このブログではこれまでにも何度かジェンダー論について話題にしてきたし、ジェンダーや恋愛に関して論じた本についての読書メモなども残している*1。また、ブログには取り上げなくても、進化生物学や社会科学などの観点から男女論や恋愛論や結婚制度などについて論じた本の数々には目を通している。
このブログの影響力は大したものではないし、何冊の本やネットの論調などに目を通した上で書いた雑感程度のものでしかなく、論調も我ながら曖昧なことが多い。だが、たとえばnoteで「女性の上昇婚」について書かれたいくつかの記事を見てみると、より多くのデータなどを集めたり分析したりしたうえで強めで一貫した主張を展開しているものがいくつか書かれており、多くのブクマが付けられるなど注目を浴びている*2。
上述の記事にせよ諸々の本にせよ、進化的なり経済的なり社会的なりの何かしらの要因で、女性は自分よりも社会的地位が高く経済的に豊かな男性に惹かれやすい…裏を返せば、社会的地位が低く経済的に貧しい男性は女性から相手にされないことが多い、というようなことが論じられている。
そして、このような主張には進化論や経済学などによる理論的裏付けもされているし、さらに言えば日常において触れ合う人々の行動を観察した結果にもおおむね一致することが多いようにも思える。職場の同僚にせよ居酒屋などで知り合う人にせよ、「金持ちの旦那が欲しい」または「いまの夫は経済力や貯金があるから結婚した」とはっきり口に出す女性はしばしば存在する。そこまで露骨ではなくても、男性との交際の仕方やアプローチの仕方を見聞してみると、"上昇婚志向"的な行動指針に基づいているであろうと思わざるを得ない女性も数多くいる。
だが、もちろん、そうでない女性も数多くいる。そして、"女性の上昇婚志向"についての進化生物学的なり社会科学的なりな議論においても、まともな議論であれば「"すべての"女性が上昇婚志向を持っている」という断言はしていない。あくまで、「女性には一般的には上昇婚志向が備わっている」とか「上昇婚志向を持つ女性の方がそうでない女性に比べてマジョリティである」という程度の主張に抑えているはずだ。
人間を性別なり人種なりのカテゴリに分けたうえで、あるカテゴリに属する人たちの行動などに関する一般的な傾向について生物学的なり社会科学的なりについて説明を行う議論については、「既存のステレオタイプを後付けの理屈で補完しようとする議論だ」とか「ステレオタイプを肯定して差別にもつながるリスクをはらんだ議論だ」などと批判されることが多い。
しかし、そのような批判に対しては、自然的誤謬などの概念を持ち出して「"あるカテゴリの人々にはこのような傾向が存在する"という事実についての議論は、そのカテゴリに属する人々に関してどうする"べき"かという規範についての議論とは別個に考えるべきだ」という風に反論することができる。また、より雑に、「ポリティカルコレクトネスによって学問的知見を抑圧するべきではない」という風な反論を行うこともできるだろう。
私としても、ことが学問的な議論というレベルの話であれば、進化生物学的なり社会科学的なりの理論を使って現実の人々の行動の傾向を分析することはどんどん行われるべきだと思う。現実に存在する問題への対策を立てて社会をより良くするためには、正確な学問的知見というのはいくらあっても困らないものだからだ。また、世の中をより良くする役には立たないとしてもより多くの学問的知見なり分析結果なりについて読んでみたい、という単純な知的好奇心に基づいた理由もある。
しかし、ことが個人的な生活や人間関係というレベルの話になると、あまり無節操に進化生物学的なり社会科学的なりなジェンダー論や恋愛論などを摂取することにも弊害はある…と、最近はそう思うようになってきた。
「あるカテゴリに含まれる人々の行動の"一般的な"傾向について分析することは、そのカテゴリに含まれる人々の全員がそうであると決めつけることではない」というのは、議論のレベルにおいては、その通りだ。
だが、実生活における人間の心理のレベルでは、そのような知識を持っていること自体が「この人はこのカテゴリに含まれるから、こういう傾向を持っているんだろうな」という風な"決めつけ"に転じてしまうことが多々あるものだ。…というか、少なくとも私自身については、最近の実生活において度々そういう決めつけをしてしまっていたなと自覚して反省する場面が多々あった。
一般論として、自分が実生活で実際に関わる相手について"決めつけ" を行なってしまうことは、その人自身のことをちゃんと理解したりその人と純粋な人間関係を育むことの障害になるので、有害なことである。
また、恋愛という面から見ても、自分自身が弱者男性である人が「女性は上昇婚志向を持っているものだ」という信念を持ってしまうことは非適応的である。つまり、本来なら上昇婚志向というのはあくまで一般的な傾向であり目の前の相手がそのような志向を持っているかどうかはわからないのに、「きっとこの女性も社会的地位が高く経済的に豊かな男性に惹かれるんだろう」と勘ぐったり決めつけたりしてしまい、そのせいで自分に自信がなくなったり相手とのコミュニケーションの意欲が削がれてしまい、存在していたはずの恋愛の可能性を逃してしまうリスクがある、ということだ。「"女性の上昇婚志向"論」を内面化してしまうと、いわゆる「予言の自己成就」的な事態になってしまいかねない、ということである*3。…そして、そもそも人間は心理や思考のバイアスの問題のために「一般的な傾向」と「個別の事象」を切り分けて考えることが苦手なものであり、だからこそステレオタイプというものは危険視される訳なのだ。
そして、こういう傾向が悪化するとミソジニーなりインセルなりにもなってしまうリスクもあるだろうし、それが直接的にせよ間接的にせよ現実の女性に対する加害をもたらしてしまう可能性もあるだろう。となると、「"女性の上昇婚志向"論」や、進化生物学的なり経済学的なりなジェンダー論一般を危険視する議論にも一理があるな、と遅まきながらに気付いたという次第である。…だからといってそのような学問的議論が行われるべきではない、という主張にはやはり賛同できないのだが。難しいものである。