば、貧しくて教育をあまり受けられなかったことや、選挙で問題となっていることを学習するには余暇が足りないために適正原則を満たせられない、などの可能性が考えられるということだ。この反論は、選挙権を持つ人は自分が属する社会グループの利益になるように投票するはずだ、という前提を必ずしも含んでいない。単に、社会-経済的不正義が理由となって特定のグループの市民が投票をできないことは不当であるかもしれない、ということだ。この反論に対しては、各総選挙の前には公休日を設けることで有権者が教育を受けるための時間を確保する、という提案を行うことができるだろう。また、選挙や政治について知識を得たいと望む人のために、夜間や週末に講義を開講することもできるかもしれない。別の反論は(先の反論と全く関連がないわけでもないのだが)、エストランドが人口統計的反論と呼ぶものだ。有権者試験によって選挙権を得られた人々の集団には、彼らの認識に問題を及ばせる性質…たとえば、特定のバイアスなど…が不均衡に存在しているかもしれないために、選挙権を制限することでもたらされる選良政治的な利益が相殺されてしまうかもしれない。第三の懸念は、有権者試験そのものが既存の政府が権力を維持するための道具として使われてしまう可能性だ。たとえそのリスクが僅かであるとしても、この懸念に基づいた反論は妥当であると認めることができるかもしれない。
この記事の制限のために、上記の反論やそれらに対する再反論について、私の意見を詳しく述べることはできない。むしろ、私の目的は、議論の余地はないと多くの人が考えているであろう信念に対して異議を申し立てることにある(ジェイソン・ブレナンの驚くべき論文に感謝する)。結びとして、適正原則を満たすために…あるいは、少なくともブレナンが論じている不正義を相殺するために…選挙権を制限するよりも先に実行することのできる処置が存在するかもしれない、と示唆しておこう。たとえば、報道機関に対して疑問を呈することはできるだろうし、政治に関する我々の不適正さと無関心に対する報道機関の責任を問うこともできるだろう。
参考文献・リンク:
Jason Brennan (2011). ‘The Rights to a Competent Electorate’, The Philosophical Quarterly, 61/25, pp. 700-24.
David Estlund (2009). Democratic Authority (Princeton University Press).
British public wrong about nearly everything, survey shows | The Independent
UK gains £20bn from European migrants, UCL economists reveal | UK news | The Guardian
Too few voters understand immigrants’ role in UK recovery | UK news | The Guardian
Shouting about the economic benefits of migration isn't the way to persuade people - Telegraph
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