道徳的動物日記

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"文学的" な哲学のリスク(読書メモ:『若者のための<死>の倫理学』)

 

若者のための死の倫理学

若者のための死の倫理学

 

 

 なかなか感想を書くのが難しい本である。

 

 テーマは「死」となっており、身近な人が亡くなる場合についての事例や「自分が死んだ後に何が残るのか」というトピックにも触れられているが、ひろく「人生の意味」全般についても論じられている本ではあった。また、「人生の意味」に関連して「幸福」について間接的に触れられている箇所もある*1

 この本の終盤では、著者は主にハイデガーの「ゲシュテル」論に依りながら、我々はいま生きている人生の不毛さから目を背けるためにいかに浅薄で空虚な理屈により意味付けを行い続けてしまっているか、ということを論じている。そして、理屈によって人生の意味付けをするのではなく、日々を生きる中でたちあらわれる瞬間的な感情に生きる意味を見出すのだ…と言った感じの、大陸哲学的で実存主義っぽい議論がなされることになる。

 安易に「大陸哲学 - 英語圏の哲学」という二項対立構造に当てはめて考えるのもよくないだろうが、哲学者及び文学者の文章を中心に引用しながら議論を進めていくところ、心理学や経済学などの知見からの引用が皆無であるところには「大陸っぽいなあ」と感じてしまった。同じテーマにしても英語圏の哲学者が書いた場合、あるいは英語圏の哲学を研究する日本の哲学者などが書いた場合には、引用される文章の典拠はガラリと変わるはずだ。また、それに応じて、議論の前提となる事実認識や世界観も変わってくるように思える。

 たとえば、統計や科学的・経済学的知見を参照しながら「今日が昨日よりも良くなっていること」を論じているスティーブン・ピンカーのような論者がおり、ピンカーのような議論の影響が倫理学・哲学界隈にも波及している英語圏であれば、下記の引用部分のような箇所はナイーブなペシミズムであるだけでなく事実にすら基づいていない、と批判されるかもしれない。

 

 …現実は、ドラマのように優しい結末など約束してはくれない。…なんの罪もない命が何千、何万の単位で奪いとられる戦争。広がるばかりで縮小するきざしのみえない格差。留まるところを知らない環境の汚染と破壊。二十世紀は悪事と不幸の世紀、とはよく言われるところだし、二十一世紀も大差ないとしか思えない。…たぶん、明日は今日より良くならない。(p.75)

 

 また、この本では、ハイデガーの「ゲシュテル」論と並んでニーチェの「おしまいの人間」論がキーになっているように思われる。

 

エリオットにおける「うつろな人間たち」が、没落のどん底にある自分たちの姿をいやというほど自覚しているのに対して、ニーチェの描く「おしまいの人間たち」は、自分の投げこまれた苦境を嘆くどころか、むしろ誇りにさえ思っている。「かれらには、その誇りとするところのものがある。彼らに誇りを与えているもの、それを彼らは何と呼んでいるか。教養と呼んでいる」ここで、彼らが誇りとする教養とは、「ささやかな幸福」、「小さな昼の喜び」、「小さな夜の喜び」、そして彼らがなにより尊重する「健康」を生み出す力をもったもののことだ。毎日の美味しい食事。快適で美しい衣服。退屈を覚えさせない娯楽。立派な建物。風儀のよい社交。……また、おしまいの人間たちは、物質面だけでなく精神的にも安定した生き方をする。彼らは、子どもっぽく感情を荒立てることはせず、温和に、もめごとを起こす人間も寛容に受け入れる。度を超して羽目を外すこともない。もちろん差別などとは無縁であり、人類はみな兄弟であること、隣人を愛するべきであることを当然の前提として受け入れ、忘れない。立派な人たちだ。……彼らは幸福である。そして、幸福を作り出し、おだやかな毎日を可能にした自分たちの教養を埃に思っている。だから、当然、彼らは自分たちが「没落のどん底」にあるとは夢にも思わないし、自分たちのことを「軽蔑」すべきなどと言われることを好まない。こうして、「自分を軽蔑することすらできない」おしまいの人間たちの時代がやってくる。(p.104-105)

 

 上記の引用部分の続きの節では、著者は現代における「おしまいの人間」の例として、答えが出ずに自分を不幸にしかねない哲学的問題を考えることを回避して日常の安寧と出世競争に勝つことしか考えていない人のことを挙げている。

 ニーチェは「人間は幸福を求めて努力したりしない。そんなことをするのはイギリス人だけだ」と言って功利主義を揶揄していたらしいが、何事につけて中道を実践したり物事に捉われない思考様式を身に付けることで心を平穏に保ち幸せに生きることを目指す、徳倫理やストア哲学などを実践している人も「おしまいの人間」と言えるかもしれない。古代ギリシャやローマの賢人たちが「おしまいの人間」であったかどうかは知らないが、すくなくとも現代ではポジティブ心理学を実践する人たちが徳倫理を称えて、ストア哲学もビジネスマン向けのハウツー本向けにまとめられてしまっている始末である。哲学すらをもライフハックの道具として扱い自分が幸福になるための手段として利用する現代人を見たら、ニーチェはさぞや軽蔑することだろう。また、この本自体も、哲学を安直なハウツーやライフハックの枠内に押し込めることに反発して書かれているように思える。

