道徳的動物日記

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進化心理学はなぜ批判されるのか?

quillette.com

 上記のQuilletteの記事を要約紹介しつつ、雑感を書く。…というか、ダラダラと長ったらしい記事なので、思い切って要点や特徴的な点だけ紹介する。

 

 上記の記事では、デビッド・バスとウィリアム・フォンヒッペルという二人の進化心理学者が行った、"社会心理学者たちが進化心理学について抱いている認識"についての調査が参照されている。この調査によると、動物のみならず人間について進化心理学を適用することについては、社会心理学者たちの意見は分かれているそうだ。ダーウィンの進化理論が真実であることや、人間の様々な身体的特性が進化の産物であることにはほぼ全ての社会心理学者たちが同意しているのだが、身体のみならず心理や精神についても進化論を適用することに関しては、かなり賛否が分かれるのである。

 進化心理学に批判的な社会心理学者たちは、宗教的信念や「人間は他の動物に比べて特別だ」という信念から批判している訳ではない。進化心理学についての意見が割れるのは、遺伝的な暴力的傾向、美についての普遍的な基準、心理の性差などのセンシティブなトピックが原因なのだ。

 一般人の間では進化論に対する反発は現在でも根強いが、科学者の間では進化論が正しいことは合意されている。動物や人間の眼球は機械のように複雑な機能を備えているが、それも進化の産物であることを疑う科学者はいない。しかし、眼球ではなく(人間の)脳にまで話が及んだ途端、多くの科学者は進化論を当てはめることに尻込みしてしまうのだ。

 進化心理学はその成立当初から様々な批判や反発を受けてきたが、特に近年では、"心理の性差"というトピックについて炎上することが多い。例えば、最近では「男の子には、先天的に暴力な傾向がある」ということを論じたニューヨークタイムスの記事が批判にさらされた*1

 また、ガーディアンの記事によると、『ジェンダー化された脳』という本を記したジーナ・リッポンという神経科学者は「脳には性差がある」という主張をたわ言だと一蹴しているそうだが、実際には「脳には性差がある」ということ示す脳科学神経科学の文献は大量に存在するのである。

 リッポンのような学者は「脳科学神経科学の知見が性差別的な目的のために用いられる可能性」を恐れているのだが、それを言うなら、遺伝学やその他の様々な学問も、何らかの目的のために悪用される可能性はある。「悪用される可能性があるから」は、学問的に蓄積された知見を無視することを正当化する理由にはならないのだ。また、「この知見を認めることは差別になる」と言う恐れは、事実的な事柄である「同質性」(sameness)と、規範的な事柄である「平等」(equality)を混同してしまっている。

 右派も長年にわたって進化論を否定してきたとはいえ、近年では左派による進化の否定が顕著となっている。左派による進化心理学に対する批判の多くは、「進化心理学者は自然主義的誤謬を犯している」と言う誤解に基づいている。つまり、"進化心理学者は「人間には暴力的傾向が先天的に備わっている」「男女の心理には生物学的な差がある」と主張することで暴力や性差別を肯定しているはずだ"、という思い込みだ。

 しかし、進化心理学者が「人間には△△の遺伝的特性が備わっている」「人間には▲▲の先天的な傾向がある」と主張したとしても、「全ての人には△△の遺伝的特性が現れる」「▲▲は先天的な傾向なので、社会や環境によって変わることはない」と主張しているとは限らない。進化心理学は「心は空白の石板である」という主張は否定するが、教育や文化や社会規範などの環境的要因によって人々の心理的傾向や特性が変化すること自体は否定しない。だが、批判者たちは進化心理学者の主張をあえて極端な形で解釈して、藁人形論法を行うのである。 

 

 バスとフォンヒッペルは、進化心理学に対する反発それ自体が進化心理学で説明できる、と論じている。それは、「自分の集団の連携を保持して、敵対する集団の連携を破壊しようとする心理的適応」である。これは、左派の場合にはジェンダーの平等や社会正義の達成など、"集団において望ましいとされている目標に自分がコミットしていること"を他人に広く知らしめるために主に用いられる行動であり、心理学的には「Virtue Signalling(美徳のシグナリング)」と呼ばれるものだ。

