道徳的動物日記

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スポーツチームへの支持と政治的党派性の共通点、ほか(読書メモ:『反共感論:社会はいかに判断を誤るか』)

 

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

 

 

 この本のメインとなる論旨については、以前に別の記事で紹介しているので、今回は細かいところだけメモする*1

 

・効果的利他主義に対する「国際的な貧困は、資本主義やグローバリーゼーションの構造がある限り無くならない。対処療法的な慈善や援助は無意味で偽善だ」的な批判関しては、以前にもこのブログで取り上げたことがある*2。この本の中では、スコット・アレクサンダーという人による“「人間対自然」の問題と「人間対人間」の問題”(p.129)という区別が紹介されていた。「人間対自然」の問題(貧困国の子供たちの病気や飢餓など)は対策が明確で実施しやすい一方で、「人間対人間」(グローバル資本主義構造など)の問題はそもそも賛否が分かれる問題であり対策方法も不明で結果が出るかどうかは不確実だ。このことを考えると、「人間対自然」の問題に注ぎ込んだ方が効果的である。…また、なんでも政治的に考えることが好きな左派が「人間対人間」の問題にばかり注目してしまう理由にもなっているかもしれない。

 

・カーライルが経済学を「陰気な科学」と称したのは、奴隷制度に反対する経済学者を嘲笑する文脈であった、というのは初めて知った(p.139)*3。なかなか皮肉で印象に残る。

 

バートランド・ラッセルは、「新聞を読むときには自国名を他の国の名前に置き換えると、客観的で冷静に読める」と言ったそうだ(「アメリカ」を「ボリビア」に置き換える、など)。国際問題を考えるときに実践してみるとよいだろう。

 

・マーサ・ヌスバウムは社会を変えるエネルギーとして「怒り」という感情を高く評価していたが、この本では共感と同じく怒りの感情も否定的に論じられている。

 

・政治的見解とスポーツチームに対する見解の共通点についての一節。

 

…私たちは、理性的熟慮を行使した結果、レッドソックスヤンキースを応援するわけでもなければ、そうすべきでもない。応援することでチームに対する忠誠を表現しているのである。ヘルスケア、地球温暖化などに関する人々の姿勢も、おそらくは同様に自分の見解の明快な表現ではなく、自分が応援しているチームへの歓声や、相手チームに対するブーイングのようなものと見なすべきなのかもしれない。ならば、地球温暖化に対する誰かの見解に、事実に基づいていないとしてクレームをつけることは的はずれになろう。それはあたかも、「レッドソックスファンのチームに対する愛情は、レッドソックスのここ数シーズンの成績の現実的な評価を反映していない」として、クレームをつけるようなものなのだ。

政治的見解と、スポーツチームに関する見解には、興味深い共通点が一つある。それは、それらの見解が、実際には現実と関係しないというものである。炒り卵の作り方に関して間違った理論を信じていれば、焦げた炒り卵ができあがるだろう。日常の道徳がなっていなければ、身内を傷つける結果になるだろう。だがたとえば、自分の支持する政党に敵対する政党のリーダーがブタと交わったと、あるいはイランとの武器取引でヘマをしたと考えていたならどうだろう?一握りのエリートから成る強力なコミュニティーに属していない限り、自分の信念は世界に何ら影響を与えない。このことは、一律課税、地球温暖化、進化などに関する信念にも当てはまる。それらの信念は必ずしも真実に基づいているわけではない。なぜなら、それらが真であるか否かは、自分の生活にいかなる影響も及ぼさないからである。(p.284-285)

 

 昔に手に取った『Personality and the Foundations of Political Behavior』という本では、パーソナリティのビッグファイブ尺度における「誠実性」が高い人が最も得票率や政治参加率が低い、ということが論じられていた*4。一般的なイメージでは真面目な人ほど政治参加率は高そうに思えてしまうが、現実の自分や身近な人の生活とは直接的には関わらず、結果も不確実な政治というものにコミットする優先順位は、真面目な人のなかではむしろ低くなるのだ。考えてみれば、政治に関するトークに熱心な人のビッグファイブを勝手に推定してみると、良くも悪くも「誠実性」以外の尺度が高そうな人ばっかりだ。政治とは重要なものだが、私たちの普段の日常生活からは微妙な距離がある。この微妙な距離こそが、政治に関するいろんな問題をややこしくするものかもしれない。