道徳的動物日記

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人はなぜ過去の選択にこだわるのか

 

幸福はなぜ哲学の問題になるのか (homo viator)

幸福はなぜ哲学の問題になるのか (homo viator)

 

 

 昨日にも『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』の感想を書いたが、本書の中でも特に印象に残った「物語的完全主義」について論じている節から抜粋して紹介しよう。

 

……完全主義のなかには少し特殊な事例があります。本節ではそれを「物語的完全主義」と呼ぶことにしましょう。物語的完全主義に陥ると、自分が過去にやってきたことを望ましい人生の一部とするために、いま現在の選択にて、最善の選択をしないことがあります。なぜ、最善を選ばないのに完全主義かといえば、過去から今に至る自分自身の物語の完全性にこだわるからです。「私が過去にあれを選んだ以上、今これを選ばないことはーーそれが最前でないとは分かっていてもーー許せない」。(p.183)

 

 著者は、将棋ソフトと人間の棋士との将棋の指し方の違いという例を用いて、「物語的完全主義」を説明する。感情を持たない将棋ソフトは、過去の手にとらわれず、手番のたびに現在の局面における最善の手を探し続ける。一方で、人間の棋士は、"過去に自分が差した手の「方針を生かしたり」「顔を立てたり」すること"がある(p.185)。人間の棋士には、現在の状況から見ると自分が過去に指した手は完全に失敗であった、ということを認めづらいのだ。そのために思い切って全然違う手を指すことができなくなり、過去の手にこだわり続けてしまうのである。

 人生の場合、将棋と違って勝ち負けは明白ではない。しかし、いま現在の自分の状況が明らかに最善ではなく、また過去の行動が違っていれば現在の自分の状況が変わっていた可能性が高い、という場面は多々あるだろう。「現在における最善とは何かがだいだい分かっているケース」(p.186)でこそ、いまからでも方針を変えて次善を目指すか、過去の選択にこだわり続けて最善とはかけ離れた状況で過ごし続けるか、というジレンマが生じるのだ。

 著者が提示する「物語的完全主義」から脱する方法には、二通りある。一つは、"現在という「箱」のなかで最善を選ぶ練習を積む道であり、過去の失敗は失敗と切り捨てて、それに何らかの意味を与えようとしない態度を、意識的に選び取っていく道"(p.186)。もう一つは、”過去のある選択時点について、その時点では未来の点数化が不可能だったことを思い出すという道"である(p.186-p.187)。…私見をいうと、前者の道は有効であるがそれを達成できる人の数は限られていると思うし、後者の道は比較的容易ではあるが気休め程度の効果しかもたらさないような気がする。

 

 しかし、なぜ人間は「物語的完全主義」にとらわれてしまうのだろか?

 まず思いつくのは、サンクコスト効果の影響であろう。

 また、キャリアやスキルの形成という具体的な面からでも、自分にとっての「人生の意味」や他人が自分に対して持つイメージなどの抽象的な面からでも、選択の一貫性や行動の統一性などをある程度以上に保つことが必要とされる、という面もある。

 たとえば、自分がやりたい仕事のイメージを掴めずに別業種への転職を繰り返し続ける人はいつまでたっても給料が上がらないし、スキルが身に付かないことでできる仕事の種類も限られてしまうので、有意義でやりがいのある仕事に就ける可能性が少なくなってしまうだろう。また、いろんな物事につまみ食いするように手を出しては引っ込めることを繰り返していたり、人生の方針を定めずにフラフラしている人は、若い頃はいいかもしれないが年を経るにつれて魅力がなくなっていく。様々な経験を積んだり物事にとらわれずに自由に生きること自体はいいことなのだが、あまりそればっかりやっていると、人間としての厚みや実体性がなくなってしまい、他人から共感されたり仲間と見なしてもらうこともなくなってしまうのだ。

 もちろん、他の人よりも優れていて有能で賢明な人であれば、傍目には一貫性や統一性がない生き方をしていても成果を出せるだろう。また、有能で賢明な人ほど、「過去の失敗を切り捨てて、現在における最善を選ぶ道」を実現できるだろう。しかし、賢明でない人の場合は、「現在における最善」すらちゃんと理解できないかもしれないし、新たな選択をしようと思ったところでまた失敗する可能性も高い。それであれば、最善ではなかったり非効率であったりしても、統一性や一貫性を重視した生き方を続けた方が自分に対しても他人に対しても何らかの意味を示せる…という、そういうリスクヘッジのような側面もあるのかもしれない。