- 作者: デイヴィッドベネター,David Benatar,小島和男,田村宜義
- 出版社/メーカー: すずさわ書店
- 発売日: 2017/11/01
- メディア: 単行本
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先日に聴きに行った、学習院大学で行われた反出生主義のシンポジウムに関連する雑感。
シンポジウムのまとめについては他の人が書いているのでそちらを参照してほしい。登壇者たちのレジュメも本人たちが各自で公開しているようなので、気になる人は自分で探せばよい。
シンポジウムの終盤には質疑応答が行われたが、その際に中心となった話題は、登壇者の一人である橋迫瑞穂氏(以下敬称略)による「ベネターの著作は女性差別的である」という主張である。
橋迫によるベネターへの批判点を要約すると以下のようなものになる。
「ベネターは"産む性"である女性の観点や女性の主体性を無視した議論を行っている。そのために不妊や中絶を躊躇なく肯定しており、現実の世界における女性の苦悩や葛藤、リプロダクティブライツやフェミニズムの歴史などを無視した議論となってしまっている。」
質疑応答では、他の登壇者や聴講者から、この論点に対してベネターの議論を擁護する主張が行われた。
基本的には「ベネターの議論の中心はあくまで"反出生"であり、不妊や中絶に関する議論は副次的なものにすぎない。そこの議論が女性差別的であるとしても、ベネターの議論の骨子が女性差別的であるとはいえない」というものと「ベネターは男性差別を主題とした本を書いており、またフェミニストの女性哲学者との議論も別のところで行っている。『生まれてこない方が良かった』でフェミニズムに関する言及がないとしても、それは今回の本の主題ではないから、ということである」というような反論であったと記憶している。
質疑応答の後には懇親会が行われたようであり、そこの場で登壇者同士のさらなる議論が行われたのかもしれない。しかし、少なくとも質疑応答が終了した時点までの議論は、さして実入りのあるようなものには思えなかった。
私には全体的に議論が不毛に感じられた訳だが、その主な理由は、橋迫によるベネターへの批判がとりわけ画期的でも新鮮でもないからということがある。
生命倫理の世界では 、反出生主義についての議論は比較的最近に起こったものであるとしても、妊娠中絶というトピックについては長らく扱われてきた。
そして、妊娠中絶に賛成する議論であろうと否定する議論であろうと、男性の哲学者による議論に対する「女性の観点や主体性、現実の世界における女性の苦悩や葛藤を無視した議論を行っている」という批判は、女性の哲学者やフェミニストたちによって昔から投げかけられてきたのである。
とはいえ、このような批判に一理があることは確かだろう。
だが、たとえばベネターの議論の場合、「女性の苦悩や葛藤」や「リプロダクティブライツやフェミニズムの歴史」などを考慮したところで、議論の大枠は全く変わらないだろう。精々のところが、女性の読者に与える不快感を考慮して中絶や不妊に関する議論の紙幅を減らしたり、逆に注釈やエクスキューズの文章を追加するなどの、非本質的な対応しかやりようがないのではないかと思えてしまう。
そして、反出生主義にせよ妊娠中絶に関する議論にせよ、「産む性」である立場の女性の観点は重要である一方で、その観点を重視した議論ばかりを行うべきではない、という事情もある。
そもそも、根本的には、これらの議論は「子供を生まれさせること」や「胎児を中絶すること」が「加害」であるか否かを問うための議論であるからだ。つまり、女性が当事者であるとしても、それと同等かそれ以上に、「生まれてこさせられる子供」や「胎児」を当事者と見なした議論をまず行うべきなのである。
より詳しく書くと、" 「生まれてこさせられる子供」や「胎児」には当事者の資格はない(あるとしても女性の方がより強い当事者としての資格を持っている)"という議論を展開したり、出生や中絶は加害にならないと論証したうえで「出生も中絶もすべて産む側の女性の権利であるから好きに行ってよい」などと論じたりすることには、問題はない。
重要なのは、それらの議論においても、スポットライトはまず第一に「生まれてこさせられる子供」や「胎児」に当てられるべきだということだ。問われているのは彼らに対する加害であるのに、それを置きざりにして「産む側」や「中絶する側」を重視する議論を行うことには、歪みがあるように思える。
橋迫だけでなく他の登壇者の発表でも気になるところがあったのだが、どうにも反出生主義が「私たちによる、他者への加害」に関する問題であるということの深刻さが共有されていなかったように思えた。
質疑応答の最後の方でも同様の疑念を投げかけた聴講者はいたのだが、登壇者たちの返答は満足のいくものではなかったように思える。
ところで、シンポジウムの場でも本人自身が言っていたと記憶しているが、橋迫は社会学者であるので、倫理学の抽象的な議論自体にはさほど価値を見出していないように思われる。…しかし、たとえば橋迫によるベネターへの批判には、「女性の観点やリプロダクティブライツの歴史を重視する "べき" だ」という倫理的な含みがあるはずだ。
生命倫理学における哲学的な議論に対する社会学系の人からの批判にはよくあることなのだが、倫理学的な議論そのものを批判するその主張自体に、どこから輸入したかも定かではない規範的な前提が含まれているのだ。
そして、倫理学とは、その規範的な前提自体の正否を議論する学問でもある。そういうのをすっ飛ばしておきながら自分たちは好き勝手に規範的主張を行えるというのは、ずるいと思う。