道徳的動物日記

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村上春樹「ヒエラルキーの風景」、受験制度についての雑感

 

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

 

 

 高校生の頃から村上春樹にはまっていて、小説だけでなくエッセイも多々読んだ。

 村上春樹のエッセイは基本的には『村上朝日堂』シリーズのように日常や生活や目についた時事問題のことを気軽につづった雑記のようなものが多い。しかし、プリンストン大学に客員研究員として滞在していた二年間に書かれた『やがて哀しき外国語』は日本とアメリカとの比較社会論といった趣があり、一つ一つのエッセイの分量が多く、内容もなかなか硬派で異彩を放っている。

 

 その中でも「ヒエラルキーの風景」という題のエッセイがとりわけ印象に残っている。特に、昨今の共通テストだか民間試験だかをめぐる騒動やそれについての人々の反応を見ていると、このエッセイのことが頭にちらついて仕方なくなってしまった。

 長くなるが以下に引用してみよう。

 

プリンストン大学には、日本の官庁とか会社の人がけっこう数多く派遣されて、勉強しておられる。(略)

そういう人たちと顔をあわせて話をするような機会はあまりないのだけれど、僕が知っている何人かから聞いた話では、こういった「派遣組」内部でも出身大学やら会社や官職によって擬似ヒエラルキーのようなものが生じるということである。日本における役職や学歴が、ほとんどそのままこっちに持ち込まれてくるらしい。「私は……大学出身なんですけど、みなさん東大出なんで肩身が狭くて」というような台詞をよく耳にした。僕もーーこれはプリンストンでではないけれどーーそういうヒエラルキーの風景をかいま見たことはある。他人のことだから僕があれこれ言う必要はないのかもしれないけれど、正直にいって、見ていてあまり気持ちの良いものではなかった。

誤解されると困るのだが、みんながみんなそういう移転日本社会の網の目に絡められているわけではなく、ごく普通に外国生活を楽しんでいる人たちももちろん沢山いる。でも中にはまったくどうしようもない人がいる。そしてそういう人々の多くは、どういうわけかいわゆる「超エリート」である。会っていちおうの挨拶をした次の瞬間から「いや、実は私の共通一次の成績は何点でしてね」と、滔々と説明を始めるような人々である。だいたい僕らが大学に入った頃には共通一次なんてものはなかったので、のっけからそんなこと言われても何が何やらよくわからない。しかしもっとよくわからないのが、自己紹介がわりに共通一次の点数を持ち出す人間の神経である。いったい何を考えているのだろうか。こういう人たちがエリートの役人として、日本で幅をきかせてエバッているのかと思うと(アメリカに来てもかなりエバッていた)、これはちょっと困ったことなんじゃないかなという気がする。(略)

せっかく日本を出て外国にいるんだから、少なくともその一年間くらいは日本的なレールからひとまず離れて、ひとりの裸の人間としてみんなと気楽に交わりあえばいいのに、と僕なんかは思うのだけれど、そういう人たちの自我だかアイデンティティーだか世界観だか呼吸器だか消化器だかの中には「共通一次」「……省」「……課長補佐」というファクターが分離不可能なまでに組み込まれていて、新しく何を取り入れるにせよ、誰と接するにせよ、そういうややこしいフィルターをひとまず通過させないことには、致死的なアレルギー反応に襲われるのかもしれない。彼らにとってはこのようなヒエラルキーはあまりにも重要な価値を持ったものなので、そんなものとは無関係に生きている人間がこの世界にはけっこう沢山いるのだという事実がうまく理解できなくて、どうもそのあたりのボタンのかけちがいから様々な悲喜劇が生まれるらしい。(略)

そしてそういう人たちが、自分自身の個人的価値よりは自分の属している会社や官庁の名前や、あるいは自分がかち取った共通一次試験の点数の方を、ずっと真剣に大事にしている……というか、それがおそらくそのまま自分自身の個人的価値になってしまっているという事実も、僕を深く深く驚愕させたことのひとつだった。

 (p.246-250、ページ数は単行本版のもの)

 

 

 官庁や会社のエリートが「いや、実は私の共通一次の成績は何点でしてね」というのはいかにも戯画的で、誇張して書かれたものだと疑う人もいるかもしれない。

 しかし、話のレベルはかなり下がるが、私が大学生の時に入っていた文芸サークルなんかでも同級生や上級生がセンター試験の点数を自慢しあっていて、そのことにかなりがっかりさせられた思い出がある。そもそも文学を志していたり読書が好きであるような人なら、センター試験の点数を誇りに思ったり点数の上下に一喜一憂するような人格なんかになることはあり得ないと思っていたからだ。文学とか読書とかいうものは、本来はそういう世俗的で浅薄でせせこましい価値観から解放するものであるはずだろう。…しかし、しばらくしてから、「文学が好き」「読書が好き」と自称する人の大半は文学的な価値観を持っているのではなく、単に内向的で本を読むことと勉強ができることしか取り柄がないからそう自称するようになったのであり、そんな人格であるからこそセンター試験の点数なんかも自慢するのである、ということに気が付くことができた。

 

 さて、大学受験については以前の記事でも取り上げたことがある*1。この記事では「日本の大学受験は公平なシステムであると言われているが、背景の諸々を考えると公平であるとはとても言えないかもしれない」ということを書いた。

 とはいえ、たとえばコネや家柄や本人のコミュニケーション能力なんかに左右される(らしい)アメリカの大学受験なんかに比べると、現在の日本の大学受験はまだしも公平なシステムであることは確かだろう。そして、共通テストだか英語の民間試験だかは現状の公平なシステムを破壊するものだとして反対されているわけだ。

 また、「日本は公平な大学受験制度を保ち続けていたおかげで、勉強ができる人ならどんな家庭や地方に生まれてもエリートになるチャンスが残されている、一発逆転のシステムが存在し続けている」というタイプの言説はあちらこちらで見聞している。「自分は勉強して大学受験に受かったおかげで腐った田舎や地元の底辺の連中とは縁を切って都会に出て自己実現することができた」的なサクセスストーリーも、よく目にするところだ。

 

 もちろん大学受験は公平なシステムであればあるほど良いことだろうし、どんな生まれでも階層移動のチャンスが残されている社会の方がそうでない社会よりも良いことは言うまでもないだろう。

 しかし、春樹や私が目にしてきたような、共通一次センター試験の点数を自慢したりアイデンティティーにまで結び付けてしまうような人間が存在するのは、公平で画一的で誰もが単一の指標で測られるシステムがあまりにも強く人々の進路や人生と結び付いてしまっていることの副産物であるようにも思える。

 さらにいえば、文学なり哲学なり芸術なりの人文学なんかが示すはずの諸々の価値観をふまえてみれば、階層移動なりサクセスストーリーなりの経済的な目的のために大学が利用されているという状況自体がおかしいとも言えるかもしれない。

 

bunshun.jp

 今回の民間試験の件については、"エリート高校生"が反対の声をあげてそれを大人たちが「さすがエリートの学校に通う高校生は違う」と拍手喝采する、みたいな構図にもうんざりした。不公平な制度はもちろん良くないだろうが、いまの社会に存在するメリトクラシーなりエリート主義なりはもう少し解体されるべきだとも感じる。

「より努力をした者や、より高い能力を持った者には、より優れた大学への入学権が報酬として与えられる」という発想が普及してしまっていることが根本的な問題かもしれない。たとえばどんな大学であっても入学は希望者間のくじ引きで決めることにしてしまえば、こういう発想は無くなるだろう。

 ついでに言うとSNSでもYoutube動画でも最近は「TOEIC900点を取る方法」みたいなのがやたらとバズっていて、これにももちろんうんざりしている。戦後何十年も経って21世紀にもなっているんだから、誰も彼もが「点数」にこだわる社会からいい加減に解放してほしいものである。

 

 どうでもいいことだが、私が大学受験を受けた時には、試験会場にわざわざ『やがて哀しき外国語』と小田嶋隆の『人はなぜ学歴にこだわるのか』を持っていって、休憩時間に読んでいた。私としては、試験は受けるけれどもせめて心の中だけでも受験制度に対する反対の気持ちを保ち続けようという気持ちで読んでいたのだが、いまから思うと、他の受験生からすれば嫌がらせのように思えたかもしれない。