(…この後も記事は続くが、上記部分で論じられたことの繰り返しや進化心理学の基本的な考え方の紹介ばかりなので省略)

 

 ここからは私の雑感。

 

・"左派による進化心理学に対する反発は、仲間に対してシグナルを示すための行動である"という点には、私もかなり同意する。特にSNSなどで進化心理学やその他の学問を批判する一言コメントを書くという行為は、当然ながら、進化心理学そのものや特定の進化心理学者を論破したり挑戦しようとしたりする行為ではない。SNSのコメントの大半がそうであるように、ある学問的知見を批判/否定するという行為も、共通の価値観を持つ仲間たちに対してのデモンストレーションやグルーミングという側面がかなり強いはずだ。

 また、右派や左派を問わず、何らかのイデオロギーに偏った集団の間では「こういう主張に対してはこういう反応をすべきである」「こういう主張は肯定して、こういう主張は否定すべきである」という定式化されたマナーのようなものが発生してしまうものであろう。特にフェミニストたちの間では「進化心理学とか脳の性差とか聞かされた、とりあえず否定する」というヒューリスティックが出来上がっていても不思議ではない。

 要するに、進化心理学(やその他の学問的知見全般)が批判されるとき、大半の場合は「事実は何であるのか」「理論や論旨展開は妥当であるか」「証拠はあるか」といったことは問題にされていないのだ。批判者の目が向いているのは、批判対象ではなく、自分の仲間たちなのだ。

 

・余談だが、「進化心理学の知見に対する批判が生じる原因を、進化心理学の知見に基づいて解説する」という嫌味っぽい論法は『だれもが偽善者になる本当の理由』でも行われていた。

 しかし、こういう論法もあんまり多発されてしまうと、それこそが進化心理学者たちの間でのシグナリングだと批判されたり、「進化心理学者が、進化心理学の知見に対する批判が生じる原因を進化心理学の知見に基づいて解説したがる理由を、社会学的に解説する」などとやり返されてしまう可能性もあるだろう。議論をあまりメタ的な領域に持っていくのも良くないものである。

 

・「進化心理学は社会や文化などの環境要因を一切否定している」という誤解は、確かに根強い。しかし、私が見た限りでは、人間の特性についての生得的要因を肯定する議論の大半では環境要因の存在も肯定されている一方で、環境要因を強調する議論では生得的要因が全否定されてしまうことも多い。

 少し自分の経験を振り返ったり内省したりするだけでも、自分の考え方や行動が文化や社会や教育に影響されていることは意識できてしまうのだから、環境的要因を全否定する議論が説得力を持つことはほとんどないだろう。他方で、先天的傾向の影響を意識して把握することは難しい場合が多い。この非対称が、「心は空白の石板」的な考え方がいまだに説得力を持つ理由であるのだろう。

 

・一般的な進化心理学者は自然主義的誤謬を犯さず、「人間には△△の傾向があるから△△は道徳的に善い」というような主張は行わないとしても、一部の例外や、アカデミズムの外で進化心理学を濫用する論者が目立つことも確かである。

 とはいえ、上記の記事でも論じられていた以上に、ダーウィン的な進化論を認める以上は、動物には進化論を適応しても人間には進化論を適応しないこと、また人間の身体的特徴に進化論を適応しても心理的特徴には進化論を適応しないと、論理的におかしくなるだろう。先天的要因の影響や射程をどこまでのものと見積もるかは人それぞれの判断や解釈で変わってくるだろうが、進化心理学の考えそのものを否定することはできないのだ。

 だから、一つの著作から「進化心理学は疑似科学である」と堂々と断言することや、それに対して好意的なコメントが集まることはかなり奇妙だ。方向は真逆だが、、一つの著作の記事から「フェミニズムを大学の場で教えることはふさわしくない」と断定するのと同レベルの行為である。まあ、結局はどちらもシグナリング的行為であり、進化論心理学やフェミニズムそれ自体について本気で考える気はないのかもしれないが。

 

 

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*1:この話題については、以前の記事で論じている。

davitrice.hatenadiary.jp