 実際、何らかの問題に答えを求めるためのツールとして哲学を使用することには、様々な妥協が発生するリスクが存在する。問題についてつらつらと論点を列挙したあげく極端な結論は回避して穏当で曖昧な結論で済ませてしまう、本質的かつ深刻な問題ではあるがキリがなく考えてもはっきりとした答えが出そうにない問題は最初から取り上げない、などの事態が発生する様子は想像に難くない。また、学術書として書かれた応用哲学の本を手に取ってみても、たとえば生命倫理環境倫理などの問題について取り上げられるときには功利主義やカント主義などの原理が貫徹された主張が行われることはほとんどなく、何種類かの倫理学理論の折衷案であったりプラグマティズムなどが提案されて「ほどほど」の結論で済まされることが大半だ。人生や死や幸福についての悩みという個人的な問題にせよ、出生前診断地球温暖化などの社会問題にせよ、それらについての具体的で実践的な回答を哲学に求めること自体が哲学的な営みではない、というジレンマは確かに存在するだろう。そのために、ライフハックやハウツーに役立つような答えを出すことを拒否して、より根源的なレベルで問題を直視し、悲観的で身も蓋もない結論が出ることも厭わない…というようなスタンスで書かれるこの本の存在意義も理解できる。

 

 しかし、たびたび登場する小説や詩からの引用を見ていると、この本で記される主張や結論も「根源的・本質的な問題を直視して考え抜いた結果、悲観的で極端な結論が出た」のか「元々から悲観的で極端な考え方をしている人たちの議論をベースにして考えたから、そうなった」のか、怪しくなってくる。そもそも、文学者たちには悲観的な考え方やニヒリスティックな考え方をする人、また極端な考え方をする人が多い。文学作品にも、そのような考え方が反映されがちだ。特に"純文学"というジャンルや文壇コミュニティでは、楽観的で穏当でヒューマニスティックな価値観を表現した作品は悲観的極端でニヒリスティックな作品に比べて低俗で芸術性がないと判断されやすくなってしまう*2。さらに言えば、文学者たちには一般の人に比べて社会性や規則性に欠けている人が多く、抑うつや依存症などの病気の傾向が強い人も多い。だからといって文学者たちには物事の真実を捉えることが不可能である、とまでは言わないが、物事を観察するレンズに集団的な歪みが発生していることは否めないだろう。より深刻な問題は、文学的な世界観には反証可能性が存在しないことだ。科学的知見や統計的事実に基づいた世界観であれば、仮に歪みが存在していたとしても、理論的欠点が指摘されたり新たな欠点が発見されることでその歪みが修正されることが期待できる。しかし、文学的世界観の場合はそうはいかないのである。…そして、実存主義ロマン主義を主張する大陸哲学の議論は科学的世界観よりも文学的世界観に依りがちだ。

 

 以前に私が取り上げた本では、文学作品やニーチェなどのロマン主義的な哲学が「孤独」を美化することが人々の健康に与えている悪影響について論じられていた*3。先に例にあげたスティーブン・ピンカーも、ニーチェのような思想が人種差別を安直に肯定するリスクについて論じている*4。もちろん、この本では人種差別などは全く肯定されていない。しかし、社会に順応することや世俗的な努力、物事の有用性などが軽視されているフシはあるだろう。元々からハウツーやライフハックを目指しているのではなく、むしろ哲学をハウツーやライフハックのツールにすること自体に反発する議論がなされている本なので筋違いな批判になるかもしれないが、やはり私には色々と気にかかった。私自身はもう若者ではないが、もし自分が若者のときに読んでいたとしら、あまり真に受けない程度にとらえるのがちょうど良かったかもしれない。

*1:倫理学においては、「死」⇄「人生の意味」⇆「幸福」はそれぞれ関連するトピックであり、どれかのトピックについて論じるなら他のトピックについて論じる必要が生じる、という場合は多い。

*2:文学に限らず、映画や漫画など、フィクション作品全般に対してこのような傾向が存在するだろう。

フィクション作品にあらわれる価値観や考え方には独特の歪みや偏向が存在する、と私が考える理由をさらに述べよう。…芸術性を重視しないエンタメ作品であっても、話を面白くするためには主人公の敵役のどちらかに極端なことを言わせることは多い。若者はだいたいニヒルだから、ジュブナイルヤングアダルト向けの主人公や地の文はニヒリスティックにした方がウケが良くなる。さらに言えば、フィクション作品の登場人物たちの価値観や登場人物たちが発するセリフなどは、読者の共感や理解をスムーズに得られやすくするために、作品が書かれた社会に存在する価値観やステレオタイプの範囲内に納めなければならない。そして、理論的妥当性や事実的な証拠には乏しいがセンセーショナルで魅力的な主張に比べて、「統計的に見ると世界は年々良くなっている」などの"面白みのない事実"は、フィクション作品ではオミットされがちだ。

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp