道徳的動物日記

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読書メモ:ペットを飼うことを避けることの道徳的問題

 

 

philpapers.org

 キャサリン・ノーロックという人の " “I don’t want the responsibility:” The moral implications of avoiding dependency relations with companion animals" という論文の内容を簡単にメモ。

 犬や猫などの動物をペットして飼う人には、そのペットに対して道徳的責任が発生することは言うまでもない。ペットに危害を与えないという消極的義務はもちろんのこと、ペットは生活のほとんど全ての側面を飼い主に依存せざるを得ないことを考慮すると、ペットに食事を与えたり健康に気を使ったり病気になったら医者に連れていくなどの身体的なケアをすることやペットを孤独にさせないでおくとか充分に遊んでやるとかの感情的なケアをすることなどの、積極的義務も生じるだろう。

 ペットが欲しいと思っていても充分に世話できる自信がなかったり万が一の時に対応できないことなどを恐れたりして、ペットを飼わない選択をする人はいる。また、そもそも犬や猫に興味がなかったり、どちらかといえば嫌いであるから飼わない、という人もいるだろう。では、ペットを飼わないという選択をした人は、ペットに対する道徳的責任を追わなくて済むのか?…そうではない、というのがこの論文の主旨だ。

 

 あるコミュニティにおいて、犬や猫などのペットとなり得る動物が人に飼われずに野良の状態で屋外にいることは、その動物自身に取っても健康面や感情面において不利益である場合が大半であるし、公衆衛生や自然環境の面からしてもリスクである。本来、家畜化されたペット動物とは人間に飼われて依存する生き方をしなければならないものだ。自分たちに依存しなければ生きていきないペット動物を生み出してきたコミュニティには、ペット動物に対する責任が存在するのである。

 そのようなコミュニティにおいて、犬や猫を引き取って飼う選択をした人やペットシェルターで働いて数多くの犬猫の世話をする人は、コミュニティ総体が持つ責任を引き受けて、金銭的な負担や精神的な負担を払っている、といえる。この場合、ペットを飼わないという選択をして、他の形でもペット動物に対するコミュニティ全体の責任にコミットしない人は、ペットを飼う人やペットシェルターで働く人々にフリーライドしてしまい、自身の道徳的義務を放棄することになってしまう。

 そのため、ペットを飼わないという選択をした人であっても、他の形で、ペット動物に対するコミュニティ全体の責任にコミットする道徳的義務があるのだ。その具体的な方法としては、ペットを飼う人やペットシェルターで働く人に金銭的・精神的支援をしたり、コミュニティ内の戯歌などでペット問題をアジェンダとして取り上げたり、時間を割いてボランティアすることなど、様々なものが考えられる。

 

 この論文の面白いところはエヴァ・ファダー・キテイが『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』で用いた、「依存関係」や「二次的依存」などのキーワードを人間とペットとの関係に当てはめて論じていることだろう。キテイの元々の議論は子育てをしている人や重度の障害者のケアをしている人に対してコミュニティがフリーライドしていることを示して、それらの人に対するコミュニティの責任や義務を論じるものであったが、ノーロックはそれを人間とペットの関係に置き換えているのである。

 キテイ本人は「自分の理論は動物には当てはまらない」と主張しているし、キテイの主張の骨子には「社会は子供を産み育てるという再生産ありきで成立しているのだから、子育てをしている人に対して社会が支援をしないことは根本的におかしい」という点があることには留意して置いたほうがいいかもしれない。