前回の記事でも言及した内容とはまた別口で、『ふだんづかいの倫理学』を読んで考えたことについて書く。
この本の後半の特徴は、倫理学の内容を「守りの倫理(消極的倫理)」と「攻めの倫理(積極的倫理)」に分別していること。義務論的な倫理や社会の調整を行ってマイナスを減らすための「正義」に関する倫理は守りの倫理に、目的論な倫理や個人がより善く生きるための「自律」に関する倫理は積極的倫理に分類される。
倫理というものを「正しさ」に関わるものとイメージしている人は、倫理は人を縛る法のようなものだと感じるでしょう。一方、倫理を「善さ」のためのものだとする人にとっては、倫理は単なる法じゃありません。それ以上のものを倫理や道徳に求める。ところが、前者のタイプの人からすれば、「それ以上」の部分は余計なものに見えてしまう。
ここに食い違いが生じます。今まで我々が見てきたことも、前者のタイプの人にとっては「倫理っていうより、余計なことが入ってるんじゃない?」と映ったでしょうし、後者のタイプの人にとっては「これって、倫理っていうより、単なる当たり前だし、せいぜい法律とかの話じゃん?」と見えたかもしれないと思うのです。(p.275-276)
入門書なので「守りの倫理」も「攻めの倫理」も一通り解説されるのだが、本の主眼というか全体的なメッセージは「攻めの倫理」寄りである。本文パートの結論部分では、正義とのバランスを取りながらも、自分で倫理学的に考えて自分の人生を生きることが大事…という、実存主義っぽい「自律」を強調したメッセージが記されている。
基本的には学生や若い人向けに書かれた本であり、大半の若者は「守りの倫理」よりも「攻めの倫理」の方に関心があるだろうから、この構成は正しいと思う。私にとっても、普段はもっぱら「守りの倫理」に関する領域の本ばかり読んでしまう性質であるから、愛とか自由とか自律とかの「攻めの倫理」に関する話を久しぶりに読めて新鮮だった。
個人的な生活においても積極的義務を果たすこと、自己犠牲すら否定しないことなど、干渉を嫌って消極的自由ばかりを過度に重んじる現代の若者というか最近の風潮に逆らう主張を強調していることも特徴であると思う。
…しかし、読んでいて再確認されたが、やはり現在の私が倫理学に求めるのは「守りの倫理」に属することばかりだ。私が基本的に関心があるのは動物倫理や環境倫理などの分野なのだが、これらの領域では、現状がひどくてマイナスばかりであることが前提となる。工場畜産や自然破壊などを通じて動物に大量の苦しみを負わせている現状では、マイナスを減らしたり人間と動物との間の圧倒的な不公正や不平等を解決したり是正したりすることが急務となる。このような状態では、「攻めの倫理」の出る幕はない。また、マイナスや不正義の状態を放置したままで、自律や実存の領域である「攻めの倫理」を導入すると、不正義の状態から目を逸らして個人の気持ちや考え方の問題に矮小化させる、おためごかしみたいな主張になってしまう可能性が高い。「食べるときに感謝の気持ちを抱いていれば、動物を食べることについての倫理的責任は問われなくなる」みたいな「いただきますの倫理」なんかが典型的な例であろう*1。
なお、本書では功利主義は「守りの倫理の側面も持つ攻めの倫理」と分類されているが、個人的には功利主義は「守りの倫理」の側面の方が強いと思う。功利主義は「最大多数の最大幸福」を目指すとはいえ、具体的な問題への実際の運用は「不幸をできるだけ減らす」「マイナスである状況をゼロに近づける」ということが多いからだ(社会における差別をなくす、グローバルな富の不平等を是正する、など)。
また、「攻めの倫理」に属するテーマについて論じられている本を読んでいつもモヤモヤするのは、倫理学や哲学ではない他の学問にアウトソースしてしまった方が有益な議論ができるのではないか、ということ。たとえば幸福に関する議論は『しあわせ仮説』などのポジティブ心理学による検証を参照した方が有益であるように思うし、これまで私が読んできた「人生の意味」に関する議論の中で最も説得力があったのは哲学の本ではなく『野蛮な進化心理学―殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎』でなされていた議論だ。基本的に「守りの倫理」でなされる議論というものは規範論に終始しており他の学問分野を参照しなくても論じられることができるが、「攻めの倫理」では事実に関する知見を参照しなければならない頻度が増えてくるように思われる。
『ふだんづかいの倫理学』では様々な漫画や小説、ドラマなどにおけるシチュエーションが倫理問題を考える事例として用いられている。
多くの小説家は、「文学に倫理なんて関係ない」と言いたがります。でも、私の見方ではそれは間違っています。倫理を自分自身で生きようとするなら、それだけでほとんど文学になるのです。(p.255-256)
私も、特に「攻めの倫理」で論じられるテーマ(自律、実存)そのや前提となる価値観が文学の領域に隣接していることには同意する。そして、文学の領域に隣接しているからこそ、問題となる場合もある。たとえば、文学的な価値観というものは「孤独」をロマンティックに美化しがちだが、身体的・精神的な健康という面から見ると孤独は百害あって一利なし、という事例が思い浮かぶ。文学というものは一面では真実を映すこともあるだろうが、文学的に見栄えのいい真実や「真実っぽさ」ばかりが極端に重視されたり、逆に文学的なテーマとはなり得ないタイプの事実の重要性が軽視されることにもつながる。文学が孕んでいるものと同じような危うさを、実存主義や「攻めの倫理」にも私は感じるのである。
しかしまあ、例えばこの本では「愛」とか「友情」などの個人的な人間関係についての倫理も紙面を割いて論じられており、「横の関係/縦の関係」「相補型/共同型」などの類型を用いた分析もなされているのだが、そこらへんの倫理に対する自分の無関心さを再確認させられて冷や汗を書いたりもした。「守りの倫理」ばかりに興味を持っているとネガティブでつまらない人間になってしまいそうだ。人間らしく生きるためには、ある程度は「攻めの倫理」に関心を持つことも必要だろう。*2。
*1:ウィル・キムリッカやクレア・パーマーなども、既存の動物倫理の消極性を批判して"積極的な"動物倫理を提唱しようとしている。つまり、単に動物の苦痛を減らすという消極的義務だけでなく、動物との関係性などから生じる積極的義務を提唱するのだ。しかし、私は、彼らの試みが成功しているとは判断していない。
*2:とはいえ、私の見立てだと、サイコパス的な経営者とか意識高い系の若者とか悪質なインフルエンサーとかは、「守りの倫理」をまるっと無視して「攻めの倫理」ばかりを意識しているせいで人に迷惑をかけたり苦痛を与えたりすることに頓着がない。「自分らしく生きる」や「自分の能力を最大限に発揮する」などのマイルールにばかり目を向けていて、社会における一般的な公正や平等や礼儀や平等などに対して無関心過ぎるのだ。現代の社会では、干渉が嫌がられて消極的自由が強調される一方で、他者への無関心と自己顕示欲ばかりが増大する傾向も存在している。「守りの倫理」が無視されて「攻めの倫理」ばかりが強調される風潮がますます強くなっていくであろう、と私は予測している。