道徳的動物日記

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義務論と帰結主義のすれ違い?

倫理学入門」的なタイトルが付けられた本や授業では、規範倫理について紹介する際には、「倫理学の代表的な理論としては帰結主義功利主義)と義務論がありまして、この二つの理論は対立するものとして見られておりますが、また別の角度から道徳を論じるのが徳倫理であって…」という風に導入するのがテンプレートになっているようである。 

 このように帰結主義・義務論・徳倫理(・その他)という風に理論を並べて紹介することに有効性を感じていない人も多いらしく、倫理学者たちも各自それぞれに思うところがあるようだ。 

 しかし、ネットにおける人々の議論とか意見の対立を眺めていると、「義務論 vs 帰結主義」というテンプレ的な図式も、意外と人々同士の実際の意見の対立をうまく抽象化したものである…と、ふと思い立ったので書いてみる。かなり直感的な文章になるので、ぜんぜん的外れかもしれないが。


 たとえば、学校において生徒たちに「制服」の着用を義務付けることに関する議論について、考えてみよう。制服について反対する人たちの多くは、「制服というものは強制を課して生徒たちの自由を制限するものである」「制服を着せることで生徒たちの個性を抑圧して、画一的な社会規範に無理矢理に同調させるものだ」という風な議論を行うことが多い。

 それに対して、制服を擁護する人たちからは、「制服が決まっていることで服装で互いを判断することがなくなり、お洒落な服を見せ合うという競争が起こらず、経済的に豊かでなくお洒落で高価な服を買えない家庭の子供たちの自尊心が傷つかずに済む」という反論がされることが多いようだ。また、「同じ制服を着ることが連帯感や安心感を生み出して、集団を安定化させて個々人の勉学や運動におけるパフォーマンスを上げることは実証されている」といった主張がなされることもある。

 私が見たところ、新聞にコラムを書いたり雑誌にエッセイを書いたりするような文化人や文筆家は、制服について「反対」の議論を行うことが多い。そして、ネット世論の多くは制服について「賛成」の議論を行うことが多いようだ。そのなかには自分の学生生活において「制服があって助かった」という実感があるから賛成している人もいれば、制服反対論を唱えている人がスノッブに見えて逆張り的に反論を行っている人もいるようである。  
 しかし、「制服反対論」への反論としてなされる「制服擁護論」は、大半の場合、「反対論」を唱えている人たちが問題視していることをつかみ損ねているように思える。

  制服反対論を唱えている人たちは、制服が個人の「自由」や「個性」を抑圧することを批判する。これらは、「自律」や「人格」などのより義務論っぽいワードに置き換えることもできるだろう。 

 他方で、制服を擁護する人たちは、制服があることによって「自尊心が傷付けられる人が出ることが防げる」という「危害の予防」や、「パフォーマンスが上がる」という「メリット」を強調する。私から見ると、これは帰結主義的な議論のように思える。
 義務論的な「自律」や「人格」を重視している人は、それを「危害」や「メリット」などとは別の次元にあるものだと考えていることが多い。つまり、「制服を着せることには全体としてメリットがある」と擁護しようとしても、メリットのためにそれよりも大切な自律や人格を傷付けるなら本末転倒である、ということだ。この場合、帰結主義的な制服擁護論は、義務論的な制服反対論にはそもそも通じないのである。 


 制服に関する議論のほか、ネットではとりわけ炎上しやすい「萌え絵」や「ポルノ」に関する議論も、義務論と帰結主義の対立という風に捉えることができるように見える。 

   そもそも、萌え絵やポルノなどの女性表象に関しては様々な批判的な意見が存在しており、その主張の強さも「そのような表象が存在すること自体が女性差別だ」から「公の場には出さずに、ゾーニングを徹底するべきだ」までと、様々である。
 また、そのような主張がなぜ「悪い」かということについての主張も様々だ。「そのような表象が存在することで男性が女性をモノ扱いする傾向が助長されて、実際の女性に対する性暴力が助長される」というタイプの帰結主義的な主張もあれば、「女性をモノ化する表現を行うことそのものが、女性全体の人格を侮辱したり尊厳を損なう行為である」というタイプの義務論的な主張もあるように思える。  
 そして、萌え絵やポルノを擁護する議論を行う人は、前者の帰結主義的な主張を取り上げて、「実際には、萌え絵やポルノが制限されていない社会ほど女性に対する性暴力は少なくなる」というデータを示すことで、反論を行うことが多い。相手が帰結主義的な主張をしているのであれば、この反論は有効である。 

 だが、萌え絵やポルノに反対する人の多くは、実際には義務論的な考え…つまり、実際の女性に対する性暴力につながるかどうかは関係なく、そのような女性表象は女性の人格や尊厳を貶めるものである、という考えを抱いていることが多いように思われる。

 そして、実際の性暴力につながる云々の帰結主義的な主張は、後付けの理屈として採用されていることが多いように思われるのだ。つまり、帰結主義的な主張は、萌え絵やポルノに反対する議論の中核ではない。

 一方で、萌え絵やポルノを擁護する人は義務論的な考えよりも帰結主義的な考えを重視しており、 そのために帰結主義的な主張にさえ反論すればそれで萌え絵やポルノへの反対論全体を「論破」できると思ってしまいがちなのだ。
(ただし、萌え絵やポルノを擁護する人であっても、原理的な「表現の自由」主義者であれば義務論的な考え方になるかもしれない。しかし、感覚的な物言いになってしまうが、 女性の人格や尊厳などを気にかける人々に比べて表現の自由を気にかける人々には自分が絶対だとしている対象に対する「本気さ」が欠けており、戦略的に主義を採用しているだけという感じがつきまとう)。

 

「人の生命」などのタブー視されている話題を除けば、現代の社会では多くの人々は「絶対とされる価値」よりも「メリット/デメリット」の物差しで測ることに慣れているだろうから、何らかのテーマについて義務論的な考え方をしている人の主張がうまく理解できないことが多いのだと思う。

 また、理論的にも、帰結主義の方が明晰で論理的であり、大概の場合は義務論よりも優れた主張を展開することができる。 

 そして、私自身も、基本的には帰結主義者でありたいと思っている。

 

 …とはいえ、義務論系の本をいくつか読んだり、社会に出て労働することを通じて"目的ではなく手段として扱われる"羽目になったりモノ扱いされたりするうちに「メリット/デメリットや危害などの物差しでは測れない本質的な価値がある」という主張も感覚的には理解できるようになってきた。

 様々なテーマについて多くの人が義務論的な考え方をしていることを理解すること、それに対して帰結主義的な反論を行ってばかりでは本質的な議論にはなっていないということ、などなどを理解することは重要であると思う。 

 

 

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